第十一話 千日手
永禄四年、一五六一年八月二十四日。
前世では長野盆地と呼ばれた善光寺平の南に位置する妻女山の頂きに、一人の男が立っていた。
「ようやく到着されましたか。いやはや、疾きこと風のごとくといえども、実にのんびりしたご到着ですね」
既に六日前より、この妻女山に自軍を陣取らせていた上杉政虎は、やや皮肉げそう呟く。
そんな彼の眼下、そこにはつい先程この地へとたどり着いた無数の風林火山の旗が翻っていた。
「兵を集められるだけかき集めてきたのでしょう。同数ではとても我らに敵わないと理解しているでしょうからな」
その声は彼の背後から発せられた。
途端、政虎は口元を僅かに吊り上げると、そのままゆっくりと後ろを振り返る。
「ふむ、数を集めての包囲策。まさにここまでは貴方の読み通りですね」
「はっはっは、まったくですな。とかくあの男は、こういうわかりやすい策を弄するのを好みそうでしたから」
声を向けられた宇佐美定満は、嬉しそうに笑いながらそう告げる。
それを受けて政虎は軽く目にかかった髪をかきあげると、確認の問いを放った。
「ではひとまずはこのまま予定通り、彼らを十分に焦らしてあげるとしましょう」
「ええ、それがよろしいかと。既に陣取りにおいて先手は取り申した。と成れば、連中のほうが後手に回ったという認識があるはず。その焦りが悪手へと繋がりましょうて」
「ええ。この戦、先にじれて妄動した方の負け。はてさて、彼らは山のごとく動かずにいられるでしょうか」
政虎はそう述べると、再びその視線を眼下へと向ける。
自軍より三割程度多いだけの、雑兵混じりで統制に難を抱える武田軍の姿がそこには広がっていた。
■□■
「この戦、先に悪手を打ったほうが負けまする」
山本菅助は眼前の主に向かい、はっきりとそう告げる。
途端、信玄はニコリと微笑んでみせた。
「であろうな。あの者がそのことだけは繰り返し述べておった。わしとしては数の力を持って、力攻めにしてしまいたいところではあるがのう」
「某も基本的には同感であります。ですが、おそらく正面からの力攻めでは負けましょう」
あまりに不吉な予測を、極めて当然のことのように菅助は述べた。
それを受けて信玄は、確認の問いを発する。
「菅助、それほどまでに越後兵は精強なのか?」
「はっ、残念ながら各地の国衆をかき集めた我らと異なり、越後の者共は全てが政虎の配下に等しき働きをなしまする。それは脅威以外の何物でもござらん」
「なるほどな。それにここから妻女山に攻め込むとなると、千曲川を渡らねばならぬ……か」
信玄はそう口にすると、自身と妻女山のちょうど中間に存在する川へとその視線を向ける。
犀川とともに、眼前の三角地帯を川中島と呼ばせる由来となったもう一つの川。
その千曲川を渡ることの意味を十分に理解する信玄は、小さく頭を振った。
「然り。おそらくは我らが川へと入った瞬間、奴らは一斉に山から駆け下ってきましょう。となれば、千曲川を挟み妻女山の対極に位置するこの茶臼山を出るわけには行きませぬ」
「普通ならばな」
「ええ、普通ならば」
信玄の意味ありげな笑みに続く形で、菅助も笑いながらそう口にする。
するとそのタイミングで、信玄の弟にして全軍の副将を務める武田信繁が足早に駆け寄ってきた。
「兄上、やはり千曲川を挟んで周囲を包囲いたしましたが、越後勢は身動き一つ見せませぬ」
「であろうな。では菅助、兼ねての予定通りに取り計らってくれ」
「承知いたしました。早速皆へと指示を伝えてまいります」
菅助はそう口にすると、そのまま不自由な左足を引きずりつつ、足早にその場から立ち去っていく。
そうして残された兄弟は、お互いの顔を見つめ合った。
「兄上……本当によろしいのですか?」
「ん? お主が報告してきたはずだが。敵は身動き一つ見せぬと」
信玄は薄ら笑いを浮かべたまま、信繁に向かいそう答える。
すると、信繁は真剣な表情のまま、自らの懸念を口にした。
「それはそうですが……だとしても、今はというだけの話で、奴らがいつ動き出してもおかしくはありませぬ」
「確かにその通りだ。だからこそ、奴ら以上の数を用意したのだ。常に交代で休息を取るために。そして同時に、常に連中に対し緊張を強いるためにな」
陣張りに於いては後手に回ることを承知で、可能な限りの兵を集めてきた理由。
それはもちろん戦闘における数の優位を前提としたものではあった。
しかしいくら数を集めようとも中に弱兵が多く交じれば、逆にそこを突かれ敗因となることさえある。
だからこそ、上杉政虎が信に足る兵士のみを動員してこの地へ進行してきたことには確かに一理があった。
それを理解した上でなお、信玄は政虎以上の数を集めている。
その理由の一つは、長期戦を見越して常に交代で休息を取らせる為であり、そしてもう一つは、数の力で常に妻女山を包囲して彼らに休息を与えぬためであった。
「……いえ、お考えがわからぬわけではありませぬ。ただあまりに大胆すぎるが故、些か心配しておるのです」
「常に半数を休ませる……か。確かにここを攻め込まれれば、見た目よりも脆い陣張りとなろう。それに兵糧もただではないのだ。これだけの数を引き連れること自体、ある意味では愚劣に思えるのも当然と言えよう。だが……」
そこまで口にしたところで、信玄は顔に張り付けていた笑みを消し去る。そしてそのまま、彼は真剣な口調で言葉を続けた。
「だがお主もあの対局を見ておったであろう。ならば、現在は局面のどこに当たると思う?」
「おそらくは、千日手に陥った局面でございましょうな」
先日の評定の最中に繰り広げられた菅助とあの少年の対局。
その中で二人共が他の手を指すと不利になる状況が生まれ、繰り返し同じ手順を差し続ける状況が生まれた。
言うなれば完全なる膠着状態であり、信繁も川を挟んでお互いが身動き取れぬであろう現状。
それはまさにあの局面と告示していることを、彼等はここに至って感づいていた。
「さよう。まああの将棋に於いては、決まりにて四度同じ局面となれば別の手を打たねばならん。だがしかし、実際の戦は将棋にあらず。と成れば、焦れて悪手を打った方の負けとなるは必定だろうて」
「それはそうでしょうが……兄上がたった今おっしゃったとおり、実際の戦は将棋ではありませぬ。成ればこそ、あの者の考えたとおり物事が進むとは限りますまい」
「然り。まさにその通りだ。だからこそ、今は兵を休ませるのだ。必要な時に正しい手を打つためにもな」
信繁の言は正しいと認めつつ、信玄は敢えて自らの判断を撤回することはなかった。
だからこそ、信繁もその決意固さを理解し、そのまま深く頭を下げる。
「……わかりました。御下知に従いまする」
「ああ、任せる。それとだ、あの者は無事向かえたか?」
信玄が指している人物。
それが菅助と対局したもう一方の人物のことであるとは、信繁も容易に理解できた。だからこそ、彼はすぐさま報告を行う。
「はい。先程、海津城の中へ入る姿が確認出来たとの由です」
越後勢が陣を張る妻女山の北に位置し、武田四天王の一人である高坂昌信が守る城。
そこへ一人の少年が、二人の仲間を連れて入っていったことを信繁は伝えた。
途端、信玄は満足そうに頷くと、千曲川の河畔に存在する海津城へとその視線を向ける。
「ならば良し。あとは時が来るのを待つとしようか。あの天海殿から合図がある、その時を……な」
武田信繁
大永五年(一五二五年)生まれ。幼名は次郎。武田二十四将の一人。
父である武田信虎は、嫡子である信玄よりも信繁を愛しており、彼に家督を継がせたかったとも言われている。しかし最終的に彼は兄である信玄を立てる形で、父親である信虎追放に加担。以後は武田軍の副将として戦場で武功を重ねる傍ら、後に信玄によって制定される『甲州法度之次第』の原案とも言われる『武田信繁家訓』を編纂するなど行政官としても一流であった。
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