第35話 お菓子の行方3
もう部活終わりに教室へ行く理由もないのに、いつもの癖で鞄を置いてきてしまった茉莉花は、2つの紙袋を持って1年A組へ向かった。
百瀬さんは私よりずっと早くに家庭科室を後にしたし、いつもの倍の時間をかけて片付けた。だから、あの2人はもういないはずだ。
そうわかっていても、先週見た光景が頭をちらつき、教室に近づくにつれ心臓の鼓動が速くなる。
手に持った紙袋をぎゅっと握り、早鐘を打つ心臓を落ち着けるように深呼吸をして、茉莉花は廊下の角をゆっくり曲がった。
曲がった先には、誰の姿も見当たらなかった。
予想通りの展開に、ふっと息を吐く。心臓は落ち着いたが、心のどこかに空白ができたような気がした。
百瀬が王崎にパウンドケーキを渡している姿を見ることがなくてよかった。
それは茉莉花の紛れも無い本心だ。
しかし同時に、王崎ならば百瀬からパウンドケーキを受け取った後もここで待ってくれているのではないかと、心のどこかで期待をしていたことに気がついた。
今朝、家庭科部で作った物は王崎には渡せないと茉莉花自身が断ったにも関わらず。
自分に都合のいいように勝手に幻想を抱きすぎでしょ。
自分本位すぎるな、と茉莉花は自身に苦笑しつつ教室の後方のドアを開けた。
朝から降っている雨はまだ止まないようで、その暗雲によって電気のついていない教室は暗くひっそりとしていた。
誰もいないと思っていたその薄暗い教室の窓際に、ぼんやりとすらりと背の高い人影が見える。
その人影に、茉莉花の心臓がまた跳ねあがる。
捨てたはずの期待がまたむくりと起き上がってきた。
電気をつけることも忘れ、茉莉花はコツリコツリと窓際へ足を進めた。
「あの…」
呼びかけにぴくりとも反応しない人影のもとへたどり着き、その顔を見て茉莉花は息をのんだ。
「なんて顔してるの、速水君」
そこにいたのは、王崎どころか、爽やかさを微塵も感じさせない魂の抜けたような表情の速水だった。
彼は茉莉花の手元の紙袋に目線を移すと深いため息をついた。
彼のその落ち込んだ様子は、つい最近似たシチュエーションで目にしている。
「…もしかして、また百瀬さんのつくったお菓子下手とか言ったの?」
「…悪いかよ」
「悪いでしょ。折角この間のことだって謝って、仲直りしたのに」
「俺だって今回はちゃんと美味しいって素直に言うつもりだった!けど、あんなかわいい…いや、きらきらした瞳で見られるとつい…」
「つまり百瀬さんのあまりのかわいさに頭真っ白になって、思ってることと逆のことを言ってしまったのね」
「か、かわいいとか思ってねぇし」
頬をうっすらと赤らめながらぼそぼそと反論する速水。
全く説得力の感じられないその言葉を茉莉花はハイハイと雑に流した。
「それで、一生懸命作ったパウンドケーキを速水君に貶された百瀬さんが『けーちゃんなんて知らない!』って教室を飛び出した後、速水君はずっとこことで落ち込んでいたの?」
声を少し高くして百瀬の真似をしながら茉莉花が尋ねた。
小学生男子並みの速水君じゃあ、百瀬さんを追いかけるなんて行動できないだろうし。
茉莉花が心中で失礼なことを思っているとも知らない速水が、彼女の質問に瞳を揺らした。
「亜依を追いかけようとしたら、教室の前であいつ、王崎にもお菓子をあげてて…」
「ああ、うん」
皆まで言わずとも容易にその時の様子が想像できる。
あの二人の空間を見てしまったら、落ち込むのは無理もない。しかも、二週間続けて。
ただ、そもそも百瀬が王崎にお菓子を渡すきっかけとなったのは速水だ。
王崎のように褒めろとは言わないが、速水が素直にクッキー美味しかったと彼女に伝えさえしていれば、百瀬はその場で全てのクッキーを速水に渡していただろう。そうすれば、王崎だって百瀬と仮にぶつかっていたとしてもクッキーの話にはならなかったはずだし、今日のパウンドケーキだって王崎に渡す流れになっていなかっただろうに。
結局、速水君の自業自得でしょう。
そう口にしようとしたが、速水の表情を見て思いとどまる。
「王崎みたいに言えなかったし、これで二回目だし…。俺、もう亜依に嫌われて…」
自分で口にしているうちに更にネガティブ思考になったのか、速水は言葉を詰まらせた。沈黙の代わりにすんすんと鼻を鳴らし、不安の色をいっぱいに含んだ目には涙の膜がうっすらと張られている。
先週も落ち込んで茉莉花相手によく喋っていたと思ったが、今日はまさか饒舌になるどころか、泣くのだろうか。
「何も泣くことないでしょう。また謝ればいいじゃない。大丈夫よ、あなた達幼馴染なんだもの」
「な、泣いてねぇよ!馬鹿か!」
「はいはい。それに、百瀬さんは謝ってくる相手にいつまでも怒るような子じゃないでしょう?」
「そりゃ、あいつは優しいから…」
「なら心配することなんてなんにもないじゃない」
茉莉花の慰めにも未だ不安を拭いきれないのか、速見の返事は暗い。
そんな彼に茉莉花は紙袋を1つずいっと突き出し、押し付けた。
「ほら、これでも食べて元気出して。部活で作ったパウンドケーキよ」
「…うま、ふわふわだ」
つい数秒前まで泣きそうになっていたくせに、チョコマーブルのパウンドケーキを一口途端に目元を綻ばせるのだから、今ないた烏がなんとやら、とはまさにこのことだろう。
全く、漫画じゃあ、百瀬さんと再会するまでに立派になるとか言ってたわりに、見た目以外全然成長してないじゃないの。
呆れつつも、和やかな目を向けている茉莉花に、速水がふと思い出したように言った。
「そういや先週は誰にもあげる予定がないからって貰ったけど、これもよかったのかよ」
「ええ。だから遠慮せず食べてね」
「ふーん、うまいのにもったいねぇな」
しげしげとパウンドケーキの袋を眺める速水の表情があどけない。
「…ねえ、もしよければ、次回からも受け取ってくれないかしら」
「は?」
「あ、いえ、百瀬さんからも貰うし、迷惑よね。ごめんなさい、なんでもないわ」
速水君は、百瀬さん以外には基本的興味ないんだから、こんな提案したって拒否されるに決まっているのに。
だいたい、速水君としっかり話したのだって数えるほどなのに、いきなりこんなこと言われたら彼だって驚くに決まってる。
なんでこんなこと言ってしまったのかしら。
泣きそうな姿に同情したのか。
お菓子を美味しそうに食べてくれて、褒めてくれたからか。
普段鋭い目つきの彼が、幼さを感じさせたために庇護欲を刺激されたからか。
我に返った茉莉花が首を傾げてると、速水が了承の言葉を口にした。
「え?」
「だから、くれるっていうなら貰ってやるよ。お前のお菓子うまいしな」
見上げると、速水の真っ直ぐな視線とぶつかった。
黒々とした瞳の中には、ぽかんとした顔の茉莉花が映っている。
「それは、どうもありがとう…」
「俺は食べるだけだってのに、変なやつ」
無愛想な顔でも、泣き虫だった幼い頃を思い出させる顔でもない。
普通の高校生のような顔でほんの少し笑った速水を、茉莉花はまじまじと見つめた。
茉莉花の視線になんだよ、と問いかけた彼に首を振る。
自分の席から鞄を取って、窓際でドライフルーツのパンケーキを食べている速水に声をかける。
「それじゃあ、私は帰るけど、速水君もあんまり遅くならないようにね。最終下校時刻を知らせる放送がそろそろ鳴る頃だから」
「だから子供扱いするなって」
彼の反論に返事をせず、茉莉花は暗い教室を後にした。
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