第五話 意味するところ


「ふふ。どうだ、三日月宗近を預けられた気分は?」

 その言葉は、酒を片手に笑う青年の口から発せられた。

 森可成との戦いの後に、僕は夜間にこの部屋へ足を運ぶよう告げられていた。

 そう、眼前の男、織田信長その人から。


「正直に言わせてもらっていいのですか?」

 これまでの二度の邂逅から、この人もまた大樹と同様に不要な虚飾を好まぬ人物であることは明らかだった。

 だからこそ僕は、この尾張を収める目の前の人物に向かいそう問いかける。

 すると、すぐに予想通りの回答が僕の鼓膜を震わせた。


「ああ、もちろんだ。お主は大樹から預かっている身。直接この俺の家臣というわけではないからな」

「ならば言わせていただきましょう。最悪……ですよ」

 もちろんこの僕とて、剣を己が道の一つとするものである。

 それ故に、今この腰に下げている太刀をその手にできることは、まさに憧れと幸福極まりないものであった。


 しかしながらである、それはあくまで剣士としての僕の思いに過ぎない。

 つまり商人として、そして足利家の家臣として半ば武士として歩み始めた僕にとって、この太刀を預かると言うことが何を意味しているのか、それを理解するだけで胃がキリキリとするのはあまりに当然のことであった。


「はっはっは、そうか最悪か。うむ、実に結構。この俺の気持ちが少しは分かったであろう」

「なるほど、一年もこいつを預けられていたことがよほどご不満だったのですな」

 僕は溜め息混じりの口調で、信長殿に向かいそう告げる。

 すると、信長殿は嬉しそうに口元を歪め僕に向かい笑いかけた。


「不満などはないさ。あれを預かりうる限り、我が織田家は大樹の庇護下にあることを、多少なりとも意味していたわけだしな。しかしながら、当然その天に二つと無い名刀に何かあればと考えると、お主が来るのを一日千秋の思いで待っていても止むをえんだろうさ」

「まったく、次に預けられる者の身にもなってくださいよ」

 僕は肩を落としながらそう口にする。


 三日月宗近。

 後に天下五剣の一振りとされ、その中でもっとも優美とされる名刀である。

 足利家の家宝でもあるこの太刀に何かあればと思うと、目の前でうまそうに酒を口へと運ぶ信長殿に愚痴の一つでも言わずにはいられなかった。


「ふふ、まあそのあたりはいずれ大樹に直接言うのだな」

「そうさせてもらいますよ。本当にあの人はまったく」

 我が直接の主にしてこの太刀の真の所有者であり、そして鹿島新当流における我が兄弟子。

 将軍の職にありながら、未だ子供のように偽名で市中を闊歩するあの人の顔を思い浮かべながら、僕は深々とため息を吐き出した。


 一方、そんな僕の様子を目にしてか、信長殿は苦笑を浮かべられる。そして手にしていた盃の酒を一息に飲み干すと、その話題の矛先を僅かに変えた。


「ともあれだ、しばらくは我が家にて一働きしてもらうぞ。足利の家臣たるお主には期待しているのでな」

「信長殿。一応明言しておきますが、今の私は表向き足利の家臣を名乗ることは出来ませぬ。その理由は、貴方とて十分に理解できておられると思いますが」

 これから迎えるであろう戦いを前にして、足利家が全面的に織田家へと肩入れしたことを示す事実が存在するということ。


 それは決してあってはならぬことであった。

 だからこそ、僕は念を押すかのようにそう確認を行う。


「まあな。しかしそんなことは大樹とて想像の範疇であろう。でなければ、そんなものをこの俺に預けたりはしないさ」

「それはそうですが、建前というものはやはり重要なものなのですよ」

 そう、建前というものは重要なのである。


 もうすぐ迎えるであろう戦いにおいて、足利家はあくまで中立に近い立ち位置にあらねばならない。もちろん先日の今川に類する者の狼藉もあり、多少の肩入れは言い訳のしようもあるだろうが、全面的な協力などはもってのほかと言える。

 それほどまでに現在の足利家の立場は微妙なものがあり、彼の失脚を狙う三好家と上洛を目指す今川に対して、決して隙を与えるわけにはいかなかった。


「ふむ、ならばそういうことにしておいてやる。ただしうちの連中の前では足利の者として振る舞えよ」

「わかっております。たぶんそのほうが色々と話が早いでしょうから」

 先程の柴田勝家の対応をその目にして、衰えたりと言えどもやはり足利と言う名のもつその力は絶大なものがあると、そう思わずにはいられなかった。

 そしてだからこそ、この足利の家臣という事実を適切に用いなければならないと、僕は自らの決意を新たにする。


「ならば良し。で、お主は此度の戦い、どう考えている?」

 その信長殿の問い。

 それを受けて、僕は一度頭の中をリセットすると、シンプルな回答を口にする。


「そうですね。まあ今川としては時が来たということなのでしょう」

「ああ、駿甲相の三国同盟……あれが成立した日から、いずれこの時が来ることはわかっていた。そういうことだ」

 今より遡ること六年前、善徳寺という名の寺院にて、三名の武将が一同に会した。


 駿河の今川義元、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康。


 後世に燦然と輝く彼ら三名の間でこの時にかわされた和平協定こそ、三国同盟や善徳寺の会盟などと呼ばれる代物である。

 それはつまり、これまで何度も争っていた彼ら三家それぞれにとって、大いなる意味を持つ同盟関係の成立であった。


 そしてその一角である今川家に、この協定がもたらしたもの。

 それは彼らにとっての後背の安全であり、京へと続く上洛の道が開けたことを意味していた。


 そしてそのことは同時に、今川という巨象が、織田という蟻を踏み潰して進むだろうこともである。


「どうやら先方は既に兵糧の準備はされていると伺いますが、信長殿は一体どうされるおつもりですか?」

「奴らが攻めてくるのならもちろん迎え撃つ。例え相手が三万を超えていようがな」

 前世において、何度もドラマや小説で耳にしていたその数。

 それを耳にして、僕は顎に手を当てながら、改めてこれが今直面している現実なのだと感じずにはいられなかった。


「やはり三万以上ですか。なるほど」

「ふっふっふ……はっはっは!」

 僕の言葉を耳にした瞬間、突然信長殿は笑い出す。


「信長殿?」

「ああすまん。いや、可笑しくてな」

 僕の問いかけに対し、信長殿は笑いながら意味ありげな視線を向けてきた。

 それを受けて僕は、その理由を求める。


「はぁ……と、申しますと?」

「お主が初めてだったからな。この兵力差を前にして、俺の決断に動揺もせず、ただただ受け入れたのは」

 しまったと、そう僕は思った。

 僕はこの後に起こる戦いが、つまり織田と今川の戦いがあまりに当たり前の歴史的事実だと考えていたからだ。

 しかしながらこの状況下において、今川と真っ向から戦うという選択肢が如何に異常なものか、それは自明の理であった。

 それ故に、信長殿が僕に対し何らかの違和感を抱かれたとしても無理はない。


「いえ、何よりその兵力差をおっしゃる信長殿に動揺が見られませんでしたから。他国からの援軍か、または何らかの策があると、そう考えていただけです」

「秀一、嘘は良くないな。この信長の目を誤魔化せると思うなよ。というよりもこの俺の目が確かなら、お主はこの戦いが結末まで見えているのではないかな?」

 僕の胸の内までも全て見通してしまいそうな信長殿の瞳。

 それが真正面から僕の目をまっすぐに見つめていた。

 だからこそ僕は慌てて視線を外し、どうにかその疑念を否定する。


「まさ……か、そんなことは」

「ふふ、まあよい。俺が知りたいのは結末ではなく方法だからな。で、秀一。お主はどこで迎え撃つのが良いと思うか?」

 依然として信長殿は僕の瞳を覗き込みながら、懐に忍ばせていた地図を床の上に広げつつそう問いかけられる。


「……ただの小僧の考えではあります。ですが、私ならばここを選ぶでしょう」

 僕はある種の迷いを覚えながらも、眼前の地図に書かれたとある地点を指差す。


 それは歴史の転換点となった場所。

 そして前世の日本を生きる者ならば、眼前の人物とともに、誰しもが知る場所でもある。

 

 信長殿は地図に記されたその地点へと顔を近づけられると、ゆっくりとその地名を口にした。


「桶狭間……か」

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