第31話 暗黙の約束3

茉莉花は不安を抱いたままぎこちなく足を動かした。

教室まで一歩一歩のろのろと歩き怠慢な動作で教室のドアを開ける。


「うわぁっ」


ドアのすぐ前には、速水が呆然とした表情でぬっと立ち竦んでいた。

顔に似合わない悲鳴を上げた茉莉花に、速水がゆらりと目線をうつした。


「…甘い匂い…」

「え、ああ、さっき部活でつくったクッキーが入ってるから」


低い声で唸るように呟いた速水に、茉莉花はクッキーが入った袋を掴んでいる右手を持ち上げ、ぶらぶらと揺らしてみせた。

「クッキー…」と鸚鵡返しに漏らした速水は、ガクリと両膝両手を床につけうなだれた。


「あんなこと言うつもりじゃなかったのに…。あんなこと言わなきゃ、クッキー、俺にくれたのに…」


そういえば、さっき百瀬さんが幼馴染にも下手くそって言われたとか言ってたな。


「…あー…百瀬さんのつくったクッキーに何か言ったの?」


現実にそんなポーズで落ち込む人がいるんだなと頭の端で思いながら、茉莉花は遠慮がちに速水に声をかけた。


「…なんで俺が亜依のクッキー食べたこと知ってんだよ…」

「家庭科部で速水君の知り合いって百瀬さんしかいないし」

「俺と亜依の関係…」

「幼馴染なんでしょう?前に私が直したくまのぬいぐるみのキーホルダーのことで、百瀬さんからお礼言われたし、百瀬さんの話からだいたい予測できたわ」


本当のところは『スイートチョコレート』で読んだからだけれど。


答えを聞いて黙り込んだ速水に、焦れた茉莉花が再度訊ねる。


「それで、幼馴染がつくったクッキーに何言ったの?」


今は人を慰めるような心の余裕がないため、さっさと帰ってしまいたいところだが、隣の席の誼としてこのまま放っておくのもきまりが悪い。

百瀬が言った言葉を聞いているため、どんな感想を言ったかも知っているが、質問するのが礼儀だろう。


「別に…関係ないだろ」

「あら、そう。それもそうね。じゃあ委員長として言うけど、もうすぐ最終下校時刻だからそろそろ教室を出てほしいの」


そう言って自分の席にある鞄を取り、教室から出ようとすると足元から小さな声が聞こえた。


「…あいつのクッキー…下手くそって言ったんだよ」


足元を見下ろすと、今度は膝を曲げて体育座りをしている速水がいた。

俯いて小さくなっている速水の姿が、『スイートチョコレート』で見た幼い頃の彼に重なる。

ぶっきらぼうで目つきも悪く言葉遣いも乱暴で、ピアスをつけてる不良のくせに、好きな子からクッキーがもらえなかっただけでうじうじと落ち込んでいる今の姿は、漫画で描写されていた泣き虫だった幼い頃の彼とそっくりだ。


そう思うと無視することができず、茉莉花は足を止めた。


「味も美味しかったし、ぐちゃぐちゃでも一生懸命作ったんだって伝わってくるクッキーだったから、美味いなって言うつもりだったんだ。でも、あいつを目の前にすると、つい…」

「憎まれ口を叩いてしまう、と」


小学生男子か、とツッコミしたくなったが、これ以上追い討ちをかけるのはよろしくないだろう。


「いつもそうなんだよな…あいつにだけ…」

「好きな子の前だと素直になれないのね」


しゃがみこんでうんうんと頷くと、一拍遅れて速水がはぁ!?と声を荒げた。


「な、なんで俺が亜依のこと好きだって…いや好きじゃねぇし!ただの幼馴染だ!」

「そんな顔真っ赤にして否定されてもね…。そもそも百瀬さんが転校してきてからずっと彼女に熱い視点を送ってるし、授業もあんまりサボらなくなったし、遅刻も減るって…分かり易すぎ、速水君」

「だから違うって!」

「もしかして、今日も部活終わりの百瀬さんを待ってたの?速水君、部活入ってないのにこんなに遅くまで残る必要ないものね」


図書館で読書したり自習室で勉強するタイプでもないはずだ。


茉莉花の指摘に、速水は言葉を詰まらせた。


「…どうせ帰り道同じだし、ついでだ」


顎を膝にのせて視線を外した速水に、茉莉花は生返事をする。

全く信じていない茉莉花の様子に、速水は顔を赤らめたまま睨みつけ自棄気味に怒鳴った。


「好きだよ!だから遅い時間に1人で帰したくなかったし、クッキーだって!クッキーだって…」


そこまで言うと、速水は再び項垂れた。

もうこれからずっと貰えねぇのかな、と呟く速水に茉莉花はため息をついた。


これ、どう慰めようと百瀬さんからクッキー貰えない限り、立ち直らないんじゃないかしら。


どうしたものか悩んでいると、ふと右手にクッキーの袋を持ったままだと気付いた。


「あげる。速水君が食べたかったクッキーじゃないけど、味は保証するから」


ずいっと目の前にうさぎ型の袋を1つ突き出すと、茉莉花の迫力に圧されたのか速水がおずおずと受け取った。

その仕草が泣き虫だった幼い頃の速水を思い出させる。


「これ、誰かにあげるやつじゃねえの」

「速水君がもらえなかったように、私も渡せなかったのよ。これからも、もう…」


輝くように微笑んだ王崎の顔を思い出して、また気分が沈んでいく。


心優しい彼のことだ。

明日手渡したらきっと喜んで受け取ってくれるに違いない。

いつものように美味しいねと頭を撫でてくれるだろう。


さっきだって百瀬のクッキーだったから、あんな風に喜んでいたわけではないだろう。今の段階では誰にでも平等に優しい王崎は、誰からどんな物を貰っても同じようなリアクションをするはずだ。


それでもあんな光景を見た後では、百瀬が渡した後にこのクッキーを渡す気も、今後部活終わりに彼に作ったものを渡す気も、もう起きなかった。


「うわなんだこれ、すげえな。売り物みたいだ」


ガサガサと袋をあけて、クッキーを摘んだ速水があげた声に、茉莉花は意識を戻した。

少しだけ驚いた表情の彼の眉間には珍しく皺がない。


「うま」


ぱくりと一口でくまのクッキーを食べ、小さく呟いた飾り気のない彼の言葉に茉莉花はふ、と微笑んだ。


「家庭科部ではいつも2、3人分つくるからきっとまたチャンスは巡ってくるわ。その時は素直に百瀬さんに美味しいって言うことね」


今日の言葉も謝ること、と告げると速水はきまりが悪そうに頷いた。


百瀬さん以外だと素直だなぁ。

前に比べて今日はたくさん喋ってたし、もしかしてぶっきらぼうというより、人見知りなのかも。


見た目だけは立派に成長しているが、中身は回想場面で描かれていた、泣き虫だった幼い頃の彼と変わりないのかもしれないと思うと、なんだか鋭い目つきもピアスも少し荒い言葉遣いも精一杯背伸びしているようで微笑ましく感じる。


「もう最終下校時刻だし、食べたら帰るのよ」


立ちあがって教室を出て行くと、後方から速水が文句を言っているのが聞こえた。


何子供扱いしてるんだって、そんな姿見たら誰でもそう思うわよけーちゃん。


そう心の中で思う茉莉花の足取りは、軽くなっていた。

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