第十五話 天への布石
熱田神宮の境内。
そこには尾張兵が所狭しと無数に詰めかけていた。
「意外と愚か者は少なくなさそうだ。だが三千に満たず……か」
彼に従いこの地に集った兵士たちを眺めやりながら、信長どのは複雑な表情を浮かべる。
僕はそんな彼に向かい、軽く首を左右に振った。
「ですが、溢れた酒を嘆いても仕方ありません。手持ちの駒で戦うしか無いかと」
「そうだな。元々、我らは奴らの一割程度にすぎん。今さら百や二百をどうこう言っても始まらんわな」
そう口にすると、信長どのは苦笑を浮かべる。
すると、そのタイミングで柴田勝家がこちらへと歩み寄ってきた。
「御館様。総勢二千九百八名、いつでも出陣可能です」
「そうか。ならば、あと足りぬは天の恵みのみだな」
「はい。ですが……あいにくこの天気では、些か予定変更が必要かと」
勝家は僕へとちらりと視線を向けた後に、空へと視線を向ける。
そこに存在するは、まさに雲ひとつなき快晴であった。
「ふふ、まさに初夏らしい爽やかな青空よな。で、秀一。どうするつもりだ?」
「問題なく予定通りで」
信長どのの問いかけに対し、僕は間髪入れることなくそう答える。
途端、勝家の矢のような視線が僕へと向けられた。
「貴様、本気か?」
「ええ、もちろんです。むしろこれ幸いとさえ考えているところです。いやはや、熱田大神がついているとやはり違いますな」
「な……幸いだと!?」
僕の言葉を耳にした勝家は、驚きのあまりにか口を大きく空けたまま絶句する。
一方、隣に立つ信長殿は薄く笑いながら興味深げに僕へと問いかけてきた。
「ほう、幸いか……良ければ説明してもらえるかな?」
「もちろんです。まず大前提としてですが、此度の戦において織田家が勝つ方法は一つ。それは奇襲しかありません」
「その通りだ。だからこそ、雨が降っていないことは望ましくないと思えるが?」
僕の説明を受け、信長どのは順当な問いかけを僕へと返す。
それに対し、僕は迷わず大きく頷いてみせた。
「そうですね。今からすぐ今川とぶつかるのなら、そのとおりだと思います。ですが、そうではありません。だからこそ、今はこれで良いかと」
「今ではないからこそ……か」
「はい。というのも、今川も我々が野戦を挑むのならば、奇襲に打って出てくることは予測済みでしょう。これだけ戦力差がついてしまうと、それ以外に勝ち用がないのですから」
「で、あろうな。海道一の弓取りの名は飾りなどではない」
「ええ。愚将ならば、武田や北条と隣り合わせになりながら、国力をこれほどまでに蓄えることなど出来ません。少なくとも、三万もの兵を動員できるほどまでにはです」
三万の兵を集めるということ。
その事自体でさえ、十分に義元の能力を指し示していると言える。
しかしながらそれ以上に、それだけの兵を完璧に運用し補給を整えながら進軍してきていることこそが、彼の者の能力が並大抵ではないことを如実に示していた。
「今川が手強いことなど最初からわかっている。それよりもだ、貴様の思惑とは異なるこの快晴、このどこが幸いなのかと聞いている」
「勝家殿、それは簡単です。義元が優れた国主であるからこそ、この天気であることが幸運なのです」
「優れた国主であるから……つまり最初から雨では失敗するということか?」
僕の発言を耳にした信長どのは、何かに気づいたような素振りを見せながら、僕に向かってそう問いかけてくる。
「もちろんそうとは限りません。ですが、最初から雨ならば、付け入る隙はより少なくなるでしょうな。結局のところ、裏をかくのは裏をかくべき機でなければならないと、そう僕は考えておりますので」
「ふむ、まあ元々無謀な戦いだ。幾つもの幸運を味方につけねば話にならん。となればだ、俺もこの天気を幸運だと考えておくとしよう。例え裏目に出ているのだとしてもな」
まだわずかに引っかかりが残っている素振りを見せながら、信長どのここで僕に向かっての槍を一度収める。そして納得できぬ様子の勝家を連れ、彼は全軍を動かすために、その場から歩み去っていった。
そうして場に一人残された僕は、虚空に向かってそっと息を吐き出す。
すると、そんな僕の右肩に突然大きな手が乗せられた。
「へへ、役者だねぇ」
「いえ、そうでもないですよ。本当に根っからの役者なら、例え主役たる信長どのが舞台から姿を消しても、観客の目があるうちは弱みなど見せないでしょうから」
空いた手で大槍を抱える大男に向かい、僕は苦笑交じりにそう告げる。
途端、慶次郎の表情にはニンマリとした笑みが浮かび上がった。
「まあ俺は観客ではなく共演者だからな、別にかまわねえだろ。で、どこまで本気だったんだ?」
「半分ってところでしょうか。何れにせよ、賽は振らなきゃいけないですし、どうせ振るなら気持ちよく振りたいと思いませんか?」
それはまさしく僕の本心であった。
織田信長と柴田勝家を前にして、通常の心境ならばとても大口など叩く気にはなれない。
だが必要とあれば、僕はそれを行う。
たとえ真なる意図を伏せたままでも、そして彼らを偽る形となるとしても。
「確かにちげぇねえ。ともあれ、俺もお前さんに賽を預けた口だ。せいぜい良い目が出るのを期待しているぜ」
「ありがとうございます。で、貴方の方は頼んでいた話は聞けましたか?」
「ああ、太田のとっつぁんだろ。聞いてきたぜ。何で日記を書いているのを知っているのか、不思議そうにはしてたけどな」
僕の問いかけに対し、慶次郎は苦笑を浮かべながらそう口にする。
「はは、まあそうですよね。それで太田信定どのはなんと?」
「嘘を書くのは趣味じゃねえとさ。逆に聞いた俺が怒られちまった。あれは意外に堅物だな」
太田信定こと太田牛一が示して見せた反応。
それを耳にして、僕は内心で思わず拳を握りしめる。
そして同時に、僕の中で唯一残されていた迷いがこの瞬間完全に消え去った。
「おい、なんでニヤけた表情をしているんだ。お前の頼みを聞いてとっつぁんに怒られたんだぞ」
「はは、すいません。でも、お願いした意味はありました。あとは戦いで成すべきことを成すだけですね」
僕は頭を掻いてごまかしながら、はっきりとそう告げる。
それに対し慶次郎は、顎に手を当てながら値踏みするかのように僕へと視線を向けてきた。
「何やら信長の旦那だけではなく、俺にも内緒の企みをしてるみてえだな。まあ俺は戦が楽しめりゃあそれでいいが、一つ気に食わねえのはもう一つの方だ」
「合戦中に彼の位置を把握しておくようお願いした件ですか?」
「ああ。放っておいても、わざわざあんなガキに出し抜かれるとは思わねえがねえ……」
僕の確認の問いかけに対し、慶次郎は露骨に乗り気ではない素振りを見せる。
だが一つ溜め息を吐き出すとともに、彼は小さく僕に向かって頷いてみせた。
「まあいいだろう。お前なりに何か考えがあってのことだろうからな。敢えてそれを楽しみにさせてもらうとするさ」
「そう言ってもらえると恐縮です。正直、前に言ったようにこの件に関しては、僕としてもあまり確信はないので……でも、できる限りお願いします」
「わかったよ。しかし、前から一つ思っていたんだが……いや、今はいいか。ともかく、祝勝会で浴びるほど酒を飲ませてくれればそれでいいや。というわけで、そろそろ俺たちも行こうぜ、隊長」
慶次郎は小さく首を左右に振ると、突然いつもの太陽のような表情を浮かべながら僕の背を軽く叩く。そしてそのまま彼は、他の兵士たちとともに熱田の境内の外に向かい、ゆっくりと歩み出していった。
僕はそんな彼の反応と言葉に僅かな引っ掛かりを覚える。
しかしながら、今から直面する難題が脳裏をよぎると、心の中を一度リセットし、わずかな間のうちに気持ちを切り替えていった。
今こそ、大きな一歩を踏み出す時。
そしてそのためになすべきは、不可能を可能とすること。
さあ、そのためにも歴史に従い歴史を裏切ろう。
あの日の誓いを果たすために、そして彼との約束を違えぬために。
「萬吉、僕は今から最初の一手を打つよ。天の頂き向かうために必須となる、最初の布石をね」
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