第二章 動き始めた物語

第16話 はじまりの朝

「親睦ウォーク」後の浮ついた空気が薄れ、けれどもクラス内の雰囲気がなんとなく四月よりまとまってきた、そんな時期だった。


茉莉花はいつも通り登校し教室に入った。

いつも通り王崎の姿を自然と目で追うと、目が合い微笑まれた。

いつも通りその微笑に顔を赤らめ、なんとか微笑み返したところで、クラスがなんだかいつもと違う雰囲気に包まれていることに気づいた。

男子生徒は恐々と、女子生徒は心なしか嬉しげにそわそわしている。


「おはよう、茉里花ちゃん」

「おはよう、王崎君。どうしたの?この空気」

「あぁ、それは多分…」


ドアの近くで教室の雰囲気に戸惑っていると、王崎がやってきて、茉莉花の質問に窓際の後ろへ目線をやった。

窓際から二列目の後ろの席。

茉莉花の隣の席には、珍しく速水が朝から席に着いていたのだ。

机に突っ伏して寝ているようで、肩がゆっくりと上下している。


「今までないわけじゃなかったけど、朝からいる時は大抵ギリギリの時間にきてたから、皆珍しがってるんじゃないかな。しかも、今日はおそらく彼が一番のりだよ」

「確かに珍しい、というかギリギリに来ないなんて、初めてじゃない?」

「だろうね。でも今日も出欠取ったらいなくなるのかな…。単位のこともあるし、心配だ」


王崎は憂いを帯びた表情で寝ている速水を見た。


ただのサボりの速水君のことまで心配するなんて、王崎君優しすぎるよ。


浮かない顔の王崎にさえも、胸をときめかせる茉莉花だった。


「って、王崎君エンブレムの横になんかついてる。ちょっとごめんなさい」


胸ポケットに刺繍されているエンブレムの横に、茶色い小さな欠片がついているのを見つけた。

佐古一高校の白い制服はお洒落ではあるが、少しでも汚れがあると目立ってしまうのだ。

床にはらうのは躊躇われたため、掌をお皿にして、茉莉花は王崎の制服から茶色の欠片を取り除いた。

はらった瞬間かすかに香ばしいパンの匂いがする。


「…パン?」

「…あぁ、うん、食パンかなそれ。ありがとう、茉莉花ちゃん」

「王崎君、朝はクロワッサンと紅茶って言ってなかったっけ?今日は食パンだったんだね」


王崎家の朝食がクロワッサンと紅茶と言われてすごく納得したのを覚えている。逆に、王崎が食パンを食べている姿はあまり結びつかない。サンドウィッチなら思い浮かぶのだが。

いや、もちろんいくら王崎が王子様フェイスだからと言っても、おにぎりだってカレーだって煮魚だって食パンだって食べるのだろうが。


そもそも、王崎が食べカスを制服につけるなんてあり得るだろうか。

人間なのだから、失敗くらいするだろう。

宮本茉莉花である茉莉花だって、前を見ずに速水にぶつかる失態を犯している。漫画で完璧な人間と謳われていても、やはり人間である以上、失敗くらいするに決まっている。

しかし、いくらなんでも朝ごはんをポロポロ零す少女漫画のヒーローは、どうだろう。


「いや、今日も朝食はクロワッサンと紅茶だったよ。この食パンは違うんだ。ちょっと、朝にね…」


怪訝な表情の茉莉花に王崎がくすくすと思い出し笑いをする。

その楽しげな表情に見とれているうちに、茉莉花はある推測を立ててしまった。


王崎に食パンのかけらがついていること。

待ちきれないと言わんばかりに早朝から登校している速水。

五月の中旬から末にかけてのこの時期。


これは、もしかすると。


「チャイム鳴ったぞー。ほら、席に着け。今日からこのクラスに新しい生徒が加わる。百瀬、入って来い」


チャイムと同時に入ってきた担任の萩原が、日常を壊す一言を告げた。


物語が始まってしまったのだ。


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