第二話 堺商人

「お、秀一じゃないか。うわぁ、腫れてるなぁ」

「触らないでくださいよ、二兵衛兄ちゃん」

 同情半分、興味半分といった眼差しで、二兵衛は僕の腫れ上がった頬を見つめてくる。


 うん、昨日のお絹さんの一撃は、スナップが効いていていつも以上に痛かった。

 にも関わらず、今日もこうして仕事を抜けだして来ているのだから、ほんと我ながら度し難い。


「今日は和尚、どんな話をしてくれるかなぁ」

「この前は源平盛衰記でしたよね。その続きじゃないですか?」

「源平盛衰記? ああ、なんかそんな名前だったかな。あの義仲よしなかが京に入るやつだろ」

「ええ、それです」

 二兵衛の回答を受け、僕は苦笑を浮かべながら一つ頷く。


 萬吉の教育係を任されている浄土宗の圓満和尚は、村の他の子供達にも折を見ていろんな話をしてくれたり、簡単な授業をしてくれたりする。

 その語り口はなかなか軽妙なものであり、娯楽もないこの時代にあって和尚のそんな話は、子どもたちにとって最大の楽しみの一つであった。


 一方、僕から見ると彼のそんな無償の行為には、とある理由が存在するように思われていた。

 もちろん檀家の子どもたちへのサービス精神というものもあるだろう。だがそれだけではないとある理由が、彼の中には隠されているように思われたのである。

 それは――


「秀一、なんだなんだ? またあっちの世界に行ってしまったか?」

「はは。いや、二兵衛兄ちゃん。なんでもないよ。それよりも和尚のところへ急ごう」

 突然横合いから思考を遮られた僕は、苦笑を浮かべるとそのまま足を早めた。


 圓満和尚の寺は、村の東のはずれに存在する。

 現在は小寺性を名乗るようになった黒田家の人たちを除けば、圓満和尚は間違いなく村でも最も尊敬されている人物であった。


 だからこそ、その寺はなかなかに立派なものである。

 というのも、貧しいものから豪農に至るまで、それぞれに額の大小はあるものの檀家からの寄進が少なくなかったためだ。


 そんなきっちりと清掃の行き届いた寺の境内に足を踏み入れた時、見慣れぬ男性が和尚と話しているのに僕は気づいた。


「ほほう……それは実に興味深い話ですね」

「ええ、わしもしばしば驚かされることが……おや、ちょうど来たようですな」

 そう口にしたところで、圓満和尚は歩いてきた僕の方へと視線を向ける。

 その視線に何故か僅かな違和感を覚えた僕は、やや警戒しながらも敢えていつものように挨拶を行った。


「圓満和尚、こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 僕の挨拶を受けて、圓満和尚はニコリと微笑む。

 そしてそのまま、視線を見知らぬ男性へと向けると、再びその口を開いた。


「そうそう、せっかくだから紹介しよう。小寺様の目薬を扱いたいと言われてのう、ちょうどこの姫路村に来られている堺の今井様だ」

「さ、堺! あの船がいっぱいあるっていう?」

 和尚の紹介を受けて、すぐに興奮を示したのは二兵衛だった。


「はは、まあ確かに船はいっぱいあるかな。うちの街は商人の町だからね。船がないと仕事にならないのさ」

「凄いなぁ。知ってるか、秀一。堺の海は、見渡す限り船だらけらしいぜ」

「へぇ、君は堺に興味があるんだね。そちらの君はどうかな?」

 二兵衛の言葉を受けて嬉しそうに微笑みながら、目の前の男は僕に向かって話を振ってくる。


「僕……ですか。凄いところと聞いていますので、一度は見てみたいですね」

 目の前の男の真意がわからなかった僕は、できるかぎり警戒心を見せないよう心がけながら、無難な回答を選択した。


 堺商人で今井と名乗る男。

 そして僕の魂までを見抜くかのような歴戦の商人だけが持ちえるその瞳。


 それを目の当たりにした瞬間、僕は一つのことを理解した。

 つまり目の前の男は、決してただの商人ではありえないということを。


 おそらく、この目の前の男こそ、後に織田家の御用商人となった――


「た、大変だ!」

 油断なく目の前の男を見つめながら、僕が思考を進めようとしたまさにその時、突然村の方向から一人の図体の大きい少年が血相を変えて駆け込んできた。


「どうしたの、竹蔵兄ちゃん」

「奴らが、奴らが山に押し寄せてきたんだ! 一緒にいた宗治のやつは、奴らに集団で殴られて」

 ここまで走り続けてきたのか、竹蔵は息を切らせながらも、僕たちに向かってそう口にする。

 その事態に最初に反応を見せたのは、寺の中から出てきた一人の少年であった。


「竹蔵、今の話は本当か?」

 そこに立っていたのは、朝から和尚のもとで勉学漬けにされていた萬吉であった。


「小寺様……本当です。特に足の怪我がひどくて……とりあえず、家に運んで横にさせてきたのですが」

 その竹蔵の言葉を聞いて、怒りのあまり逆上したのは、最年長の二兵衛であった。


「許さんぞ、山脇!」

「待って、二兵衛兄ちゃん」

「なんだ秀一。今すぐに奴らを――」

 僕の制止にも構わず、二兵衛は奴らの下へと駆け出そうとする。

 それを横合いから遮って止めたのは、いつもの薄ら笑いを消した萬吉であった。


「待つんだ、二兵衛。今お前が一人で行っても、宗治の二の舞になるだけだ。俺も、いや、みんなで行こう。それで竹蔵、奴らの数は?」

「それが、昨日以上なんです。どうも奴ら、自分の兄貴たち……山脇のわかしゅぐみの者たちまで連れてきているみたいで」

「若衆組だと!? 子供の戦いと嘯きながら、恥も外面もないものだな」

 萬吉はそう口にすると、僅かに下唇を噛む。


 若衆組。

 それは十代半ば以上の青年によって構成され、戦の際において、村の主力として機能する組織である。


 つまり子供の喧嘩に、大人になりかけの青年たちがしゃしゃり出てきた事を意味していた。


「……萬吉様、わしの言った通りになりましたな。さてどうされます。若衆組まで関与しておるとなると、城代様のお力で解決するのも決して悪くはないと思いますがのう」

「和尚、確かにそうかもしれん。だが、奴らはこの俺との約を違えた。そして昨日も言ったと思うが、降りかかる火の粉はただ払い退ける。ましてや、山脇程度の火の粉なら軽くな」

 和尚を前にして堂々とそう言い切ると、萬吉はいつもの薄ら笑いを浮かべる。


 普通ならば大言壮語としか言えぬそんな彼の言葉。

 それを受けて、圓満和尚はニコリと微笑んでみせた。


「ふむ、結構。そこまでの覚悟があるならば、山脇の奴らを叩きのめしてきなされ」

「いいのか和尚?」

「どうせ止められても、行かれるでしょう? それにここで山脇程度の火の粉を払えずして、混沌としたこの日ノ本の頂きに辿り着くことがかないましょうか」

 その圓満和尚の言葉を耳にして、萬吉は驚きを見せる。

 だが、それはほんの一瞬のことであり、すぐに彼は僕の方へと向き直った。


「……秀一、考える時間はあったはずだ。何か手は思いついたか?」

「ええ、一つだけですが」

 僕は目の前で交わされた会話と、彼らがいるであろう山の地形を脳内で整理しながら、迷うこと無くそう口にした。


「ほう、どうすればいい」

「これから僕と二人で、奴らに会いに行きませんか?」

「二人で? ……なるほど、そういうことか」

 僕の意図したところをあっさりと看破し、萬吉はニヤリと笑う。

 さすが官兵衛。

 僕は素直にそう思わずにはいられなかった。


「ええ、他の者にはやらねばならぬことがあります故」

「いいだろう、お前の策に乗った。ならばすぐに作戦会議だ。竹蔵、皆をかき集めてこい」

「わかりました」

 竹蔵が真っ先に駆け出し、そして僕たちもその後を追う。

 大丈夫、向こうの方がその数は多かろうとも、そして体格も大きかろうとも、決して負けはしない。


 なぜなら目の前の幼き黒田官兵衛と、そしてこの僕がこちらにいるのだから。






「面白いでしょう? 姫路城代の跡取り殿はもちろんですが、もう一人の方は特に」

 少年たちが慌ただしく立ち去り、その場に残された二人の大人の片割れは、おかしそうに笑う。

 すると、堺の商人は小さくなった少年たちの後ろ姿をその目にしながら、顎に手を当てつつその口を開いた。


「ふむ、和尚。お約束していた茶席ですが、少し遅らせてもらってよろしいですかな?」

「おや、どうなされましたかな?」

 返されるであろう答えを予測しておきながら、圓満和尚は敢えてそう問いかけた。

 すると、若き商人は頬を緩ませながらその口を開く。


「いえ、ただ実に興味深い見世物が始まりそうですから、それを見逃す手はないかと思いましてね」

 そう口にすると、彼は心底嬉しそうに笑う。


 後にせんのきゅうそうぎゅうとともにてんさんそうしょうの一人と呼ばれる男。

 いま宗久そうきゅうは自らの目利きの結果をその目で確認しようと、ゆっくりその場から歩みだした。




あとがき


今井いまい宗久そうきゅう

永正17年(1520年)生まれ。幼名は久秀。通称は彦八郎、彦右衛門。主に戦国から安土桃山の時代にかけて活躍した堺の豪商。また茶人としては、千利休や津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称されている。

大和国(現在の奈良県)今井町の出身で、若くして堺を訪れ、納屋宗次の居宅に身を寄せながらたけ紹鴎じょうおうに茶を学んだ。後に紹鴎の娘婿となり家財茶器などを譲り受けている。

革製品や鉄砲・火薬などで財をなし、茶道を介して織田信長の信頼を得るとともに、堺商人の代表的存在の一人として台頭していった。

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