第二章 堺編
第一話 剣聖
剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり
―塚原卜伝
永禄元年、1558年の冬。
日ノ本最大の商業都市、堺の片隅に僕はいた。
冬の寒空の下、怪力無双の大男とともに、一人の痩せた老人と対峙する形で。
「
「おう!」
僕の合図に合わせて、額を剃りあげた大男が、一気に木槍を振り下ろす。
剛槍一閃。
手にしているのは木槍ながらも、その言葉がまさにふさわしい一撃。
だがそんな豪快な一撃は、眼前の人物に当たる直前、ほんの僅かに軌道がそれた。
老人のしわがれた左手が、木槍の側面を軽く叩いたために。
「でしょうね。だけど、今なら!」
僕は確信を持って、手にした木刀を横薙ぎに払う。
そう、目の前の老人が木槍を払ったそのタイミングで。
「悪くはない。だが、まだ甘いのう。秀一」
老人はそう口にするなり、後方に視線を向けること無く、後手で木刀を操ると、僕の一撃を受け止める。
「そんな……」
「さて、ぼんやりしとる暇はないぞ」
老人はそう口にすると、右手に握っていた木刀を突然手放した。
途端、込めていた力をすかされた僕は、バランスを崩し前へとつんのめりかける。
ほんの一瞬の隙。
それを老人が見逃すはずもなく、僕は足元を払われた感覚を覚えると、天地が逆転する。
そしてほぼ同時に、もう一人の大男は大地へと組み伏せられた。
「かっかっか、まだまだじゃな。お主ら」
地面に転がった僕らを眺めやりながら、老人は闊達に笑う。
「というか、師匠があまりにお強すぎるだけですよ」
まったく邪気のない笑い声を耳にしながら、僕はため息混じりにそう漏らす。
すると、これまで培ってきた自信をポッキリと折られた大男も、僕と同様に深い溜め息を吐き出した。
「いつものことながら、二人がかりで襲いかかって息一つ切らさんとはな……あんたみたいな化け物はさ、正直他にいないぜ」
嘆きながらそう口にした怪力無双の大男。
その名を
今現在、老人の前で地面へと這いつくばっているが、本来ならば彼はこんな格好を、それどころか堺の片隅で槍を振るっていて良い男ではない。
なぜならば彼は、この畿内最大の実力を誇る三好家の四男にあたる身であり、鬼十河などとも呼ばれ彼の家の武の象徴ともされる人物であった。
逆に言えば、そんな身分でもある彼が、他の何を置いてでも手合わせを願いたい人物。それこそが、目の前のやせ細った老人であったとも言えよう。
「かっかっか、この卜伝。ひよっこが二人でかかってこようと、そうは遅れを取らんよ」
嬉しそうにそう口にすると、目の前の老人はニヤリと右の口角を吊り上げる。
御年六十九にして、未だこの日ノ本最強。
それが目の前で闊達に笑う剣聖こと
「とは言え、なぜ後ろからの剣に反応できるんですか。十河様と完全に呼吸を合わせて、ほぼ同時に斬りかかったつもりだったのですが」
「ふむ、それは簡単じゃ。何せお主は機を狙いすぎる悪癖があるからのう」
手にしていた木刀を杖代わりにしながら、目の前の白髪の老人はあっさりとそう述べる。
「機を狙いすぎる……ですか」
「そうじゃ。十河の槍が前方からわしを襲う。その時、お主がわしを狙うならば、同時に剣を振るうのが最良の選択。おそらくそう考えたんじゃろ?」
「はい、その通りです。そして結果として受け止められはしました。でも考え方自体は、間違っていないと思うのですが……」
そう、相手をするのが目の前の老人のような化け物でなければ、確実に僕の一撃はその背中を捉えていた。そのことに関しては、僕なりに確信もある。
だがそんな僕の言葉に対して、老人は意味ありげな笑みを浮かべてみせた。
「うむ。実にお主らしい答えじゃな。じゃが一方で、それこそがお主の弱点とも言える。最良の選択肢とは、時として相手に予測されやすい。要するに、頭を使って剣を振るおうとしすぎるのが、今のお主の欠点というわけじゃな」
「ほら見ろ、秀一。だからこの俺が言ったとおりだろ」
木槍を片手にゆっくりと起き上がってきた大男は、師匠の言葉に乗っかるような形でそう口にする。
……どうやら手合わせする前の打ち合わせで、僕の作戦に賛成した事はすっかり忘れてしまったようだ。
だが、そんな調子の良い彼は、すぐさま師匠によって叱責を浴びることとなる。
「十河、お主は逆じゃ。剣を振るう際の理想の境地は無心じゃ。じゃが、動き出す直前までは、敵の動きと自らの動きを常に考えねばならん。お前はもっと頭を使え!」
「ですよね。十河様はもう少し考えて動きましょうよ。最後は二人で同時に攻撃できましたけど、それまで十河様が先走って、全然息が合わなかったじゃないですか」
「なにぃ、そんなバカな。俺は常に全力で槍を振るっていたぞ」
「いや、全力だったかどうかの問題では無くてですね……」
三好家の特攻隊長ともいうべき目の前の人物に対し、僕はそれ以上の言葉を持ち得ず、深々と溜め息を吐き出した。
もちろんそんな僕の行為は、冷静に考えれば、それは堺の一町民に許されるものではない。
それもこれも、脳筋という言葉をそのまま具現化したような目の前の男が、先に師匠の門下となった僕のことを立てると決めていたからであった。
それどころかむしろ彼は、この修行場においてある程度対等に近い振る舞いをしないと、却ってへそを曲げてしまうのである。
ただ正直なことを言うと、僕はそんな無骨な十河様がかなり好きだ。
そして無敵という言葉が、この世においてこの上なく当てはまる卜伝師匠のことも。
「それより秀一。そろそろ急いだほうが良いのではないかな?」
「へ? 何がですか?」
師匠から突然問われた僕は、何のことかわからず首を傾げた。
すると師匠は、稽古に集中し過ぎたあまり、完全に頭の中から抜け落ちていた一つの重要事を、僕に向かって口にする。
「確か夕方に南蛮船が来るんじゃろう。彦八郎殿がお主に対応を任せると言っておった気がするがのう」
「……あ!? す、すいません師匠、そして十河様。僕、行ってきます」
今日は夕刻からが仕事だから、昼間にこの場所へと通わせて頂いたのである。
にも関わらず、その大事な夕刻からの仕事を忘れるとは、些か剣に集中しすぎた。
僕は自分の中で深く反省しながら、慌ててその場を駆け出す。
そんな僕の背中には、十河様の茶化すような大声がはっきりと響いた。
「女に間違われるほど華奢なんだ。せいぜい南蛮人に舐められんなよ、秀一」
堺に来て早三年。
姫路で生まれ育ち、ここに来るまでに僕なりにこの時代というものを理解したつもりだった。
だが、そんな浅い了見は、この時代の堺を目にしてまさに吹っ飛ぶこととなった。
道という道を人々が行き交い、どの軒先からも元気の良い声が響く。
姫路出身となる僕に言わせてみれば、それはまるで毎日お祭りをやっているかのような大騒ぎに思えた。
そんな人々の活気に当てられて、僕はこの三年間夢中で走り続けている。
旦那様である今井宗久こと彦八郎様の下で、少しずつ商いを学ばせてもらい、今では取引だけではなくこの時代に関する様々な知識を少しずつ得ることが出来た。
逆に僕は旦那様たちのために、元々前世で有していた英語の知識を元にして、南蛮船との通訳を担っている。
もちろん南蛮船との取引は、前世で学んだ英語だけでのやり取りは困難であった。なぜならばこの時代、この日ノ本に来る南蛮人の殆どは、ポルトガルかスペインの人間であったからだ。
しかしながら幸いな事に、英語も扱える南蛮人と出会うことができ、言語として非常に近かったこともあって、僕はどうにか両国の言語を身につけることが出来た。
一方、あっという間にポルトガル語などを習得した僕に、今井家の他の丁稚や手代さん達は驚いていた。だがそれは却って、旦那様の眼力の確かさを示す事を意味し、彦八郎様がニンマリとした表情を浮かべていたことを、僕は今でも覚えている。
そして今、僕は前世で言う係長のような役職である手代へと昇進し、堺滞在中の卜伝師匠の下で剣を学ぶ許可を頂くことができていた。
「だからこそ、普段の仕事はしっかりとこなさないといけないんだけどね」
正直、十河様のことを馬鹿にできない。
それほど師匠との手合わせに熱くなりすぎていたのは事実である。
前世においてはお金がなく、とても剣道を習うなんてことは出来なかった。
しかし歴史に名を残す剣豪から、直接剣技を授かると言うそれ以上の機会を、僕はこの時代で得ることが出来ている。
だからこそ、師匠がこの地にとどまられる間に、出来る限りのことを学ばせて頂く為にも、普段の仕事に穴を開ける訳にはいかなかった。
そうして堺のはずれから港に向かって走り続けた僕の視界に、無数の帆船が写り始める。
東洋のベニスと呼ばれた堺。
その無数に並ぶ大小様々な船は、前世で海と縁の遠い生活をしていた僕でさえ、心躍るものがあった。
そしてそんな中でもひときわ大きいキャラック船が、堂々とした佇まいで港に入ってくるのを、僕はその視界に捉える。
「ああ、ほんとギリギリだ」
足の速度を早め、まっすぐに停泊地向かって僕は駆け出す。
昨年、ポルトガルがマカオの使用権を得て、この日ノ本に南蛮船が訪れる機会が急速に増えつつあった。
だがその殆どは、前世で言う長崎の平戸などに訪れており、未だこの堺には足が伸ばされていない。
そう、我が今井家の取引相手であるファビオ・コスタ氏を除いては。
「秀一、遅かったな」
船員が降船してくる直前に、どうにか荷降ろし場へと到着した僕は、先に待機していた番頭の与助さんから苦言を呈される。
「す、すいません、番頭さん」
僕は息を切らせながら、その場で待っていた番頭さんともう一人の人物に向かい、慌てて謝罪を口にした。
一方、そんな僕に向かって、番頭さんは少し呆れた素振りを見せると、小さく溜め息を吐き出す。
「まったく、コスタ家の人たちを待たせるわけにはいかんのに、しょうがない奴だ。いつも取引相手よりは、充分以上に先回りして動けと言っているだろ?」
破綻こそきたしていないものの、これまでも何かにつけてぎりぎりで動き回っていた僕に対し、番頭さんが繰り返してきた言葉。
それを前にして、僕はただただ頭を下げる。
すると、その場に同席していたもう一人の人物が、間に入るような形で僕に向かい助け舟を出してきてくれた。
「まあまあ、与助さん。ちゃんと先方が到着する前には着いたのですから、別に良いではありませんか」
「ですが、莉乃様」
「それに秀一がいなければ、最初から仕事にはなりませんわ。我が家で紅毛人の方と話ができるのは、彼だけなんですから」
そう口にすると、今井家の責任者としてこの場に足を運んでいた莉乃は、ニコリと微笑む。
今井莉乃。
御年十八となる今井宗久の養女であり、その聡明な知性と気品溢れる佇まいから、女性ながらに商いの一部を任されている才女であった。
もちろん溢れんばかりの才だけではなく、その優れた美貌から、堺の有力商人の集まりである会合衆や、畿内の国衆や守護などからも複数の婚姻話が届けられていると噂されている。
そんな彼女は、僕にとって間違いなく大いなる恩人でもあった。
なぜならば、僕が丁稚から手代へと引き上げて貰えたのも、彼女が南蛮貿易を積極的に推し進めたことにその理由がある。
だからこそ、今井家に於いては旦那様に次いで頭の上がらぬ御仁とも言えた。
「莉乃様、おっしゃられることはわかります。だが、あまり甘やかされてはダメですぞ。秀一が優秀なこと、そして貴方や旦那様が期待しているのも知ってはいます。ですが、あまりに優遇しすぎると他の丁稚や手代たちに示しがつきません」
「そうかしら?」
「そうです」
番頭の与助さんははっきりと莉乃様に向かってそう断言する。
すると莉乃様は、思いもしなかったことを番頭さんに向かって口走った。
「でも、丁稚をこちらの交渉役として差し出すのは失礼に当たる。だから秀一を手代に引き上げるべきだと後押ししたのは、たしか貴方だったと思いますが」
「それは……」
いつも口を開けば苦言ばかりを頂いていた番頭さんが、僕の昇格を後押ししていたという事実。それはまったくもって寝耳に水の話だった。
通常、丁稚を十年ほど務め上げ、優秀な者のみが手代へと昇格させてもらえる。それがこの時代の常識であった。
それをわずか三年で引き上げてもらえたのは、ひとえに旦那様方のご意向だったのだと、僕はこれまで思い込んでいたのである。
ただいつも厳しくしつけている手前もあるのだろう。番頭さんにとってその話は僕に聞かせたくない話だったようだ。
だから僕は、すぐに二人の間に割って入って、再び謝罪を口にする。
「いえ、莉乃様。私事にて、余裕を持たず到着した僕が悪いのです。番頭さんも申し訳ありませんでした」
「うむ、今後は無いようにな」
依然として苦い表情を浮かべたままではあったが、番頭さんはこの話はここまでと決めたようだ。
僕としてはありがたいような、それでいて居心地の悪いような感覚を覚えながら、それ以上何も口にすること無く口をつぐむ。
そうして、僕は視線をキャラック船へと向け直すと、到着した船に向かい、次々と人が乗り込んでいくのを見て取った。
「あれ……あの方々はどなたですか?」
到着した船から人が降りてくるのではなく、逆に人が乗り込んでいく。
まるであべこべな光景に、僕は思わず首を傾げる。
「ああ、あれは自治衆の者たちですね」
「自治衆?」
莉乃様の言葉を耳にして、僕は眉間にしわを寄せる。
すると彼女は、穏やかな笑みを浮かべたまま、その口を開いた。
「ええ。ほら、最近奴隷の密貿易が行われているって噂があるでしょう。実際に、瀬戸内のいろんな港周りで、怪しい船が出ているみたいですから」
「なるほど。それで堺の自治衆の者たちが、一隻一隻チェックしているとそういうわけですか」
「そのとおりよ。だって、三好家の船なんかは自前で管理も調査もできるからいいけど、私達商人は一つの家だけじゃとても無理ですからね。だから、商船くらいは自分たちでやろうってことになったみたいよ」
そう口にしたところで、莉乃様は苦笑を浮かべる。
僕はいまいち奴隷という言葉にピンとこなかったが、彼女に合わせて苦笑を浮かべてみせた。
そうして、僕達がそんなやり取りをしている合間に、どうやら船のチェックは終わったようだ。
自治衆の者たちに伴って、次々と南蛮人が降船を始める。そして同時に荷降ろしも開始した。
戦国の世における日本最大の貿易港であるこの堺。
しかしながら、今だ南蛮人は非常に珍しい存在であった。
それ故に、荷降ろしが行われていくと、次第に近くの商船や倉庫業を営む者たちが、興味本位でそんな外国人たちを見物にやってくる。
彼らは目の前に積み上げられた荷を目の当たりにしながら、あれやこれやと会話を交わし、いつしかその人数はとても両の手では数えられぬ程となっていた。
一方、僕がそんな野次馬の数を数えている間に、船に積まれていた全ての荷が降ろされていた。
そして残っていた船員たちが次々と降船を開始する。
そんな多数の南蛮人の中に、ひときわ身なりの良い金髪の親子が混じっていた。
身長百九十センチ近くもありそうな髭を蓄えた大柄な父親。
そしてまだ齢十になるかならないかといった様相の長い艶やかな金髪を有する彼の娘。
そんな二人組は、僕の姿を認めるなりその表情を緩める。
そして幼い金髪の少女は、大地へと足をつけた瞬間、周囲の制止をよそに突然その場を駆け出した。
まっすぐに、この僕へと向かって。
「久しぶりね、シュウイチ!」
体当りするような形で、僕に向かって飛びついてきた少女。
彼女こそ、僕のポルトガル語の師にしてファビオ・コスタの愛娘。
マリア・コスタその人であった。
あとがき
延徳元年(1489年)生まれ。幼名は
新陰流の祖である上泉信綱と並び、まさに『剣聖』と称されるに相応しい達人である。
天文元年(1532年)生まれ。幼名は之虎。通称は又四郎。
讃岐の国人である寒川氏との戦いの折、彼は腕を負傷し帰陣する。だが傷口に塩を塗り込んで藤のツルを巻きつけると、何事もなかったかのように再び敵陣に突入し、戦いに勝利した。この逸話から『鬼十河』や 『夜叉十河』などと称されるようになった微笑ましくも恐るべき脳筋である。
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