第十四話 啄木鳥戦法
茶臼山から海津城へと陣替えした武田軍本体は、まさに今、来るべき時のために慌ただしく行動を開始していた。
「それでは飯富、馬場。よろしく頼むぞ」
信玄は武田家が誇る勇将二人を前にして、全幅の信頼をその表情に滲ませながらそう告げる。
すると、甲山の猛虎などとも称され、武田随一の赤備えを率いる飯富虎昌は決意を秘めた眼差しを信玄へと向けた。
「心得ました。御館様もどうかお気をつけくださいませ」
「うむ。そして天海どの。香坂とともに、どうぞよろしくお願いいたします」
信玄は譜代の家臣から僕へと視線を向け直すと、力強い口調でそう述べる。
「承知いたしました。そして僕のような若輩者が言うのも何ですが、戦においてはいつ何時どのような予期せぬことが起こるかわかりません。あの時にお見せした盤面はあくまで参考程度と思っておいて下さい」
「ふふ、わかっております。ですが、ここまでは越後勢も我々も、見事にあの盤面通りとなっております。となれば、できましたら全てを我らの手のひらの上で終わらせてやりたくはありますな」
僕の警告を理解しながらも、信玄どのはにこやかな表情のままはっきりとそう告げてきた。
それに対し、僕は軽く苦笑を浮かべながら小さく頭を振る。
「欲を言えばまったくの同感です。ですが、そうやすやすと踊ってくれる相手ではないでしょう。少なくとも上杉政虎と宇佐美定満は」
「そうですな。相手としても我らのために動いてくれるわけでは無いでしょうから」
「とまれ、敵が手のひらの上から……盤面から逃れようとするのなら、再び首根っこを押さえてやるだけにござろう」
その声は信玄どのの後方から発せられた。つまり、彼に従う形で見送りに来た山本菅助どのの口からである。
「ふふ、確かに菅助どの言われるとおりですね」
「天海どの、貴公にだけは一言言っておきたいことがある」
「何でしょうか?」
突然真剣な面持ちとなった信玄どのに対し、僕は本な僅かに身構えながらそう問い直す。
すると彼は、思いもよらぬことを口にした。
「そなたの合力にはこの信玄、深く感謝をいたしております。ですが、此度の戦はあくまで武田の戦。もし身の危険を感じられましたら、その時は迷わずお引きくだされ」
「御大将が引いても良いなんてこと、一兵たる僕に言っては示しがつかないのではありませんか?」
「勘違いなさいますな。表向きがどうであろうと、そなたはこの日ノ本を治める大樹からの預かりものなのです。それに傷をつけてお返しすることなど、間違ってもできませぬ」
それは有無を言わさぬ強い口調であった。
そしてそんな主君に続く形で、菅助どのも言葉を続ける。
「その通りにござる。ましてやお返しできないなどという事態にだけは、絶対にできませぬ。そのことだけはゆめゆめお忘れくださるな」
「はは、その言い方は卑怯ですね。でも分かりました。決して無理はしません。そしてその上で越後勢を打ち破ると致しましょう」
もちろん幕府との関係というそろばんが弾かれていることは理解してはいたものの、二人の気遣いには個人的には感謝を覚えずにはいられなかった。
だからこそ、僕はあくまで景気の良い言葉を続ける。
すると、信玄どのはようやくその表情を崩され、
「はは、無理をせず越後勢を破る……か。そなたなら、さもありなんと思いたくなりますな。何れにせよ、例の策はおまかせしました。頼みますぞ、天海どの」
「分かりました。それでは信玄どの、本体の方も手はず通りにお願い致します。それでは」
僕はそう告げると、そのまま踵を返す。
そこには謹厳な表情の香坂どのと、夏の暑さ故か上半身を露出させたままの慶次郎、そして不敵な笑みを浮かべる小次郎が僕を待ち受けていた。
九月九日、戌の刻。
一人の男が主君のもとへと走っていた。
「政虎さま、海津城の飯炊きの煙に変化がありました」
「ほう……」
景家の報告を受け、既にこの陣中での日課になった琵琶の手を止めると、政虎は海津城へとその視線を向ける。そして同時に、その口元に薄い笑みを浮かべてみせた。
「なるほど、昨日よりも遥かに多いですね」
「ということは、やはり?」
「ええ、おそらくは動くつもりなのでしょう。宇佐美はいますか」
軽く景家へと頷いてみせながら、政虎は最も信頼する老臣の名を口にする。
途端、近くに控えていた白髪の老人は、すぐにその姿を現した。
「政虎さま、ここに」
「宇佐美、武田はどう動くと思いますか?」
「飯炊きの煙が増えるということは、おそらく今日がその時ということでしょうな。となれば、あとはその規模となります」
「全軍ということはないでしょうね」
政虎は合いの手を入れるような形で、自身もないと思う仮定を否定的に述べる。
すると、宇佐美も同様の見解を有していたのか、迷わずその考えに賛同してみせた。
「不可能ですな。この妻女山は大規模に兵を展開するにはあまり向きませぬ。だからこそ我らはここに陣を置いたわけですが、おそらく奴らは下で戦いたがりましょうな」
「私も同感です。兵の質に劣れども、数的に優位な彼等が望むのは八幡原での戦。となれば、夜討ちはおそらく我らをこの山から追い払うためのものでしょうね」
「寝込みを襲い、慌てて妻女山から飛び出した我らの頭を、八幡原で押さえる……ですか。そしておそらくは、妻女山に夜討ちをかけたものたちが後ろを詰めるつもりなのでしょうな」
二人の会話をそばで聞いていた景家は、自らの見解を二人へと示してみせる。
それを受けて宇佐美は武田の作戦のことを敢えて動物に例えてみせた。
「ふふ、つまり武田の狙いは啄木鳥にございますな」
「啄木鳥……ですか」
「さよう。啄木鳥が木の中に潜むエサを捕る際は、まず木の反対側を突く。そして虫が驚いて穴から飛び出してきたところを、待っていたとばかりにそのくちばしで捕らえるものじゃ」
やや戸惑いを見せた景家に向かい、宇佐美は敵の策になぞらえた啄木鳥のやり口を説明する。
すると、政虎がニコリと微笑みながら二人に向いその口を開いた。
「言うなれば啄木鳥戦法といったところでしょうか。ともかく、敵がそのような策を取るというのならば、我らの成すべきことは簡単です。彼等同様に、我らも部隊を二つに分ければ良い」
「お待ち下さい、政虎様。我らの軍は敵より数が少ないのです。分散はあまりに危険ではないかと考えます」
政虎の策を聞き、景家は慌てた素振りで反対意見を口にする。
しかしそんな彼の発言は、政虎にとっては予め織り込み済みであった。
「ええ、そのとおりです。ですので、そのうちの一隊は敵の夜討ち部隊の動きを止めるために最低限必要な数のみ。あくまで本命は八幡原で待ち受ける愚か者たちを討つ方へと振り分けるつもりです」
「なるほどなるほど。餌を加えてやろうと待ち受ける啄木鳥の阿呆面を、こちらから勢い良く張り飛ばしてやるわけですな」
政虎の狙いを正確に把握した宇佐美は、嬉しそうに笑いながら何度も頷く。
それを受け政虎も、気を良くしたたのか大きく頷いてみせた。
「そうです。そしてもちろんただ張るだけではありません。甘い夢を見る彼らを、我が太刀……小豆長光の錆にしてやるとしましょう」
「ならば早速準備を行うとしましょうかのう。して、敵の別働隊を寡勢で引き受ける役は誰に任せるおつもりですかな?」
政虎に向かい、宇佐美は次に決めるべき一事を尋ねる。
すると、間髪入れること無く景家が一歩前へと進み出た。
「政虎様。もしお許し頂けますなら、殿に等しきその役、是非この景家におまかせ頂けませぬでしょうか?」
「ふむ……宇佐美、甘粕景持をここへ」
「政虎様!」
政虎の言葉に、景家は顔を赤くしながら詰め寄らんとする。
だがそんな彼に向かい、政虎は窘めるようにその口を開いた。
「景家、貴方は駄目です。貴方には私のそばに居てもらわねばなりません」
「なぜですか。この私よりも甘粕の方が、殿(しんがり)として信頼に――」
「違いますよ、景家。そうではないのです。貴方の武勇を信じるからこそ、私のもとにいてほしいのです。何しろ今回に限り、武田の中に危険極まりない者たちが混じっているのですから」
景家の言葉を遮る形で、政虎ははっきりとそう告げる。
途端、景家の脳裏にはとある人物たちの顔が浮かび上がった。
「危険極まりない者たちとは、まさか!」
「ええ、天海秀一と彼の部隊。いかなる状況となろうと、彼等は戦場にて油断ならぬ存在となるでしょう。下手をすれば、直接この首を取りに来るやもしれません」
澄んだ眼差しで血塗られた頂きを見つめる少年。
先日の邂逅に際して、政虎は天海秀一という人物に対しそんな印象を抱いていた。そして同時に、彼に付き従う者たちも決して油断できぬと、政虎は感じ取っている。
だからこそ、彼は全幅の信頼を置く景家に対し、敢えて別働隊を任せることはなかった。
「……分かりました。先日不覚を取った汚名、我が命に代えても奴らの首を取ることで必ずや返上させていただきます」
「生を必するものは死し、死を必するものは生く。ふふ、良き覚悟です」
景家の決意を目の当たりにして、政虎は微笑みながらそう表して見せた。
そうして、方針が定まったところで、宇佐美が主君に向かい声をかける。
「それでは決まりですな」
「はい。それでは始めるとしましょうか。悪党をこの地より払い、正道を守るための戦いを」
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