Noaria 2


 この世界は箱舟であることを研究所に関わる者は知っている。それを知ったのは何十年も前だ。最初期の月面探査の時代のことである。

 その時代の月面探査は、そこにどんな資源があるのかを知るためのものだった。地球の人口増大による資源不足、それを発端とした衛星兵器対弾道兵器を用いた冷戦状態の中で宇宙技術は進歩し、地球外に新たな資源を求めた。

 ある国の調査団は、月面の裏側で調査活動を行った。そこで溶岩トンネルが作った自然の要塞、巨大な空洞を発見する。死の世界であるはずのそこに、たった一つだけ未知の生命が存在するのが発見された。

 研究所でもごく一部の人間しかその存在の詳細を知らない。人に似た姿をし、細胞の一つ一つが高度な計算能力を持つ、人よりもはるかに進歩した生命だったという。慎重に回収され、基地へと持ち込まれた。

 その生命は何らかの処理系の中心にある核のような存在であったらしいことが次第にわかっていくのだが、それを知らない初期の調査班は生命体を傷つけ標本をとるような事をしていた。常識で考えれば特に問題があることではない。黙っていてもその生命体は勝手に崩壊していき、やがて死んでしまった。

 そんな時、地球上に異変が起きた。地球の北半球の一角に空洞ができ、重力も光もない空間となった。崩壊はどんどん広がっていった。

 核と現実世界とは密接な関係があると誰かが気付いた。核は現実構築する装置だった。それを人の手で壊した。空洞は広がり続け、地球は崩れていく。核は死骸になり肉片になってもなお現実を維持してはいたが、それもいつまでもつかわからない。これ以上の崩壊を防ぐために、核は厳重に封印された。

 核が持っていた現実構築能力をどうにかして復元しなければ現実は消滅してしまう。研究所が創設され、発見者たちは政府に特権を与えられて貴族となり、引き換えに核の存在を秘匿した。

 研究は続けられた。核から摘出した遺伝子を組み込むことで人間にも現実構築能力の一部を制御出来る者が現れた。核の体を参考にNデバイスも発明された。この二つを組み合わせることで、現実干渉性をは実用的な技術として確立していく。

 必要な現実干渉性は集められつつある。物体にかかる重力などの物理法則の振る舞いを決定する「制御」については、ほぼ完成している。不足なのは「生成」と、物質を無にする「消滅」である。

 研究は続く。いつかこの世界を修復し、元の世界に戻すまで。政府は壊れてしまった地球をARによって隠しながら、その時を待つ。

 ここまでが、研究所の活動概要である。

 実験に使われるSロットには核の存在について説明しない。地球崩壊の事実さえも知らされないで生かされる。しかし、エルは違っていた。彼女は実験用のSロットではなく戦闘員だ。事情をある程度知る機会があった。



 最近、大空洞を探っているものがいるらしい。正体を突き止めるよう指示を受けたエルは、研究所とはどのようなものかをもう一度振り返っていた。

 月面を支配する企業、政府、施設、そのどれをとっても、全てが研究所に行き着く。研究所には二つの部署があり、それぞれが派閥となっている。

 エルが所属するのは研究部だ。通称、「白派」と呼ばれる。現実干渉性を完全なものにすることを一番の目的とする。Sロットの記憶を収集することで形成されるサクラメントと呼ばれる現実干渉性のデータベースを管理する部署であり、人工知能によって研究を管理している。

 これと敵対しているのは開発部という部署だ。通称、「黒派」と呼ばれる。必要最低限の現実干渉性をもとに、その運用方法を開発し、黒耀星など別の環境へと脱出することを目的としている。もともとは白派で必要になる研究機材を独自開発するための部署だった。現在では白派と距離を置いて、様々な企業に出資し研究とは無関係の戦闘ポッドの開発などを進めている。

 エルの友人である柊は、このどちらの部署でもない月開発財団を拠点とする。中間的な勢力だ。政府との事務的なやりとりを担当するためのパイプ役である。財団総帥であるアイ・イスラフェルを中心として、白派と黒派の両方と繋がりを持つ。

 できれば柊とは敵対したくない。エルはそう願っていた。

 大空洞内は真空だ。宇宙服を調達し、エルは現地に向かった。月面都市の計画が本格化するまで、大空洞は研究所の拠点だった。証拠を処分したのち放置されている施設もある。

 エルは、一番最近探られた施設を調べてみる事にした。

 施設自体には、いかなる情報も残されていなかった。侵入者が立ち止まったらしい部屋の壁面を光学スキャンしても、隠されたメッセージなどが浮かび上がることはない。足跡の主は、身長一七〇センチ程度の背の高い人物だったと推測される。

 おそらく、何の収穫も得られなかっただろう。一通り部屋を回って、すぐに引き返している。

 外にあるものでまず目についたのは、壊れて転がるAF社製によく似た多脚型の戦闘ポッドだった。弾痕が残され、戦闘があったらしいことがわかる。

 着弾角度からいって、相手は航空機タイプだろう。宇宙戦闘機といえばR社だが、今は複数の企業が似たような宇宙戦闘機を開発している。使用された弾丸は珍しいものではない。これだけでは特定は難しい。内輪揉めの可能性もあるし、まだ見ぬ別の勢力かもしれない。

 ポッドは比較的大型で、素手で運び出せるものではない。状態のいい一機を選びだして自走させて持ち帰ることを思いつく。現実干渉性で電流の流れを操作できるエルは、生きているモーター部分を駆動させられる。幸い自爆装置が作動しなかったものがあるようだ。

 このポッドを調べれば、多少の情報は手に入るだろう。



■白・二



「ねえ、こっち向いてってば」

 楓は森の中を歩いていく。追いながらレイは語りかける。彼女と話したい。怪我を治してくれたことにも、まだ礼を言っていない。

「……」

 ついてくるなとでも言いたげな早足だった。だがどんなに歩いても、レイの歩幅を引き離す事はできない。楓の体は強くない。早足も長くは続かない。すぐに息切れし、木に寄りかかってしまう。

「無理するから」

 追いついたレイが声をかけると、楓はじっとりと睨みつける。

「あなたが嫌い」

 どこか行って、とレイを突き放す。

「さっきは好きって言ったのに」

「言ってない」

 楓の調子は元に戻った。あの白い竜に襲われてからだ。今の楓は、甘い声でレイを誘惑しない。

「いいからもう、近寄らないで」

 黒い瞳は伏せられ、レイを向かない。その押し殺した表情はレイへの嫌悪というより、自分に向いているようにも見える。

「カエデが必要なんだよ、私には」

 しかし、レイは楓から離れる気がなかった。

「勝手になさい」

 諦めたのか、楓はため息をつく。

 楓はここを知っている。彼女がどんな存在でも構わない。もっと知りたい情報があるのだ。かわいらしい顔を観察するためだけについてきたわけではない。

「ここは実験空間よ。異惑星のテラフォーミング、つまり地球環境の追従のための実験をする場所」

 観念した楓の口から語られる。ここはネズミ一匹の出入りはおろか、種子一つ、大気の循環さえも遮断して完全に環境を閉鎖している。光と土だけで地球環境の再現ができるのかを実験するための巨大空間だ。レイの予測と一致した答えであった。

 しかし、求めている情報ではない。それも重要な情報だが、もっと具体的に知りたいことがあったのだ。

「そのスイカ、食べられるのかな?」

 レイが指さす先。砂浜に埋もれるように、黄緑色の丸い実が転がっている。砂の中に張り巡らされた蔦に、二十センチほどの実がいくつも連なっている。

 表面はみずみずしく光を反射している。食欲をそそる輝きだった。

「歩き回ったらお腹がすいて」

「……」

 レイは燃費が悪い自覚がある。その分太りにくいが、すぐ空腹になる。食糧確保が滞るのは死活問題だ。ここは地球環境の再現実験空間なのできっと食べものがあるはず。そう思いながら周囲を見回し、それを見つけていた。

「毒はないわ」

「じゃあ食べる!」

 すでに空腹は限界だ。飲料水はあの部屋で確保していたが、食料品は十分な量ではない。食べられさえすれば何でもよかった。適当な一つを選び、どうやって食べようかを考える。割ろうとしてみたが、流石に素手では無理だった。

「ちょっと、待ちなさ――」

 楓が止める前に、レイは拳銃を取り出してスイカに発砲する。乾いた音とともに小さな穴が開き、表皮にヒビが入る。そこに指を差し込んで、強引に引き裂いた。

「乱暴」

 原始人を見るような氷点下の視線を向けられ、レイは少しだけ興奮した。

 スイカの中身はズタズタで、砂にまみれていた。実は赤くなく、白っぽい。たっぷりと水分を含んでいる。砂の少ない場所を選んで、レイは口に入れる。

「ん……っ」

 甘さを期待していたレイを襲ったのは、強烈な苦味だった。それみろ、といった侮蔑の表情で、楓はレイを見ている。

「言ってよ」

「ごめんなさい。つい黙っていてしまったわ」

 栄養はあるらしい。水分もとれるが、味は壊滅的だ。まだ品種改良の途中であるという。

 それでもレイはスイカを平らげた。やっと空腹を満たした頃、楓が手に何かを持っているのに気付く。リンゴだった。すぐ近くの木にたくさんなっている。リンゴは、味に問題がなかった。

「言ってよ」

「ごめんなさい」

 楓という人物がレイにはまだわからない。純粋な興味と、研究所への関心が混在している。あの性格の変容がレイとしては最も気にかかる。Nデバイス使用者には表層の人格をいくつも用意して使い分ける人もいるという。楓はそのタイプなのかもしれない。

 わかっているのは、彼女は一人きりだということだ。発見した時にそうだったからというだけではないと思う。話し方などから直感した。どちらの人格であれ、彼女は一人だ。そうだと感じる。

「待ってなさい」

 言いながら、楓は森に入っていった。そして、様々な種類の食べ物を集めてくる。

 野菜に果物、香辛料のようなもの、大きく、2つに割ると容器になる木の実。食材だけでなく道具になるものまである。ここにあるのは、品種改良によって作られた植物群だ。

 それらを使い、楓は食材がたっぷり入ったスープを作ってくれた。

 香辛料の香りが鼻腔をくすぐる。生み出される味までも計算されて作られた植物によるその料理は、高級な合成食品に匹敵するものだった。

「私の怪我、治してくれたの?」

「……」

 お腹も膨れて落ち着いた所で話を切り出した。レイは研究所を追っている。彼女の力はそれに由来するものなのかを知りたい。

「あなたの力とは違う」

 楓はそれしか話さなかった。それが、彼女に語れる限界らしい。QロットはSロットとは違う。SロットのNデバイスを管理する上位権限の持ち主だ。傷を治す原理は結局わからないが、彼女の手によるものということは確認できた。

「あなたはにはあんな力は必要ない」

 楓は静かに言った。あんな力とは、目覚めたレイの能力のことだろうか。

 力は必要だ。レイは力を求めている。体を鍛え、射撃の腕を磨いてきた。

 まるで反対の事を言う。もう一人の楓はこの力をレイに与え、従わせようとした。つまりレイを必要とする目的があったのだ。

 必要とされるのは嫌なことではない。特に、レイにとっては。そんな表情をしているのがわかったのか、楓は嫌悪感を示した。

「やめて。変なことを考えないで。純粋なSロットならともかく、雑種であるあなたなら、強い意志があれば抗えるわ」

「雑種って」

 Qロットが従わせられるのは、Sロット用の特殊な胸部Nデバイスだけだ。開発を進ませて脳にまでネットワークが成長した被検体なら、思考までも操れる。だがレイは違う。何の開発もなく自然に任せていたレイの場合、ちょっとした感覚に訴えかける程度の機能しか生まれない。

 吊橋効果というものがある。あの現象のように、心拍を少し変化させて認識を誤らせるくらいだ。レイはそれにひっかかった。

「強い意志はちょっと難しいかも。だって、」

 従ってしまいたくなる。支配能力とは無関係に、楓という人物に魅力を感じている。それは弱みだ。あの声色と容姿で迫られたら我慢できるかどうか。

「……ふうん」

 それを語ると、楓は今までになく不機嫌そうな顔をする。

「そう。じゃあ何が望みか、言って御覧なさい」

「キスかな?」

 言うと同時に、楓は唇をよせ、レイの頬に口付けた。

「えっ……えっ」

 まさか本当にされるとは思っていなかった、とは言えない。楓の表情には何の変化もなかった。

「約束したわよ。絶対に従わないで」

 目的のためなら安い行為だとでも言いたげに、楓は何も気にしていなかった。レイは一瞬頬に触れた柔らかな感触と、髪から漂った芳香に気をとられてしまう。年齢は楓の方が上だと言っていた。心拍数が上がる。こんなことをする人は身近にいない。今までに出会ったことがないタイプだ。

「じっとしていなさい。そうすれば帰れるわ、元通りの生活に」

 それがお互いのためだ、と楓は語る。目的は一貫して、レイをこの場所から追い返すことらしかった。彼女はレイを必要としない。

 じっとしていれば帰れるなどといわれても、レイには実感がない。方法があるのだろうか。入ってきた道は開かず、他の出口は水中だ。

「この地底湖には今、潜水艦が停泊しているのよ。そこからなら、外に出る方法もある」

「あるんじゃない、そんな便利なものが」

「あれは戦闘艦よ。乗組員はいないし」

 少なくとも私には動かせない、と楓は言う。だから待つしかないのだと。

 レイも潜水艦を操ったことはないが、マニュアルくらいはきっとあるだろう。Nデバイスの補助があれば、戦闘は無理でも外洋に出ることくらいはできるのではないか。

 北の施設に行けば、地下桟橋からそこに進入できる。桟橋は三次元マップに記載されている。

「じゃあ、そこ行こう」

 方向は合っていたわけだ。当初の目的どおり、北を目指せばいい。寄り道をしたせいで、日が暮れかけている。急いで施設まで到達してしまわなければ。

 体力のあるレイにも疲労はある。それに、楓を休ませたかった。抱きかかえようかと提案したが拒否され、二人はとぼとぼと砂浜を歩き始めた。



「恥知らず」

 じろじろとレイの肢体を眺めながら楓が言う。年齢の割に成育し楓を見下ろす身長が気に入らないのか。入浴を見ておきながら謝罪もなく睨みつけられる。

「そ、そんなこと言われても……勝手に育っていくんだもの」

 詰るような視線を向けられ、レイは身をよじった。

 北側の施設は南側より広い。より本格的な研究拠点のようだ。シャワールーム、仮眠用の寝台など居住設備が充実しており、地下のボイラーを動かせばお湯も出る。一息つくことができた。

「私はあまり汚れてないから、お先にどうぞ」

 その言葉に甘えた結果がこれだ。長風呂なので様子を見に来た楓は、全裸のレイに出くわし不機嫌そうにしている。

 早く歩けず息切れをする割には、楓は汗もかいていなかった。疲れはしても、動けなくなるということはなかったのが不思議だ。破ったはずのワンピースドレスまでいつのまにか元通りになっている。

 それどころではない。彼女は体中を削られても、上半身をちぎられても、元に戻ってみせた。レイのことも治療してくれた。レイが持つ能力のように、彼女にも何か力があるのはやはり間違いない。

 でも、その事を決して口に出してはいけない。そうすれば全てが崩れ去ってしまうような危うさがある。

 現在、楓は純白のワンピースではなく下着姿だ。少し目のやり場に困る。入浴中にクリーニングは終わる。楓はまだビニール包装が破られていない新品の検査着を手に持ってきた。それを寝巻きにするらしい。一つはレイのために用意してくれたらしい。

「来なさい」

 ドライヤーを手に持って招き、鏡の前にレイを座らせる。年上の少女の細い指が頭に触れる。銀髪を優しく梳かす感触に、身を委ねる。温風が乾いた風を吹きつけると、ひとまず落ち着いた気持ちになる。

 そして、この場所のことをまた考え始める。

 真っ先に入浴したわけではない。施設に到着した二人は、すぐに地下の桟橋を目指した。しかし、桟橋への入口はどこにもなかった。階段があるはずのフロアには、地下への道は影も形もなかったのだ。レイの力で床を削っても、その下には土があるだけだった。

 最初からなかったとしか思えなかった。三次元マップが間違っているのか。あるいは何かの妨害なのか。AR技術を応用して、実際にあるものを認識から外すことは理論的には可能だ。Nデバイスにはそんな介入の記録はないが、そういった奇想天外な方法で逃げ道を隠されている可能性はないとは言えない。

「だから、ここで待っていればいい」

 楓はもう何度目になるかわからない主張を、しかし小声でつぶやく。震え、かすれた声だった。レイは考えるのをやめ、楓に従うことにした。

 楓はレイの髪を撫で付けた。年上であることが意識され、レイはまた緊張する。発育のいいレイと対照的に、細く頼りない、優しい指だ。

 休む時間が来た。施設の戸締りを見回り、何かが入ってくることのないように注意する。寝台のある部屋は奥のほうだ。メインゲートにはバリケードを作る。あれらの敵に対してこの程度の防御が意味があるかわからないが、ないよりはいい。

 楓は寝台でレイを待っていた。息を呑む美しさだった。肌の白さが目を焼こうとする。

「カエデ……?」

 乾いてさらりとした髪、ほんのり紅潮した頬。その表情に、違和感を感じる。弱弱しい力で、楓はレイの肩を押した。抗えない。レイは楓ともつれて、寝台へと倒れこんでしまう。

 様子がおかしい。

「あの子を信じてしまうの? どちらが本当の私なのかもわからないのに」

 たまたま最初、あの子に会っただけでしょう。楓の声は誘惑だった。細い腕で腰を抱かれ、耳元で囁かれると、指の一本までも力が抜ける。

「だめ……」

 約束がある。

「私なら、もっとしてあげる」

 動けないレイの体を、楓の手がまさぐった。薄い検査着を隔てて蹂躙する指で、過敏になった皮膚がびくんと震える。

「いくらでも触ってあげる。それとも、私の体を触りたい?」

 好きな方を選んで、と、楓は甘い吐息を吹き付ける。同時に胸元に手を押し当て、レイの未熟なネットワークへと働きかける。心臓を素手でつかまれたような感触に、気が遠くなり、脳髄が痺れる。

「あなたを必要としてあげる」

 彼女はレイの望みを見抜いていた。優しい歌声のような囁き。魅力的だった。このまま委ねてしまいたい。そんな欲望にかられる。摺り寄せられる楓の体は柔らかく、熱かった。白い首元が目の前にある。

 強い意志があれば抗える。楓はそう言っていた。その言葉が、レイを踏みとどまらせた。その様子を見て、楓は動きを止める。

「そう……」

 目を閉じ、楓はレイから離れた。甘い香りが離れ、レイの心には名残惜しさに震える。瞬きの間に、楓は元通りになっていた。距離は離れている。これが、この楓との距離だ。

「……約束したのに、あんなに喜んで」

 顔を背けながら、楓は言う。レイを責めるというよりも、自分の言動を恥じるような声色に聞こえる。

「ちゃんと耐えたのに」

 楓の涼やかな声を聞いて体の疼きは収まってきていたが、レイの心には寂しさもあった。

 さっきまであんなに近かった楓は、今はまた遠い。触れ合いたいのに。

「……あの、ね」

「何?」

「もうちょっとそっち行っていい?」

 人肌が恋しかった。楓は拒絶しない。

「そういえば、あなたには家族がいないんだったわね」

 知るはずの無いことを楓は知っていた。Nデバイスを通じて、楓はレイの記憶に触れたらしい。

「ごめんなさい。体を直す時に、あなた自身を読み取らなければならなかったから」

「別にいいよ」

 そのくらいは気にしなかった。でも、秘密めいたものはある。今なら、話せるかもしれない。あまり他人に話したことがないことも、楓に対してならば。



 レイは、六歳から一三歳までの間は学校に通っていた。

 自立したくて必死に勉強し、優秀な成績を収めた。飛び級していたので、関わる相手は年上が多い。それか同じような飛び級生たちだ。

 学校での生活は楽しかった。年齢の割に背が高かったこともあって、あまり年下扱いされた記憶はない。友達も沢山いた。容姿端麗だがそれを鼻にかけることもなく、竹を割ったように明快な性格も好かれた。運動も勉強もできたので、憧れの的だったと言ってもいい。

 家族のないレイにとって、同級生はかけがえのない存在だった。自分に何があっても彼女たちを守りたいと思うほど。

 事件は一二歳の時に起きた。学校行事で月面基地の見学に出かけた。月面を走っていたバスが事故を起こし、レイを含めた生徒たちは、真空の宇宙空間に投げ出された。

 レイは月面車両について十分に勉強していた。予備の酸素や宇宙服の修復についてよく知っていた。適切な処置を施すのは簡単なことだった。

 長い時間が過ぎていった。月面は危険だ。小隕石や温度変化に注意しなければならない。こういう場合、物陰に隠れて救助を待つことが必要だ。それを知っていたレイは同級生をまとめようとしたが、誰も彼女の話を聞かなかった。空気漏れを起こしたスーツを着ていた子はパニックを起こしていた。

 どうすることもできなかった。同級生たちはばらばらに去っていってしまったのだ。レイは無力感に襲われた。

 幸い、全員が無事に救助され、生徒を保護者たちが迎えにきた。他の生徒は皆、育ての親や肉親がいた。抱きしめられキスをされると、同級生たちは心底安心した表情を見せていた。

 自分では、あんな風に同級生を安心させることはできなかった。世界でたった一人のように感じた。家族のように思っていた同級生たち。なら、彼女たちはどう思っていた?

 一三歳までの一年は、それまで以上に勉強をした。そして、レイは誰よりも早く学校を卒業した。

 そんな感傷はその時だけだった。今のレイには職場の同僚もいるし、学校の友人とも、まだ友人のままだ。

「与えられるばかりで、私は何のために生きているんだろうって。そんな風に考えちゃうんだ」

 悩みというほどではないが、レイを突き動かしている根本の感情はそれだ。研究所を追うのも、自分とは何か、どんな意味を持つのかを知りたいという気持ちからだった。

「誰にも必要とされないのは、寂しいよ」

 癒せない寂しさがある。それはほとんど無視できるほどの寂しさだったが、レイの生活から決して消える事がない。心の奥で何かが欠けたまま生きている。

「あなたが鈍いだけじゃないの? 気付かないタイプと見たけど」

「そんなこと……あるかな」

 楓の言葉を否定しようとするレイだが、身に覚えがあるという気もする。

 私のこと好きだって言ったのに、とか。そんなセリフを言われて冷や汗をかいたことがある。屈託無いレイは友達なら誰にでも好きと言っていた時期があって、それを責められた事がある。

「私は、あなたのこと……」

 楓は言いかけて、やめる。声色が感じさせる続きの言葉。レイを直接的に誘惑していたもう一人の楓よりも、ずっと危険にレイを縛る。

「おやすみなさい」

 小さい声で付け加え、楓はやがて眠りについてしまう。目の前で眠る少女の存在が、レイの心に居座っている。

 失った部分を埋めてくれる何かを、レイは求めている。



■灰・二



 居住エリアに人はいなかった。

 入り組んだ廊下を歩いて、順番に部屋を見ていく。誰かが暮らしていたらしい形跡はあるが、誰とも出会うことはなかった。

「誰かいた?」

「いいや」

 柊が尋ねるが、レイは真実を答えない。その部屋の中からはNデバイスの反応がある。誰かがいる。しかし、既に死亡している。少しだけ部屋の中が見えた。まだ綺麗な遺体がベッドに横たわっている。イスラフェル系ではなく、ヘンシェル系のSロットのようだ。

 ここはSロットの個室が並ぶエリアだ。遺体はレイの知り合いだったのかもしれない。生存者は発見できない。生き残ったのは、レイだけのようだ。

 暗い気持ちで居住区を出た時、激しい振動が柊とレイを襲った。

 通信により外部と連絡を取るために隣のブロックを目指す二人。前触れなくその振動が二人を襲った。電力にも影響が出て、照明が明滅する。

 研究所ブロックから発した振動ではなさそうだ。内部システムにアクセスした柊は、その振動がシステム起動プロセスの異常によるものだと気付く。

「何があった?」

 レイはおびえながら柊のスカートを握り締める。

 柊はノア社の社員だと思われている。Sロット、実験動物であるレイと違ってシステムへの自由なアクセス権がある。本当はQロットなのでそれ以上の権限も持つのだが、身分を隠す上で、システムを扱える事を隠す必要はない。

「艦のシステムが出港準備を始めている……?」

 柊は炉心の起動を命じただけで、外洋に出る指令などは出していない。他の生存者が操っているのか、それともシステムに残された指令なのだろうか。どうも判然としない。ここのシステムは統率がなく、混沌としている。

「ここには、他に誰かいる?」

 レイなら何か知っているかと柊は尋ねる。

「わからない……でも多分、いないと思う」

 あれを人間と認めないなら、確かにここに人はいそうにない。出航の後なんとかして浮上ができれば脱出はできるが、他の問題が出てくる。

 このオウミには不明な点が多すぎる。白派にとって葬った方がいい秘密なのか回収したほうがいい秘密なのかも不明だ。それを知るまでは、迂闊に外に出られては困る。

 炉まで戻って起動を中止するか、それとも次のブロックへ急ぐか。コンデンサーの蓄電が完了して炉が本格稼動するまでは一日以上の時間がまだある。

「先を急ごう」

 柊の言葉に、無言でレイは同意した。

 隣のブロックに近づいてきていた。壁の一つ向こうが次のブロックのはずだ。しかし、なかなかその一枚の壁を越えることができない。

 大きな部屋がいくつかあった。中を調べながら、隣への扉を探していく。しかし、柊が持つカードキーでは開かない扉ばかりだ。簡単に入られては困る場所なのだろう。

 扉を求めて見つけた新しい部屋に入る。また培養室のようだったが、前に見た場所とはずいぶん様子が違っている。

 巨大な培養槽が二つあるだけだ。人間を培養するためのものではない。他のものと違っていた。よく見れば、三次元生成装置を改造して作られた特殊なもののようだ。

 頑強なフレームに守られている。中のものがどんなに暴れたとしても、決して破壊することはできないだろう。ネームプレートまでつけられている。これらはそれぞれ「白竜」「黒竜」という新型生命体を生み出す装置だったらしい。

 使用感があるのは「黒竜」だけだ。「白竜」の方は予定があっただけなのか、使われた形跡はない。生物兵器の名称だろうか? あの巨獣を上回るモデルが存在することを想像してぞっとする。

 ここは研究所ブロックで最も奥深くの場所だ。重要な研究設備だったのだろう。その二つの槽のためだけに空けられた部屋のように見えた。

 Sロットの培養室でも落ち着かないそぶりを見せていたレイだが、ここでも感情をのぞかせていた。「黒竜」と名づけられた方の培養槽の表面を、細い指先でなぞっている。

「行こう?」

 槽から離れないレイに声をかける。奥に扉を見つけた。隣のブロックに通じている。

 しかし移動は制限されていて、扉は簡単には開かない。あの巨獣がはびこるこちら側をシステム上で厳重に遮断したのかもしれない。Qロットの権限を使っても、扉のロックを解除することはできなかった。

「大丈夫?」

 レイの様子を見る柊。彼女は、先ほどから口数が少なくなっている。かなり歩いたし、時間もそれなりに経過している。呼吸が荒くなっている。肩で息をし、胸を押さえている。

 様子が変だ。ただの息切れとは違う。ここに来るまでに現実干渉性を頻繁に使っていた。Nデバイスを酷使したことで、体に影響が出ているのかもしれない。

「大丈夫、だい……」

 レイはもう立っていられなかった。彼女の体重を、柊が受け止める。覗き込んでみるが、柊の顔が見えているかもわからない。

 SロットのNデバイスはQロットによってのみ調整できる。そうすることで不可侵性や自衛力を持たせつつ、反乱も抑止している。この特殊なNデバイスは定期的にシステムメンテナンスが必要で、そうしなければ胸のNデバイスに神経を蝕まれていく。

 現実干渉性の行使はNデバイスを酷使するし、成長を加速させる。自律神経や心臓が近くにある胸にNデバイスを埋め込むことは危険なことなのだ。しかし、そうすることが現実干渉性の開発には都合がいいとされている。Sロットの命は安く扱われる。こうして消耗し死んでいくことも想定し、数を生み出し、使い捨てられる。柊のようなQロットや一般人は、頚椎の近くの安全な位置に小規模な神経追加を行なう。危険は少ない。

 目の前で苦しんでいるこの少女も、本人にはどうすることもできない命の危機に瀕している。呼吸が不規則になり、体が震えている。

 今すぐ調整を行なわないと危ない。Qロットの手には、SロットのNデバイスと接触回線を作るための神経回路が伸びている。柊が伸ばす手を、レイは無意識に払おうとした。

 それは偶然であって、意図したものではない。暴走した現実干渉性によって、柊の手首は跡形もなく吹き飛ばされる。

「ああ……!」

 声を上げたのは柊ではなく、レイだった。

 消滅した手首から血が迸る。それを凝視し、レイは声にならない声をあげた。取り返しのつかないことをした、そう思っている様子だ。しかし、今危機的な状況にあるのはむしろレイの方だ。

「落ち着いて、大丈夫だから」

 痛みはあるが、今はそれ所ではない。慌てる必要はない。柊は拡張されたNデバイスからロードしてきた現実干渉性にアクセスする。失った右手のかわりに、左手の物理データを読み取る。それを右手用に反転する。細胞の中の遺伝子まで再現し、実体化を行なう。柊の手首は元通りに再現された。

 意識が朦朧としている様子のレイは、それがどういうことかすぐには理解できていないようだった。呆然と見ているだけだ。

 右手は再生したが、Nデバイス素子の材質は持ってきた生成可能物質にないので生成できない。接触のための神経組織まで際限することはできなかった。なので左手を使う。鎖骨付近に左手の指先を触れる。

 本人ですら持たないSロットのNデバイスの編集権を持つ柊。まずは、Nデバイス全体を停止させる。再起動の際に、呼吸や脈拍を自分のものと同期させることで、一時的に正常化を測る。

 不具合の除去には、少し時間がかかる。

(眠って)

 指令を送った。Nデバイスの再起動プロセスに必要なので、一度意識を失わせた。レイを抱きかかえて、少し前の部屋まで戻る。研究員の仮眠用の寝台にレイを横たえ、柊は何度か行なったことのあるSロットの調整作業に没頭した。



 彼女を見捨てるのではなく助けるのを選んだのは、興味深い現実干渉性を持っているからだ。必要になれば殺すこともできるので、今死なせる必要もない。

 しかし、目の前で安らかな寝息を立てる彼女を見て安堵を覚えるのも確かだった。健気に柊を守ろうとした結果の暴走だ。当然の借りを返したと言える。

「あんた、Qロットだったんだな」

 いつの間にか目を覚ましていたレイが、柊を見ながら言う。

「ずいぶん暢気な性格だと思ってたけど、単に慣れてただけだったか。外から来たのか?」

 残念そうな声色のようだが、怒りや恐怖を向けてくる事はない。

「外に出る目的は変わらないってことでいいか?」

「いいの? 私でも助けてくれる?」

「約束は守ってやる」

 Qロットを恨むSロットも少なくはない。大勢のSロットの管理を任される場合、そのQロットの方針によってSロットの扱いが左右されるようなことがある。管理される立場からすれば、直接的な敵である場合もある。

 ここにもQロットがいて然るべきのはずだ。あれだけ多くのSロットのメンテナンスをするQロットは必ずいたはずである。死んでしまったのだろうか。その人物の行いが悪くなかったということかもしれない。柊はそれに感謝した。

「じゃあ、もう行くか」

 レイは起き上がろうとする。しかし、それはできないようだった。

「まだ熱あるじゃない。ちょっと休んでいきなよ」

「そんな時間は……」

 反論しようとした時、レイの胃袋からなさけない音が響いた。柊はレイを寝台に残し、食べ物を探しに出た。

 ブロック内の構造を知る柊は、レイのガイドがなくても目的の施設を探せる。

 食糧生産実験場がある。そこで、Sロットの食もまかなっていたようだ。そう遠くない位置のそこに入ると、育成された様々な作物があった。

 スイカや豆、香辛料などがある。柊の知識の外にあるような品種改良作物ばかりだったが、スイカ以外のものは調理が通用しそうだった。キッチンも併設され、レシピのデータもあったので、それを柊の経験で適当にアレンジした料理を作る。

「……?」

 ふと、視線を感じて振り返った。

 目の前に少女がいた。レイとは違う。濃灰色の瞳と髪の、もっと身長の低い少女だ。

 Sロットではない。ノア社の社員や艦の乗員という感じでもない。そもそも、彼女には存在感がなかった。Nデバイスからシステムにアクセスしても反応は認められない。

「きみは」

 声をかけようとして、柊は思う。

 きみは誰か。そんなばからしい質問があるわけがない。それは最も聞く必要がないことだ。

 少女は妖艶な笑みを浮かべた。その瞬間、柊はなにもわからないままに、この場所で起きた全てを理解した。一瞬の瞬きの後、彼女はそこから消えた。しばらく呆然とし、キッチンタイマーが作動する音で目が覚める。

 白昼夢か何かだったのか? 現実のこととは思えなかった。もうあの少女がどんな姿をしていたのかさえ、柊には思い出せなかった。

 疲れているのかもしれない。調理を済ませ、二人分の食事を持って、柊はレイの元に戻ることにした。料理は柊にとって唯一の趣味だ。月面の自宅にも高価な食材生成機を導入し、日常的に行なっている。レイは満足そうにしていた。

「そのスイカは食わねー方がいい」

 しかし、デザートにいいかと思って用意したスイカは早々に取り上げられ、寝台の上に置かれた。抱き枕にでもするのかと聞くと、単純に失敗作で不味いから食うなとレイは答えた。

 ノア社がどこまでの目的でSロットを作り出していたかはわからないが、最初に彼女たちに与えられたワークは作物の品種改良だったという。黒耀星への移民のための技術開発をする政府系企業であったノア社としては、自然な仕事だ。

「きみも作ったの?」

 どの作物を開発したのかと柊が聞くと、小さい声で「スイカ」と答えた。

「不器用で悪かったな」

 言いながら、レイはふて腐れた表情になる。これまでで一番、愛嬌のある顔を見せてくれる。食事は済み、休息をとることにした。

「まだNデバイスの整理が終わってないから、それもやらせて欲しいんだけど」

「いいよ。ヒイラギは寝ないのか?」

 こっちに来いよ、といいながら、レイは寝台の半分を空けた。正直少し疲労を感じていた柊は、そこに体を横たえ、レイのNデバイスに触れる。

「ん……」

 少しむずかるレイ。しかし、抵抗はない。まだ少し熱っぽかった。

 柊は自分自身の力を使う。Nデバイスと接触していない右手の体温を低下させ、レイの額に当てた。不自然に冷たい柊の手を感じ、レイはそれが現実干渉性によるものだと気付いたようだ。

 運動や熱を低下させるのが柊が持つ力だ。少々特殊な事情があって、柊は普通はSロットしか持てないはずの固有の現実干渉性を自ら持っている。

「手、大丈夫なのか?」

「見てみる?」

 右手を差し出すと、レイが触れる。外見上は継ぎ目がなく、完璧な再生を果たしている。日常の機能も別に問題はない。しかし、違和感があるのも確かだった。戦闘のために体を鍛え、手の感覚も鍛えている。特殊拳銃などの武器制御の精度低下が起こる可能性がある。

「ごめんな……痛かっただろ」

 レイは柊の手を握りながら、小さい声で言った。

「こんな能力じゃない方がよかった」

 お前みたいなのがいい、とレイはつぶやいて、冷たい柊の手に触れた。

 柊は思う。この力が優しく使われることは少ない。その柊を見て、レイの表情は曇った。

「私、無神経なこと言ったか?」

 表情に出てしまっていたらしい。柊は高度に記憶を管理されたQロットで、過去に関わったSロットのことは忘れている。しかし、記録の上では何があったのかは知っている。

「なんか話してくれよ。お前のこと心配になるから」

「心配してくれなくても、自分で生きていけるよ」

「だからだよ」

 ここを出るまでは、お前を守るのはあたしだ。レイは言いながら、柊の手を握る力を強くした。

「そういえば、寝る前に注意しとくことがあるんだった」

 思い出したように、レイは言った。

「いや、あんたには関係ないかも」

 ここのSロットにとって、オウミでの眠りにはちょっとした意味があるそうだ。Sロットが睡眠をとると、その時間はVRサーバーに接続される設定になっている。ワークの時間を増やすために睡眠時間を利用していた。こんな事故が起きてもサーバーは稼動し続けていて、レイは毎晩悪夢のような経験をするという。

 体に害はないが、怖い目に遭うという。何か不具合があるせいで正常なVR空間ではなくなっているのだろうか。柊もつい先ほど、何か仮想現実のようなものを目撃したような気がする。

 システムを調べると、確かにVRプログラムが今も機能している。散発的に乗員のNデバイスに何かの情報を送り続けているのは柊も気付いていた。Qロットである柊ならVR自体をシャットダウンできる権限があるかもしれないが、プログラム同士が融合して混沌になっているニューラルネットにどんな影響があるかわからない。現状維持のほうがいいだろう。

 オウミを探っている柊の別人格もこのVRについて情報収集を行なっていた。それに任せておけば整理してくれるだろうし、何かわかるだろう。

「拒否できるようにしようか?」

 柊が尋ねる。VRサーバーへの接続は他のQロットが設定を変更すれば行なえなくなる。サーバー自体を改変しなくても、レイのNデバイスを自閉モードにするだけでいい。

「いや、それはいい」

 しかし、レイは拒否した。確かに、よくわからないものを不用意に触らない方がいい。

「おやすみ、レイ」

 レイが眠りにつくまで、柊はやわらかい銀色の癖毛を撫で続けていた。子供のように体を丸めたレイは、柊の体を抱くように、眠りへと落ちていく。



■白・〇



 誕生の瞬間のことを記憶している人はいない。しかし、培養された被験体は別だ。全ての教育を終え、言葉を覚えてから生み出される。

 培養槽から出てまず見たものが白い壁だった。それを、レイ・イスラフェルは記憶していたはずだった。

 真っ白い世界に飛び散った赤を見た時、レイは美しいと思ってしまった。何も知らない彼女の胸部のNデバイスが作動し始めた瞬間、現実干渉性が暴走したのだ。

「――!」

 白衣を着た誰かが怒鳴りながら駆けつけてくる。耳障りな電子音が響き渡り、レイの目を覚まさせた。

 隣で生まれようとしていた姉妹は目を覚ます事はなかった。レイの力によって、体の半分が消滅していたのだ。

「――――!」

 レイを恐れるように、白衣の人々は遠くから見ている。

 なにかいけないことをしましたか?

 言語機能程度の最低限の教育しかされていないレイは、そこにあるものの意味はわかっても解釈ができない。

 歌が聞こえてくる。

(いいえ)

 感じた声は、声ではなかった。胸に直接話しかけてきている。

(いいえ。私たちが悪かったのよ)

 まるで歌のようだった。その時は、レイをなだめる歌だ。言葉ではないのに、はっきりと意味がわかる。

(次に目覚める時は、きっと大丈夫だから)

 声は子守唄に変わる。何もかもを許してくれる、そんな優しい子守唄。

(眠りなさい)

 私は、ここにいてもよかったんだ。その安心感、歌声に身を委ね、レイは真っ白な世界から、真っ黒な夢へと落ちていった。



 培養槽から出てまず見たものが白い壁だったことを、レイ・イスラフェルは間違いなく記憶している。

 鏡に向かい、初めて自分を見た時のことも覚えている。自分の姿さえも白だった。イスラフェル系の自分は、銀髪に薄灰色の瞳。レイは、自分や周りの姉妹がどんな存在かを既に知っていた。

 長い夢を見ていた気がする。その夢の中で、言葉や、人としての考え方を覚えた。姉妹たちはみな、生まれた時から人として振舞うことができる。

 姉妹たちは金色だった。ヘンシェル系の姉妹たちで、自分とは違う。自分の髪の色は銀。レイは落ち着かなかった。金に比べ、銀は透明な感じがする。

 だからというわけではないが、レイが友人になったのは黒髪の少女だった。別の研究機関からやってきたらしい。

 彼女の名は楪世(しじょう)ルリといった。楪世系は古めの遺伝子系列だとレイは知識の上で知っている。レイよりも大分年上だった。濃い青に沈むような色の瞳をしているのが印象的だった。

 遠い過去のように感じるが、ほんの四年くらい前のことである。内気で臆病だったレイに声をかけ、導いてくれた。少し年上の彼女は研究所内のリーダー的な存在だった。

「魂の存在を信じる?」

 そんな問いを投げかけられたのを覚えている。ある程度親しくなってからのことだ。

 彼女はSロットという立場でありながら、一人の研究者でもあった。幽子デバイスという空想的な概念を研究している、と言っていた。

 オカルトではなくれっきとした物理学だとルリは主張した。自意識の存在、質感<クオリア>は、その幽子デバイスが正体ではないかという仮説があるとルリは語った。レイには雲を掴むような研究に思えたが、彼女はその存在を信じているらしい。個室をラボとして使い、許可を得て自分の研究を続けていた。

 幽子とは、自由状態のL素粒子のことだ。幽子デバイスとは、その素粒子によって形成される情報場のようなものらしい。それは「霊魂」などと呼べば、イメージがしやすいものだ。

 脳の働きや神経の信号は解明され、Nデバイスで補強や編集までできるようになっても、それは意識の存在に対する答えではない。なぜ、自分には質感があるのか。その答えに近づくために、幽子が鍵を握ってくるとルリは信じている。

 質感が発する場所は、目にも見えないし計測できない粒子で作られたデバイスによるものであるという。L素粒子はこの世界を形成する最小単位で、集合する事によってはじめて原子として振る舞い観測が可能となる。集合していないL素粒子、幽子は、あらゆる力が及ばず観測もできない。いわば別次元の存在とさえいえる。普通なら、その発想に至っても検証は不可能に思える。

 しかし、幽子はSロットが持つ現実感知能力によってのみ感知できる場合がある。楪世ルリにはその感知能力が備わっている。

 それはごくわかずかな感知だが、能力者の脳波の変化をレーダー代わりにして存在を数値化できる。別の次元、人の思考のある所と重なる部分に構築されているかもしれない幽子デバイスの姿を明らかにしていく唯一の方法だ。

 幽子は現実干渉性とつながっているかもしれない。現実干渉性は、扱うSロットのクオリアによって効力を発揮するからだ。Qロットが現実干渉性を写すのに時間をかけて記憶の共有を行なう必要があるのも、一度でもクオリアを繋ぐ必要があるからと考えれば、これらの推論は繋がってくる。

 時々、ルリはそんな話をしてくれた。

「難しい」

 しかし、レイには何がなんだかわからないことだった。

「ふふ、そうか」

 ルリは自分自身とレイを標本に幽子デバイスを計測しようとしているらしかったが、データを見てもレイにはよく理解できなかった。それはルリの趣味のようなものだとレイは思っていた。それとは別に、Sロットたちにはワークが与えられていた。

 異惑星のテラフォーミング技術の考案と試行をグループワークで取り組んでいる。地球上に現存するあらゆる植物の遺伝子を用いて、様々な大気、土壌の条件に合う品種を開発しストックしていく作業だ。特に、現在移民が進められている黒耀星と同じ条件で育つ植物を作る事だ。広大な地下空間を利用して実際に植物の育成から収穫までを実行していった。

 いくつかの班に分かれて、それぞれに様々な作物やロボットの研究をした。レイはルリとは別の班だった。三人一組の班を作らされ、それぞれに別の植物を担当していた。限られた施設の中で協力したり、成型機や遺伝子生成機の使用権で揉めたりしながら、彼女たちは開発を進めていった。

 そこには、いつも見守ってくれるQロットがいた。名前は綺楓といった。彼女のSロットの扱いは人間らしいものだった。Sロットは道具として生み出されるが、だんだんそれ以外の価値を感じるようになっていく。体は人と変わらず、生きている事に喜びを感じるのだ。何事もなく平穏に暮らしていた。最初の一年の間だけは。

 彼女たちが育てた植物が地下空間を埋め尽くし、感動的で美しい光景が見られるようになった頃、それは起きた。三年前に宇宙戦艦建造計画が始まって、全てが変わったのだ。

 宇宙戦艦の建造のために、地下空間の植物は全て焼き払われた。一般の社員が入ってくることになったため、秘匿されるべきSロットは刑務所に収監されるかのごとく施設の奥に閉じ込められ、一歩も外に出る事は許されなくなる。Sロットは個室に幽閉され、食事や入浴の時にしか会うことはなくなっていった。

「きみの班は、どんなだった?」

 ある時、ルリが質問をしてきた。

 レイはひそかにルリと会って会話をしていた。Sロットは決して一般社員に姿を見られてはいけない。そんな状況下で外に出る事は許されなかったが、決められた範囲内での移動は黙認されていた。レイはよくルリの部屋に遊びに行った。そこでは、研究の話だけではなく雑談もされた。

「あの姉妹は少しも言う事を聞かねえし、いつもイチャイチャしていて腹が立った」

 イスラフェル系ではない数少ない被検体の二人、この場所の多くを占めるヘンシェル系と呼ばれる遺伝子系列の双子が、レイのチームメイトだった。この二人はあまり仕事をしないので、レイは苦労していた。

 姉妹の金髪と黄水晶の瞳はレイの目を引いた。二人きりで独自の世界を築いているのでいつもレイは置いてけぼりだった。

 目の前で体を触りあったりキスをしているのを見せられれば、誰でも困惑する。それはともかく、とにかくあの姉妹は仕事をしなかった。

「楽しそうでいいじゃないか。私の所なんてみんな真面目だったよ」

「よかねえよ。リーダーを押し付けられたんだぞ。カエデに叱られるのはいつもあたしだ」

 話すことはたくさんあった。他愛ない話をしながら、レイはルリの実験のために脳波のデータを提供した。Nデバイスから計測される脳の反応を、会話をしながら記録していく。

 研究は進んでいるといっていた。相変わらず、レイには理解できなかったが。

「実はきみの幽子デバイスは特殊なんだ」

「はあ?」

「調べていてわかったことだよ」

 まるで分割したように、綺麗に二つにわかれた魂をしている。そういう実験をされたのではないか。だから、どこかに片割れがいるのでは? そっくりな姿をした誰かが。

 ルリは声色を変えて言った。レイは背筋を寒くした。

「冗談やめろよ。誰からそんな怪談を教わった?」

「ごめん。そう、冗談だよ」

 魂を二つに分ける実験。そんな黒魔法みたいな実験があるものか。リーダー的な役目であるルリは、よくこういう話をして年下を怖がらせていた。最近はそんな機会もないので、レイばかりが餌食になる。

 Qロットの楓もなぜか音沙汰がなく、最近はすっかり会話することはなかった。もっとも、楓に直接会ったことはない。Nデバイスに対してメッセージが送られるだけである。この場所のどこかにはいるらしい。

 楓はみんなに慕われていた。Sロットの中のリーダーがルリだとするなら、その上にいる母が楓だった。楓のおかげでワークは楽しかった。またあんなふうにワークができればいい。皆そう願っていた。

 楓が宇宙戦艦の設計を手伝わされているのは後でわかったことだ。Nデバイスの優秀な使い手である彼女をコアにすることで、巨大で膨大な設計データを管理しているらしい。

 ある日、その楓から久しぶりのコンタクトがあった。オウミの開発が最終段階に入り、艦内施設の設計に入ったそうだ。ブロックコンテナの組み換えで様々な任務を行なうオウミには、異惑星殖民用の装備もある。その装備には、Sロットたちが研究していた異惑星開発プログラムがいよいよ実装されるという。

 そこで、再びワークをしてほしいとの話だ。研究設備をほぼ再現したものが宇宙戦艦のブロックの一つとして搭載され、隣には森林ブロックが併設された。Sロットたちが研究してきた植物を、そこでまた育てることができる。

 Sロットへの依頼は、環境整備ロボットの開発だ。前回のワークでいくつかの班が開発を進めていたものの、結局実装することがなかったいくつかのロボットが作る事が今回の目的であった。

 政府系企業のAF社から提供された多脚型ポッドを、現地生産可能な仕様に設計変更すること。また、生体脳を使った安価な制御コンピューターの開発。そして、最終的には大型の生体ロボットの開発を目的とする。

 今回は、オウミの巨大な計算能力を全て使うことができる。そのため、焼き払われた地下空間を、艦内巨大ネットワーク「ノアリア」上の仮想空間として復活させた。現実に限りなく近いシミュレーターだ。そこに新しく設計したロボットを放って試験をする。

 オウミ級の開発は長引いており、Sロットの開発能力に期待がかかる。昼はオウミ内で研究を行い、夜に眠りにつくと自動的に「ノアリア」の仮想空間に誘われ、そこでも研究ができるような体制が作られた。

 また皆で働けることと皆が喜んだ。レイが振り分けられたのは生体ロボットの研究だった。Cデバイスと呼ばれる筋繊維素子で生物のようなロボットを作るというものだ。

 最初に作られたのは小鳥のように小型のものだ。飛行することができ、調査したい空間に放つと増殖しながら隅々まで移動し、有毒性がないかをチェックする機能を持つ。金糸雀の役目をするロボットだ。

 この小型生体ロボットの外観は一見すると繊維の固まりのようだが、動く姿は鳥であった。品種改良された実際の鳥に筋繊維素子を寄生させて表面を覆うことで作られる。鳥が持つ本能や運動能力をそのまま利用することができる。

 この筋繊維は鳥の消化器系とも直結し、経口摂取した素材で自らの組織を修復することができる。また、鳥の自然繁殖をも利用している。通常のプロセスで産卵と孵化をし、成鳥になった時点で親から繊維を受け継いで新たな端末になるのだ。

 最初の実験は失敗だった。自己増殖機能の不具合が生じ、数をコントロールできなくなったためだ。

 ノアリアの仮想空間は現実に近い環境で検証を行なうため制約がある。仮想空間とはいえ自由が利くわけではない。鳥を駆除するのも現実と同じ方法でなくてはならない。つまり、銃を使って撃ち落としたり、薬品を使うのだ。

 気持ちのいい仕事ではなかった。ロボットとはいえ生き物である。しかも、自分たちが生み出したものだ。しかし、やらなければならなかった。

 開発は続いた。繊維の自己修復や自己増殖機能の調整は困難だった。サイズがもっと大きければ制御のためのコンピューターを搭載できるが、飛翔能力に影響が出ては困る。筋組織は、ただでさえ重量がある。

 一方、戦闘ポッドの改修は早々に済んでいた。研究所には高性能な生成機がある。バッテリーだけは外部から購入しなければならなかったが、他のパーツは全て現場で作る事ができた。そのため、次々とモデルを生み出す事ができた。早々に完成した製品には買い取り手もついた。白派の戦闘部隊に使うために配備されるという。

 楓は忙しいのか、送られてくるメッセージは事務的になっていた。今は大変な時だ。いずれ楓も交えて楽しく暮らせるようにと、姉妹たちは奮起した。

 鳥の本能に頼る制御方式をやめることにした。ごく少量だけNデバイスを分け与えることで、外部から指令を与えるようにしたのだ。繁殖を自己判断に任せず、数が勝手に増えていかないよう制御した。

 端末の機能は最小限にした。いわゆるシンクライアント方式である。これによって、綿密な制御計算と軽量高効率化を実現した。

「この鳥が生物だとして、私たちと同じような質感を持っているのだろうか?」

 ある日、ルリはそんな話をし始めた。

 ルリは鳥のコントロールを担うSロットの一人だった。Nデバイスの施術者はこの鳥を手足のように操れる。箱庭の中の空を飛び、触覚や味覚も繋ぐことができる。不思議だった。間違いなく自分の一部と感じられるが、それは送られてくる情報に過ぎないはずだ。認識にギャップが生じる。

 現実干渉性は認識によって及ぼす範囲が決まる。この鳥を操っている間、ルリは鳥の付近の幽子を感知することができるらしい。すなわち、彼女の意識だけが空を飛んで、本当の体とは別の場所にいるということになるのだ。

「お前の話はいつも難しい」

「それでも、いつも聞いてくれるんだね」

 根拠はないし、意識の振る舞いは脳の中から発しているのが観測される現実だ。しかし、それだけが真実だという証拠は存在しない。



 次の開発が始まった。同じ技術を使って、今度はより大型のロボットを作ることになった。

 夜はノアリアの中で活動する。目覚めればオウミの中だ。その繰り返しの中、二つの世界の間を行き来する虚無の時間に、レイの心の中に何かが訴えかける事が多くなってきていた。

(どうして)

 声だとも、文字だともとれない思いが、直接脳に届いてくる。

 こんなことが、前にもあった。

(どうして、私は独りなの?)

 歌が聞こえる。

 声ではないし、言葉でもない。その歌は、記憶や意識としてレイには読み取れる。

 その思いは、レイのものではなかった。

 学校にいる他の生徒たちには、少なくとも育ての親がいて、愛を知っていた。しかし、彼女にはいないらしい。母はもうこの世におらず、遺伝子を提供した親も行方不明となっている。育ててくれたのは人工知能だ。

 前向きに強く生きようと、ずっとやってきた。彼女にはそう生きるだけの力も心も備わっていた。だからこそ、誰かに頼る事はできなかった。一人で何でも出来るからこそ、彼女は一人になりがちだった。

「ここにいるよ」

 レイは、感じる存在に声をかけた。

(誰なの?)

 それが何かはわからなかった。しかし、そこにある心は共感となってレイの中にも流れ込む。

 家族がないのはレイも同じだ。しかし、育ての親や姉のような存在がいるレイはまだ恵まれている。目が覚めていくにつれ薄れていく感覚の中で、レイは彼女に向けて声をかけ続けた。



「あのさ……前に言ってた、もう一人のあたしって、もしかして本当なのか?」

「どうして?」

「夢を見るんだ。誰かの」

 そして、ここでは決して知りえない事実を知ったという。

 見学のために月面を走っていたバスが事故を起こした。それを知ったのは夢の中だった。そのニュースは、半日送れて施設へと届いた。事件の詳細なデータまで、レイは言い当てる事ができた。

 こんなことがあるのだろうか。

「興味深いね」

 それに対し、ルリは興味を示した。実験台を見るような目線なのが気になるが、レイにとっては頼りになるのは彼女しかいない。

 幽子デバイスが誰かと分かたれているというのは本当らしかった。ルリによる測定方法で判明しているレイの幽子デバイスは、物理的に切断されたような形をしているという。

「幽子デバイスは二次記憶、独自の記憶容量みたいなものだ。普通人間は脳で記憶をするが、幽子デバイスにもそれが複写されている。幽子デバイス同士が誰かと繋がった場合、記憶が伝達されることはありえるね」

 それがもし誰かとまだ繋がっていて、その切断された片割れがどこかにいるとしたら。距離を越えて記憶を共有するということも無いとはいえない。

「眠っているきみの脳波を調べさせてくれないか。そうしたら、何かわかるかもしれない」

「わかった、いいよ」

 レイは寝台に横たわり、ルリが持つ見たこともない装置を身につけさせられた。計測器具の一種らしい。

「私を通じてきみの幽子デバイスとNデバイスをリンクさせて、そこからこっちで解析してみよう。もしかすると、記憶がフラッシュバックすることがあるかもしれないけど」

「記憶って?」

「幽子デバイスは脳と平行して記憶を溜め込んでいると言っただろう。それが見えることがある。忘れていることを思い出すような感じだ」

 でも自分の記憶だからただの回想と変わらない。ルリはそう言った。なら怖がるような事ではないな、とレイは思う。

「じゃあ、はじめるよ」

 合図とともに、レイのNデバイスは活動を開始する。彼女も自分のNデバイスをレイとリンクさせ、用意したプログラムを実行し始めた。

 ルリの言うとおり、夢を見ているように意識が遠のく。そして、何かの記憶が再生され始めた。



 見えるのは白い壁だ。覚えがある。これは生まれた時の記憶だとレイはすぐわかった。

 しかし、何かが違っている。自分が記憶している最初の目覚めとは微妙に異なる風景に思えた。

 真っ白い世界に飛び散った色を見た時、レイは「美しい」と思ってしまった。まだ何も知らない時の、自分の感覚。その時の気持ち、その時の感触が再生される。

 その時はわからなかったのだ。今ならわかる。あれは、あの赤は。

「――!」

 白衣を着た誰かが怒鳴りながら駆けつけてくる。耳障りな電子音が響き渡り、レイの目を覚まさせた。

 隣で生まれようとしていた姉妹は、もう二度と目を覚ます事はなかった。レイの力によって体の半分が消滅していたのだ。

「――――!」

 レイを恐れるように、白衣の人々は遠くから見ている。

 歌が聞こえてくる。

(いいえ)

 感じた声は、声ではなかった。胸に直接話しかけてきている。まるで歌のようだった。その時は、レイをなだめる歌だ。言葉ではないのに、はっきりと意味がわかる。

(眠って。次に目覚める時は、きっと大丈夫だから)

 声は子守唄に変わる。歌声に身を委ね、レイは真っ白な世界から、真っ黒な夢へと落ちていった。

 これは、何だ。レイが知らない記憶だ。

『ねえ、目を開けてるわ』

 研究員が覗き込む。

『本当か?おい、ちゃんと眠らせろと言っただろ』

 その言葉とともに、レイにはまた歌が聞こえる。

 眠りなさい。眠りなさい。そして、忘れてしまいなさい。

『このバケモノめ』

『そんなこと言っちゃダメでしょ』

『お前も見ただろ、あれを。こいつは他のとは違う』

 薄れ行く意識の中に言葉が舞う。その時はそれがどんな意味かわからなかった。言葉の意味はわかっても、意図はわからなかった。でも、今ならわかる。

『ひとごろし』

 あの時、隣にいたのは血濡れの同胞で。

 だから、白は恐ろしい色だった。



 寝台から跳ね起きる。ルリの顔が見える。これは現実なのか、夢なのか。

「どうした?」

 伸ばされた手を反射的に払う。ルリの手から鮮血が噴出した。あの時と同じ。力の制限が解除され、コントロールを失っている。

「あ、あ……」

 また、人を傷つけた。視界が青ざめ、足が震える。

「大丈夫、かすり傷だ。落ち着いて」

 ルリはレイをなだめた。幸いレイのNデバイスは覚醒したばかりだったので、今のはほとんど力が出ていなかった。

 でも、もし万全の状態ならレイの現実干渉性はルリの体を消滅させていただろう。そう、思い出した。自分はそんな恐ろしい能力を持って生まれてきたということを。

 人殺し。バケモノ。そう呼ばれた。他のSロットと自分は違うとは思っていた。その理由がこれなのか。

「記憶操作を受けたことがあったんだね。その能力にも制限が」

 脳から記憶を消す技術はあるが、幽子デバイスに焼きついた記憶は残る。それが偶然繋がってしまったのだ。

 胸が苦しい。Nデバイスが過熱気味だ。

「ごめん……ごめんなさい」

「きみのせいじゃない。ちょっと不用意だったね。もともとあったリミッターが破損しただけだ。すぐロールバックしよう」

 幽子デバイスによって改変されたNデバイスを元に戻すためのバックアップはある。能力には再び制限がかけられた。

「Nデバイスのメンテさえしてれば能力が暴走することはないだろう。大丈夫だよ」

 結局、レイの幽子デバイスを調べるどころではなくなった。

「大丈夫」

 ルリは、怯えるレイを優しく抱きしめた。レイは子供のように声を上げ、彼女の胸にしがみついた。



 日を改めても、レイの幽子デバイスを調べることはついになかった。その後すぐ、事故が起きたからだ。

 激しい振動が起き、警報が鳴り響いた。宇宙戦艦内の研究所の白い壁が非常灯でオレンジ色に染まっていた。地底湖に浮かんでいたオウミの浮上システムに原因不明の爆発が置きたのだ。浮力を失い、オウミは沈降した。水平は維持していたが、多くの部分は浸水していると報告された。動力は停止し、非常電源に切り替わった。

 Sロットがいた研究所の大半とブロックは森林ブロックは浸水もなく無事だった。しかし、三分の一ものSロットは外側の廊下や部屋にいた。隔壁が壊れて海中に投げ出され、生死が不明になったままである。

 しかし、投げ出された三分の一のほうがまだ生存の可能性があると思われた。もっとまずい事も起きていたからだ。新しい大型の生体ロボットの試作品がショックで暴走を起こし、研究ブロックを徘徊し、暴れまわったのだ。そのせいで、何人かのSロットが犠牲になったという。

 それを始末し食い止めたのは、レイと班を組んでいたヘンシェルの姉妹の姉であった。

 彼女らは熱エネルギーを増大させることができる現実干渉性を持つ。それによって敵となった生体ロボットを加熱させ、焼き殺して仕留めたそうだ。いつもは生意気な姉だったが、その時ばかりは蒼白な顔色になっていた。妹の方は行方不明だという。水没した場所にいたか、外に投げ出されたかだ。

 あの新型バイオロボットは外敵を駆逐するハンターで、殺傷能力が与えられている。巨大な狼のような形で猛獣のように鋭い爪を持ち、敏捷に動き回って獲物を駆る生物兵器である。それが狭い廊下の中を襲ってきたのだから、恐怖を感じて当然である。

 オウミはすぐ復旧しそうにはなかった。これ以上の損壊の危険はなかったが、暴走した生体ロボットは他にもおり、指定されたプログラムに沿って森林モジュールに潜んでいるという。移動もままならず復旧作業に取り掛かれない。

 暴走の原因は特定できないが、自己判断プロセスに欠陥があると思われた。正常に機能している部分もある。たとえば情報戦のためのロジックは生きているらしく、焼き殺した遺体は別の個体が回収していった。そのため、詳しく調べる事ができなかった。

 そのうち、あれらの狼は与えられた機能を実行するために狩りを始めるだろう。動力が絶たれて隔壁が機能しない研究ブロックにたやすく進入し、在来生物と認定したSロットたちを殺戮するに違いない。

 ルリは指揮官となり、慌しく指示を出していた。彼女の指示は的確だった。オウミの復旧まで生き延びるためには、あの狼と戦う必要がある。バリケードを組み、武器を集める。監視のために交替体制がとられた。

 レイの能力は戦闘向きだ。敵を発見した場合は呼び出しを受ける。幽子デバイスを通じれば能力使用制限を解除できる。戦う時だけ鎖を外された。

 普段は自室で休んで置くように言われていた。多分同じ指示を与えられているはずのヘンシェル姉が、珍しくレイの部屋を訪ねてきた。

「ごめん、今日だけいさせて」

 初めて彼女の弱音を聞いた。生まれてからずっと一緒にいて、班にいる間もずっと仲良くしていたあの妹の安否が不明なのだ。

 個室に招き入れた姉がレイの服をつかんで嗚咽を漏らしている間、レイはどうしていいかもわからず、彼女の髪を不器用に撫で続けた。



 眠りにつくと、あの怪物が襲ってくる。オウミでは、Sロットが睡眠につくとノアリアの仮想空間にいざなうように設定されている。事故が起きてからも、その設定は維持されている。

 本当なら、艦内の他の生存者とそこで出会い情報交換ができたはずだ。しかし、それはできない。あの狼の暴走は、現実に限ったことではない。この仮想空間でもそれらは暴走し、ほとんどのSロットのアバターを破壊してしまった。

 VRで使用できるもう一つの体、分身のデータは、厳密に一人一つと決められている。破壊された場合は楓によって修復してもらうしかないが、楓からの応答はなかった。

 残っているのは、ほんの数人だけだ。仮想空間でさえ、姉妹たちは施設の中に避難しなければならなかった。睡眠ですら、ここでは安息にはなりえない。

 現状を維持せよ。このような状況にあって、楓から与えられた唯一のメッセージはそれだけだった。復旧はどうなっているのか。脱出や救助のプランはあるのか。今後の予定は、何一つ開示されることはなかった。

 大気製造に食糧確保、非常電源の残量、そして狼による命の危険など、現状はつぶさに報告している。しかし、それに対する返答は何一つなかった。

 狼との戦闘は熾烈を極めた。毎回、数人のSロットが犠牲になった。仮想空間よりも狭い廊下で向かえれば一方的に狩られることはなかったが、それでも苦しい戦いであった。

 狼の行動パターンは優れていた。研究所の構造を熟知し、いつのまにか進入しているのだ。奴らは複数で攻めてくる。そして、仲間がやられたら引きずって回収していった。敵が回収して再プログラミングさせないための行動だ。

 同様の狼を再生産して対抗しようにも、非常電源の残量内では難しい。密閉された空間での食糧生産と大気の生産を引き換えにすれば可能かもしれないが、どのみち生存はできなくなる。

 餓死や窒息死か、怪物に引き裂かれるか選ぶような状況だ。せめて大量の電源が確保できれば成形機が使える。そのためには、狼の巣窟になっている森林ブロックを通り抜けて、停止した核融合炉を再起動するしかない。

「それか、最低でも隣のブロックの非常電源を融通するか、だ」

 指揮官となったルリが言う。非常電源はオウミの四つの各ブロック、森林、研究所、居住区、武装のそれぞれにある。研究所の隣なのは居住区と森林だが、前者は水没、後者は怪物が闊歩している。

「炉が再起動すれば何の問題もないけど、隣の非常電源しか確保できなかった場合、成型機を使えるのは一度くらいだろう。同じ狼を生産しても勝ち目は薄い。そこで、今から電源復旧までの間、非戦闘員はVR空間を使って別の戦闘兵器を作る作業をしよう」

 ルリの提案に誰も反対しなかった。VR空間によるシミュレーションはそれほど電力がかからない。どのみち、ネットワークは常に稼動し定期的にノアリアへは引き込まれるので使わないのは損だ。ノアリア内の仮想研究所を利用して、あの狼を駆逐できる唯一無二の兵器を事前に開発しておかなければならない。

 その作業の指揮はルリが担当する。電源確保は、レイやヘンシェル姉を含めた突入班に任された。

 レイは、また望まない現実干渉性を使わなければいけない。

「もし嫌なら、断ってもいいんだよ」

 指揮官のルリが言う。

「怖いけど、大丈夫だ」

 制限はきちんと機能しているし、改良も加えてもらった。任意で外したり設定したりできる。

「力はただの道具だし、役立つ時だってある。誰かを救うのに使うといい」

 言いながら、ルリはレイの髪を撫で、頭を抱いてくれた。

 その手には、まだ包帯が巻かれている。傷はそれなりに深いようだが、再生治療によって完治する傷である。

「できると思う?」

「できるさ。今もそのチャンスの一つだ」

 今は正直心強い能力ではある。ろくな武器も無い状態で、現実干渉性は頼りにできる数少ない力だ。レイは、突入班への編成を受け入れることにした。

 姉をリーダーとして、電源装置に詳しい者、非常電源のバイパスを繋げる者でチームは編成された。

 Sロットはかなり少なくなっていた。成型機のある部屋に生き残りは集められ、突入班に入らなかった最低限の戦闘員を護衛につけることにした。



 電源の落ちた森林ブロックは不気味なほど真っ暗だった。大気製造システムが作るわずかな風に、ざわざわと木々の音が響き渡る。

「!」

 レイが何かに躓きそうになった。

 遺体だった。知らないSロットだったが、ここでやられたのだろうか。無残な姿になっている。遺体は複数あった。いくつも並べてあったのだ。まるで弔うかのように手を腹の上で組まされている。あの狼がやったとは思えない。

 レイは奇妙な事に気付く。遺体の傷は銃痕であったり、火傷であったり、様々なのだ。狼の爪によってつけられた傷は一つもない。

 そして、レイは見知った顔を見つけた。ヘンシェル姉妹の妹の遺体だ。

 妹の体は半分以上が焼け爛れていた。高熱によって焼死したらしい。顔の部分や、Sロットに与えられるIDタグのチョーカーから辛うじて特定できる。レイは姉の顔色を伺った。彼女の手はわなわなと震えていた。

 熱を発する現実干渉性を持つのはヘンシェル姉妹だけだ。もちろん、狼にもそんな能力はない。妹は自害したのだろうか? そんなはずはない。

「おかしいとは思っていたわ。あの日、あの子は私のすぐそばにいたはず。それなのに行方不明で、かわりにあのバケモノが隣に」

 狼の襲来の時、最初に気付いたのは姉だった。彼女は逃げる狼を追い詰め、焼き殺した。Sロットの神経や認識は楓によって管理されている。人をバケモノだと思い込ませたりすることも可能だ。

 何かが集まってくる気配がする。黒い影がレイの視界に映る。ここは危険だ。敵が集まってくれば、格納庫まで行き、炉まで行くのは難しいだろう。とりあえずはバイパスだ。ここの非常電源装置にケーブルをつないで、早く帰るしかない。

「おい、帰るぞ」

「嫌よ! 私はこの子と一緒にいる!」

 遺体にすがりつく姉。仲間の一人が、彼女を殴って気絶させた。

 迫ってくるのが敵なのか、それとも行方不明と思っていた仲間たちなのか。それは彼女たちには認識不能のことだ。相手からも、こちらは何か怪物のようなものに見えているのかもしれない。

 慎重に移動しつつ、区画の下部、非常電源装置へとたどり着く。森林ブロックの電源はほとんど利用されておらず、十分な残量があった。そこに有線接続し、研究所のブロックへとつなぐ。

 バイパスは成功した。あとは、ルリに任せればいい。

 本当にこれでいいのだろうか。楓は私たちをどうしようとしているのか。疑問を感じながらも、突入班は目の前の作業を遂行するしかなかった。



 開発班は既に、兵器の設計を終えていた。

 しかし、その仕様は残酷なものだった。制御に不安を抱えた狼型をベースにする事はできない。そこで、Sロットの一人に筋組織を寄生させて本人の意識で操る、大型の生体スーツにすることにしたのだ。「竜」と名づけられたそれは二種類が提案され、そのうちの一種類が選ばれた。

「ノアリア上で試したんだ。白竜はレイ、黒竜は私をコアに作った」

 ルリは語る。VR空間ノアリアは管理者でなければ設定を変えられず、かなり厳密な物理法則で維持されている。ルリとレイのモデルに直接改良を加えていくことで、黒竜を完成させた。

 ようするに仮想空間で、ルリは自分とレイのアバターを筋組織に「食わせた」のだ。覚醒していたレイには痛みはなかったが、ルリは想像を絶する苦痛を味わう事になった。

 コアになるためには四肢を失うことになる。現実でもそれをする勇気が、誰にあるというのか。白竜はそこで得られたデータとレイの体を元に生み出した新種の生命だ。白竜は美しかった。ほとんどが生体であるため、幻想の中にある獣のような気高さを感じさせるものだ。

 この姿になるのも悪くない。そうレイは思った。しかし、ルリはレイを白竜にするつもりはないと言った。制御機能が完全ではないとのことだ。現実に生み出すのは黒竜のみとなる。

「ここで一番の役立たずは私だからね。きみはそのままでも十分な能力があるし、竜を熟知しているのは私の方だ」

 体を失うだけで死ぬわけじゃない。ルリは少しも悲しそうな素振りを見せず、いつものように淡々とレイに語った。しかし、レイはそれに返事をする前に、報告しなければならない事を抱えていた。

「気付いたのか……」

 驚くべきことに、ルリは異常に気付いていた。自分たちが戦っている相手はもしかするとロボットではないのではないか。その疑念は何人かが抱いていたことだったらしい。

「もしかして、という程度の推測だったんだ。確信してもよさそうだ」

 ルリが気付いたのは楓の反応がおかしかったからだという。それだけでこの状況を正確に言い当てるのは出来すぎているが、レイはそんなことには気付かない。

 Sロットは二つのチームに分けられ、お互い別のチームのものを怪物だと思い込むように仕込まれているかもしれない。研究所は、彼女たちに楽しいワークをさせるのと全く同じ感覚でこんなことをする。そういう連中だ、と、ルリは語った。

 他にも奇妙なことがある。隣の区画にどうしても行く事ができないということだ。そこに自分たちを監視している研究所員がいるのではないかとルリは考えているそうだ。

 間違いなく、研究所の目的はSロットを殺し合わせることだ。そして、明らかに現実干渉性と研究開発の両方のバランスがよくなるようにSロットを配分している。

 極限状況での現実干渉性の成長。そして、VR空間での幽子デバイス兵器研究。それを収穫するために、こんな状況を作り出している。

 レイはぞっとする。また仲間殺しをしていたかもしれない。いや、既にしているのだろう。結局、この力で誰かを救うなど不可能なのか。

 原因がわかった所で、戦わなければいけないことに変わりはない。Sロットの運命は、所詮創造主の手の中にある。

 ルリは各部の放熱状況などを調べてみたらしい。水中にあるのは確かなようだが、浸水しているとされる船首部分は正常な数値のままだという。実験側では船内の温度センサーまでデータを気を配らなかったらしい。この状況自体が、ARやVRを駆使して演出されている。

「これから、どうするつもりなんだ」

 そうだとしたら、黒竜を使って戦うことに意味があるとは思えない。だが、ルリの考えは変わらないらしかった。

「黒竜には幽子認識機能を加えてあるんだよ。幽子を媒介に、ARに影響されず現実だけを見られる。あれはそのためのスーツなんだよ」

 黒竜なら、ARで偽装されている閉鎖エリアを突破することができるかもしれない。そこには出口や、あるいはこの状況を作り出す真の敵がいるはずだ。明日、それを実行するという。

 最後の調整に入るというルリにどう声をかけていいかわからず、レイは足が向くままに姉の部屋に行った。彼女の部屋はめちゃくちゃに荒れていた。

「出て行ってよ」

 彼女はベッドの上に座り、虚空を眺めている。

「でも」

「もう何もしない」

 黒竜を使って脱出を図る計画がうまくいけば、脱出できるかもしれない。オウミの格納庫にはVTOL機があったはずだ。それを使えば、地球上のどこかに脱出できる。

 それからどうするかはわからない。研究所と交渉するという手もあるし、治安が崩壊した地球上のコミュニティに組み込まれる手もある。

「一番大事なものを失ったのよ。もう生きてる意味なんかない」

 姉はつぶやいた。

「そんなの、ダメだよ」

 手を伸ばそうとするが、拒絶される。レイの手では何も救えず、癒せない。それを痛感した。時間がもうない。

「後で迎えに来るから」

 レイはそういい残すしかなかった。黒竜の誕生を見届けに向かう。



 ルリは、最後にレイの部屋を訪れた。

「やあ」

 明日には苦痛が待っているというのに、ルリはいつも通りにレイを迎えた。

 普段のように、ルリは自分の考えをレイに聞かせた。研究所は何が目的だったのか。もしかするとこのようなネットワークを開発させ、収穫することだったのではないか、というのがルリの考えだった。

 ルリの現実干渉性は小さいものだが、不可視状態のL粒子を認識し、作用できるというものだ。その彼女をここに押し込め、危機的な状況を作ることで、自発的に研究成果を生み出させようとしたのかもしれない。

 黒竜こそが、敵の目当てかもしれない。唯一の脱出手段が敵にとっても目的だとしたら、これは非常に危険な賭けになる。

「これを預けておくよ」

「これは?」

「九ミリ口径の弾薬だ。四発ある」

 成型機で作った弾薬だった。銃の世話になったことのないレイにとっては、初めて見るものだ。

「鉄砲なんて撃ったことねえよ」

「簡単だよ。それに、ちょうどいいケースだったというだけで、発砲して使わなくてもいい」

 言いながら、ルリは弾丸をレイの手に握らせた。堅く冷たい感触がする。

「この弾丸には、私の能力で作った幽子デバイスの小型版が封入されている。幽子デバイスとNデバイスを接続し、その先にあるものを引き出し、繋いでしまうプログラムが封入されている」

 レイが自分自身に使えば、ルリの言う「片割れ」と繋がる事もあるかもしれないという。

「きみは自分のために、これを役立ててくれればいい」

「……そんな話、どうでもいいんだよ」

 レイはもう我慢できなかった。ルリは、レイにとって親友だ。もっと言えば肉親に近い存在だった。

「行かないでよ……」

「別に死ぬわけじゃない。むしろきみの方が心配だ。しっかり生き残るんだよ」

 姉の姿を思い出し、胸が痛んだ。自分に生き残る価値があるのだろうか。

「スイカだ。あれを完成させるまでは死んじゃいけないよ」

「あれは、あいつらが働かないから……」

 そんな他愛ない会話が、ルリとの最後のやりとりになった。



 黒竜が誕生しようとしている。汎用培養槽を改造して成型機とつなぎ、ノアリアを飛翔する黒竜を現実に呼び出す。実際に呼び出すのは、黒竜の形状データを持った大量の鳥だ。鳥によってルリの四肢を食わせ、神経組織を入れ替える。

 衣服を脱ぎ、ルリは培養槽に入る。生成される鳥は、仮想空間にあるプログラムから生み出されてくるコピーだ。既に実験は済んでいる。プログラム通り、次々とルリに群がっていく。Nデバイスで痛覚を遮断しているが、本来ならこの段階から想像を絶する痛みがあるはずだ。

 しかし、痛みがないのも今だけだ。ルリは四肢をすりつぶされ、その体を黒竜に変化させられる。Nデバイスを押しのけて筋繊維が置き換えを行ない、その段階で、徐々に痛覚は戻っていく。暴れだす体が見える。頑丈に作った培養槽の内側を、生まれたばかりの黒竜の爪が引っかき、音を立てる。

 やがて、荒かった呼吸が落ち着き竜が姿を現した。

 悠然と現れる巨躯に、全員が後ずさる。レイはその場に立って、その美しい獣を見ていた。彼女は何も発することはなく、悠然と森林の中へと飛び立っていった。



 手の中に、ちゃり、と、弾薬の感触がする。ここには、ルリが現実干渉性で織り上げた幽子プログラムが含まれている。

 ルリが成功すればみんなを迎えに来ることになっている。集まっていた方がいいのだが、自室に戻る者が多かった。レイもまた、住み慣れた自分の部屋で過ごすことにした。

 そして、レイは眠りにつく。ノアリアに誘われ、レイは仮想空間で目を覚ました。

(なんだ、これ)

 体は白い竜に変化していた。悠然と空を飛んでいる。そうだ。ルリはレイの分身にも手を加えたと言っていた。制御が利かない。激情に支配されている。確かに、これでは実用性はない。

(………)

 歌声が聞こえる。

 優しい歌声じゃない。悲しく、恐ろしく、艶やかな歌声。脳は歌声に支配されていた。まるで、自分の体ではないようだ。

(……て)

 強い望み。海岸のどこかから聞こえてきている。

 さあ、はやく。歌声はせきたてる。その位置に向かって、力強くなったレイの両翼が、風をきって仮想空間を舞う。海岸を歩く少女の姿を、レイは初めて見る。誰のアバターなのか。Sロットの中にはいなかった少女だ。

 濃灰色の髪と瞳で飛来するレイを見つめ。レイの顎が彼女を噛み砕こうとするその時まで、まっすぐに見つめ続けている。



 目が覚めた。

 どのくらい待っていただろうか。変化が訪れた。突然照明が落ちたのだ。廊下に出て驚いた。そこに死んでいるのはSロットではなく、ノア社の社員やスタッフたちだった。

「たす……け」

 レイの足をつかもうとする研究員の下半身は、もうなかった。何か大きな力で引きちぎられ、爪痕が残されている。

 艦内の全てが同じ状況である事が伝わってきた。緊急回線が開かれた艦内では、今だけの例外として、Sロットに対しても艦内監視データを送信していた。

 レイや他のSロットに与えられていた認識改変はもうオフになっていた。水没していると認識させられていたすぐ隣の居住ブロックから悲鳴が聞こえてくる。

 ストックされていた全ての鳥や狼は暴走し、あらゆるものに襲い掛かっていた。それらは幽子デバイスネットワークで制御されており、通常回線では制御できずどうすることもできない。猛獣たちは本社にまで押しかけ、ノア社の社員を次々と惨殺しているらしかった。

 それだけではない。狼はSロットや研究員を襲い、その生体組織を取り込んだ。生きている人間が持つ幽子デバイスを取り込んで幽子ネットワークに参加する端末になるためだ。

 まずは自己分裂した狼が自立制御で手当たり次第に人間を襲う。その人間をコアとして取り込むことで、利用可能な幽子デバイスを確保する。その上で不可視のネットワークの一員になり、高度な連携に組み込まれるという仕組みだ。

 外敵を殺しながらも部品として利用し、どんどん高度な集団になっていく。

「お前なのか……?」

 あまりにも残酷すぎる。夢の中で体感した白竜の感覚を思い出す。気分が高揚し、戦闘意欲が高まっていたように感じた。幽子通信機能を持つ黒竜の性能ならロボットたちをこのように改変し操れる。何度もルリに話してもらった幽子に関する物理学の知識が、レイにそれをわからせる。

 ルリも同じなのだろうか。あの体になったことで、精神にまで変化をきたしたのかもしれない。別れた際の穏やかな様子を思い出す。どうして変わってしまったのだろう。生き残りのSロットはどうしているだろう。襲い掛かってきた狼を、レイは能力を使って消し去った。

 今なら逃げ出せる。しかし、怖くなったレイは部屋に戻って戸を閉めた。

 何時間かじっとしていた。そうしているうち、非常電力に切り替わった。艦の炉が停止したらしい。レイは勇気をしぼって外に出てみた。電力途絶で一部の隔壁が動かなくなり、他のSロットの個室へ行くこともできなくなった。

 艦の隔壁を能力で破壊しようとレイは何度も試みたが、艦を作っている物質だけは、どうやっても壊すことができない。能力にかけられた鎖によるものだ。自分では解除できない部分の安全装置が裏目に出ている。

 レイは移動できる範囲にでかけていって、食料や生活に必要なものを集めた。そうして、何日も過ごした。何日が経過したのか、正確にはわからなかった。

 眠るのは恐ろしかった。眠れば、ノアリアへと誘われる。制御の利かない体のまま、知らない少女を惨殺し続けなくてはならない。

 永遠にも感じられる牢獄に、肉体も魂もつながれたレイ。自分は何故生まれてきたのか。結局、誰も救うことはできなかった。なら、もう全て終わりにしてほしい。

 ある日、突然電源が復活した。誰かが炉を再始動したのだろう。一部の隔壁は動くようになる。

 レイは人を探した。誰でもいい。研究員でもSロットでもいい。とにかく、ここで生き残っているのが自分ひとりだとは思いたくなかった。

 レイは誰か生存している事を願いながら、明るくなった廊下を歩き続けた。

 そして、柊に出会った。





 ノア社の周囲を警戒しながら航行していた戦艦サツマの索敵網に、異常が起きていた。

 サツマは単独でも索敵が可能だが、普通は政府軍の探査衛星とリンクして敵を発見する。その情報が信頼できないなどということは、就役してから一度もない。

 長年この艦と共に戦ってきた艦長は衛星探査システムに全幅の信頼を置いていた。なので、その報告を聞いた時はエラーに違いないと思った。

「確かなのですか?」

「はい、僚艦からの情報も全て一致しています」

 衛星探査システムには影も形もない水中の艦影が一つ、彼女の艦隊の全てのソナーが捕らえていた。サツマの索敵情報と衛星探査の結果は一致していない。

 そんなことは初めてだった。

 艦隊以外で補足している艦影は四つある。そのうちの三つは正常だ。同じ政府軍の攻撃型潜水艦が三隻いる。それが衛星からのデータでわかる。残る一つ、ノア社の地下施設から出た幽かな影は、衛星に登録されていない。かなり遠巻きではあるが、三隻の潜水艦はその未登録の影を取り囲むように配置している。

 この幽かな反応を示す水中物体はあのエージェントが潜入しているオウミ級で間違いないだろう。地球全体を射程圏内とするサツマには高性能のレーダー・ソナーが搭載されているが、それをもってしても最新の重力ステルス艦でもあるオウミを探知するのは難しい。仕様をひそかに伝えられた艦長はおおまかなスペックを知っているから、これがオウミだとわかるに過ぎない。

 このオウミは地対宙反抗という用途上、宇宙空間からの索敵に対して高いステルス性を持っている。だから、衛星でとらえられないことは理解できる。距離的に見て、現在オウミを捉えているのは当艦隊だけのようだ。

 しかし、サツマと衛星とのリンクは確実に実行されている。衛星が探知できないとしても、サツマが得た索敵情報は衛星にアップロードされ、再配信される仕組みのはずである。それが無いというのは明らかな異常だ。

 他の全てが正常なので、これだけが不具合ということはありえない。だとすれば、それが意味するのは一つだ。

「恣意的な情報操作ですか」

「おそらくそうでしょう。抹殺するつもりなのでは?」

 艦長の指摘に、副長がそう返答した。抹殺。ノア社での惨状、月面での生体ロボットの脅威を思い出す。あれを月面都市に、大規模に広げられれば一大事だ。

 だから、オウミを沈めるつもりなのか。

「司令部に問い合わせましたが、返答はなしです」

「そうですか……」

 乗り込んだエージェントは綺とかいう名前だったか。炉心が稼動を開始したことまでは衛星で捕らえていたが、今は衛星の目からは逃れている。サツマの索敵網にかかるまで、衛星の目から完全に消えていた。彼女がオウミを動かしているのだろうか?

「潜水艦隊が誘導魚雷を発射。着弾は二分後です」

「全艦隊のソナーをクローズ、スタンドアロンへ」

 オウミからかなり遠くにおり、索敵範囲外のはずの潜水艦から、正確にオウミに向けて魚雷が発射された。やはりおかしい。

 艦隊の索敵情報は衛星にアップロードされた後に恣意的に削除され、この潜水艦隊に対してだけひそかに提供されていると確信する。艦長の指示は、衛星への情報送信をカットし通信封鎖を行なうものだ。敵の索敵外の長距離から外部誘導頼りで発射された魚雷は索敵情報がカットされれば誘導が効かなくなり、安全装置によって自爆する。魚雷の反応は消滅した。

「あの……何故こんなことを?」

 艦長の指示は味方への妨害行為ととられかねない。

 軍に機密はつきものだし、このオウミは危険なものなのかもしれない。潜水艦隊をサポートするのが本来のオウミの仕事だ。放置してもよかっただろう。しかし、艦長の考えは違っていた。

「これで向こうから連絡をしてくるかもしれませんし、どのみちあの誘導魚雷ではオウミは沈められませんよ」

 むやみな攻撃は危険だ。誘導カットは、自分たちの艦隊や、あの潜水艦を守ったとも言える。

 あのままでは確実に敵に存在を晒していた。今の自爆であっても、運が悪ければ存在に気付いた可能性もある。あまりいい手とは言えない。

 どういうことなのだろう。この潜水艦隊はオウミのスペックを知らないのだろうか? 詳細な仕様を知っていれば、あんなナンセンスな攻撃はしない。オウミには水中戦闘能力がある。たった三隻の潜水艦で追い詰められるような相手ではない。最新の重力フィールドや迎撃用のおびただしい数のデコイを搭載したあの潜水艦を沈めるには、もっと規模の大きい艦隊でなくては。

 艦長のように十分な情報を持たないのかもしれない。軍や、その上の政府には様々な派閥がある。だから、オウミのことを知らない勢力も存在するのだ。

 艦長を呼ぶ電話はなかった。意図的な情報カットにも公式なお咎めができないということは、別の勢力がこの艦隊の情報を盗んでいる可能性が高くなった。潜水艦隊は移動しながら、自分自身でオウミを探索し始める。

「無駄かもしれませんが、潜水艦隊には攻撃中止を要請してください。依頼主にも今の状況の報告を上げます」

 連携や情報提供の責任は負えないので、迂闊にはしない。派閥の違いに阻まれているならもっと上を通して判断してもらうしかない。何の指示もない孤立無援で状況は不明だが、じっとしているつもりはない。

「我々もオウミを追いましょう」

 状況はわからないが、この艦隊の索敵能力ならばオウミの追跡は可能だ。既に感知された可能性が高いが、敵の武装や索敵能力など、詳細な仕様も判明している。危険は制御できる。

 沈めるにしろ他の目的にしろ、この目に捉えておくにこしたことはない。人命尊重、というわけでもないが、あの綺というエージェントが無事であることを祈る。政府の人材にしては、見所のある人物だ。仕事に私情を持ち込むつもりはないが、救える命を見捨てる気はない。

 オウミの反応は幽かだ。近づきすぎれば反撃を受けるが、離れすぎても見失う。

 長い追跡になるかもしれない。艦長はマグカップの冷えたコーヒーを飲み干し、海図へと向かい合う。


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