51.正しき選択

「ゲイル! リリカ!」


 セシリアが広間で戦闘中の彼らに向けて、大声で呼びかける。直ぐに加勢する、と。魔気を昂ぶらせて広間を駆ける。

 しかし。彼女の耳を疑うような叫びが、剣戟の音と共に飛んできた。


「馬鹿、野郎、来るんじゃねぇ! さっさと逃げろ!」


 風を切り唸りを上げる鉄塊を必死の形相で受け止めながら、ゲイルが叫んだのだ。


 ――意味が分からなかった。彼が何を叫んだのか、一瞬分からなかった。


 しかし、ゲイルのその表情からセシリアは悟った。本気で自分セシリアの身を案じている、彼の心を。


 いくら一年で上位の彼らでも、オーガ相手では苦しいのだろう。あれは二年後半のパーティーが当たる相手だ。あくまで数が脅威となっていた魔狼とは、固体のレベルが違う。

 それでも、ゲイルはやや押され気味ではあるが、単身オーガと切り結んでいる。一年としては驚異的な戦闘能力だ。そして、彼の後ろにはなにやら魔法の詠唱中と思わしきリリカが居る。


 きっと、彼らは負けはしないだろう。苦戦をしながらも、二人でオーガを倒せるのだろう。

 しかし、彼らも無傷ではいられないのではないか。下手をすれば大怪我、どちらかが倒れる可能性も零ではない。

 そんな状況で。いや、そんな状況だからこそなのか。


 仲間アリスを見捨てた自分に。彼らにとって憎い相手であるはずの自分に。

 逃げろと、叫んでいる。


 そんな彼の様な姿を。ほんの少し前に見た事があった。

 その姿が、未だにセシリアの目に、強く焼きついている。

 そうだ。それは――


 ◆◇◆


 アリスが、立っていた。後衛でティオと一緒に居るはずのアリスが、そこに立っていた。

 私は思わず、自分の目を疑った。


「アリス!? あんた、何前に出て来てんのよ! 早く後ろに――」

「逃げて、セシリアちゃん」


 アリスの目は、私ではなくその先の狼達を見据えていた。彼女はそのままゆっくりと近づいて来て、私の横に並んだ。

 前へと目線を向けたまま、彼女は言う。


「ティオちゃんを連れて、早く逃げて。それで、上に居る先生達を呼んで来て。シャル姉ならなんとか出来るはずだから」


 毅然とした様子でアリスは言った。その声には、有無を言わさぬ迫力があった。

 そして、その言葉に私は驚きで声を失っていた。なんとか言葉を発しようと喉を鳴らすが、枯れ果てたように出てこない。

 その時、更に後ろから声が上がった。


「アリスちゃん!」


 ティオだった。彼女もアリスを追いかけるように、こちらへと駆け寄ってきていた。

 その姿を見て我に返った私は、アリスの肩を乱暴に掴んだ。そして搾り出すように声を出す。


「私達も逃げるわよ! 殿は私がやるから、あんたもさっさと――」

「駄目だよ」


 掴んだ手を、アリスがそっと握った。


「私と一緒だと逃げ切れない。二人だけで逃げて」

「だから、そんな事出来る訳ないでしょ!? あんたまで馬鹿な事言わないで!」

「ティオちゃんを巻き込むの?」


 びくりと、身体が震えてしまった。アリスは横目で、私を見つめている。その瞳が、真っ直ぐに私の瞳を射抜いている。

 私は、またも声を失った。喉が詰まったように言葉が出てこない。胸の奥深くで、迷いの心が急速に広がっていく。

  

 私は、アリスとはまだ短い付き合いでしかない。それに比べて、ティオは私の大切な親友だ。どちらを優先するのかと言われたら、そんなもの答えるまでも無い。

 アリスの言う通り、彼女の足では魔物を振り切れない。彼女と逃げたら必ず魔物には追いつかれる。そうなると、ティオを危険な目に合わせてしまう。

 それならば、私が取るべき行動は――!


「良いんだよ、それで」


 耳に響いたその声に、はっとしたように顔を上げる。アリスはもう、私を見ていなかった。その目は既に前しか見えていない。

 そこに、ティオが息を切らせながら駆けつけた。


「皆逃げ始めてるわよ。私達も速く逃げましょう! ねぇ! ……アリスちゃん?」


 流石に慌てているのか、いつもの間延びした調子では無いティオの言葉。しかし、それに対してアリスは静かに首を振った。

 意味が分からない、と言った様子で目を見開くティオ。その姿にズキリと胸が痛むが、私はそれを無視して彼女に声をかけた。


「私達だけで逃げるのよ、ティオ」

「え……何を、言ってるの? そんなの――」

「いいから! はやくしなさい!」


 呆然としているティオの腕を掴み、引っ張るように急かす。彼女の気持ちが痛いほど分かる。でも、今は心を鬼にして、彼女を引きずってでも、逃げなければならない。


「そんな……! アリスちゃん!?」

「走れない私が居たら逃げ切れないんだよ。……私は、二人の足手まといになりたくないから。だからお願い、二人で逃げて」

「そんな事……! 誰かお願い、アリスちゃんを背負って――」


 周りにはまだ数人学生が残っていた。皆逃げ出そうか迷っているような様子で、出来れば今すぐ逃げ出したいといった様子でいる。

 そんな彼らに向かってティオが悲痛な声を上げた。しかし返ってくるのは、気まずそうに目を逸らしたり、青い顔で首を振る様子ばかりだった。

 そこに、悟ったようなアリスの声が届く。


「無理だよ。皆この戦闘で怪我してる。私を背負って行くなんて、危ない事はさせれない。……迷惑は、かけたくないから」


 優しく諭すように言うアリスを、ティオが呆然とした様子で見ていた。


「そんな……、嫌よ、そんなの! それなら私がアリスちゃんを背負って――」


 何を馬鹿な事を。あんたがアリスを背負っていける訳が無いじゃない。


 苦しかった。私にもっと力があったら、違っていたのかも知れない。

 でも、今はそんな事を考えている暇は無い。

 だから私は、ティオの両肩を掴んで、その瞳を正面から見据えて、言い聞かせるように叫んだ。


「ティオ! もう、これは私達ではどうにもならないの! 速く先生達を呼びに行かなきゃ、大変な事になるかもしれない! ……あんたがここに残っても何も出来ないでしょ!? アリスの覚悟を無駄にしないで!」


 我ながら、酷い事を言っている。覚悟を無駄にするなと、その覚悟を利用しているくせに。


「でも……!」

「大丈夫」


 アリスの声が響いた。

 アリスの体から魔力が溢れ、複数の氷剣を形作る。それは踊るように彼女の周りを浮遊し始めた。


踊る氷剣アイシクルエッジ多重射撃マルチショット


 右手を前に向けたアリスの呟きに合わせて、複数の氷剣が放射上に打ち出された。風を切る氷剣は凄まじい速度で奔り、唸り威嚇する狼達に次々と突き刺さっていく。


「大丈夫だよ。私も、死ぬ気は無いから。……だから、皆も速く逃げて!」


 アリスが精一杯の声で叫んだ。その声に弾かれるように、迷っていた学生達が動き出した。

 今だにここに残っていた学生は、まともな精神の持ち主達だ。だからこそ皆顔を苦痛に歪め、残るアリスに何か言いたそうに口を開き……それでも自分に出来る事は無いと悟ると、口を噤んで出口へと駆け出していく。

 私達も、彼らに続かないといけない。私達にも、出来る事など無いのだから。


「アリスちゃん!」

「ティオ、速く!」

「~~! 絶対、死んじゃ駄目よ! 絶対だからね!?」


 涙目で半分取り乱したように叫ぶティオを引っ張りながら、私は駆け出した。そのまま、広間の出口へと向かって走る。


「分かってるよ。ここは任せて。……またね、ティオちゃん、セシリアちゃん」


 背中に、アリスの言葉が届いた。その言葉には、頼もしさと同時に、どうしようもないほどの儚さが感じられた。


 他の学生達も逃げ出して、私達が出ればその部屋に残るのはアリスだけとなる。

 近づく出口を見ながら、泣きじゃくりながら走る親友を視界の隅に捕らえながら。私は、湧き上がってくる悔しさに唇を噛みしめた。


 私にとって、ティオの方が大切なんだ。どちらも助けるなんて英雄みたいな芸当は出来ない。ならば、助けるのはティオの方だ。

 だから、これで良い。これは正しい選択なんだ。

 そう、自分に言い聞かせた。これは正しい事で、間違いではない。仕方の無い事なのだ。どうしようも無い事なのだ。


 それなのに――


 私は、振り返ってしまったんだ。

 広間を抜ける、その直前。彼女を見捨てて、逃げ出す直前に。


 一人広間に取り残されたアリス。ぽつんと、広い空間に一人佇むアリス。

 みんな逃げ出して、仲間であるはずの私達まで逃げ出して、たった一人になってしまったアリス。


 彼女が怒っていてくれたら、憎んでいてくれたら、どんなに良かっただろう。

 逃げ出す私達を、怨嗟の目で見ていてくれたら、どんなに良かっただろう。


 でも、彼女は。


 笑っていた。自分を見捨てて逃げる私を、微笑を浮かべて見送っていた。

 まるで、愛しい子供を見送るかのような、慈愛に満ちた表情を浮かべていた。


 その姿を、瞳に写して。

 私は、思い出していた。


 昔、子供の頃。一度だけ見たことがある。何気ない理由で教会にお祈りに行った時に、一度だけ。


 五英雄の一人、聖女ローラ様。

 孤児院の子供達に囲まれて、正に聖母の如き微笑を向ける、その女性を。


 穏やかに一人佇むアリスの姿が、あの時見た聖女様の姿に重なって見えた。

 似ている訳ではない。顔も、背格好も全く違うのに。


 それでも、其処に立つアリスはどうしようもなく、聖女だと思えたんだ。


 唐突に、視界が滲んだ。自分は正しいという自負が砕けそうになる。それでも、もう戻れない。

 自分は選択したのだから。だから、歯を食い縛って彼女から目を背けた。


 迷う暇なんて無いんだ。見るべきは前。一刻も早くここから逃げ出して、上にいる先生達に事の次第を伝えなくてはならない。

 それこそが、彼女を見捨てる選択をした私が、しなければならない事。果たさなければ成らない使命。


 それでも。それでも。それでも――!


「っぐぅ、くぅうう!」


 叫びたい衝動を喉で必死で押さえて、私は走った。ただ地上を目指して。彼女が生き延びる事を、聖女様に必死に祈って。

 私達の身体が、結界広間を抜けた。続くは薄暗い通路。そこを私達は、ひたすらに駆け抜けていった――


 ◆◇◆


 あの時見てしまったアリスの姿。それが、セシリアの脳裏に閃いた。同時に、その時に感じた想いが腹の底から湧き上がってきた。

 逃げろと言っている。自分の方が危ないくせに、私に逃げろと言っている。


「ふざけんじゃ、ないわよ!」


 セシリアが精一杯に息巻いた。


 本当に、腹が立つ。逃げろなんて簡単に言ってのけるゲイルにも、行く手を阻むオーガにも。

 そして、そんな事を言われている、自分自身に。逃げる事しか出来なかった、自分自身に、一番腹が立つ。


 セシリアが、大きく息を吸い込んだ。そして、怒鳴るように声を張り上げる。


「ゲイル、どきなさい! そいつは私がやるわ!」


 何を言ってやがんだと、ゲイルが非難めいた目を向けてくるが。直ぐにその目が驚きで見開かれた。

 二層のマッドドッグ相手には見せていなかった、セシリアの本気。自分よりも遥かに濃い魔気を纏った彼女が突っ込んできたのを目撃して、ゲイルが慌ててその場を飛び退いた。

 オーガの眼前に空間が開ける。そこに向かって、セシリアが駆けた。


「グアアアアア!」


 オーガが咆哮を上げる。ゲイルと入れ替わるように突撃してきたセシリアに向けて、鉄塊を振りあげた。

 その怪力から振るわれる一撃は、その巨体に見合わぬ速度を持っている。ひとたび振り下ろされれば、それは瞬きの間に地面を打ち砕くだろう。

 そして、その巨大な鉄塊による重撃は、ゲイルの大剣でもって辛うじて受けきれる程の強烈さだ。セシリアがそれを受けきれるとは、到底思えなかった。

 

 しかし、セシリアは止まらない。更に地を踏み抜き一歩を進み、オーガへと真っ直ぐに突き進んでいく。


 そこに、オーガの鉄塊が振り下ろされた。

 凄まじい衝撃。叩きつけられた鉄塊によって、地が震えた。迷宮の地面が抉れ、一帯に土埃が巻き上がる。


「な!? センパイ!」


 ゲイルの叫びが上がった。叩きつけられる鉄塊に向かって、セシリアは回避する事無く突っ込んでいった。それは、彼からは無謀な行いにしか見えなかった。

 土埃の奥に、無残に叩き潰された彼女を幻視する。

 しかし。


弾丸単発バレットシングル


 静まり返っていたその場に、その彼女の声が通った。舞う土埃のその奥に、一条の紅い輝きが見えた。


装填リロード!」


 金属版を打ち付けたような音が一発。同時に爆発が起こった。その爆風が土埃を全て吹き飛ばし、その姿を露にする。


 現れたのは、吹き上がる焔を右手に宿し、構えを取っているセシリアの姿だった。


 セシリアは、叩きつけられた鉄塊の更に奥、オーガの懐まで潜り込んでいた。彼女の背後に、鉄塊が振り下ろされた状態だった。

 そこは振り回す腕の内側、もはや武器は届かぬ零距離射程クロスレンジ。その位置こそが、拳闘士の独壇場――!


「撃ち貫け――」


 焔を纏ったセシリアの右拳が、音を立て光を放つ。吹き上がる炎が甲高い音を発しながら、真紅の篭手に螺旋の渦を描き出した。


華流螺カルラあぁぁ!!」


 発した気合に合わせて、右足、腰、右腕、右拳と、捻りを加えながらの紅蓮を纏った突きが撃ち出された。それは爆音と衝撃波を生みながら、オーガの肉体に突き刺さる。

 凄まじい威力で打ち込まれた拳に、オーガの巨体が浮かび上がった。そしてその拳に纏わり付いていた火炎が、まるで槍のように突き刺し抉っていく。


 光が煌めいた。真紅の輝きが篭手で閃き、火炎の勢いが爆発的に増加した。

 その螺旋槍の焔が、悲鳴を上げるオーガの肉体を食い破り突き抜けて。遂には、背中側から竜巻のようになった爆炎の奔流が吹き出したのだった。


 ◆


 オーガの巨体が、音を立てて地面へと倒れこんだ。既に息は無いのだろう、その身体はぴくりとも動かない。

 その横に、セシリアが立っている。その右手の篭手は手の甲の部分が開放され、蒸気が上がっている。その奥に輝く五芒星は、その頂点の一つが光を失っていた。


 宣言通りオーガを打ち倒したセシリアに対して、ゲイルは怪訝な目を向けていた。


「……センパイ、アンタ、何で来たんだよ」

「もう、目的は果たしたから。だから、私は――」


 自分は、正しい選択をした。アリスを切り捨て、ティオの安全を選んだあの選択は、正しいものだった。

 でも、正しいからといって後悔しない訳じゃない。このままでは、自分は間違いなく後悔する。それも、一生モノの後悔だ。

 仲間を見捨てて、自分達だけのうのうと生き延びた。一生下ろす事の許されない十字架を背負って生きていく。

 そんなものは、絶対に嫌だ。


 そして何よりも。アリスを助けたかった。

 他の学生達を逃がす為に、たった一人残る事を選んだあの少女を。


「アリスを、助けに行くわ」


 ほとんど睨みつけるような勢いで、セシリアはゲイル達を見つめていた。

 なんて都合の良い事を言っているのだろうか。一度見捨てた自分が、今更彼女を助けに行くなどと。

 その事をセシリアは自覚して。それでも、堂々と宣言した。

 たとえどのような謗りをゲイル達から受けようと、これが今の自分の本心なのだと。


 その言葉を聞いて、ゲイルは軽く息をつき、


「そうか」


 と、一言だけポツリと漏らした。

 そのままゲイルは大剣を背に担ぎ、さっさと四層への通路へ向かっていく。それに、ほっと一息ついたようなリリカが後を追う。

 そんな彼らの様子に、セシリアが呆けたように目を見開いた。


「何も、言わないの?」

「あいつらを助けに行くってんなら何も文句はねぇよ。アンタの実力も見れたしな、俺らよか強いアンタが来てくれるのは正直助かる」

「でも、私はアリスを――」

「センパイは生きてる。ヴァイスだってこんな所で死にはしねぇ。なら、まだ間に合うだろ。そんために、アンタは来たんだろう?」


 なら、さっさと来い、と。それだけ言ってゲイルが駆け出した。そこにリリカが、先輩早く、と急かしつつ駆けていく。

 そんな彼らを見て、セシリアはほんの一瞬立ち止まった。罵倒される事も覚悟の上だったので、すんなり受け入れられたのが拍子抜けだった。

 しかし、その心に、なにかがすとんと収まった。暗闇に隠れていた道が姿を現したような、そんな感覚を覚えていた。


 自分は、正しい選択をした。あの時の選択は、誰が何と言おうと正しかった。


 ――違う、そうじゃない。正しくは、自分は選択したのではなく、せざるをえなかっただけだ。自分に力が無かったから、その選択しか選べなかっただけだ。

 もっと正しい選択肢があった。誰もが納得する最上の選択肢があった。ただ、それを選べるほどの力が自分に無かっただけだ。


 でも、今は違う。彼らと一緒なら、あの時選べなかった選択肢を選べるはずだ。


「――待ちなさい、二人共!」


 弾かれたように、セシリアが二人の後を追いかけ走り出した。その顔に浮かぶのは、確かな希望。


 彼の言う通り。きっと、まだ間に合う。

 ならば、あの場所に戻って、もう一度選び直そう。


 そう、それは。

 全てを救うという、まるで御伽噺の英雄のような。そんな選択肢を。

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