第六話 手合わせ
細川様と約束したまさに当日。
僕は再び、あの場所に立っていた。
「細川のあんちゃん、あんな奴コテンパンにやっつけてくれよ」
今出川にある吉岡の道場において、一人の少年が拳を握り締めながら、涼やかな顔立ちの青年に向かいそう告げる。
途端、戦いの準備をなされていた細川様は苦笑を浮かべ、そして同時に少年の頭頂部にはげんこつが落とされた。
「これ、細川殿に失礼だろう」
いつの間にか少年の背後に忍び寄っていた壮年の男性は、振り下ろした拳を軽く撫でながら、細川様に向かって頭を下げる。
しかしそんな憲法殿の対応に対し、細川様は軽く笑いながら首を左右に振った。
「いえ、お気になさらないでください。しかし直賢くん、君のやったことは私としてもあまり褒められることではないと思うよ」
「え……まさかあんちゃん……」
細川様の言葉から何かを感じ取ったのか、直賢は頬を引きつらせる。
すると、その通りだとばかりに彼の眼前の美青年は首を縦に振った。
「ふふ、広いように見えて、この都は案外狭いものだからね。どこで誰が見ているかわからないものさ。ともかく、他にも余罪がありそうだからその辺りはこの手合わせが終わったら伺わせてもらおうかな」
都の治安管理の一端を担う細川様の言葉。
それを受けて直賢は慌てて父親の影へと隠れようとする。
その行為を目の当たりにして、憲法殿は深い溜め息を吐き出した。
「ご迷惑をお掛けし申し訳ありません」
「いえ、あくまで微罪ですので悪いようにはしません。もちろん反省はしてもらいますけどね」
苦笑を浮かべながら細川様は憲法殿に向かってそう告げる。
一方、軽く準備運動をしながら、そんな彼らの姿を眺めていた僕は、そのタイミングで突然肩に手を置かれた。
「よう、久しぶりだな。堺から来た兄さん」
その声を耳にした瞬間、僕は慌てて後ろを振り返る。
するとそこには、空いた手で干し柿を口もとに運ぶ一人の青年の姿があった。
「貴方は確か……足田様。どうしてここへ?」
こんな限定された空間でありながらさらりと背後を取られたこと。
そのことに驚きを覚えながらも、僕は予想していなかった人物を目にして、そう問いかける。
すると、目の前の掴み所のない青年は、嬉しそうにニコリと微笑んだ。
「はは、そりゃあ、俺もここの家主に剣を習ったことがあるからな」
「吉岡でお習いになられていたのですか……なるほど、それで納得しました」
僕の納得は二つの意味。
彼がこの場にいることと、そしてこんなに簡単に僕の背後を取ったこと。
そのいずれもに対し、彼が吉岡の高弟だとするならば納得のいくものであった。
「まあ、実際にこの道場に来るのは俺も初めてなんだが……って、あの童こっちを睨んでやがるな。まったくあれじゃあ、与一郎程度の折檻では反省が期待できなさそうだ」
その言葉を耳にして、僕も視線を前方へと移す。
すると、足田様の存在に気づいた直賢が、すごい目つきで彼を睨んでいた。
「まあ、あの童のことは後回しでいいか。それよりもだ、気合入れて頑張ってきな。与一郎は強いぞ」
「は、はい。ありがとうございます」
そう口にした僕の背中を、激励の意味も込めてか足田様はトンと押す。
突き出された先には、立会人を務める師匠の姿。
そして既に準備を整えられ、僕に向かって微笑みかけてくる細川様の姿がそこにあった。
「秀一、良いな」
「はい。細川様も構いませんか?」
僕はとっさに構えをとりながら、確認するように目の前の青年に問いかける。
すると彼は、ゆっくりと首を縦に振った。
「ふふ、もちろんさ。それと、今日は無理を言ってごめんね。でも私がやらなければ、自分がやるって無茶を言い出す人がいるものでね」
「無茶を言い出す人……ですか」
「ああ。ただ、こうして対峙してみるとわかるよ。短期間なんだろうけど、卜伝師が君を手塩にかけて育てたということをね。なるほど、これは役得だったと考えるべきかな」
細川殿はそう口にすると、なぜかちらりと僕の背後に視線を向けられる。
しかしそれはほんの一瞬のことであり、彼はそのまま僕に向かって正眼の構えを取った。
「お手柔らかにお願いします」
「お手柔らかに……か。ふふ、さてそう出来るかな。何しろ次代の憲法殿を倒した相手だからね。いずれにせよ、これ以上の会話は無粋。始めるとしようか」
その言葉が発せられると同時に、細川様は一方右足を前に踏み出された。
それを受けて僕も手にした木刀を握りしめ直す。
「よろしくお願いいたします」
「結構。それでは失礼」
その言葉と同時に、目の前にあった細川様の姿がブレた。
僕の目が一瞬だけ霞んだのではないという感覚を僕は抱く。
しかし次の瞬間、はっきりとした青年の実像がすぐ眼前にまで迫っていた。
「え……!」
何かの間違いではないかと思った。
なぜならば、一瞬で十分存在した間合いが消失し、僕の頭上に木刀が振り下ろされんとしていたからである。
「嘘でしょ!」
胸の鼓動が早くなるのを感じながら、僕はギリギリのところで手にした木刀を動かす。そして、振り下ろされる細川様の一撃を受け止めると同時に、大きく後退へ飛び退った。
「うん、良い反応だ。とっさの行動にしては悪く無い」
こうして手合わせの最中にもかかわらず、細川様の表情は極めて穏やかであった。
一瞬、それは実力差からの余裕や見下しによるものかと僕は感じる。
しかし、一切の油断なく、そして無駄なく構える彼の姿にそんな要素を感じ取ることは出来なかった。
「何をしたんですか、今?」
「ただ踏み込んで軽く木刀を振るっただけさ。さて、もう一度行くよ」
その言葉が発せられた瞬間、再び僕の視界の上では細川様の姿がおぼろげとなる。
いや、より正確に言えば、あまりになめらかに、そして一切の無駄なく僕へと迫りつつあった。
そして振るわれる横薙ぎの一撃。
「速い!」
再び皮一枚といったギリギリのところで、僕はその剣を受け止める。
正直、この二撃だけで僕は一ほど一つのことを思い知らされていた。
そう、僕と目の前の青年の間にある実力差というものを。
「静かで、そして綺麗な剣だ」
吉岡直賢は食い入るように手合わせを見つめる父親に向かいそう告げる。
すると、憲法は眼前の戦いから一切視線を動かすことなく、言葉を返した。
「細川様の剣はまさに水のごとし。しなやかでなめらかな動きと剣捌き故に、まるで水を掴もうとするかの如く、余人には捉えきれぬ動きを成される」
「つまり洗練された剣ってことだな」
直賢は納得したように一つ頷く。
それに対し、憲法は焦りながらも未だ諦めた様子を見せぬ少年へとその視線を向けた。
「ああ、その通りだ。さて、卜伝殿のお弟子さんはどう出られるかな」
「このままなら分が悪いってわかっているなら、逆に仕掛けるんじゃねえかな。受けに回ればジリ貧だってことくらい、今井の秘蔵っ子ならわかるだろ」
その言葉は彼らの背後から発せられた。
途端、直賢は後ろを振り向くと、場の空気も考えず怒声を放つ。
「て、てめえ。なんで勝手にこの道場に入ってきやがった」
「静かにしろ。俺も一応、憲法の教え子の一人に当たる。だから、前だけ見てろや」
苦笑を浮かべた足田は、今にも飛びかからんとする直賢に向かいそう告げる。
すると、憲法の口から確認するような言葉が発せられた。
「……お気にかけておられるのですね」
「まあな。卜伝のじっちゃんがわざわざ都にもう一度立ち寄ってくれて推挙してきた兄さんだ。今の段階で、何処まで与一郎に迫れるのか、そして戦場でモノになるのか見ておきたいんでな」
足田はそう口にすると、ニヤリと笑う。
そんな彼の表情を目にして、直賢が噛み付いた。
「戦場でものになるかだと?」
「そうだ、童。俺があいつに求めるものは、与一郎のようなお綺麗な道場剣術ではないのでな」
目の前で圧倒的な技量を見せている細川藤孝に対し、あまりに傲岸不遜なその言葉。
それが男の口から発せられると、直賢はすぐに反論を口にしようとする。
しかしそんな彼の言葉をさえ切ったのは、憲法の軽い笑い声であった。
「はは、あの域に達していながら、細川殿にご不満とは。些か贅沢なことで」
「一対一の立ち会いなら一流だと考えているさ。もっとも、あなたやあそこの老人のような超一流ではないがな」
足田は意味ありげな笑みを浮かべながら、憲法にそう返す。
すると、憲法は右の口角を僅かに吊り上げた。
「はっはっは、卜伝殿と同じに扱われると些か照れますな」
「どちらにも師事した俺が言うんだ、まちがいないさ。さて、それよりも目の前の戦いに集中しようか。もう少しだけ、まっとうな一対一の力も確認しておきたいのでな」
軽く肩をすくめながら、足田はそんな事を口にする。
途端、直賢は不敵な笑みを浮かべる青年に向かい、苛立ち混じりの疑問をぶつけた。
「もう少しだと?」
「ああ、もう少しだけさ」
そう口にすると、足田は懐から二つの干し柿を取り出してくる。そしてそれを両の手に握ると、まるでお手玉をするかのように干し柿を軽く空中に漂わせた。
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