Episode4 始動



13



 二〇一三年十月―。

 この一週間は真由香にとって、駆け抜けるような忙しさだった。撮影所内で多くの出版社を集めてのスチール撮影会の実施、本編撮影に先立っての特撮班のクランクイン、台本の最終打ち合わせと本読み、稽古……。

 そして本日十月六日日曜日が『飛翔戦軍スカイフォース』パイロット長門組クランクイン当日だった。

 それに伴い、東光東京撮影所内片隅にある神社でスタッフキャスト一同、わざわざ神主を招いて御祓いも受けた。ただし空模様は、戦軍の不安視される今後を予感させるような曇り空であることが少し残念であった。

 そしていざ、出陣。さすがにパイロット組撮影初日なので、今日ばかりは真由香や槇、東條も長門組に同行することにする。

 スタッフもキャストもその緊張感たるや、傍から見ているこちらにもビシビシと伝わってくる。東光が三十年以上作り上げてきた戦軍シリーズの記念すべき本編撮影パイロット組初日、という重圧も勿論あるだろう。しかし、その緊張感を作り上げているのは、ディレクターズチェアに踏ん反り返って長い脚を組み、台本を悠々と捲っているサングラスの老監督―長門清志郎の存在がやはり大きいのではないかとも思える。

 戦軍のパイロット回はただの五十分の一ではない。その回にかける労力と費用たるや、ちょっとしたテレビドラマ一本よりも手間暇がかかっている。プロ野球の開幕試合がただの一試合でないのと同様に、多くのスタッフやキャストの想いが籠められるオープニングでの大勝負回なのである。

 ファーストカットは第二話「さまよえる悪魔」のシーン16の1カットからだった。少年と母親を襲う怪獣・下僕ドラから西川正秀演じる赤名翼が助ける場面―こういうドラマ撮影は当然のことながら役者のスケジュールなどの諸都合により、物語の中盤やら終盤から撮影が始まることが殆どである。街のシーンはエキストラ、内トラ含めてそれなりの大所帯で撮影が始まる。シナリオに興すとたったの十七行だが、そのわずかな行間にどれほどのスタッフキャストの手間暇がかけられていることか。

 さて、そのシーンで中心的な役割を果たす少年役には、子役・生田聖亜がキャスティングされた。これは「こいつをキャスティングしてくれ」と長門たっての要望で決まった配役だった。この生田聖亜はいつぞやの子役ワークショップで長門が鬼指導を発揮した子役だった。可哀想にワンワン泣いていたあの時の子役……思い起こせば、あの日が長門と真由香の最初の出逢いの時でもあった。以前、長門はこの子役について「奴は出来る。うどんのように叩けば伸びる」と評していたのを思い出す。

 しかしその時の子役をキャスティングするとは、意外にこの老監督が義理固い性格であることも垣間見えた。

 エキストラ軍団はセカンド助監督の山口純平が指導を行う。そしてその傍らで、生田聖亜に身振り手振りオーバーアクションで演技指導を行う長門。長門は自ら地面に転がり「ワー! と言ってそのまま向こうに転がって!」と子役に注文をつける。生田聖亜は一つ一つの長門の注文に「ハイ、ハイ」と神妙な面持ちで頷く。

 ドライ、カメラリハーサルを経て本番が始まる。下僕ドラ役のワールドアクションエンタープライズ所属の堀尾実は着ぐるみをすっぽりと装着し、準備万端―因みに余談だが、この着ぐるみ一体造型するのに百八十万円前後かかる。撮影が終わると、この着ぐるみは造型会社の倉庫に直行、全国のアトラクションショーで使いに使い回される運命にあるという。

「ヨオイ、スタート!」

 長門清志郎のドラ声が響き渡る。そして、生田聖亜の懸命の演技が始まった。

 しかし―。

「バカヤロウ、このクソガキ! てめえ、俺の指示が聞こえてねえのか!」

 五回目の本番テイクが不調に終わったあと、長門はそう叫び子役に向かって台本をピュン! と投げつけた。懸命に涙をこらえて耐えていた生田聖亜も遂に「わーん!」と泣き出した。

 周囲のスタッフはそんな長門と子役を黙って見守っていた。ただ撮影監督の植田章弘だけは「いきなりそう熱くなンなよ、あんた何にも変わってねえな」と監督に意見する。この植田は東光東京撮影所に四十年くらい実働しているベテランキャメラマンで、長門と同年代。小柄な角刈り、江戸っ子べらんめえ口調の職人だった。

「今日中にあとどれだけカットを消化しないといけないと思ってんだ。さっさと先に進めよ」

「うるさい、俺がそういう段取りを決めていくんだ!」

 いきなり監督とキャメラマンが喧嘩しだした―少し離れた場所で見守る真由香は気が気でないが、意外に周囲のスタッフは平気な顔をしていた。隣の槇は「カントクと植田さん、いつもああだから。みんな、またかよ、ってなもんだ」と呑気に解説する。

 結局そのシーンは八テイク目で長門のオッケーが出た。モニターチェックを行った老監督が「ヨシ、オッケー、成長したな小僧!」と大声で叫んで手を叩いた。その後の生田聖亜の顔が、何ともいえない安堵感に包まれたのが印象的だった。

 しかし、これはいわゆる『長門劇場』の幕開けにしかすぎなかったわけで……。



 当然一カ月にも及ぶパイロットの撮影に全て同行できるわけもなく、それからの真由香はテレビ局、スポンサー、東光本社、撮影所、造型会社、レコード会社などを行ったり来たりする毎日が始まったわけだが、たまに撮影所に立ち寄り長門組を見学すると、新人の五人が鬼監督の洗礼を受けて、滅多刺しになっている現場を目撃するのが常であった。

「バカか、お前!」

「クソボケッ!」

「どこに耳つけてんだ、てめぇ!」

「転がれ、転がれ、転がれ!」

「死ね!」

「台本変えてやる。さっさとヒロインやめちまえ!」

「お前失格、田舎に帰れ!」

 西川正秀、阿部タケル、成宮良一などの男性陣は長門のシゴキに苦痛な表情を浮かべながらも耐えていたが、女性陣の松下桃、安木梨央はそういった指導に耐え切れず涙を流していた。そういう時は、アシスタントラインプロデューサーの北島衣里がさっと駆け寄り、彼女たちを励ますのだった。ヒロインの二人は、まだ十代の女の子たちだった。演技は確かに拙く、長門の指示をまだ咀嚼できていないようだった。

「泣いたら何でも許されんのか、女の涙ほど世の中で信用できないものはない! どうして目の前に怪獣が立っているのに、そんなへらへらした顔で立っていられるのかなあ! 台本が頭ン中に入っていれば、自ずと自分が演じる表情が内面から滲んでくるだろうが……ホラ、そこでピーピー泣くんじゃなくて、さっさとこっちに戻って仕事をしろや!」

 長門は手にしていたペットボトルのお茶を松下桃と安木梨央に向かって投げつけた。現場に何とも言えない後味の悪さを残す。

 ―何が役者に対しては優しくなるから、だ。全然最初の約束が守られてないじゃないかと真由香は内心溜息を吐いた。

 当然こういった『長門のチェック』が主役の五人だけに向けられるわけではない。スーツアクターの彼らや、スタッフの動きが少しでも拙くなろうものなら、その攻撃の矢はすぐさまそちらにも向けられた。

「もう少し早く動け!」

「山口、遅い!」

「ドアホ!」

「佐脇、チンタラするな!」

「バツだよ、お前バツ!」

「消えろ!」

「北島、昔から何も変わってねえなお前。仙台に帰れ!」

 真由香の目からは、きびきび健気に動いているようにも見える北島衣里に対しても長門の不満は尽きないようで、そう言って怒鳴りまくっていた。ただそれも、長門のこだわりで撮影が押しまくり、本来十七時までしか撮影許可の下りない石神井のゲームセンターでの撮影を延長するしないで長門一人が我儘を言った結果であった。衣里は健気にも「すみません、もう一度掛けあってきます」とぺこり頭を下げて、またどこかにバタバタと走り去っていった。長門は舌打ちすると、つまらなさそうにマイルドセブンに火をつける。

 また自分の領域外にも口を出す『領空侵犯の長門』ぶりも健在であった。たとえばアクションシーン。戦軍には本編監督とは別途にアクション監督の小笠原徹がいる。彼は立ち回りやスーツアクターへの指導、アクションシーンのカット割りといった業務に対する権限が与えられている。戦軍では従来本編・アクション・特撮と演出業務を分担するトロイカ体制を敷くことで、進行を円滑に進めていくのがルールなのだが……。

「オイ小笠原、お前の仕切りがひどすぎる!」

「そこのジャリジャリ兵、邪魔!」

「それでもお前ら地球を守る正義の味方か!」

 ところかまわず口を出す長門清志郎であった。小笠原はスーツアクター上がりの三十代後半、筋肉隆々のエネルギッシュな男だが、長門に逆らえるわけでもなく、しゅんとしている。だが当然良い気分でもないだろうから、これまた現場に何とも言えない気まずい空気が流れるのである。

 


 撮影現場に顔を出すたび、心なしか真由香に対するスタッフキャストの態度も冷たくなっていくのを肌で感じるようになった。長門を戦軍の現場に復帰させたのがプロデューサーである自分であることは、もう全員に知れ渡っていたからだ。今回長門とは初めての仕事になる照明技師の河野圭介はでっぷりとした腹を揺らせながら「とにかく指示が細かい。でもわりと抽象的。あまりにも感覚的過ぎて苛々する。仕上がりの予想がつかない。ホントにあのカントクで大丈夫なの?」と真由香に面と向かって文句を述べた。そういった苦情については、真由香はただ頭を下げるしかなかった。

 しかしそれでも以前の長門に比べれば、まだその現場運びはスムーズになったとの評も一部では聞かれた。撮影技師の植田章弘は「あいつ本当に四年何も撮ってなかったのかねえ。あまりに演出に迷いがないから、つい先日までどこかの現場にいたんじゃないかと思ったよ」と首を傾げた。真由香がカントクと仲良く現場を動かしてください、と頭を下げると「冗談じゃない」と一蹴された。

「いいシャシンを撮るためなら喧嘩だってする、罵り合いだってする。なかよしこよしで仕事なんて出来るか。アイツは信用できる監督だから、俺も安心してケンカが出来るし、カメラだって回せるんだ」と早口で言われた。

 本当にすまないねえ、みんな―真由香はスタッフキャスト全員に心からそう詫びた。ただ、作品を成功させるためにはこのカントクの力が必要だからと自分に必死に言い聞かせるしかなかった。



 撮影見学を昼過ぎで切り上げると、東光本社に戻る。本日はキャラクターデザイナーと怪獣デザインについての打ち合わせがあった。会議室にはデザイン部の人間はまだおらず、槇憲平が『サンダーフォース』の台本を捲っていた。最終回の組の撮影がそろそろ始まる頃だった。

 真由香は槇に事の次第を伝えると、彼は「まあ、予想通りかな」としみじみと言う。

「こういう風になるのは目に見えているから。あの人はとにかく入り込んでしまう。イマドキの若いゆとり世代は、ああいう鬼演出に順応できるんだろうか」

「みんなケチョンケチョンにやられてますね」

「阿部タケルなんてこの前NG二十八回食らってたよ。賢者ユンゲルから剣を貰い、天に翳すシーン。……正味七秒くらいのシーンに撮影二時間だ。タケルは撮影が終わったあと、その場にへたり込んじゃって。かわいそうに」

 オーディションの時に阿部タケルの起用に猛反対していた槇であったが、撮影現場における阿部の撮影に対する真摯な態度に最近では頑なな態度も軟化していた。

「何度も言うが、あの人の腕は認める。でも今の時代、ああいう鬼監督はどうなんだろうか。スタッフの意を汲むのもプロデューサーの役目なんで、力は認めながらも数年前に長門監督をローテから外したんだ。その決断は今でも間違っちゃいないと確信している。でも、シリーズはここ数年史上類を見ない不振に喘いでいる。組みやすい相手ばかりと仕事をしてきたツケが回って来たのかもしれない」

 『長門監督を囲む会』で長門に指摘された内容を、槇自身はまだ引きずっているようだった。頭を掻く。「なので起爆剤は必要なのかもしれない。今、戦軍の現場には長門清志郎が求められてるのかも」

「スタッフの中には長門監督を信頼できない人もまだ多くいます。仕上がりが予想つかないって困惑してます」

 真由香の言葉に槇は首を振った。「そりゃ、件のスタッフは現場でのあの人しか知らない訳だから。じゃ、そのスタッフはそのうち目の当たりにするだろうな。……カントクは魔術師なんだよ」

「魔術師、ですか?」

「長門の魔術にびっくりさせられる。……いずれ、わかる」

 真由香が話の続きを聞こうとしたが、そこに雨宮をはじめとするデザイナーチームがやってきたので、結局話の続きはうやむやになった。



 十一月上旬。

 ラインプロデューサーの天野よりパイロット長門組の撮影は予定通りでほぼクランクアップしたとの連絡が入った。ここから編集、音入れ、アフレコと長門組は仕上げに入る。撮影部隊は休む間もなく、第四話・第五話の北村組がクランクインする。

 本来なら東光テレビプロに打合せに行く予定だった真由香はその日、どうにも体の調子が悪かった。頭がぼおっとして、意識が朦朧としている。そこで、その日の自分の業務を後輩の小曽根卓に引継ぎ、やむなく早退することにした。

 マンションに戻ると上下をジャージに着替えて、すぐにベッドに倒れ込んだ。多分一日休めば躰の調子は回復すると信じたいが、とにかく疲れきっていた。熱っぽい。

 一年間の長期テレビ番組のレギュラーを受け持つことの過酷さが身に沁みてわかる。おかしなものだと自嘲的に笑う。まだ放送が始まってもいないのに。

 ぶるぶると子犬のように頭を振りゆっくりと起き上がると、電話器をこちらに引っ張りよせた。今が昼の十四時過ぎだから、あちらは深夜0時過ぎ。もしかしたらもう就寝しているのかもしれないが、真由香はプッシュボタンを一つ一つ押していった。番号はすっかり記憶していた。

 コール音。しばらく待たされる。眠っているのか、それとも家にいないのか……そんなことを考えていると、「ハイ」と懐かしい声が耳に入ってきた。多分半年以上はその声を聞いていなかった。

「―わたしです。真由香」

 しばらく間があったが、「随分懐かしい声を聞いた」と落ち着いたバリトンが電話線の向こうから聞こえてくる。「疲れてるんじゃないか。今、そっちの仕事は大変なの? まだホラー作ってるの?」

「今はホラーじゃなくてテレビに移ったの」真由香は唇を舐めた。「……戦軍って知ってる?」

「何それ?」

 そこからひとしきり、電話の向こうの男に自分の今携わっている仕事内容について説明した。本来なら社外の人間なので、業務内容の説明を行うのはご法度であったが―。

「僕は見たことはないけど、日本の知り合いにそういうのに異常に詳しいのがいるな。頑張ってるんだな、いろいろと」

「そんな薬にも毒にもならない感想しか言えないの?」

 自分でもつい舌っ足らずな声になっているのを自覚しながらも、つい口にしてしまった。もう、そういった関係でないにもかかわらず。

「じゃあ新しい恋が始まる余裕もないのかな」

「全くない。今わたしの周りにいるのはヘンな男たちばっかりで」

 たとえば還暦過ぎたエキセントリックな老監督だったり、メガネを掛けたチョイ内向的なオタク系プロデューサーだったり……ただ、わざわざ口には出さない。

 しばらく、電話線の向こうの男は沈黙していた。あまりに無言が長く続いたので「もしもし?」と問いかけると「―結婚するんだ」と相手側が切り出してきた。

 内心心臓を一瞬鷲掴みにされた感覚に陥ったが、「いつ?」と普段通りの声で問い返せたと思う。

「来年二月十四日。相手はこっちで知り合った女性で……」

「聞きたくないよ」真由香から話の続きを遮った。「ついでに言っておくと、おめでとうって言葉は言わないから」

 自分でもどうしてこんな言葉を口にするんだろうと思いながらも、止めることが出来なかった。

 あの人は今、あちらでどんな顔をしているんだろうと思いながら受話器を握りしめた。知らずその手が石のように固まっていた。

「僕は君と出逢えてよかったと思ってる。君が幸せになってほしいとも思っている」あの人は淡々とそう述べた。「今、いろいろと大変だろうけど、そちらでの仕事頑張ってほしい」

 いろいろな思いが込み上げてきたが、結局何も言えなかった。軽く息を吐くと、すっと気持ちが楽になるのが分かった。

「もうそちらには電話しません。あと、その人と幸せになってください。これは心からそう祈ってます」

「ここは引っ越しする予定なんだ。新しいアパートメントに移ったらまたその連絡先を……」

「いいよ、別に」

 話の続きを遮り、そう言い切ったあと真由香の脳裏に今までのいくつかの想い出が甦ってきた。もう何年も前にもなる記憶だった。

 あの人は柔らかい声で切々と真由香に語りかけてくる。

「もしかしたら耳に痛い話かもしれないけどよく聞いて。君はよく言えば純粋で真っ直ぐな人だ。ただ悪く言えば直情径行、ただの暴走機関車だ。プロデューサーという職業の人に対してこういうことを言うのは釈迦に説法かもしれないが、広い視野で仕事をしてもらえたらと思う。見落としていたり、些細な事柄であったとしてもそれが意外に大事だったりする。とにかく……」

「―おやすみなさい」

 話の途中だったが、そっと受話器を置いた。

 そしてさようなら、と心の中で呟いた。

 向こうからの折り返しのコールはなかった。真由香は枕に頭を載せると、天井を見上げた。

 電話線の向こうの相手は、真由香とは同学年で某商社に勤めていた男だった。知人の紹介で知り合い、二年間くらいは付き合っていただろうが。それまでも何人かと交際してはいたが、真由香が初めて結婚の二文字を意識した男性だった。いままでの相手には感じなかった知性やきらめきが、とても目映く感じられた。

 ある日、男は真由香とデートをした帰り、行きつけのバーでこう切り出してきた。商社を辞めて転職することにした。転職先はニューヨークのウォール街に本拠を置く金融商社。来月日本を離れる……男からの話はそれだけだった。それ以上、特に話の続きはなく真由香は「そうなんだ」としか返事が出来なかった。別れとはこんな形で唐突にやってくるものなんだなと思った。

 男からは時折レターが真由香のもとに届いた。それが一時期親密だった女性に対する態度として相応しいものなのかはわからなかったが、やがて真由香も気まぐれで電話をかけるようになった。それから自分の仕事で悩みがある場合は、時折気晴らしの話し相手になってくれるようになった。

 ……でも、それも今日で終わりかな。

 知らないうちに躰の調子が軽くなっているのが分かった。最近飼い始めた熱帯魚のグッピーが、部屋の片隅で何も知らずに呑気に泳いでいる。

 多分明日は仕事を休まなくてもよさそうだ―真由香はふっと息を吐いた。



●●●●●


 

 ある人物はここ最近、非常に「特異」な体験をした。

 いや、「特異」というのは言い過ぎだった。まあ、世の中一般ではごくごくありふれた、平凡な体験であるといえる。

 どこにでもある、日常の中の一コマ。

 成り行き上、という形容もあながち間違いではないが、男に対してある人物が仕掛けたが故の結果ともいえる。ともあれその行為に対し別段後悔するわけでもなく、さりとて感慨もなかった。

 そしてその体験がきっかけになり、ある人物はとある発見を偶然にもしてしまった。多分、まだ他の誰にも気づかれてはいない、その発見。

 ある人物の目は節穴ではない。お見通しなのである。

 意外性はある。だが、まあさもありなんという感じもする。

 これは他の者がどう思うかどうか。

―たとえば東光。

―たとえばテレビ太陽。

―たとえば視聴者。

―たとえば宮地真由香。

 その発見については、もしかして何かしらの料理のしがいがあるかもしれない―。

 ある人物はずっと東光の女プロデューサー・宮地真由香を中傷する書き込みをネットの巨大掲示板で「魚」名義で続けてきた。嘘も辞さず、に。最初のうちは自分なりに満足していた。ただ、ある時点でその行動に虚しさしか感じないようになっていった。考えてみればそれは当たり前のことであった。ネット上での中傷なんて、所詮は「トイレの落書き」である。大多数の誰もが信用なんてしない。

 蟻が巨象に戦いを挑むようなものだ―以前感じたその感想は、まさにその通りなのだった。いや魚だから、金魚が鯨や鮫に一人立ち向かうと言い換えた方がよいかもしれない。

 ある人物の目からは、宮地真由香は必死になって『飛翔戦軍スカイフォース』のプロデュースに取り組んでいるようにも感じる。ただ、ある人物の歪んだ精神バランスではそれを看過できず、番組自体を何とかぶっ壊してやりたいという破壊衝動を抑え込むのに必死だった。

 偶然に知った、その発見。

 これは爆弾だ。

 これをうまく料理することで、宮地真由香を苦しめることは可能か否か……そんな妄想にうつらうつらと思いを馳せるのであった。



14



 二〇一三年十一月末―。

 もうすぐ師走に入るこの時期、『稲妻戦軍サンダーフォース』は一足先にクランクアップを迎えていた。今、その最終組を手掛けていた監督の阪口大輔はスタジオで編集作業の真っ最中であると聞く。

 明日は出版社や記者連中を掻き集めて、都内某ホテルでスーパー戦軍シリーズ第三十四作目『飛翔戦軍スカイフォース』の番組発表会が予定されていた。その発表会では、プレス向けに第一話の一部分を特別に上映する予定となっていた。発表会あとも媒体向けに真由香はインタビューに答えたり、パイロット監督の長門清志郎との対談を行わなければならず、予定が目白押しだった。

 まだ第三話まで全てが完成しているわけではないが、その第一話だけでもスタッフキャスト一同に見てもらいたいと思い、本日だけは撮影を夕方までで切り上げ、撮影所内の最も大きい試写ルームに制作チーム全員を招集した。自分たちがどれだけ汗水たらして正味二十四分のドラマを作り上げるのかを分かってもらいたいという狙いもあった。ただ、この行事は戦軍シリーズの伝統であるという。

 試写ルームはちょっとした映画館並みの大きさで、収容席はほぼすべて埋まっていた。その数百五十くらい。脚本家の能勢朋之や、東光本社からも堤谷部長、そして石原専務も駆けつけてきている。

 上映が始まるまで真由香の緊張は解けなかったが、不思議に心が上気し浮ついた心持でもあった。当然真由香はプロデューサーなので、そのほぼ完成品は何度も鑑賞している。なので、作品の出来について皆がどういう感想を持つのか非常に気にはなったが、不思議に落ち着いた気分だった。

―自信はある。

 作品上映が始まった。

 皆、スクリーンに釘付けになっている。

 一シーン一カット、監督の長門清志郎は情熱を傾けて最高の仕事をしてくれた。特に彼は編集では抜群の腕を見せた。何度かその作業に立ち会ったが、事細かな指示を編集技師の岡林典夫に行い、またその意を汲んで岡林も最高のパフォーマンスを見せた。以前、槇が「長門の魔術」と表現していたことがあったが、長門の真価はこういった入念な編集仕事も含まれていたのかと真由香は改めて感じた。

 今、その老監督は真由香の数列前の斜め右の席で腕を組み、退屈そうにスクリーンを見つめている。監督は毎回毎回イヤになるほど、作品を見続けないといけないだろうから、今の時間は心底退屈で、そして大層苦痛なのだろう。

 こうしてあっという間に二十四分は過ぎていった。エンディングのエンドロールは多少場内がざわめいた。真由香の示した意向通りに、関わったスタッフ全員の名前を毎週毎週テロップに載せることにしたためである。……場内のどこかで見てくれているであろう、アシスタントラインプロデューサーの北島衣里はどういった思いで、自分の名前を見ているのであろうか。

 暗かった場内が明るくなると、知らずどこかからか拍手が沸き起こってきた。最初は静かな動きであったが、それはうねる様な波へと次第に変わっていた。照明部の九十九君という若い男の子が「ブラボー!」と叫んでスタンディグオベンションをすると、皆もそれにつられ次々と立ち上がった。

 鳴り止まぬ喝采。

 試写ルームは一瞬にして、何とも言い難い熱気あふれる空間に変化した。

「傑作ですね!」

 真由香の隣にいたテレビ太陽の海老沢孝夫が興奮したように声を掛けてきた。普段はおとなしい、ポーカーフェイスの男だったがその興奮を隠しきれないようだった。

 ほんの僅かだが、長門と目が合った。瞬間、老監督は胸を少し反らせて、顔を心持ち上に向けた。どうだ、俺の力を思い知ったか……そう誇示しているように感じられた。真由香は長門に最敬礼する。

 能勢朋之がつかつかと長門に歩み寄ってきた。脚本家は、上気した顔で長門にしきりと話しかけると、強引にその手を握りしめていた。多分彼もそれなりにこの第一話に満足してくれているのかと思えば、真由香もほっと一満足だった。

「相変わらずだったな。……長門は相変わらず、上手い」

 真由香の隣に座っていた撮影監督の植田章弘が腕を組みながらぽつりと言う。「職人だよ、奴は」

「これから一年間、よろしくお願いしますよ」

 真由香の言葉に苦笑しながら植田は頷いたが、でもなあ、と首を傾げる。「やっぱり、気になるんだなあ」

「どうしました?」

「前にも言ったと思うが、長門は本当にこの五年余り、何も仕事してなかったのかねえ。あまりに指示に迷いがないからつい錯覚してしまうんだが、本当はどこかの現場で何か撮っていたんじゃないかという気になったなあ」

「どこかの児童劇団で講師としてやってたようですよ」

 真由香の言葉の途中から首を振ると、植田は立ち上がりながら「違う」と呟く。

「そういう余技の仕事じゃなくて、映像の仕事ということだよ。ビデオ撮影にもすんなり順応できているし。あいつは五年前までフイルムだっただろ。ビデオは初めてだったはずだ」江戸っ子カメラマンはごま塩頭をポリポリと掻いた。「……まあ、あいつが今まで何してようが、俺には興味ないけどな」

 ベテラン撮影技師はじゃあな、とそのまま立ち去って行った。自宅はこの大泉にあるらしく、いつも自転車で撮影所にやって来ていた。

 長門清志郎の空白の五年余り―か。深く考えたこともなかった。ただ、ウィキペディアを見ても特になにも記されていなかったし、こちらとしては老監督の浪人生活が長く続いているものと理解していたのだが。そもそも父親ほどの齢の離れた男に、この五年間ナニやって生きてきたんです? なんて畏れ多くて聞けるわけがない。

 サングラスの老監督は能勢以外に、今は他のスタッフ数名と何やら話し込んでいた。ただ改めて思うことだが、この番組の立ち上げをこの老監督に託して良かったと今更ながらに思う。それほどまでに、作品の出来に圧倒された。あの時、駒場東大駅前のドトールで初めて長門清志郎と交渉した日を思い出す。六月初めの頃、梅雨時のシーズンだった。もう半年近く前で……。

 真由香は少し引っかかった。ドトールで対峙した時に長門が言っていたあの言葉。……いや、そんなに特別にヘンなセリフではない。ただ今更ながらに、植田章弘の感想を聞いた後で組み合わせると、多少の違和感を覚えるあの言葉。

 いや、まあ別にどうでもいいか―結局真由香はそう思い直すことにした。

 気が付くと、長門と能勢、他のスタッフの姿は見えなくなっていた。



 その日は撮影がないので、一部のメンバーは呑みに行くようだった。皆、ロビーからそのまま外へ出ていく。ホールで主役の五人組が輪になっていたので、真由香はその輪に加わり自分たちの勇姿がスクリーンに映っているのはどうだったかと感想を聞いてみた。

 無茶苦茶感動しました、とスカイレッド役の西川正秀が声を震わせた。

「ようやく本当に自分たちがこの地球の平和を守っていくんだなって改めて感じることが出来ました。嬉しかったです」

「僕は長門監督の演出に痺れました」阿部タケルはそう感想を述べる。目に真剣な光が宿っている。「一つ一つの計算がちゃんとあって、それが積み上がるとああいう映像美に仕上がるんですね。まだまだ自分が未熟な事も良くわかりましたし。また明日からの撮影、頑張ろうと思います」

 その他、ケチョンケチョンにダメ出しを食らっていた女の子二人は「自分を想像以上に綺麗に撮ってもらえている」と長門演出を称賛していた。彼ら全員がまた明日以降も、より撮影に邁進してくれることを祈った。

「少し瘠せてないか?」

 主役の五人を外に見送ったあと、そう言って真由香の肩をポンと叩いたのが、東光株式会社専務取締役の石原康だった。石原とは真由香が映画部にいた頃、辞令を受けて以来の邂逅だった。

 真由香は愛想笑いを浮かべると、専務に向き合った。「ハードですからね、予想以上に。ここまでテレビの仕事がハードだとは想像もつかなかったです」

「でもちゃんとやり遂げていると堤谷さんからは聞いている」

 堤谷の姿は見えなかった。もう既に本社に戻っているのだろうか。

「そういえば、今このタイミングで話しておこうか」石原はネクタイの歪みを正した。「あなたを映画部からテレビ部に僕が引っ張ってきた理由」

 ああ、そういえば真由香はこの目の前に立っている男の意向で、今こうして戦軍の仕事に従事しているのだった。結局あの時、その理由については「いずれ時期が来たら話す」とはぐらかされたのだった……。

 その理由について多少の関心はあったが、真由香は首を振ることにした。

「―いや、今はまだ聞きたくありません」

「どうして?」

「戦いはまだ始まったばかりなんで。……専務はこれから、わたしをテレビに引っ張ってきたのが良かったかどうかをお決めになると思いますから、こちらにとってまだそれを聞く心の余裕がないんです。戦いが終わった後に伺います。だから、今は結構です」

「ふうん」愉快気に石原康は唇を指で撫でた。「変わらないね、君は。あの時のまんまだ。最終面接のあのときのまんま」

 躰には気をつけるんだよ、といって石原は片手をあげてそのまま去って行った。

 それは違う、と心の中で石原に首を振る。あの時の自分と今の自分は違う―。

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