22.騒動の始まり

 冒険科の敷地内には、各所に休憩が取れるような場所がある。椅子だけが並んだ場所もあれば、簡素な机が設置されている場所もある。

 そんな中でも一際広い、学生達の憩いの場とも呼べる場所が、冒険科の校舎裏にあった。

 学園の冒険科は、この広い王都の中でも端の方に存在する。特にその校舎は敷地内でも外側にあり、その先には他の建物は無い。あるのは訓連用の迷宮くらいである。

 そのため、校舎の裏側には平原が広がっており、その更に先には王都の外壁がまるで地平線のように伸びていた。

 そんな景色を一望できる場所に、その休憩場所はあった。中央に小さな噴水があり、その周りを囲むように、机と椅子が無造作に並べられている。


 現在の時刻は丁度昼頃。そこで十数名の学生達が昼食を取っていた。各々仲の良い者同士で集まり、談笑しながらパンを頬張っている姿は、普通の学生達となんら変わらない様に見えた。

 豪華な食堂が存在する普通科と違い、冒険科には食堂と呼べる場所が無い。そのため、この校舎裏にある広場がその代わりとなっていた。


 そしてその広場に、ヴァイスとアリスの二人も座っていた。

 彼らも、今日はここで昼食を取るようだ。机に対して、二人は横に並んで椅子に腰掛けており、机の上には学内の店で買ったであろうパン等が置かれていた。

 ただ、いつもは一緒に居るはずの幼馴染二人の姿が見えなかった。


「……で。ゲイル君は何をしたの?」


 アリスが頬杖を付きながら、半眼でヴァイスに問い掛けた。

 それに対して、ヴァイスもばつが悪そうに苦笑しながら口を開く。


「いえ、まぁ。訓練中に、勢いあまって学園の備品を破壊しまして。その報告に行ってます」

「リリカちゃんも付き添いで行ってるのね。まぁ、元気なのは良いけど」


 アリスは、やれやれと言った感じで溜め息をついた。


 その日の午前中、ヴァイス達戦士組は、人形型の的に向かっての簡易的な攻撃訓練を行っていた。

 しかし、こんな初歩的な訓練はとうの昔にやり尽くしているヴァイス達である。

 真面目なヴァイスはちゃんと訓練していたのだが、ゲイルの方は完全に気が抜けてしまっていた。

 その結果、彼は手加減をしくじり、的の人形を真っ二つに叩き割ってしまったのだった。


「的なので壊れる事も普通にあるでしょうから、大事にはならないと思いますが」

「そうだねぇ。でもあれって確か、使う時は簡単な障壁シールドの魔法をかけてたと思うんだけど。それを真っ二つって、相変わらず無茶苦茶だね」

「それは、ゲイルですから」


 そう言って二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。そのまま、二人してくすくすと笑いあう。

 この広場において、二人の笑い声は他の学生達の喧騒に紛れてしまっている。こうしていると、二人も普通の学生にしか見えなかった。

 しかし彼らは相変わらず、周りからは奇異の目を向けられていた。食事を取っている学生達が、ちらちらと談笑するヴァイス達へと目を向けている。


 だが、ヴァイス達も、もうほとんどそれを気にする事は無かった。自分達二人が揃っていたら、目を引く事をよく理解していた。

 それに、周りの学生達も視線は向けてくるのだが、ちょっかいをかけてくる者はいなかったのだ。単に弱いから仲間には入れられないというだけで、害する気までは無い様だった。


 おかげで、ヴァイス達は比較的に平穏な日々を過ごす事が出来ていた。

 アリスも二年の中では一人であったが、講義以外ではほとんどヴァイス達と過ごしていた。

 そして今日も。ゲイル達が戻ったら、一緒に昼食を取って。変わらない一日を過ごすものだと、ヴァイスは思っていたのだが。


「――でよ! それで――が――」


 ヴァイスの耳に、どこかで聞いた事のある、やたらと不愉快な声が飛び込んできた。

 その会話の内容までは聞き取れなかった事から、まだ距離は離れているようだが。確実に、ここへと近づいてきているのが分かる。


(この声は、まさか……)


 ヴァイスは、湧き上がってきた嫌な予感に頭痛を覚えながらも。なるべく回りに悟られぬよう、その声の聞こえた方へ、広場入り口の校舎側へと視線だけを向けた。

 その先には、ヴァイスの予想通りの人物が居た。

 その人物とは。つい先日、真正面からアリスを罵倒し、今現在ヴァイスにとっての最大の敵となっている貴族のドラ息子、ブラッドであった。


 ブラッドは先日見たのと同じく、数人の取り巻きを引き連れて広場へとやって来た。

 彼らは相も変わらずに、馬鹿笑いを上げながら、どしどしとこの憩いの空間へと足を踏み入れる。


 ヴァイスの顔が途端に渋くなる。嫌な奴と遭遇してしまったと、眩暈すら覚えている。先日の言動を思い出し、腹の底から怒りまでもがふつふつと湧き上がって来た。

 見ると、アリスも奴らに気付いたのか、その顔を強張らせている。 


 そして。

 それはヴァイス達だけでなく。周りの学生達までもが、その表情を曇らせている。ヴァイスは広場内の空間が途端に重くなった様な錯覚を受けていた。


(……何だ? この空気は)


 不信に思い、ヴァイスがもう一度ブラッド達の方にちらりと目を向けると。その答えがすぐに分かった。

 ブラッドは、広場の入り口側に座っていた学生達相手に、手当たりしだい絡んでいる様子だった。そちらに耳を澄ますと、やれ貧乏臭い飯がどうだの、平民はどうだのと、そう言った会話が聞こえてくる。


(なるほどね。……まったく、本当にあれで貴族なのか?)

 

 ヴァイスの心に冷めた感情が流れてくる。なるほど、どうやら奴がちょっかいをかける相手は自分達だけでは無いらしい。聞こえてくる言葉の端々から、どうも平民を思いっきり見下しているようだとヴァイスは感じた。

 冒険科には貴族も居るが、やはり平民の方が多い訳で。更には、貴族の学生達は、普段は普通科の食堂に行っている。彼らはこんな場所で食事を取ったりはしないのだ。

 つまり、この広場に居るのは、基本的に皆平民の出な訳である。そして、貴族のブラッドがわざわざここに来た理由とは、言うまでも無く。


(平民を馬鹿にする為って事か? ……本当に、嫌な奴なんだな) 


 ヴァイスは盛大に溜め息をついた。彼も人の趣味趣向に口を出す気は無いのだが、それが他人に迷惑をかけるものなら話は別だ。

 文句の一つも言ってやろうかと思ったが。口を噤んでしまったアリスを見て、即座にその考えを却下した。

 そして、彼が代わりに考える事は、この場をどうやって切り抜けるか、と言う事だった。

 先日のアリスに対する応対からして、奴に見つかろうモノなら、確実に、むしろ優先的に彼女が標的になるであろう事は、ヴァイスにも分かりきっていた。

 ――なんとか奴に気付かれる前に、この広場を脱出しないといけない。

 ヴァイスはそう考え、アリスを連れて逃げようと腰を浮かした所で。


「お? おいおい、そこに居んのは、無能サマじゃねぇか?」


 と、一際大きな声が広場に響いた。その嫌味ったらしい声に反応するように、周りの学生がこちらへと目を向けた。

 それを聞いて、ヴァイスが軽く舌打ちをする。見られるまでも無く、自分達の事だと分かった。遅かったかと、すぐ動けなかった事を悔やむ。


「なんだぁ? 一丁前に、こんなとこで飯食ってんのか? 無能の癖に偉くなったもんだなぁ」


 ブラッドが、他の者を引きつれぞろぞろとヴァイス達に近づいてきた。

 その集団の先頭に立った彼は、偉そうに踏ん反り返りアリスを見下している。

 アリスはと言うと、最近はあまり見なくなっていた、人形のような無表情を見せていた。

 そんな彼女を見て、ブラッドはつまらなさそうに鼻で笑い。そしてその傲慢な瞳が、今度はヴァイスを捉えた。


「聞いたぜぇ、お前も無能なんだってなぁ? こんな女どこが良いのかと思ったが、納得いったよ。無能同士つるんでるわけだ。ぷっ、ぎゃははははは!」


 彼のその笑い声に呼応するかのように、取り巻き達の間でも嘲笑が広がった。

 対するヴァイスは、温厚な彼には珍しく額に青筋を浮かべていた。

 本当に、一発殴り飛ばしてやろうかと、右手を硬く握り締めていたが。

 その手を、アリスが優しく握った。ヴァイスが横を見ると、心配そうな顔をしたアリスと目が合った。そのまま、彼女はその首を横に振る。

 駄目だよと。そんな事はしてはいけないと。そう目で訴えるアリスを瞳に写して。ヴァイスは、自分を落ち着かせる事に全神経を集中させた。


 ここでブラッドに殴りかかった所で、良い事など何も無いのだ。

 真正面からぶつかれば、弱い自分ではかなわないだろうし。下手すれば、貴族を害したとして、更に面倒な事になりかねない。

 だからこそ、周りの学生も口を噤んでいるのだろう、と。ヴァイスはそう思いながら。自分の馬鹿な考えを、頭から追い出すことに必死になっていた。

 しかし、そんな彼らを見て、ブラッドが更に追討ちを掛けて来た。


「なんだ? お前ら、まさかできてんの? ぶはっ、こりゃいいや! お似合いだぜ、無能同士でよ? ぎゃはははははは!」


 そう言って、ブラッドは腹を抱えて嗤っていた。その表情を、ヴァイスは、心底醜いと感じていた。

 ヴァイスの目に剣呑な光が宿るが。それでも、彼は我慢していた。横に居るアリスが我慢しているのに、自分が暴走する訳にはいかないのだ。

 唯一の救いは、周りの学生達の目が同情的なものになっていた事だろうか。敵の敵は味方とは言うが、彼らも同じ迷惑を被る者として、ヴァイス達に共感しているのかもしれない。


「はははは、はー、いや、笑わしてくれるぜ。たくよ、何か言う事無いのかよ、アリスちゃん?」


 と、笑い疲れたように一息付いたブラッドが、不躾に話しかけてくるが。アリスは表情を変えずに、


「別に。私が誰と居ようと、私の勝手でしょ? あなたには、関係ないよ」

 

 と、冷たく言い放った。それは正に、氷の女王と呼ばれるに相応しい姿だった。孤独を好み、誰も寄せ付けないような、そんな雰囲気を纏っている。

 それは、ヴァイスがまだアリスと話した事も無い頃の、彼女に対する印象そのままだった。

 そんなアリスを見て、ブラッドは、


「ちっ。ホンと口は達者だな。マジつまんねぇわ、お前」


 と、心底つまらなさそうに吐き捨てた。散々煽っているにも関わらず、反応の薄いアリスが気に食わないのだろうか。

 いや、どちらかと言うと、貴族である自分に、不遜とも言える態度を取るのが気に食わないようだ。


「笑ってりゃ可愛げがありそうなのによ。そんなんだからよぉ、お前は親に捨てられたんじゃねぇの? 気力の無い子供とか気持ちワリィしなぁ」


 反応が薄い事を良い事にか、ブラッドが好き放題に言ってくれている。

 その無遠慮な言葉の刃に、アリスの表情がピクリと動くが。それでも、彼女は我慢できているようだった。

 ヴァイスの手に添えられた指にも、力が込められるが。それでも、彼女は我慢しているようだった。


「それで、行き着く先があの孤児院だろ? くふふ、同情してやるぜぇ? なぁ、あんなみすぼらしい孤児院に住んでて恥ずかしくないのか? この王都にあんなのが在るとか、こっちはそれだけで恥ずかしいくらいなのによぉ!」


 ブラッド達の笑い声が、食堂内に響き渡る。悪意に満ちた嘲笑が、周りから木霊する。

 クラディス孤児院は、王都では有名で。冒険者なら尊敬すべき存在の、英雄が営んでいる場所で。

 それを侮辱するような言葉に、周りの何人かの学生も、ブラッドに向ける目が険しくなっていた。


 しかし。

 そんな光景を、どこか遠くに感じながら。不快なはずの笑い声を、どこか遠くに聞きながら。

 周りの全ての物を置き去りにしたような、まるで現実から切り離されたような、不思議な感覚の中で。

 ヴァイスは、を見ていた。から目を離せなかった。


 何を言われても変わらなかった、アリスの表情が。そこで、変わったのだ。

 その顔が紅潮し、口をぎゅっと噤んでいる。その大きな瞳は伏せられ、目じりには涙が浮かび、それが流れぬよう必死で耐えている。

 それは、怒りとも、羞恥とも、悲しみとも取れる、様々な感情が綯い交ぜになったような。

 ヴァイスにとって、初めて見る表情だった。

 彼らの前では、いつも優しく、明るく、朗らかだった彼女が。

 初めて見せた、表情だった。



「さっきの言葉を、取り消せ」


 ブラッド達の笑い声以外、音が無かった広場で。

 ヴァイスの、何時に無く低い声が重く響き渡った。

 何時の間にか、彼は椅子から立ち上がり。真っ直ぐにブラッドを睨みつけていた。

 アリスがハッとしたように顔を上げたが。もう、ヴァイスには我慢出来なかった。そして、我慢したくも無かったのだ。

 彼の中では、狂える程の怒りが暴れていた。余りにその感情が大きすぎて、逆に冷静になれた程だった。


「……は?」


 ブラッドは、呆気にとられた様な顔をヴァイスに向けた。本気で、何を言われたのか分からない様な、そんな表情だった。


「孤児院に対する侮辱の言葉を取り消し、アリス先輩に謝れ」


 ヴァイスは変わらず強い視線を向けたまま、しかし冷静な様子でブラッドに言った。

 その言葉が確かに自分に向けられたものだと、今度はしっかりと理解したブラッドが、苛立った様子で口を開く。


「あ? おいおい、何の冗談だ? 平民如きが、俺に意見してんじゃねぇよ」

「確かに俺は平民だが、そんな事は関係ないんじゃないか。だいたい、あんた正気か? あの孤児院は、五英雄が運営しているんだ。あんたは、国の英雄を侮辱するのか? この世界を救った英雄を」


 孤児院を侮辱する事は、ひいては聖女を侮辱する事であり。聖王国の国民である者が救世の英雄を侮辱するなど、ヴァイスには到底理解出来なかった。

 しかし、英雄の言葉に反応したのか。ブラッドが突如目を剥いて、声を荒げた。


「英雄だと? あんな成り上がり共なんざ知った事か! 平民らしく分際を弁えていればいいのによ、俺ら貴族を差し置いて、あんな奴を王にしやがって。そっちの方が貴族を侮辱しているだろうが!」


 ブラッドは更に顔を赤くし、唾を飛ばしながらまくし立てる。その様子から、それが冗談等ではなく、本気で言っていると言う事が良く分かった。

 ヴァイスは、ブラッドの言動を受けて、更に頭痛が酷くなるのを感じていた。

 貴族とは、誇り高き者ではなかったのか? 幾らまだ経験浅い若者であろうと、これは無い。こいつの方こそ、もう少し言動を弁えるべきでは無いのか?

 それとも、自分が知らなかっただけで。この国の貴族とは、こういうモノなのだろうか、と。ヴァイスは薄ら寒い物を感じていた。


「あぁ? なんだてめぇ。おい、見下してんじゃねぇよ、平民如きが!」


 ブラッドの目に危うい光が宿るのを見て、ヴァイスは内心舌打ちを打つ。

 こういう自尊心(プライド)の高い者は、本当に面倒臭い。他人は平気で見下すくせに、見下される事には恐ろしく敏感だ。

 だが、ヴァイスの方も我慢の限界は当に超えているのだ。謝るつもりも、譲るつもりも無い。


「貴族と言うのがこれじゃあな。俺は平民で良かったと思うよ」


 ヴァイスは溜め息混じりにそう言った。呆れた感じで、両手を広げるというおまけ付きだ。


 それを見て、今度はブラッドの方が我慢出来なかったようだ。


「貴様ぁ!」


 ブラッドがその顔を怒りで真っ赤に染めて、ヴァイスへと殴りかかった。


(何!?)


 ブラッドの余りに短絡的な行動に驚きつつも、ヴァイスは瞬間的に身体に気力を巡らせた。彼はそのままアリスを庇うように、その繰り出される拳を左側に捌いて回避する。

 突き出した拳を横へと流され勢いを止められずに、ブラッドはヴァイスの後方へと投げ出される。

 何とか勢いを殺そうと、ブラッドがたたらを踏んだ。


 確かに煽ったのは自分なのだが。こんな所でいきなり殴り掛かってくるとは、幾らなんでも沸点が低すぎるだろうと、ヴァイスは内心辟易するが。

 体勢を直したブラッドを見て、更に驚愕した。


「このっ! 無能がぁぁぁぁ!」


 無能と罵倒していた者に攻撃を綺麗に受け流されて。それで更に頭に血が上ったのだろうか。

 憤怒の形相を浮かべたブラッドは、あろう事か、その身体に魔気を纏いだしたのだ。

 戦士らしく紅い光を放つ魔気が、ブラッドの身体から滲み出している。


(んな、本当に馬鹿か!?)


 ブラッドの考え無しの行動に、ヴァイスにも焦りが見えた。それまで固唾を呑んで二人を見守っていた周りの学生も、魔気を纏ったブラッドを見て俄かに騒がしくなる。

 そこで、流石にまずいと思ったのか。ブラッドの取り巻きの一人が彼を止めに入った。


「ちょ、まずいですよ、ブラッドさん! こんな所で私闘は!」

「そうですよ! 落ち着いてください!」

「あぁ!? 馬鹿いってんじゃねぇ! このくそ生意気なガキをぶっ飛ばす権利が、貴族の俺にはあんだろうが!」


 すぐに他の者も止めに入ったが、ブラッドは聞く耳持たない様子であった。

 そこで、取り巻きの一人が代案をブラッドに進言した。


「でしたら、決闘にしたらどうですか!? それなら、堂々とアイツをぶちのめせますよ!」


 決闘とは、そのままの意味で、一対一で戦う事だ。お互いに何かを掛けて戦い、負けた方はそれを支払う。

 冒険者間で何か揉め事が起こった際に昔から良く行われてきた、実力主義の冒険者らしい解決方法だった。


「決闘だぁ? なんでそんな面倒臭い事をしないといけないんだ!」

「しかし、学生同士の私闘は禁じられています! こんな人目の多い場所では、まずいですよ!」


 今にも暴れだしそうなブラッドを、周りの者が必死に説得している。

 その言葉に、人目が無いなら良いのかと、ヴァイスは心の中で突っ込みを入れるが。


「ああ! ぐだぐだうるせえな! 分かったから騒ぐな!」


 余りに必死に説得するものだからか、ブラッドは少し落ち着きを取り戻したようだ。取巻きが面倒臭くなった、と言う様にも見えた。

 そしてそのまま苛立ちを隠そうともせず、尊大な態度のままヴァイスに向けて口を開いた。


「おい、無能。俺と決闘だ。逃げるんじゃねぇぞ。……そうだな、俺に勝てたら、さっきの言葉は取り消してやるよ」

「そうか。……俺が負けたら?」


 ヴァイスがお互いの賭け札を確認するように、ブラッドに問い掛けた。

 それに対して、ブラッドは意外そうに、


「あぁ? めんどくせぇ、んな事どうでもいいが……そうだな、俺が勝ったら、お前は一日俺らの奴隷な。それで良いか、無能君?」


 と、心底面倒くさそうに言った。

 どうやら彼は、ヴァイスを叩きのめせればそれで良いらしい。自分が負けるなど露程も思っておらず、故に賭け自体はどうでもいいようだ。

 それにヴァイスは頷いて答える。


「ヴァイス君!」


 慌てて、アリスが立ち上がり声を上げるが。あいにくと、今のヴァイスにはその声を聞くつもりは無かったのだった。


「良いぜ、勇敢だなぁ、無能君よ」


 ヴァイスの答えに機嫌が良くなったのか、ブラッドはニヤニヤと笑いながら、


「じゃあ、今日の講義後、表のグラウンドでやろうぜ。客も集まるだろうしな。そいつらの前で、ボコボコにしてやるからよぉ? 逃げるなよぉ、おい」


 と、分かりやすい挑発を投げてきた。

 ブラッドは、遠慮なくヴァイスを嬲るつもりだ。それも、大勢集まるだろう学生達の前で。

 それが分かったから。アリスはヴァイスに向かって、


「駄目だよ! ヴァイス君、そんな決闘受けちゃ駄目っ!」


 と、必死に声を上げていた。

 それでも。


「あぁ。逃げる訳、無いだろう」


 ヴァイスは、そう答えたのだ。

 逃げるわけにはいかない。たとえ勝ち目が無かろうとも。それが無謀な勝負であろうとも。

 アリスの、彼女の大切な物を侮辱し、あんな表情を強要した、この馬鹿者から逃げる事なんて。

 そんな事、ヴァイスには出来るはずが無いのであった。

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