第2話 第二部

俺はその日、人生で最後になる「仕事」を終えて帰るところだった。

 俺の仕事は博打。日の当らない裏社会で生きる賭博師だ。

 この世界に入って、かれこれ十数年の年月が立つ。その間に、俺は界隈でも有数の賭博師と呼ばれるまでに成り上がった。

 連日連夜の大勝負に、俺はことごとく勝利した。巨万の富を手中にした俺の周りには、いつしか金目当ての女が小蠅のようにたかってぶんぶんとうるさかった。金持ちになってきれいな女を毎晩抱きたい、そう思ってこの世界に足を踏み入れたはずなの、いざそれが現実となれば女なんてうっとうしいばかりだ。人間なんて、なんて手前勝手な生き物なのだろうと、俺は何人もの女に手切れ金を握らせながら思ったものだ。

 裏の博打場に出入りする人間なんて、もちろん黒い社会の人間たちに決まっている。俺はヤクザを相手に随分な金を巻き上げた。当然向こうにとっては癪にさわるだろう。どこの馬の骨ともわからない青臭い生意気なガキが、涼しい顔して大金をかっさらっていくのだから。何度かヤクザに後を追いかけられたり、恐い思いもしたさ。

 そんな天下も、長くは続かなかった。俺の実力に翳りが見え始めて来たのは、三年ほど前のことだ。あんなに面白いように勝てていた俺の当て運が、どうもだんだんと影をひそめていった。ついでに社会の不況とやらが重なりやがって、勝ってもしょっぱい額しか手に入らなくなって行った。

 それまで連戦連勝だった俺の戦績は、少しずつ振るわなくなっていった。勝ったり負けたりを繰り返しているうちに、いつしか負ける額が勝つ額を大きく上回るようになってしまった。

 一時は東京の一等地にマンションが三、四軒は買えるほどあった俺の蓄えも、がたがたと崩れるように少なくなって行った。取り返そうとして焦れば焦るほど、勝ち運は俺の手からするすると逃げて行った。博打のための軍資金をパチンコや競馬で作ろうともしたが、それもうまくはいかなかった。近頃に至っては、もはや借金なくしては月々の生活もままならないほどだ。

 この世界から足を洗おう。何度そう胸に誓ったことか。しかし現実には、俺の足は再び裏カジノへと向いていくのだった。

 俺には、博打しかなかったのだ。高校を中退してからすぐこの世界に入り、そしてずっとこの世界で金を稼いで生活してきた俺には、博打以外に生活をする手段が他になかった。成人してからというもの、社会経験など一切ない。それで三十を過ぎてしまった俺には、もはややり直す手段など何も残されていなかったのだ。

 行っては赤字を作り、また行っては赤字を作る。毎日毎日財布の残金と月の残りの日数とを計算しながらの生活に、俺は芯から疲れ果ててしまった。

 そんなある日のことだった。自宅のアパートから一番近い駅のコンビニにタバコを買いに行った帰り、駅前にいたある人々に俺の目が留まった。

 その日は朝から弱い雨が降っていた。その四、五人の人たちは、頭から白い雨合羽を着て、手にプラカードを持って、冷たい雨の中、駅に出入りする人達に向かって訴えていた。

 それは動物愛護団体の人たちで、犬猫の里親の募集だった。

 犬を飼おう、なんてことは、俺はそれまでの人生において一度も考えたことはなかった。今から考えれば、毎日が異様で、非日常だった。使っても使っても、金は湧き出るように後から後から入って来るし、俺はただもうやりたい放題したいことだけをして狂乱していた。まともな人間の生活など、そこにはなかった。何年も暮しているマンションにだって、これまで鍋一つおいたことがなかった。高価なベッドやソファならいくらでもあったが、日用品などというものは何一つ持たない。持たなくていい。そんな日々を過ごしていたのだ。ペットを飼う、などという思考は、俺の生活とはまったくかけ離れた世界のものだった。

 しかしその時の俺の心は、愛護団体の人々と、その足元に繋がれて、濡れた地べたに腹をつけている一匹の柴犬の姿に激しく揺さぶられた。

「毎日たくさんの罪もない犬や猫が殺処分されています。どうか一つでも多くの命を、皆さんの手で守って下さい」

 愛護団体の人たちは、そう訴えながら雨の中に立っているのだった。

 俺は心を打たれた。人の都合で生まれて来た命が、人の都合で簡単に殺されて行く。

 そんな現実があることを知って、俺は心臓をナイフで傷つけられたようなショックを受けた。

 それに対して、世間の人たちはあまりにも無関心だった。それをしているのは自分たちだというのに、誰一人その訴えには耳も貸さずにその前を通り過ぎて行った。

 俺はそんな人々に、かつてない怒りを覚えた。

 俺は愛護団体の人の所に駆け寄ると、里親になりたいと申し出た。愛護団体の人たちは本当に嬉しそうな笑顔で俺を受け入れてくれた。そして一枚のチラシを俺に手渡すと、里親になるまでの準備や、自治体による審査があることを説明してくれた。

 ペットは飼えないアパート暮しだったので里親の有資格者と認定されるか心配だったが、幸い大家さんが話の分かる人で、一年以内にペット飼育のできる別の住まいを見つけてくれたら、子犬の飼育は認めてもいい。その間、アパートの前のわずかな庭を、子犬の飼育に使って構わない、と言ってくれた。そのおかげで、俺はどうにか子犬の里親になることを自治体に認めてもらうことができた。

 そしていよいよ子犬を迎えに行った日、俺は大きな喜びを得た半面、つらく悲しい現実を目の当たりにしてしまった。俺がもらうのは柴犬の子犬一匹だ。しかしその向こうには、まだまだたくさんの子犬や子猫が、無残に牢屋に閉じ込められている。

 きっと彼らは、今日明日にも人の手によって殺されてしまうのだろう。そう思うと、胸が痛くてどうしようもなかった。

 彼らの分まで、幸せに生きてもらわなくてはならない。俺は可愛らしい子犬を抱きしめながら、そう思った。

 アパートに帰ると、さっそく庭に放してやった。久しぶりの土の感触が嬉しかったのだろうか、子犬はピーピーはしゃぎながら、転んだり起きたりしていた。様子を見に来てくれた大家さん夫妻も、

「かわいい、かわいい」

とにこにこしながら言ってくれた。

 俺は子犬に、「うん」と名付けた。運よく救われた命を、目いっぱいに花開かせてほしい。そう願ってつけた名前だ。

 不思議なことだが、犬を飼い始めると途端に、飼い主としての、というよりも、親としての感情が芽生え始めた。毎日世話をし、一緒に遊び、一緒の布団で寝ながら、俺はこの犬の親になったんだという実感が、心の内側から湧いてくるようになった。

 この犬のためにも、俺はしっかり生きなければいけない。俺が金がなくなり生活に困るのは俺の勝手だが、その不幸をうんにまでなすりつけてはいけない。少なくともうんにだけは、毎日不安なく楽しく過ごしてもらわなくてはならない。

 それには、どうするか。答えは簡単だった。

 博打をやめること。そしてまっとうな社会人として就職すること。

 今まで何度も考えては、結局実行できなかったことが、うんの来てくれたおかげで俺は実行できるような気がしてきた。

「明日で、最後にしよう」

 俺は布団の中で小さなうんの体を抱きしめながら、そう心に誓った。

 そして次の日だ。最後の一番と決めたルーレットは、予想の通りに外れた。俺は今まで世話になった博打場にまだ名残惜しい気持ちを抱きながら、その場を立ち去った。

 これからは心機一転して職探しをするのだ。しかし、一体こんな俺を受け入れてくれる職場が見つかるだろうか。いや、見つかるだろうかではない。見つけるのだ。

 心の中でそんな問答をしながら気の向くままに歩いていくと、海の方に女性が一人で立っているのに気がついた。

 とても小柄な女性だと思った。しかしとても女性らしい後ろ姿だった。白いワンピースを来たその女性の腰は美しくくびれ、少し見えるふくらはぎはむくみなくしまっていた。

 一体どんな女性なのだろう、顔を見てみたい。そう思った俺は、何気ない足取りのまま女性の後ろからゆっくりと近づいて行った。あまり急いで近づくと、いかにもナンパをされそうな気がして女性に警戒されてしまうと思ったからだ。そして少し距離を置いてさりげなくその女性の顔を見て、俺は度肝を抜かれた。

 最初は疑うしかなかった。しかし確認すればするほど、それは確信へと変わって行った。

 いつもテレビや映画に出ている、あの日本を代表する大女優のNではないか。

 俺は気付かれないように横目を使いながらちらちらと何度もその女性の横顔を盗み見たが、それが女優Nであることに間違いはなさそうだった。

 声を掛けてみたい。俺の心に、そんな願望が宿った。しかしそんなことが簡単にできるわけがない。俺の心臓は、無性にどきどきと波打った。これまでテレビで見てきて特別にファンだという意識を持ったことはなかった。しかし、そうは言っても日本人なら知らない人はいないであろうというほどの大女優だ。そんな女優と会話ができる、千載一遇のチャンスである。

 だが、俺はしばらくの間別のことを警戒していた。本当に、これほどの有名人がたった一人で海になんて来るだろうか。もしかしたら、たまたまマネージャーや他のスタッフと待ち合わせでもしているのかもしれない。なので、二、三分の間黙って様子を見ていることにした。

 しかし、いくら待っても一向に誰も来る様子はなかった。これは本当にプライベートで、一人で来ているのかも知れない。

 そう思った瞬間、賭博師としての俺の血が騒いだ。

(そうだ。この女優を、デートに誘うのだ。乗るか反るかの、最後の大博打だ)

 思い切って声を掛けると、Nは意外にもすんなりと俺の誘いを受け入れた。そして俺の知っている一番近いバーに二人で入り、そこで一杯ずつビールを飲んだ。

 一緒に話をしながら、俺はさすがに大女優だと感じざるを得なかった。それはどのあたりが、ということではなく、N自体が発しているオーラと言うか、雰囲気がそうだった。俺の後ろを風のように付いて歩く様子、階段を下りる動作、椅子に腰かける物腰。そのどれをとっても、「さすが」と言ってうなりたくなるのだ。何というか、それは賭博師としてこれまで散々色々な人物を見て来た俺の目が、勝手にそれを感じ取ってしまうのだ。手が震えてビールをこぼし、万一Nの洋服を汚してはいけないと思い、俺はビールの乾杯すら遠慮せざるをえなかったのだ。

 あまり長い時間Nを拘束しても迷惑だろう、何しろこのあとだってスケジュールで忙しいに違いない、そう思い俺はそこそこのところでNと別れることにした。Nは内心やっと解放されたとほっとしたことだろうが、そんな表情は当然ながら微塵も見せはしなかった。

 そのまま別れるのもつまらない、何か形に残せるものはないかと考えた俺は、瞬時にあることを閃いた。そしてズボンのポケットからいつも持ち歩いている牛鈴を取り出すと、Nにプレゼントしたいと申し出た。

 色々な映画に出ている女優だから、ひょっとしたら牛鈴なんて知っているかもしれない。そう考えながら疑り半分で出して見せたのだが、さすがにNをしても牛鈴は初めて目にするようで知らないらしかった。

 牛鈴なんて本当は風水で金運を招くと言われている賭博師のお守り見たいなものだが、金なら腐るほど持っているNに対してそんなことを言っても受け取らないだろうと思い、俺はとっさに作り話をした。

 それは、この鈴は、昔船乗りたちが命を守る御守りとして首に下げていた鈴だ、というものだった。

 Nはそれを信じたらしく、ありがたそうに鈴を受け取って帰って行った。最後までなんとかぼろのでないようにと気を張っていた俺は、Nをタクシーに乗せて帰らせた直後、全身から大量の汗をかいた。

 それにしても、まだまだ俺にはツキがありそうだ。俺はそう思った。

 なぜなら、大女優をデートに誘うという、こんな大博打に勝ったのだから。

 このツキを信じて、これからはまっとうに生きて行こう。何よりも、愛すべきうんのために。

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『誘惑』 矢口晃 @yaguti

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