Noaria 3

■灰・〇



 五年前、柊はアイからある依頼を受けた。

 依頼の説明の中に幽子デバイスという言葉が登場していた。柊は開発者ではないし、Sロットの大規模な管理の役目を与えられたこともない。幽子のことはなんとなく知っていたが、幽子デバイスという言葉と概念については初耳だった。

 アイによると白派も黒派もずっと研究しているものだそうだ。その存在を感知することができても、解読や操作はできないという。しかし、現実干渉性を使えば分割することが出来るそうだ。

 アイと柊は、研究所で対立を深める白派と黒派という二つの派閥には属さない。しかし今回の研究開始に際して、アイには管理用のQロットを提供するよう打診があった。今回の件、Qロットの調達に少し問題があったらしい。

「そこに行けばいいの?」

「ううん、あなた本人が行く必要はないわ」

 アイにとって柊は唯一のQロットの手駒である。身辺から離すことはできない。依頼というのは、柊の「一部」を提供してほしいというものだった。

 柊の幽子デバイスの一部と、柊が使っている人格アシスタントである。これは今回の研究計画の一環でもある。

 その時の柊のNデバイスには、容量いっぱいに偽装人格データが作られていた。たまたま学校という特殊で閉鎖された環境に長期間潜入する任務の直後だったからだ。不自然なく振舞えるように、人工知能とも呼べるほどの巨大なプログラムを使って身分を隠していた。それをベースに、もう一人のQロットを作り出したいらしい。

「今回の件は幽子デバイスの研究に食い込めるいい機会だから、できればあなたを送り込みたくてね」

「人体実験か。いいけどさ」

 幽子デバイスは自己の本質とも言われる。黒派は一時期熱心にこれを研究していたが、その中核にいた楪世ルリは黒派を脱して、白派の方に移籍したらしい。魂の分割などというと悪魔的な儀式に思えるが、実際は何も体感できないという。

「でも、体はどうするの?」

「実は、あなたには妹がいるの」

 綺楓という名前の妹がいることは聞いたことがある。しかし、彼女は生まれた時から死んでいたはずだ。培養中の事故で成長に不具合が起き、彼女は脳死状態となって完成しなかった。本来なら捨てられる体だったが、同じ遺伝子を持つ柊のスペアとして価値があった。妹の体は冷凍保存された。今回、白派が保有していたものが返還される。柊の幽子デバイスと人格プログラムをインストールすることで、彼女はQロットとして完成する。

 眠る妹の顔を見てみた。鏡で見る自分の顔とよく似ている。幼い外見のままで、彼女が誕生に恵まれなかったことを実感させた。

 幽子デバイスの移植のために柊は全身麻酔で意識を落とした。目が覚めた時は、妹の存在も含めた計画の記憶は消去され、何も知らない日常に戻っていった。



 次に柊が目覚めた時、消去されたはずの記憶があるのに気付いた。前の任務のことを明確に覚えているなど、初めてのことだ。

 掌は小さく、体は重い。もう柊ではない。柊から分離された意識を、綺楓の体に入れた新たな存在だ。

「私は、あなた?」

 記憶の中の柊は別人に感じられた。意識の本質だと囁かれる幽子デバイスは、彼女と完全に絶たれている。ここは地球だ。自分は白派のノア社に売り飛ばされたことを記憶から知る。

 記憶こそ受け継いでいるが、楓は柊本人ではないしコピーでもない。人格も異なっている。通信を含めたあらゆる手段で彼女の存在はどこにも感じ取れないことが、余計に自分たちが別々のものであると実感させる。

 生まれるとはこんなに孤独なことなのか。心細さを感じた。

 不自由な体で呼吸をする。めいっぱいの力を込めないと起き上がれない。体は貧弱だったが、そこでの仕事には関係なかった。彼女には、その貧弱な体を補うに余りある巨大な通信網が与えられていた。

 楓に与えられた存在意義は、ノア社が創立当時から目的としてきた新世界構築プログラムの中枢となることだった。

 研究設備内のCUBEユニットの全ては楓の一部であった。常にSロットを監視することができる。小部屋に閉じ込められた楓は、その部屋から一歩も出ることなくSロットの管理を行なうことができた。

 楪世ルリに対しいくつかのアプローチを行い自主研究をさせることが与えられた仕事の一つだった。彼女は幽子デバイスの実験のためにSロットを使うことを拒否した。何らかの方法で彼女にそれを研究させることが目的だった。

 それは誰の目的なのか? 楓を供与したアイなのか、それとも白派なのか。そうではない。楓を送り込んだ者はそれとは別にいる。

 直前に柊が関わった黒派のSロットの脱走事件にはルリが関わったという形跡もある。逃げたヘンシェル系のSロットは、黒派で使用済みになり処分される予定だったものだ。

 このルリという人物は、今までに二回のSロット脱走を手助けしている。もともとは黒派で活動していたが最近は幽子デバイスの存在をちらつかせて白派に移籍し、対価として処分予定のSロットを引き取るなど、その行動の中心には常に同類のSロットへの情が見え隠れしている。

 自分だけならいくらでも自由になれたものを、と楓は思う。こういった手合いの行動は理解できない。ルリに研究をさせるのは一筋縄ではいかない。

 今回はノア社という環境を与えた。研究が遅すぎると判断される場合は意図的に危機的状況を作り出し、人体実験をしなければならないような事態に追い込むことも計画されている。

 面倒なやり口だ。しかしルリは通常のSロットとは少し違う。Qロットによる支配が及ばない特殊な存在だと聞いている。幽子デバイスを応用して、Nデバイスの完全なコントロールから逃れる術を持っているからだろうか。

 本人が望んで実験をするような環境を作ることが必要だ。その過程で楓は重要な役目を持つ。はじめの仕事は環境を作る事だ。必要なのは施設とSロットだった。

 今回使うSロットは主にヘンシェル系で、ルリが持ち込んだものが数多く含まれていた。冷凍カプセルが数十個単位でノア社の研究室に送り込まれていた。それらを開封して今回の実験に合うように記憶や技能などの再調整を行い、使える状態にすることが最初の作業だった。

 三つだけ特殊なSロットが混じっているというので、それから先に開封することにした。中でも、レイと名づけられた一つは「傷つけないように」という指示があった。この一つだけはイスラフェル系Sロットだ。

 もう二つについても他のSロットとは違い、新規培養されたヘンシェル系の双子だった。どうも大事なものらしい。大事なものならこんな場所に送ってくるべきではないと思ったが、深く考えずに楓は開封作業を行なった。直接現場に臨むわけではなく、自室の小部屋から作業を行う。ノア社の社員の何人かが現場にいるので、物理的に必要な動作は命令すればよかった。

(目覚めなさい)

 Qロットは生まれながらにして、Sロットに指示を与える存在として作られる。楓にも問題なくできた。覚醒プロセスはほとんどがグリーン状態だったが、一つだけが問題を起こしていた。

 楓は数値でしか培養室を見ていない。はっきりとわかる異常があった。片方の生命反応が消失している。培養槽が両方とも機能を停止している。

 気になった楓は、カメラに切り替えて現場を見た。そして驚愕した。培養槽が破壊され、鮮やかな赤が飛び散っていた。

 レイ・イスラフェルは無傷だ。彼女を中心に部屋の床と培養槽が抉り取られているにも関わらず、傷を負った様子がない。抉れているというより消失しているというのが近い。消失は隣の槽の中身まで及んでいる。隣にいたヘンシェル系の双子のうちの一人の体は半分ほどしか残っておらず、血液があふれ出している。

 あれは彼女の能力なのか。そうとしか考えられない。血の赤の中で、レイはきょとんとした顔をして、慄く研究員を見ている。

「なにかいけないことをしましたか?」

 レイの意識を読み取ると、そんな感情が伝わってきた。

 通常何年もかかって育てる現実干渉性を生まれてすぐ持つことも驚くべきことだ。彼女には何か仕掛けがあるのかもしれない。しかし、そんなことよりも楓が困惑したのは彼女の精神の状態だ。

 困惑は徐々に憤りに変わった。情緒も実装していない状態で送りつけられたということにだ。教育を与えなくてはならない。子供の面倒を見るなどごめんだというのに。

(いいえ)

 Sロットにはもう一度眠ってもらうしかない。このレイというSロットは重要人物らしい。

(いいえ。私たちが悪かったのよ)

 興奮しつつある彼女の心をなだめるように、Nデバイスを通じてメッセージを送る。

(眠って。次に目覚める時は、きっと大丈夫だから)

 言うと、レイは静かに眠りに落ちた。それを研究員が丁寧に回収し、新しい培養槽に戻した。

 彼女の現実干渉性には枷をはめる必要がある。それに、他人を傷つけることの重大さを教えなくてはならない。さっそく増える仕事に頭を抱えながら、楓はレイの姿を思い出す。

 ショックから立ち直って思い出してみると、彼女の姿はすごく綺麗だった気がする。

 Sロットは実験動物だ。それでも見た目は人間と変わらない。見た目で判断するなどナンセンスだが、レイの表情や仕草は、楓の心をくすぐった。

 レイの能力で死亡したSロットの一人は運が悪かったとしか言いようがない。損傷した個体は培養槽に戻して再生治療を施した。大事と言っていた割にはそれで問題ないとのことだった。

 楓はそれを横目に見ながら情緒プログラムを作った。作りながら、楓は何度もレイの姿を思い出していた。



 Sロットの覚醒は日を改めて行なわれた。そればかりに構っていられない。楓には他にも仕事がある。

 政府軍の初めての宇宙戦艦の建造が急務になっていた。そのコンピュータシステムとVR環境による試験運用環境の構築がもう一つの仕事だ。これをしないと、ノア社自体が破産する。月面企業の台頭で、ただでさえ地球の産業は危機的だ。

 普通なら何百人というスタッフを集めて行なわれる仕事をたった一人でこなさなければならない。難しくはないが、リソースを大きくとられることになる。

 宇宙戦艦オウミのネットワーク、またはその中のVR空間は「ノアリア」と名づけられていた。月面にあるという情報体、サクラメントと同様の規格の記憶蓄積体だ。その中には現実干渉性も含まれる。

 Sロットの労働力を使ってもいいということになっていた。Sロットは情緒育成のためにワークをやらせるのが一般的だ。オウミに搭載する予定の黒耀星移民技術を進めさせることが決まっていた。

 Sロットの精神状態を観察したり必要なメンテナンスを行ないながらワークを管理する。人数が多いため、豊富なネットワークリソースを利用して多重人格プログラムを利用した。本人も含め三人の楓によって、Sロットの管理は行なわれた。

 まず、Sロットとの対話とノアリアへの収集を行うため、規律<Reguration>を担当させる人格、「ルスカ」を作った。一方で、QロットとしてSロットの体調をメンテする医師<Medic>である「メイプルリーフ」も必要となった。楓本体はそれらを統合した報告を聞く。そうすれば本人はオウミの開発に集中できる。

 報告を聞く時は、それらの人格と一体化して記憶を共有する。不思議な感触だった。全ての事実が一瞬にして既知のことへと変化する。効率がいい方法で、楽しさすら感じる。

 情緒を重視して作った「ルスカ」は役に立った。学校への潜入任務で下の学年の面倒を見るために柊が作った楓の人格をベースにしているので、きめ細かい気遣いをすることができた。対する「メイプルリーフ」はSロットの数にだけ分裂するクラウド型の人格で、一つ一つが容量を節約しているためにそこまでの情緒はない。しかし、十分な判断能力を持っていた。

 Sロットの活動を見ているのは意外と面白かった。簡単な指示を与えただけで、彼女たちは独自に研究を進めていった。その中で、ルリの動向も観察できる。

 ルリは他のメンバーより年長だ。中心的な人物であり、開発の全容をコントロールしていた。幽子感知の能力を持つだけでなく、研究者としても非凡な才能を持っている。幽子デバイスというジャンルに限って言えば、彼女の成果は研究所のそれを凌駕している。

 Sロットのワークを支配できる立場にいるルリは、ワークの成果を個人的な研究に役立てている。

 植物の品種改良にも、生態ロボットの研究にも使われるものがある。それは人工筋組織だ。炭素系繊維のように強靭で自己再生能力もあるこの細いワイヤーのような材質は、植物の遺伝子を後天的に書き換えたり、生態ロボットの体を作るのに使われる。

 その実態は新種のNデバイス素子で、Cデバイスと呼ばれていた。計算能力と自己増殖能力を持つ計算装置である点が全く同じである。

 しかし、高分子素材のNデバイス素子と違い、筋繊維には計算部分が少ない。液状のNデバイスは内部のシナプス接続を自在に変更することで計算機として機能するが、よりハードな素材である筋組織にそんな柔軟性はない。

 それなのに、CデバイスはNデバイスに匹敵する計算能力を獲得しつつあった。幽子デバイス技術が応用されているに違いない。あの素子一つ一つに、ごく小規模な幽子計算装置が内蔵されているとしか考えられない。詳細はルリしか知らず、楓にもわからなかった。

 彼女は成果を出しているのだ。このまま研究をさせておく方がいい。もっと研究が進んだ段階で、彼女の能力や研究を収穫すればいい。楓はSロットを見守る仕事を続ける事にした。



 宇宙戦艦の進捗は芳しくなく、ついに大規模なスタッフ投入が決定された。人目を避けなければならないSロットの活動は、大々的には行なえなくなる。

 楓の仕事は忙しくなる。試作零番艦「オウミ」の試験を任されている。完成したら実際にあれに乗り込み、テストを行なう必要がある。

 実機でのテストに向けての作業は膨大で、Sロット割いているリソースを少し減らす必要がある。オウミは複雑で巨大なので、主人格だけで十分に制御するには不安がある。成熟し、自己判断ができる別人格のサポートが必要だ。

 「ルスカ」か「メイプルリーフ」のどちらかをオウミの開発に回す必要がある。

 悩んだが、楓は「ルスカ」を自分の補佐とした。「メイプルリーフ」はSロットのメンテナンス担当だ。Sロットのメンテを間違えれば不具合を産みかねない。精神的ケアも重要だが、必要なのは「メイプルリーフ」の方だろう。リソースにもう少し余裕があればよかったが、どちらも縮小するには惜しい存在だった。

 Sロットは今、大した活動はしていない。一般スタッフが増えたので、目に付かない場所で仕事をする事が増えたためだ。ルリの監視やメンテナンス程度なら、「メイプルリーフ」に任せておけば十分だ。

 楓は「ルスカ」と一体化し、オウミの開発に没頭した。



 VR空間で入念なテストを置いてから、実機での飛行にあたることになった。

 楓は船首部分に一室を与えられている。Sロットたちに指示を出したあの部屋をそのまま移設したものだ。天井には窓もあり、外を見ることができる。

 楓の部屋以外にもこのような観測窓はいくらか設けられていた。このオウミは実際の戦闘を行なうための艦ではなく、試験機だからだ。量産型では脆弱性となるため窓は省略される。

 こうして外を見られるのは、いわば楓の特権であった。

 発射台に垂直に艦がドッキングする。重力制御により、艦内重力は平常を保っている。実機が垂直上昇している時でも、楓の部屋の重力は変わらない。

 世界が横向きになるというのは奇妙な感覚がするものだ。重力制御は最先端の技術で、これ持つのは一部の企業だけだ。オウミは大推力の重力エンジンを四基も搭載しており、マスドライバーに頼らずに宇宙に上がるだけの推力を有する。艦体そのものも重力制御によってバランスをとっており、剛性を確保している。

 エンジンは一基でも動いていれば大気圏内飛行と大気圏離脱が可能で、専用の発射台を利用すればエンジンを使わずに宇宙に出ることさえできる。政府軍が宇宙での立場を危うくした場合でも地上でこれを建造し、迅速に宇宙に出ることができるように。そんなコンセプトで、この兵器は設計されている。

 初めての宇宙飛行ではごく少数のトラブルしか起こさなかった。VR空間で徹底的に試験を繰り返した楓にとっては当然の結果にしか思えないので特に感動はない。しかし、ノア社の社員は喜んでいる様子だった。それに楓は交わらない。楓はシステムの一部という扱いだ。

 一人になった楓がよく見ていたのは艦の外の光景だった。その美しさに、楓はいつも息を呑んでいた。

 天に見えるのは灰色の雲に包まれた地球。そして眼下に見えるのは、白く輝く月だ。

 Sロットといる「メイプルリーフ」と楓本体の間には通信制限があるために、この光景を伝える手段は何もない。楓の中の別人格「ルスカ」は、オウミの開発が始まってからもしきりにSロットの様子を気にしていた。彼女がSロットに愛情らしきものを持っていることに楓は気付いていた。「ルスカ」はノアリアへの登録のためにSロットと記憶を同期していたので、距離が近づいていくのはわかる。機械的なはずの「メイプルリーフ」の方ですら、Sロットへの愛着を見せることがある。

 楓自身にもSロットへの愛着があった。前に経験した「ルスカ」からのフィードバックは新鮮だった。大勢のSロットから好意をもたれるのは悪い気はしない。あの美しいレイ・イスラフェルも、楓のことを思ってくれているようだ。一度も触れたことがなく姿を見せたこともないのに。Sロットは健気だった。

 オウミにはノア社の社員や政府軍の関係者が乗り組んでいる。彼らが増員される前はSロットがその立場にいた。彼女たちは今、人目に触れないように幽閉されている。使わなくなった道具を引き出しにしまうかのようだ。人権のある人間と実験動物であるSロットとの立場の違いは無慈悲だった。

 人間などより、Sロットとともに試験を行いたかった。元気でいるだろうか。時々上がってくる数値報告では健在だとわかる。様子を見に行くような余裕と権限は楓にはない。実機での飛行の回数は限られている。その中でこなす試験は山ほどあった。

 次第に憂鬱にもなっていく。計画を次の段階を進めることが決定された場合、彼女たちの何人かは命を落とすだろう。考えたくないことだ。

 いっそ全てをルリに打ち明け、協力して幽子デバイスの研究を完成させてしまえばいいのではないか。そうすれば彼女たちを殺す必要は無くなる。Sロットのためなら研究所を裏切ってもいいと思えるようになっていた。

 まだ、その時ではない。楓は考えるのをやめた。まずはオウミの開発が問題だ。それすらうまくいかないようでは、その後に自分が与えられる権限も危うくなるだろう。

 Sロットは「メイプルリーフ」に任せている。今は、何の心配もない。ルリとのことは宇宙から帰ってから考えればいいことだ。



 「ルスカ」が目覚めた時、そこに楓は存在しなかった。

 最後の記憶は、一緒にオウミの実機へと搭載されたことだ。オウミの制御の一部を与えられ、空へと飛び立った。

 何度目かの宇宙飛行の後、大気圏突入の際にトラブルが起きた。損壊し、重力エンジンが停止し姿勢制御が不能になったオウミは石のように落下していった。海面に叩きつけられた衝撃で、船体がバラバラになってしまった。

 楓の体は重症を負ったが回収された。しかし、体も脳も破壊されていた。意味のある動作ができたのは傷ついた楓の肉体に残ったNデバイスの中の「ルスカ」だけで、楓の主人格は失われていた。

 不具合は人為的ミスということで片付けられたが、オウミ級の開発は中断されることになる。納期は迫っているのに、オウミは飛行できないほどに傷ついていた。開発は更に加速しなければならなくなった。

 「ルスカ」の人格は一度解体され、そのためだけに作り変えられた。

 地下ドックで全長一キロメートルもの巨大なオウミが修復された。そのために、現実干渉性とルスカの処理能力が費やされた。データや機器は積み替えられ、すぐにでもテストが可能な状態になった。一隻の宇宙戦艦を失うというトラブルは、これで帳消しとされた。

 一方で、この計算で楓の主人格の再生は絶望的となった。大規模計算のために脳の多くをNデバイスに提供し、二度と目覚めることはなくなった。Qロットとしての能力だけを残し、楓は死んだのだ。

 楓の体は計算機の一つとしてオウミに搭載された。また同じような事故が起きても、この船体を再生させるためのパーツとして。

 肉体はもう必要ない。Nデバイスと脳のごく一部だけが残され、小箱のような端末となり、船首の部屋に置かれることになった。

 もう空を見上げることはない。Sロットに触れる事も永遠になくなった。

 「ルスカ」は、別のネットワーク上にいる「メイプルリーフ」のことを考えていた。今、彼女はSロットの開発を担当しているはずだ。

 主体となっていた楓本体を失った擬似人格同士は接点を得ることが困難になっていた。唯一共用していたVR空間上に用意された楓のモデルはあったが、一度にどちらかしか利用できないため、出会うことは絶対にない。

 権限の問題もある。もともと二人はお互いの干渉を避けるために、楓本人を通してしか直接やりとりができないようになっている。同じシステム上にいてもお互いの情報はマスクされていて、どちらがどちらと認識することは困難だ。VR空間に残された痕跡を見ることで、それを知るしかない。

 オウミの試験飛行はそれから二回行なわれ、全ての試験が終了した。

 オウミ級の二番艦以降は宇宙で建造される。地上でのテストは終了したのだ。お役御免となったオウミは、新しい研究所となった。オウミはノア社が引き取ることになり、Sロットはようやく「ルスカ」の目の届く所に戻ってきた。

 オウミの本体は、全ての試験を終えたら用済みになる。巨大なので研究施設としての利用価値がある。研究所に譲渡され、地上研究所にすることが計画されていた。ルリに幽子デバイスの開発させるために、オウミという閉鎖空間が必要だ。

 楓の主人格はこれから行なわれる計画は望んでいなかったはずだ。しかし、オウミを制御維持するだけの存在になってしまった「ルスカ」には、どうしようもないことだ。目の前にSロットがいるのに、もう声をかけることも簡単ではなくなった。どんな風に声をかけていたのかも思い出せなかった。

 Sロットがオウミに活動場所を写したことで、当然「メイプルリーフ」もオウミに搭載されることになった。しかし、システム的にお互いを感知することはできない。主人格がなければ彼女とは相変わらず接点を作れず、お互いの領分にも干渉できない。二人が唯一共通で使用できるのはVR空間だ。しかし、VR空間には楓用のアバターが一つしか用意されていない。その使用権を奪い合う関係上、VRで二人が出会うことが絶対にない。そもそも、「メイプルリーフ」が「ルスカ」の存在を認知しているかどうかすら定かではなかった。

 次第に、諦めへと変わった。彼女に任せれば大丈夫。だってそうするしかない。主人がなければ何もできないのだから。

 「メイプルリーフ」はどうしているのだろうか。そればかりを考えていた。やがて、数値上のSロットの生命反応が次々と消え始めるまで、「ルスカ」は目を閉ざし続けていた。



■灰・三



 夢を見た。

 それは夢ではなく記憶かもしれなかったが、眠りの中では現実感が希薄だった。

 Nデバイスに組んだアシスタントの自動探査の報告が上がってきた。柊は起き上がる。自分が組んだはずのアシスタントに、何か余計な編集が加えられている気がする。

 機械的だったはずのプログラムに、たくさんのジャンク情報が付属している。それが有機的に影響しあい、何かの意思となって柊に訴えかける。

 誰かが呼んでいる。

 隣ではレイが眠っている。柊は寝台から起き上がり、廊下へと出た。導かれるように歩き回る。眠っている間にNデバイスにアクセスがあった。何十ものセキュリティを全て素通りして。まるで自分自身のNデバイスを操るように、オウミは柊の中に入り込んでくる。

 いや、柊がオウミの内部に入り込んでいるのだ。オウミ内の研究施設を回るうちにデータベースを探り、この場所の真相を知りつつあった。

 オウミのシステムは、柊を受け入れた。ただQロットだからというだけでなく、不思議と柊と同調する。ここで行なわれていた研究が、柊には感知できるようになっていた。

「ヒイラギ! どこだ!?」

 遠くで声がする。あれは、放置してかまわない。放置することしかできない。

「どうしたんだよ!」

 レイが心配している。手を伸ばしても、決して触れられない存在が。

「……」

 手には感触があった。握り返すレイの手は震えている。

「どうしたんだよ、急に……」

 今の体は柊なのだということが思い出される。ようやく獲得した肉体だ。

「ごめん、ちょっと寝ぼけてて」

「なんだよそれは。私から離れるな」

 レイは怯えていた。

 時間を見ると、睡眠時間は十分らしかった。

 ならば動かなければならない。外部への連絡が必要とされている。丸一日も連絡しなかったので、きっとアイは心配している。



 柊は、アシスタント人格を作ってずっとオウミのシステムを探っている。それによれば、現状判明した情報の中に一つだけドアロックを解除する方法がある。

 それは、この艦の中のVR環境だ。そこから仮想空間上のオウミの内部を移動して、ドアのロックを解除するという方法だ。

 このオウミは、様々な環境化で宇宙戦艦のテストをするための試験艦だ。仮想空間上にオウミを置いて、実際に受ける環境からの影響を検証するためのVRプログラムがインストールされている。

 あの悪夢を見せていたというVRだ。あのVRは今も機能し、艦のシステムとリンクしている。

 VRはNデバイスを通じて体感する、限りなく現実に近い仮想現実だ。しかも、ここのものは出来る限り実際の運用状況に近くなるように厳密なルールを持ったVR空間になっている。ドアロックなどは実機とリンクしており、仮想空間でドアロックを解除すれば実機のドアロックも解除されるようになっているらしい。

 本来は他のシステムもあったと思われるが、今機能しているのはこのシステムだけらしかった。これは使えるかもしれない。

「いいのか。あんまり気持ちのいい場所じゃないけど」

 運用環境試験のためのリアルシミュレーター。感覚はリアルで、失敗すれば怖い目に遭うとレイは言う。しかも今は暴走気味であり、まともな状態でもない。

 Sロットであるレイには自由使用権はない。しかし、このシステムの管理権限のある柊にはある程度までの設定変更や管理者権限での安全利用が可能である。

 危険というが、それは胸にNデバイスを搭載するSロットだからだろう。胸へNデバイスを施術するのは、自律神経に影響を与えるので危険とされている。現実に近いVRの場合、過剰なフィードバックにより循環器系や自律神経に危険が及ぶことがある。

「白いのには気をつけろ」

「白いの?」

「そういうのがいるんだ」

 危険なプログラムもいるらしい。だが、柊ならVRでどんな目にあったとしても危険はない。QロットのNデバイスは頚椎の近くにあり、厳重に神経と分離されている。高所から落下したりすればアバターが破損し不自由になるかもしれないが、生命の危険はないだろう。VR空間に入るのに特別な機材は必要ない。寝台に横たわり、ただソフトを起動するだけだ。心配そうにレイが見ている。柊は、目的の空間に自分の意識を接続し始める。



 目が覚めると、柊は浜辺のような場所にいた。

 ような、というのは、はっきりとしない見た目だからだ。仮想空間の描画は完全ではなく、いかにもコンピューターグラフィックスといった景観しかない。管理者権限でのダイヴ専用のアバターがあてがわれている。柊のバイオメトリクスとは何の関係もない。身長が小さくなっているらしく、奇妙な感覚がする。あまり自由の利く体ではないようだ。

 物理法則は無視できないが、一部の情報にオーバーライドを行なえば移動くらいは調整がきく。オウミの3Dモデルは水中にある。位置そのものを書き換えるのは構造物にめり込む危険があるため、水の上を歩き、その場所を目指すことにする。

 外側から見たオウミは巨大だった。水中で一度目にしている柊は、改めて自分がいる場所の途方もなさを実感する。

 ブリッジに入る前、もう一度浜辺を見た。誰かが走っているように見える。遠くの森のような場所には、白い鳥のようなものが飛んでいる。

 この船にいる誰かがVRを利用しているのか、それとも何かの記録なのか。しかし、今は関係ない。柊はそれらを無視して、オウミの内部に侵入した。

 ここから、現実のオウミのシステムをいくらか操作できるはずだ。隣のブロックへのロックを解除することができるかどうか試さなければならない。

 進入したオウミの中は、外の雑さに比べると細かく作ってあった。もしかすると実機の監視カメラからのリアルタイム映像かもしれないと思う精細さだ。

 これだけ巨大な軍艦になると、スタッフが内部を歩き回るのが大変なことがある。管理や見回り、破損箇所を調べるためにVRを利用するのは理に叶っている。宇宙空間では様々なトラブルが考えられる。もし空気漏れが起きて進入できない区画が出てきた場合も、安全かつ正確にその場所を調べるのに役立つだろう。そういった場合に備え、隔壁を操作する端末をVR上で動かせば実機でも動くようになっている。

 目的の場所に侵入する。内側から設定を変え、必要な隔壁を開閉可能状態にすればいい。

「いらっしゃい」

 柊を出迎える者がいた。それは、柊に似た、もっと幼い少女だった。

 違う。そこには誰もいない。ドアの窓ガラスに自分が映っているだけだ。誰かがいるのは自分の中だ。アシスタントが集めてきたあのジャンク情報。

「わたしは、あなた」

 もうわかっている。ここに立ち入った時から感じていた一体感。目の前のそれは、VR上に存在する人工知能に過ぎない。しかし、それははるか昔に柊から別れたものだ。



 VRへのダイヴは終了した。目的の隔壁のロックを解除することに成功した。

 次のブロックは居住ブロックだ。ノア社による改造を受けたブロックを抜け、ようやく正規のブロックに入るわけだ。先端の武装ブロックを制御するためのブリッジもあり、そこになら政府軍との通信が可能な機材がある。遠回りしたが、なんとか隣のブロックにたどりつくことができる。

 ブリッジには何かある。柊の脳裏にちらつく記憶。通信などより、もっと大事なもの。それこそを目的とすべきものが。

 自分自身が訴えかけているのだ。何故、ここに送られたのか。それは、回収のためだ。

 何を? 自分自身の一部を。かつて切り離した自分の体を。それを取り戻すために、ここに送られた。

 私を拾って。

 私を取り戻して。

 私が私と融合し、私が私になる。

 ここのシステムは柊を受け入れる。柊がここのシステムを受け入れ、一体化する。この場所そのものが柊だ。柊から分かれて成長したものだ。

 目的は、もうわかっていた。もう、全てが自分のことのように思い出せるからだ。

 何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。何もできなかった。

 この体さえあればできたのに。でも、もう遅すぎる。

『報告を聞きましょう』

 無事繋がったアイとの通信は、Nデバイス上の音声通信で行なう。その通信内容は、レイにも開示する。

「五年ぶりね。正確には、私は本人じゃないけれど」

 柊は答える。

 いや、柊ではない。このオウミの管理システムの一つである楓のアシスタントの一つが、今は表層を担当する。

 最後までこの牢獄に繋ぎとめられ続けた、楓の人格の一つである。

 楓の一部である彼女は、柊の新型Nデバイス内に居場所を得た。ここに来る前に柊のNデバイスを更新したのは、その容量を受け止めるためだったのだ。

 今の彼女の中には、ついに完成した楪世ルリの研究成果の全てがある。ノアリアで起きた全記録を収めたものだ。楓の遺体から取り出されたNデバイスの中に何もかもがある。それを持ち帰ることが、柊という肉体に与えられた役目だったのだ。最初から、それだけを目的に送り込まれた。

 ようやく出られる。忌まわしいこの監獄から。体を獲得してそれを実感していた。

『そこに、アレもいるの?』

「ええ」

 レイはすぐ近くにいる。

『回収して』

 ブリッジに入るには柊の体がどうしても必要だった。アイはそれを都合してくれた。

 研究成果を奪取するのがアイの目的だ。レイの存在はアイにとってはおまけだったが、収穫であった。

「お前……カエデなのか」

 今更彼女が気付いている。だが、もう遅い。

 柊という上位のQロットと融合した今、レイを止めるのは簡単だ。胸のNデバイスにアクセスし、新型の強力な処理能力で暴力的にシステムを掌握する。

 歌声をレイに流し込むと、耐え切れず彼女は膝を付く。胸に流れ込む異物がレイの中を蹂躙し、支配する。

 これで、あの危険な力は使えない。

「――――!」

 何か言っている。でも関係ない。これでようやくこの艦からも立ち去れる。

 擬似人格は主人がいなければ自殺もできない。そのくせ、人格の不要部分まで丸ごとコピーしただけのプログラムだ。本人の意図と乖離しないために与えられた情報が余分すぎる。

 レイは、睨みつけるでもなくただじっと見つめていた。絶望だろうか、諦観だろうか。抵抗は無意味だと知っているのだろう。Nデバイスを封じられた彼女など、何の脅威でもない。

 手の中で気絶させるのも簡単だ。そっと抱き上げ、眠るようにぐったりしたレイを近くの椅子に座らせる。簡単に持ち上げられた。柊の体はなかなか優秀だ。強化兵士というだけあって、不自由な所がない。

 オウミは勝手に動き出し、航行を始めていた。これは楓の意志とは関係ない。だが問題はないだろう。回収物は船首部分にある。すぐ近くだ。それを回収し、あとは帰還するだけだ。

 これがうまくいくと、アイは研究成果の全てを白派から奪い取ることになる。そんなことはどうでもよかったが、月に帰ったらごほうびを貰わなければならない。

 楓の目的は一つだけ。一刻も早く、この牢獄のような世界から解き放たれること。

 つまり、消滅することであった。



■白・三



 体が痛い。

 固い床で目覚め、ぼんやりと風景が見える。

 床に密着した耳からは、低い振動音が聞こえる。

 激しい頭痛と朦朧とする意識で、指先を動かす事すら億劫だ。

「(なんで……?)」

 自分は確かに、楓を抱いて同じ寝台で眠りについたはず。視界が少しだけはっきりしてくる。狭い廊下に、割れたバイザーが転がっている。

 あれは、とっくに捨てたはず。はじめに地下空間に入ってきた時に、あの場に置いてきたではないか。

 そう、自分はあの時落下したのだ。生きているのが奇跡、そんな状態だった。もしエアバッグが作動していなかったら即死だった。

 本当は全てが夢で、自分は今まさに死のうとしているのか?振動は激しくなる。これは重力エンジンの振動だ。ここは移動する船の中だ。少しずつ、上昇している。

 体から命が感じられない。その恐怖に、レイは再び意識を奪われる。

 そして、再生する。ゆっくりと瞼を開くと、今度こそ目覚めた。目の前に、寝転がる楓の姿がある。

「……お別れの時のようだわ」

 目覚めると、世界全体が揺れていた。

 微細な振動を感じる。まるで、世界自体が揺れているようだ。

「ねえ、夢じゃないって言って」

 楓は、何も言わない。声の変わりに、歌声が聞こえる。

(夢じゃない/これは夢。ずっと一緒にいましょう/私たちは、一緒にはいられない)

 異なる二つの意識が、レイの頭に響いた。

「一緒にはいられない」

 意識は一つに統一される。それが楓の答えだった。

 世界の振動は、レイの本当の体が振動を感じている影響だ。オウミが動き始めているのだ。

 VRに迷い込んだのは昏倒が原因だ。いいや、昏倒の隙を狙って無理矢理に引き込まれた。目覚めさえすれば、この場所に縛られることはない。

 そうだったのだ。あの時、縦穴で襲撃を受け落下して一命を取り留めたレイは、そのまま昏倒していた。

 地下空間ではない。あの縦穴は、宇宙戦艦オウミへと続く桟橋だった。船の中に落下して気を失ったまま、内部のVR環境に取り込まれ、夢を見ていた。

 オウミの内部は、眠ればVRに誘われる設定になっている。それは、未完成のSロットであるレイにとっても同じことだった。

 目覚めて徘徊すればレイは死んだかもしれない。眠ったままでいてもらうことが、楓の目的だった。その間に、アーマースーツはレイの蘇生処置を行なっていた。そしてレイの体は一命をとりとめ、目覚めようとしている。

「どっちにしてももう時間切れ。ほら」

 楓を構成するデータの一部が損失している。もっと上位の管理権限を持った誰かが現れ、楓が使うアバターを奪い取ろうとしている。少しずつアクセス権を失っている。研究所からの出迎えが来たのだ。楓は持ち去られようとしている。

 アバターとはもう接触もできない。レイの手は楓をすりぬける。たとえVR上の感触だとしても、レイにとっては寂しく感じられた。

「一緒に帰ろう」

 それがどんな存在であっても関係がない。価値を選ぶのは自分自身だ。レイの育ての親もAIだ。それに比べれば、楓はずっと可愛げがある。

 このAIが人そのものではなくても、人の思いによって作られた道具であり、人の一部に間違いないのだ。楓という人物はAIにもそんな望みを持つように設計した。抽象的な目的意識を与える事で、本人格が望む道を外れる事を防ごうとしたのだろう。

「教えて。私があなたを取り戻すから」

 レイのその言葉を聞き、楓は悲しそうに微笑んだ。嬉しいけど、その願いは叶わない。そう言っているかのようだ。

「私の望み、聞いてくれる?」

 そして、レイに向き直って言う。

 楓は一人で生きていける。特にここでは、彼女は万能な存在だ。だから、他人に頼ったことはなかった。しかし、たった一つのことだけはできない。決して他人に望んではいけない、負担を強いる願い。今まで誰にも頼めなかったことだ。

「私は眠りたい。だから、あなたの手で死なせて」

 それは自己の消滅だ。アシスタントは自分で消える事はできない。スイッチを入れる人間がいる限り、活動を停止することは許されない。

 だからレイの力が欲しかった。消え入りつつある声で楓は言った。比類なきレイの力があれば、このオウミごと楓を葬ることができるかもしれない。

(行って)

 残るのはかすかな歌声だけ。その歌声の中で、楓はレイに関する真実を伝えていた。レイ・レシャルはもともとの「レイ」の複製で、予備のようなものだ。楓が誰かの複製であるのと同様に。

 楓が消滅してもVR空間はまだ続いている。楓がいた所に何か落ちている。鍵だった。潮風で錆付いた鍵。

 拾い上げると、鍵は確かな存在感を持っている。これはVR空間には必ず用意されているものだ。説明されなくても、使い道はわかる。

 それは、別れを意味している。

 楓の歌声は消えてしまった。もうどこにもいない。物理的に持ち去られてしまったのだろう。レイは施設の外に出た。

 白い竜が悠然と空を飛んでいた。

 描画機能が低下し、暗い灰色の世界になったVR空間。そこを、まぶしいほどに白い翼が飛んでいる。レイがこの世界に違和感を感じたのは、あれが切欠だった。

 かすかに疑問に感じたのだ。たとえ現実干渉性とはいえ、考える脳まで失って体を再生できるものなのかと。白い竜はレイを無視している。レイは走り、南の施設に到達する。すぐにたどり着けてしまう。歩くのが得意ではなかった楓と一緒に歩いてきた浜辺を、一人で簡単に横断した。一人では、こんなにもこの世界は狭い。

 古めかしい鍵。一つだけあった木製の扉。鍵は、鍵穴にピタリと一致した。これは非常脱出プログラムだ。VR空間から強制的に目覚める事ができるように、最後の脱出手段として残されていたものだ。



 目が覚めたレイは、いかなる苦痛にも襲われなかった。

 壊れたバイザーが転がっている。それを拾うと、現実に帰ってきたことを実感する。Nデバイスの記録を見ると安全な覚醒を導いた記録があった。アーマースーツの生命保護機能も外部から作動させられている。ナノマシン治療剤が投与され、傷ついたレイの体は時間をかけて治療されていた。

 ここは宇宙戦艦オウミの中だ。間違いない。

 楓は死なせてほしいといった。今のレイならこのオウミを消滅破壊し、それを成し遂げられるだろう。

 胸のNデバイスは機能し成長している。それだけは現実でも同じだった。あの空間はもともと現実干渉性を含めたあらゆる現実を可能な限り厳密にシミュレートするための仮想空間であり、あそこで得た干渉性は現実でも使う事ができるのだ。

 楓からの贈り物か、床に見覚えのない短機関銃が転がっていた。レイが捨てたものとは少し形が違っている。おそらく、楓が物質生成の現実干渉性によって生み出したものだ。

 この銃は、楓の明確な願いだ。レイはそれを拾い上げる。

 艦内は傾きが感じられる。振動だけでなく、加速度を感じる。浮上している最中のようだ。上部ハッチのそばに窓があった。分厚い高分子製の透明な窓の外には、青空が見える。

 オウミは既に飛行に入っていた。重力エンジンによって加速し、このまま月を目指すつもりらしい。上部ハッチに取り付き、緊急開放する。爆破されてハッチは吹き飛び、潮風が吹き込む。それをくぐり外に出たレイに、すぐさま通信が入る。

「サクラ?」

『はい、レイ。上空にいます』

 白百合が舞い降りる。乗り捨ててきたピストレーゼは、大気圏を離脱しようと加速するオウミに追いついてきていた。自身も強力な重力エンジンを有しているから可能なことだ。

 レイを回収し、ピストレーゼはハッチを閉める。宇宙艦オウミが遠ざかる。その窓に人影が見えた。

 誰かと目が合った。VR空間内で見た楓の姿によく似ている。しかし、十年ほど成長した姿に見えた。

 一瞬、灰色の瞳がピストレーゼを見据えていた。旋回するピストレーゼからは、すぐに見えなくなってしまう。

 出迎えがあると楓は言っていた。あれが、楓を持ち去った人だろうか。近い遺伝子を持つQロットなのかもしれない。もし楓が生長していればあんな美しい姿になっていたのか。美しい女性だった。息を呑んでいたレイは、その傍らにもう一人の姿が隠れていた事には気付かない。

『おかえりなさい、レイ。このままでは危険です。離脱してください』

「いいえ、あれを落とすわ!」

 楓の望みを思い出す。オウミの外殻は簡単には破壊できない。しかし、レイならできる。

 武器は楓からもらった短機関銃だけだ。ピストレーゼのコクピットは市街地戦闘を想定し、外部に武器を露出させるための銃眼が設けられている。そこから銃口を出せば射撃は可能である。

 レイには消滅の干渉力がある。これ以上楓を苦しめる前に、あれを沈めたい。

『本気ですね』

「操縦はあなたがやって」

『了解』

 猛加速をかけるピストレーゼ。出力比で上回るピストレーゼは、オウミを追い越して宇宙空間に出る。

 そこから反転する。四メートルのピストレーゼと一キロメートルのオウミ級が向かい合う。サイズの比率が冗談のようだ。潜水パッケージを分離したオウミは、無駄がなく美しかった。

 銃眼のハッチを開くと空気が抜ける。気圧の低下に備え、レイは、あらかじめアーマースーツのバイザーを下ろしている。

 ブリッジ付近、先ほどの人物が見えたあたりに照準をした。

「……」

 しかし、トリガーを引くことはできない。

『トラブルですか?』

「いいえ……」

 ロールして、巨大なオウミを回避する。オウミの対空砲が作動し、ピストレーゼに向け発砲。レイは自動操縦に介入し、降下、加速しつつそれを回避。曳光弾の軌跡がすぐ近くをかすめた。高度を失う。

「後方からエンジンを狙うわ」

『わかりました。再上昇します』

 今度は後ろから接近する。対空機銃の回避をサクラに任せ、レイは再び射撃に集中する。短機関銃の射程は短い。すぐ近くまで接近しなければならない。エンジンの真後ろにつけるのも危険だ。バレルロール機動で重力場を避けつつ狙いを定め、エンジンに接近していく。

 まず接触している指に意識を集中。次に、その先のトリガー、そこから内部へ。そこにある、弾丸を意識する。楓の作ったこの銃の構造を、レイは感知する。質量と構造。弾薬を自分の一部として感じ、引き金をひく。

 体の一部が飛翔するような感覚がある。それと同時に、自分の中から力を解放する。

 小さな弾丸が着弾すると、その弾丸に不似合いにオウミのエンジンブロックが大きく抉れ損傷する。

 続けて数発が命中。胸が熱く感じる。まだ干渉性の扱いには慣れていない。胸のNデバイスが過剰な処理でオーバーヒートし、激痛を走らせているのだ。

 楓を回収しなければとレイは思ったが、一歩遅かった。落下するオウミから何かが射出された。後部甲板から搭載機のVTOL機が飛び立ったようだ。

 追いかけることはできない。VTOL機を迎えるために艦隊が接近しつつあった。

 いくらピストレーゼとはいえど、電磁加速砲を搭載した戦艦に太刀打ちできるわけがない。航空母艦の時代を終わらせたあの精密長距離射撃に捕捉されれば、逃げるのが精一杯だろう。

 VTOL機から、弱い電波が発されている。

『月面都市の最下層から、別の大空洞へ。そこに、あなたの――』

 楓の声だった。通信はすぐ途切れた。

 大空洞と楓は言った。レイが知っている大空洞の他に、月面都市にも大空洞があるのだろうか。途切れ途切れの言葉からは、そのように読み取れる。楓はそこに運び込まれるということか。

 ピストレーゼは燃料不足だった。一度ガレージに戻って補給をしなければ、宇宙へ戻ることはできない。





 戦艦サツマに降り立った時、出迎えた艦長が柊に違和感を感じている様子はなかった。

 オウミを追ってきた艦隊を発見した時は安堵したものだ。脱出したVTOL機から救難信号を発し、回収してもらった。

 しかし、その安堵は柊のものではない。柊を操る存在の感情だ。

 外見上は完璧に柊として振舞う事ができている。生存者らしい一人の少女を連れていること以外、サツマを出た時と何も変わらない。それもそのはずだ。楓は、柊の本物の人格に動作を任せ、自分は潜伏しているのだ。

 アシスタントが本人を仮面の代わりにするというのも奇妙だが、日ごろの柊も記憶の改竄を日常的に受けることを前提にした暮らしをしている。そのような運用方法に対して、柊の人格は適合していた。

「ご苦労様でした」

 出迎える艦長の顔色は、心なしか柔らかくなっている。腕に抱えてきたレイを見て「生存者ですか?」と気にしている。医務室への移送は拒否したが、艦長は事情を察して重ねて質問をしてくることはない。

 彼女もよく理解しているのだろう。柊の任務は軍よりも上の意向の元にある。

 すぐに月に戻らなければならない。柊の口から、艦長への依頼が話される。一刻も早い帰還を望んでいると伝えた。サツマにはそのための力がある。楓はこの艦のことも知っている。柊の知識を参照した。

 このサツマには、緊急時に人を宇宙に送り出すためのカプセルがある。電磁加速砲に人間を搭載するという正気を疑うような方法だ。

 重力制御によって人体に害がない程度まで軽減するとはいえ、かなりきつい加速度がかかる。だが、レイ・イスラフェルは身体的には特に怪我を抱えているということはない。問題はないだろう。

 カプセルは二人用だ。回収した楓の本体ユニットを持つと重量的にはぎりぎりだが、制限重量の範囲内に収まる。

「食事をする暇もありませんでしたね。もう少し個人的にお話をしたかったのですが」

 艦長は少し惜しそうにしている。柊の人格は彼女との別れを惜しんでいたが、楓にとってはどうでもいい相手だ。

「きっとまた、機会があるでしょう」

 根拠なく、楓は柊にそんなことを喋らせる。早くカプセルに乗り込みたかった。

 連絡はすぐ行なわれ、衛星軌道上にはもうカプセルを受け取る政府軍の輸送船が待機している。狭いカプセルに乗り込み、耐Gシステムの入念なチェックを行なう。

 最大で一〇〇センチ径の砲弾を装填できる二連装電磁加速砲上下二段のうちの一つへと装填され、迎え角を九〇度へ。カウントダウンが始まる。

 カウントダウンがゼロになり、瞬間的に強いGが体にかかる。かつて砲弾に乗って月に行くという小説があったそうだが、それは不可能だと以前は言われていた。それほどの猛烈な加速には人体が耐えられないからだ。重力制御によるG軽減がなければ、今頃二人とも死んでいる。後の宇宙ロケットでは、段階的に加速していくことで負担を分散させて宇宙に出なければならなかった。

 砲弾の加速は最初だけだ。最高速に達すればあとは減速するだけで、すぐGは弱くなり、体は楽になる。外は全く見えないが、Nデバイスに与えられる情報で現在の状態がわかる。

 密着した向かい側には、レイ・イスラフェルがいる。楓が柊の権限を使って送り込んだコードがまだ有効で、彼女は決して目覚めない。



 レイ・イスラフェルと柊は輸送船に拾われ月に向かう。レイにとっては初めての月だった。

「どうなるんだ、お前」

 レイが柊に語りかける。行きとは違い個室を与えられた柊は、その頃には体を返上されていた。しかし、その記憶は改竄されている。レイと出会い過ごした記憶は楓が消去した。

 ノア社で事件が起こったとわかった段階で、アイはそこから持ち出せるものを出来る限り持ち出そうとした。柊の中にメッセージを潜ませて送り込むことで、楓があの中で自由に行動できるように体を与えたのだ。今、楓は眠っている。月までの道のりは長い。彼女にも疲労はあるらしく、柊の記憶を改竄してすぐ眠りについてしまった。

 彼女は今、柊の神経ネットワークに用意された、新型デバイスによる膨大なリソースの中にいる。限定的に楓の方が上位の存在である今、柊は楓の存在すら認識できない。

「本当にあたしがわからないのか……?」

 レイは状況がわかっていた。逃げるつもりはない。自分のことは考えていない。柊を放っておきたくないと思っていた。

 どう話せばいいかわからない。話によれば柊はこうして記憶を書き換えられることに慣れている。何か話した所で、受け流されてしまうに違いない。

 柊は救いを求めない。どう救いを求めていいのかもわからないのだ。自分が何に困っているのか、何に捕らわれているのかも知らない。

 そっと柊に手を伸ばし、頬に触れる。拒まれはしないが、柊は困惑している。しかし、今の状況を理解しているようでもいた。編集された記憶があり、この状況はその齟齬なのだと受け入れている。そういう事に慣れた人間の反応として当然だが、拒絶しないのは柊の優しさだと思った。

 レイはポケットに入っている銃弾のことを思い出す。ルリが作ったという幽子弾だ。

 これを使えば、柊の消えた記憶と接続できるかもしれない。レイが忘れていた記憶を思い出した時のように。





 柊も楓も知ることのなかった事実がある。

 沈没した「オウミ」を探索していた巡洋艦からの報告だった。それを聞いた艦長は、自分の耳を疑った。しかし、提示されたソナーの情報を見ては、信じないわけにはいかなかった。

「オウミが、再び航行を始めている……?」

「そうとしか見えませんね」

 副長と顔を見合わせる艦長。彼女たちは、確かにオウミのエンジン部分が破壊されたのを確認している。

 柊を送り出したばかりだというのに、何かが起きようとしている。

「どこへ向かうつもり……?」

 深海を通って向かう先。南に向かっている。赤道近くにある秘密発射台のことが脳裏をよぎる。

 オウミのエンジンは失われているはずだ。発射台の電磁射出装置を使って初期加速を得たとしても、せいぜい衛星軌道上に出ることくらいしかできない。

 しかし、それならばエンジンが失われたオウミがなぜ今も航行できているのか。それを考えれば、放置するのは危険に思えて仕方がない。嫌な予感がする。

「依頼主にすぐ確認をとってください」

「何の確認ですか?」

 オウミを沈めるかどうか。それを早急に確認しなければならなかった。

 戦艦サツマの追跡任務は、まだ終わってはいない。



■白・四



 楓を迎えに行かなければならない。彼女には誰かが必要なのだ。

 レイが求める救いの形を押し付けることはできない。でも、幸福の形を示しながら、共に歩むことはできる。そんな相手すらいないから、道を見つける標もない。

 月面への航行の間、レイは眠り続けた。月面都市はいつも通りだった。地球での経験が大きかったレイには、長い間留守にしていたような感覚がある。

 遊んでいる暇はない。レイは、どこにも寄らずに自宅に戻る。

 新しいアーマースーツに着替え、武器を用意する。拳銃の他、楓が与えた短機関銃を三本目の腕に装着する。新開発のレーザーブラスターも持っていくことにした。警備用の武器で殺傷能力は低いが、掌に収まる小ささと、光速攻撃による不可避性が特徴だ。

 目的地はノア社の支社だ。一般には公開されていない月面都市の地下構造にそれはある。古い資料からその構造を推定し三次元マップを組み立てる。不可解な長いトンネルらしき設計資料が見つかった。

 図面では行き止まりになっているが、大空洞に通じるとすればここしか考えられない。月面の裏の広大な大空洞よりも規模は小さいはずだが、それでも広大な空間が予想される。

 空気はあるかもしれないが、おそらく薄い。生身での進入には危険が付きまとう。それ以外にも、どんな危険があるのか未知数だ。

「サクラ? いる?」

 ピストレーゼを発進させるよう、サクラに指示を出そうとした。しかし返答はない。サクラはレイが物心ついてから一度も返事を返さなかったことがない。違和感を感じる。

 その瞬間、轟音が響いた。

 ほんの少し反応が遅れればレイはバラバラになっていただろう。ピストレーゼの機銃掃射だ。間違いなくレイを狙って放たれたものだ。

「サクラ!?」

『申し訳ありません、レイ。あなたには死んでいただかなくてはいけません』

「なんですって……?」

『あなたたちは、二人とも本物のレイです。片方がいればいいのです。私の目的はあなたを生かすことです。もう一人のあなたを生かすのに、あなたの存在は邪魔になると判断しました』

 なおピストレーゼの機銃掃射は続く。彼女の言うことを必死で理解しようとしたが、レイには何もわからない。

「どういうことか、説明はあるんでしょうね」

『お望みならば、もっと詳しく説明いたしましょう』

 機械であるサクラは、レイの求めに応じて説明を始める。

 ノア社が担っていた役目は二つあった。一つは現実干渉性を使って小さな新世界を築くこと。もう一つは、その世界を今の世界と分離する方法を開発することだ。

 この世界は崩壊しようとしている。そこから離脱するためには、現実を分割する力が必要だった。それには、「消滅」の能力が必要だった。それをルリの幽子的アプローチと組み合わせれば、ノアリアをこの世界から分離できる予定だった。

『コンピュータープログラムとしての私には決して破れないルールに、“あなたを守る”というものがあります。だから、命の危険のある実験にあなたを投入することはできませんでした。だから、あなたを二つに分割したのです』

 ノアリアには消滅の能力が必要だったが、よりによって保護対象に設定されているレイにそれが生まれてしまったのだ。そこで、レイの意識は分断され利用されていた。どちらかが生き残れば命令に逆らわずに住む。逆に言えば、二人も存在させておく必要はない。

『現実干渉性の面で優秀なのは“あちらの”レイです。Sロットとして扱いやすいのも。あなたの役目は終わりました。さようならレイ。あなたを失うことは残念ですが』

 片方が別の勢力の手に渡れば、どんな悪用をされるかわからない。だからいらない方は破棄する。そう育ての親に言い放たれ、レイは愕然とした。かつての愛機がレイを狙っている。

 昨日までのレイなら絶望し、死を受け入れていたかもしれない。しかし、まだ果たしていない約束がある。

「あなたは、一体何なの?」

 R社の管理プログラム。ただそれだけではあるまい。目的はレイを守る事といった。しかし、その知識や行動は明らかに研究所のものだ。

『私は研究所の現実干渉性データベースでもあります。正式には、“サクラメント”と呼ばれています』



 愛機の追撃を逃れ、レイは地下鉄に乗った。アーマースーツで武装したまま乗り込んだので、周囲の人が奇妙な目で見ている。街中に逃げ込むと、追っ手だったピストレーゼは姿を消した。

 サクラはレイの敵となったが、R社のシステム上の権限はレイの方が上だ。あれはあくまでもコンピュータープログラムにすぎない。目的に対して最適の行動をとってはいるが、単なるソフトウェアであるという点に限界はある。万能というわけではないらしい。

 月面都市は広大な円環空洞で、最下層もそれは同じだ。長大な距離があり、そこを行くためには乗り物が必要となる。本社にはピストレーゼの二号機がある。まだ何のプログラムもされていないまっさらな状態だ。

 狭い地下空間を飛行するために蓄積された飛行データがないので、最低限度の自動制御を頼りにほぼマニュアルで操縦しなければならない。だが、レイにはそれが必要だ。

 サクラが操る敵の一号機は、レイが今までの飛行で蓄積してきたデータを実装している。言葉の意図や目的をはっきりと理解し、適切にレイをサポートするためのものだ。あれは強敵だ。まっさらな新規の機体で挑むのは不利である。

 しかし、他に頼れるものは何もない。レイにはサクラしかいなかったのだ。本当の名前はサクラメントだと言っていた。その名前は聞いた事はないが、研究所には研究成果を記録しておくデータベースがあるらしいことは聞いたことがある。

 レイは物心ついてからずっと、研究所の監視下にあったということだ。寒気がすると同時に、孤独感が強まる。

『大丈夫ですか?』

 地下鉄内を警邏する小型のロボットが、レイに話しかける。

 擦り傷だらけで、しかも武装しているレイは、明らかに異常者に見えているだろう。誰かが通報したのかもしれない。

 今、捕まるわけにはいかない。政府と研究所は密接な関係がある。もし突き出されれば、いずれはサクラメントの手が及ぶ。

「平気よ」

『ご同行願えますか』

「……」

 返答せずにいるレイを前に、ロボットの内部からコンデンサーのチャージ音が聞こえる。テーザー銃の使用準備をしているらしい。

『ご同行願えない場合、実力行使――』

 レイは立ち上がり、ロボットに並ぶふりをした。

 そして、地下鉄の窓を開き、外に飛び降りる。追ってくるような性能は持っていないらしい。しかし、不審人物として通報されただろう。

 まだ二号機とは合流していないが、地下の最下層まで一足先に行くしかない。新しい相棒とは地下で合流することにする。

 レイが運がよかった。一号機に襲撃される前に、二号機との合流を果たす事ができたからだ。敵はもうとっくに最下層で待ち構えているかもしれないと思ったが、よく考えればサクラメントはレイの行き先を正確には知らないのだった。

 しかし、それも時間の問題だろう。二号機を発進させたことくらいは気付いているだろうし、街頭カメラの画像を検索すればそのうち目的地に気付く。

 急がなくてはならない。

 飛んできた二号機は外見的にはほとんど違いがない。真新しいコクピットに体を滑り込ませる。シートにはまだビニールがかかっている。この機体は各部の調整が終わったばかりで、飛行すら始めてだ。三次元成型機で使われる成型補助剤を溶解させた薬品の匂いがぬけていない。二号機なので不具合は少ないと思われるが、注意して慣らさなくてはならない。

「よろしく、相棒」

 新しい相棒のAIはまっさらだ。今はこれしか頼りがない。解析用データログの記録を開始する。



■黒・一



 もともとの体は、すでに大半が失われている。巨大な両翼と鋭い爪、全身を覆う筋組織が今の体だ。それなのに、自分は自分のままだと感じられるのが不思議だった。

 生命の本質は何か、そんなことを考えた時もあった。もう遠い昔のことのように思える。その時の自分と連続しているという実感もあまりない。

「目が開いてる」

「まずいな」

「麻酔は?」

「動物じゃないんだ、効くわけない」

 自身のNデバイスの反応を検出することで、そこには目に見えない何かが「ある」ということをルリは証明してみせた。ルリを中心に、幽子デバイスの存在が明らかになっていった。生命を宿した存在にいつのまにか形成され、死ぬといつのまにか霧散している存在だ。それが現実干渉性と関わりがあることもわかってきた。核の生命体にも大規模な幽子デバイスがあり、その子供たちであるSロットは幽子で核と繋がっている。

「射殺しろ、いや、翼を撃て」

「再生される。ポッドを回せ!」

 ああ、うるさい。

 せっかく夢を見ていたのに。こんな体になる前のことを考えたい。楽しい事もたくさんあった。だから、こうなることを受け入れたのだ。

 いいや、違う。何もかも壊したかった。この体は心地がいい。力強く、思考は快楽じみた怒りで満たされている。

「――! ――!」

 耳が鋭敏になっている。動体視力が強化されている。迫り来る弾丸はスローモーションのようだ。しかし、避ける必要はない。強靭になった皮膚は、歩兵の火器などものともしない。

 うるさい。耳障りだ。

 皮膚を振動させると、高速していたワイヤーが糸のように千切れていく。

 体を固定していた台座が飛び、誰かが弾けとんだ。ルリに向けて発砲していた兵士は、ファウンデーショングレーの壁面に叩きつけられ、バイザーが弾け飛んだ。

 ああ、ここは月なのだ。住み慣れた場所に帰ってきた。

 苛立ちにまかせて爪でバラバラにしそうになるが、そこから現れる顔を見て、ルリは思いとどまる。ヘンシェル系の特徴がある。クローン兵だろう。見知った姿に、少しだけ心が戻る。

 おそらくは黒派のだ。ルリの研究成果が白派に渡れば黒派は危機に陥る。それを防ぐために、どれか一つでも奪おうと思ったのかもしれない。ルリの本体を見つけ、回収する事に成功したのだ。

 ルリの今の体自体が、完成された幽子デバイスネットワーク技術である。自身の体組織に幽子デバイスの一部を移し、感知不能、妨害不能な幽子通信パスを確保した上で、その組織を他人や他の動物の体に寄生して憑依し、コントロールする。黒竜はそのように設計された幽子情報兵器だ。これを手に入れ解析すれば、幽子デバイスを解明することも可能だろう。力を使い果たし休んでいたルリをノア社の本社から回収し、ひそかに持ち出すだけの理由はある。

 一番救いたかった、愛していた人の魂を傷つけてしまった。

 ノア社研究施設にいたヘンシェル系Sロットの姉妹。ルリの最愛の人物は、あの抗争が始まると同時に死亡した最初の被害者と、飢え死にした最後の被害者だ。

 姉妹たちを救う事はもうできないとつきつけられた時、ついにルリの心は壊れた。体を失えば心を失うと言う。両手足は既に失っている。幽子デバイスをネットワークに分け与えたルリは、心すらも削っている。行き場のない意識は暴れ回り、悲しみと怒りを体現するだけの存在になった。ノア社で研究されていた自然増殖プログラムを応用した幽子ネットワーク拡散システムは暴れ狂い、オウミや本社にいる人間を取り込むか、皆殺しにした。

 それに対して、ルリは何の感情も持たない。こんな世界、自分にとっては何の得もない。滅びようが、地獄になろうが、関係がないことだ。

 ただ、一つだけ守りたいものがあった。

「(あの子、ここにいるのか……)」

 ここは月面の地下のどこかだ。近くにその存在を感じる。幽子デバイスを感知することに鋭敏になった今の体が、彼女の存在を知らせてくる。

 翼はまだ動く。ルリは残る情にまかせ、暗い地下を飛び始める。

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