第二話 堺

 既に慣れ親しんだ店の奥座敷。

 そこへ僕はゆっくりと足を運ぶ。

 但し決して大きな音を立てず、あくまで涼やかに。


 それはこの店に来た折に、茶人である旦那様から最初に指導されたことでもあった。


「旦那様、只今戻りました」

「おお。首尾はどうだったかね、秀一」

 待ちわびたといった様子の旦那様が、座敷の中から微笑みつつそう問うてくる。

 その言葉は穏やかで、表情は至って柔和だった。


 ただその瞳の奥には、はっきりと底光りする歴戦の商人のそれが見て取れる。

 僕は射すくめられたかの様な感覚を覚えながらも、負けじとばかりにはっきりと言葉を返した。


「はい。予定通りの金額で、うちが全て購入する運びとなりました」

「ふふ、結構。それどころか上出来すぎるくらいだよ。さあ、そんな廊下にいないで、こちらにお入り」

「失礼致します」

 旦那様の許可を得て僕は部屋の中へと足を踏み入れる。そして勧められるままに向かいへと座った。


「さて、以前からの約束だけど、手代になったら君が上げた商いの利益の二割を取り分とする。それは覚えているかな?」

「ええ、もちろんです。ですが、この南蛮貿易はさすがに……」

「いや、私としては含めてしまっても構わないと思っているのだがね」

 あっさりとした口調で、旦那様はありえないことを口にする。


 これが他の堺衆の旦那が言ったのならば、ただの冗談だと笑って終わりだっただろう。

 だが目の前の御仁は、本気でそれくらいの思い切った公言を守りかねない。だからこそ、僕は慌てて反論を口にした。


「旦那様。此度のこと、如何ほどの金額になると思っておられるのです。僕は反対です」

「いや、君に取り分を多くしてあげようというのに、まさか反対されるとは……はは、困ったものだ」

「今日、番頭さんにも言われましたが、あまりに僕ばかり御恩を頂くのは、家中の不和を招きかねません。ですので、基本的には旦那様のものとして頂くべきです」

 僕ははっきりとした口調で、そう述べる。

 その瞬間、旦那様の瞳の奥が怪しく光った。


「基本的には?」

「ええ、基本的には。もし僕がその得るはずだったそのお金を、今後何らかの理由で必要とする場合、旦那様の許可を頂いた上で使わせて頂けたら幸いかと」

「それだと、私が許可を出さなければ、君は一切利益を得ていないのと同じになるよ。本当にそれでも構わないのかい?」

 念を押すように、旦那様はそう問いかけてくる。

 だがそれに対する答えは、考えるまでもなかった。


「はい、結構です。むしろ僕に価値がないとお思いでしたら、最初から許可を出さないおつもりで、自由に使って頂いて結構です」

「言うようになったね、秀一。思うにその本音は、金の保管を私に押し付けることのようにも考えられるのだけど、その辺りどうなのかな?」

「さて、どうでしょうか。でも、弟子は師を見て育つものだと思います」

 旦那様に向かって、僕はあえてはぐらかすようにそう告げる。

 すると、このような問答を好む旦那様は、嬉しそうに声を上げて笑った。


「はは、なるほど。そうそう、師といえば卜伝殿とは順調かね?」

「順調というか、日々格の違いというものを痛感する日々であります」

「それはそうだろう。腕に自信のある者でさえ、赤子の如き扱いをされてしまう御仁だからね」

「ええ。実際に十河様でさえ、師匠に一槍も浴びせることが出来ておりませんから」

 後から押しかけてきて、そしていつの間にか僕以上に師匠にくっついている御仁。その名を僕は旦那様に向かって告げた。


 途端、旦那様は興味深そうにその視線を僅かに強める。


「ほう、鬼十河殿がか。それは本当に凄いな」

「おかげで三好家の仕事をほっぽり出し、卜伝殿の庵に連日通っておる有様のようでして」

「まああの方は負けず嫌いだからね。しかし十河様か、なるほど」

「どうかされましたか?」

 一人で納得してしまわれた旦那様を前に、僕はその意図するところがわからず、わずかに首を傾げる。


「いやいや、面白いお方と縁が繋がったと思ってね。しかし、少しばかり注意をしておいた方がいい」

「注意……ですか」

 めったに旦那様が口にしない言葉。

 それを耳にして僕は何やら胸騒ぎを覚える。


「ああ、注意だ。いや、十河様自体がどうこうということはない。私自身もお会いしたことがあるが、質実剛健の気持ちの良いお方だと思うからね。ただ問題は、彼と上手く行っていない人物の存在だ」

「……それは三好家の家宰殿のことでしょうか?」

 現在、四国及び畿内において最大の勢力を有する三好家。

 その当主である三好長慶の懐刀であり、後世に名を残したあの人物のことが僕の脳裏をよぎった。


 そしてそんな僕の予想が正しいとばかりに、旦那様は小さく一度だけ頷く。


「ああ、久秀殿は我が義父である紹鴎の下で、ともに茶の湯を学んだ身だ。個人的には懐広く、実に知性豊かな友人だと思っている。但し、些か欲と業が深き男だとも言えるがね」

「ご忠告、この胸にしかと刻ませていただきます」

 それだけを口にして、僕は深く頭を下げた。


 松永まつなが久秀ひさひで

 戦国最大の梟雄にして、因縁を感じずにはいられぬ苗字を有する男。

 僕は胸騒ぎが強くなる感覚を覚えながら、どうにか表情に出さぬよう、必死に堪える。


 一方、そんな僕の中で渦巻く感情を知ってか知らずか、旦那様は僅かに険しい表情を浮かべると、敢えて再び警告を繰り返した。


「まあ、今井家の一手代にどうこうされるお人ではなかろうて。でも今後、君がもし別の道に歩むというのなら、頭の片隅には留めておいたほうがいい」

「はい」

 端的に、しかしはっきりと自らの理解を伝える声で、僕は返事を行う。

 それを受けて、旦那様はすぐにいつもの柔和な笑みを浮かべ直すと、思わぬ誘いを口にした。


「さて、似合わぬ忠告などしてしまった。どうだい、秀一。このあと、私と一献付き合わないかい?」

 その言葉が発せられ、僕は一瞬返事に戸惑う。

 すると次の瞬間、思わぬ声が廊下の方向から発せられた。


「あらあら、お義父様。まだ秀一さんにはお酒は早いんじゃないですか?」

「おや、莉乃も帰ってきたのかい?」

 旦那様は視線を僕よりすこし先へと動かすと、軽い口調でそう問いかける。

 一方、声を向けられた義娘の莉乃様は、穏やかな笑みを浮かべながら、いつもの優雅な足取りでゆっくりと部屋の中へ入ってきた。


 若くそしてはっきりと品を感じさせながら、どこか母性を感じさせる顔立ち。

 スラリとした肢体と相まって、他の商家から嫁の引き合いが絶えぬのも当然と感じさせる程の美人、それが今井莉乃であった。


 そんな見る者の心を柔らかく包み込む容姿を持つ彼女であるが、たったひとつだけ悪癖と呼べるものが存在する。

 それは唐突に、僕をからかわれる癖がおありなことだった。


「ええ、たった今帰りました。お義父様に呼ばれて、帳簿合わせを免れた秀一さんと違いましてね」

「いや、あの、莉乃様。私はだから一緒にやりますと」

 思いがけぬ言葉の刃を向けられた僕は、慌てて左右に首を振る。

 すると今度は、全く別方向から思わぬ口撃が発せられた。


「ふむ、つまりは私より帳簿のほうが大事だと、君はそう言いたいのかな?」

「いえ、そんなわけではないのですが、えっと……」

 あちらを立てればこちらが立たずといった状況で、僕は思わず言葉に詰まってしまう。


 途端、そんな僕の様相を目にしていた二人は、嬉しそうに笑い声を上げた。


「ふふ。冗談ですよ、秀一さん」

「はっはっは、それで莉乃。荷の方はどうだったかな?」

「はい。どこかの誰かさんの希望で、やたら硝石が多く積み込まれていました。ですが、それ以外はほぼ前回と同じです」

 意味ありげにこちらへと視線を向けながら、莉乃様はそう報告される。

 その意味するところを理解した旦那様は、右の口角を吊り上げると、僕に向かってその口を開いた。


「誰かさんの希望ねぇ……その辺り、当人自身はどう考えているのかな?」

「これからの時代、おそらく硝石は大幅に需要が拡大すると考えております。ですから、値が上る前に押さえておくことは、商人としてただただ当然の判断かと」

 僕ははっきりとした口調で、旦那様の問いに答える。

 途端、旦那様は顎に手を当て、そして僕へと更なる見解を求めてきた。


「値が上がる前か。君は槍と刀の時代は終わり、これからは鉄砲の時代が来ると、つまりそう考えているわけだ」

「はい。おそらく間違いないかと」

「ふむ、面白い考えだね。この堺においても、まだ鉄砲の受注は芳しくないと聞いている。しかしながら、そんな武器が主流となる……か。他ならぬ卜伝翁に師事している君が、まさかそう考えているとはね」

「いえ、だからこそ余計にそう感じている次第なのです」

 旦那様の言葉を受け、僕ははっきりと自らの考えを示す。

 すると、いつの間にか隣りに座られた莉乃様が、僕の目を覗き込みながら、その理由を問いかけてきた。


「どういうことですか、秀一さん」

「それは師匠のように剣の道を極めるのは、あまりに困難だからです。まず本人の才が必要な上、修練に非常に長い時間と努力を必要とします。つまり――」

「つまり、鉄砲は才能と時間を銭で賄える可能性が高いと、そういうことかな?」

 僕が答えようとした内容を、旦那様はすぐに理解されると、先回りして問いかけてくる。


 流石としか言いようがない。

 たった一代で、堺……いや、日ノ本において有数の商人に成り上がった今井宗久の頭脳の一端を、僕は改めて恐怖した。


「……はい、その通りです」

「ですがその為には、とても多くの金子が必要となりますね。何しろ鉄砲一丁を手に入れるのでさえ困難なこの時代。それを兵たちに行き渡らせるとなると、どれほどお金が掛かるか」

「ましてや消耗品の多い、鉄砲ならば……いや、なるほど。つまりそれを見越してというわけだね」

 莉乃様の言葉を受けた後、自分一人で答えへと達した旦那様は、納得したように二度三度首を縦に振る。

 その姿を目にした僕は、もはやそれ以上説明する必要を覚えず、ただただ頭を下げた。


「ご明察恐れいります」

「いずれ需要が増えれば、鉄砲の生産は拡大していく。そして次第にその生産費用は下がり始め、各大名家はこぞって鉄砲を欲しがようになる……か。確かにそうなると、当然の事ながら消耗品である硝石は安定して飛ぶように売れるだろうね」

「その際にうちの他の商品も併せて売れたら、非常に有りがたい話ですわね」

 旦那様の言葉に続ける形で、莉乃様はニコニコした笑みを浮かべたまま、なんでもないことのようにそう口にする。


 この義父あってこの義娘あり。

 二人の言葉を耳にして、僕はそう思わずにはいられなかった。


「はい。まさにそれこそ、僕の考えるところです」

「なるほどな。いや、だが……まあいいか。いずれにせよ、硝石の取り扱いは君に一任するとしよう。精々、上手くやってくれ」

 何かを言いかけたものの、旦那様は途中で気が変わったのか、ただ単純に僕へと一任することを口にした。

 僕はその反応に引っかかりを覚え、一瞬この話の裏を読まれたのではないかと僅かな焦りを覚える。


 だが流石にこの二人とて、神様ではない。

 今の会話だけで、全てを推察しているとは考えられなかった。


 だからこそ、これ以上情報を与えないためにも、僕は慌ててこの場から逃れることを選択する。


「心得ました。それでは申し訳ないのですが、このあと所用がありまして、少し席を外させて頂きます」

「あらあら、マリアちゃんのところかしら?」

「いえ……いや、もちろん違うというわけではないのですが、ファビオ様に食事を誘われておりまして」

 僕の言葉自体は嘘ではない。

 ファビオ・コスタ氏によって、堺に到着されるなり夕食に招かれた事は事実である。


 もちろん、それは彼の娘による、強い嘆願の結果でもあったが。


「ほう、親公認というわけかい。しかし参ったな。このままだと、うちの莉乃が更に行き遅れてしまいそうだ」

「ふふ、それは困りますね。マリアちゃんがダメなら、お姉さんが何時でも待っていますからね」

「からかわないで下さい、莉乃様。ともあれ、失礼させていただきます」

 背中に冷たいものが走る感覚を覚えながら、改めて深々と頭を下げると、僕はそそくさと部屋から逃げ出した。




「それで、君から見た彼はどうかな?」

 一人の少年がいなくなった部屋。

 親子二人だけとなった空間で、義父は義娘に向かいそう問いかける。


「そうですね、女の子みたいな可愛らしい華奢な見た目は好きですよ。でもその中身は……子供の殻を被ったバケモノ。ふふ、だからより惹かれてしまうのですわ」

 莉乃はいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、彼を見て以来ずっと考えていた評価を、一切包み隠すことなく口にした。


「ふむ、面白い評価だね。そして私と全く同じだ」

「あらあら、それは奇遇ですわね。お義父様」

 彦八郎の言葉を受けて、莉乃は口元を押さえながら笑う。

 一方、彦八郎は少し考えこむ素振りを見せ、そしておもむろに義娘に向かって語りかけた。


「私なりに思うのだけど、先ほどの硝石の件は、おそらくもう一つ裏があるだろうね」

「どういうことですか?」

「硝石の値段が高沸して利益が上がる。うん、確かにそれも彼が考えていることの一つだろうね。でも本命は、硝石を握ること自体なんじゃないかな」

 彦八郎は顎に右手を当てながら、ゆっくりとそう述べる。

 すると、莉乃は確認するように彼が口にした言葉を繰り返した。


「硝石を握ること自体……ですか」

「うん。そうだね、仮に彼が国内の硝石の物流を全て押さえたとしよう。もちろん南蛮貿易は肥前の方が盛んだし、明国の船からも多く持ち込まれているからね、実際に全ては押さえられない。でも、まあ仮にさ。さてその上で、今後鉄砲が戦いの主流となればどうなると思う?」

 彦八郎は少し試すような口調で、莉乃に向かい尋ねる。

 それに対し、莉乃はやや険しい表情を浮かべながら逆に問い返してみせた。


「つまり硝石を握るものが、戦を左右すると?」

「そうだね。鉄砲自体、今では各国のいろんな鍛冶が作り始めている。だけど、硝石だけは海の外から持ってこなければならない。となれば、次に彼が僕に言ってくることは簡単さ。今回の貿易で得た利益を元に、堺の他家が扱っている硝石の販売網を奪えないかとね。もっとも、千宗易せんのそうえき殿や、津田つだ宗及そうぎゅう殿あたりには通じないだろうけどさ」

 苦笑を浮かべながら、彦八郎は軽く肩をすくめてみせる。

 だが莉乃は、そんな彼に向かって一つの仮定を口にした。


「たかだか南蛮貿易だけで得られた利益。しかもその一部ではとても無理でしょうね。でも、お義父様が全面的に協力したら、決して不可能ではないと思いますけど」

「いや、不可能さ。我ら堺商人は独占や支配を嫌う。独立独歩こそがその誇りだからね。その辺りが君の弟殿とは違う点とも言える」

 その言葉が彦八郎の口から発せられた瞬間、莉乃はすぐに首を左右に振る。


「あらあら、兼久はまだ六歳ですよ。そんな大人物ではありませんわ」

「私の息子はそうかもしれないね。でもそうではない方の、君の弟殿はどうかな?」

「……確かにあの子は、肉食も妻帯も許される生臭坊主です。でもあの子は、あの子なりに堺の町衆に負けぬだけの誇りを持っています。もちろん姉としての贔屓目かもしれませんけどね」

 莉乃はそれだけを口にすると、もうこの話題は終わりだとばかりに、その視線をそらした。

 その仕草を目にして、彦八郎は苦笑を浮かべながら、彼女の望み通り話題を変える。


「ふふ、なるほどね。まあともかく、秀一は次に何をしようとするだろうね」

「わかりませんわ。でも、きっと愉快なことだと思います。少なくとも、私達今井の者にとってはですが」

 莉乃が意味あり気に微笑みながらそう述べると、彦八郎も同感だとばかりに大きく首を縦に振った。


「かもしれないね。しかし、本当に彼が来てから、日々飽きがこなくて困るよ」

「あらあら、全く困ってるお顔ではないですけど」

「ふふ、それは君も同じじゃないかな?」

 莉乃の切り返しに対し、彦八郎はすぐに言葉を突き返す。

 だがそんな彼の言葉を、彼女はあっさりと否定した。


「いえ、私は困ったなんて初めから言っておりませんもの。この上なく楽しいですわ。あんな面白いバケモノと、それを操ろうとする強欲商人。そんな興味深い二人を、すぐ傍で見ることが出来るのですから」

「それはそれは。しかしバケモノか……やはりこの上なく適切な例えだね、それは。さて、それではそんなバケモノくんに負けぬよう、私も商いに励むとしようか」




 ふむ……たぶん大体のところは読まれてしまったかな。

 僕はそう考えながら道を急ぐ。


 硝石を押さえる。

 それは僕の中で最良と判断した方法であった。


 もちろん硝石は作ることが出来る。古土法と呼ばれる家の床下の黒土から抽出する方法や、蚕の糞や人尿をつかう培養法といった前世の知識を有する僕ならば。


 だけど、今の時点でそれを行うのは時期尚早だ。

 仮にすべての工程を自分一人で行ったとしても、作りだされた硝石の出元が不明な以上、様々な憶測が産まれるだろう。


 しかも現実的には、そんな非効率的なことをやっている余裕はない。また人を雇って大規模に行えば、必ず情報と技術は流出する。

 要するに、現代知識を安易にこの世界で流用することは、非常に危険だと僕は考えていた。


 但し、リスクを負わずしてリワードは得ることは出来ない。

 それ故に、僕は外国語という一つのカードを切った。


 この行為が歴史の流れに対しどれだけの影響を、そしてバタフライエフェクトを産んでいるのかわからない以上、ここで安易に硝石生産や火縄銃のフリントロック化など、過ぎた技術を持ち出すのは愚の骨頂だろう。


 まず行うべきは検証と考察。

 そしてその上で、慎重に新たなカードを切る。


 この繰り返しこそが、遠回りのようでありながら、最も確実で正しい道のりだと僕は信じていた。


 そしてその道こそが、繋がっているのだと思う。

 我が友人にして最大のライバル、黒田官兵衛との――


 僕が自分の思考に集中して、前を見ずに歩いていたそんな時、突然強い衝撃を覚える。そしてそのまま、僕は後ろ向きに転倒した。


「おっと、失礼……って、今井さんのところの坊やじゃないか」

 打ち付けた腰をさすっていた僕は、その声を耳にするなり、慌て視線を上げる。そしてそこに立っている人物を目にすると、僕は慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ありません、宗易そうえき様」

 僕がぶつかり尻餅をつくことになった人物。

 彼こそは、この堺でも屈指の有力者である千宗易……つまり千利休その人であった。


「なに、倒れたのは君の方だよ。私も話しに夢中になっていて気が付かなかった。確か天海くんだったかな、すまなかったね」

 そう口にすると、宗易様は僕の手を取り、そして引き上げてくれた。

 そうして立ち上がった僕は、そこで初めて別方向から向けられた視線の存在に気がつく。


 それは宗易様の隣に立っていた、やや華美な服装をした若い男によるものであった。


 少し高い鼻に、僅かに目立つ細く整えられた口ひげ。

 そして何より、ギラギラしたという表現がこの上なく当てはまるその眼。


 その人物を見返した瞬間、僕はまるで心臓を掴まれたかのように、一瞬身動きが取れなくなった。


「宗易殿、こちらの小僧とは顔見知りかな?」

 覇気溢れる若き男は、足の下から頭の上まで僕を値踏みした後、やや甲高い声で宗易様にそう問いかける。


「ええ。納屋家の今井宗久殿のところにいる、ちょっと変わった手代でしてね。何しろ、この歳にして南蛮語を自由に操ることが出来ると言うのですから」

「ほう、それは興味深い。我が配下にも一人くらいは欲しいものだ」

 その言葉を耳にした瞬間、僕は一瞬緊張を覚える。


 理由はない。


 だが、僕の直感が目の前の男がある男ではないかと告げていた。

 そう、僕が歩む道の上で、必ず出会うべき男だと。


「はっはっは、上総介かずさのすけ殿は最近優秀な猿面の男をお抱えになったと、小耳に挟みましたがな」

「猿か……確かにあやつは良い。だが、優秀な者なら何人いようと困ることなど無い。宗易、例えば貴公などもな」

 そう口にすると、眼前の若い男はニヤリと笑みを浮かべる。

 一方、宗易殿はあえて高らかと笑い声を上げた。


「おやおや、一介の街商人に何をご期待なのか」

「ふふ。まあ今はまだ、お主を雇うほどの力は俺にはない。だが、いずれ……な」

「では、不詳ながらこの千宗易。上総介殿が力をつけたる日を楽しみに待つとしましょう」

 眼前で繰り広げられる会話。

 それを耳にして僕は確信した。


 僕はこの時代において最大の風雲児と初めて邂逅したのだと。




あとがき


千利休せんのりきゅう

大永2年(1522年)生まれ。幼名は田中与四郎。のち法名を宗易。利休という名は、天正13年に正親町天皇から与えられたものである。

戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり茶人で、今井宗久や津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。また茶の湯の一形式であるわび茶の完成者であり茶聖とも称せられることがある。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る