第十六話 別れと始まりと
早朝の本覚寺の正門前。
そこで僕は一人の老人と向き合っていた。
「師匠、本当に鹿島へと帰られるのですか?」
いつかこの日が来るとは理解していた。
元々堺で分かれるはずだったのだ。
そう、僕と師匠との道は。
それがこうして都に来てまで指導を仰ぐことが出来たのは、ひとえに師匠の好意によるものであった。
だからこそ、僕は深い感謝と寂しさを同時に覚えながら、師匠に向かってそう問いかける。
すると旅の格好をした老人は、僕の問いかけに対してあっさりと首を左右に振った。
「いや、まだじゃよ。まだまだ回っておきたい場所、それに剣を重ねておきたい者たちがおるのでな。だからわしは行かねばならぬ」
「そうですか。僕としてはまだ習いたいことが山のようにあったのですが……」
自らが興した鹿島新当流を、惜しげも無く僕に授けてくださったこと。
その事自体、言葉では言い表せぬほどの感謝を覚えている。
しかしながらまだ、僕の剣の腕はその奥義に到達するには程遠かった。
「かっかっか、そんな悲しそうな顔をするな、秀一。お前さんが剣を手にし続ける限り、また会えることもあるじゃろうて」
「それまでにじっちゃんが天に行かなければだがな」
突然横から挟まれたその言葉。
それは目の前の老人の弟子でもあり、そして同時にこの御所の主の言葉でもあった。
そんな彼の言葉を耳にして、師匠はニコリと微笑む。
「なあに、老体であるとはいえ、まだまだ剣の道半ばじゃ。この道を極めるその日までは、そう安々と死にはせんよ」
「師匠、本当にお体には気をつけてください」
「秀一、お前さんは心配症じゃのう。じゃが、まだまだお主らひよっこに負けぬこのわしに心配は不要じゃて」
僕の言葉を耳にした師匠は、意味ありげな視線を僕と大樹へと順に向ける。
それに対し大樹は、口元を僅かに歪めると同時に、高らかと一つの宣言を行った。
「はん、次にあった時はこんどこそじっちゃんを超えてみせるさ」
「その意気は良し。ならば、これからの楽しみの一つにしておくとしよう」
大樹の言葉を受け、師匠は心底嬉しそうな表情を浮かべる。
そうして二人が顔を見合わせ笑い声を上げたところで、寺の正門前にずらりと並んでいた男たちのうちの一人が、横合いから言葉を挟んできた。
「卜伝殿、おまたせして申し訳ありません。準備が整いました」
「そうか」
深々と頭を下げる前田利家殿に対し、師匠はニコリと笑って頭をあげるよう促す。
するとそのタイミングで、もう一人の男が前田殿の背中へと声を向けた。
「犬千代、準備ができたとは言うもののお前の甥がおらんぞ」
「またですか……まったく、すいませんお館様。少し探してきます」
深い溜め息を吐き出した利家は、途端に苦い表情を浮かべる。
そんな彼に向かい、信長殿は苦笑を浮かべながら一つの命令を告げた。
「おう。慶次の奴を捕まえたら、京の花街の話が聞きたいから俺のところに顔出すよう行っておいてくれ」
「それはさすがに……ともあれ、失礼致します」
そう口にするなり、利家殿はその場を駆け出していく。
その後姿を見送った信長殿は、僕たちの方へと視線を向け直すと、大樹に向かい深々と頭を下げた。
「大樹、この度はいろいろと本当にご迷惑をおかけいたしました」
「なに、気にするな。俺としても久々に剣を振るえて楽しませてもらったからな。まあその御礼ってわけじゃねえが、上総介。こいつを手土産としてお前に預けてやる」
「刀……ですか?」
一振りの太刀を手渡された信長殿は、首を傾げながらそう口にする。
するとそんな彼に向かい、大樹はニヤニヤした表情を浮かべてみせた。
「ああ。抜いてみな」
「こ、これは!?」
太刀のその刀身を目にした瞬間、信長殿はその場に固まる。
そして視線を大樹へと向けると、慌てて首を左右に振った。
「三日月の打ちのけを有する太刀……このようなものはとてもお受け取りすることができませぬ」
「勘違いするな。やろうっていうんじゃない預けるだけだ。だいたいお前は種子島のほうが好みだろ。そいつにに関しては、そのうちふさわしい使い手を送るから、その間預かっておけというだけの話さ」
「それはまさか!」
「ああ。てめえの願い、叶えてやるよ」
大樹はそう口にするとニコリと笑みを浮かべる。
そしてそのまま、再びその口を開いた。
「ただしだ、もちろん送りつける奴のことも貸してやるだけだ。何しろ俺は、貸しつけるのは嫌いじゃないが、やるのは嫌いなんだ。そう、例えばこの国の実権とかな」
「……それはつまり、再びこの国の手綱を握られるおつもりとそう解釈してよろしいのですな?」
真剣な眼差しのまま発せられた信長殿の問いかけ。
それに対し、大樹は返事代わりとばかりに意味ありげな笑みを浮かべてみせた。
「なるほど……ではその時が来ましたら、きちんと利子を付けてお返しすること、この上総介が約束いたします」
「おう、期待してるぜ。まあ隣に厄介な国があるみたいだから、せいぜい気合入れて頑張りな」
信長殿の感極まった声に、大樹はやや恥ずかしげな表情を浮かべながらそう告げる。
それを受けて信長殿は再び大樹に向かい頭を下げた。
「はい。それでは失礼致します。そして秀一、またな」
踵を返す直前に発せられた信長殿の言葉。
それに僕は僅かな違和感を覚えた。
なぜならば、それは本当にすぐ再会することを確信しているかのような口調で発せられたからだ。
だがそんな僕がその懸念へと思考を向ける前に、もう一人の人物が僕へと言葉を向けてくる。
「秀一、わしもそろそろ向かうとするよ。もう二年あればお主を免許皆伝の域にまで導けたが、それは自分で辿り着くことじゃな」
「師匠。安心してください。師匠がいなくとも、この秀一、寝る間も惜しんで剣の道を極めて見せます」
僕は拳を握りしめながら、師匠に向かって強い決意を告げる。
だがそんな僕に向かい、師匠は思いもかけぬことを口にした。
「ダメじゃな、そんな心づもりをしておるようなら、あと四年でも届かんじゃろうのう」
「で、では、死にものぐるいで必ずやその境地に――」
「それじゃあ一生かかっても無理だぜ、秀一」
僕の言葉を遮る形で、兄弟子に当たる男は苦笑交じりの言葉を発した。
「大樹……」
「お前って頭が切れる割に、そういうところが無駄に生真面目すぎるんだよ。なあじっちゃん」
「かっかっか、否定はできませんな。確かに大樹くらい、体の力が抜けて居れば良いのじゃが、まあそれも秀一の良きところではありますがな」
大樹の言葉を受け、師匠はそう口にしながら高らかと笑う。
一方僕の脳裏は、疑問符のみによって埋め尽くされようとしていた。
「どういうことですか」
「無理を重ねて努力しようとも、それが身にならねば何の意味もない。秀一、お前さんにも目指すところがあるのならば、剣に限らずこのことは覚えておくと良いかもしれんのう」
「ああ、その通りだ。もっと肩の力を抜きな。でなければ、上へは辿りつけないぜ」
師匠と大樹は、口々に僕に向かってそう告げてくる。
それに対し僕は戸惑うばかりであったが、師匠はニッコリと一度笑うと、ゆっくりとその足を一歩踏み出した。
「さて、それではの。そうそう、先方には道すがらに言っておくので安心しておけ。ではな」
そう口にすると、もはや後ろを振り返ることなく師匠は歩み出し、そして信長殿が率いる織田の者達とともにこの本覚寺の前から立ち去っていった。
そうしてこの場に残された僕は、誰もいなくなったとおりに向かい思わず呟く。
「行ってしまわれました」
「ああ。だが残されたものにはやることがある。特にお前さんにはな」
大樹はそう口にすると、僕に向かってニヤリと笑う。
その笑みの意味がわからなかった僕は、すぐさま問い返した。
「やること……ですか」
「ああ、そうだ。今回のお前の働きをもって、正式にお前を我が足利に迎え入れようと思っている。つまり今日までで、お試し期間は終了ってやつだ。但し、そのためにはもう少しお前さんのことを知っておきたいんだ。で、じっちゃんの弟子たる俺達が分かり合うにはどうしたらいいのかわかるな?」
いつの間にか大樹の目元が全く笑っていないことに気づいた。
これまであの今川の手の者と戦っていた時でさえ、見せることのなかったその表情。
それを目の当たりにして、僕は彼が何を求めているのかを理解する。
「本気なのですね?」
「もちろんだ」
そう口にした瞬間、大樹は懐の刀を一瞬で抜き放つと、僕の眼前でピタリと止める。
予備動作の全くない抜刀。
虚を突かれたとはいえ、正直僕は眉一つ動かすことさえ出来なかった。
「覚悟ができ次第会いに来な、待ってるぜ」
僕を射抜くような視線と口元に浮かんだ歪んだ笑み。
それは獲物を狩る獅子のそれと、全く相違はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます