Noaria 4


 オフィスに立ち入ると、アイは悠然と振り返った。その表情は、いつもエルを苦々しく睨む表情とは違う。嫌な予感がした。

「遅かったわね」

 すでに柊は帰還しているらしかった。今は記憶の操作を受けている最中かもしれない。

「手に入れたの?」

 エルは問いかけた。正さなければならない。ルリの研究成果は派閥を超えた影響力を持つ技術だ。それを独占して入手することは、エルが所属する白派との対立も意味する。

 権力と技術を収集しようとしているのは明らかだ。しかし、それが何のためかはわからない。もし復讐ならば、エルは甘んじて受ける気持ちがある。しかし、それ以上のことはしてほしくない。彼女には研究所を含め、この世界を憎む理由があるのは知っている。

 回収された戦闘ポッドを詳細に調べていると、財団経由でノア社に発注されたものだとわかった。この一件に柊とエルを送り込んだのはアイに間違いなかった。

 アイは問いには何も答えない。かわりに、エルに語りかける。

「今なら引き抜いてあげるけど?」

 深淵のような笑みを向けてくるアイ。彼女は、全ての派閥を敵に回す事を覚悟している。

 アイを救おうとする者はいない。エルを除いては。

「いやだ」

 だから、エルはアイの道具になることだけはできない。今の地位に甘んじてきたのは、ただそれだけの理由だ。ここから先は後戻りの出来ない権力闘争になっていくだろう。今止めなくてはいけない。

 たとえ力尽くでも、ルリの研究と柊だけはアイから奪わなくてはいけない。

 ほとんど目視不能の弾丸がアイの背後からエルに迫った。第六感にも近いほど熟練された視界解析によって弾丸の接近を感知したエルは、腰の小剣を抜き、弾丸を逸らす。

 現れたのは柊だ。アイを庇うように立ちはだかる。

 記憶の調整をされている。立ち向かった瞬間に、柊の目が自分を忘れていることをエルは察した。

 感傷はあるが、戦士であるエルは動作には一瞬の綻びも生じさせず、いかなる言葉もかけない。そんな悠長な方法が通じる相手ではない。戦友であるエルには痛いほどわかっている。話をするにも打ち倒してからだ。

 オフィスに入る前に部屋の外に置いた槍を回収し、柊に立ち向かおうとする。QロットとSロットの差があるとはいえ、柊をよく知る上に、極限までチューニングされた戦闘スキルを持つエルならば十分に対抗が可能だ。

 しかし、それは今までの柊であればの話であった。

 柊はその場からは動かなかった。それに、エルは違和感を感じる。彼女の戦闘スタイルは力押しではない。身体強化がエルや他の強化兵士ほどではない彼女は、豊富な実戦経験と優れた解析技術、計算された能力行使を強みとしている。

 悠然と佇む柊は、エルの位置から十メートル程度。そこからどんな攻撃をされても、防御か回避は容易だ。逆に、エルの瞬発力で肉薄して組み伏せれば、ほとんど抵抗できない距離だ。

 だからこそ、エルは警戒心を抱いた。いつもと違う。

 逡巡しているうち、柊に動きがあった。彼女の背後にいくつもの黒い影が生まれていた。

 空中に浮遊するそれは、金属製の箱のようだった。数十センチメートルほどの大きさの立方体で、音も立てずにその場に浮遊している。柊を取り囲むように、十数個が対空していた。

 おそらく、複数の現実干渉性によるものだろう。そういえば彼女のNデバイスはアップデートし、複数の現実干渉性を扱えるようになったと言っていた。何もない空間から出現したのは生成能力、浮遊しているのは重力操作だろう。

 しかし、いくら多重干渉者になったとしても、Qロット一人が扱える現実干渉性はそれほど強力ではないはずだ。エルは槍を構え、果敢にも柊に突撃する。

 立方体のビットの二つがエルの進路にふさがった。内部がどんな構造になっているかはわからないが、電子機器の類ならばエルの能力で破壊が可能だ。

「!」

 振り払おうとしたが、できなかった。ビットはエルの槍を受け止め、しかも、電流を発生させることもできない。同じ現実干渉性を使って打ち消しているように感じられた。二種類どころではなく、柊は三種類以上の能力を使っている。

 もう一つのビットが迫るのを柔軟に避け、エルは距離をとった。

 Qロットが持てるレベルを超えた強力な重力操作を感じる。Sロットのものと何の遜色もない。いくら新型のNデバイスでも考えられない。自分のものではない現実干渉性を扱うには膨大な計算要領がいるのだ。

 柊は持ち帰った楓と融合していた。楓のサポートによって幽子領域に計算を回せるようになっている。柊自信が複数の祈機と同等の計算能力を持つ怪物になっているのだ。

 それでも、エルは立ち向かう。ここで折れたら、アイを救う人はいない。両脚の電気式の杭打機に電流を流し、その反動で強力な加速を得る。同時に、突進の力を槍の一点に集中させる。

 ビットの一つは、エルの突進によって砕けた。生成の速度を上回れるかだ。エルは、第二のビットを破壊しようとした。

 しかし、彼女の体は第二のビットに届くことはなかった。そのビットは、重力フィールドによってエルをはじいた。砕いたビットは瞬時に複製されている。エルの能力では、柊の再生能力に追いつくことはできない。

 ならば、全力を込めた一撃を放つ。最強の攻撃力を持つといわれるエルの全能力開放攻撃。槍の先端に全ての処理を集中し、空中放電を起こさせるほどの力だ。

 本体を狙う。もうそれ以外に方法は考え付かない。

 エルは遠い場所に能力を及ぼせない。しかし、能力によって発生される放電現象を遠くに届かせることは可能だ。Nデバイスへの負担が大きく滅多に使うことのない最後の切り札だが、迷っている余裕はない。

 雷光が槍から迸る。しかし、柊のいる地点に届くことはない。重力操作によって空間が捻じ曲げられ、全てが逸らされている。

 能力の行使で動きが緩んだエルにビットが殺到する。防ぎきれず、硬質のビットに両手を打たれる。槍を落としたエルは即座に短剣を抜こうとするが、その前に続けて打ち込まれた矢がエルの胸に命中した。Nデバイスを停止する猛毒のような制御素子を打ち込まれ、エルの全身は弛緩する。反応速度を向上させるために全身にNデバイスの神経ネットワークが伸びたエルは、Nデバイスの停止するだけで手足すら動かせない。

「やめろ、柊」

 言葉に訴えた時には、もう遅かった。特殊拳銃を取り出した柊は、知らない人間を始末する時の顔をしながら、エルの左胸に照準する。



■灰・四



 レイ・イスラフェルは柊の自宅にいた。月面都市の一角にある、変わった所のないスロット型の住宅だ。

 柊の部屋には驚くほど何もなかった。投影を目的としたファウンデーショングレーで塗装された壁面には、いかなる拡張現実による装飾も無い。

 いれものに個性はいらない。彼女の生き方を象徴している。

 この部屋は柊の職務上、Sロットを監禁できるようになっている。Nデバイスを停止されたレイは、ここから自力で出ることはできない。

「黒幕はあんたなのか」

 しばらく一人にされていたレイだが、部屋に来客があった。

 名前だけは誰かから聞いたことがある。アイ・イスラフェルと名乗ったこの人物は、柊の保護者で上司だ。つい数時間前、研究所の白派を裏切ってレイと楓を奪い去った。どちらの勢力でもないという。

 この人物こそが柊や楓を苦しめている。そう思うとレイの胸は熱くなるが、それを凍りつかせるほど冷ややかな目で、アイはレイを見ている。

「少しくらいは、教えてあげましょうか」

 言いながら、アイはレイが知らなかったことを話し始めた。

 サクラメントは、もともとレイの親とAIが混ざって生まれたものらしい。レイの親はもうとっくにこの世に存在しない。その妄執だけが、巨大な組織となって呪いのように機能し続けている。残されたシステムは今も働き続け、最善の解を求め続ける。

 全てがレイのために動いていた。ノアリアで起こった虐殺も楓の暴走も、全てサクラメントが望んだことだ。あの殺戮の中でも、レイは生存した。それはサクラメントに守られているからだ。

 意味を与えられて生み出されたと思っていた。役割があると。しかしそれは違っていた。ただ生きるためだけに作られたのが自分だ。何の意味もなく、何の目的も与えてもらえない。そんな自分のために、どれほどの人が死んでいったのか。それを願った者は、もうこの世に存在すらしていないのに。

 こんなことはバカげている。

「それが気に入らないのか、お前は」

 ずっと睨み続けるアイにレイは問いかける。ノアリアの続行を止め、ルリの研究成果をかすめとったのは目の前の人物だ。しかし、何も答えてはくれない。

 柊や楓をあそこまで酷使してまで何かをしようとするアイもまた、レイにはわからない。世界は壊れかけているのだ。そこに全力をそそぐために、何人ものSロットを生み出し犠牲にしてきたのではなかったのか。その一点のみにおいて、Sロットは自己の存在意義を解決してきた。

 力を込めた目線を送ると、アイは怯んだ。憎しみが薄れ、かすかに別の感情が見え隠れする。

「そんな目で見ないで」

 小さくアイはつぶやいた。レイの顔を直視できないらしい。睨んできたかと思えば、怯えたりもする。アイと自分の間には何かあるらしいことはわかる。

「二人はどうした?」

 今はそれよりも気になることがある。ここには柊も楓もいない。彼女たちはどうしたのか?

 アイはそれ以上何も語らず、レイを一瞥しただけで去っていった。また、レイは一人になる。

 なんとか脱出して柊に会いたかった。しかし、実行手段はない。扉をこじ開けようとしてみたものの、能力を封じられたレイにはどうすることもできない。

 仕方がないので、柊の寝台に寝転がる。オウミで感じた彼女の甘い匂いがする。柊はここで何年も過ごしてきたのだろうか。

 こんな何も無い部屋で。今も柊は道具として扱われている。そのことが気にかかるものの、体の疲労が眠気となって襲ってきた。


 

 爆音で目を覚ましたのは、眠り始めて一時間も経たないうちの事だ。扉が破壊される音でレイは目覚めた。黒いアーマースーツを着込んだ数人が入ってくる。

「お早く」

 困惑するレイだったが、かけられた声に聞き覚えがあったのでつい気をとられる。手を引き、その一段はレイを部屋から連れ出した。

 柊の香りが遠ざかる。

「何なんだ、あんたら!」

 政府軍ではない。白派にもこんな部隊はない。

「黒派か」

 ノア社の親元となった白派でもなく、アイでもない。となれば、残るのは一つだ。一般企業の多くを裏でつなぎ、黒耀星への移民を第一に考えるもう一つの一大勢力。その黒派が持つ戦闘部隊。クローン兵のようだ。それがわかるのは、この兵士たちがレイがよく知る顔をしているからである。

 金色の髪を揺らし、黄水晶の瞳でレイを見る彼女たち。だから声に聞き覚えがあったのだ。あの姉妹たちと違い、髪は短めで体格も引き締まっているが間違いない。ヘンシェル系の特長がある。この系列は黒派がよく使っているという話だった。

 考える間もなく、追っ手が襲いかかる。人気のない階層を逃げる彼女たちに、戦闘ポッドが追撃してくる。白派が使う多脚型ポッドだ。機銃掃射を受け、一人に被弾。弾かれるように飛ばされ、地面に倒れた。

「おい!」

 被弾した兵士の腹部から、真っ赤な血がにじみ出ている。

 あの光景が蘇る。どうすればいいのかわからない。誰かを治療したことなどレイにはないのだ。声に呼応し、その兵士はレイに視線を向ける。何か言おうとしているが、声になっていない。

 倒れる兵士にすがりつくレイを引き剥がし、リーダーらしい兵士がレイを通路の奥へと引っ張り込む。

「一人で逃げられますか」

 数人は手にした小銃で応戦している。しかし、相手は対人戦闘ポッドだ。長くは持たないだろう。

「いいですね。デバイスを復活させます。あとはお一人で」

「何言ってんだ、お前……!」

 誰も救えないどころか、誰もが自分のためにと死んでいく。状況もわからないままで中心に据えられ、何もさせてもらえない。そんなのは嫌だ。

 その兵士はレイのNデバイスを復活させた。他のクローン兵を制御するリーダーなので、その兵士だけはQロットとして開発されているのだろう。ヘンシェル系には、Qロットに転用する適正もあるらしい。

 柊によって停止されたレイのNデバイスは、別のQロットである彼女の指示によって息を吹き返した。

 レイは言う事を聞かず、機銃掃射が続く通路へと飛び出る。静止を振り切り、銃弾の雨の中に身を晒す。レイに殺到する弾丸は、彼女に触れると同時に消滅する。肌には、傷一つ与えることができない。

 Nデバイスの隅々まで火をいれ、持ちうる全てのリソースを引き出す。視認した弾頭が瞬時に蒸発するように力を制御する。度重なる処理で、増強された神経が加熱していくのを感じる。

 注意がレイに向いたことで、他の兵士は一斉にポッドに火力をぶつける。彼女たちは対ポッド戦訓練をしている。対応には無駄がない。小銃に取り付けられた小型レーザーによってセンサーを正確に狙い、無力化していく。最後は手榴弾を放り、行動能力を奪う。

 安全になった通路。倒れた兵士に駆け寄ると、まだ息があった。

「すぐ治療すれば間に合うかも。行け」

「ですが」

「いいから行け!」

 強い調子でレイが言うと、兵士たちは困惑した表情を浮かべた。予想外の状況に戸惑っているようだ。体は大人に見えても、Sロット幼いことがある。それをレイはよく知っている。

「お前らもバラバラにしてやろうか?」

 そんなつもりはないが、今のレイは力を使える。再びNデバイスを停止させるために接触すれば、その手を消滅させることもできるのだ。

 戸惑っていた兵士たちも、傷ついた仲間を見て考えを決めたようだ。レイに視線を送った後、通路の向こうへと消えていった。

 レイは初めて自分で決断し、行動した。胸がまだ熱い。少しNデバイスを整理しないと能力を連続行使できそうにない。戦闘経験はそれなりにあるが、急に無茶な能力行使をすれば神経にダメージを残しかねない。

 だというのに、何かの気配がする。

 通路に青白い光が輝く。飛行型の戦闘ポッドが接近してきた。四メートルほどで大きくはないが、歩行型よりも明らかに強力な火器で武装している。

 あれに対抗するのは難しい。いくら現実干渉性による防御力があっても、間髪おかずに攻撃を受け続ければ処理能力の限界がくる。

 最後に誰かを救うことはできた。今まで死んできた仲間の数に比べればほんのわずかかもしれないが、何かを救おうと決め、実行することができた。生きてきたのは無意味ではなかった。そう思えば、諦めはつく気がした。

『お迎えに来ました』

 覚悟を決めたレイに対し、そんな声が響く。

 白百合のような美しい機体はレイの前に浮遊し、呼びかけてくるだけだ。攻撃をしてくる様子はない。

『サクラといいます。あなたを守るために作られたAIです。乗ってください、レイ』



■白・五



 月面都市の最下層、秘密の通路の奥にそれは隠されていた。

 もう一つの大空洞だ。大空洞は、レイ・レシャルにとっては見慣れた場所だ。しかし、この大空洞には初めて入る。自分が知る大空洞とは似ているようで違う。

 まず、大気がある。密閉状態だったことを利用している。地球上の高山のように大気が薄いが、一応は呼吸も可能だ。新しい愛機から、空気抵抗と風鳴りを感じる。真空のため遠方までくっきりと見えていたあの大空洞と違い、遠くが霞んで距離感を生み出している。

 人の気配がある。死の世界だったあそこと違い、目を凝らすと様々なものがある。転々とある照明や、置き去りの機材、誰かの足跡が発見できる。

 母が資料の中で伝えたかったのは、この大空洞だったのかもしれない。ここなら、研究所の秘密が残っていそうだ。ただし敵も大勢いるだろう。もう気付かれているかもしれない。

 同じトンネルを通って急接近してくる機影がある。自分と同じ、白百合のような優美な機体だ。

 自分が丁寧に覚えこませてきた戦術データ、高度な戦闘プログラムを持った元相棒だ。レーダー上のそれは、こちらとは明らかに速度が違っている。大気圏モジュールを装備したままのようだ。機動性でもあちらが有利である。

(―――)

 この大空洞に入ってからというもの、あの「歌声」が聞こえている。

 多分、この中に楓がいるのだ。何かを伝えたくて、レイの胸にその声を届かせているのだろうか。いつからかそばにあった、あの歌声と似ている。

 自分が世界と、誰かと繋がっているという実感をあの声に求めていた気がする。大事なものだ。

 歌声に身を任せる。何かを強く願う気持ち。それに答えなくてはならない。レイは頚椎のNデバイスをピストレーゼに直結し、機体を手足とする。同時に体の感覚は希薄になり、装備された全てのセンサーを直接知覚する。

 新しい相棒はようやく手に馴染んできたばかりだ。思考を押しやってでも、一体感を増さなければならない。そうしなければ、自分の分身とも呼べるプログラムに打ち勝つことはできないのだから。

 この瞬間、レイはただ敵を倒すためだけの装置となる。



 この機体はあの白竜に似ているともう一人のレイ、レイ・イスラフェルは思った。大きさや形、色に共通点を見出した。戦闘能力も似ているかもしれない。自分のために作られた機体だと感じられた。

 サクラが寄こしたピストレーゼに逃げ込んだ彼女がまず望んだのは、柊を救うことだった。

『あなたの言うQロットの居場所は、おそらく大空洞の研究施設でしょう。アイの拠点はそこしかありません』

「サクラとか言ったか。そこに行けるか?」

『はい。そこにはあなたへの潜在的な危険も存在します。可能ならそれを排除してください』

 自分の分身に立ち向かうことになるのをレイ・イスラフェルは知らない。

 サクラメントは研究所の多岐にわたる情報を管理する立場にあり、長い時間をかけて「レイを守る」ために白派を背後から操り、支配してきた。白派は世界の修復を望んでいる。しかし、それがレイの生存にとって価値がある、実現可能で確率の高い方法でなくては意味が無い。そのために、ノア社を使って別の計画、「箱舟」の建造も進めさせ、レイにかかるリスクを軽減するよう対策をめぐらせてきた。

 しかし、機能を制限されたコンピュータプログラムであるために、基本的には人間には逆らえず、そうと気付かないようなごく些細な情報操作をいくつも積み上げることで目的に近づくしかなかった。白派には戦闘部隊はいるが、自由に使えるというわけではない。直接手駒となるものは少なく、実力行使が必要な場面では苦労してきた。もう一つの隠れ蓑であるR社もサクラメントの管理に頼っているが、そこでも自在に使えるのはダミー会社で作らせた戦闘ポッドくらいだ。

 特にQロットは、サクラメントを管理するという天敵じみた役目を持っているために手に入らず、ノア社での計画に使うための者ですら用意できず、利害関係にあるアイに頼って提供してもらうことになった。

 そのため、本来は守るべき存在のレイにも頼らなければならないという矛盾が生じる。レイ・イスラフェルは、本来なら安全な所に避難させるべきだ。しかし二号機を奪ったレイを確実に倒すには、最も大胆だが最も確実な方法だと結論付けた。失敗してもどちらか残るので、ある意味最も安全に危険を減らす方法だ。

 本人はそれを知らずにいる。彼女は、ぼろぼろになっていた検査着を備え付けのアーマースーツに着替えた。レイ・レシャルが身につけていたものだ。これで服装を含めた姿も完全に同一となる。

 性能面ではこちらが上なので、サクラにとっての本命は未だレイ・イスラフェルだ。

(―――)

 レイにはずっと歌が聞こえていた。柊か、もしくは楓かもしれない。ここで何をされているのかは知らないが、レイの胸のNデバイスに何かを届かせている。

 強い願いの気持ちだ。歌声は言葉ではなく意思として感じる。曖昧だが、その願いはレイに届いている。助けを求めてくれさえすれば、そのために全力を尽くしたい。

 ピストレーゼの加速による負担は、慣れていないレイには堪えるものだ。しかし、飛行プログラムは高度に自動化されている。レイが曖昧に「こうしたい」と思うことをピストレーゼは解釈し、それに適合する起動を実現するために自分で判断してくれる。

 どこに行きたい、どう動きたいかを考えるだけでいい。ただし火気管制、トリガーだけは自分の指で握った。消滅の能力を伝達するためだ。

 胸のNデバイスがどこまで持つかわからない。過度に使用すれば後遺症が残るかもしれない。レイをメンテナンスするQロットは、今はいない。

 長いトンネルを抜けて大空洞に入った。重力区を抜けたことで、足下が浮かぶような感触が襲う。それも、地球育ちのレイには慣れない感触だ。

 広大な大空洞。説明は受けたが、初めて見るそれは圧巻だった。ノア社の地下空間もはじめ閑散としていたが、ここはもっと生命を寄せ付けない無機質さがある。そして、その規模の違いに圧倒される。

「あれは……?」

 その空間の中を、白百合のような優美な機体が飛行している。

 見覚えがある。そう、今自分が乗っている機体と同じもののように見えた。

 味方か? そう考えた瞬間、サクラメントは対象に「敵」の識別表示を割り振った。同時に、敵機が「無人」であることも情報として付け加える。これで、レイの迷いは薄れるはずだ。

『敵です』

 そして、サクラは念を押した。

 


 レイ・レシャルの思考は効率化され、今は目の前の敵を倒して前に進むことしかない。かつての愛機を葬ることに憐憫の気持ちはあったが、レイは楓を救いたい。

 地下空間とはいえ、その規模は広大だ。空中戦が成立する。レイは上昇をかける。敵も、それに呼応するかのように猛烈な上昇を開始。推力で勝る敵は、レイの高度まですぐに追いついてくる。

 しかし、思っていたよりは加速が鈍い。無人ならもっと加速できそうに思えた。二号機にはソフトウェアが不足していて厳密な計算がまだ出来ず正確に加速度を計測できないが、思っていたほどではないと感じる。

 不調かもしれない。しかし、考えるよりも倒す事が先決だ。

(―――!)

 歌声はまだ聞こえている。眩暈がするほどの激しい意思に変わっている。今までになく強い。どこからかはわからないが、この大空洞の中に、確かに歌声の主がいる。神経を操縦に費やしているレイには正確な内容を感じ取る余裕はない。

 向かい合うヘッドオンの位置関係。腕に自信のあるレイはこの場合、敵の武装の回避限界までそのまま接近して攻撃を加える。

 敵の動きも同一だった。過去のレイの機動を参考に思考しているため、行動は熟知している。推力は敵が勝るが、軽量な分だけ機動性はこちらが上だ。機銃の一連射の後、お互いに急旋回で回避。命中弾は、双方に無い。

 別の方向にロールしたため、旋回してもう一度ヘッドオン。今度は被弾を覚悟でもっと接近を試みる。



 猛烈にかかる加速度に呼吸を荒くしながら、レイ・イスラフェルはトリガーを引いた。

 センサーの一部と神経を繋いでいるため、敵の存在は辛うじて知覚できている。しかし、高い負荷に慣れていない体は悲鳴を上げている。能力を行使するのが精一杯だ。幸い、戦闘はプログラムが代わりに行なっている。

 機体のプログラムが優れているのか、それとも敵が大したことがないのかわからないが、戦闘は互角だった。正面から撃ち合うのは本来は危険だが、ぴったりと呼吸が合った二機はいつまでも命中弾が出ない。

 そのままでは、機体はよくてもレイの体が持たない。しかも、度重なる能力行使で胸のNデバイスは悲鳴をあげている。痛みに苦しみ体をのたうつが、そんなことはお構いなしに、機体はレイを振り回し続ける。

 いっそ感覚をシャットアウトできればよかったが、レイの胸のNデバイスは汎用型ではなくSロット用のものだ。知覚をコントロールする類の機能はあまり充実していないし、出来たとしてもQロット以外からの編集はできない。

 発射した弾丸は目標を外した後、大空洞の内部を削ぎ落としている。命中弾さえ出れば、敵は跡形もなく消滅するだろう。この能力が健在のうちに勝負を決めなくてはならない。

 サクラメントはピストレーゼのシステムに介入し、戦闘方針を変えさせる。大推力を使って敵の頭を抑え、高度を落とさせて背後を狙うことにする。



 敵が戦闘の方針を変え、推力を生かし始めた。上下の動きでは敵が勝っている。

 手ごわい相手だ。思っていたほど機動は機敏ではないが、動きに戦略性がある。位置の優位を奪われ回避に徹する事が多くなった。敵の機銃弾が一発、機体を掠めた。たったそれだけなのに、被弾した左側がごっそりと破壊されて消失した。

 何か強力な榴弾か特殊散弾を使っているらしい。レイも見たことの無い破壊性能だ。もう一発命中すれば一貫の終りだ。それが何かに似ていることには気付かない。

 しかし、レイには運もあった。被弾しバランスが崩れ、駒のように旋回すると同時に苦し紛れに引いたトリガー。機首が敵の方を向き、機銃弾が敵のエンジンと大気圏用モジュールに吸い込まれた。

 破損した大気圏モジュールは動作を停止、敵はすぐさまモジュールをパージする。お互いにエンジンの片方を失い、片肺で飛行。バランスは辛うじて保っている。

 二号機の残弾はほとんどなかった。敵機も残り少ないはずだ。

(――けなきゃ)

 ここに来て、歌声はさらに強さを増している。すぐ近くにいるようだ。

 あの敵と交錯するたびに、それは強さを増しているようだ。誰かの思い。自分に近い思い。何かが気になったが、思考をカットしているレイは違和感を無視する。



 命中弾を出すことができたのに、レイの力の方が限界を迎えていた。

 敵機に十分な破壊を与える事はできなかった。しかも、苦し紛れの反撃を受け、機体が損傷している。

 残弾も残りわずか。胸のNデバイスはもう激痛に近く、意識は朦朧としている。あと一発、確実に当てられる場面でなくてはいけない。

(……を、助けなきゃ)

 胸が苦しい。そこに、誰かの想いが流れ込んでくる。自分の激情なのか、それとも他人のものなのか、境界が曖昧になる。今の自分の気持ちと、この歌声はシンクロする。

 弾さえ当てればいいのだ。もし生身でも勝算はある。レイは武器を探り、コクピットに拳銃があるのを見つける。

 弾薬がない。いや、ある。脱ぎ捨てた服に、ルリが渡した弾がある。

 幽子デバイスをつなぐための道具、そう話していた気もする。なんでもいい。敵を倒せさえすれば。相手は無人なのだ。弾丸を一発装填し、機体のトリガーを握る方とは別の手に拳銃を握りしめる。



 レイは、最悪の場合は機体を降りて戦う準備もする。

 武器はいくつか持っている。得意なのは拳銃の早撃ちだ。操縦席で格闘している状態から武器を構えるのに瞬時に移行できるのは、使い慣れた拳銃以外はありえない。

 ピストレーゼの学習装置はコクピットの背もたれの部分にある。残された機銃弾と手持ちの武器だけで撃墜するには、そこを狙うのが最も確実だ。

 向かい合い、ギリギリまで接近する。敵も、ギリギリまで接近してくる。機銃を掃射。敵の中央に被弾し、外装を剥ぎ取る。コクピットが露出されるのを最後まで見もせずに、レイは緊急脱出プログラムにあるハッチ開放を手動実行する。



 敵はまっすぐ突っ込んでくる。弾丸が迫り、被弾の振動が襲う。コクピットハッチが剥ぎ取られ、外気がレイを襲った。

 夢中で拳銃を構える。今、敵はすぐ近くだ。自分はまだ生きている。引き金を引き、弾丸が当たれば倒せるのだ。激痛の走る胸の神経に鞭を打って、最後の一発を発砲するために、敵を見据える。



 レイが見たのは、突如出現した鏡だった。



 指が動き、お互いの銃から弾丸が発射される。その刹那、二人は気付く。

 歌声は言葉となり、お互いの胸へと突き刺さった。

 そうして、二人は再会する。幽子デバイスは磁石のように引かれて結合し、一体化し、全ての記憶や感情が共有される。

 そこにいるのはレイだ。レイ・イスラフェルでも、レイ・レシャルでもない。二機の白百合はその花弁を散らしながら、大空洞へと落ちていく。

 レイはもともと一人しかいない。それがようやくわかった。意識は分割できる。意識とは物理的なものだった。そう、レイの友人であり、レイが見知らぬ相手であるルリが、そう言っていた。

 亡骸となった方がどちらだったのか。それは関係ないことだった。

 それでも、その体には哀れみを感じる。青白い炎とともに燃え上がり、役目を終える体を見る。カタチを無くして胸に流れ込んでくる意識を受け止める。体は入れ物に過ぎないとしても、今までの自分を弔いたかった。

 短い祈りを捧げ、立ち上がる。

 ずっとそばにいてくれたあの歌声。それはあなたであり、私だったということを知った。

 意識は孤独だ。意識とは自分にしかわからない。自覚できない。自分は、この世界にたった一人しかいない。少なくともレイにとって、感じ取れる自己は自分だけだ。

 生きているというのは、こんなにも孤独なことなのか。そう思いかけるが、そうではないと言った人が確かにいたのだ。

 彼女の温もりを思い出す。確かに言った。レイにいてほしいと。存在していてほしいと願ってくれた人が。

「行こう」

 誰に語るでもなく、レイは言う。残骸から必要なものだけを拾い、レイは旅立つ。子守唄を歌う存在はもういない。レイは暗く静かな大空洞の中で、炎を背にして歩き始める。



 幽かだが、歌声がまだ聞こえた。

 今度こそ自分たちのものではなく、楓/柊のものだろう。確かに、レイが知る二人の声に聞こえる。

 広い大空洞内には隠された研究所がいくつかあり、二人はそこにいる。

 レイの母はアイと同じ勢力に属していた。母が当時の権力抗争の中で命を落とすまでは、アイはR社の一員として研究に関わっていたそうだ。

 考えながら歩くうち、レイは歌声のもとへとたどり着いた。アイが保有する研究施設だ。レイの中で交じり合った記憶は回答を導き出していた。

 祭壇のような培養室がある。槽は一つだけで、中身はなかった。そこに、誰かが立っている。レイは会っていないが、レイは先ほど会っている。

 研究所の規模は大きくないし、古いものだ。しかし、静かに稼動を続けるいくつもの機材がある。ここの通信網は断絶している。それでも発見できたのは歌声のおかげだ。

 アイ・イスラフェルは目を丸くしていた。ここを見つけるのが早すぎる、といった面持ちだ。

 アイの記憶では、イスラフェルの方のレイは監禁されている。服装もR社のアーマースーツなので、今目の前にいるのがレイ・レシャルだと思っているのかもしれない。

「二人は返してもらうよ」

 レイは言う。楓/柊を連れ帰るのがレイの目的だ。

「のこのこやってきて、何を言うかと思えば」

 アイは答える。ここにレイが現れる事は予想外だったとはいえ、アイにとっては問題にならない。

 アイのNデバイスから通信波を感知した。何かに呼びかけたらしい。戦闘ポッドを呼んだのか、施設の何かを起動したのか。レイは瞬時に拳銃を抜き、アイの額へと照準する。

 上層の階から飛び降りてきたものが、引き金を引こうとしたレイの指を止めた。

 濃灰色の髪が照明に反射し輝いている。オウミで見た時とは服装が違っていたが、あの時息を呑んだ美しさは健在だ。その出で立ちはレイが知っている柊とそのもので/その顔立ちや瞳の深さはレイが知る楓の未来の姿を想起させる、彼女の姿であった。

 希望はある。記憶さえ戻してくれれば話ができる。そのための鍵は所持している。

 アイは施設の奥へと姿を消した。追うつもりはない。むしろ、二人の方が好都合だ。

「……」

 柊は無言で歩んでくる。

 楓との融合はまだ完全ではないらしい。聞こえる歌声は散漫だ。レイが使ったルリの弾丸のように、都合よく幽子デバイスを再結合するというわけにはいかないようだ。ネットワークとNデバイスを通じて関連性を持たせているだけなのだろう。

 レイはNデバイスの余分なリソースを全てカットし、状況解析と現実干渉性だけに割り振る。何か呼びかければ柊は止まるのだろうか。試してみる価値はあるが、何を話せばいいのか、全く思いつかない。

 柊の周囲に、何かが浮遊している。現実干渉によって成立する現象であることは、見ただけで想像がつく。接近してくる子機に発砲する。硬質な材質で覆われた立方体のビットは、拳銃弾程度では傷つけられない。

 そのはずが、弾着と同時に跡形もなく消える。続けて発砲し、立方体は数を減らしていった。

 レイの能力の事も忘れているらしい柊は、少し動揺の色を見せる。しかし、すぐに対処した。

 着弾すると消滅するという現象を洞察し、柊は各々のビットに重力フィールドを展開させる。次々にビットを生成した。弾丸が届かなければ、レイの能力を発動させることはできない。

 それならば、と、レイは短機関銃を三本目の腕に持たせる。干渉をカットし、物理的な火力で押し切ろうとする。

 柊が使うのは、物質生成によって生み出される子機と、重力制御による浮遊と防御だ。Qロットはそれほど強力に現実干渉を復元できないのが常識だ。火力が勝れば貫通できる。そのはずだった。しかし、一向にビットを貫通する弾丸はない。

 強力な計算容量を確保しているらしく、普通のSロットと遜色ない能力行使だ。柊は攻撃に転じてくる。加速させたビットがレイを襲った。コンクリートの床が砕け、破片を飛び散らせる。スーツの噴射機能で跳躍しつつ、レイは柔軟にビットを回避した。

 それで終りではなかった。高速で飛行するビットはレイを追い続ける。やがて、ビットの一つがレイの左手をとらえた。

 接触してきたビットはすぐに消滅させる。ほんの一瞬の接触だが、何かがレイの中に流れ込んだ。接触したことで、その内部から発する命令を感じとったのだ。

「……っ!」

 禍々しい歌声がレイの頭に響いた。従属を強いる指令だ。一瞬だったのでまだ抗う事ができたが、長く接触すればその限りではなさそうだ。Nデバイスの本体がある胸部に接触したりすれば抵抗できないかもしれない。気を抜けば意識を持っていかれる。

 今の接触で、ビットの内部構造がわかった。あの中にはNデバイスが充填されている。

 精製能力によってNデバイスを増殖させ、増えれば増えるほど扱える干渉性も指数関数的に強力になっていくのだ。だから、Qロットにも関わらず、あれほど強力な能力行使ができる。Sロット数人分の干渉能力を収容する容量がある。それを、楓と柊という二重人格によって制御している。

 柊はまた新たにビットを生成し、さらに現実干渉性を強化している。周囲の重力場も変化しつつあった。柊がどこまでレイの能力を理解してやっているのかは不明だ。電流や光線ならレイの能力で消去できるが、重力だけは、レイにはどうしようもない。重力フィールドに捕らわれないように距離をとり、通路の影に逃げ込む。

 柊はゆっくりと歩んでくる。現実干渉は本人の「認識」が基準となる。本人の意識が感じ取ったものに干渉が可能になる。熟練したSロットなら、十メートルも離れた場所に能力を及ぼせる。感知能力の増大や経験によって鍛える事ができる。

 レイにはその訓練がまだ不足している。触れたものか、触れたものが飛翔して二次接触した先のものしか消滅させられない。目に見えない空気を感じ取ったり、距離が離れたものには能力が届かないのだ。

 計算容量ごとビットを消滅させられるレイの能力は今の柊にとっては天敵のようなものだ。もしレイが能力を使いこなせていれば、遠距離からビットを消滅させ、柊の生成速度を上回ることができる。だが、今のレイではそこまでのことは無理だ。

 とれる方法は二つ。レーザーブラスターでの攻撃か、ルリがくれた弾丸での攻撃だ。

 レーザーブラスターはほとんど威力は無いが、重力フィールドを貫通して粒子をビットに届かせることはできる。届きさえすればレイの能力で影響を与えられる。ただし、光線のような希薄なものをレイが「認識」し、能力の対象にできるかどうかは、やってみなくてはわからない。

 もう一つの方法は、ルリがくれた弾丸だ。まだ数発が残っている。幽子デバイスとNデバイスを繋ぐプログラムが封入された弾丸。四発のうち一発を使った。残りは三発ある。

 昔これと同じように幽子デバイスとNデバイスの接続を行なった時、レイは過去の記憶を思い出した。研究所の記憶操作技術で失われた記憶であっても幽子デバイス内には残されている。幽子デバイスの連結によって記憶が復活してレイのことを思い出し、元の柊/楓に戻ってくれるという望みはある。

 ただし、本体である柊が直接これに干渉してくれなくては接点がなく、発動しない。彼女を守るビットに阻まれれば何の意味もなくなる。

 ブラスターで邪魔なビットを排除し、ルリの弾丸で柊を撃つ。それしか方法は無さそうだ。

 この小型ブラスターはまだ開発途中の武器だ。照射可能時間は五秒間程度と短い。充電式で、交換用のバッテリーは存在しない。

 一瞬で多目標を狙い、消滅させられるかが鍵だ。ほんの一瞬でも、柊の精製能力を上回る消滅能力があればいい。武器と、鍛えてきた早撃ちの力に頼る。

 通路に出て、目に見えるビットに照準する。

 一秒。瞬時に三つのビットを消去する。現実干渉性は光線に通っている。

 二秒。さらに二つを消去する間、柊は一つを生成している。レイの胸の神経が、ちくりと熱を帯びはじめる。

 三秒、四秒。トリガーを引き続け、八つを破壊。生成は追いついていない。Nデバイスは過熱し、呼吸が苦しく、肺が燃えているようだ。

 五秒、最後のビットに狙いを定める。

 もうすぐというその瞬間、レイの手からブラスターが弾き飛ばされた。

 続けて、体に痛みが走る。何の動作も見せなかった柊の方向から弾丸が飛翔し、レイの肩を貫き、腹部を掠めた。

 柊による射撃だと気付いたのは、弾丸を受け倒れこんでからだった。幽子デバイスでの能力の行使は感知できなかったし、視野解析でも発砲動作は予期できなかった。

 迂闊だった。能力だけを行使していた柊だが、彼女の本分は能力に頼らない豊富な経験で鍛えられた生身の戦闘能力なのだ。こちらの能力を探り、攻撃の機会をうかがっていたらしい。

 発射動作を感知させない特殊拳銃。それが、最も警戒すべき武器だった。麻酔薬か何かで手足が痺れ、うまく動けない。命中した弾丸に封入されていた薬品だろう。

 それだけではない。レイの中で、何かが広がり始めるのが感じられた。何らかの方法で、弾丸に従属命令を混ぜ込ませている。おそらくは、QロットのNデバイスの一部を封入し、Sロットの神経を食いながら端末を生み出すための弾丸だ。

 弾丸そのものはすぐに消滅させたが、増殖を続けるNデバイスの指令は、レイの意識を縛り始める。

 強い意志があれば抗えるはず。楓の言葉を思い出して踏みとどまる。しかし、Nデバイスに余裕は無い。先ほどの能力行使でオーバーヒートしている上に、機能のほとんどをカットしないと歌声に飲まれる。

 この歌声には覚えがある。

 溶けるような甘さの中にある、心臓を締め付けるような強制力。あの時の楓と似ている。それを何倍も苛烈にしたような歌声が、レイの胸を激しく責めた。

 ビットは再び再生を開始している。レイの能力行使が限界に来ている事を察した柊は慎重に接近し、たやすくレイを組み伏せる。もう勝ち目は感じられない。

 馬乗りになり、柊はアーマースーツの胸元を引きちぎった。胸のNデバイスにQロットの手で直接触れられれば、集中を乱したレイにはとても耐え切れないだろう。

 拳銃に伸ばそうとした手は膝で押さえられる。最後の手段も絶たれ、ついになす術がなくなった。

 諦めかけた時、暴風のような何かが襲い掛かった。

 柊は突如襲い掛かった黒い何かに突き飛ばされながら、体勢を整えビットによって形成された足場に着地する。

 レイも同じように吹き飛ばされ、宙を舞う。背中から落下し、激痛で目が覚める。スーツの高度生命維持機能が解毒注射を投与してくれた。麻酔の効果が薄くなる。

 ナイフを抜き、弾丸を抉り出す。そして、胸に形成されつつある柊のNデバイスを消滅させた。神経に深く入り込んだそれを消す時、レイの全身に痺れるような痛みが走る。それに耐えながら、上空を見上げる。

「ルリ!」

 思わず声が出た。見た事がある姿だったのだ。呼びかけにわずかに応じ、飛来した黒竜の瞳がレイを一瞥した。

 今の彼女は怪物だ。傷ついているように見える。表皮にはいくつもの弾痕が見えた。ここに来るまでに戦闘があったのだろう。

 しかし、それはまぎれもなくルリだ。あの日、闇に消えていって再会することのなかった友に間違いなかった。

 突如現れた幻のような生物に驚いたのはレイだけではない。柊は新たな敵にビットを集中させる。力強い羽ばたきで狭い施設の中を飛翔する竜を、立方体の武器が追う。

 チャンスは今しかない。レイはふらつく足で立ち上がり、拳銃を抜く。弾は三発。

 一発目は、まるで見当違いの場所に命中する。麻酔が抜けきっておらず、手の感覚が怪しい。柊はルリに集中していて気付いていない。二発目、近くに着弾。柊がこちらに気付く。

 三発目。最後の一発は柊に向かっていく。ビットは黒竜を追っていて間に合わない。柊は弾丸を視認し、直接重力干渉を行なって弾丸を逸らそうとする。

 それがレイの目的だった。弾丸は空中で静止して運動能力を失い、落下する。その瞬間、弾丸に封入された幽子プログラムは柊の幽子デバイスと接触する。柊の幽子デバイスとNデバイスが接続され、失われた記憶の全てが流れ込む。

 これで自分のことや、今までアイにされたことも思い出すはず。レイはそう思い、柊を見守っていた。

 柊は流れ込む記憶を感じているのか、頭を抑えながらその場にうずくまった。ビットの制御が失われ、落下する。余裕を失った柊の制御を失い、ただの物体となる。

 異変が起こった。重力制御による浮遊を失ったはずのビットはしかし地面まで達せず、再び静止する。それは、静止というよりは凍結しているかのようだ。微動だにせず、その場に固定されていた。

 冷たい空気が流れてくる。周囲の温度が急激に低下していることをレイのアーマースーツが感知し、警告を鳴らす。

 これは柊の現実干渉性だった。熱を出したレイの額を覚ましてくれた、あの能力だ。暴走が起こっているのだ、とレイにはわかった。レイの時もそうだった。一気に流れ込んだ記憶に混乱し、能力を暴走させてしまった。

 柊のようなQロットは、レイとは比較にならないほどの量の記憶を経験する。他のSロットの人生をそのまま体感することで、能力を収集するからだ。だから記憶の消去が必要となる。そうしなければ自分自身を保てないからだ。そうやって積み重ねてきた何十人、何百人の人生の記憶が、全てが一度に押し寄せればどうなってしまうのか?

 それは、柊が持つ固有の現実干渉性を爆発させるのに十分すぎる量の記憶だった。

 柊個人の現実干渉性は「停滞」だ。それが拡張され、暴走し、進化した。その空間そのものが「停滞」し、相転移を起こすように凍結していた。何もかもが停滞する空間を生み出している。

 光の運動にも影響を及ぼし、柊の周囲は水晶のように屈折する場にによって覆われつつあった。時間の停止にも等しいほどの空間凍結。絶対零度に包まれ、柊の体さえも水晶の氷の中に封じられる。

 まだ完全に麻酔が抜け切らないレイにも、低温の危険が迫る。その体を拾い上げるものがいた。ルリだった。巨大な脚部でレイを掴み、両翼で風をきり、広がり始める停滞空間から離脱する。



 大空洞に戻り、レイは開放された。ルリはそこで力尽き、離れた場所に落下した。

 空気は薄い。バイザーは被弾して役に立たなくなっている。呼吸が苦しいのを我慢し、バイザーを捨てる。麻酔が切れてようやく自由になりつつある体で、レイはルリに近づいた。

『ああ、一つになれたんだね』

 ルリの声が、レイの聴覚に響いた。肉声ではなくNデバイスを通じた会話である。

『それを使って』

 彼女の腕だった部分、翼の爪に握られていたのは新しい弾薬だった。

『それは、幽子で構成された弾頭だ。あらゆるものが停止するあの空間の中で、唯一あいつの束縛を受けないものだ』

 レイには、幽子を感知することも、見ることもできない。弾頭部分は透明なケースに封入されているが、レイには何も入っていないようにしか見えない。

『その弾頭は、あの中でも直進していく』

 これは、ルリが今纏っている黒竜の体組織から今作られたばかりのものだ。幽子デバイスの破壊装置だそうだ。着弾と同時に封入された幽子素子が拡散、その場の幽子デバイスに浸透して影響を与える。

 幽子デバイスは胸部にある。そこを狙って撃てば、柊/楓を止められる。彼女は感知するもの全てを停止させている。しかし幽子次元はまだ感知できておらず、停止させることができない。

『現実干渉性を育てているあいつは、いずれ幽子も感知し、停止させる。この空間の全てを停止させるまで彼女は成長を続けるだろう。その前に止めなければいけない』

 能力の暴走は記憶の爆発によるものだ。それによって柊がどう変わったのかはレイにも想像がつかなかった。レイは柊を知らなすぎる。迂闊だった。

 幽子デバイスは未解明な部分が多い。この弾丸で破壊できたとして、その後どうなるのかはわからない。脳が活動していればまた再結合するのか、それとも質感が消滅して、ただ活動しているだけの生体機械に堕ちることになるのか。

 賭けるしかない。凍結された世界は、あらゆる変化を二度と起こさない。それは何もかもの死だ。柊に世界を滅ぼさせたくはない。レイはルリの弾丸を受け取る。

『弾はその一発きりだ。大事に使って』

「どうして?」

 一発を成功させるのは難しい状況だ。遠距離からの射撃になるし、レイのコンディションも怪しい。できれば予備の弾が欲しい。以前のように、スペアを作ってほしかった。

『それは、私の命がここまでだからさ。呼吸ができなくて、今にも気を失いそうだ』

 淡々とルリは語った。

「待って、今剥がすから」

『だめだよ。お願いだから、私の姿を見ないでほしい。肺も無いんだ。剥がしたって意味はないよ』

 黒竜の表皮には無数の穴が開いていた。戦闘ポッドの機銃によってついた傷だ。内部まで貫通し、ルリの本体を破壊している。赤い血液が滲んでいる。

 すぐ目の前にいるのに、どうすることもできない。またしてもこうだ。

『自業自得なんだ。きみに謝らないといけない』

「ん?」

 静かに、ルリは語りだす。

『きみを分割したのは私だ。依頼された実験だった』

「うん……」

『会った時から全部わかってたんだ。きみを騙して、観察するために近づいて、利用した』

 幽子デバイスの分割と移植。そんなことが可能なのは、幽子を感知できるルリを置いて他にはいない。それは、今のレイには自ずとわかることだった。

「今言ってくれたから、それでいいよ」

 ルリはレイによくしてくれた。それだけで十分だった。ルリの体から生気が失われていく。本体に触れたかったが、彼女の望みに従って、レイはそっと、外側から抱きしめるだけにした。



 目覚めよ、と、何かが呼びかけた。

 何度も経験した覚醒だ。いわば誕生にも近い。記憶の一部を編集され、新しい自分として生まれ変わる。連続性があるようでいて、昨日と今日が分断された意識の中で、柊は生きてきた。

 Nデバイスは正常に動いているが、何か編集の途中だったようだ。外部モジュールとの融合を試みていたようだが、途中のままで呼び出されたらしい。

 直前の任務の記憶はない。その前の任務の記憶も。

 一番古い記憶はいつのものか。ついさっき、誰かと戦っていたような。何年も前かもしれないし、数ヶ月前かもしれない。どうにも曖昧だ。いつものように違和感を残さない編集とは違う。

 呼び出しに応じ、柊はその場所へと向かう。この場所自体が見覚えのない施設だ。視界にアイの姿を認めて、少し安堵する。唯一の親しい人間である彼女は、まだここにいる。

 なら、何も問題ないに違いない。

 対峙しているのはSロットらしき人物だ。白いアーマースーツが、目覚めたばかりの目に痛い。アイに銃を向けているので敵と認定する。

 意識が大幅に拡張されている。Nデバイスにはいくつかの現実干渉性が入っている。物質生成と重力制御による自動化された戦闘プログラムを起動すると、柊は何もすることがなかった。

 ただ戦いに没頭しながら、余剰の処理能力によって現状を整理しようとする。しかし、いまひとつ曖昧なままだ。これが終わったら、アイにシステムの整理を依頼しなくてはならない。

 そのSロットは手ごわかった。

 右手が不調だ。なぜかNデバイスも消え失せている。まるで自分の手ではないかのように、自由にならない。なので、特殊拳銃は左に持ち替えた。利き腕ではないので、額を狙ったはずの弾丸は逸れた。

 弾種を麻酔弾にして正解だった。体のどこかに当たれば勝負を決められる。しかし、そこで邪魔が入った。

 夢を見ているかのようだ。それは、黒い竜だった。強力な戦闘用の生体ロボットに見える。本当はまだ目覚めていないのかもしれないと疑うほど、その姿は幻想的だった。

 手傷を負っているようだ。自分を狙っているらしいので、追い払わないといけない。気をとられている間、Sロットらしき人物が発砲してきた。

 このSロットの弾丸は特殊だ。柊も知らない現実干渉性を込めている。危険なので、最優先で防御をする。

 その瞬間、異常が起きた。柊は知らない。それが、幽子デバイスと呼ばれる未知の存在によって及ぼされるものだということを。

 何が起きているのかわからない。膨大なNデバイスの容量を全て覆うほどの記憶が、柊の中へと流れ込んでくる。

 何も考えられない。幽子デバイスに記憶された柊の全経験が、一時に彼女の脳を焼いていく。それは、今までNデバイスを使って消されてきた記憶だ。自分の記憶だけではない。百を超えるSロットのNデバイスと同期し、彼女たちの人生を追体験した記憶も含まれる。

 幸せとは言えない記憶が詰め込まれている。なにしろ、実験動物のSロットの記憶だ。姉妹との別れや苦痛を伴う実験、あらゆる感情が柊に押し寄せる。

 Sロットの記憶だけではない。柊自身が忘れていた様々な記憶や出会いも再生された。知り合いを殺したことも、見殺しにしたこともあった。記憶を編集されたことで、親しかったり好きだった人を切り捨てた事は一度や二度ではなかった。

 それを一度に思い出した。頚椎のNデバイスは未知の場所からの防げない情報の奔流に押し出されるように、自身を急速に拡張し始める。柊の激情に呼応して、柊の神経組織を食いながら、ネットワークを体中に広げていく。

 頚椎から背中へ、そして胸にまで達し、心臓を絡めとる。そこで、更に記憶の流入が増加した。幽子デバイスは胸部を中心に存在する。まるでSロットのように、柊の持つ固有の現実干渉性を押し広げる。

 体におさまらないほどの情報に柊の心は悶える。音は消え、だんだんと静かになっていった。情報の奔流は穏やかな凪になったが、胸を焼き続けている。停滞した世界で、柊は永久にこの記憶を向き合い続けることになる。

 耐えられない。何もかもの停止を望むことしかできない。

 もう、やめて。

 牢獄のような記憶の中で、柊はそれだけを願い続けた。それは、かつて自分から別れた存在の願いとも重なって、さらに周囲の何もかもを停滞させ続ける。



 停滞現象は広がり続けていた。水晶のように結晶した空間はまだ光を通しているが、徐々に暗くなっている。光さえ閉じ込める完全な停止状態に近づいている。

 白派の戦闘ポッドが今更になって群がっていた。戦闘があったことでアイの拠点を割り出したのだろう。白派は消滅能力を持ったレイ、ルリの研究成果のどちらも取りこぼしている。

 送り込まれたポッドは柊のいる施設を取り囲んで進入しようとするが、停滞現象に巻き込まれ、凍りついたように動かなくなっている。現場の状況を理解していない。

 それだけならよかったが、その場にいたレイを敵と認め、発砲してきた。弾薬も少なく、ピストレーゼも失ったレイには対抗手段がない。岩陰に隠れるのがやっとだった。

 柊はやがて幽子ですら停滞する空間の中心となり、空間全てを覆うまで広がり続ける。急がなければならない。それなのに、敵は容赦なくレイに群がる。

 麻酔はほぼ抜けていたが、Nデバイスが広がる痛みがまだ胸を焼いている。これ以上の現実干渉は危険だ。最悪の場合、自律神経に異常をきたして死ぬかもしれない。

 暗い大空洞に、聞きなれたエンジンの音が聞こえた気がした。

 レイの前に、何かが飛来した。ピストレーゼに良く似ていたが、少し違う。より力強さを感じさせる形状だ。重武装を施した有人戦闘機のようだ。

 優美だったピストレーゼと違い重量感のある機体。それに似合う悠然とした飛行で上空を飛び、装備された強力な連装機銃を発射する。爆音が響き、多脚型のポッドは粉々に破壊されていった。

『助けが必要ではないですか、レイ』

 響いたのは、あまりにも聞きなれた声だった。

「サクラなの?」

『はい』

 機械であるサクラメントは目的に忠実な存在だ。レイの存在が一つになった今、彼女が守る対象は一人でしかありえない。信頼するわけではないが、機械としての単純さを信用し、レイは応じることにする。

 飛来した機体のコクピットに滑り込む。コクピットコアは旧式だった。操作してみると、妙に手になじむ。

「これは……?」

『わかりません。この大空洞に入った瞬間から、私のシステムの制御に入ったものです。ですが、あなたのお母様が生前使用していた試験機だということはデータにあります』

 守ることに特化したその機体は、重装甲重武装のコンセプトで作られている。「リヴォルテラ」という名称が表示されている。

『強力な火器がご所望とのことでしたね。この機体は充実しています』

 五銃身三〇ミリ対装甲機関砲と一〇六ミリ擲弾砲を搭載した重戦闘機だ。重力複合装甲を有し、戦車砲の直撃にも数発は耐える。機動性はやや低下しているが、単独での戦闘能力は向上している。

 母の愛機ということは、蓄積された制御データがある。それは偶然にもレイの戦闘スタイルと合致し、初めての機体とは思えない一体感を生み出している。

 しかしこの武器であっても、柊の停滞エリアにはダメージを与えられない。あの能力は、レイにとって天敵にも等しいものだ。

 空間そのものが停滞するフィールドの中でいくら何かを消滅させても、その場自体が消滅するわけではない。今は大気のある地下空間なので、表層を消滅させても新たな空気が流れ込み、また停滞結晶を作り出す。弾丸は決して柊に届くことがない。

 ルリの与えてくれた幽子弾に頼るしかない。この機体の火力はそのための援護に回す。まだ柊が見える位置にいるうちに実行するしか、彼女を救う方法は無い。

『危険です』

「よく言うわよ。大体、放置すれば私も危険なんだけど?」

『そうですね、認めます。戦いましょう』

 増援が接近していることがリヴォルテラのレーダーで確認できた。施設の前で下ろしてもらう。近づいてくる戦闘ポッドを駆逐するために、リヴォルテラは飛び去った。

 暗くなっていたが、施設の奥の柊はまだ見えていた。

 落ち着いて撃てば、普段のレイなら当てられる距離だ。じわじわと停滞フィールドが接近し、屈折で柊の位置をわかりにくくしている。距離は四十メートルほどだとレイのNデバイスの画像解析は告げている。

 施設の構造を視界に投影することで柊の正確な位置を狙いやすくする。両手で拳銃を構え、照準を定める。

 これを撃ったからといって、それだけで柊/楓を幸福にはできない。この現象を止める事ができるかもしれないというだけだ。レイでは柊を救えなかった。手の届かない所に、彼女が遠ざかる気がした。

 レイはルリの弾丸を撃った。弾丸は目に見える所で停止してしまう。しかし、内部に封入された幽子弾はこの停滞の中でも進んでいるはずだ。

 ガラスが崩れるような音とともに、停滞空間は崩壊し始めた。目には見えないが、幽子弾は柊の位置まで到達し、命中したのだろう。幽子デバイスとNデバイスのリンクは断絶され、柊は意識を失って倒れる。

 駆け寄ろうとしたレイを、活動再開した柊のビットが阻んだ。柊が気絶したため、自律プログラムによって防衛モードに入ったのだ。

 歯がゆい思いをしながら、レイはその場を離れる。

 迎えに来たリヴォルテラに乗り込み、もう一度施設を振り返ってからレイは帰途につく。青白いエンジンの炎を残し、戦場は静寂を取り戻す。

 その光景の一部始終を見ていたアイは、倒れた柊を抱え、施設のさらに奥へと姿を消した。



 柊のNデバイスはジャンク情報で満たされていた。

 古い記憶で埋め尽くされている。一時的に幽子デバイスが麻痺しているので、現実干渉性の暴走は停止している。しかし、しばらくして再結合すれば同じ結果が待っている。

 アイは非力な腕で柊を調整槽に運び、記憶の整理を実行した。

 命は取り留めている。だが元通りにはならないだろう。記憶の破損が大きいため、再整理すれば失われる部分も出てくる。最近は情緒豊かになってきていた柊だが、次に目覚めた時は再び無機質な性格に戻ってしまう。

 白派は混乱に陥っている。事前に仕掛けていた懐柔策により、一部の勢力は既にアイの支配下にある。サクラメントの支配も及ばない新勢力だ。これから内部抗争があり、そして最終的にはアイは勝利し、白派が持つ研究成果や資材を手に入れることができるだろう。

 研究所の全てはアイのものになる。最も重要なものは別にあったが、ルリとの約束でそれもいずれ手に入る。今は柊を修復することが不可欠である。作業を終え、アイは月面都市へと戻っていった。



 柊は夢を見ていた。

 淀みのように蓄積していた様々な記憶が消えていき、その感情を忘れ去っていく。安堵とともに、切なさを感じる。自分がこんなにも多くの経験をし、多くの縁を築いてきたのに、それをまた忘れていく喪失感に襲われる。

 こういうことは過去にも何度もあった。救えたはずの命も数多くあった。それは過ぎ去った過去であり、もうどうしようもなかったことだ。でも、ほんの少しの切欠があれば変わっていたかもしれない結果だった。

「気分はどう?」

 語りかけてくるのは楓だ。彼女の存在が柊の中に流れ込んでくる。別の媒体にバックアップがある彼女は、ダメージを受けた柊と違って健在だった。

 「ルスカ」なのか、「メイプルリーフ」なのか、それとも楓本人なのか。あるいはそれらを複合した存在なのか。柊にはわからない。

 彼女を生み出したのは楓で、柊の分身だ。知らないこととはいえ、柊は責任を感じていた。同じように、楓の中にも後悔と懺悔の感情がある。

「私には、実験を中止することができなかった」

 「メイプルリーフ」はただのデータにすぎなかった。楓にとっては切り取った指のようなもので、そこにも魂があるかはわからない。SロットのNデバイスを編集できた彼女は、実験を止める権限があったはずだ。

 人格として残ったのは「ルスカ」だけだ。楓本体から分離され不安定になっていた「メイプルリーフ」は、ノアリア内の様々な情報を吸収して自分を補強するうち、不安定な人格へと変わっていった。

 中でも、Sロット管理権は彼女の人格を大きく揺さぶるものだった。「メイプルリーフ」は、自分が持っていたSロット管理権を、ノアリアのVR空間上の鳥の中へと残した。クラウド型の代理人格だった楓は、消滅しそうになる自分のデータだけでも残そうとして、VR空間にそれを隠したのだ。それが暴走を引き起こし、楓のアバターを食らって死と再生を繰り返していた。レイが出会ったのはそれだった。

 柊と楓は完全には同化できない。アイにはまだその技術がなく、幽子デバイスはゆるやかに結合するのみだ。楓は既に死んでいる。その幽子デバイスも消滅しかけていた。ここにあるのは楓の残骸だ。

 「ルスカ」が自らの存在に絶望して消滅しようとした時に、はじめて自分で消える事ができないと気付いた。VR空間上でレイの能力を使って消滅できないか試しもした。レイのアバターである「白竜」に命令を与え、自分をVRプログラムから消去させるために試行錯誤してみたが、結果は彼女を苦しめるだけで終わった。

 オウミ内にVRが漏れ出し、白竜とリンクしたレイに悪夢を見せていることには気付かなかった。彼女を救えないばかりか、怖がらせてしまっていた。

 消えたいという望みにしても、自分自身のための願いだ。そのために誰かを巻き込むことは、もう出来ない。このまま苦しみ続ける事を、楓は受け入れている。

 レイは大空洞に現れた。それは正直言って嬉しかった。

 最後に贈った通信は助けてほしいという意図ではなかった。レイは母の手がかりを探しているようだったから、ここにくれば何かあるかもと言いたかっただけだ。レイは、それを助けを求める声だと思ったらしい。

「一つだけお願い」

 楓は感じていた。そのレイが再び戦いに向かっている。彼女を守ってやってほしいというのが、楓から柊への望みだった。

「やってみるよ」

 現在の柊は動ける状態ではない。記憶消去プロセスを中止することはできない。しかし、それが終わるまでの間ならまだNデバイスを使える。幸いアイは退席していてこの場は無人だ。オウミに関して知りえる情報を伝え、レイを援護することくらいはできるはずだ。

 この融合が終われば、人格プログラムとしての楓の活動は終わる。眠りにつくのだ。片割れである柊にすら忘れ去られる。

「それでも、あの子だけは私を覚えていてくれるのかしら」

 眠りにつくのは「ルスカ」の念願だった。それが、なぜか今更惜しい。徐々に活動を停止していく自身を感じながら、何の苦痛もないことに不満を感じながら、不本意にも安らかに眠りへと落ちていく。



 レイのNデバイスは疲弊していた。サクラメントにはSロットの胸部のNデバイスを管理する力はない。それはQロットにしかできない行為だ。

『白派はもう壊滅的です。アイによって財団に吸収されるでしょう』

 表向きは白派として活動を続けるだろうが、その実質的な支配者はアイになる。もう大した力は持っていない。

 サクラメントは白派を操ってきたが、今後はアイに頼ることになる。あるいは、R社で活動するのみだ。

『お望みならQロットを手配しますが』

「いやよ」

 レイは、柊や楓以外に自分のNデバイスをいじらせる気はなかった。過剰に能力を使わなければ、すぐさま異常が起きることはないだろう。レイはまだメンテナンスを受けたばかりだ。サクラメントは人の意思には逆らえない。レイの拒絶の意思を尊重する。

『政府軍の動きが慌しくなっています』

 サクラメントからの情報が来た。地球で何か起きたらしい。

 取得した映像を見たレイはコンピューターグラフィックか何かだと思った。しかし、現実の光景である。

 灰色に輝く地球の衛星軌道上に、宇宙戦艦オウミの姿がある。自分がつけたエンジンへの傷跡も残っている。しかし、その傷跡を中心に黒い何かが沸き出て船体を覆っている。

 荊のようなそれはまるで植物のようだった。直径五〇メートル以上の、青く輝く花のようなものまでつけている。

「これは……?」

『オウミに残された生態系維持ナノマシンの異常と推測されます』

 オウミには森林ブロックがある。レイは開発に関わったので、よく知っている。あれはCデバイス、人工筋繊維だ。植物の遺伝子を変容させて環境に適応させる力がある。

 あの花は太陽光を取り入れ発電するための装置に見える。未知の惑星でも電気を作る事ができる植物は計画にあったものだ。宇宙空間に適応したのがあの姿ということだろう。

 張り巡らされた荊は構造材を補強しつつ船内の制御系を掌握し、同時に電力の供給も行なっている。与えられた環境で生き延びるためなら、あれはどんな進化でもするものだ。真空の空間に適応した異形の植物は、生命の力で飛翔している。

 重力エンジンは失われている。現在の軌道から推測すると発射台を利用して軌道まで上がり、船体の重力発生装置を応用して高度を維持していると見える。しかし、そこから脱出するのにはパワーのあるエンジンと、それを動かすための電力量が必要だ。

『月へと向かうつもりのようです。理由は不明ですが』

 衛星軌道上には様々な衛星がある。中には核燃料の電池を搭載しているものもある。既にいくつかの衛星は取り込まれ、あの荊の養分となったようだ。更なる花を咲かせ、力を蓄えつつある。

 自己進化プロセスが機能しているならば、何らかの強力な推進機関を生み出すことも不可能ではない。その進化にどのくらい時間がかかるかはわからないが、あのままにしておけばいつかは月に到達する。

 電力が十分になれば、オウミの防御力はますます増大する。重力フィールドによってほとんどの武器が通用しなくなるだろう。放置すればどうなるかわからない。

 あれは月を目指しているように見える。核燃料を持ったまま月に来る事があれば、月面都市に危険が及ぶ。中規模都市程度の人口が危険に晒されるのだ。

『私の立場から言えば、原因はオウミ内部のデータベースの異常でしょう。データ間の境界が曖昧になり、異なるプログラムが相互干渉を引き起こして、何らかの意思となって機能しているようです』

 オウミにはノアリアがある。サクラメントと同様のSロットの記憶と現実干渉性を集めるデータベースが存在している。つまり、Sロットの記憶があるということだ。

 ノアリアから厳密なルールや目的を与える存在である楓が失われた時点で、だんだんとルールが曖昧になっていく。それがSロットの記憶同士を混濁させ、一つの大きな意志となってオウミを動かすようになったのではないか。

「そう、だったんだ」

 核融合炉を復活させた時、オウミはひとりでに外を目指した。思えばあれは楓の意思でもなければ、柊の操作でもなかった。オウミを操っているのは、レイにとってのかつてのルームメイトや同胞たちの記憶だ。

 楓やサクラメントと同じだ。主を失う事を想定していないシステムが、消滅できずにこの世を彷徨う怨念となる。

 地球から、宇宙空間に浮かぶ月を何度も眺めた。月は、拠り所のないノアリアのSロットたちが共通して抱く郷愁の姿である。混沌となったNデバイスのデータが導き出した共通の答えは、故郷への回帰だったのだ。それだけが、方向性を持った熱となってあれを動かしている。

「サクラ」

『言わなくてもわかります。どうしてもですか?』

「どうしても。だって、あれは」

 体はまだ癒えていない。しかし、あれを放置することはできない。再編中の宇宙艦隊ではオウミは止められない。あれは初の宇宙戦闘艦だ。並の兵器では相手にもならない。レイの存在を除けば、あれに対抗できる宇宙兵器は存在しない。残されたレイにとって、それは運命だと思えた。

 それだけではない。あれはレイにとって、自分自身にも等しい存在なのだ。関係ないなどと思えるはずがない。

 新型機リヴォルテラは大気圏用モジュールを使用できない。使い捨てのブースターを搭載し、マスドライバーで地球を目指す必要がある。

 先日の地球行きの時もこの小型並列マスドライバーを利用した。あの時は十二時間だったが、今回は強力なブースターの助けを得て六時間で衛星軌道上に到達する。

『貯金が二%になりましたね。五歳の時から貯めていたのに』

「うるさい」

 リヴォルテラは特注機で、次世代宇宙戦闘機プランとは何の関係もない。開発当時はサプライヤーに頼らず自社開発していたため、社外品のいろいろなものとの互換性がない。適合する追加ブースターを急いで購入したが、これが実に高くついた。R社の経費で落とすことはできないので、レイの個人的な資産を使うことになる。

 また、予備の祈機も搭載した。現実干渉性が必要になる事が予想される。それをサポートするためだ。計算能力が強化されれば機体の性能も上がる。

「あんたのこと、許したわけじゃないんだから。帰ったら話を聞かせてもらうからね」

『了解』

 サクラ、サクラメントは、レイを守るためにどれほどのものを犠牲にしてきたのか。それを聞き、向き合う覚悟はできている。ノア社だけが悲惨だったわけではない。研究所ではそんな例はいくらでもあるに違いない。

 マスドライバーの射出が終了し初期軌道の入力が終わると、サクラメントの補助はほぼ終了する。あの大空洞からずっと、リヴォルテラのシステムの細かい部分を調整していたのはサクラメントだった。

 レイはそろそろこの機体に慣れた。もう一人で操縦できる。

「サクラ、リヴォルテラの制御を私に」

『……はい』

 ほんの少しの逡巡を見せるサクラメントだが、レイに従ってリヴォルテラの制御権をレイに引き渡す。サクラメントはレイの身の安全だけしか考えない。緊急時に制御を掌握されて余計なことをされては困る。

 ユーザー認証を行なおうとして、気付いた。

「初期登録じゃない……?」

 機体には、レイのバイオメトリクスが既に登録されている。

 一四年も前のものだ。生まれて間もない頃、自分はこの機体に乗せられたことがあるようだ。

 レイが認証を行なうと、パーソナルファイル領域に一つのデータが残されていることに気付く。

 映像データのようだ。

『再生しますか?』

 サクラが言う。レイはそれに頷く。

 目の前に映し出されたのは、ARやVR情報ではない、二次元画面の映像だった。

『あー、えっと、あたししかいなくてごめん。あいつ、こういう時は逃げるんだから……』

 まるで鏡を見ているような姿が、そこには映し出された。髪の色や瞳の色は違う。しかし、音声や顔立ちは、自分との縁を感じさせる。

 それは、レイの母親の姿だった。

『あたしはSロットだから、長くは生きられない。多分。兵士が長かったし、それはいいんだけど』

 映像はARを通じて投影されている。手を伸ばしてみても、画面に触れることさえもできない。

『こんなもの残したからって、いつもそばにいるとか言うつもりもない。無責任だからね』

 会った事もない人物のメッセージだ。でも、その声色に滲む色がレイの胸に流れ込んでくる。声の一つ一つ、表情の変化。それら全てが、自分に向けられた気持ちだ。

 親子かどうか関係なく、きっと彼女はレイに良く似ている。だからなのか、考えていることが手に取るようにわかる。

『私は生きるのが楽しかった。大好きだった。だからね』

 あなたにも、幸せがありますように。

 その言葉を最後に、不器用な母の言葉が終わった。同時に、メッセージが表示される。

 新たに搭載された祈機を認識したという表示だった。リヴォルテラのエンジンが二段階目のサイクルへと突入する。複合装甲や水素エンジンに張り巡らされたNデバイスは、レイをコアとして神経追加装置となる。

 サクラメントの存在をシステムが確認。祈機はサクラメントの上位に位置するデバイスだ。その奥深くまでアクセスし、今まで連綿と登録され続けてきた現実干渉性のアーカイブを検索する。その中から重力制御を選択し、適用する。装甲は斥力装甲へと変化、エンジンにも応用され、旧型機のポテンシャルを凌駕する。

 レイはスロットルを開ける。機体は一段と強い加速を開始した。

 追加ブースターを合わせれば、予定より早くオウミに到着できるだろう。少しだけ天を見上げ、何もかも飲み込んだ上で、レイの目は前だけを見る。



 エンジンの欠けたオウミの威容が宇宙空間に姿を現した時、誰もがそれをCGの類だと疑った。

 一キロメートルもの全長を持つ巨大宇宙戦艦が月を目指している。外部からもたらされた情報によってそれが現実の光景だとわかった瞬間、政府軍は混乱に陥った。

 政府軍の宇宙艦隊は編成中で、オウミ級一~四番艦は建造中である。現状使える部隊は、衛星破壊用装備の宇宙戦闘機と、対艦爆雷を搭載した改造輸送船母艦程度だ。

 軌道上に最も近かった母艦が急遽出動した。オウミの前方に位置し、平行にすれ違う軌道へと入る。後続で駆けつけてくる輸送船は後方から追跡する軌道に入ることになっていた。

 既に輸送船の爆雷で攻撃を加えたものの、オウミは分離パネル型の防御シールドを展開し、凌ぎきった。迫り来る爆雷の早期からの探知、可動式の防御シールドパネル子機を装備するオウミは、遠距離攻撃に対して鉄壁の防御を誇る新鋭の宇宙戦艦だ。改造輸送船とはわけが違う。

 長距離電磁加速砲による反撃があれば輸送船には回避不能だが、それはなかった。電力を節約するためなのか、単に使用できないのかは不明だ。

 軍は近距離攻撃に切り替え次の作戦を展開する。衛星防衛用の宇宙戦闘機部隊がすぐさま発進し待機させられた。

 宇宙戦闘機は二基のエンジンを左右に配し、中央が縦方向に回転できる仕組みになっている。地上の戦闘機のように自機の進行方向、正面に武器を向けていると、直進してくる敵に命中したあとの破片を浴びることになる。爆発によって高速で飛翔する破片は、宇宙空間では最も恐ろしいものの一つだ。空気圧によって減速しないし、重力で落下することもない。

 そのため、宇宙戦闘機は全て後方に向けて攻撃が出来るように設計されている。中央ブロックを丸ごと後ろ向きに回転させることによって、航行と攻撃の両方がしやすいように考えられている。高速ですれ違った直後に背後に向けて攻撃を加え、そのまま離脱するのが安全な攻撃方法だ。

 敵は軌道上に留まっている。離脱する事ができないらしい。なので、自身の軌道と交差する破片をばらまくような後方攻撃は行なわないはずだ。敵が通り過ぎる際に直上から地球の重力を利用して急降下し、後進しながら近距離誘導ミサイルを発射する攻撃方法をとる。その後母艦に回収され、効果を判定した後、必要なら再び爆装し再出撃し反復攻撃をするのだ。

 高度一〇〇〇キロメートルを超える高さからの急降下爆撃には危険が伴う。静止衛星や武装した輸送船程度を相手にしていればよかった今までとは格の違う戦術だ。誰も経験したことのない、危険極まる任務である。敵からの攻撃だけが危険ではない。少しでも加速を間違えれば地球の重力に引き込まれるし、攻撃を繰り返すたびに軌道上には破片が満ちていく事もある。回数を追うごとに危険は増していく。

 宇宙戦闘機の火力は、オウミのような巨大艦に対すれば決して高くない。反復攻撃は絶対に必要だ。この作戦が失敗した場合は、月面のマスドライバーから絨毯爆撃が行なわれる。そうなれば、命中しなかったものは地球上に降り注ぎ、どれほどの被害をもたらすか想像もつかない。

 交差は五〇分に一回だ。はたして、何回の攻撃が可能なのか。何人が生き残れるのか。宇宙戦闘機に搭乗するパイロットの目に、威容を放つ荊の城が映り始める。



 政府の宇宙戦闘機部隊の攻撃は失敗だったようだ。配信されたニュース映像や望遠鏡で個人が撮影した映像を見ることができた。詳細な状況は不明だが、数十の宇宙戦闘機が総攻撃を仕掛けても、オウミはほとんど損害を受けていないにように見える。

 やがて、それがリヴォルテラのレーダーでも捉えられた。

 破損した箇所も、筋繊維によって形状が修復されている。崩壊によって飛び散った破片の分だけ質量が軽くなった上に、軌道上に散らばった破片で攻撃が難しくなっている。

『Nデバイスの状態が悪いようです。使用は控えてください』

 サクラメントが忠告する。この敵を相手に、Nデバイスを気遣う余裕があるだろうか。

 破片が広範囲に散らばり、オウミと同じ軌道で周囲を守っている。正面から交差するのは危険だ。レイは後方から接近していくことにする。

 生存し漂流している宇宙戦闘機が一機いる。助けを求める信号を受信し、レイはそこへ向かう。装甲に発生する斥力を強めて弾き、軌道の外へと逃がす。あとは救助信号を捕らえた輸送船が回収するだろう。

 味方はいない。政府軍の攻撃は失敗だった。武装の安全装置を解除し、たった一人で交戦を開始する。

 あらゆる危険に注意を払わなければならない。リヴォルテラには大気圏突入機能はないため、高度を落として大気圏に捕らわれることが第一の危険だ。飛来する破片、オウミ本体からの何らかのアクションも警戒が必要だ。一つでも見落とせば宇宙空間という危険が牙をむき、一瞬で命を落とす。

「ネットワークの中枢はどこ?」

『中枢などありません。船体全体が計算装置を兼ねています』

 オウミ全体を一度に破壊するか、地上に落とすか。どちらかの方法しかない。中途半端に破壊しても、「荊」ですぐに修復されてしまうだろう。太陽光を取り入れる「花」の部分の破壊も同じだ。

 圧倒的な火力で破壊し尽すのが確実な方法だが、宇宙にはまだ、地球上に被害を出さないようにオウミだけを狙って破壊を及ぼしうるような精密高火力兵器は存在しない。時間が経てば、無差別絨毯爆撃が開始される。

「じゃあやっぱり、私の力が必要ってわけね」

 リヴォルテラの全武装にレイの力を乗せても、オウミの全てを消去する事は到底無理だ。どこか一部に攻撃を集中して船体を切断する程度が限界だ。

 船体の破損によってオウミがバランスを崩せば、軌道に留まることはできなくなる。一次凌ぎでも、この方法しか考えられない。

 追加ブースターの燃料は残り少ない。数回の攻撃が限度と思われる。

『Nデバイスを祈機と直結します。少しはマシになるでしょう』

 弾丸は能力の発動地点を移動させる手段だ。拳銃くらいならまだしも、毎分四千発もの発射速度の弾丸全ての位置を感知して能力を発動させるにはNデバイスの補助が必要不可欠だ。サクラメントは感知、発動のタイミングを自動処理するプログラムを作って祈機に割り振り、レイのNデバイスにかかる負担を最小限に抑える。

 船尾の一部を切り取るように、レイはトリガーを引く。引き続けるのではなく、指きり射撃で破壊箇所を確認しながら切断していく。リヴォルテラの携行弾数は多めに設計されているが、無駄玉を撃てばすぐに弾倉は空になってしまう。

 着弾地点が消滅していき、ついに左舷の一部を大きく切断した。バランスを崩したオウミの高度が若干落ちる。しかしすぐ姿勢制御が働き、高度の低下は収束した。

「だめか……」

 左舷は完全に速度と浮力を失い、地球の洋上へと落下していった。しかし、オウミは依然として顕在だ。質量の二~三十%を失っていびつな姿となっても、失った部分を筋組織で補い、再び安定飛行に入る。

 今の射撃だけでもレイのNデバイスは焼けるような感覚を伴って、体を苦しめていた。祈機のサポートがあっても、もう一度同じ事ができるとは思えない。

 諦めかけた時、突然オウミの一部に変化があった。

 オウミの周辺に対空しているシールド子機に動きがあったのだ。船体下部で爆発が起き、破片が飛び散っている。高度が落ちていた事が幸いし、オウミより高い位置にいたリヴォルテラの進路上には破片が飛んでこない。

 そして、レイに通信が入る。

『地上艦隊、旗艦サツマより上空の攻撃機へ。聞こえますか?』

 通信は政府軍の艦隊からだった。企業連合と一種の敵対関係にあるはずの政府軍が、一般企業の不明機に対して問いかけを行なってくるなど普通なら考えられないことだ。

 ずっとレイに向けて通信を送っていたらしい。ようやく通信圏内に入ったのだという。レイが返答を返すと、艦長らしい人物は安堵のため息を漏らしている。

『カエデからの要請だと言えばわかる、とのことでしたが。間違いはありませんか?』

 サツマ艦長の言葉に、レイは心臓を撃たれたような衝撃を受ける。

「ええ!」

『そうですか。では、共同戦線を提案します』

 レイの攻撃によって高度が落ちたことで、オウミは地上の水上艦艇の超長距離電磁加速砲の射程圏内に入っていた。通信衛星が消えたか取り込まれたかでずっと連携がとれず、サツマは独自にオウミの軌道を計算し、攻撃の機会をうかがっていた。

 楓が一体どうやって、どこからこの状況を作っているのかはわからない。だが、レイの心は今までになく加熱する。

 サツマの主砲は宇宙空間のどの兵器よりも強力だ。オウミが地球を一周して戻ってくる二時間後には、もっと大規模な攻撃が可能になる。

『着弾の観測を依頼します。やってくれますか』

「なんでもする。ありがとう」

『いえ、私たちにとれば、取り逃がした獲物ですから』

 艦長は淡々と告げた。サツマの射程は水平線の向こう側まで到達するが、通信衛星や探査衛星のほとんどが使えなくなっている。交差する短い時間を有効に生かすためには水平線の向こうから敵を見据える、サツマの目になる観測機が必要だ。

 レイはそれを行なうのに絶好の位置にある。すぐに了解すると、サツマの通信圏内から再び脱した。

 次に通信が可能になった時が勝負だ。サツマの支援は心強い。しかし、それでもオウミを撃沈できるとはレイには思えなかった。あの艦隊の一斉射撃なら、通常の状態のオウミ級宇宙戦艦に甚大な被害を与える事は可能だろう。レイの能力に頼る必要はない。しかし、荊による再生を止めなければ、あの巨大な船体はすぐに再生してしまう。

 せめて再生機能だけでも停止させる方法はないか。レイは考える。

 その時、聞きなれた声が聞こえた気がした。

「カエデなの……?」

 かつて聞いた歌声だ。はるか遠くから幽かに届いている。

「あなたをつなげばいい?」

 声ではなく言葉でもない意思だ。ごく弱いものだが、レイにははっきりと伝わってくる。

『どうしたんですか、レイ』

 サクラメントが不思議がっている。Qロットによる通信はサクラメントには決して感知できない。サクラメントを管理する立場であるQロットは、データベースに対する上位存在だ。

 有線接続でオウミのネットワークと接続すれば楓が再生機能を停止させる。遠距離通信のため、その程度の処理が限度だろう。レイを媒体としてノアリアと楓の接続を試みる。楓としての体を失っていた時と違い、今は柊というQロットの権限が使える。あの荊の城を眠らせることが可能だ。

「わかったわ」

 レイは歌声に返事をしてオウミへの接近を試みる。レーザー砲塔からの反撃が襲う。被弾した部分の装甲が過熱する。三〇ミリ砲の掃射によって砲台を破壊し、残弾を使い切る。榴弾砲で表面装甲を破り、ワイヤーアンカーを打ち込む。内部深くまで突き刺さるアンカーの先端が、ノアリア・ネットワークの一部となった筋組織と接触する。

 追加ブースターの燃焼が終了し、切り離す。同時に、オウミは加速、わずかずつ上昇を再開する。リヴォルテラは加速するオウミに引かれる。ワイヤーが伸びきり、加速によってはがれた破片が襲った。

 ワイヤーを支えなければ、リールが機体から外れてしまいそうだ。リヴォルテラに搭載された作業用アームを展開、コクピットのレイの腕と同期させ、ワイヤーを掴む。

 アンカーはオウミとの接触回線を確立する。同時に、レイの中を通じて、オウミへと歌声が流れ始める。

(眠りなさい)

 あの日、レイが目覚めた時に聞いた子守唄と同じだった。目的もわからずにもがく意思を優しく慰めるような言葉。オウミの加速は緩まない。しかし、船体の表面で蠢いていた荊は、凍りついたように停止している。

 あれはレイと同じなのだ。何のために存在するのかがわからず、ただどこかを目指している。意味がわからないのに、孤独なままで自分という存在だけは世界に組み込まれていく。宇宙という海原でもがく姿が、レイの瞳に焼き付けられる。

 歌声はレイの胸を通り抜けてオウミへと流れ込んでいく。もう十分だろう。機体が悲鳴をあげている。ワイヤーをカットしてリヴォルテラのスロットルを最大にし、離脱する。

 再び水平線の向こうに姿を現すサツマから通信が入った。レイは言葉では答えない。声が出そうにない。オウミの位置をデータとして送信する。

 初弾はオウミの中腹に着弾した。再生機能を失ったオウミは、左側に傾き始める。変化した軌道と弾着修正情報を送信する。

 次の攻撃は、オウミの艦首に命中。内部にも深く侵徹し、破壊を及ぼす。オウミに咲き誇っていた花が散っていく。花弁は、美しくきらめく光を空に散りばめた。

「さよなら、みんな」

 オウミから白く美しい何かが飛び立ったように見えた。でもそれは、きっと幻なのだろう。レイは既にあそこから巣立ち、歩き始めている。

 力強い羽ばたきで、本当の宇宙を舞う。楓がかつて見た故郷の月が頭上にあり、暗闇の中でレイを導いている。

 滲む視界の中で、レイはオウミの最後の姿を見ていた。サツマは既に見える位置にいる。レイからの情報を必要とせず、オウミに止めを刺す事ができる。

 最後の砲撃で粉々に砕けたオウミは、眼下に広がる広大な雲海に吸い込まれ、燃え尽きていく。

 それを最後まで見届けた。レイは牽引していたオウミがくれた加速を利用して、リヴォルテラを完全に地球の引力から離脱させる。

 歌声は、もう消えていた。



■灰・五



 自己とは曖昧なものだ。

 記憶は昨日とは連続しているが、それが本当に連続しているかはわからない。認識は事実とは限らないし、考え始めると何も信じられなくなる。

 柊の記憶は管理されている。いつどんな記憶を消去されたのか、正確に知らされることはない。日常は平穏なように見えても、そうではないのかもしれない。今日の町並みはなんとなくざわついているように感じられた。

 月面都市はここの所は穏やかだったが、先日は事件があった。

 企業連合と政府による抗争があり、月面都市の下層や衛星軌道上で散発的な戦闘があったそうだ。リーク系の報道機関はつぶさに情報を集めて、二つの組織の対立図式を取り上げている。滑り出しの頃は同調してうまくやっていた黒耀星の開発も最近は問題が出てきている。ここにきて対立を深める両組織による武力紛争を予想してみせる報道機関もあった。宇宙戦艦の建造の件が背景にあるとも言われている。

 柊はそういった対立の図式は研究所の黒派・白派の抗争を隠蔽するための隠れ蓑であることを知っている。しかし、それは日常であり、柊がこの世界に生きている間はずっと続いている抗争だった。

 特別な事は何もない。柊が所属する財団は二つの大きな派閥の中間に位置し、パイプ役を勤めたり便宜を図る仕事が多い。しかし、最近は黒派と白派の抗争は激化し、間を取り持つのも困難になってきている。財団は白派寄りになりつつあり、柊が黒派に関わることはなくなっていた。

 自然、企業よりも政府の仕事が多くなる。その日も柊は政府の情報室へと向かうことになっていた。

 時間まではまだ少しある。オープンテラスの喫茶店に立ち寄り、いつもの習慣でぼんやりと往来を眺めていた。

 多くの人が闊歩している。中規模都市と同程度の人口がある月面都市の住民のほとんどが、柊とは関わりの無い人物ばかりだ。政府の情報室や政府系企業には顔を見知った仲はいるが、柊のプライベートを知るものはいない。こうしていても、柊に話しかけてくる者はいない。

 先日まで、柊は大規模なNデバイスの改修を行なっていた。拡張されたNデバイスは胸部や四肢にまで渡り、以前より強化されている。仕事が多少は楽になるだろうか。それとも、これを使った無理難題をアイは持ってくるつもりかもしれない。

 丸一ヶ月もどこにも連絡を取っていなかったが、柊宛のメッセージは二通だけだった。柊の人間関係はそんなものだ。不自由を感じることはない。

 テーブルの向かいに、誰かが腰掛ける。気付けば、他の席にも結構人が集まってきていた。少し早いが職場に向かうべきかと柊は思ったが、すぐ席を立つのも失礼な気がする。

 ちらりと向かいの人物を一瞥すると、彼女は柊を見ていた。

 心当たりは全く無いし、彼女の銀髪にも、薄灰色の瞳にも、全く見覚えはない。似たようなSロットはいるが、Sロットが街中にいるわけがない。第一、機械的なSロットたちとは表情が違う。美しい少女ではあるがどことなく幼くて、柊が興味を持つような年齢には達していない。

 消去された記憶は数多い。忘れた人物は大体はSロットだろうし、大抵の人物はもう死亡しているだろうことは予想できる。それでも、往来の中に面識のある人物がいる可能性も無いとはいえない。その可能性を考慮し、柊は慎重に尋ねた。

「あの、どこかで?」

「ええ」

 相手は、はっきり答えた。なおも、微笑を浮かべ頬杖をつきながら、向かいに座る柊を見ている。

「仕事柄多くの人に出会うから。誰かわからなくて」

 日ごろから用意している文句を思い浮かべ、柊は返す。

「ええ」

 わかっている、と、彼女は答えた。

 柊は目を丸くした。

 なにげないことのようだが、柊の忘却について知っている人物がこうして街中にいるなどというのは異常のはずだ。研究所でさえ、一部の人しか知りえない。

 目の前の少女はどう見ても一般人だ。被験者のような非人間的な印象もなければ、何らかの組織の重役のような雰囲気も感じ取れない。

 彼女は店員を呼び止め、モーニングセットを頼んでいる。それがあまりにも自然なので、本当に知り合いらしいという実感がわく。

「いいの、思い出さなくても。私は知ってるから」

 柊は困惑するが、その言葉になぜか心を救われるように感じる。

 知ってくれている人がいる。危険なことにも思えたが、目の前の人物に脅威を感じることがないのが不思議だ。

 とはいえ、意図があって近づいてきたのには違いない。一応は悪意を疑っておくべきだろう。何の用なのか。それを尋ねると一瞬彼女は考え込み、言う。

「あなたには、私が必要だから」

 約束は守ると言ったでしょう。彼女は包み込むような笑顔で答えた。

 それが、レイと柊との出会いだった。



■エピローグ



 暗い部屋に、誰かが繋がれている。

 短い銀髪で顔は隠されている。その人物を見下し、気持ちを落ち着けながら、アイは声をかける。

「起きてるんでしょう」

 脳波とNデバイスは監視されている。柊によってNデバイスを制限された彼女は、自らの意思で手足を動かす事もままならない。

 エル・イスラフェルはアイにとって憎むべき存在だ。アイの最愛の姉を殺す任務を与えられ、疑いもせずそれを達成した。それが今ついに捕らえられ、目の前にいる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……もう一度、やりなおさせてください……」

 人体実験によって意識が混濁している彼女は、昔の記憶を思い出しているようだった。目隠しされた双眸から涙が溢れている。痛ましく、気の毒にさえ思った。

 昔から彼女は苦手だった。こうして捕まえてもそれは変わらない。

 エルは過去にレン・イスラフェルを殺した。レイの母である。アイにとっても母のような存在であり、最愛の姉だった。ここにいるエルによって討ち取られ、長い間その遺体とすら再会できなかった。

 許す気持ちにはなれない。幸せだった日々を奪った直接の原因である彼女を。でも殺せなかった。彼女も被害者だとわかっている。手を下した時、エルはまだ子供だった。

 まだ取り返せる。レンの体はある場所に安置されている。ルリの研究成果や柊がいれば、再びレンに会えるのだ。

「そのためなら、力を貸してくれるでしょう?」

 アイには手駒が必要だ。エルにはまだ役に立ってもらう。

 柊の能力は暴走した。それを見て、アイは自分の開発方針が間違っていなかったことを知った。研究はあと一歩の所まで来ている。あの能力は必ず必要になる。記憶を開放すれば、必要な力を得られるということもわかった。

 柊の現実干渉性は急速に成長したが、まだ記憶容量が足りない。幽子デバイスの開発も遅れている。柊の胸からは、レイが放った幽子弾の一部が見つかった。傷ついた部分を修復しなければならない。

 残された時間は短い。柊の存在は鍵だ。見上げる地球の輝きは今は鈍く、灰色の光を放っている。

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