第十話 評定にて

「ほう、あの偽善者はわしのことを悪党と申しておりましたか」

 武田信玄殿はそう口にするとカラカラと笑う。

 一方そんな彼とは異なり、この評定の場に居合わせた武田家の家臣の方たちは、明らかに苛立ちを露わにした。


「やはり上杉は許せませぬ」

「然り然り。他国を切り取るためでなく、自己満足のために戦を重ねる奴こそ真の悪党だ!」

 馬場信房たちを始めとして、評定内に集いし者たちは口々に罵詈雑言を吐き出す。

 そんな中、たった一人沈黙を保っていた男は、その隻眼を僕へと向けてきた。


「で、川中島でござるか?」

「はい。彼の地で待つ、と」

 管助殿の問いかけに対し、僕は首を縦に振る。

 途端、目の前の老人は顎に手を当てながらぶつぶつと独り言を口にし始めた。


「先手を取り、そして我らを待つ……ならば敵は何処に陣を置くつもりか……いや、その前に高坂どのの守る海津城をどうするつもりか……」

「あの……管助殿?」

 明らかに自分の世界へと入ってしまった老人に向かい、僕は戸惑いながら声をかける。

 すると、上座の方から呆れたような声が発せられた。


「天海殿、ああなったらこの者はしばらく人の話が耳に入らん。無駄であるから、そのまま捨て置きなされ」

「は、はぁ……」

「で、天海殿。貴公は我が武田家はどう動くべきと思われるかな?」

 それは予想外の問いかけであった。

 だからこそ僕は、慌てて無難な返答を行う。


「いや、部外者である僕などが差し出口を挟むわけにはいかぬかと」

「構いませぬ。というよりも、是非お考えを聞かせて頂きたい」

「そうです、天海殿。織田や北条にお知恵を貸されたのですから、我が武田家にも是非言ってご指南いただきたい」

 信玄殿に続く形で、奥近習を務め彼の後ろに控えていた真田源五郎も、僕に向かってそう促してくる。

 僕はわずかに迷った後に、胸のうちに秘めていた一つの考えを、彼らへと告げることを決断した。


「その……一つばかりお伺いしてよろしいでしょうか?」

「何ですかな?」

 僕の言葉に対し、信玄殿は身を乗り出しながらそう口にされる。

 その勢いにやや気圧されながらも、僕はまずひとつの前置きを口にした。


「もし仮にです、此度の戦いが武田の勝利になったとしましょう……あ、いや、仮にというのは負けるだろうというつもりではありませんので、そこは勘違いされないで下さい」

「わかっておりますぞ。続けてくだされ」

 僕の言い回しに苦笑されながら、信玄殿は先を続けるよう促してくる。

 それを受けて僕は、一つ頷いた。


「では遠慮なく。もし武田が戦いに勝った場合において、その直後に将軍家から越後への進出に待ったが掛かったとすれば、信玄殿はその脚を止めることができますでしょうか?」

 一つの仮定。

 それを僕が口にした瞬間、信玄殿は口元を僅かに歪めると、確認するように問い直してくる。


「ふむ……つまり信濃だけで満足せよというわけですな」

「経緯は複雑にございますが、上杉政虎はあくまで関東管領。それを表立って取り潰すは、将軍家の権威に傷をつける事になりかねません。ですので、勝利した場合においても、勝ちすぎない自制をお願いできるかを伺いたく思うのです」

「なるほど、なるほど。おっしゃりたいことは理解できました。そして同時に、非常に難しき問い掛けということもです」

 僕の真意を理解したのか、信玄殿はたちまちにその表情に苦笑を浮かべられる。

 そんな彼に向かい、僕は念を押すかのようにその言葉を続けた。


「ええ。負ければ失うにもかかわらず、勝っても見返りを少なくせよ。これがどれだけ理不尽な要求か、それは理解しております。それを踏まえて、ご回答を頂ければと」

「御屋形様、お受けいたしましょう」

 それは予期せぬ方向からの発言だった。

 直後、皆の視線が一人の男へと集まる。


「管助!? お主……」

「いや、あまりに情報が少なすぎ、頭の中で手詰まりとなりましてな。して、顔を上げれば実に興味深そうな話をしておられるではありませんか」

 少し照れたような素振りを見せながら、管助殿は頭を掻きつつそう答える。

 一方、それを受けて信玄殿は彼へと言葉を向けた。


「ふむ……では天海殿への返答の前に、管助、お主に聞きたい。此度の戦、勝てると思うか?」

「わかりませぬ」

 それは即答だった。

 だからこそ、信玄殿は神妙な面持ちとなる。


「わからぬ……か」

「はっ、偽善者なれど、上杉政虎の傭兵は常に功名極まります。特に野戦においては、神算鬼謀とも言うべき冴えを見せること数多あり。ですので、正直予測ができもうさん」

「なるほど、そうか」

 言葉少なながらも、信玄殿はそれで納得をされたのか、僕の方へと向き直られた。


「天海殿、先程の回答を行う前に、敢えてわしから貴公へと管助に向けたものと同じ問いさせてくだされ。此度の戦、武田は勝てますかな?」

「……戦は水物。なので断言は致しません。ですが、勝ち筋は作っております」

 僕ははっきりとそう告げた。

 途端、その場に居合わせた者たちの顔色が一変する。


「は? 今、何と言われましたか?」

「勝ち筋は作った……あるではなく、作ったと言われましたかな?」

 管助殿に続く形で、信玄殿も矢継ぎ早にそう問いかけてくる。

 それに対し僕は、あっさりと首を縦に振った。


「ええ、そうお答えしたつもりです」

「……御屋形様」

 僕の返答を受け、管助殿はすぐさま信玄殿へとその視線を向ける。

 途端、彼の主は重々しく一つ頷いた。


「わかっておる。では、天海殿。その勝ち筋とやらを、このわしに教えていただけますかな?」

「申し訳ありませんが、今はまだそれはできません」

 迷うことなく僕はそう告げた。

 すると、たちどころに管助殿の表情が歪む。


「な、何故でござるか!」

「それはですね、こちらの約定に名を記して頂きませんと、お教えできぬものでございまして」

 僕はそう口にすると、懐から一つの文を取り出す。そしてそのまま、その達筆極まりない字で記された文を、信玄殿へと手渡した。


「これは……ふふ、ははは。なるほどのう。このようなものを予め用意しておくということは、やはり此度の大樹は別格じゃな」

「そういうことですか……しかしこんなものを予め準備なされているとは」

 信玄殿から文を手渡された管助殿は、あっけにとられた表情を浮かべながら、その文の内容を目に通す。

 そして彼は、信玄殿に向かい自身の見解を口にした。


「この内容はおそらく、天海殿がご提案なされたものかと思います」

「かもしれんのう。だとしても、それを受け入れ、実際に全権を任せるというのは並のものでは出来ぬよ。大体だ、この者を配下として抱えた一事を持ってしても、大樹のその御器量がうかがえよう」

「確かにその通りに御座いますな」

 信玄殿の解釈を耳にして、管助殿は深くうなずかれる。

 そんな彼の仕草を見て取った信玄殿は、満足した表情を浮かべると、そのまま僕へと向き直られた。


「いいだろう、天海殿。大樹への確約書、この場にて記させて頂く。源五郎、硯と筆を持て」

 その命を受け、たちまち真田源五郎が硯と筆を持ってくる。

 そして信玄殿は、迷うことなく僕が大樹へと提案した確約書にその名を記した。


「結構です。では、お約束どおり本題へ入るとしましょう。ですが、その前に」

「まだ何かあるのですか?」

 勢いを削がれた素振りを見せる管助殿は、戸惑った表情を浮かべながら僕へとそう尋ねてくる。

 それに対し僕は軽く両手を左右へと広げると、そのまま口を開いた。


「いえ、説明のためにあるものをお持ち頂きたく」

「あるもの……ですか」

 僅かに戸惑いを見せる信玄殿は、僕に向かってそう尋ねてくる。

 それに対し僕は、求めるものをはっきりと口にした。


「ええ、駒と盤をこの場にお持ち頂きたいのです」

「……どういうことですかな、天海殿」

「これから僕と管助殿で、一局ばかり将棋の対局をさせて頂きます。それを見て頂きましたら、自然と僕の打った布石がご理解頂けるかと」

 信玄殿の問いかけに対し、僕は口元を僅かに吊り上げながらそう答える。

 すると、信玄殿と顔を見合わせた管助殿が、改めてその口を開いた。


「ほう、布石ですか」

「そうです。ある人物の打ち筋を、別のとある人物に染み込ませてきました。はてさて、あの方はどちらを選ばれるでしょうかね」

 僕はそう口にすると、一人の老人の顔を脳裏に浮かべる。


 永禄四年、一五六一年八月。

 ついに第四次川中島の戦いがここに始まる。


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