第十話 今川館


 今川館。

 それは駿河今川氏の第四代当主である範政がこの駿府に築いた館である。


 当時から領国支配の要となった館ではあるが、更にその領有地を広げた今、この館を中心とする駿府は小京都と呼ばれるほどに、雅な雰囲気を漂わせていた。


 そんなある種の気品に満ちた駿府の一郭を、足早に駆ける二人の男がいる。


 三浦みうら義就よしなり朝比奈あさひな泰朝やすとも

 何れも今川家の忠実なる家臣であり、普段ならばこのような素行を見せる者たちではない。

 しかしながら、そんな彼らは慌ただしく館の中へ飛び込むと、手近な小姓へと問いを放った。


「義元公は、義元公は何処か?」

「これは三浦様と朝比奈様。殿は、奥の間におられますが」

 譜代ふだい筆頭である三浦と朝比奈の突然の来訪に驚きつつも、小姓はそのまま館の奥に向かって指をさす。

 それを受けて二人の男はお互いの顔を見合うと、一つ頷くなり再びその場から駆け出した。


「殿、こちらにおられますか? 失礼致しますぞ」

「ん、泰朝と義就か。一体どうした?」

 手にしていた書から視線を上げ、冷たい視線を二人の男性へと向けた男。

 彼こそ東海道一の弓取りと評され、駿河、遠江、そして三河という三国を領有する今川いまがわ義元よしもとその人であった。


「つい……つい先程です。このような文が都から届きまして」

 三浦義就は義元の視線に一瞬だけ怯みはしたものの、すぐに気を取り直し手にしていた文を渡す。

 途端、目の前の静かな壮年は、その文へと視線を落とした。


「松永の弾正からか」

「はい。その通りです」

 確認の問いに朝比奈が答えると、義元は無言のまま文を読み進めていく。そしてその末尾まで確認したところで、彼は右手をその端正な顎へと添えた。


「曲者が織田に……か」

「曲者……ですか」

 文を預かりはしたものの、内容を把握していなかった譜代筆頭である三浦は、眉間にしわを寄せながらそう聞き返す。

 それに対し義元は、小さく一つ頷いてみせた。


「ああ。松永の弾正どのはそう記しているな」

「あの蝙蝠こうもりをして、曲者と言わしめる者ですか。それは如何様な人物なのでしょうか?」

「ここに記されていることが正しいのならば、齢十五程の少年だそうだ」

 特に馬鹿にした素振りも、また侮った素振りも見せることなく、義元は淡々とそう答える。

 だが、その返答を聞かされた者たちは驚きの表情を隠すことはできなかった。


「な……冗談でございますか? それとも悪戯かなにかでしょうか?」

「いや、その線はないだろう。あの男は私同様にその手の冗談を好まん」

「では、その文が偽物であるとか?」

 三浦に続く形で朝比奈もそう問いかける。

 彼としても、たかだか十五の少年をあの弾正が気にかけることはあまりに不可解であった。


「お主たちは見たことがないからわからんだろうが、この筆跡はあの男の性格の悪さがにじみ出ている。間違いなく当人が記したものだろうな」

「文は本物……となれば、どこかの国主か公家の子供ですか?」

 何らかの理由で、偽物の文と何処かですり替えられた可能性。

 それはこの場に文を持参してきた三浦とて、まず無いだろうと考えていた。

 何しろ、彼らに文を預けた者自体、弾正の部下として何度も姿を目にしたことのある人物だったからである。


 それ故に、三浦は曲者のその意味から一つの可能性をその口にした。

 しかしながらそんな可能性も、彼の主は一瞬で否定する。


「いや、そんなことはない。文には元々は農民の子と書かれていた」

「話が見えませぬ」

「ああ、この私もだ」

 それだけ口にすると、義元はほんの僅かだけ口元を吊り上げる。

 眉一つ動かぬ氷の表情のままに。


 途端、その顔を目にした三浦たちは背中に冷たい雫が走るのを自覚する。

 だが彼らがその場でへたり込む前に、義元は再びその口を動かした。


「しかし少なくとも。足利の息がかかった者であることは確かなようだ。何しろ、将軍の子守をしている卜伝の弟子だそうだからな」

「あの塚原卜伝の……ですか」

「その意味で言えば、我が息子と同門に当たるわけか。ふん、別に手加減をする理由にはならんな」

 頭をよぎった情けない息子のことを、一瞬で頭のなかから消し去り、彼はすぐに鼻で笑う。

 一方、彼の重臣たる朝比奈泰朝は、慌てて彼なりの懸念を示してみせた。


「しかし殿、足利家が織田に肩入れしているとなると、これは厄介なことではありませんか?」

「表向きは無関係とされている。実際に、彼の家の家臣としてもその名は無い。まあ、だからこそ面倒ともいえるがな」

 義元は軽く肩をすくめながら、まったく面倒そうではない口調でそう答える。

 すると、今度は三浦義就が一つの疑念をぶつけた。


「その少年以外に、足利家から織田へは何らかの支援が送り込まれているのでしょうか?」

「いや、そのような動きはなさそうだ。もちろん大掛かりなものはという意味だが」

「だとしたら、これから行われるかもしれませんね」

「さて、どうかな。我が今川の目があることを知りながら、あの厄介な剣豪将軍がそのような愚かな真似をするとも思えん。第一これから行うにしても、その程度のことは弾正どのがうまく処理するだろう」

 人間性は一切信頼できぬも、その能力には完全なる信頼を置ける男。

 それが義元にとっての三好家家宰の評価であった。


「確かにそうですな。となれば、戦場でその者を見かけた際、子供だからと侮るなと言った程度の注意喚起というわけですか」

 仮にそうだとすれば、自分が慌てて運んできた文にしては、あまりにくだらぬ内容だと三浦は思わずにはいられなかった。

 一方、義元はそんな彼の言葉を否定も肯定もしなかった。


「さて、そこまでは測りかねる。文にはただ警戒せよとだけ記されていたのでな」

「何れにせよ、足利の息がかかった者が一人増えたとて、どうということは無いとは思います。となれば、三好家として、我が家に無理やり恩を押し付けてきたといったところでしょうか」

「それにしては、ほぼ無いに等しい小さすぎる恩ではあるがな」

 朝比奈の見解に対し、三浦は苦笑を浮かべながらそう評して見せた。

 一方、義元は彼らに対して言葉を向けることなく、その場で僅かに考え込む。


 そうして空間にわずかばかりの沈黙が訪れたタイミングで、一人の老齢の女声がその姿を現す。


「義元、何やら慌ただしいようですが何かありましたか?」

 ゆっくりと部屋の中へと歩み寄ってきた女性。

 義元の実母に当たる寿桂尼その人である。


「これは母上。いえ、特には。予定も何一つ滞ることなく進んでおります」

「ほう、それは良いことじゃ」

 淡々とした義元の説明に、受刑には口元を隠しながら笑うと、その場で難度も頷く。そして笑みを浮かべたまま、その場にいる三人に向いゆっくりとその口を開いた。


「あの者の為にも、我らは天下への足がかりを築かねばならん。そこに淀みなどあってはならんからな」

「ええ。雪斎せっさいの為にも、必ずや最短でこの日ノ本を掌握してみせます」

 普段は氷の義元などと家臣に評される彼が見せた、珍しい感情のこもった言葉だった。

 それを受けて三浦と朝比奈は戸惑いを見せるも、寿桂尼だけは嬉しそうに頷く。


「期待しています。ただし決して油断なさるな。例え敵が蟻だ言えども、その息の根を立つまでは勝利ではないのですから」

「もちろんわかっております、母上」

 それはまた、いつものように抑揚のない返答であった。

 だがそれも含めていつも通りだと感じた寿桂尼は、義元に向かい微笑みかける。


「ならば良い。それでは邪魔をせぬよう、私は孫の面倒をするとしましょう。本当なら、此度の戦の先陣に立たせたかったところですが」

「あやつは向きませぬ。何事も向き不向きがありますので」

 父の言葉として、それはあまりにそっけないものであった。

 そんな彼の発言に三浦たち家臣は戸惑いを見せるも、寿桂尼だけは当たり前のように頷く。


「確かにそのとおりですね」

「戦いの無い世ならば、その力を示すことが出来ましょうが……つまりのところ、生まれるのが些か早すぎた」

 まるで他人の子供のことを評しているかのように、義元は冷徹に彼の者の評価を口にする。


「しかり。だが義元、お主が全てを平定して見せれば、あの子でも十分以上に家の役に立つ」

「そうですな。ならば、そのための礎をこの私が作りましょう」

「うむ、ならば良し。三浦、朝比奈、お主たちにも期待していますよ」

「「は、ははっ!」

 突然向けられた言葉に、三浦と朝比奈は慌てて頭を下げる。

 それを目にして寿桂尼は一つ頷くと、そのまま部屋から立ち去っていった。


「母上も雪斎に縛られておる……か」

「何かおっしゃいましたか?」

 ボソリと呟いた義元に対し、三浦はわずかに戸惑いながらそう問いかける。

 しかし返されたのは、あまりにそっけない言葉であった。


「いや、なんでもない」

「そう……ですか」

「ああ。何れにせよ此度の件だが、京の実質的支配者の忠言だ。無視するには些かはばかられる。一体何者かわからんが、可能な限りの警戒をするとしよう」

 義元は一つ頷くなり、話を元に戻した。

 途端、彼の部下たちは子供相手にとの思いを飲み込み、再び頭を下げる。


 一方、そんな敵を軽んずる考えとは無縁の義元は、更に一つ二つ別件の用を彼らへと命ずる。

 そしてそのまま三浦と朝比奈は立ち去っていった。


「我が師である雪斎が気をつけよと申されていた男、松永久秀。彼の者の言というならば信じてみるとしよう。本人は欠片も信じられんが、その能力だけは間違いないのだからな」

 そう口にすると、義元はその視線を歩が沈む方角へと向ける


 従えるべき尾張の織田家と、叩き潰すべき山城の足利家。

 視線の先にはそれらの存在があった。

 そう、だからこそ彼は強く拳を握りしめる。


 今川の名が天下に轟くのを願いつつも志半ばに倒れた師、太原雪斎の夢を叶えると誓いながら。



太原たいげん雪斎せっさい(太原崇孚そうふ

明応五年産まれ(1496年)。臨済宗の僧にして今川家の執政。軍事や外交そして内政の何れの面においても今川義元の右腕として優れた手腕を発揮し、一部では「黒衣の宰相」などとも言われ恐れられていた。

 その功績はあまりに多いが、代表的なものの一つとして、外交面における今川・武田・北条の三国同盟(駿甲相三国同盟)を締結させたことなどがあげられる。しかしながら惜しむらくは、織田との戦いを迎えるその五年前に天寿にてその命が失われたことであろう。

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