第十八話 戦いの果てに
振るわれる剣を躱す、躱す、躱す。
何れも思わず見惚れてしまいそうなほど、目の前の男が放つ剣撃は流麗なものであった。
例えるならば、洗練された書家の筆使いの如し。
強さと華麗さを纏った義元の剣、それは彼の生き様と矜持がまさに込められていた。
だからこそ、僕は全身全霊を持ってその剣を回避し続ける。
「当たらぬ……か」
一度間合いを取り直した義元は、一度小さく息を吐き出すとそうこぼす。
「いえ、初対面ならすでに私の首はここから離れていたかもしれません。ですが、貴方と近い剣を振るわれる方と、一度ばかり手合わせしたことがありましたもので」
そう、それは僕の正直な感想。
今川義元の剣はあの人とひどく似ていた。
一度ばかり剣を交わせたことのある兄弟子、細川藤孝様と。
「そうか……多くのものと剣を交わせることも実力のうちだな。しかしここで退くつもりはない。逃げようにも、お主に背を見せる愚は犯せなさそうだしな」
「貴方の剣撃に、欠片も逃げるおつもりは伺えませんでしたが?」
「ふふ、必要とあれば逃げるさ。だが最初から、弟弟子に対し逃げ支度というわけにはいかんのでな!」
そう口にした瞬間、義元は再び僕目掛けて高速の横薙ぎを放つ。
予備動作が極めて少ないその一撃。
それを僕は自らの剣を抜き放ち受け止める。
そう、まさに紙一重のタイミングで。
「この左文字を受け切るか。なかなかの業物を手にしているようだ」
「貴方のものと違い、借り物ですが。ともあれ、今度は僕の番です」
その言葉と同時に、僕は一瞬で体を沈み込ませる。
放つ三日月宗近の一閃。
だがその一撃は、義元の足元を捉えることはなかった。
「流石、兄弟子……ですね」
「いや、今のは天の恵みのおかげだ。このぬかるみ故に、お主の踏み込みが浅かった。でなければ、この脚は既に我が身と離れていただろうさ」
僅かに苦笑を浮かべながら、義元はそう口にする。
そして彼はそのまま首を左右に振った。
「すまないが、無粋をする。ここは戦場なのでな」
彼がそう口にした瞬間、僕は背後からの殺気を感じ取った。だからこそ、恥も外聞も捨てて、側面へと転がる。
豪雨によってぬかるんだ大地が、僕の全身を泥に包んでいく。
そして次の瞬間、先程まで僕が立っていた空間に剣光が走った。
「殿、無事でございますか!」
「ああ。助かった、義就」
義元はそう口にすると、わずかに口元を歪める。
そしてすぐさま、三浦義就は義元と僕の間へと割って入った。
「お逃げ下さい。ここは危険です」
「それはわかっている。だが、逃げようともどこへだ?」
「それは……」
義元の言葉に、義就は言葉をつまらせる。
そんな二人を眺めやりながら、僕は太刀についた泥を軽く払うと、深いため息を吐き出した。
「甘かった……ですね。覚悟をしていたつもりだったのですが……」
そう、僕は甘かった。
今川義元が兄弟子と知り、その剣を見極めたいという感情を覚えてしまった。
そんな中途半端な感情が、自らを受け身に回らせ、気がつけば二対一の状況を生み出す。
何様のつもりだ。
まだ何者でもない僕が、今川義元を見極める?
勘違いも甚だしい。
少しばかり未来を知り、その御蔭で今川軍を追い詰めたからと言って、まだ何も成し遂げたわけではないのに。
だからこんな状況となるのだ。
犯してしまった自分の不手際。
それは自分で取り戻すしかない。
戦場に相応しきやり方……あの弟弟子の流儀を用いて!
「治部殿、改めてお手合わせさせて頂きます」
「させんぞ、ここは我が身に代えても絶対に……なっ!」
次の瞬間、三浦義就はその顔を手で覆う。
そう、僕が足元の泥を彼目掛けて蹴り上げたが故に。
そして生まれた隙。
それはまさに砂金よりも貴重なものであった。
だからこそ、僕は瞬く間に彼の側をすり抜ける。
そして渾身の力で、偉大なる武将へと踊りかかった。
「治部殿、いや……義元、覚悟!」
僕が放った袈裟斬りの一撃。
それを義元は左文字でもって受け止める。
そう、僕の予想通りに。
「兄弟子殿、失礼!」
そう口にすると同時に、僕は本命となる渾身の一撃を放った。
義元の足元を崩すための、鬼十河直伝の全力の蹴撃を。
「うぬっ、お主!」
苦悶の表情とともに膝から崩れ落ちる義元。
その瞬間、僕は三日月宗近を一閃……いや、二閃する。
なぜならば、彼が動くことがわかっていたからだ。
主君を助けるために、背後から三浦義就が破れかぶれに飛びかかってくるだろうと。
そうして一閃目は背後の義就を捉え、二閃目は眼前の男の胸を切り裂く。
次の瞬間、三浦義就はその場に崩れ落ち、義元は口から赤い液体を吐き出しながら片膝をついた。
「くっ、み、見事だ……その歳と見た目に似合わぬ戦場の技もそうだが、完全に空間を支配して見せたことが……な」
胸から溢れ出るおびただしい出血を片手で押さえながら、義元は僕の目を見ながらそう告げてくる。
僕はそんな彼に向かい、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。我が兄弟子殿」
「兄弟子……か。私をそう呼ぶのなら、我が首とともにこれを持ってゆけ」
そう口にすると、義元は手にしていた左文字を僕に向かい放り投げる。
「よろしいのですか?」
「その辺りの雑兵に掠め取られれば、左文字も泣こう」
「では、ありがたく」
僕はそのまま地面に転がる左文字をその手にする。
それを目にした義元は、小さくその首を縦に振った。
「一つ忠告しておく。あの男がお主のことを警戒しておる。これから如何なる道を歩むつもりにせよ、十分に注意することだ」
「あの男……それはまさか松永久秀ですか」
僕のその問いかけ。
それに対し、義元は返答代わりとばかりに、わずかに微笑みを浮かべてみせた。
そして彼はその両眼を瞑ると、虚空に向かい言葉を吐き出す。
「夏山の……茂みふきわけ……もる月は……風のひまこそ……曇り……なりけれ」
名家たる今川家を過去最大の版図まで広げた比類なく偉大な弓取り。
彼はその言葉を最後に、前のめりに崩れ落ちた。
永禄三年五月十九日未の刻。
ここに桶狭間の戦いはその勝敗を決した。
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