第36話 役者が揃った
勉強は得意ではあるが、趣味ではない。
そのため、受験生でもなければ、今のところ授業でグループでの課題を出されたこともない茉莉花が自習室を使うことは滅多にない。
自習室の小部屋を使うことに至っては5月の親睦ウォークの打ち合わせ以来だ。
あの時は本来4、5人用の部屋を王崎と茉莉花2人で使ったが、今は4人で使っているため机の上が以前より更に手狭になっている。
「そこはまず△OABに余弦定理を適応して、その後ベクトル表示の大きさを成分になおすの。これで、問われてる内積の成分表示が導かれるわ」
茉莉花はさらさらとシャーペンを走らせ、数式を書き込む。全て書き終わった後でノートを向かい側に座っている速水に向けた。
彼の数学の教科書を捲り、枠線でかこまれた公式をマーカーで色付けたところで、速水の視線がチラチラと茉莉花の横に向けられていることに気づいた。
そこにはとろんととろけた表情の百瀬がいた。
彼女の視線は手元の教科書やノートではなく、教科書を読んでいる王崎に注がれている。
「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともがな。お会いしても再び会うことが難しい夢のようなこの世だから、夢の中にそのまま消えてしまいたいという意味だね。夢が実現するという意味の合う世と男女の仲の意味の逢う世の掛詞が使われてるから、テストでは注意したほうがいいよ」
甘くまろやかな声で和歌を詠みあげた王崎は、茉莉花の横に座っている百瀬の教科書を指差した。
百瀬は夢見心地の表情のまま、王崎に指差された箇所にマーカーを引き、小さく丸い文字で掛詞、と書き込んだ。
「はぁ、かっこいい…」
「そうだね。光源氏は多くの女性に心を寄せていたけれど、それでも彼にとって藤壺は特別な女性と言われているんだ。彼女に会えないとなると切ない思いをこぼさずにはいられなかったんだろう。ひたむきな想いを持っている男性だよ」
「へっ、あ、そうだねっ。熱烈で源氏すごい!」
顔をあげて微笑んだ王崎に百瀬が慌てたように同意した。
百瀬さんのかっこいいって感想は、王崎君に向けてだと思うけど。
隣で行われているやりとりに、茉莉花は心の中でツッコんだ。
心の声が思わず口に出てしまったのだろう。
今頃百瀬は「危なかった〜」と内心ドキドキしているに違いない。
その証拠に彼女は胸に手を当ててほっと溜息をついてる。
無意識のうちに声に出してしまう気持ちはわからなくもない。
少し俯き気味に目を伏せ、教科書を片手にうっとりするくらい魅力的な声音で恋の歌をよむ王崎の姿に、茉莉花も見惚れてしまった。
この場で彼に見惚れなかったのは、王崎の隣に座っている速水だけだ。
速水は見惚れるどころか、恨めしげに王崎を睨んでいる。
普段は無愛想で何を考えているのかよくわからない表情をしているくせに、百瀬が絡んだとたん泣いたり不満げにしたりと表情豊かだ。
俺が教える予定だったのに。
俺にだってあれくらいわかる。
かっこつけてんじゃねぇ。
って思いっきり顔に書いているよ、速水君。
今の速水君が女の子だったら、ハンカチを口に加えて「キィーッ!」とか悔しがりそう。
想像すると少し面白かったが、彼の右手に握られたシャーペンがミシミシと悲鳴をあげていることに気づいた茉莉花は、速水に声をかけた。
「速水君、次の問題いくわよ。5月なかばから今日までの範囲を全教科勉強しなきゃいけないんだから時間がないの」
「…」
「もう、速水君ってば」
呼びかけに気づいていないのか、無反応な速水に痺れを切らした茉莉花はノート上に硬く拳を作っている彼の左手を軽く引っ張った。
びくりと体を揺らした速水は目を丸くしながら茉莉花を見た。
「なんだよ」
「続き、しましょう」
「…お、おー」
左手を、何か確かめるように数回閉じたり開いたりした後、速水は先ほどの続きの問題を解き始めた。
百瀬さんが気になるのはわかるけど、私だって王崎君に教えてもらいたかった。
それなのに、現実はこれだ。
溜息をなんとか飲み込むが、隣の席のやりとりが聞こえてくると苦いものがこみ上げてくる。速水のことは嫌いではないが、好きな人とライバルが横で仲良くしている状況でいったい何をしているのだろうかと、何度目かになる自問自答をする。
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