第十五話 風林火山はここにあり

 九月九日、亥の刻。

 僕たち武田の別働隊は、妻女山への道のりの途上にある準備を開始していた。


「天海どの、それではここよりお任せしてよろしいですかな?」

「はい、もちろんです。それよりも飯富どのこそ本当によろしいのですか?」

 武田家の重臣にして、甲山の猛虎との異名を持つ飯富虎昌。

 そんな彼に向かい、僕は僅かな後ろめたさを覚えながらそう尋ねた。


「いったい何がですかな?」

「飯富どのの役回りのことです。下手をすれば寡兵での戦いとなり、うまく言った場合も功を得る機会が少ない。正直に言って貧乏くじを引かせてしまったと思っているのですが」

 誰かがその役を担わなければならなかった。

 それも充分な知名度を誇り、なおかつ十分に敵兵に脅威を与えられる者が。

 だからこそ、彼がその役目を担うことになった。

 そう、妻女山へ向かう部隊の指揮を執る役を。


「はっはっは、そんなこと気になさるな。我ら赤備えでしかなせぬ役割だからこそ、御館様はこの役目をお与えくださったのです。決して貧乏くじなどではござらんよ」

「まあ飯富の親父どのは、そこに戦いさえあれば満足でしょうからな」

 僕らの会話を側で聞いていた武田四天王の一人でもある馬場信春は、笑いながら眼前の血気盛んな老臣のことをそう評してみせた。

 途端、虎昌は苦笑を浮かべてみせた。


「馬場、お主もあまり変わらんだろ」

「はは、まったくそのとおりだ。だから、正直期待しているんだよ。愚か者どもが、今ものんきに夜を過ごしていることをな」

 虎昌の指摘をそのまま受け入れた信春は、ニンマリとした笑みを浮かべながらそう述べる。

 すると、僕の隣に立つ男が呆れたような声を上げた。


「お二方ともまったく……ともかく、ここからはそれぞれ予定通り動くこととなります。皆様、あまり先走り過ぎないようにしてくださいね」

「おう、春日弾正。わかっておるわ。まあ見ておれ」

 虎昌は香坂虎綱どのに向かい、隆起した力こぶを見せながら、自信ありげにそう述べる。

 一方、血気溢れる老人の行為を目の当たりにして、虎綱は深い溜め息を吐き出した。


「はぁ……まったくわかっていない気がするのは気のせいですかね。ともかく馬場どの、飯富どのが先走られたら、あなたが抑え役になってくださいよ」

「任せておけ。老人が年を忘れて無理をせぬよう、この俺が敵を先に蹴散らしてやるさ」

 信春は堂々とした素振りでそう回答すると、老人同様に自らの力こぶを誇示してみせる。

 途端、虎昌は負けじとばかりに両腕の力こぶを誇示し始めた。

 そんなやや暑苦しい光景を目の当たりにして、虎綱は思わず頭を振った。


「最適な人材だとはいえ……心配です」

「は……はは。ともかく、もう時間ですからお二人にお任せするとしましょう」

「そうですね。今さらどうこうできるものでもありませんし」

 肩を落としていた虎綱は僕の言葉を受け、ようやく顔を上げる。

 僕はそんな彼の肩をポンと叩いた後に、一同をぐるりと見回したあと、ゆっくりと口を開いた。


「それではここからは兼ねての予定通り動くとしましょう」

「わかり申した。お任せくだされ」

 飯富虎昌は一同を代表する形でそう応じてくれる。

 僕は大きく一つ頷き、そして皆に向かいはっきりと宣言する。


「全ては日の出とともに露わとなります。ですので、その時に彼等に思い知らせてあげるとしましょう。この川中島は果たしてどちらの手のひらの上にあったのかを」





「たった今、海津城近くに放っていた軒猿から連絡が届きました。敵の半数以上が、この妻女山に向けて城を出たとのこと」

「やはり……な」

 柿崎景家の報告を受けて、宇佐美定満は僅かに右の口角を吊り上げる。

 すると、彼同様に政虎の端整な顔にも笑みが浮かび上がった。


「ふふ、まさに卑怯者の信玄たちらしい手です。ですが、私たちが奴らに付き合ってあげる必要はありません。景家、準備は整っていますか?」

「はい。甘粕隊を除き、全軍いつでも出陣できます」

 力強い景家の言葉。

 それを受けて政虎は満足そうに頷く。


「いいでしょう。では、予定通り後の先を取らせていただくとしましょう」

「ええ。こんな深夜に無粋な戦いをする必要などありませんからな」

 宇佐美は薄ら笑いを浮かべながら、政虎の言葉に同調する。

 それを受け、政虎は一つ頷き、そして次なる指示を口にした。


「まったくです。それでは山下りを始めます」

「さて、それでどちらへ向けて山を下りますかな?」

「もちろん悪党どもが待つであろう八幡原です。さあ急ぎますよ」

 宇佐美の問いかけに対し、政虎は予定通りの目的地を告げる。

 そして彼等は一斉に行動を開始した。

 自分たちのいる妻女山に向けて進軍中の敵に見つからぬよう、極力音を立てぬよう気をつけながら上杉軍は山を下っていく。

 そうして山裾までたどり着いた頃には、八幡原に発生した深い霧に彼等は包まれていった。


「良いか、これより千曲川を渡る。霧が深き故、前後に注意し決してはぐれぬように」

 景家が全軍に向けて注意を促し、そして上杉方は一斉に川を渡り、ついに目的とする八幡原へと彼等はたどり着いた。


「ご報告いたします。甘粕隊以外の全軍、この地に集結いたしました」

「結構。しかし今日は普段以上に霧が濃いですね」

 これまでは山の上に陣取っていたこともあり、この八幡原の霧とは無縁ではあった。

 しかしながら数歩先までしか見渡せぬくらい濃い霧は、流石に政虎をして予期できぬものではあった。


「この川中島は古くより霧が出やすいと言われます。しかし、今日は特に異常ですな。しかしそれ故にこそ、彼らは気づいておらぬことでしょう」

「いくら夜目が利こうとも、この霧の先は見通せません。となれば、間もなく陽の光が彼らに全てを明らかにしてくれましょう。そう、自分たちがどれほど愚かであったかということをです」

 宇佐美の発言に頷きながら、政虎は冷笑を浮かべつつそう述べる。

 すると、間もなくして妻女山に残していた連絡兵が、彼らの下へと駆け込んできた。


「報告いたします。妻女山に敵の別働隊が到着。つい先程、甘粕隊が彼等と戦闘を開始した模様です」

「そうか。ならば、山の上の愚か者たちはそろそろ気づいた頃合いですな」

 報告を耳にした宇佐美は、満足そうな笑みを浮かべながらそう口にする。

 すると、政虎は顎に手を当てながら現所を冷静に分析してみせた。


「ええ。彼の地がもぬけの殻だということに。しかし戦いが長引けば、寡勢の甘粕は苦しいでしょう。おそらく長時間は持たないでしょうし、もう少し全軍を進めておく方が良いですね」

「はい。間もなく霧も晴れる頃合い。驚きふためく奴らの……むっ!」

 宇佐美が予想を述べかけたそのタイミングで、山裾からようやく陽の光が八幡原へと差し込み始める。


「どうやら時間のようですね。さあ、太陽の光よ。全てを露わにしなさい」

 政虎のその言葉とほぼ同時に、彼等を包み込んでいた霧が次第に薄くなり始め、急速に周囲の状況が明らかになっていく。

 そうして霞が取れた彼等の視界の先には、明らかに自軍とは異なる集団の姿が捉えられていった。

 

「前方に慌ただしく動く敵影あり。どうやら敵は海津城より千曲川を渡り、ようやくこの八幡原に到着したばかりの模様」

 先頭集団にて待機していた兵士が、慌ただしく政虎の本陣へやってくると、現状をそう述べる。

 それを受けて政虎は薄ら笑いを浮かべてみせた。


「おやおや、随分のんびりと海津城を出たのですね」

「どうやら敵は寝坊でもしていたようですな。では目覚まし代わりに、きついお灸を据えてやるとしましょう」

 宇佐美のその提案に、政虎も頷き同意を示す。そして彼は、全軍に向かい凛々しき声で指示を下しかけた。


「全軍突入の準備。目標、前方の武田軍本隊」

「い、一大事にございます!」

 その声は予期せぬ方向から発せられた。

 そう、自軍の後方に控えていた遊撃部隊の方向から。


「……どうしました?」

「て、敵が現れました!」

 先程の狼狽した声を発した兵士は、慌てて政虎の側へと駆け寄ると、青ざめた表情を浮かべながらそう告げる。

 一方、その言葉の意味がわからなかった政虎は、怪訝そうな表情を浮かべながら彼に先を促した。


「ええ。霧が晴れ、目の前に敵が現れましたね。それが何か?」

「いえ、違うのです。こ、後方の茶臼山の方角より敵兵が押し寄せて来ました!」

「後方だと!? 馬鹿な、敵は甘粕隊をすり抜けて、もう追いついてきたというのか!」

 政虎の側に控えていた景家は、怒気を露わにしながらそう述べる。

 しかしながら、そんな彼の見解はあっさりと否定されることとなった。それもより悪い形でである。


「違います。後方の武田軍はその数八千……おそらくあちらこそが信玄率いる本隊だと思われます」

 その報告を受けて一同は慌てて後方を振り返る。

 彼らの視線の先、そこには無数の孫子の旗がなびいていた。


 そう、風林火山と称される武田軍の旗が。



馬場信春

永正12年(1515年)生まれ。旧名は教来石景政。後に信玄により名門である馬場家の名跡を与えられ馬場信房と名を改め、さらに改名して信春となる。

武田四天王の一人であり、その生涯において無数の戦いに参加すれども最後の戦いを除き傷一つ負わず、武勇に名高かった原美濃守虎胤にあやかった美濃守を継承し、「不死身の鬼美濃」などと呼ばれることとなる。


飯富虎昌

永正元年(1504年)生まれ。信玄の先代である武田信虎時代から武田家に仕えた宿老であり、「甲山の猛虎」という渾名を頂くほどの猛将。

特に彼の軍勢は甲冑や旗指物を赤色で統一し、赤揃えと呼ばれる強力な部隊として知られる。この彼の赤揃えは弟とも言われる山県昌景に引き継がれ、後にその武勇をあやかってか、真田幸村(信繁)や徳川家の井伊直政が赤備えを使用したとも言われる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る