第十七話 満月の夜に

 月が綺麗だった。


 現代にいた頃に見上げた夜空よりも、遥かに美しい星々。

 そんな夜の闇の中で、はっきりと自らを主張する満月がそこにあった。


 もちろん美しい物は月だけではない。

 応仁以来の戦乱で荒れ果てたこの都でさえ、あのコンクリートジャングルに埋め尽くされた街々より遥かに風情を感じさせていた。


 そしてそれはこの本覚寺も同様だ。

 焼失と再建を経て、この寺院は僕がいたはずの時代にまで残される。

 だけど、この時代の中に溶け込んだ寺の佇まいは、現代では決して再現できないものであった。


 その事実を前にして、僕は思わず一つ溜め息を吐き出す。

 この景色を前にした贅沢と、そしてわずかばかりの寂寥が、胸の中で混ざりあったが故に。


 そんな僕の表情を目にした青年は、興味深そうに問いかけてきた。


「どうした、何か珍しいものでもあってのか?」

「いえ、そんなことは。ただこの月明かりに包まれると、何故か無性に懐かしくて」

「月明かり……か。播州から見える月と、この都から見える月は変わらぬからかもしれんな」

「そうですね。場所と時間、そのいずれが異なろうとも、この月は過去未来にわたって僕たちを見つめ続けているのだと思います。だからこそ、つい寂しくなるのでしょう」

 僕は僅かに苦笑を浮かべながら、大樹に向かいそう答えた。


 前世の僕。

 播州にいた頃の僕。

 堺にいた頃の僕。

 そして将軍の眼前で佇む僕。


 そのいずれもが、この月を見上げてきた。

 意識的に、無意識的に。


 その事実を前に、僕は思わず口元が緩むのを感じる。

 一方、そんな僕の表情の変化を余裕だと受け取ったのか、大樹は興味深そうに眺めてくると、ゆっくりとその口を開いた。


「思った以上に緊張はしていないようだな」

「いえ、そんなことはありません。でもそれ以上の覚悟を決めてきた。ただそれだけのことです」

「ほう、いい心がけだ。これは楽しめそうだな」

 僕の返答を受け、大樹は嬉しそうに笑みを浮かべる。


「ええ。出来る限りご期待に添えるよう、いやご期待を上回れるよう心がけてみます」

「期待を上回る……か。好ましい言葉だ」

「うちの流派に関わる人は、どの人もこの人も無茶を要求したがる。そのことを、ようやく頭ではなく体で理解できるようになりましたから」

 言葉の端々から、此度のお互いの立ち位置として、この関係性を求めていることはすぐに伺い知れた。

 だからこそ僕は、目の前のこの日ノ本の主に向かい、敢えて同じ新当流の弟弟子として振る舞ってみせる。

 すると、大樹は満足気に一つ頷き、そして思わぬ人物の名をその口にされた。


「無茶を要求したがる……か。そういえば、お前さんと仲の良い三好の四男も兄弟子に当たるのだったな」

「仲が良いのは事実ですよ。でも、無茶が好きなあの方は僕とそして貴方の弟弟子です。どうかお間違えなきように」

 譲れない小さなこだわりを主張するとともに、僕は目の前の青年に向かい小さな楔を打ち込む。


 ともに色々と困り者ではあるものの、僕が尊敬する二人の男。

 足利義輝と十河一存。


 本来ならば、決して相容れぬ関係に両者はある。

 建前上の日ノ本の棟梁たる足利の長と、実質的に日ノ本の棟梁たる三好の武を司る四男であるが故に。


 だがしかし、もし可能ならば彼ら二人にいがみ合って欲しくはなかった。

 もちろん戦国の世の習いであり、そして現実はそんなに甘いものではないと知っている。

 そう、前世において何度も辛酸を舐め続けてきたこの僕は。


 だけど、好きな人たちが争うことを好む理由にはならない。

 それ故に、不要な争いが減るという僅かな願いを込めて、僕は彼らが兄弟弟子であるという事実を大樹へと告げた。

 すると、大樹は軽く鼻で笑った後、彼自身の興味の対象へとその意識を向ける。


「なるほど、そんな見方もできるか。となれば、あの男にもいずれ手ほどきをせねばならん。だが今はまず秀一、お前だ」

「どうぞ……よろしくお願いします」

 大樹の真っ直ぐな視線を正面から受け止め、僕は一つ頷くとともにそう返す。

 その返事を耳にした大樹は、薄い笑みを浮かべながらゆっくりと腰の刀へと手を伸ばした。


「では、参る!」

 その言葉が発せられた瞬間、僕の眼前へと大樹はその身を移していた。


「早い……だけど!」

 瞬間的に振るわれた剣を、僕はどうにか受け止める。


 まさにギリギリのタイミング。

 少なくとも、先日までの僕ならこの一瞬で手合わせは終わっていたであろう。

 そう、今川の一件で大樹の剣をその目にしていなければ。


 つまりこれは予期していたからこそ成し得たギリギリの反応だった。

 そしてだからこそ、それを理解した大樹は、嬉しそうに右の口角を吊り上げる。


「よく受け止めた。だが!」

「くっ……流石ですね」

 大樹によって放たれた連撃。

 それを受け止めることは不可能と判断した僕は、恥も外聞もなく大きく後ろへ飛び退り、どうにか剣撃をやり過ごす。

 そして再び二人の間に僅かな間合いが生まれた。


「ほう、間合いが空いた瞬間から、必死で俺の隙を探している……か。お互いの実力差を理解した上で、勝機を求め続ける。はは、どうやら本当に得難き男を得たようだ」

「正攻法で勝てないならば、泥水をすすってでも勝てる手段を探す。それが僕のやり方ですから」

 大樹が息を吐き出し、全身の筋肉が弛緩した瞬間、その一瞬に賭ける日のように僕は彼の間合いへと飛び込む。

 そして袈裟斬りに刀を振るった。


「おそらくは見せるための剣……ほらな!」

 僕の剣撃に続く本命。

 それを予め予期していたかのように、大樹は軽く躱わす。そして嬉しそうに笑った。


「ふふ、人の技を見ていたのは、お前だけではなかったということだ!」

「みたい……ですね」

 もちろんそこまで上手くいくとは、僕自身思っていなかった。

 でも、これは僕があの人から、十河様から学んだ奥の手だ。

 それがこうもあっさり躱されたことに、正直悔しさ以外の何ものも感じられなかった。


 一方、大樹はそんな僕の内心に気づいたのか、先ほどまでの笑みを口元から消し、再び刀を構え直す。


「お前が今、俺相手にしているのと同じだ。常に俺も三好の隙を探し続けている。剣であろうと政であろうとな。だからこそ、必要とあればこんな余技も使う」

 そう口にした瞬間、今度は再び大樹が間合いを詰め光速の剣撃を放ってくる。

 その一撃をどうにか受け止めたと感じた瞬間、僕の足元に衝撃が走ると視界が一変した。


「ぐっ……」

 衝撃とともに走る背中の痛み。

 先ほどまで大樹を見据えていた僕の視線は、一瞬で空を見上げる形となっていた。


「ふふ、すまんな。足癖が悪いのはお前だけじゃないんだ」

 大樹は笑いながらそう口にすると、決して僕を追撃すること無く、軽く構えをとったまま口元をわずかに緩める。


 この瞬間、僕は理解した。

 眼前の人物と自らの間に存在する、まさに厳然たる実力差というものを。


「まあじっちゃんほど圧倒的になれば、こんな邪道扱う必要はない。もちろん今の俺が目指すはその領域であるが、お前には一度見せておいた方が良いと思ったのでな」

「これほど――」

「差がある。それをまず覚えておけ。そして次に会うときはこいつを埋めてこい。ただしぼやぼやしていると、俺は更に高みに登ってしまうがな」

 大樹はそう口にすると、僕に再び向かってくるよう促してくる。


 例え立ち上がっても、決して勝てないことはわかっていた。

 このまま横になったままの方が楽なことも。


 でも、ここでこの人の剣を味わわないときっと後悔する。

 その思考がほぼ無意識のまま体を突き動かすと、再び僕は大樹に向かい剣を構え直した。


 それを目にした大樹は、嬉しそうに心から笑う。


「その目だ。曇りなく先を、そして天を見据えるその目。再び足利の世を目指すこの俺と同じものをお前は持っている。だから邪道ではない正道をお前の体に刻んでおこう。あの時、俺がじっちゃんにされたようにな」

 そう口にした瞬間、大樹の気配が変わった。

 先ほどまでの陽気で好戦的な気配が消え去り、まるでそこに誰も存在しないかのように。


 あえて言うなれば、透明な気配。

 天と地と一体化し、眼前に居るのにまるで何も存在しないかのような透き通った人間がそこに存在した。


 僕は思わず身震いする。

 決して威圧してくるような何かが、そこに存在するわけでもないのに。


 しかし、それはやむを得ないことであった。

 なぜなら、僕にはわかったからだ。

 確実な、そう確実な僕の敗北が。


 だが同時に、沸き立つような感情が僕の心を包み込む。

 絶対に負けると分かっているのに、興奮が抑えられない。


 未知への興奮が、そして剣聖と呼ばれる人たちだけがたどり着く領域への憧れと興味が、敗北への恐れを遥かに凌駕してしまったが故に。


「行きます」

「ああ、いつでも来な」

 大樹の言葉と同時に、僕は動き出す。


 そして僕の全てを動員して、この一撃を放つ。

 師匠に教わり、十河さんと磨き上げてきたこの一振りを。


 僕の刀が高速で大樹へと迫る。

 その瞬間、大樹の口元にはほんのわずかな笑みが浮かび上がった。


「鹿島新当流秘剣……一の太刀!」

 その言葉が発せられたまさにその時、僕の剣は完全なる空を切った。

 そして同時に、まるでスローモーションのように大樹の刀が迫り、防ごうと受け止める形となった左文字は折れ、次の瞬間には僕の体にこれまで覚えたことのない衝撃が走る。


 僕の視界は一瞬にして黒く塗りつぶされ、この時この瞬間を持って、大樹との手合わせの記憶は途絶えた。


 全身の痛みと苦い敗北の感傷ともに目を覚ましたのは、その翌朝のことであった。


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