第十六話 戦術と戦略と
「どうやら、ぎりぎり間に合ったようですね」
「ええ。かなりの強行軍でしたが、どうにか脱落を出さずにたどり着けました」
僕の言葉に対し、虎綱も安堵の溜め息を吐き出しながらそう述べる。
本当に間一髪であった。
あと少し霧が晴れるのが早ければ、僕の策は完全に敵に露呈してしまっただろう。
妻女山に向かったはずの別働隊の半数以上を、その途上で反転させ、八幡原に再配置するというこの策が。
元々、僕は知っていた。
この九月九日に八幡原を覆う深い霧が発生することを。
そして武田軍が啄木鳥戦法を試みて、上杉政虎に看破されて策を逆手に取られることを。
これら二つのことを知っているからこそ、僕は今回の策を実行に移したのだ。
もっとも不確定要素は存在していた。
その一つは天候である。
確かに僕が知る歴史の知識では、この日この地に深い霧が発生すると知られている。
だがそれが再現されるかには僅かな疑問符が残る。
しかしながら、これまでの経験から、天候に関しては比較的再現率が高いことが明らかであった。
実際にその一例が桶狭間の戦いである。
おそらく大気汚染も郊外も極端な自然開発も存在しないこの時代において、天候までに影響をおよぼすほどの歴史改変はであることは容易に想像ができた。
しかし同時に、もう一つの要素は不確定極まりないと言えた。
そう、武田が啄木鳥戦法を取り、そして上杉がそれを看破して逆手に取ろうとすることが、である。
だからこそ僕は――
「天海どの、敵の奥を見てください。御館様も予定通りの配置についておられます」
突然思考を遮られる形で、僕は虎綱に嬉々とした声を向けられる。
「さすが信玄どのですね。濃霧の中であったにも関わらず、完璧に統率してきれいな陣形を整えられています」
「はい。これで私たち別働隊の別働隊が八千、御館様の本体が八千。数的にも越後勢を上回ることができました」
「そうですね。ですが、問題はここからです。敵より多くの兵を戦場に用意し、そして敵より優位な形で展開したことは事実。でも、それは勝利を意味するわけではありません」
越後勢一万三千に対し、こちらは一万六千。
しかも挟撃の隊形まで取ることができ、盤面だけを見れば圧倒的優位な態勢にはあった。
しかし、相手は軍神とも称される上杉政虎率いる越後の精兵である。
まだ勝ちを意識するには早すぎると言えよう。
そんな僕の見解を耳にして、後ろに控えていた小次郎がくすりと笑う。
「ふふ、君のそういうところって、うちの大将みたいで実に良いね」
「隊長と氏康のおっさんが似てるとは思わねえけどな。ともかくだ、ここまで移動ばっかりで面白くなかったからな。さっさと楽しい喧嘩をおっぱじめようぜ!」
小次郎の発言をさらりと否定しながら、慶次郎は小田原で新調した朱槍を片手に高らかにそう宣言する。
これほど大きな戦(いくさ)においても、何一つ変わらない。
そんな彼を頼もしく思いつつ、僕は皆に向かって指示を下した。
「慶次郎には悪いけど、まずは守勢を第一としましょう。緩やかに後退しつつ、敵の前進を受け止めます」
「おいおい、これだけ優勢になったのに、まだ盤面をこねくり回すつもりなのかよ?」
「はい……って、そんなことを言っている間に、敵が前に出てきちゃいましたね」
慶次郎をなだめようと口を開きかけたん僕は、その視界にこちらへと迫りくる上杉軍の姿を捉える。
それを受けて僕の隣に立つ男は、決意の眼差しを前方へと向けた。
「来るなら来いという奴ですね。さあ君たち、御館様たちが敵の背に張り付くまで、ここを絶対抜かせませんよ!」
迫りくる上杉方の勢いを目の当たりにしながら、香坂虎綱は手にした槍を握りしめ直すと、力強く兵士たちを鼓舞してみせた。
「なるほど……敵の裏を取ったつもりが裏の裏を突かれたというわけですか」
視界を遮っていた霧が晴れ、すべての状況を理解した政虎は、小さく頭を振りながらそう述べる。
「敵もさるものですな。もしかすると、越後へ来たときのあの者の振る舞いそれ事態が、この時のための布石だったのかもしれませんな」
「例えば、貴方と繰り返されていた将棋などもですか?」
「ええ、おそらくは。あの年齢にして、大樹が切り札として使われているのがよくわかります」
してやられたという感情からか、宇佐美は苦笑を浮かべながらそう答える。
「そうですね。ですが、やられっぱなしという訳にはいきません。負けたわけではありませんし、何よりまだ槍さえ交えていないのですから」
「ですな。とまれ、このままでは前後を挟まれ、我らは袋の鼠となりましょう。ならば……どちらかを切り崩す必要があるでしょうな」
政虎の言葉を受け、宇佐美は頷きつつもそう述べる。
すると、そんな彼の意味ありげな視線に、政虎はこらえきれぬと言った表情でその口を開いた。
「貴方には既に答えがある。そうなのでしょう?」
「政虎さま同様にですがな。というわけで、前へ進むと致しましょうか」
「ええ、越後との道を塞ぐ愚か者たちに、毘沙門の裁きを下すとしましょう。ですが……ただ切り崩すだけでは芸がありませんね」
宇佐美の意見に賛意を示しながらも、政虎は敢えて含みを持たせながらわずかに右の口角を吊り上げる。
「確かに。それだけでは敗走したも同じ。たとえこれだけ不利な状況としてもですな」
「となれば、あれを試してみるとしましょうか」
その政虎の口から紡がれた言葉。
それを耳にした瞬間、宇佐美は目を見開くと、この状況下にも関わらず笑い声を上げる。
「ふふ、なるほど。しかしその場合、うまく後ろの連中を引きつけ押しとどめる必要がありますな」
「景家、任せることはできますか?」
政虎は後ろを振り返ると、彼自身が最も信頼する豪傑にそう問いかける。
そして柿崎景家は当然のごとく、主人の求めに応える決意を示した。
「もちろんです。あの新しき陣を組むためにも、この景家が責任を持って武田本隊を食い止めてみせましょう」
「決まりですな。では、既に勝利した気になっていそうな彼らに、あれを見せてやるとしますかのう」
景家の承諾を受けて、宇佐美は満足げに首を縦に振ると、政虎に向かいそう告げる。
途端、彼らの主は冷たい微笑を浮かべてみせた。
「ええ。お見せするとしましょう。我らが上杉の新しき軍法……そう、車懸りを」
その言葉と同時に、上杉方は一斉に前方に向けて進軍を開始した。
永禄四年九月十日辰の刻、ついに武田上杉両軍の死闘が幕を開ける。
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