メガネ屋①
外国経験のある社員の買ってきた食べ物は口に合わないほどではなかった。安く買えるものとなると、この程度が妥当だ。薄い紙に包まれたパンと肉の塊を大口開けて突っ込み、ゆっくり噛み砕きながら作業に入る。
段ボール箱だらけの黴臭いオフィスにそれまでの仕事で使っていた書類等を並べて、営業開始の準備をする。機材を運んだ部屋には若い社員が、重いが扱いを注意しなければならない精密機械のセッティングをしている。三〇後半にもなると、座り仕事に慣れた体は慎重さをつい失いがちになる。大事な商売道具であったが、若手に任せるべきであった。書類の整理もやり甲斐のある仕事だ。
移民して三日目。初めの一日目は出国手続きと予約しておいた安宿への移動で終わった。外国経験のある若手がオフィスを手配してくれたお蔭で、彼と同業者達は機材の輸送に手間取ることなく新生活を迎えた。
先に届いていた精密機械はしっかりと梱包されて、傷一つなくオフィスの中央に置かれていた。真夏の暑い日、べたべたした床に躊躇いがちに腰かけて、女性の社員が、先に掃除した方がいいですね、と言った。二日目の仕事は大掃除に決まった。
営業開始予定日は今日を入れて一週間後。
これからは、国の意向に合わせる必要はない。安価な眼鏡を大量に売れば、
眼鏡職人のトオル・イシダは移民するまで外国には一度も行ったことがなかった。彼の経歴に、外国での経験が必要な要素は一つもなかった。彼は、一四歳で初等教育を修了し、一六歳で眼鏡職人の道に進むことになった。落ち着いた性格と大柄な体型には似つかわしくないと思われるほどの手先の器用さが認められたからだった。自身も視力がよくないことから、眼鏡に縁がある。イシダは働き者で、誰よりも良質な眼鏡を作り続けた。仕事を始めた時から今まで、何物も彼を邪魔することなく、彼は眼鏡職人として生き続けた。眼鏡のこと以外に考えるべきことはなかった。
彼の人生に不満はなかった。眼鏡を作っていれば安定した生活が送れる。時々デザインに凝る客を相手にする時や病気か何かで眼の状況が特殊である時など、工夫を要する仕事もあったのだが、彼にとっては自分の腕試しという印象しかなかった。
年齢と共に、若手の面倒を見るようになってからは、彼の意識は少しずつ変わり始めた。眼鏡は必要な人が全くいなくなってしまったら売れなくなってしまう。注文が入ってから作り出す
貿易に携わっていた者、職業訓練期間中に外国に行ったことのある者、そうした若手達が名乗りを上げてくれた。その後、外国経験のない者も志願し、総勢一五名がイシダと共に移民することとなった。
「イシダさん、こっちの作業は完了しました」
「じゃあ、こっちの段ボール箱を潰すのを手伝ってくれ」
「昼食どうでした? お口に合いましたでしょうか」
「なかなか旨かったよ。また買ってきてくれ」
「バーガーって言うんです。昔、留学していた頃よく食べていたんです。安いから」
「片手で食べられるから楽でいいね」
段ボール箱が渇いた音を上げて潰れていき、部屋の隅に平たく積まれた。段ボール箱はこの部屋の主であるかのように部屋の中央に鎮座していたが、若手達によってあっという間に片付けられてしまった。それは若手達が主が自分達であることを声高に主張するかのようだった。
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