55.巨狼

 魔狼の群れの中を二本の氷剣が奔る。それはまるで踊るように空中を舞い、襲い来る魔狼を迎撃する。

 青白く透き通った氷剣の切れ味は凄まじく、ほぼ一撃で魔狼を両断している。そうして出来た群れの穴を、アリスを抱き抱えたヴァイスが駆け抜けた。


 魔狼の包囲網を突破し、壁際で振り返るヴァイス。その目には、執拗に彼らを追い回す魔狼達が写りこんだ。

 数を減らしたというのに怯む様子もなく、変わらずヴァイス達を囲むように走り回る。


 魔狼達はまるで狩りを行うかのようにヴァイス達を追い立てていた。数に物を言わせて敵を包囲し、一斉に襲い掛かるのだ。これが非力な獲物だったなら、成す術無く魔狼の餌となっているのだろうが。


「ええーい!」


 アリスの操作する氷剣が飛び掛ってきた魔狼を切り倒す。魔狼の数は多いが、二本に増えた氷剣が次々に敵を打ち倒していく。瞬く間に魔狼がその数を減らしていった。

 しかし、それでも魔狼を倒しきる事は出来ない。舞う氷剣の間を縫う様に数体の魔狼がヴァイス達の下に辿りつく。その牙が、爪が、彼らを捉えようと飛び込んでくるが。


「遅いっ!」


 何も無い空間を魔狼の爪が切り裂く。すでにヴァイス達の姿はそこに無かった。


 魔狼のような魔物にとってその素早さは武器の一つだ。しかし、ヴァイスの強化された瞳の前には無力に近かった。

 彼の瞳は襲い来る魔狼全てを捉えていた。アリスの氷剣に切られる魔狼も、掻い潜りこちらへ来る魔狼も、その全ての動きを把握していた。

 ゆえに、彼は魔狼の攻撃をたやすく回避する。魔狼と同程度の速度で走り、包囲の薄くなった所を突破し、すれ違い様に氷剣が敵を切り飛ばしている。


 数の上では魔狼が圧倒的に有利であった。その数は二対無数。倒しても倒してもきりが無いほどに魔狼が下層から補充されていく。どれだけ魔狼を倒そうと、その数的有利が覆る事は無い。

 しかし、そんなものは何の意味も無いとでも言うように、ヴァイス達は魔狼を蹴散らしていた。

 

 ◆


「かなり倒しましたね……。先輩、魔力は大丈夫ですか? 二本同時に操作なんて、消耗も激しいでしょう?」


 広間内の魔狼を斬って減らしては補充され、を何度か繰り返し、数十という数を倒してから。ヴァイスが腕の中の彼女を視線の隅に捉えながら、少し心配そうな音色で声をかけた。

 彼の記憶が正しければ、物を操作する魔法は常時魔力を消費するはずだ。それを二つ同時に操作するのだから、消耗も二倍なのでは、というのが彼の考えだ。


 しかし、返ってきた返事は割と軽い感じで、


「大丈夫。二本同時操作は難しいけど、魔力消費は一本とあんまり変わらないみたいなんだよね」


 だから魔力は心配無い、と。アリスは堂々とした様子で答えた。


 先程の取り乱した姿はどこへやら、かなり調子を取り戻したらしいアリスに、ヴァイスの気持ちも軽くなる。

 未だに安心できる状況では無い。それでも、この状況を維持できれば。まず間違いなく、後から来るゲイルらと合流できる。

 そうなればもう大丈夫だ。自分達より強い彼らがいれば、多少無理しても地上へと脱出出来るはず。


 だから、もう少し――と、ヴァイスが思っている所に。アリスの、不可解そうな声が届いた。


「数が……減ってきてる?」


 その声に弾かれたように、ヴァイスは広間内、次いで下層への通路へと視線を飛ばす。

 確かにアリスの言う通りだ。下層から上がってくる魔狼の数が、目に見えて減っていた。


「そうですね。流石に底をついてきたって所ですか……」


 いくら魔造迷宮ラビリンスだからといって、魔物が無尽蔵に沸く事はない。魔物を召還するにしても、永遠に召還し続ける事なんて出来ない。

 魔物を召還するには、相応の魔力が必要だ。魔造迷宮の場合は、迷宮核ラビリンスコアがその身に溜め込んだ魔力で召還を行っている。当然、その魔力は無限ではない。


 迷宮核は生物のように魔力を生成するらしいが、その速度は生物のそれと比べると緩やかなのだそうだ。なら、一度魔力が尽きれば、次の召還まで余裕も出来るのではないか。


「――もう少しです、頑張りましょう、先輩! ……先輩?」


 ようやく見えてきた光に、ヴァイスが少々表情を崩してアリスに呼びかけた。

 しかし、そんなヴァイスに反して、アリスの顔は緊張感を増していた。


 アリスの胸の内に、一つの疑惑が生まれていた。

 それは、この魔狼達の正体についてだった。この訓練迷宮には存在しないはずの魔物達。恐らくは、の物とおもわれる魔物達。

 この魔狼は、本当に召還した魔物なのだろうか。それなら、先のミノタウロスのように、この場に召還されるのではないか。なぜ、この魔物はわざわざ下層から上がってくるのだろうか。


 そもそもだ。今までは必死だったから気付かなかったけれども。あの悪名高き魔王の迷宮の魔物にしては、この魔狼達はいくらなんでも。


――弱すぎる……


 自分達のような学生が倒せる程度の魔物が、本当にあの魔王が使役した魔物なのだろうか。

 何か不自然な、大切な何かを見落としているような不安感が彼女にはあった。何時の間にか生まれていたそれは、気付くとどんどんと大きくなっていき。


「……ヴァイス君、数が減ってきている今なら、逃げれるかもしれない」

「先輩?」

「ごめん、うまく言えないけど、でも。今直ぐここから――」


 何かに急かされるように話すアリスの様子に、ヴァイスも不穏な空気を感じ取った、その時。


「ウオオオオオオオオーーン」


 何かの声が下層から響き渡った。それは遠吠えだった。その声に耳を立てた魔狼達が動きを止めて、その場に待機する。その姿はまるで主の命を待つ家臣のようだ。

 そして。


「っ!!」


 その声を聞いたヴァイスも、動けなくなっていた。

 

 魔物の遠吠えや咆哮を聞いて、体が竦んでしまう者は少なくない。特に初めてそれを聞いた者は、得体の知れない恐怖に体が固まってしまっても仕方が無い。

 しかし、ヴァイスは今更そんなモノで動けなくなるほど初心ではないはずだった。彼は王都のような都会ではなく、田舎村出身だ。近くには山もあり、魔物の遠吠えを聞く事など初めての話でもないのだ。

 しかし、彼は動けなかった。その声を聞いた瞬間、何かに縛られたように体が固まってしまった。


 そして、その目は下層への通路に向けられていた。そこから目が離せなかった。

 その通路の奥から、何者かの足音が響く。明らかに人ではない。迷宮全体が振動しているような力強さで、それがゆっくりと広間へと近づいてくる。


「あ……」


 漏れた声は、誰の物だっただろうか。


 現れたのは、巨大な狼型の魔物だった。漆黒の体毛で全身を覆われ、瞳は燃えるような紅。それは今まで相手をしていた魔狼が、そのまま巨大化したような姿だった。

 ただし、魔狼とはまったく違うモノが、その魔物にはあった。それは、絶対的な、絶望的な違いであった。


 その漆黒の巨狼は、紅い光――濃密な魔気を全身に纏っていたのだ。その体から溢れているのだろう紅い魔気が、その全身を覆い淡く輝いている。


 その姿を一目見ただけで、ヴァイスの背筋に今までの人生で感じた事も無い程の悪寒が走った。自らの本能とも言うべき部分が全力で警鐘を鳴らしている。


――駄目だ。アレは、駄目だ。絶対に戦ってはいけない。戦える相手では無い……!


 絶対に勝てない。先のブラッドとの決闘など話にならない。己の全ての力を振り絞っても、考え得る全ての策を弄しても、万一の勝ち目も存在しない!

 そうヴァイスは直感した。その感覚に従い、出来る事なら今直ぐここから逃げ出したかった。

 しかし同時に、アレ相手に逃げ場など無い事も理解してしまった。そのために、思わずその場に硬直してしまったのだ。


 一瞬の空白。息が止まってしまったかのような錯覚。心臓すら止まったかのような刹那の感覚。それは、極限の集中の中で。


 突然に。

 巨狼が唸り声を上げながら、割れるほどの強さで地を蹴った。


「!」


 奇跡的に、ヴァイスはその動きに辛うじて反応する事ができた。いや、それは巨狼に全神系を集中していたからこそ出来た、反射と言った方が良い。


 ヴァイスは咄嗟にアリスを庇いながら、形振り構わずと言った感じで横へと跳躍した。いつもはアリスの身を案じて力を加減しているが、それも最低限の考慮だけで回避行動を取った。

 目にもとまらぬ速度でヴァイスがその場から飛び去る。そこへ、今までヴァイス達の居た場所へ、彼を超える勢いで巨狼が突っ込んできた。その凄まじい勢いは突風の如く、周囲に音を撒き散らしながらの疾走だった。


 その姿を目の当たりにしながら、すんでの所で回避できたヴァイスが荒く息を吐いた。一瞬で心拍数が跳ね上がり、頭痛がするほどの鼓動が体を打って。


「っぐぅ!」


 肩から突き刺してきた激痛に、ヴァイスが苦しそうな声を上げる。見ると、完全には避けきれずに左肩がなにかに抉られていた。傷は深いようで、血が滲みどくどくと熱い熱を持っていく。


(これは、まずい。くそっ、どうする……!)


 ヴァイスは思いもよらない現状に心中で悪態を付く。幸か不幸か、感じた激痛で今まで呆けていた頭が瞬間的に現実を認識した。

 目に映るのは漆黒の巨狼。それはゆっくりとこちらを振り返り……何か楽しそうに口を歪めていた。


(くそっ、どうする!? どうすれば良い!?)


 焦り、必死の思いで対応策を考えるヴァイス。その間も背筋はぞくぞくと寒気を訴え、根源的な感情が彼の思考を乱してくる。

 それは、恐怖だ。絶対的な強者への、そして逃れられぬ死への恐怖。

 一切不純物の無い、とてつもないほどに純粋な恐怖が、ヴァイスに襲い掛かっている。


「……はぁ、はぁっ!」


 荒い息が漏れ、それを整えようと躍起になり。なんとか恐怖を追い出そうと歯を食いしばって、必死に思考を回転させて。


 その時だった。

 ヴァイスの目に。ふとした拍子で、アリスの姿が映った。


「……先輩?」


 なぜ気付かなかったのだろうか。彼の腕の中に居るアリスは、がたがたと震えていた。表情は強張り、歯はカチカチと音を立て、見開かれた瞳からは涙がこぼれている。

 その口からは、あ、あ、と。意味の無い声が漏れ聞こえていた。


 アリスは、今までこんな所に一人で置いてけぼりにされ、散々怖い目に合ってきて。やっと助かったと思ったら、あの巨狼の出現だ。

 ヴァイスでも恐怖を感じるくらいなのだ。今まで散々精神を磨り減らされてきた彼女にとっては、それは耐え難いものだった。

 アリスは、完全に恐怖に飲まれていたのだ。


 ヴァイスは頭を殴られたような衝撃を受けた。未知の敵に対する恐れも、どこかに飛んでしまった。


(何をやってるんだ、俺は!)


 知らず、切れるほどに唇を噛む。


――自分は、何のためにここに居るんだ。先輩を守るために、助けるために居るのではないのか。それなのに、先輩をこんなに怖がらせて……それで、良いのか?


 ヴァイスの全身を、気力が駆け巡る。

 相手は未知の敵。到底自分の適う相手に思えない、恐るべき強敵。


――だから、何だと言うのか。敵が何であろうと関係は無い。もとより、俺がやるべき事は一つしかない!


 ヴァイスがその顔を上げた。こちらを伺っている巨狼を、正面から睨みつける。


「先輩は、俺が守ります」

「……え……」


 ヴァイスが力強く言い放った。それは、アリスを安心させるためか。それとも、自らを鼓舞するためか。

 その言葉にアリスが反応し、虚ろな瞳で彼を見上げた。彼女は、一瞬でも恐怖を忘れられたのか、呆けた様な表情をしている。

 しかし、ヴァイスは敵から片時も目を逸らさずに。覚悟を決めた表情で、その巨狼と対峙していた。

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