第三章 山城編
第一話 下京
いにしえも今もかはらぬ世の中にこころの種を残す言の葉
―細川幽斎
永禄2年、1559年の新春。
この国の中心とされる、京の都に僕はいた。
「これが本当に京の都……」
今世で初めて足を踏み入れたこの国の都。
そこはあまりにも荒れ果て、雅などというイメージとは程遠い惨状が、僕の眼前に存在した。
「そうじゃ。この国の天子様と大樹のおわす場所じゃ」
天子様とも呼ばれる帝と、大樹と呼ばれる将軍。
そのいずれもがこの荒んだ地に存在するのだと、師匠は僕に告げた。
「正直言って、信じられません」
「ふむ……しかし応仁の頃の荒廃を思えば、これでも幾分かましになったそうじゃがな」
師匠はそう口にしながら、思わず苦笑を浮かべる。
親兄弟がそれぞれの家を残すため、敵味方に分かれ戦いあった応仁の乱。
もう百年近い時が経とうとしているにもかかわらず、その爪あとは未だはっきりとこの都に残されていた。
「そうなのですか、これだとまだ堺の方が――」
「堺の方が遥かに栄えている。そう言いたいんじゃな? じゃがその評価は、上京を見てからにしてもいいのではないかな」
「上京……ですか」
聞き慣れぬ言葉を耳にして、僕は思わず首を傾げる。
すると師匠は、ニンマリと笑みを浮かべながら僕へと説明してくれた。
「ああ。二条の通りを境にして、北を上京、南を下京と呼んでおる。ま、この辺りはその下京の外れじゃがな」
ぽつりぽつりの民家が立ち並ぶ周囲を確認しながら、師匠はそう口にする。
途端、僕は目の前の光景を一瞥するだけで、都を理解した気になった自分を恥じた。
「となると、天子様達がいらっしゃるのは上京というわけですね」
「その通り。わしはこれからちょっと上京の方に用がある。お主は予定通り、先に今井の店に行っておいてくれんかのう」
旦那様から使用を許可された今井家所有の店舗は、先ほど師匠から教わった話を踏まえると、下京の中ほどに存在する。
だからもう少し歩けば辿り着くところにあるのだが、ここから上京となるとまだ少なからぬ距離が存在した。
「店に先に行くのはかまいませんが、上京に御用ですか?」
「ああ。今出川と言う場所に、すこし寄っておきたくてな」
「今出川……ですか」
「ああ。あの地には幾つか用があるのじゃが、差し当たってお主に紹介するならばまずは吉岡じゃな」
師匠の口から発せられたその名前。
それを耳にした瞬間、思わず僕の声は上ずった。
「吉岡……それはやはり、あの吉岡ですか!」
吉岡流。
それはかつて
特に前世の記憶がある僕にとっては、まだこの時点では生まれていないであろうとある人物との関係で、非常に印象深い流派でもあった。
そう、それはあの二天一流の創始者である宮本武蔵が、その名をあげる戦いをなしたとされる最も有名な相手。その人物こそ吉岡流の吉岡清十郎である。
もちろんこれには諸説あり、本当の二人の戦いにおいては清十郎が戦いに勝利していたのだが、武蔵が自らが勝ったかのように喧伝したことで、歴史の事実が捻じ曲げられたとも言われている。
ただ実際にこの時代に生きている僕にとっては、それこそが事実ではないかと思うほどに、吉岡流の強さは何処においても聞き及んでいた。
「そう、その吉岡じゃが、あとでお主も来るかね?」
「は、はい! もしご迷惑でなければ是非」
「はっはっは、今の憲法は穏やかな男じゃて、迷惑など言わんじゃろう」
師匠は笑いながらそう口にする。
途端、僕は師匠に向かって確認するように問いかけた。
「今の憲法と言われますと、確か二代目の……」
「そうじゃ。吉岡家当主として、先代の名を継いだ二代目憲法。本当の名はなんじゃったかな。えっと……確か
あごひげを軽くさすりながら、師匠はゆっくりとその名を告げる。
僕はそれを受けて、力強く師匠に向かい願いを口にした。
「吉岡直光殿ですか。ともあれ、上京にも足を運んでみたいですし、それでは後で向かわせて頂きます」
「うむ。では、また後でな」
師匠はいつもの笑みを浮かべながらそう口にすると、そのまま北に向かって歩みだしていった。
そうして一人となった僕は、旦那様がかいてくれた簡易的な地図を片手に、下京の街を眺めながら今井の店へと向かう。
そして下京の中心部に差し掛かった頃には、僕は自らの認識の甘さを恥じることとなった。
「なるほど。一を見て十知った気になるのは誤りだということだね」
もちろん堺に比べれば軒先を連ねる建物は汚く、そして街を歩く人々の身なりも、奇妙なほどにバラバラである。
しかしながら、間違いなくこの国の中心だと感じさせる活気が、街を行く人々からは感じられた。
情報が確かならば、大樹こと将軍義輝公は昨年ようやく三好家と講和を結び、京へと帰還されたと伝え聞く。
天子様と大樹が伴に存在するということが、やはり市井の人々の心の支えとなっているのではないかと、僕はぼんやりと考えていた。
するとそのタイミングで、突然僕の体は軽い衝撃を覚える。
「おっと、兄ちゃん。ぼんやりしていたら邪魔だぜ」
「ああ、ごめんね……って、待ちなさい!」
僕よりほんの僅かだけ幼い印象を覚える小柄な少年。
僅かに赤みがかった黒茶色の衣服を身にまとった彼は、僕にぶつかると同時に、その場から駆け出そうとする。
だからこそ僕は、その首根っこを捕まえにかかった。
「ちっ、勘のいい兄ちゃんだな」
僕が気づいたことを理解したのか、少年は舌打ちを一つ打つと、捕まえようとする僕の手を軽く払いのけにかかる。
その動きは一切のムダがなく、市井の少年が行うにしてはあまりに洗練されすぎていた。
「習った技術を悪用するのは関心しないな。申し訳ないけど、素直に財布を返してもらえないかい?」
「いやだね。兄ちゃんこそ、腕に自身があるのなら、オイラから自分の手で奪ってみなよ。もっとも、相手をしてあげる義理はないけどね」
少年はそう口にするなり、僕から擦りとった財布を見せびらかすようにかざすと、途端に踵を返して走りだす。
「待て!」
僕はその少年の背中目掛けて、全力で駆け出した。
瞬く間に距離が縮まり、少年の背中を掴みかかろうとしたその時、突然彼の姿が視界の中から消失する。そして同時に、僕は自らの足に衝撃が走るのを覚えた。
次の瞬間、天地がぐるりと入れ替わりそうになる感覚。
そう、いつも師匠によって味合わされているあの感覚が僕の体を襲った。
このままでは前のめりに転倒する。幾度もの経験から、その結末を僕は頭ではなく体で瞬時に悟っていた。だからこそ、無意識のまま咄嗟に体を回転させ、前方宙返りのような形で僕は大地に足を踏みしめる。
「……兄ちゃん、何者だい?」
先ほどまでの無邪気そうな子供の笑みを消し去った少年は、注意深く僕へと視線を向けてくる。
「それは僕の言葉さ。ともあれ、少しイタズラがすぎるな」
「そうだぞ、童。あまりつまらんことはやめたほうが良い」
その声は突然僕の鼓膜を打った。
同時に、一人の簡素な着流しに身を包んだ青年が僕の財布を片手にしながら、いつの間にか少年の背後に立っていることに気がつく。
「えっ!? てめえ、オイラの財布を返しやがれ」
「元々、お前のものではないだろう? そこの兄さんのものだ」
青年は薄く笑いながら、そう口にするなり財布を僕に向かって放り投げてくる。
それを目にして、二対一では分が悪いと悟ったのか、少年は歯ぎしりしながらその場から駆け出していった。
「畜生、覚えてろよ!」
「童、あまりお上りさんに悪さするなよ」
少年の言葉に苦笑しながら、青年はその背に向かって言葉を投げかける。
そうして、僕は初めて目の前の青年と視線が交差した。
「本当にありがとうございます」
「なに、ただの見回りのついでさ。最近は多少ましになったが、それでも悪事をするものは絶えなくてな」
青年は軽く頭を掻きながら、そう告げると苦笑を浮かべる。
そんな彼に向かい、僕は一つの疑問を恐る恐るぶつけた。
「あの……先ほどですが、いつから見ていらっしゃったのですか?」
「ん、そうだな。実は君が物珍しげに歩きながら、あっさりと童に財布を抜き取られたあたりからだ」
「え、本当にですか?」
青年の回答は、僕にとってまさに驚愕とも呼べるものであった。
確かに周囲に関心を向けながら、僕が歩いていたことは事実である。
だが一瞬足りとも、僕は決してその警戒を緩めることはなかった。
それ故に、前方から迫ってきた少年が僕の財布を抜き取ったことに対して、その技量には感心しながらも、少年の行為自体は僕の認識しうる範囲内の出来事であった。
もちろん財布をすり取られたこと自体、師匠に言わせれば警戒が甘かったという謗りを受けるに十分であろうが。
しかし僕の目の前に立つこの涼やかな青年は、ことの最初からたった今姿を現すまで、一度足りとも僕の認識中には存在していなかった。
そう、卜伝翁の下で鹿島新当流を学ぶ、この僕の認識の範疇にである。
「いや、怒らないでくれよ。ちょっとばかり、君たちのやり取りに興味が湧いてね。少しばかり、手を出すのに躊躇しただけだからさ」
「そう……ですか。あの失礼ですが、貴方は?」
あの一筋縄ではいかぬ少年の背後をたやすく取り、そして僕に感づかせること無く自らの存在を周囲に溶けこませる技量の持ち主。
それが何者であるのか、知りたくないといえば正直嘘になった。
だからこそ、僕は青年に向かってまっすぐに問いかける。
すると、頭を軽く掻きながら、青年は僅かに微笑んだ。
「俺か? 足田菊堂と言ってな、京の見回り衆をしている貧乏侍さ」
「足田様……ですか」
確認するように、僕はゆっくりと問いかける。
途端、青年は満足気に一つ頷いた。
「ああ、足田だ。ま、下京も以前に比べたらだいぶ治安も良くなってきたが、まだまだお気楽に過ごせるところじゃない。兄さんの腕なら心配いらないとは思うが、不慣れな街ならさっきみたいなこともある。以後はもう少し気をつけるんだな」
「お気遣い痛み入ります。なにぶん、初めての都ですので」
「ほう、じゃあ本当に不慣れってわけだ。なるほどな。しかしそれよりだ、面白いものを下げてるな、兄さん」
そう口にするなり、青年の視線は僕の腰に下げられたものへと移る。
僕は左手でそっと刀の柄に触れると、確認するように問いかけた。
「えっと、これのことですか?」
「ああ。種子島を背負ってるのも興味深いが、それ以上にそいつは面白い。ふふ、なるほどな」
「あの……」
頭に手を当てながら、嬉しそうに笑う青年をその目にして、僕は戸惑いを隠せずその場に立ち尽くす。
そんな僕に向かい、目の前の青年は嬉しそうに話しかけてきた
「いや、色々と面白そうなことが起こる予感がしたってだけだ。それよりも、都へは何のようで来たんだ?」
「師匠に連れられてきまして、その……兄弟子とされる方にお会いしに」
「なるほど、それはそれは。ま、都は面白い街だ。しばらくは色々と見て回ることだな」
それだけを口にすると、青年は踵を返し、そのままゆっくりと歩み出す。
そんな彼の背中に向かい、僕は慌てて声を掛けた。
「すいません、あの何かお礼でも」
「構わないさ。まあ、もし次に合うことがあれば、なにかお礼してもらうことでも考えておくよ。もっともこの広い都の中で、万が一出会うことがあればだけどな」
右手を上げて軽く振り、青年はこちらを振り返ること無く、そのまま立ち去っていった。
そうして再び一人となった僕は、小さくなりゆくつかみどころのない青年の姿をその目にしながら、虚空に向かって呟く。
「見た目はただの町人のようなのに、一部たりとも隙がない。京の見回り衆をしている足田さん……か」
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