第32話 梅雨の行き道

例年より遅めに訪れた梅雨前線は、今までの遅れを取り戻そうとしているのか、連日滝のような雨を降らせた。


この激しい雨の中、無防備にローファーで登校するなどもってのほかだと判断した茉莉花は、梅雨に入ってからいつもショートレインブーツを愛用している。


佐古一高校では、6月から夏服へ衣替えする規則となっている。

晴天だった先週までは6月といえど、蒸し暑さを感じていたために夏服がちょうどよかったのだが、梅雨に入ってからというもの、夏服では少し肌寒く感じる。

ブレザーもスカートも真っ白な冬服が恋しいが、数日の我慢だ。

梅雨があければ、涼しげな白い夏服でも暑さを感じるようになるだろう。


白い夏服といっても男子生徒の場合は、ブレザーもパンツも真っ白な冬服と違い、襟に校章が刺繍された涼しげなマーメイドブルーカラーの半袖のワイシャツに白いテーパードパンツといった、爽やかさを感じさせる制服になっている。


女子生徒の場合、夏服は白いノースリーブスワンピースだ。

Aラインのワンピースは、ピタリとフィットするウェスト部分より下は、フレアなスカートに切り替えられており、歩くたびにふわりふわりと広がるデザインだ。

丸くカットされた襟から胸元にかけて少し大きめの滴の形をした白いフェイクボタンが縦に3つならんでいるより他はシンプルなワンピースである。

スカートの淵に申し訳程度に校章がちょこんと刺繍されている他は私服となんら変わりがない。


茉莉花の履いている踝丈の真っ白いエナメルのレインブーツは、佐古一高校の真っ白い夏服にぴったりだ。

つま先より少し上の部分についている鮮やかなパステルブルーのエナメルリボンが、歩くたびにふるりと震えるのも可愛らしい。


このパステルブルーのリボンに合わせて、傘は優しい色合いのベビーブルーのものを差している。丸みを帯びた形状に、フリルがついた傘は差していても勿論可愛らしいのだが、閉じたときはフリルが花ビラのようになって華やかだ。


茉莉花の容姿には少しかわいらしすぎるが、ショートレインブーツも傘も、雨の日を憂鬱に感じさせない雨の日の必須グッズである。


水溜りに気をつけて登校していると、後ろから「おはよう」と声をかけられた。


「王崎君、おはよう」

「凄い雨だね。先週までの晴天が嘘みたいだ」

「入梅した途端これだものね。最近ずっと傘が手放せないわ」

「傘もレインブーツも、茉莉花ちゃんに良く似合ってるよ。かわいいね」


雨の日しか見れない貴重なファッションだ、と降りしきる雨の中さらりと褒める王崎に未だ慣れない茉莉花は顔を赤らめ、少し早口で照れ隠しの言葉を述べた。


「こんな土砂降りだと、傘差しても制服濡れちゃうけど」

「あぁ、確かにね。うーん、レインコートでも着てくるべきだったかな」


横目で王崎の姿をちらりと見つめて、レインコートを着た彼の姿を思い浮かべた。

白いビニール製レインブーツのボタンを首元から裾までぴったりと留め、フードを被る王崎。

てるてるぼうずみたいで、かわいいと思うのは茉莉花の欲目だろうか。


「登下校も大変だけど、運動部員としては毎日の練習場所にも困るんだよな」

「バスケ部は体育館じゃないの?」

「バスケとバレーはそうだね。そこにグラウンドが使えない野球部、陸上部、テニス部、サッカー部も集まって皆で順番に体育館を使うことになってるんだ。半面にしたとしても、体育館を使う日は平日だと1日か2日で他の日はひたすら廊下で筋トレなんだよ」


そういえば、佐古一高校には図書館と自習室が別にあったり、家庭科室にオーブンが6つもある割には、体育館は1つしかない。

ダンスフロアもあるが、広さは体育館ほどあるものの、既にダンス部とチア部とバレエ部が使っているため、他の部を受け入れる余裕はないだろう。


「運動部は大変ね…」

「毎日活動してるからね。…家庭科部は、そろそろ活動日かな」

「えぇ、まぁ。今日が活動日よ」


家庭科部の活動日は、王崎も知っているはずだ。

何せ、4月からずっと毎回部活終わりに会っていたのだから。

しかし、彼は少し躊躇うような口調で活動日を聞いてきた。


茉莉花は少し傘を傾け王崎の表情をうかがったが、その横顔からはいつも通りの穏やかさしか感じられない。

再び傘の角度を元に戻して、前を見ながら王崎へ謝罪の言葉を口にした。


「…その、先週はごめんなさい。あの日は部活終わりに教室に行けなくて」

「いや、茉莉花ちゃんが謝るようなことじゃないよ。もともと約束してたわけじゃないしね。でも、残念ではあったな」

「残念?」

「うん、茉莉花ちゃんのつくったお菓子、食べることができなくて残念だった」


王崎君は優しい人だから、優しい言葉をかけてくれているのだ。

いわゆる、社交辞令だ。


そう心の中で言い聞かせながらも、茉莉花は傘を少し傾け、そろりと王崎の横顔を眺めた。


「毎回とても綺麗でプロみたいに美味しいお菓子をバスケ部の部活終わりに食べるのが、実はすごく楽しみだったんだ。それに」


そこまで言うと、王崎も傘を傾けて立ち止まり、茉莉花を見つめた。

彼の眼差しから視線を外すことができず、茉莉花も王崎の顔を見つめた。


ざあざあとうるさく降っていた雨音が、どこかぼんやりと曖昧になる。


「俺が美味しいって言ったら、茉莉花ちゃん、ありがとうって毎回嬉しそうに笑ってくれるよね。美味しいもの食べさせてくれて俺の方が感謝でいっぱいなのにさ」

「それは、王崎君がいつも私のお菓子を美味しそうに食べてくれて、それで褒めてくれるから」


王崎の優しい声音とふわりと向けられた穏やかな微笑みにたえられず、茉莉花はしどろもどろに言葉を紡いだ。


「だから、部活終わりのあの教室で茉莉花ちゃんと過ごす時間、俺は毎回楽しみにしてるんだ」


雨が降っているために、夏服だと肌寒い。

そう思っていたはずなのに、いつの間にか体温が急上昇して夏服でも暑く感じられる。

雨音が聞こえない代わりに、心臓の音がうるさい。


私もあの時間は毎回楽しみにしているの。

いつもドキドキしながら渡してるのよ。

美味しいって王崎君が笑ってくれて嬉しい。


たくさんの感情が次から次へとこみあげ、まわらない思考回路が言葉を探しているうちに、口が勝手に開いていた。


「今日はパウンドケーキを作るの」


だから今日も部活終わりに教室で待っていてくれる?


そう続けようとした瞬間、莉花の脳内に先週の光景が浮かんだ。


少し形の崩れたクッキー。

夕暮れ時、誰もいない静かな廊下で、微笑む王崎と頬を赤く染めた百瀬。


「…だけど、家庭科部で作るお菓子はもうあげる人が決まっていて…」

「そっか…。それは残念だな…」


眉をさげて寂しそうな表情をした王崎に、思考が勝手にくるくると回転する。


家庭科部で作るものだと、彼女と被ってしまう。なんとなく、それは憚られる。

けれども、部活以外ならどうだろうか。


そこまで考えたところで、するりと言葉が流れ出た。


「私、部活以外でもよくお菓子作るんだけど、その…よかったらまた受け取ってくれる?」

「え、俺にくれるの?うわあ、嬉しいなあ!」


茉莉花の言葉に王崎は、雨の中だというのに太陽のような明るい笑顔を浮かべ、弾んだ声をあげた。

彼の傘に弾かれた雨の滴までもがキラキラと光輝いて見える。


美しい光景に目を奪われた茉莉花は、お守りを握り締めるかのようにぎゅっと傘の柄を抱きしめた。


雨の音は、まだ遠い。

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