第二話 吉岡

 下京の町家の中に存在する小さな家屋。

 ほんの少しだけ古びたその家屋こそ、僕の目的としていた場所に他ならなかった。


「おや、お待ちしていましたよ、旦那様」

 家屋の中を覗き込んだ僕は、突然発せられた声に驚く。


「え……重秀しげひで! どうして君が」

 そう、そこで慌ただしく荷物を運んでいたのは、かつて今井で共に手代とした働いていた重秀に他ならなかった。


「はは、莉乃様に頼まれてしまってね。しばらくこの店の番頭をするつもりさ」

「いや、君が来てくれると助かるけど……ってことは、また喧嘩してきたのかい?」

「へへ、正解!」

 そう口にすると、重秀はペロッと小さく舌を出す。


 僕より二つ年上に当たる鈴木重秀。

 彼は元々、紀伊で海運や貿易などを手掛ける有力豪族の出である。ただ父である鈴木重意との仲が悪く、一時的に重意と付き合いのあった今井彦八郎が、商いの習いを兼ねてかつて彼を預かる形となっていた。


 少々向こう見ずなところがあるが、ここぞという時は頭が切れるちょっと年上の兄貴分。

 それが今井家の中では数少ない同年代の手代であり、僕の中での重秀であった。


「でも本当に、こんなところにいて良いのかい?」

「家のことは重兼兄さんに任せてきたから問題ないよ。というわけで、しばらくは君の下で働くから、どうぞよろしくね旦那様」

 ニコリとした重秀の笑み。

 そこからは、絶対に実家には戻らないという強い意志が明らかに顔を覗かせていた。


「はぁ……わかったよ。しかし旦那様はやめてよ。なんか君に言われると、違和感しか無いし」

「はは、すぐに慣れるさ。他の丁稚や手代は荷運びに向かってもらっている。大旦那様から預かった荷物を、さっさと搬入しちまわなきゃいけないのでね」

「流石に仕事が速いね」

「全て大旦那様の仕業さ。何しろ、君の京行きが正式に決まる以前から、すでにこのための準備されていたみたいだからね。まあ、流石というべきなんだろうけど」

 重秀はそれだけを口にすると、軽く肩をすくめてみせる。

 正直なところ僕に言わせれば、あの今井宗久ならば、それぐらいのことは手回ししていて当然ともいえた。そして同時に、旦那様の狙いが僕のためだけとはとても考えることはできなかった。


「なるほど。元々、今井家は都の貴人方との商いをかねてから増やしたがっていたからね。おそらくは僕のことも、その計画の一環ということかな。ちょうど間のいいことに、三好家の人達も大挙して京に入ってきているしね」

「ああ、そんなところだと思うよ。お前に言明していないのは、それぐらい自分で判断して立ちまわるだろうって期待だろうな。で、実際のところこれからどうする?」

 僕より身長の高い重秀は、興味深そうな視線を僕へ向けてくる。

 そんな彼に向かい、僕は敢えて苦笑を浮かべてみせた。


「とりあえずは、あまり派手に商いをするつもりはないよ。しばらくは元々の付き合いがある家だけに絞って細々とやっていきたいからね」

「おやおや、せっかく京に店を構えたのにかい?」

「まだ余り目立つことをするのは、まだ時期尚早かな。納銭方あたりに目をつけられたら面倒だし、後ろ盾がないと押し売りはともかく、押し買いに来られると手が打てないからね」

 押し売りは払うものがなければそれまでだが、武力を持って押し買いを迫られた場合、下手をすると身ぐるみを剥がされかねない。

 新参者故に後ろ盾がない僕たちは、おそらくそのような無法者の格好の的に成ることは容易に想像がついた。だからこそ、コツコツと地盤を固めていくことを僕は決意する。


「なるほど、堺や紀伊なら考えもしなかったけど、ここならそんなこともあるか……まあ、俺が店番の時にやってきたら、こいつでズドンとやってやるけどな」

 そう口にすると、重秀は側の壁に立てかけていた種子島を手に取り、僕目掛けて撃つ仕草を見せた。


 前世でいう和歌山県にあたる紀伊は、この時代において全国でも有数の鉄砲の先進地域である。

 それは生産だけではなく、その使い手の技量という点でも、明らかに国内のどの地域よりも一歩先んじていた。だからこそ、未だ高価な種子島を重秀は個人として所有している。


「もちろん君の腕は知っているけどね。頼むから揉め事はやめてくれよ。新参者はただでさえ目をつけられやすいんだから」

「わかっているさ、秀一」

 ニンマリとした笑みを浮かべながら、重秀は一つを縦に振る。

 その彼のあっさりとした反応に、僕は些か懸念を覚えずに入られなかった。


「本当かい? ともかく、僕は師匠を迎えに今出川に行ってくるよ。後のことは頼むね」

「はいよっ! この番頭にお任せあれ」

 その返答を受けて僕は踵を返すと、そのまま店から外へと足を踏み出す。


 もはやその時点で、僕の頭の中には吉岡流のことしか存在しなかった。

 だからこそ、僕はボソリと重秀が口にした言葉を全く耳にすることはなかった。


「相変わらず、油断ならないバケモノだな。しかし顕如さんの頼みとはいえ、まさかあいつの下につくとはな……せいぜい俺の仕事の邪魔をするなよ、秀一」





「なるほど、師匠が言っていたのはこういうことか」

 下京を出て、ようやくたどり着い上京の一角。

 そこで僕の視界に映ったものは、別都市と読んで差し障りないほど、明らかに下京とは異なる光景であった。


 それは前世で言うならば高級住宅街と官庁の建物が入り混じったような街並みであり、堺に住んでいた僕でさえ、思わず感嘆せずにいられぬ建築物が少なからず存在している。また道を行き交う人々の装いも明らかに異なり、ほんの少しだけ僕は居心地の悪さを覚えていた。

 それ故に、足早に今出川へと向かいながら、要件を済ませたら僕は早めに下京へと戻ることを決意していた。


「しかし、一体どこにあるのかな。たぶんこのあたりのはずなんだけど」

 京出身の手代に教わった場所には、既に到着はしているはずである。

 しかしながら周囲をいくら見回してみても、染物屋が一件存在するのみで、明らかにそれらしき道場は見受けられなかった。


 するとそのタイミングで、突然染物屋の方から聞き覚えの声が発せられる。


「秀一。こっちじゃ、こっち」

 僕が声の方向へと視線を向けると、先ほど吉岡の道場へ向かうといって別れたはずの卜伝が、なぜか染物屋の軒先でのんびりと茶をすすっていた。


「あの……師匠、どうしてこの店に?」

「ここに来ることが目的じゃったからのう」

 師匠はそう口にすると、カラカラと笑う。


「染物屋さんにですか?」

「ああ、その通りじゃ。のう、憲法殿」

「憲法……殿」

 その言葉を耳にした瞬間、師匠の視線の先を追う。

 そして僕は、全く気配を現すことなく、その場に立ち尽くしていた白髪交じりの壮年をその眼にした。


「さきほど卜伝殿にお話は伺いました。初めまして、天海くん」

 先程まで、その存在さえ感じさせることがなかった男は、僕に向かって穏やかな笑みを浮かべる。


 その表情と全身から発するオーラのようなものを眼にして、僕はすぐに一つのことを理解した。

 一見する限りは極めて平凡な目の前の男。

 彼こそが、師匠が口にしたとおり吉岡流の当主である吉岡憲法であると。


 しかし同時に、僕は今置かれているこの状況に、さらなる疑問を抱く。


「え、でもなぜ? ここは染物屋で――」

「こちらが私の本職なのですよ。染め物の合間を見て、拙いながら少しばかり剣術の指導などをしているだけですので」

 僕の言葉を軽く遮る形で、憲法殿はそう笑いながらそう口にする。

 途端、もう一人の人物の口から、笑い声が発せられた。


「かっかっか、拙い……か。以前から思っておったが、都の人間は本音と建前が違いすぎるのう。お主ほどの達人が、この日ノ本に何人いるかね?」

「それなりにいるのではないですかね。少なくとも、そのうちの一人は私の目の前におられるのですから」

 憲法殿は人好きのする笑みを浮かべると、師匠に向かってそう告げる。

 すると、師匠の右の口角は嬉しそうに吊り上がった。


「おや? そうは言いながら、お主の眼はことなる色をしておるのう」

「はてさて、何のことですやら。それよりもどうです。せっかくこうして来られたのですし、少しお弟子さんの胸をお貸し頂けませんか?」

 憲法殿の口から発せられた突然の提案。


 僕はそれを耳にした瞬間、思わず戸惑いを覚えずにはいられなかった。

 しかし、そんな僕の動揺をよそに、師匠は憲法殿に向けて確認の問いを発する。


「ほう、秀一をかね?」

「ええ、せっかくですから。他流派との手合わせを、私の息子に経験させたいと思っていたところでしたので、ご迷惑ではなければ是非に」

「確か、直賢なおかたじゃったかな」

「はい。まだ色々と至らぬ身にて、お恥ずかしい限りですが」

 小さく頷きながら、憲法殿は苦笑を浮かべつつそう答える。

 そして彼の視線がこちらへと向けられたところで、僕ははっきりと自らの思いを口にした。


「吉岡流の若殿と手合わせさせて頂けるとは光栄の限りです。もしご迷惑でなければ、是非こちらこそ行ってご指南いただきたく思います」

「はは、頭をお上げください。卜伝殿のお弟子さん相手だと、きっと、息子のほうが学ぶべきところが多いでしょう。ともあれ、ご了承頂けましたということで、このあと道場でお願いできますでしょうか?」

「もちろんです」

 即答だった。

 あの吉岡流と手合わせする機会。それは剣を志す者の一人として、決して逃すことは出来ぬものであったからだ。


「そうですか、それは良かった。では、店の裏手に道場がありますので、先に行っておいて頂けますか。店の片付けをしましたら、私もすぐに向かいますので」

「ふむ、わしもこの茶を頂き終わったら向かうとしよう。秀一、先に行っておいてくれ」

「わかりました。それでは、よろしくお願い致します」

 僕は深々と頭を下げると、そのまま店の軒先から裏手へと向かう。

 するとすぐに、立派な道場の存在がその視界に入った。


「副業というには、これはあまりに……」

 染物屋を本業と口にしていた憲法殿のことを思い出し、僕は思わず苦笑する。

 そしてゆっくりと建物を見渡した後に、その中へと僕は足を踏み入れた。


「誰だ! ……てめえ、さっきの!」

「あれ……君は確か――」

「ここまで追ってきやがったのか! クソ、喰らいやがれ!」

 言葉を紡ぎ終えるより早く、目の前の物体が僕へと向けられる。

 そう、先ほど僕の財布をすろうとした少年の、その手に握られた木刀が。


「ちょ、ちょっと、落ち着いて。君を追ってきたわけじゃないからさ」

 間一髪のところで、側面へと転がり、僕はどうにか難を逃れる。

 しかしながら、それは少年の煮えたぎる心に、更なる燃料を追加しただけであった。


「うるさい。絶対に余計なことを喋れぬよう、その口を完全にふさいでやる。覚悟しろ!」


 市中で財布をすられ、更に理不尽に剣を向けられる。

 これが後に、僕の守り神と称されることとなる三代目吉岡憲法こと、吉岡直賢との出会いであった。




あとがき


鈴木すずき重秀しげひで雑賀さいか孫市まごいち

生年不明。紀伊国出身で、雑賀衆の有力者の一人。一般的に雑賀衆の棟梁の名として知られる雑賀孫一は彼、もしくはその中の一人であったのではないかとも推察されるが詳細は不明。鉄砲傭兵を中心とする雑賀衆を率いて、本願寺顕如率いる一向宗に協力し、織田信長と戦ってこれを苦しめたことで知られる。


吉岡よしおか直賢なおかた (三代目 吉岡憲法)

生年不明。三代目吉岡憲法にして、のちに宮本武蔵と戦ったとされる吉岡直綱の父。京都の今出川に道場構え、後に第15代将軍である足利義昭の兵法指南を務めたとされる。宮本武蔵の義父という説がある新免無二と、義昭の御前試合で戦ったとも噂される。

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