エピローグ
「ごめんね。迷惑をかける」
わざわざ本覚寺まで見送りに来てくれた目の前の少年。
彼に向かい僕は感謝の言葉を告げる。
すると少年は、口元に皮肉げな笑みを浮かべて見せた。
「まったくほんとだぜ。実家からちょっと手伝いに来てやっただけのつもりなのに、気がつけば番頭で、いつの間にか店主代理だ。こんなつもりじゃなかったんだがな」
「僕の方からも、大旦那様にはお詫びの手紙を出しておいたよ」
さすがに皆で送り出してもらいながら、すぐに京を出ることには後ろめたさも申し訳なさもあった。
だからこそ、僕は大旦那様に詫び状を送っている。
『好きにしなさい。その代わり行った先においても、君は今井の人間だということを忘れぬように』
それが僕への大旦那様からの返事であり、その文を確認したからこそ僕は全てを重秀に任せる形でこの街を離れることを決意した。
「すぐに代理の番頭を送るって連絡があったぜ。まあ俺ほど優秀な奴はいないだろうし、これでしばらく身動きが取れなくなったじゃねえか」
「はは、ごめんね。でもその代わり、本願寺には全ての裏事情を伝えておいてくれていいからさ」
僕はさらりとした口調で、重秀に向かいそう告げる。
すると、重秀は一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐに首を左右に振って溜め息を吐き出した。
「……なるほど、気づいていやがったか」
「まあね。僕からは上手く隠していたけど、他の人の目に対しては些か注意が欠けていたかな」
「お前以外の目か……ってことは、貴方の仕業ですね」
重秀はそう口にすると、隣で涼やかな笑みを浮かべる一人の青年へと視線を向ける。
「はてさて、何のことやら。あくまで私は秀一君個人を足利に相応しきものか監視していただけですよ。それが何故か彼の周囲を探ろうとする諸勢力が現れたので、併せて観測させて頂いていただけの話でして」
「ちっ、これだから大樹の耳は厄介なんだ」
「それは褒め言葉として受け取っておきますよ、雑賀の孫市くん」
ややふてくされ気味の重秀に向かい、細川様は変わらぬさわやかな表情のままそう告げる。
それを受けて、重秀は両手を軽く上に上げると、何かを諦めたかのように話しだした。
「はぁ……まあいいや。バレてるならその方が話が早い。秀一、本願寺がお前と硝石の商いを望んでいる。この意味がわかるな?」
「うん……でも、それは……」
「……天王寺屋のことか」
僕の悩みに気づいた重秀は、この取り引きにおいて問題となる商家の名前を口にする。
すると、細川様も真剣な面持ちで懸念を示した。
「津田助五郎殿と本願寺の下間との関係は、この京にまで伝え聞く話ではあるな。そこに割り込むとなると面倒事になる気がするが、はてさてその辺りはどうするつもりなのかね?」
「いえ、それに関しては心配ご無用。いや、もちろん面倒事が全くないわけじゃないですが、これはもう少し上から出ている依頼でしてね」
本願寺の内部を掌握しつつある下間家の者達よりも上。
それが意味する存在は一つしか存在しない。
そして同じ答えに行き着いた細川様は、先程より険しい視線を重秀へと向けた。
「つまり貴方の裏の雇い主は顕如殿というわけですか」
本願寺顕如、その名は当然僕も知っていた。
いずれ一向宗を率いて、織田家と対立することとなる本願寺第十一世の名である。
そしてその言葉を向けられた重秀は、正解だとばかりに軽く肩をすくめてみせた。
「まあ本願寺とうちの実家は仲が良いものでして」
「本願寺は戦を望むのかね?」
「現在のこの日ノ本においては、あちこちに一向宗の一揆が起こっているのは事実。ですが、あの方の考えは真逆ですよ。王法為本こそ、仏法の道と考えられておるようですから」
細川様の更なる問いかけに対し、重秀は軽い苦笑を浮かべたままはっきりとそう告げる。
王法為本。
それは王に逆らうことなく、それを助けることが仏法の本道でもあるという考え方であり、彼が言うように各地において一向一揆の勢いを増すこの現状とは真逆の思想であった。
「なるほど、それは結構なことですな。しかし問題は、その王というのが我らが主を指すのか、それとも最近本願寺からの寄進が目立つ畏き辺りを指すのか、それこそが問題となる気がしますね」
「残念ながら、そこまでは俺の知る範疇にはありませんよ」
細川様の踏み込んだ詰問を前にしながらも、重秀は悠々とそう言ってのける。
だからこそ、僕は自らの見解を二人へと向けた。
「王法為本が本当に顕如殿の目指すところかはわかりませんが、少なくとも内裏への寄進は権威付けにすぎないと思います。おそらく顕如殿が求めているのは、門跡の地位といったところでしょうか」
「ふむ、齢十六にして、本願寺を率いねばならぬならば、それなりに権威付けが必要。なるほど、それなら話に筋が通るか」
若き顕如が海千山千である本願寺の者たちを率いるならば、何らかの箔付けが望ましい。その為に、本来ならば皇族や公家が住職を務める寺院にのみ与えられる門跡の寺格を、畏き辺りへの寄進により手に入れることは、可能であれば実に有効な手段であると思われた。
一方、そんな僕らの見解を耳にし、重秀はやや弱った表情を浮かべながら慌てて口を挟んでくる。
「繰り返すけど、俺は何も言ってねえからな」
「わかっているよ。これは僕らのひとりごとだからさ」
「ちっ、まあその辺りに関してはなんとも言えんが、上手くやってくれ。奴らやあの家との距離感を計りながらな」
なんだかんだ言いながら、天王寺屋に対する警戒をほのめかしてくれるあたりが、非常に彼らしいと思った。
だからこそ僕は、そんな彼に向かって真正面から感謝を告げる。
「そうだね。ありがとう重秀」
「気にすんな。あとお前が手一杯というなら、俺をうまく使いな。多少中を抜かせてもらえるなら喜んで手伝うぜ」
やや照れ隠しの表情を浮かべながら、重秀は僕に向かってそんな提案を口にする。
それに対し僕は、返事代わりにニコリと微笑んでみせた。
そうしてお互いの意向が一致したタイミングで、細川様が苦笑を浮かべながらゆっくりとその口を開いた。
「さて、商人としての話は決まったようだし、私からは足利家としての話をさせてもらうとしようか。と言っても、君に餞別という名の宿題を与えるだけのことだがね」
細川様はそう告げられると、二冊の本を僕へと手渡される。
「これは?」
「一つはここ数年の連歌会で私が俊逸と感じたものをまとめたもの、そしてもう一つは宮中の規則をまとめたものだ。今後君が更に上を目指すためには、多少の教養は身につけておくべきなのでね」
その言葉を耳にした瞬間、僕は驚くとともに慌てて問い返した。
「細川様自らお書きになったこんな貴重なものを……本当によろしいのですか?」
「構わないさ。君は大樹のことばかり見ているかもしれんが、私も君の兄弟子に当たるのでね。剣で敵わなくとも、まだ君に伝えられることはある。だから、それを君に贈ろうと思っただけのことさ」
「剣で敵わなくともって……あの結果は大樹が介入したからであって――」
「いや、自分のことは自分が一番良くわかっているさ」
僕の言葉を遮る形で、細川様はそう口にされる。
そしていつものあの涼やかな笑みを浮かべると、更に僕に向かって言葉を続けられた。
「だから君にはこう言っておくよ。あの結果がただの偶然だったとならないよう、精進してきてくれ。僕にも、そして大樹にも届かぬところにまでね」
「それはまた、高い目標ですね」
「でも、君が目指している天の頂きに至るには、乗り越えなければならないさ」
その細川様の言葉。
それを耳にした瞬間、僕は戸惑いを覚える。
なぜならば僕が目指しているこの国の頂きにいるものこそ、あの人であるのだから。
「君の目指す天がどこであるのか、もちろんそれは私にもわからないし、知らないままのほうが良いかもしれない。お互いの関係にとってね。でも、君と剣を交わせた者なら気づいているはずさ。君が純粋にただ上だけを目指して走り続けていることをね」
「ある意味危険極まりない人物を抱え込んだように思いますが、足利としてはそれでいいんですかね?」
細川様の言葉を耳にした重秀は、やや意味ありげな口調でそう問いかける。
すると細川様は、右手を顎に添えられたあと、ゆっくりとその口を開かれた。
「どうだろう。でも、そんな者がいなければ、三好を打倒し我が家を再興するなんて不可能だよ。そして何より……そう、何より私たちは君を気にいったのさ。だから存分に成長してきたまえ。君の後押しなんてしなければよかったと、僕たちを後悔させるほどにね」
「細川様」
「大きくなって戻って来るのを楽しみにしているよ、秀一」
その言葉と同時に、僕の肩にポンと手が置かれる。
その手に込められた力が、何よりの信頼と期待の証だと僕は思った。
だからこそ、精一杯明るい声を彼に返す。
「はい。ご期待に添えるよう精進します」
「ふふ、頑張りたまえ。そうそう。あの人はああ見えて照れ屋だから今日は来ないはずでね、だから僕が代わりに紹介状を預かってきたのでこれも渡しておくよ」
「紹介状……ですか」
「ああ、紹介状さ。僕たちと同様に師匠に剣を授かった人物。伊勢の国司殿への紹介状をね」
そう口にされると、先ほどの細川様の自体とは明らかに異なった、やや荒っぽい文字によって構成された文を僕は受け取る。
「伊勢国史……つまり北畠具教様あてですか!」
「ああ。そして彼の下で腕を磨いた後に、あの男のところへ、尾張へ向かいたまえ。君への贈り物を、彼に渡しておいたとあの人が言っていたのでね」
「贈り物? それは一体?」
「それは彼の地に到着してからのお楽しみさ。と言っても、私にしてみれば実に頭の痛いものではあったけどね」
細川様は苦笑を浮かべながら、僕に向かってそう告げてきた。
一方、僕はその内容が思いつかず首を僅かに傾げる。しかし、結局は受け取るまではわからないと判断すると、素直に感謝を口にした。
「はぁ……よくはわかりませんが、ありがとうございます」
「ふふ、じゃあね秀一。次に会える日を楽しみにしているよ」
「頑張ってこいよな。そして伊勢と尾張にも販路を広げてこいよ」
細川様と重秀は口々に僕に向かってそう告げる。
「お世話になりました、細川様。そして重秀」
僕は深々と頭を下げると、ゆっくりと彼らに背を向け、そのままゆっくりと歩み始めた。
上京を出て、下京のはずれに存在する人気のない小さな橋。
そこにその人は佇んでいた。
「おや、貴方は来ないと聞いていましたが?」
「誰のことを言っているのかかわからんが、今の俺は京の見回り衆を務める足田菊堂なんでな。きっと別人の話じゃねえかな」
敢えて僕へ視線を向けることなく、橋の縁から川の流れを見つめたままのその人は、やや苦笑交じりにそう答える。
そんな青年に向かい、僕は深々と頭を下げた。
「いろいろと手配してくださったと伺いました。本当にありがとうございました」
「おう、それは気にすんな。自分のためだからよ」
もはや自らの事を隠す気が有るのか無いのかわからないその回答。
その事自体には苦笑を浮かべずにいられなかったが、僕がきになったのはまさにその言葉の意味するところであった。
「自分のためですか?」
「ああ。俺を超えるつもりで精一杯頑張ってきな。俺は一回り大きくなったお前と手合わせしたいからよ」
そう口にすると、眼前の青年は初めて僕へと視線を向け、ニヤリとした笑みを浮かべる。
「何というか、貴方らしいといえばそうなのでしょうが、細川様とは同じようでまったく異なることを言われますね。一つ断っておきますが、場合によっては後悔されることになるかもしれませんよ」
「はは、それはつまり俺を乗り越えるつもりってわけか。いいな、実にいいぜ。やれるものならそのまま剣でも、そしてそれ以外でもこの俺を超えてみせな。もちろん俺はそんなお前に負けぬよう、更なる高みに登って行くがな」
青年はそう口にすると、ゆっくりと僕の下へと歩み寄ってくる。
そして自らの腰に指していた打刀を手にすると、そのまま僕へと押し付けてきた。
「左文字は俺が折っちまったから、取り敢えずこいつを刺していけ。尾張に行くまでのあいだだけでもな」
「尾張に行くまで?」
「そうだ。尾張であいつと一振りの太刀がお前を待っている。だから、それまでに見合うだけの腕になっておけよ。じゃあな、秀一」
そう口にすると、足田菊堂と名乗る青年はそのまま僕とすれ違う形で京に向かって歩み去っていった。
そうしてその場に残された僕は思わず空を見上げる。
この早春にふさわしい何処までも続くかのような澄み切った青空。
それはきっと僕の目指す地まで続いているのだろう。
天の頂きを目指す。
幼いころに萬吉と交わした約束を果たすため、僕はこの空の下をまっすぐに歩き続ける。
二度目のこの人生において、もう決して後悔をしないために。
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