第九話 己が正道

「しかしなるほど、噂通りよく頭が回るようですね。大樹が気にかけておられるのもわかります」

 上杉政虎殿はもともと細い狐目を更に細めながら、微笑を浮かべつつそう述べる。

 それを受けて柿崎と呼ばれた男は、付けていた鬼の面を外すなりその口を開いた。


「政虎様。わずか数合の打ち合いでしたが、おそらくは彼は白ではないかと」

「そっか。君がそういうのならばそうなのかもね」

 それだけを述べると、政虎殿は小さく頭を振る。

 一方、そんな二人の会話を耳にして、僕は思わず疑問の声を上げた。


「白とは一体どういうことですか?」

「いや、ちょっとした危惧をしていたのですよ。貴方の背後にある人物が存在し、その者の狙い通りに大樹をたぶらかしているのではないかという危惧をね」

「な……僕の背後には誰も居ませんし、たぶらかしてなどいません!」

 思わぬ濡れ衣を被せられた僕は、抗議の声を上げる。

 すると、政虎殿は苦笑を浮かべながら、小さく一つ頷いた。


「貴方の気持ちはわかります。ですが、貴方の歩んできた道程はあまりに異常。それ故に、そこに何らかの人物の後押しがあるのではないかと。そう、例えば三好家の松――」

「ありえません。絶対に!」

 目の前の人物が誰の名を口に仕掛けたのか理解した瞬間、僕は怒気混じりの言葉を発する。

 途端、政虎殿は一瞬驚いたような表情を浮かべたものの、すぐに興味深そうな視線を僕へと見せてきた。


「ふむ……まあいいでしょう。貴方の背後に何があるのかはあくまでおまけです。重要なことは、この日ノ本の正道を歪めうることにあるのですから」

「少年よ、一つ教えておこう。この日ノ本の正道を歪めるものは、例えあの蝙蝠であろうと、そして甲斐の悪党だろうと、我らが命に変えても政虎様の手足となって排除する。それを覚えておくが良い」

 政虎に続く形で、柿崎景家がその覚悟を口にする。

 一方、そんな彼らの物言いに対し、僕は胸のうちにもやもやするものを感じていた。


「日ノ本の正道を歪める……ですか。正直言って僕にはわかりませんね。あなた方の言われる正道と言うものが。見ず知らずの僕に対し、突然斬りかかったあの行為は、正道だと言えるのですか?」

「極めてもっともな疑問だ。ですが同時に、極めて愚劣な疑問でもある。一度、悪党に与せし者を、無条件で信じるのは正道に悖る行為です」

「然り。正道を外れかかった成田長泰に対し、悪党の権化たる伊勢の下へとその背を押したのは果たして誰であったか?」

 政虎殿の抽象的な言葉を補足する形で、景家が僕に向かいそう問いかけてくる。

 それに対し、僕は逆に彼らに向かい一つの問いを返してみせた。


「そこまで調べはついているわけですか。ですが、それを言うならば、大樹から貴方の下へと御内書が届いていたはずです。関東の混乱を、そして民の苦難を収めるため、力によっての討伐を中断せよと」

「ええ、確かに届いておりましたよ」

 僕の問いかけに対し、政虎殿はあっさりと首を縦に振られる。

 その仕草を目にして、僕は苛立ちを覚えずにはいられなかった。


「では、なぜ北条討伐を強行したのですか? あなた方が行ったのは大樹の願いに背く行為。つまりあなた方の言う、正道から外れる行為と見えますが」

「なるほど……どうやら貴方は愚か者のようだ」

「どういう意味です?」

 突然吐き出された中傷を耳にして、僕は真正面からそう問い正す。

 すると、政虎殿はわずかに躊躇した後、ドキリとするようなことを口にされた。


「貴方のこれまでの行いは、まるで先々まで見通しているかのように思えます。でも、実際のその瞳は極至近のことしか写していない。愚か……そう極めて愚かなことです」

「……まったく意味がわかりません」

 ほんの少しだけ僕の返答は遅れた。

 彼の指摘に聞き流すことの出来ぬ内容が含まれていたが故に。


 そんな僕の心の揺れ。

 それを政虎殿が見逃すことはなかった。


「ほう、意味がわからないわりには動揺が見て取れますね……いや、失敬。別にかまをかけるつもりではなかったのです。既にその時は過ぎているのですから」

 それだけを口にすると、政虎殿は小さな溜め息を吐き出す。

 そして軽く頭を振った後に、彼は再びその口を開いた。


「結局のところ、これ以上は言葉で取り繕うも無粋。となれば、わかりあうには一つの方法しかありません」

「……つまり交渉の余地はないと?」

「やはり目の前のことに関しては、実に理解が早いようですね。その通り、もともとあの甲斐の悪党との間に妥協の道はありません。例えそれが大樹のご指示だとしてもです」

 つまりは最初から結論が出ていたのだ。

 にもかかわらず、目の前の男の軍師などとも言われる宇佐美殿のところに滞在させ、そしてここまで結論を先延ばしにしたのは、本気でこの僕を計るつもりだったのだろう。


 そのことを理解した途端、後悔が僕を襲う。

 籠城戦であったとは言え、小田原城の戦いの折に彼の顔を確認することさえできていれば、彼の手のひらで踊らされるという屈辱的な状況に陥ることはなかった。


 あの時は来るべき時のために、北条の民政を学び取ることに注意を向けすぎてしまっていた。もちろんそれ自体は、今後を見据えた上でのことである。


 だがある意味、目の前の北条のことしか見えていなかったとも言えた。

 眼前に立つ政虎殿の言うとおり。


 なるほど彼の言うことには一理ある。

 だが同時に、彼に対しては不快感を覚えずにはいられない。


 僕には理解しがたき美学や信念によって、正道などという名のもと、政虎殿は混乱と争いを生み出しているようにしか思えなかったが故に。


 自らを毘沙門天の……そう、神の生まれ変わりなどと称することで、その行為を正当化するというならば僕は……


「正直言って、僕にはまったくわかりません。貴方の言う正道と言うものが」

「ええ、それで結構。別に理解頂く必要はありません。全ては毘沙門天が示すまま……もしそれでも理解を望まれるのならば、戦場にてそれ相応の力を示してみなさい」

「分かりました。それでは貴方が示す正道、戦場にてとくと拝見させていただきます」

 そう口にした瞬間、目の前の優男の口元が、わずかに歪んだ。


「結構、それでは川中島にてあなた方をお待ちするとしましょう。ふふ、ほんの少しばかり期待していますよ、天海秀一さん」


■□■


「……助かりました、政虎様」

 少年が立ち去ったあと、柿崎景家は疲れ切ったようにその場に座り込んでいた。

 そんな彼に向かい、政虎は優しく声をかける。


「君を失う訳にはいきませんから。ですが、やはり想像以上の傑物のようですね」

「はい。本気でうちかかったつもりが、軽く流されました」

 僅かに肩を落としながら、景家は悔しそうな口調でそうこぼす。


「へぇ、鬼小島にも遅れを取らぬ君がね……いやはや、これはうちの家中で彼に一対一で敵うものはいなさそうです」

「かもしれません。貴方を除けばの話ですが」

「ふふ、どうでしょうか。とまれ、これで彼は武田に付きそうだ」

 まるで他人事のように、政虎はそう口にした。

 途端、景家の呆れた声が彼へと向けられる。


「貴方がそうさせたのでしょう?」

「まあそうとも言えます。結局のところ、そのあたりに気づかぬうちはまだまだ子供ですね」

「ですが、実に恐るべき子供にござります」

 政虎の言動に一理あると認めながらも、景家はつい先程の戦いを踏まえ、正直な感想を言葉にする。

 すると政虎は、異論はないとばかりに首を縦に振った。


「それに関しては、僕も同感ですよ。だからこそ、いずれここで討ち取っておけばと、後悔する日が来るかもしれません」

「私の首と引き換えにでも……ですか」

「ええ。でもそれは正道に悖る行為です。そのようなこと、毘沙門天の化身たる私が成すことはできません」

 ほんの僅かに口惜しそうな表情で、政虎ははっきりとそう告げた。

 それを受け景家は、政虎に向かい口を開く。


「何れにせよ、貴方様が以前より危険視されていたのが正しかったと、十分理解いたしました」

「それは素晴らしい。ならば、まだ化ける前。子供である間に、その首を取るとしましょうか。どうせなら、あの甲斐の悪党と一緒にね」

 その政虎の発言を耳にして、景家はブルリと体を震わせる。


「では早速、宣言通りに動かしますか?」

「ええ、全軍です。全軍を動かすとしましょう。あの信玄ごと彼を刈る。何れこの日ノ本を狂わせうる危険極まりない者を……ね」

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