第三話 清須にて
尾張国春日井郡。
この地に一つの城が存在していた。
とある城主が十年に渡り使用し、そして様々な同盟や天下の趨勢を決めることとなった会議が開かれた城。
名を清州城という。
歴史的にも名高いその城に、現在織田の重臣たちが一堂に会していた。
「して勝介、奴らの動きはどうなっているのだ」
「はっ、先日来やはり今川勢は兵糧集めを続けておる模様。少なくとも、短期間の戦いを意図した量ではなさそうですな」
信長の家老であるおとな衆の一人として、幼少時代より彼に使えてきた内藤勝介は、駿河にはなっていた草からの情報をそのまま披露する。
それを耳にした重臣の一人である柴田勝家は、眉をピクリと動かすと、確認するように彼へと問いかけた。
「つまり奴らは兵を挙げるつもりということか?」
「他には考えられますまい」
内藤勝介は小さく頷くとともに、柴田勝家の問いかけを肯定する。
するとまだ若い一人の武将が、すぐさまその口を開いた。
「して、現在の今川の兵数はいかがですか?」
「丹羽殿も御存知の通り、駿甲相の三国同盟が叶い、今川家としては武田と北条を警戒する必要が薄れております。となれば、おそらくは動かせる限りの人員を、此度の戦に動員してくるかと」
「動かせる限り……か。具体的にはどのくらいなのですかな?」
険しい表情を浮かべた丹羽長秀は、重ねてその規模を内藤勝介に問いかける。
すると、彼の口から発せられたのは一同の想像を大きく上回る数に他ならなかった。
「そうですな。少なく見積もっても二万以上といったところでしょうか」
「に、二万だと!」
血相を変えてそう口にしたのは甲賀出身の滝川一益である。
普段は冷静沈着とされる彼も、流石にその数を前にして驚きを隠せなかった。
一方、そんな顔色を変える家臣団をその目にしながら、内藤勝介は溜め息を一つ吐き出すとともに、さらなる凶報を一同へと告げる。
「いえ、あくまで少なくとも二万です。下手をすれば二万五千……いや、岡崎の松平家なども加われば、実際は三万近い数に膨れ上がるかもしれません」
「それに比べ我が織田は三千もそろうかどうか……か」
一連の報告を受けた信長は、顎に手を当てながら比較的落ち着いた口調でそう呟く。
すると、織田家の家宰に位置する林秀貞は、迫り来る脅威に対して現実的な提案をその口にした。
「いかが致しましょう、御館様。ここは早急に籠城の準備を始められては」
「秀貞殿、まさか最初から負けを前提とされるおつもりか!」
その怒気を孕んだ声を発したのは柴田勝家であった。
林秀貞としても好戦的な勝家が自らの提案に不満を露わにすることは予期できていたが、まさかこれほど強く反発してくるとは思っていなかった。
「いえ、そうではない。あくまで負けないためにこそ、籠城を考えるのだ」
「しかしだ、籠城をするとしてその後はどうなる? 此度の侵攻をこそ仮に防げたとして、果たしてその次は?」
「少なくとも、尾張の多くは奴らに切り取られ、次の戦いにおいて我らは更に不利となる……か」
勝家の危惧するところを理解し、信長は冷静にその先にある未来を口にする。
すると、自らの見解を否定されたと感じた林秀貞は、眉間にしわを寄せながら懸念を示した。
「しかし御館様、敵は二万を超えるのです。他にどのような手が……ん?」
林秀貞はこの会議の最中にもかかわらず、突然姿を現した若者の姿を目にして言葉をそこで止める。
姿を現した若者。
信長の小姓を務める長谷川橋介は、平伏しながら一つの報告を行った。
「会議中失礼致します。たった今、御館様に面談したいという者がやって参りまして取り次ぎをと」
「橋介! 軍議の最中だ、控えよ」
それは柴田勝家の声であった。
もしこの場に信長や他の重臣がいなければ、軍議を中断させた青年を打ち首にしかねぬ勢いで、彼は睨みをきかせる。
だがこの場における最高権威者は、自らの小姓であれば軍議を中断させるだけの理由を有しているだろうと確信し、そのまま長谷川橋介に先を促した。
「構わん。それで面談したいというのは何者だ?」
「それがまだ十四、五程の少年なのですが――」
「ただのガキではないか。そんなやつは今すぐ追い払え!」
やってきた者の年齢を耳にした勝家は、小姓の話をさえぎる形でそう怒鳴り散らす。
しかしながら信長はある確信を抱くと、嬉しそうに口元を綻ばせながら、改めて勝家を窘めた。
「落ち着け、権六。で、十四、五と言ったな。そしてお前が軍議中にも関わらずわざわざ取り次いだのだ、おそらくその者は種子島を背に担いでいたりはしないか?」
「はい。いかにも、そのとおりにございます」
信長にその人物のことが伝わったと確信した長谷川橋介は、そのままその場で平伏する。
一方、期待していた回答を得た信長は、この厳しい軍議の最中にも関わらず、思わず嬉しそうに笑い声を上げた。
「ふっふっふ、そうか。長く待たされたが、ようやく来たか」
「御館……様?」
信長の発言や振る舞いに疑問をいだいた丹羽長秀は、虚を疲れたような表情を浮かべながらそう声を発する。
だが嬉しげに笑い続ける彼の主は、ニコリと笑みを見せると思わぬことをその口にした。
「では、あの者と会おう。今すぐここに通せ」
「ご無沙汰いたしておりました、信長殿」
若い青年の小姓に通された清州城の一室。
そこにずらりと並んだ武将たちに気圧されながら、僕は深々と平伏する。
すると、僅かに口ひげを増やされた信長殿は、嬉しそうに笑い声を上げられた。
「ふふ、久しいな。しかし無事息災であったようで何よりだ」
「はい、どうにかこうにか生き延びてまいりました」
京を出てからこの尾張にたどり着くまでの日々を思い出し、僕は苦い表情を浮かべながらそう告げる。
途端、信長殿は愉快そうにその表情を綻ばされた。
「結構結構。して、この一年、何をしていたのだ?」
「基本的には伊勢におりました」
「伊勢……か。なるほど、北畠だな」
僕の発言を受けて、信長殿はあっさりと主たる目的と人物を洞察される。
それに対し、僕はすぐさま補足する形で、もう一人お世話になった人物の名を口にした。
「はい。伊勢国司である北畠具教殿と、大和の柳生宗厳殿に稽古をつけて頂き、多少ではありますが腕に自信がつきました」
「ほう、確かに一回り体も大きくなったように見えるな。で、此度の来訪、我が家を手伝いに来たのだと見るが相違ないか?」
「はい。来るべき今川との戦いに際して、お手伝いができればと」
信長殿の発言に応じる形で、僕は迷うことなくそう告げる。
しかしその瞬間、無精髭を生やした壮年の男性が突然立ち上がり、真っ赤な顔をしながらこちらに怒声を向けてきた。
「何者だ、貴様! どうして今川の動向を知っておる!」
「落ち着け、権六」
「ですが、御館様。ようやく我らも、連中の動向が掴めたところ。それをこんな小僧が知っているとはとてもあり得るとは考えられませぬ」
信長殿の制止の声を耳にしながらも、勝家は首を左右に振って、そのまま僕をにらみ続ける。
だがそんな彼に向かい、信長殿は更に落ち着くよう言葉を重ねた。
「いや、こやつなら十分に有り得る話だ。何しろ元々今井のところの商人であったのだからな」
「今井……もしやあの堺のですか?」
信長殿の発言に食いついたのは、それまで沈黙を保っていた織田家の政を取り仕切る村井貞勝であった。
「ああ。だから誰かが兵糧米を集めんとしているなら、当然知っていても不思議ではない。しかしだ、そこまで事情がわかっているなら話が早い。秀一、此度の戦において客将として手伝ってもらえるな?」
「お、お待ち下さい。なぜこのようなガキを客将に!」
「そうです。如何に御館様の知り合いとは言え、今日やってきていきなりとは、我々も納得しかねます」
「御館様、何やらいろいろご事情がお有りのようですが、我々にわかるように御説明頂けますでしょうか」
柴田、丹羽、滝川といった織田家の家臣たちは、信長殿の言葉を耳にするなり次々と抗議の声を上げる。
それに対し信長殿は、顎に手を当てながら僅かに右の口角を吊り上げてみせた。
「わかるように説明……か。後々禍根を残さぬなら、見せるのが一番手っ取り早いな。三左」
「はっ」
家臣団の中でも最も大柄で寡黙な様子の男が、名前を呼ばれるなり返事を行う。
そしてそんな彼に向かい、信長殿は僕の意見を聞くことなく思いもしないことを口にされる。
「この者と手合わせを見せてくれぬか」
「この少年と……ですか?」
「ああ。本気でやっていい」
「……分かりました」
それだけを口にすると、その筋骨隆々の男性は深々と平伏し、再びその口をつむぐ。
そしてようやく、もうひとりの当事者にされたこの僕に向かい、信長殿は声を向けられた。
「秀一、お主も良いな」
「はぁ……分かりました。この様子ですと、どうやらそれが一番話が早そうですし」
この場の空気と僕に対する視線。
それを前にして、あの方からの書状を出してこの場を切り抜けることは下策であることは明らかだった。
それに加え僕自身、あの寡黙な男性に興味をいだいたことも事実である。
だからこそ、無茶振りもいいところであるこの申し出を、僕は受け入れることとした。
すると、信長殿はニヤリと笑みを浮かべられ、そして嬉しそうに笑う。
「ふふ、結構。それではお主の成長を楽しませてもらうとしよう」
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