第十四話 敦盛
清州城の一室。そこにその人はいた。
暗闇に包まれた清須の街を、その目に焼き付けるかのように眺めながら。
「来たか……秀一」
目にしている全ての景色を慈しむかのように、信長殿は視線を外へと向けたまま、背中越しにそう声を掛けてくる。
僕はその背に向かい頭を下げると、一つの問いを口にした。
「はい。こんな夜分に、しかも供を連れることなくというご指示でしたが、一体何の御用でしょうか?」
「ふふ、何の御用……か。むしろ用があるのはお主の方ではないかな?」
背中越しではあったが、彼の顔が本心から笑っていることが僕にはわかった。
そしてだからこそ、僕は迷うことなくあの案件について切り出す。
「いいえ、それは信長殿に出した三つの条件のうちの一つだったはずです。利家どのの謹慎解除、藤吉郎殿をお借りし部隊を作らせていただくこと、そして――」
「そしてお主が我が家臣に見せるものに関する来歴を不問とすること……か」
やや棘のある口調で、信長どのは僕の言葉を奪ってみせる。
僕はそんな彼の内心に思いを致しつつ、堂々と頷いてみせた。
「はい、そのとおりです」
「てっきり足利との繋がりを表に出さぬ為、三日月宗近を譲られた経緯に関してだと思っていたが……ちっ、見事に逆手に取られたものだ」
舌打ちをしながら、信長殿は冗談めかしつつそう口にされる。
「正直、あの段階では良い書き手を得られる確証がありませんでしたから……しかし、流石に気づいておられたのですね」
「先年、大樹を訪問するにあたり、何度か細川どのとは文のやり取りを行っていたからな。もっとも先日の条件のことが頭をよぎらねば、気づきさえしなかったかもしれんが」
軽く溜め息を吐き出しながら、信長どのは正直な感想を口にされる。
それを受けて僕は、わずかに苦笑を浮かべてみせた。
「だとしたら、余計なことを言っただけだったかもしれませんね」
「別にそれでも構わなかったぞ。最後の勝利の時まで、この俺を騙してくれるというのならな」
信長どのはそう口にすると、初めて僕の方へと視線を向け、右の口角をクイッと吊り上げられる。
それを目にした僕は、首を小さく左右に振った。
「確かに。でも、それはそれで後に禍根を残しそうです。だからこれで良かったのでしょう」
「後に禍根……か。やはり自信はあるのだな」
「否定も肯定もしません。ただ僕がもっとも正しいと思う選択肢を提案したことは事実です」
そう、僕にだってこの度の策が上手くいく確信があるわけではない。
なぜならば、全てが僕の知っているとおり再現されるとは限らないからだ。
バタフライエフェクト。
それは蝶の羽ばたきのような微細なものでも、時間経過や組み合わせにより想像もしないほどの影響が生まれることを指す。
今の僕にとってこのバタフライエフェクトほど恐ろしいものは存在しなかった。
つまりこの時代の様々な人間に対し、僕自身がもつ最大の優位性は歴史という名の未来を知ることにある。
だからこそバタフライエフェクトによって、僕の知る歴史や未来にブレが生じると、その最大の優位性が失われることを意味していた。
それ故、僕は自らの行動に対し常に天秤にかけながら生きてきたつもりではある。
しかし既に十五年の時をこの時代で過ごしてきた以上、少なからぬズレが生まれ始めていることはやむを得ない。
何しろこの日ノ本の未来に関わる人物たちと接する形で生きてきたのだから。
確信などとても得られるものではなかった。
だがしかし、それでも一つだけ信頼できるものが存在する。
それは――
「ならば良し。お主を信じるとするさ。何しろ大樹より先に足利の金の卵を目にしたのはこの俺なのだからな」
「……そうでしたね。道端で出会ったただの小僧をお誘いになりました」
信長どのの言葉で思考を中断された僕は、そのままあの日のことを思い出すと一つ頷く。
「ふふ、そんな小僧が大樹の下を離れ今ここにいる。自らが仕向けたこととは言え、運命というものを感じてはいるさ」
そう口にされたところで、信長どのは僕の下へと歩み寄ってくると、僕の肩にポンと右手を載せる。
「それでこの戦いが終わった後はどうするつもりだ?」
「十倍の敵へと立ち向かう前に、まさか勝利の後のことを聞かれるとは思いませんでしたよ」
突然の問いかけに対し、僕は正直な感想を告げる。
すると信長どのは、僕に向かってニンマリと笑ってみせた。
「負けたなら先のことなんて考える必要はない。そうだろう?」
「それもそうですね」
「うちに残るならそれなりの待遇は約束する。どうだ?」
その問いかけは冗談めかしていたが、彼の視線は本気以外の何物でもなかった。
「家臣のみなさんが渋い顔をされるのが目に浮かびますよ」
「別に構わんさ。奴らにも十分に恩賞を与える。何しろ東に開けた土地が広がるのと同義なのだからな」
「どうでしょうか。義元を打ち破れば、同盟関係にあるはずの二国が黙ってはいないでしょう」
甲斐の虎と相模の獅子。
彼らが動かないなどということは到底考えられなかった。
中でも歴史を知る以上、甲斐の虎は特にではある。
しかしその事実は告げる事はできない。また匂わすことも出来ない。
なぜならば、目の前の男ならば些細な情報から僕の秘める一つの真実にたどり着きかねないからだ。
だがそんな僕に向かい、信長どのは更なる問いかけをぶつけてくる。
「彼らが共に織田を攻めると?」
「いえ、そこまではまだ。ただ彼等も弱体化した今川の領地を切り取りに来るはず。ですので、今川に彼等の攻めを受け止めてもらう。つまり緩衝材と扱うのが最善でしょう。もっとも全ては勝ったときの話ですが」
「武田と北条か……勝てども、天への道のりはまだまだ遠いな。だが何れにせよ、まずは目の前の一歩を踏み出さねばならん」
そう口にすると、信長どのはそのまま部屋の中央へと歩みを進める。そして手にした扇子を広げるとゆっくりとその瞳を閉じた。
「信長どの?」
「一指し舞おう」
そう口にした瞬間、彼を中心として部屋の空気が一変した。
そして高らかとした信長どのの声が、部屋に響き渡る。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」
敦盛。
それを目にした僕は、まるで映画を見ているかのような心持ちとなった。
口上とともに強く伸ばされた彼の腕は鋭くしなやか、そしてその足運びは清流のごとく一切の淀みが無い。
うつけなどという言葉とは程遠い、あまりに洗練されそして力強さを感じさせるその舞い。
「一度生を得て、滅せぬもののあるべきか」
目にしている舞いに……いやその舞いを見せる織田信長という人間に僕は魅せられていた。
だからこそ突然彼が発した言葉に対し、心の底から賛意を示す。
「行くぞ、秀一! 出陣だ」
「はっ!」
永禄三年五月十九日。
伝説となる一日がここに始まる。
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