『誘惑』
矢口晃
第1話
海に来ていました。横浜の、港のところの。時々休みがあると行くのよ。海を見に、一人でね。気が落ち着くというか、和むから。
女優なんて商売をもうかれこれ四十年近くもさせて頂いていますと、毎日毎日誰かしらの方とお会いして、一緒にお仕事をさせて頂きます。それはそれで楽しいし、それがわたくしにできるたった一つのお仕事ですからそりゃあ不満はないんですけれど、それが毎日のこととなると、正直たまには嫌気がさしちゃってね。一人になりたいって思う時がある。そんな時は、私は海に行くことにしているんです。若い頃は美術館なんかにも行ったりしましたけれど、サングラスをしようがマスクをしようが、結局私だっていうことが皆さんに分かってしまいますし、そもそもサングラス越しに見る名画なんて、ちっとも名画なんかじゃない。それに比べたら海は断然気持ちがいい。海はそう、大きな生き物。全てを飲みこんでしまうくらいの、大きな一つの生き物。遠くの方はゆらゆらとしていて、近くの方はばしゃばしゃと波立って。海を前にしばらく佇んでいると、私なんて存在が何ともちっぽけに思えてくる。何を悩んでいるの、私ごときが、こんなちっぽけな存在が。海の大きさに比べたら、私なんてものは取るに足らないもの。そんな私が、何を些細なことで思い悩んでいるのだろう。そう思うと、肩の力がすうっと抜けていって楽になるの。
だからその日も、私は一人で海を見ていたわ。夏の夕方の五時。まだ日差しはたっぷりとあったけれど、平日ということもあって、人通りはまばらだった。私はお気に入りの白いワンピースを着て、白い大きな帽子をかぶって。するとね、背後から誰かが近付いて来るような靴音がしたの。何か目的があってつかつか歩くような感じではなくて、気の向くままに漫然と歩いている様子だと思ったわ。そんなの公園じゃよくあることだから、私は気にせずそのまま海を眺めていた。するとね、しばらくしてその靴音の主が、私から五、六メートルくらいの距離を置いた所に立ったの。私と同じように、海の方を向いて。背の高い、男の人だった。年齢でいうと、三十前半のような感じがしたわ。
その人は、何か寂しそうな顔をして立っていた。私のことなんかまるで視界に入っていないかの様子で、ただ黙ってまっすぐ海の方を向いて立っていたの。薄い縦縞の入った白いワイシャツを着て、茶色いズボンを穿いて。眼光が鋭くて、ちょうど何かの映画に出てきそうな男優さんのような雰囲気だった。素敵な人だな、と第一印象でそう思いました。
ただ、別段それ以上その人のことを気にすることもなくて、それから五分ほど経った後で、もうそろそろ人通りも多くなってくる時分でしたから、さて帰ろうかな、と思い始めた頃でした。
「こんばんは」
突然その男性が、私に声をかけて来たのです。
もう二人が同じ場所に立って随分時間が経っていましたし、どうして今のタイミングで声をかけてきたのだろう、と一瞬不思議に思いました。それで私がぽかんとした顔で立っていますと、
「今、お一人ですか」
と続けて尋ねられました。
「ええ、まあ」
人に声をかけられることにはとうに慣れていると思っていたのに、その男性のことを何となく格好良い方だと思っていたせいでしょうか、めずらしくすんなりと言葉が出てきませんでした。
男性はさりげなく少し私の方に距離を縮めながら、
「もしよろしかったら、一杯だけビールをご馳走させて頂けませんか。すぐ近くに、知っているお店があるんです」
と私を誘いました。
「すごくおしゃれで落ち着いたいいお店なんですよ。でもまだ一回もメディアで紹介されたことがないんです」
見た目もとてもさわやかでしたし、お話しの仕方もとても紳士的でした。それでも私は当然「はい」と言うことなど考えてもいませんでした。第一、相手の方は三十代前半の男ざかり、こちらは五十も後半のおばさんです。本気でデートになんか誘う訳がありません。それに、私は一応女優と言う立場上、見知らぬ男性と二人きりになることなんてできないんです。
「ごめんなさい、わたくしこの後……」
伏し目がちにそこまで言いますと、
「差し支えますか?」
とその方が私の語尾を切りました。はっと視線を上げたその先には、程よく焼けた黒い肌にきれいな白い歯を見せて微笑む男性のお顔がありました。
「ビール一杯だけ、だめですか。素敵なお店なんですよ」
「でも……」
「さあ、行きましょう」
半ば手を引かれるような強引さで、私はとうとうその男性について行ってしまいました。若い男の人の後ろを少し遅れて歩きながら、私は初めて恋した少女のように顔がほてってきてしまいました。
男性に誘われて入ったお店は、海から本当に近くのところにありました。大通りから裏の路地へ一本入って、大きなホテルのちょうど裏側にひっそりと立つ小さな建物。そこにあるレンガの入り口から階段で地下へ潜って行った所でした。
慣れた足取りでカウンターに腰を掛けると、その方は
「どうぞ」
と私を隣の席へ招きます。私は軽く会釈をして、その足の長い椅子に登るように腰掛けました。
私が席に着くと、彼はマスターにすぐにビールを注文しました。マスターが丁寧にビールを注いでくれている間に、私は初めて来たお店の内装を観察していました。海の近くだけあって、店内は船乗りをイメージしたインテリアで統一されていました。柱から伸びる梁なんてわざと傾いたように取り付けられていましたし、精巧にできた船の模型なんかも飾ってありました。地下のお店らしく空気がひんやりとしていて、暗いお店の中を橙色の蛍光ランプがいろいろな方向で数個だけで照らしていて、そのほの暗さが何ともいえずいい心持でした。確かに落ち着く、いいお店だと思いました。
まもなくビールが二人の前に並べられました。男性はグラスを左手で持ち上げ、
「乾杯」
と言いながらそのグラスを少しだけ高くしました。カチリカチリとグラス同士をくっつけ合う日本式の乾杯が実は私は大嫌いでして、ですからその男性の素振りを見ました時、社交界の方のような印象を受けました。
男性は、一杯のビールを味わいながらゆっくりゆっくりと飲んでいました。私もその方のペースに合わせながら、ゆっくりと頂きました。男性はビールを飲み、そして時折おつまみに出されたピーナッツに手を伸ばしながら、とりとめもない話を私にしていました。それはそのお店の紹介であったり、お店の名前の由来であったり、お店に来る常連の方のお話であったり。とても話上手な方だったので、私は大変面白く聞いていました。ただ、私に関することやご本人に関することは、不思議なくらい話題にしませんでした。私は、わたくしのことに気が付いていて敢えて気を遣って下さっているのか、あるいはそういうことに興味がないだけなのか、判断がつきかねました。
二十分あまりも楽しくお話させて頂いておりましたでしょうか、
「いけない、もうこんな時間です」
と、腕時計を示しながら男性がそう言います。私は楽しかったですしその後別段用事もありませんでしたから、なんだったらもう一杯ぐらいお付き合いさせて頂いても構わないかな、と言った心持だったのですが、男性はよほど律儀な方と見えて、約束通りビール一杯でわたくしと別れるおつもりのようでした。
「今日は本当にありがとうございました。ご一緒できて、とても嬉しかったです」
「いいえ、こちらこそ」
それは、わたくしの本心からの言葉でした。
「またこうして一緒にビールを頂けたら嬉しいです」
「こちらこそ。是非また誘ってください」
椅子に腰かけたまま、私は軽いお辞儀をしました。
それから男性は、ズボンのポケットに右手を入れました。そしてそこから抜いた手を出すと、カウンターの上に小さな丸い鈴を置きました。
「もしよかったら、今日の記念にもらって頂けませんか」
その小さな鈴は、銅でできているようでした。表面には、細かなきれいな模様がびっしりと刻まれていました。
「よろしいんですか、頂いても」
とても高価そうなものでしたから、思わず私はそう聞き返しました。すると、
「ええ。どうぞ」
と、今度は私の手の平に鈴を乗せてくれました。
「昔、船乗りたちが身につけていたという鈴です。命を守る御守りとして、みんな首に下げていたそうです」
「そうですか。では、頂戴致します。ありがとうございます」
それから二人で店を出ますと、男性はすぐにタクシーを捕まえて私一人を車に乗せました。お断りしたのですけれども、どうしてもとお譲りにならず、申し訳ないことにタクシー代まで頂いてしまいました。
何となく、夢を見ていたような、そんな一夜だったと思います。後から気がつきますと、わたくしはその方のお名前もお伺いしていませんでしたし、その方も最後までわたくしの名前はお尋ねになりませんでした。二人は名前も連絡先もお互いに知らずに、出会って、別れたのです。
ただ私の手元には、色のくすんだ小さな銅の鈴が一つ、残されているばかりです。
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