53.届いた声

 六層最奥の結界広間。普段は学生達の休憩所となっているその広間だが、今は漆黒の魔狼達が鳴らす足音とその荒い吐息に占拠されていた。

 その広間に繋がる通路が二つ。一方からは魔狼が次々に進入し、もう一方の通路へと素通りしていく。

 魔狼達がそんな流れを作っている中、その流れから外れた数体の魔狼が結界広間の隅に集まっていた。


 そこには蒼い色の魔法陣が張られていた。それは部屋の隅の一角を覆うように広がっている。

 魔狼達は執拗にそれへと牙を突き立てていた。どうやら、その魔法陣を破壊しようしているようだった。


 その魔法陣の内側に、アリスはいた。その蒼い魔法陣はもちろん彼女の張る障壁シールドだ。

 アリスは地べたに座り込みながらも、両手を前に突き出し障壁を維持していた。そして、その顔を苦痛に歪めながらも、目の前の魔狼達を睨みつけている。


 魔力はまだまだ残っている。氷剣を使えば魔狼も倒す事は可能。しかし、一対一ならともかく、無尽蔵にも思えるほどの魔狼を相手に戦う事は、彼女には難しかった。

 同時に複数の魔狼に接近されては、回避がまともに出来ないアリスに勝ち目は薄い。近づかれないように氷剣を連射しようにも、相手を倒しきるよりも先にこちらの魔力が尽きてしまえばそこで終わりだ。

 せめて相手の総量が分かっているのなら、残り魔力と相談して打てる手もあるのだろうが。それが分からない以上、攻勢に出るのは博打でしかない。


 そのために、アリスは防御に徹する事にしたのだった。部屋の角に陣取り、障壁を張って耐えるのである。


 幸いな事に、この魔狼は物理的な攻撃手段しか持っていなかった。その事は先ほどまで二年の学生達と戦っていた時に分かっていた。そのため、物理障壁マテリアルシールドだけで攻撃は完封できる。

 更に幸運な事に、この魔狼達はアリスを倒す事を第一目標とはしていなかった。アリスに構っているのは数体だけで、その他の魔狼は彼女の事など無視して結界広間を後にしている。


――この魔物達は、一体……地上を、目指している?


 続々と広間から出て行く魔狼達を見ながら、アリスが思う。

 普通、魔造迷宮ラビリンスの魔物は迷宮を守るために存在する。ゆえに、必要以上に己の領域を出る事は無いはずだった。

 しかし、この魔狼達は違う。下の階層からどんどんと湧き出て、上の階層へと進んでいる。結界すら無視しているのだ、恐らくそのまま地上まで行く気なのだろう。

 そんな魔狼達の動きを見て、アリスに一つの考えが浮かんできた。


――ここは元々魔王の迷宮だった。大戦中に魔王が建てた無数の迷宮の一つ。そして、この迷宮の目的は……、確か、王都への攻撃拠点だったはず。つまり、この魔狼は――!


 ゾクリと、アリスの背を悪寒が走った。そしてその瞳に、己の障壁へと喰らいつく牙が映った。その紅く燃える全ての双眸が自分を射抜いている。


「ひっ、ぐぅ」


 思わず口から悲鳴が漏れた。慌ててそれを押さえ込むように歯を食いしばる。


「っはぁ、はっ」


 アリスが必死にその息を整える。冷静に、落ち着くように、自分に言い聞かせている。


 自分は取り残されたけど。他の学生は、セシリア達は無事に逃げれたはず。ならば、この事は上にいるシャルロット達にも伝わるはずだ。ならば、きっと助けに来てくれる。

 それに、ヴァイス達もまだ迷宮で課題を続けているだろう。二層での課題なのだから、課題が特別早く終わったりしない限りは二層にいるはずだ。

 ならば、逃げた学生達が最初に遭遇するのは、ヴァイス達なのだろう。

 ならば、きっと、ヴァイスは来てくれる。


 そう、アリスは信じていた。ただの希望的観測である事は承知の上だが、逃げられないのならどの道助けを待つしかない。


「はっ、はぁっ」


 助けを待つ。誰かが、ヴァイスが、シャルロットが、助けに来てくれるのを待つ。

 しかし、いつまで待てばいいのかはわからない。

 何分。何十分。もしかしたら何時間?


 魔力だって何時まで持つか分からないのだ。魔力が尽きれば、障壁は消え、その牙は自分に突き立てられるだろう。

 そうなれば、間違いなく、自分は死ぬ。


「ふっ、ぐぅ……、うぅぅ……!」


 恐ろしい想像に、アリスの全身に恐怖が満ちていく。口からは嗚咽が漏れ、目からは涙が滲んだ。


 しかし、魔法を乱さぬように、アリスは障壁の維持に全力を注いだ。

 必死にその恐怖を押しやり、己の障壁を信じて、きっと助けに来てくれる彼を信じて。


「うううぅぅ!」


 アリスの首元から燐光が漏れた。それは彼女がいつも身に付けているペンダントだ。それに反応するかのように、両手の先の障壁が輝きを強める。


――信じるんだ。魔法はイメージが大事だから。この障壁は絶対に破れない。こんな所で、私は……!


 しかし。

 その瞳が驚愕に見開かれた。


「嘘、あれ、召還陣……!?」


 広間の中心に唐突に生まれた漆黒の魔法陣。魔法使いであるアリスにはそれの正体が一目で分かった。

 

 その巨大な召還陣が回りの魔狼を喰らい始めた。まるで足りない魔力を補うかのように魔物を吸収し、己を更に肥大化させていく。

 そして、そこに召還されたのは。


「ミノタウロス……なんで? あれは、最下層の……」


 それは、半人半牛の化け物だった。それを、アリスは信じられない物を見るような目で見ていた。

 アリスは知っていた。ミノタウロスは最下層に出てくる、この迷宮での最強の魔物。いわばこの訓練迷宮最後の試練だった。

 ミノタウロスの討伐が、この訓練迷宮の最後の課題なのだ。そしてそれが、冒険科二年の最後の課題にもなるのである。


 だから、この迷宮にミノタウロスが出てくるのはまだ良い。しかし、こんな中層で出て来るのはおかしい。そんな事は絶対にありえない。

 この魔物が出てくるべきはもっと下。二年の訓練ももう直ぐ終わるという、冒険者としてもそこそこの実力をつけた者達が戦うべき相手。

 間違っても、二年に上がったばかりの、しかも『無能』と呼ばれる学生が、一人で戦う相手では無い。


「……あ」


 呆けた様な声がアリスから漏れた。

 目が合った。ミノタウロスが、アリスの存在に気付いたのだ。

 低い唸り声を上げながら、ミノタウロスが動き出した。一歩進むたびに、地が震えるような感覚がアリスを襲う。


「あ……、ぃや……」


 アリスが呆気に取られている内に、ミノタウロスが障壁の傍まで来た。そして、その右手の石斧を振り上げる。


「! 嫌あああああああ!」


 叫びと共に、アリスが魔力を集中させた。障壁が一層強い光を放ち、そして。


「グアア!!」


 咆哮と共に、凄まじい勢いでそれに石斧が叩きつけられた。

 甲高い音と閃光を撒き散らしながら、石斧と障壁がせめぎあう。


「あああああ!!」


 アリスが全力で魔力を障壁に注いだ。それを受けた障壁は、人外の力で叩きつけられた石斧を押し留めている。

 勝ったのは、障壁だった。一際高い音と共に、障壁が石斧を弾き返した。それに釣られてミノタウロスがよろよろと後ろへ後退する。


「っはああぁ、はぁ、はぁ」


 アリスが荒く息を吐いた。その極限まで見開かれた瞳は、引いたミノタウロスを凝視している。

 ミノタウロスはしばし棒立ちになっていた。何がおきたのか分からなかったらしい。しかし、自分の攻撃が防がれたのを理解すると、瞬時に怒りでその目を染めた。


「グルアアアアアア!!」


 ミノタウロスの咆哮が広間内に響く。学生が一人で戦うなど自殺行為でしかない強力な魔物の放つそれは、アリスの精神を否応無しに蝕んでいく。


「……っ! ひっ、や……」

 

――こんな所で死にたくはない。まだ冒険者らしい事は何も出来ていないし、世界の事も何も見ていない。私は王都の外すら何も知らないのだ。

 この世界を、見て回りたい。冒険者となってまだ見ぬ世界を知りたい。そして、この気力の無い自分の、この異能の意味を知りたい。

 そして、何よりも。


「ヴァイス、君……」


 脳裏に浮かぶ少年の顔。珍しい黒髪で、優しい光を宿した黒曜石のような瞳。人懐っこそうな笑顔を浮かべる、普段はちょっと頼りない所もあるけど、意外と強引で、負けず嫌いで、しっかり男らしい所もある少年。

 自分と同じ『無能』の少年。『無能』に諦めずに努力した少年。『無能』の自分を受け入れて、共に歩いてくれた少年。

 自分にとってかけがえの無い、大切な、最愛の、いつのまにかそんな存在にまでなっていたその人。


「やだ……、いやだぁ……」


 ヴァイスと離れたくない。彼の元に、彼の腕の中に帰りたい。

 こんな所で、一人で寂しく死んでしまうなんて、絶対に、絶対に、嫌だ――


「ぐぅぅっ……やだ、やだ、……ヴァイス君っ」


 アリスの口から助けを求める声が漏れた。一度漏れたら止まらなかった。アリスはただ、助けを呼ぶ。まるで迷子になった子供のように。

 周りを気にせず、必死に、叫んだ。


「ヴァイス君っ、助けて…… 助けてぇ!」


 ◆


「! 今の、声は――」


 その声を、ヴァイスは確かに聞いた。五層からの階段を転げ落ちて、そのまま倒れ伏した身体を無理矢理動かし立ち上がったその少年の耳に、それは届いた。

 彼が捜し求めていた者。その彼女が、自分を呼ぶ声を。


 聞き間違いなんかではない。身体強化で研ぎ澄まされていた知覚が、確かにそれを捉えたのだ。


 ヴァイスの脳内に電流が走る。ただ先を目指し、停滞しかけていた思考が加速する。


 声が、聞こえた。自分を呼ぶ声が。アリス先輩の声が。

 それはつまり。

 まだ、彼女が生きていると言う事だ。死んではいないという事だ。

 まだ、間に合う、と言う事だ。


「~~っ!」


 不意に湧き出た歓喜に、ヴァイスは口の端を釣り上がらせた。

 先程まで怒りと焦りで押しつぶれそうだった心に、希望の灯が灯る。それは無理矢理に掲げた希望ではなく、確かに輝く眩い光だ。


 石のように重くなり冷たくなっていた四肢に、溶岩のような熱が流れる。

 淀んでいた気力が、今まで感じた事の無い速度で全身を駆け巡った。


「っ先輩!」


 全身全霊を持ってヴァイスは加速した。

 声のした方へ。アリスの待つ所へ。邪魔をする物には一切容赦はしない。


「どけえええええ!」


 通路を此方に走ってきた魔狼を駆け抜けざまに叩き切る。

 限界駆動オーバードライブによる強化と限定開放カウントブレイクによる爆発的な加速を得ているヴァイスがその速度を乗せて剣を振るえば、魔狼はなす術も無く切り裂かれ横の壁に叩きつけられた。

 何匹もの魔狼が次々にヴァイスに飛び掛るが、結果は同じだ。その全てが長剣による剣閃で切り飛ばされていく。

 不幸にもヴァイスの前に立ち塞がってしまった物達は、銀色の烈風となった彼に、そのまま蹂躙されたのだった。

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