第十七話 今川治部大輔義元


「これほど急に天気が崩れるとはな」

 降りつける雨風を避けるため、巨木の裏へと回り込んだ義元は、側に控える三浦義就に向かいそう告げる。

 だがあまりの雨音の強さ故、彼の言葉はうまく義就へと伝わることはなかった。


「殿、まったく周囲が見えませぬ。不用意に歩かれなさいますな。山の上故に、崖などがありましたらいけませぬ」

「今年は空梅雨かと思ったが、これが続けば農民たちも一息つけよう」

 お互いに噛み合わぬ会話を行いながら、彼らはこのにわか豪雨をどうにかやり過ごし続ける。

 すると、突然周囲から無数の叫び声が飛び交い始めた。


「何か起こっておるのかのう。この雨で既に大地はぬかるみ始めておる。転んで怪我などしておるものが居らねばよいが」

 義元は周囲の気配が慌ただしくなり始めたことを受け、何らかの自然災害が発生し始めているのではないかと危惧する。

 だがそんな彼のもとに、一人の男が血相を変えて駆け込んできた。


「殿、一大事です!」

 この豪雨にも負けぬ大声を発した男。

 それは旗奉行を務める庵原元政であった。


「どうした、元政」

「敵襲です。織田が……そう、織田がこの豪雨に乗じて突然本陣前に姿を表しました!」






 『信長公記』という歴史的書物がある。


 著者は信長とともに時代を歩み、そして江戸時代まで生き抜いた太田牛一。

 そう、先日その人となりを慶次郎に確認してもらった、現在の太田信定である。


 僕が受験生時代に学んだ桶狭間の戦いのその顛末は、織田が今川に桶狭間という地で勝ったという極めてシンプルなものであった。

 だがその経緯と手法、更には決戦の場自体に関して、実に様々な説が存在することで知られている。


 元々、大学院まで戦国史の研究をしていた高校教師が雑談代わりに授業中で口にしていたのは、様々な仮説が存在するがよく言われる代表的な説は二つあるということだった。


 その一つは、田楽狭間という窪地で休憩していた義元を、丘の上から一気に奇襲したと言うもの。

 そしてもう一つは、桶狭間山において北西に向かい陣を貼っていた義元を、豪雨に乗じて真正面から強襲したというものである。


 ここで問題が一つ生じる。

 奇襲を掛けるにしても、相手の本陣の場所がわからなければ意味が無いという問題が。


 それ故に、僕は慶次郎に確認をしてもらったのだ。

 後者の説を支える歴史資料……つまり『信長公記』を書いた太田牛一の人となりを。


 そこから導き出された結論は一つ。

 敵は……今川本隊は桶狭間山に陣を敷いているということだ。


 それを予期したが故に、僕はここで史実に従い、史実を乗り越える決意をした。

 そう、たどり着くべき天の頂きに向かい、自らの歩を進めるために。


「本当に、本当に降りおったな。しかも凄まじいのが」

 高速で思考を巡らせていた僕に向かい、暴風雨の如きにわか雨を背に受けながら、信長どのは我慢できぬとばかりにそう叫ぶ。

 僕はそこで思考を中断すると、彼に向かいあらん限りの大声を返した。


「こんな激しい雨はいつまで続くかわかりません。とにかく、彼らの混乱に乗じて、一気に中央へ兵を突入させてください!」

「おう、任せろ。権六!」

 僕の大声に触発されたのか、信長どのはすぐさま脇に控える柴田勝家に視線を向ける。

 途端、兵士たちに向かい、この豪雨など物ともしない勝家の声が発せられた。


「はっ、掛かれ掛かれ! 一気に今川の陣内を突き崩すのだ!」

 その勝家の声を契機として、それまで敵に見つからぬよう恐る恐る進軍していた織田軍は、雨に乗じて一気に桶狭間山を駆け上がっていく。

 そして同時に、今川本陣において混乱という二文字が踊り狂い始めた。


「何が起こっているのだ。お前たちは一体、何――」

 敵か味方かさえわからず、織田軍によって切り捨てられていく今川兵たち。


 もちろん数としては圧倒的に彼らの多いことには以前変わりはない。

 だが予め雨に乗じて奇襲をかけるつもりであった織田兵と、見晴らしの良い土地に陣を張り奇襲の可能性を脳裏から消し去っていた今川兵とでは、この状況下では戦いにさえならなかった。


「先手は取った。だがそれだけでは無意味だ」

「その通りです。少しずつですが雨脚が弱まってきています。敵が状況を把握できないうちに、あの男の首を取らねばなりません。だから……」

 僕はそこで僅かに言いよどむ。

 だがその意味するところを理解した信長どのは、迷わず僕の背中を強く押した。


「秀一、お前は元より我が織田軍の因数外だ。自由にして構わん。行って来い!」

「はい!」

 僕は返事を口にした瞬間、一気にその場から駆け出す。

 そして既に先陣を切る勢いで混乱する敵を蹴散らしながら山を駆け上がる大男の一行の元までたどり着いた。


「よう、隊長。信長の旦那はなんて?」

「好きにやっていいとのことです。それで状況は?」

「見ての通りだ。この周囲から次第に兵士の配置が増えてきている。つまりこの奥に当たりがいるはずだ」

 慶次郎のその言葉に、僕は一つ頷く。そしてすぐさま、最も大事な問いかけをその口にした。


「あの人はどうしています?」

「毛利のガキか? ほら、あそこだ」

 慶次郎はそう口にすると、先陣の一角へとその視線を向けた。


「毛利新助……それに服部一忠。間違いない、向かうべきはあの先です!」

「は? じゃあここはどうすんだよ?」

 混乱の最中とは言え、既に敵と交戦中の最中である。

 急に僕の部隊がその持ち場を離れる訳にはいかないのは当然のことであり、慶次郎の問いかけはまさにもっともなことであった。

 そしてだからこそ、僕は最も信頼できる人物に、この部隊の指揮を委ねる。


「利家殿、この場所と部隊を任せます」

「……この状況で動かれるということは、何か理由があるのですな。分かりました。お預かりします」

 利家は迷いなくそう口にすると、次の瞬間には周囲の兵士たちに向かい矢継ぎ早に指示を出していく。

 その光景を目にした僕は、隣に立つ大男に向かいその口を開いた。


「さあ、慶次郎さん。行きますよ!」

「ちょっと、おま……おい」

 僕は慶次郎の返答を確認することなく、僕は真っすぐに戦場となる今川の陣内を駆け抜ける。


 僕が目指す先、それは服部一忠と毛利新助の進行方向。

 つまり僕の知る史実において、一番槍を果たした男と歴史に名を残した男の向かう先にこそ、あの男がいるはずであった。


 そう、海道一の弓取りと呼ばれた男、今川義元が。


 僕はそう考えながら、いつの間にか敵兵が集まりつつあるその巨木へ向かい、更に速度をまして駆けようとした。

 だが次の瞬間、僕は突然背後から首根っこを掴まれる。


「馬鹿野郎、戦場で周りも見ずぼうっとするんじゃねえ!」

 その怒声が発せられると同時に、僕の眼前に一筋の槍が通り過ぎる。


 強張る体。


 だが次の瞬間、僕を助けてくれた大男が、側面から襲い掛かってきた槍兵を一閃する。


「いいか、秀一。頭を使うのはいい。だが何のために体を、そして剣を鍛えてきたんだ。俺と互角に戦えるやつが、その辺の雑兵にさっくりやられるんじゃねえぞ!」

 それは明らかに戦場における高揚から来た怒声ではなかった。


 目の前の傾奇者の心の底からの怒り。

 それが僕へとまっすぐに向けられていた。


 だからこそ僕は、彼に向かい謝罪の言葉を口にする。

「慶次郎さん……すいません」

「今はお前が隊長だ。慶次郎でいい。それよりもこの先にいるんだな。お前が周りを見えなくなるほどの獲物が」

「おそらくは」

 慶次郎の言葉に、僕はすぐさま首を縦に振る。

 すると彼は、僕へと向けた先程の怒りをその表情から消し去り、そして決意を秘めた顔を敵へと向ける。


「いいだろう。あえて理由は聞かねえ。ただお前といたらこの先、飽きることがないことは間違いなさそうだ。だから……俺が道を作ってやる。敵の大将までの道をな」

 そう口にした瞬間、慶次郎は手にした大身槍を軽く振り回す。

 そしてそのまま、まっすぐに敵兵に向かい突進を開始した。


「どけえ、天下一の傾奇者。前田慶次郎がここをまかり通る!」

「慶次郎……」

 慶次郎のその一騎駆けがどれだけ危険で無謀なことか僕にはわかった。

 だからこそ、僕は彼の思いを無にせぬために、敵兵の注意を一身に集めた彼の側をまっすぐに走り抜ける。


 そして駆け抜けた先には一人の男が立っていた。


「あれほどの豪の者を従え、まるで最初からわかっていたかのようにこの私の元へまっすぐに駆けつける。はてさて、その方は一体何者か?」

 雨に濡れ、既に身なりは泥にまみれてはいたが、男の言葉には明確な知性と風格が伴っていた。

 それ故に、僕は迷うことなく自らを名乗る。


「天海秀一と申します、治部殿」

「ほう、天海……か。なるほどな」

 僕の名を耳にした瞬間、何故か男はその整った顔に苦笑を浮かべる。


「治部殿?」

「いやなに、ある男の警告を無駄にしたと思って……な。しかしだ、例えお主が天に愛されて私のもとまでたどり着いたのだとしても、このまま終わりとはいくまい」

 男はそう口にすると、ゆっくりと腰から太刀を抜き放つ。

 左文字源慶によって打ちあげられた一振りの太刀を。


「少年よ、覚悟は良いか?」

 目の前の壮年の取った構え。

 それはまさに僕と寸分違わず同じ型であった。


 だからこそ、僕は理解する。

 この人の剣は、僕と同じ人から授けられたものなのだと。


「そうですか……師匠は貴方にも剣を……」

「剣しか才を見せることができなかった息子がおってな。あいつの唯一の取り柄だ、父としてはできるだけ付き合ってやりたかった。だからこそ、息子と打ち合える程度には鍛えて頂いたつもりだ」

 口元を軽く歪ませながら、目の前の男は一切隙を見せることなくそう言い切る。


 確かに彼の息子である氏真は、卜伝師匠の弟子。

 ならば、この僕との邂逅はある意味、歴史的な必然なのだろう。


 だからこそ、僕はそれ以上言葉を口にすることなく、自らの太刀を握りしめ直す。

 すると、その動作を見て取った男は、満足そうに僕に向かい前へと進み出た。


「今川治部大輔義元、いざ参る!」

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