57.上級魔法
最初に感じたのは、違和感だった。
アリスと共に敵と戦う意思を固めて、敵を睨みつけるヴァイス。その瞳に写る世界に、彼はいつもとは違うかすかな違和感を感じた。
その感覚に意識をそらされたが、それも一瞬。彼はすぐに目の前の巨狼へと意識の全てを集中させる。
こちらの決死の覚悟に気付いたのか、それとも別の何かを感じ取ったのか。巨狼は先程までの嘲るような雰囲気を消し去り、ヴァイス達に対してはっきりと警戒を見せていた。
「グルルルルル……」
地が震えるような唸り声を上げる巨狼。こちらと同じく、目前の敵をそのギラつく瞳で射抜いている。
その姿は同等レベルの敵を前にした者の姿であり、獲物を嬲り楽しんでいた余裕は完全に消えていた。
そんな巨狼を見て、ヴァイスが自虐気味に口端を吊り上げる。どうせなら侮ったままでいてくれて良いのに、と。内心で悪態を付いていた。
一体何を感じ取ったのか知らないが、急にやる気を出し始めた敵を前にして。負けるものかと、ヴァイスも自身の纏う力を昂ぶらせていく。
やる事は同じだ。敵を討つのは自分の仕事では無い。自分の仕事は、敵の動きを見切り決して攻撃を受けぬ事。
ゆえにヴァイスは、先程までと同じ様に己の力を瞳に集中させた。瞳に
瞬間。
世界が、停滞した。
「――!?」
音にならない声と共に、ヴァイスのその紫色の瞳が驚愕に見開かれる。
身体強化により動体視力が強化された瞳は、素早く動く魔狼の動きを正確に捉える事が出来た。巨狼の動きにも、
しかし、今。彼の瞳に写るモノは、そんな光景を超越していた。
彼の瞳に写る世界の全てが、まるで時間の流れが遅くなったかのように停滞している。巨狼が動き出そうと四肢に力を込め、一歩踏み出すのを、酷くゆっくりとした動きとして捉えている。
――何だ、これは、何が起こった……?
不可解な光景にヴァイスは困惑していた。まるで身体強化の練度がいきなり数段階跳ね上がったような感覚に、そうなった事に心当たりが全く無いために、状況を正しく判断できない。
しかし、巨狼がゆっくりとこちらへと駆け出した所で、ヴァイスは強引に意識を引き戻した。
――今は戦闘中なんだ。考えている暇は無いし、必要も無い。理屈は分からずとも、自分達に都合が良いという事実だけで十分だ。
巨狼が迫り来る。しかし、その速度は見る影も無い。こんなモノ、避けれない訳が無い。
ヴァイスはかなりの余裕を持って、巨狼の突撃を横への移動で回避する。
その際に、己の身体の動きすら緩慢になっているのを感じるが、問題はなかった。遅いとは言え、巨狼の動きと比べると数段速かったからだ。
回避した所へ巨狼が真っ直ぐ突っ込んでいく。その表情が驚きに変わるのも、ヴァイスにはハッキリと見えている。そしてその無防備な巨狼の横腹が目に入った。
「ふっ!」
その横腹に向かって、ヴァイスが迷わず蹴りを放つ。両手はアリスを抱き抱えるので塞がっているので、苦し紛れではあるが。セシリアの動きを思い浮かべた、見よう見まねでの回し蹴りだ。
剣の腕には自信があるが、格闘はそうではない。大したダメージは与えられぬだろうと、特に期待もせずそれでも全力で放ったそれは、狙い違わず巨狼の横腹へと打ち込まれて、
「ギャウ!?」
やけに軽い破裂音と、巨狼の悲鳴を残して。凄まじい勢いでその巨大な身体が吹っ飛んでいった。
その勢いのまま巨狼は広間の壁まで吹き飛び、轟音を鳴らして壁に叩きつけられた。
「……は?」
戦闘中だというのに、思わず間抜けな声が漏れてしまった。壁に刻まれた跡を見て、その予想外の威力に呆然とする。
しかし、それも一瞬だった。その場に蹲る巨狼を目にして、
「先輩、追撃を!」
ヴァイスが叫ぶ。流石にこの一撃で倒せる相手だとは思えない。ゆえに、動き出す前に更なる攻撃を加えるべきだと判断したのだ。
「……」
しかし、アリスから反応が無い。これが絶好の機会だという事は彼女にも分かっているはずなのに、動く気配が無い。
「先輩!?」
不思議に思ったヴァイスが腕の中のアリスに目を向ける。
そこで、ヴァイスは彼女の変容に気付く事となった。
アリスの身体から紫色の光が溢れていた。それはまるで魔力のように、身体から溢れてその身に纏わりついている。
そして、アリスの右だけ紫に染まった瞳は、どこかも分からぬ虚空を見つめていた。
「な……先輩、大丈夫ですか!? この光は一体――」
「落ち着いて、ヴァイス君」
アリスの異様な様相に、ヴァイスが慌てて声をかけるが。当のアリスはどこか達観した音色で応えてきた。
その紫の瞳がヴァイスを見つめる。その眼差しに、ヴァイスは己の全てを見透かされたような不可思議な感覚を覚えた。良く見ると、その瞳の奥に幾何学模様の刻まれた魔法陣が映りこんでいるのが分かる。
それは、その瞳自体が何か高等な魔道具に差し変わっているようだった。
その変貌に、ヴァイスもいよいよ意味が分からなくなった。思わず言葉も失ってしまう。そこにアリスが優しく語り掛けてくる。
「これは魔気だよ」
アリスが右手を伸ばす。ヴァイスの顔の前に差し出されたその手を、薄紫色の力が包みこんでいる。
その力を見て、アリスの言葉を噛み砕いて、ヴァイスは若干だが落ち着きを取り戻した。ただし、その思考は変わらず乱れている。
アリスが嘘を言うとは思えない。しかし、直ぐには信じる事が出来ないくらい、それは予想外の出来事だったのだ。
「魔気……? そんな、どうして先輩が魔気を」
「私だけじゃない、君もだよ」
何気ない様子でアリスが言う。一瞬、何を言っているのか分からなかったが。
「――!」
そこでようやく、ヴァイスは己の身の変化に気がついた。自分の身体からも湧き出る紫色の光。それが魔気だと、なぜだか彼にも直ぐに理解できた。
「これは……」
そして、自分達がなぜ魔気を纏っているかも、瞬時に理解する事が出来た。引っ切り無しに浮かんでいた疑問が一気に氷解していく。
なぜ気力を持たないアリスが魔気を纏っているのか。魔力を持たない自分が、魔気を纏えるのか。
まるで、答えを全て知っていたかのような感覚。自分の中にあらかじめ刻み込まれていた事を読み上げているかのようだ。
そう、つまり、この魔気は――
「俺達二人の、力?」
「そう、君の気力と、私の魔力が混ざってるんだよ」
アリスの顔から笑みがこぼれた。それはヴァイスも初めて見たかのような、魅惑的な表情で。ヴァイスの背を、ぞくりとした快感が走った。
「俺と、先輩の、力が……」
呟いた瞬間、ヴァイスの全身に力が満ちた。アリスと触れた場所から魔力が流れ込み、それが自分の気力と一緒に全身に流れている。
それは痺れるような幸福だ。まさに、世界が姿を変えた瞬間だった。
今まで見ていた全てが偽物だったのではないかと思えるような、たった今初めて真実の姿を知ったかのような。
ようやく、本物に成れたという、絶対的な歓喜が。彼の全身を暴力的なまでに蹂躙していた。
「これが魔気……そして、これが身体強化なんだ」
アリスが恍惚とした表情で言う。その魔気に酔っているのはアリスも同じだった。
今、彼女の全身には凄まじいレベルの身体強化が発現していた。ヴァイスの気力を元にした魔気が身体を巡り、常人を逸した身体能力をもたらしている。きっといまなら、ヴァイス達と同じように駆け回る事もできるだろう。
そして、五感も異常なほどに研ぎ澄まされていた。アリスにとっては、こちらの方が革新的であった。
今まで身体強化が使えず、一般人並みの感覚しか知らなかった彼女が、いきなり強力な強化を受けて世界と触れた。
何も知らなかった少女が、いきなり世界の全てを知ってしまった。それはまるで、魔気を通して世界と一つに繋がったかのような、ヒトの身に余るほどの全能感。
そして確信する。
「コレなら……私にも、使える」
アリスの力強い声。自信に満ちた瞳を天へと向けて、伸ばした右手をきゅっと握る。
その呟きが何を意味するのか、ヴァイスにも何となくだが理解出来ていた。それはきっと、彼女がずっと望んでいた、けれども手にする事は出来なかったモノ。
魔気を纏った今の彼女なら、それは容易く手に入るはずだ。
「グルルル……」
ふいに発生した唸り声に反応してそちらに目を向けると、壁に叩きつけられた衝撃から回復した巨狼が立ち上がっていた。
巨狼は憎らしげにこちらを睨みつけた後、遠吠えを上げた。何処までも届きそうなその声量に、広間内の空気が悲鳴を上げている。
――魔法、では無いな。一体何をする気だ?
音により発生した圧力を顔に受けながら、ヴァイスが警戒に目を細める。
巨狼の影がうごめいた。そこからふた回り程小さな狼型の魔物が這い出てくる。それは、迷宮内に溢れていたあの魔狼だった。
その姿を見て、ヴァイスが納得した様子で呟く。
「そうか……。あいつが、この魔物を生み出していたのか……」
その魔狼が一気に五体。巨狼の影から生まれたその魔狼達は、一斉にヴァイス達へと視線を向ける。そのぎらつく瞳は敵意に満ちていた。
生まれたばかりだというのに、ヴァイス達を正しく敵と認識しているようだ。それとも、巨狼の意識を継いでいるのだろうか。
ともかく、その魔狼達が襲い掛かってくるのを予見したヴァイスが、自分達はどう動くか思案しかけた、その時。
「後ろに退いて!」
アリスの声が耳に届いた。その声に従い、ヴァイスは一気にその場を飛び退く。一瞬にして魔物と彼らの距離が開いた。
魔狼が逃げたヴァイス達を追いかけようと動き出す。そこへ向かって、アリスが右手を向けた。
アリスの身体から紫の魔気が溢れ出す。それは魔力のように動き、アリスの右手の前に集まり、甲高い音を放って、
「
凛とした声が響いた瞬間、集まった魔気が光を放った。爆発したような音と共に、その光から氷混じりの暴風が放射された。
青白く輝く氷嵐が地を削り凍結させながら走る。その勢いは凄まじく、一瞬で魔狼達に到達し、そのまま全てを薙ぎ払った。
後に残るのは、通り道となり凍結した地面。氷嵐により一瞬で凍りつき切り刻まれ、ばらばらに散った魔狼達。
そして、辛うじて避けたのだろう、左側三分の一ほどを凍らせて、白い息を吐く巨狼の姿。
それらを確認して、アリスが小さく、出来た、と呟いた。それは小さな声であったが、隠し切れない喜びに溢れていた。
その呟きを聞いて、ヴァイスも同じく嬉しく思う。しかし、同時にその胸中には驚きの感情もあった。
――
アリスに教わったおかげで、魔法について基本的な知識を得ていたヴァイスは、彼女が行った事の凄まじさを正しく理解していた。
魔法は規模が大きくなるほどに、発動が難しくなる。それだけ世界からの反発も大きくなるからで、その反発を跳ね除けるほどの強固なイメージが必要になってくる。
そのため、強い魔法ほどイメージを補うための
それを、アリスは前奏呪文を破棄して起動呪文のみで魔法を発動させた。それはつまり、イメージ補強など必要無いほどの強固なイメージを持っていたと言う事だ。
世界の反発を強引にねじ伏せるほどの強固な
しかし、今のアリスにとって。紫色の瞳で世界を見つめる彼女にとって、それは息をするほど容易な事であった。
「グルルアアアア!」
巨狼が怒りの滲んだ咆哮を上げた。それにより砕けるように凍りついた部分が剥がれ落ちる。ただ、無傷ではいられなかったらしく、凍り付いていた部分からは鮮血が流れ落ちていた。
その後、巨狼はまたもや遠吠えを上げて、魔狼を呼び出した。巨狼の影が蠢き、影のように漆黒の魔狼が這い出てくる。
しかし、今度は数が違った。一体出てくるとそれを皮切りに、続々と魔狼が影から這い出てくる。それは瞬く間に数を増やし、あっというまに二桁を超えた。
更に、魔狼の群れの前方に、魔法陣が二つ出現する。どこか見覚えのあるその漆黒の魔法陣からはミノタウロスが召還された。猛牛の魔物が、石斧を振り上げ咆哮を上げている。
漆黒の魔狼の群れに、二体の猛牛の魔物。その地獄のような光景を、ヴァイスは冷めた瞳で見つめていた。
普通なら絶望している所だろうが、今は違う。はっきり言って負ける気がしなかった。自分達が敗北するという図が欠片も想像できなかった。
ゆえに、考えるのは別の事。魔物の群れの背後に立つ、正体不明の巨狼の事だった。
ミノタウロスを召還した魔法陣。これが偶然発生したとは考えられない。この状況から分かる事実は、
「ミノタウロスもこいつが呼んでいたのか? ……まったく、こいつはほんとに何モンなんだ――」
「シャドウ・ケルベロス。恐らく、この迷宮の本来の主だよ」
世間話でもするように何気なく言うアリスの言葉。それを聞いたヴァイスはやや瞳を見開いて、
「知っていたんですか、先輩」
「ううん、知らなかった。ただ、今は分かるんだよ」
アリスの言葉の意味が良く分からず、首を軽く傾げるヴァイス。そんな彼に、軽く笑みを浮かべて。
「大丈夫、私に任せて。もう一発、おっきいのをぶつけるから!」
そう言ったアリスの身体から魔気が溢れる。それに合わせて、ヴァイスは己の中の力、気力が一気に失われていくのを感じた。
きっと、今からアリスは上級魔法を、先程の竜の息吹を越える魔法を放つつもりなのだろう。大量の魔気を使うために、ヴァイスの気力を吸い上げているのだ。
「くっ」
「え……、あ、ごめん! そっか、ヴァイス君からも力を……」
ヴァイスの口から思わず苦悶の声が漏れてしまった。それを聞きつけて、アリスが瞬間的に状況を察知する。
この魔気は二人の力を合わせた物だ。アリスが大量に魔気を使おうとすれば、当然ヴァイスにも負担がかかる。
その事実に気付いたアリスが、調子に乗っていたのを恥じる思いで慌てて謝罪してくる。
しかし、ヴァイスはハッキリと首を横に振った。
「いえ、俺は大丈夫です。だから、先輩は何も気にせずに――」
気力をアリスに吸い取られる。それに不快感は無かった。それどころか、自分の力がアリスの力と成っている事に、快感すら感じられる。
だから、彼は自分の中の気力を振り絞った。いくらでも持っていってくれと、自分の内から湧き出る気力を解き放つ。
「思いっきり、やっちゃってください!」
「――分かった、いくよ、ヴァイス君!」
アリスの全身を包む魔気が、一層濃く膨れ上がる。彼女が今までの人生で行使した事の無い程の量の力が、全身から溢れ出した。
二人から異常な程の力が立ち昇った。その光景に気圧されるかのように魔物達が後ずさる。その表情には怯えの色が浮かんでいた。
しかし、もう遅い。逃げる事は叶わない。イメージはすでに完成し、前奏呪文を無視して。
必要なのは、一言唱えるだけだ。
アリスの身体から溢れる魔気が、一瞬さらに輝いた。同時に一息吸い、発する。
「
紫色の燐光が舞い踊る中、その透き通った声が響き渡った。
瞬間、ヴァイス達を中心に、白銀の旋風が巻き起こる。それは爆発的に膨れ上がり、一瞬で広間全体を薙ぎ払った。
いきなり発生した暴風に、ヴァイスが目を瞑った。それはほんの一呼吸ほどだったのだが、次にその目を開いた時、広間内の光景が一変していた。
「な……」
全てを白が覆っていた。地面だけでなく、壁も天井さえ薄く霜が張っている。広間内の温度も急激に下がったらしく、吐く息すら白く染まっていた。
そして、眼前に展開していた魔物達は、その全てが物言わぬ氷像へと姿を変えていた。
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