第七話 道は都へと

 永禄二年、新春。

 西暦で言えば1558年となるこの年は、例年に無く温かい年の始まりとなった。


 雪らしい雪も見ず、それでいて北風が吹きすさぶなどということもない奇妙な新年を、僕は迎えている。


 そしてもう一つ。

 あまりに奇妙な、それでいて不可思議な状況下に僕は存在していた。


「それでは本当に連れて行かれてしまうのですね」

 今井家の軒先。

 そこで長い艶やかな髪を有する美人が、僕を見つめながら寂しそうに俯く。

 すると、僕の背後に立つ老人が、彼女に向かって口を開いた。


「まあ、彦八郎殿との約束じゃからのう。もちろんこやつが嫌だというのなら、話は別じゃが」

「いや、もちろん嫌だとかそんなことはないのですが……師匠と今しばしお供できるというのなら、これ以上のことはないと、そう思っています。ただ……」

「なんじゃ、はっきりせん奴じゃのう。言いたいことがあるなら、しゃきっと言わんか」

 僕の歯切れの悪い物言いを受け、師匠はニコニコとした笑みを浮かべたまま、そうやって僕に先を促す。


「はぁ……師匠と旦那様の間で、いつの間にかような話が決まっていたのかというところも気にはなります。ですがそれ以上に、その……本当に僕でいいのでしょうか?」

 そう、それが僕の現在置かれている状況に対する最大の疑問であった。

 僕はこれから師匠とともに、この今井家を旅立つ。


 それも彦八郎様から、今井の暖簾分けを命じられて。


「ふむ、その答えは簡単だよ。当然だっていう、一つしかないからね」

「ですがその……普通は何十年も奉公させて頂き、番頭さんを経て、その上で初めて暖簾分けをさせて頂くものですよね。ですが、僕はまだここでほんの三年余り働いたに過ぎません」

 丁稚奉公。

 言葉にすればたった四文字であるが、それには険しく厳しい道のりが存在する。


 通常ならば丁稚として十年。その後は手代として少しずつ仕事の領域を広げ、わずかに選ばれたものだけが番頭として店を任される。そんな番頭の中で、一人でも切り盛りできるとみなされた極僅かなものだけが暖簾分けを許される。


 まさにピラミッドの如き険しい山。

 暖簾分けとは、その丁稚奉公の頂点とも言える頂きに存在した。


「まあ、普通なら君の言うとおりさ。でも、君には目指すべきところがあるはずだろ。にも関わらず、うちで何十年も務めている余裕が有るのかい?」

「それは……ですが、他の手代や番頭さんがどう思うか」

 先日も番頭さんに遅刻を窘められたばかり。

 まだまだ僕自身、自らの未熟さを十分以上に自覚していた。

 だからこそ、そんな僕が暖簾を分けて頂くのは、自分と同格や上にいる先達たちを土足で乗り越えていく行為に等しいのではないか。

 僕はそう危惧していた。


 だが、そんな僕の不安げな表情を前にして、旦那様はカラリとした笑みを見せる。


「秀一、知りたいかい?」

「え?」

「正直に言うよ、彼らはこぞって皆賛成だった。君を他の商家にとられるくらいなら、暖簾分けして首輪を繋いでおくべきだってね。そうだよね、与助」

 そう口にするなり、旦那様は後ろを振り返る。

 彼の視線の先、そこにはいつもの生真面目な表情を崩さぬ番頭さんの姿が存在した。


「番頭さん!」

「今日からは君も番頭と同じ……いや暖簾分けした店の主人となるんだ、私のことは与助でいい」

「ですが、その……」

 僕は番頭さんの真摯な視線に耐えられず思わず俯く。

 一方、彼はまったく迷いのない声で、僕に向かって叱咤した。


「呼び方一つくらいで、情けないことを言っていてどうする。京の街は堺と違い、魑魅魍魎がうようよしている。力のない商人を騙して、金を引っ張るのは彼らのいつもの手口だ。だから店を任されたからには、そんな情けない顔をしてはいけないよ」

「はい……分かりました。しっかりと胸に刻んでおきます」

 胸に手を当てながら、僕は深々と番頭さんに向かって頭を下げる。

 するとそんなタイミングで、旦那様が嬉しそうに横から口を挟んできた。


「ふふ、与助も立派になったものだ。親元を離れてうちに来た頃は、毎晩部屋で泣いて――」

「旦那様、何かおっしゃいましたかな?」

 旦那様の言葉を遮る形で、番頭さんはそう問いかける。


 その目元がまったく笑っていないことに気づき、僕は思わず息を呑んだ。

 だが、その怒りを向けられた当人は、なんでもないことのように肩をすくめると、返事代わりにニコリと微笑んでみせた。


 そうして、一瞬の静寂が場を包む。

 そんな中、最初に口を開いたのは、艶やかな黒髪を持つ美女であった。


「まったくお義父さまも困ったものね。ともかく、秀一さんがいなくなると寂しくなります。この堺に立ち寄る際は、必ず顔を見せてくださいね」

「はい。莉乃様には本当にお世話になりました」

 莉乃様の言葉を受けて、僕は深々とお辞儀した。


 そんな僕を目にして、莉乃様は僅かに寂しそうに微笑まれる。

 しかし、すぐにその表情を一変されると、義父譲りの笑みを浮かべながら、その口をゆっくりと開いた。


「それと秀一さん。京の都には美人さんが多いと聞きます。でも、浮気をしてはダメですよ。私とこの子が怒りますからね」

 莉乃様はそう口にすると、それまで恥ずかしがって彼女の後ろの隠れていた少女を、自らの前に押し出した。


 マリア・コスタ。


 彼女の目には大粒の涙が溜まっていた。

 でも、彼女が涙を零すことはなかった。


 服の袖で軽く目元を拭い、艷やかなブロンドの髪を揺らしながら、僕に向かって彼女ははっきりと宣言する。


「シュウイチ……ワタシ、頑張る。いつか立派な淑女になって、アナタに会いに行くから」

「ああ。楽しみにしているよ、マリア」

 まったく含むところのないマリアの言葉。

 それを受けて、僕はニコリと微笑みかける。


 すると次の瞬間、彼女はいつもの様に僕に向かって飛びついてきた。


「マリア、これだとまだ淑女には……!?」

 アリアを受け止めた僕の頬に、温かい感触が伝わる。


 僕は言葉を失い、目の前の少女にその視線を向けなおそうとした。

 だが彼女は、僕の手元からあっさりと逃げ出すと、再び莉乃様の背後へと隠れてしまう。


「はは、人前でとはね。マリア嬢の淑女への道はまだまだ遠そうだ」

 僕達の姿を目にして、旦那様が嬉しそうに笑う。

 途端、その場に居合わせた皆が、そして番頭さんまでが笑い声を上げた。


 そう、それは惜別の笑いであった。


「さて、秀一。これを持って行きなさい」

 皆の笑い声が鎮まったところで、旦那様は微笑みながら一通の書状を僕へと手渡す。


「これは?」

「私からの惜別の品さ。所謂、紹介状というやつだね」

「紹介状……ですか」

 思わぬ内容と故に、僕は眉間にしわを寄せる。

 すると旦那様は、ゆっくりとその首を縦に振った。


「ああ。都で今一番面白い商人宛てに、私とそして宗易殿からの紹介を書かせてもらった。役に立つとは限らないが、あって困るものではないと思う」

「宗易様まで」

 思わぬ人物の名を耳にして、僕はやや驚きを見せる。

 途端、旦那様はニコリと微笑んでみせた。


「彼も君には期待しているようだ。おっと、ダメだよ。君はあくまで、今井の人間なんだからね。彼に浮気してはいけないよ」

「はは、しませんよ。でも、本当に……何から何までありがとうございました」

 それは嘘偽りない僕の言葉であった。


 播州を出て三年。

 この方の下で働くことができて本当に良かった。

 僕は心の底からそう思っていた。


 一方、そんな僕の言葉を耳にして、旦那様は珍しく照れたように笑う。


「ふふ、元気でやってくるといい。そしてもし疲れたら、何時でもこの堺に帰っておいで。ここは播州と同じく、君にとって故郷なんだからね」

「はい……はい!」

「さて、卜伝殿ともう一方がお待ちのようだ。行っておいで」

 旦那様はそう口にすると、いつの間に少し離れた路上で待っていた二人組の方へと、僕を送り出す。


「店の連中との別れは済んだか?」

 二人組のうち、若い男性の方が僕に向かってそう問いかけてくる。

 僕は首を一度縦に振ると、この義理堅い男性に向かって思わず苦笑を浮かべた。


「はい。というか、僕から挨拶に伺うつもりだったのですが、わざわざこんなところまで来て頂いて」

「なんだ、水くせえこと言うなよ。兄弟子が、弟弟子の門出を祝いに来るのは当たり前のことだろ」

「僕が先に師匠のところへ通い始めたんですよ。だから、弟弟子にあたるのは、十河様です。順番を勝手に変えないでください」

 いつもの二人のやり取り。

 それがどこか儚く、そしてほんの少しだけ寂しく感じられた。


 それは目の前の男性とて同じだったのだろう、一瞬彼も言葉を詰まらせる。

 だが、すぐに気を取り直すと、空元気と言わんばかりの口調で、僕に向かって精一杯の笑みを見せつけてきた。


「……へへ、その調子だ。お前はこの鬼十河を弟弟子扱いできる男だ。だから、そんな男が京へ行って情けない醜態を晒すなよ」

「もちろんです」

 その十河様の言葉に僕は大きく頷く。

 すると、十河様は続けて、思いもよらぬことを口走った。


「ま、あっちには俺の兄貴もいるみたいだし、ちょくちょくドンパチに呼び出されるからな。その時はまた顔を合わせることもあるだろう。もっとも、もしかしたら敵味方として、戦場で会うことになるかもしれんがな」

「できれば、敵としてはお会いしたくないですね。万が一の時は、まっさきに逃げることにしますよ」

 目の前の男の技量を知るだけに、僕は本心からそう口にする。

 一方、十河様は僕の言葉に僅かに首を傾げられた。


「そうか? 俺は一回やりあってみたいがな。一切の遠慮を捨てた、お前の剣とな」

「勘弁して下さい。いつも言っているでしょう。結果の見えた戦いはしないことにしているんです。自分が負けそうな場合は特に」

「ふふ、お前らしい。いずれにせよ元気でな。それと、アイツには注意しろよ」

「アイツって?」

 付け足すよう加えられた言葉を受けて、僕はすぐさま問いかける。


「フクロウさ。うちの、三好家に巣食っている、真っ黒なフクロウ。今回の件は、全て俺がしたことになってはいる、だが、奴はやたら勘がいいからな。もしかしたら何か気づいているかもしれん。いずれにせよ、注意するに越したことはないさ」

「分かりました。君子危うきに近寄らずとも言いますしね」

「難しい言葉を知ってるじゃねえか。よくわかんねえがそれだ」

 らしい反応だなと、僕は思った。

 でも、こんな人だからこそ、僕はこの人のことを好きなのだ。


「よくわかんないって……でもいずれにせよ、色々とありがとうございました。十河様にお会いできて本当に楽しかった」

「おう、俺も楽しかったぜ。じゃあまたな、弟弟子くん」

 十河様はそう言い残すと、そのまま踵を返して立ち去っていく。


 そうしてその場には、僕と一人の老人だけが残された。


「かっかっか、あやつは相変わらずじゃのう」

「ですね。でもそこが良いんですよ」

 僕はそう言って、ニコリと微笑む。

 そんな僕の見解に、師匠もまったく同意見であったのか、嬉しそうに一つ頷いた。


「さて、それでは行くとするかの」

「はい。あの……それで師匠、京のお弟子様をご紹介頂けると伺っていますが、一体どなたでしょうか? あの地は京八流……特に今はその末流でもある吉岡が力を持っていると伺いますが」

 京の都に道場を持ち、広くその名を轟かせる吉岡流。

 代々の当主は吉岡憲法を名乗り、現在の二代目は京最強の呼び声高かった先代を超えたと、僕も小耳に挟んでいた。


「ああ、吉岡の小倅はなかなかに面白い男だ。そうじゃな、あやつの元に出稽古に行くのも良いかもしれん。じゃが、わしが紹介しようとするのは憲法ではない。もっと有名な、そうわしよりも有名な男じゃよ」

「師匠よりも有名……」

 その言葉を耳にした瞬間、僕は思わずその場に硬直する。

 そう、京の都に住み、剣聖と名高き卜伝師匠より有名な弟子。


 そんな人物はたった一人しか存在しない。


「ああ、お前も聞いたことがあるじゃろう。義輝よしてると言ってな。なかなかに涼やかなる男じゃ」

「義輝……では、まさか」

 この時代において義輝と言えば、たった一人の男を指す。

 そう、帝とともにこの日ノ本の頂点位置する男を。


「ああ、おそらくはその義輝じゃ。我が弟子にして足利第十三代将軍、足利あしかが義輝よしてる。というわけで、いざ向かうとするか。背徳と退廃の京の都へのう」


 師匠はそう口にすると、そのまま京へ向かい歩み始める。

 僕はその少しばかり丸くなった背中を目にしながら、ゆっくりと走りだした。


 師匠に、そしてこの時代に取り残されてしまわないように。




あとがき


足利あしかが義輝よしてる

天文5年(1536年)生まれ。幼名は菊童丸。室町時代後期の室町幕府第十三代征夷大将軍。失われていた室町幕府の権威復興に尽力したことで知られる。自らの「輝」の字を上杉うえすぎ輝虎てるとら上杉うえすぎ謙信けんしん)や伊達だて輝宗てるむね(正宗の父)等に与えたり、武田たけだ信玄しんげんと上杉謙信の川中島の戦いを調停したりと、諸勢力の安定糾合に務めた。

また塚原卜伝・上泉信綱などから剣を学んだ剣豪将軍であり、天下五剣(三日月みかづき宗近むねちかなど)をはじめとする名高い業物も複数所有していたことで知られる。

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