第十六話 桶狭間山


 五月十九日の正午。

 尾張に向かい鳴海道を北上する義元の本隊の元へ、一人の兵士が顔面に喜色を浮かべながら駆け込んできた。


「報告いたします。岡部隊は敵の先遣隊と交戦、潰走させたとの由にございます」

「これは良き報告に御座いますな。朝比奈及び松平の両隊も、それぞれ鷲津と丸根の両砦押さえたことですし、やはり織田など我らの敵ではありませんな」

 旗奉行を務め義元の側に付き添っていた庵原元政は、吉報を受けるなり満足げに一つ頷く。

 だがそんな彼とともに義元の側に詰めていた譜代筆頭の三浦義就は、小さく頭を振って慎重論を口にする。


「庵原殿、油断は禁物だ。先遣隊に勝っただけで、勝負が決まったわけではないのだからな」

「はは、三浦殿は心配症ですな。敵はあのうつけ、先遣隊の敗北を聞いて震えながら清須に引き返している気がしますがな」

 義就の窘めるような発言に対し、元政は軽く笑いながら気にする様子を見せなかった。

 一方、そんな二人の会話を耳にしていた義元は、顎に手を当てながら義就へと言葉を向けた。


「義就、そろそろ兵士たちに休息を取らそうかと思うがお主はどう考える?」

「はい、それは実に良き考えかと……ですが、この田楽坪はあまりに沼地が多く休息を取るのには向かぬ気がします」

 馬の背に揺られながらぐるりと周囲を見回した三浦義就は、正直な感想を口にする。

 それを受けて義元も、なるほどとばかりに一つ頷いた。


「ふむ、確かにな。織田の連中の勝ち筋は奇襲のみ。と成れば、ここはまさにうってつけの地であるか……いいだろう、一度あの山に陣を張るとしようか」

 義元はそう口にすると、輿の上から手近にあるもっとも高い山を指差す。

 それを目にした義就も、納得したのかすぐに賛意を示した。


「良きお考えかと思われます。あの山上でしたら周囲を常に一望でき、敵に対する位置取りとしては申し分ないかと」

「うむ。ところでだ、あの山はなんという山か知っているか?」

「いえ、詳しくは……近くの村の者に聞いておきます」

 駿府で目にしてきた地図の記憶を脳裏に呼び起こすも、義就はそこから山の名を手繰り寄せることが出来ず申し訳無さそうにそう告げる。


「うむ、任せる。何れにせよだ、あの山へ本体を向かわせよ。後に一度休息だ。よいな」

「はっ、心得ました」

 三浦義就は頭を下げると、すぐさま配下の兵に向かい指示を下す。

 そして彼らは瞬く間に小高い山の上に陣を敷くと、兵たちに昼食を取らせていった。


「報告いたします。先程近くの村の者から確認しましたところ、この山は桶狭間山と呼ばれているそうです」

「桶狭間……桶狭間山……か」

 義就からの報告を受けた義元は、顎に手を当てながらその山の名を繰り返す。

 一方、山の名などに興味のなかった庵原元政は、ぐるりと周囲を見回しその口を開いた。


「しかし、ここに陣を置いたのは正解でしたな。なかなかの景色です」

「兵たちも若干疲れが見えていましたし、良き判断であったかと」

 いつものように空気を読まぬ元政に苦笑しながら、義就も合わせる形で祖雨告げる。


 実際のところ連日の行軍のこともあり、兵士たちには明らかに疲労の色が見え始めていた。だからこそ、織田とぶつかる前にここで一息つけさせることができたことは、義就にとってまさに最善の選択であったのではと思われた。

 そしてそれは義元も同様であり、彼は北の方角へと視線を向けると大きく一つ頷く。


「今のところ織田の怪しげな動きは無さそうだな」

「やはり岡部殿に恐れをなして、逃げたのでは無いですかな」

 義元の言葉を耳にした庵原元政は、薄ら笑いを浮かべながらそう発言する。

 それに対し義元は一つ頷くと、彼なりの見解を口にした。


「清須で籠城へ切り替える……か。否定は出来ぬが、はてさて敵はうつけと呼ばれる常識のない男だ。何をしてくるかわからんな」

「だからこそ、この地に陣を張ったのはやはり良かったかと思います」

「その点に関しましては、私も三浦殿と同意見ですな。清須へ向かうとなると、まだまだ先は長いですから。ともあれ、私は兵たちを少し見回ってくることにします」

 それだけ口にすると、元政は義元に断りを入れその場から立ち去っていった。


「元政は些か楽観論を好んでおるようだな」

「ですが、兵たちの気持ちも同じかもしれません。戦わずして勝利を得れるならば、それに越したことはないでしょうから」

 三浦義就はそう述べるなり小さく息を吐き出す。

 すると、義元は苦笑を浮かべながら一つ頷いてみせた。


「確かにな。無駄に兵の血を流さずに済むなら、それに越したことはない。だが一寸の虫にも五分の魂という。あのうつけは虫よりは危険であろう。油断はせぬことだ」

「わかっております。見回りの兵士に、改めて警戒を呼びかけておきます」

「うむ、それでいい……むっ、雨……か?」

 満足げな表情を浮かべていた義元は、肩に落ちた雫に気づき、空を見上げ眉間にしわを寄せる。

 そこには先程までは存在しなかった黒い雨雲が、いつの間にか山を覆う形で空に広がり始めていた。


 激しいにわか雨がまるで石や氷を投げ打つかのような勢いで降りつけ始めるのは、そして雨音以外の物音が彼らの鼓膜を叩くのは、それから間もなくのことであった。


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