ノアリア  Noaria 

Noaria 1



  Noaria





 月面の空に、音はない。

 静寂の名をつけるなら、この場こそ相応しかったかもしれない。地球から見えることのない月の裏側。その下に広がる大空洞の内部は、まるで時が止まっているかのような静けさに支配されている。

 何も動かず、何も聞こえない。それが、都市がまるごと入ってしまいそうな広大な空間の全てを覆っている。地球では、こんな規模の洞窟はありえない。重力が小さい月でなくては、この規模の地下空洞はすぐ崩壊してしまう。

 自然光伝達式の照明が各所にあり、地形はぼんやりと浮き上がっている。空気が無いので光は散乱せず、明暗がくっきりと分かれ、全く光の届かない影が存在する。

 複雑かつ視界の悪い地形。まるで蟻の巣のように入り組んで、奥へ奥へと通じている。

 異質なまでの静寂の中で唯一、舞い踊るように飛ぶものがある。白百合のような繊細な何か。自然の産物ではなく、人工物だった。

 小型の有人宇宙戦闘機だ。複雑な地形の中、全長四メートルほどの宇宙戦闘機が曲芸飛行を続けていた。

 乗っているのはレイ・レシャル。彼女の所属するR(ローズテック)社の粋を集めて作られた有人戦闘機「ピストレーゼ」は、従来の無人戦闘ポッドとは一線を画す高性能レーダーと計算機を搭載した無人機指揮機だ。独自開発のパッシブレーダーや高性能カメラを有し、偵察機や電子戦機として機能する。このような狭い場所でも、備え付けられたセンサーの複合解析で正確な地形把握ができる。

 真空を飛ぶ宇宙戦闘機でありながら居住市街地の大気中でも運用できるこの指揮機は、空気抵抗を考慮に入れた流線型の姿をしている。一輪の花のように、暗闇に優美な姿を浮かび上がらせる。白く輝く機体は、たった一輪。どんな随伴無人機も引き連れていない。高性能とはいえ積載に余裕のない小型の有人機だ。単独では火力に欠けるため、一機での行動は無謀のはずだ。

 それは、これが隠密行動だからだ。少しでも目立たたずおく必要がある。

 やがて、目標が見えてくる。

 この大空洞には公にされていない施設がいくつもある。そのうちの一つを、また見つけた。レイは十四歳という年齢に似合わない鋭い視線を、今日の目標へと注いだ。

 上空に近づくとピストレーゼのキャノピーを開き、思い切りよくコクピットから飛び出る。一瞬の後にアーマースーツの噴射で微減速し、着地した。自主訓練を受け、年齢の割に成熟した体のレイにとって、この程度は運動のうちにも入らない。

 乗り捨てたピストレーゼは自己判断を開始し、レイのサポートに入る。施設へと侵入する彼女を認めると、周囲を警戒するために飛び去った。真空は音を届けず、白百合のような機体の両翼のエンジンから青白い閃光が噴出するのが見えるのみだ。

 レイが今まで蓄積してきた戦術情報に基づいて高度に自己判断が可能なこの相棒は、単独での空中戦までもが可能だ。遠くにいても心強い存在だ。

 母が遺した資料でおおざっぱに判明している秘密研究所の位置と数。場所を推定しながら一つずつ発見し、調べ、今回で何度目かになる。探りを入れ続けたことで、最近は警戒されている。前回の時は十分ほどで敵の戦闘ポッドが駆けつけてきた。

 手早く済ませる必要がある。

 レイが集めているのは、月開発の裏を探ると必ず噂に出る「研究所」に関する資料だ。

 正式な名称は古世代研究所というらしい。そこでは、かつての人類の姿を知るという名目で人倫を逸した人体実験が行なわれていると聞く。レイは研究所を追っている。この大空洞に何度も訪れているのも、そのためだ。

 こうした地下の空洞は、月面にはいくつかある。知られたのは最近のことではなく、初期の月探査で判明していることだ。有効活用しようという意見もあったが、巨大すぎるのが問題だった。密閉に大規模な工事が必要な上、崩落の危険を管理しきれない規模であることから中止になった。

 存在や活動内容を隠匿している研究所にとっては、隠れ蓑に最適だっただろう。しかし、それも最近までの話だ。都市から基地までの長い長い輸送トンネルの途中にあるこの場所は、資材置き場として使われ始め、最近は人の出入りが活発になった。レイが発見できた秘密研究所と思しき施設はとっくに引き払われたものばかりで、今日まで何の成果も得られなかった。

 今回見つけた施設も既に無人だった。何の抵抗もなく、レイの進入を許す。

 規模は大きくない。中型の輸送船発着ポートが施設のほとんどで、他はいくつか実験室らしい広めの部屋があるだけだ。照明は停止しているが、窓により自然光が利用でき、ぼんやり明るい。

 かなり前に破棄されている。当時何をしていたかすら特定できないほど、何もかもが撤去されている。

 また空振り、とレイは歯噛みする。おそらく、ここも何も残されていない。

 早くしないと、進入を察知して無人戦闘ポッドが駆けつけてくる。月面都市ではR社を含む企業連合と政府の治安維持軍が小競り合いを起こす事がよくあったが、ここでの敵は政府軍のように遠慮深いものではない。徹底してレイの命を狙ってくる。

 その危険を感じつつも、せっかく足を運んで収穫なしでは腹が立つ。そう思ったレイは、一応一通り施設の内部を見て回る。施設にはまだ大気があった。スーツに内蔵された複合生命保護機能は、気圧や大気の安全性が問題ないことを告げている。暑苦しいバイザーを開き、銀色の髪を静謐な空気の中にさらす。

 一つ一つの部屋を見て回るが、めぼしいものはない。

 ある一部屋で、レイは足を止めた。もう帰ろうかと思った時、肉眼では見えない何かがレイの視野にちらりと映ったのだ。現実の視界ではなく、AR(拡張現実)で何かが補強されている。

 それは、壁面にあった。特定の波長の光を反射して蛍光する塗料で書かれた何かだ。肉眼では見えないが、ピストレーゼの優れたセンサーがその一端を少しだけ解読し、ARに反映させていた。

 大空洞にはAR環境を動かすようなネットワークはない。このARは施設由来のものではなく、レイの相棒からの提供データだ。ピストレーゼは、搭乗していない時にはレイ自身を守り補助する外部ガジェットでもある。機体が得たセンシング情報をレイの視覚に追加情報として反映することが可能だ。

 外を飛ぶピストレーゼのカメラは、施設の外を飛びながら、遠距離から窓を通じて壁面の一部をカメラにおさめ、何かを見つけたのだ。レイは機体を移動するよう指示を出し、カメラを目的の壁面に向けさせる。その情報がレイの視覚に上書きされ、隠された情報が浮き上がった。

 二次元デジタルコードだった。読み込んでいくと、一つのファイルとして取得できた。他の部屋にも同様のメッセージがないか探してみたが、存在しなかった。

 初めての収穫だ、とレイは思う。どきどきしていた。こんなまわりくどい方法でファイルを隠していたということは、内部告発か何かかもしれない。トラップの可能性もあるのだが、この少女はそんなことは考える性質ではなかった。

 中を確認したい所だが、まずは生存する方が先決だ。

 思う矢先、それは出現した。

 戦火をきったのは外の相棒だった。敵機を発見、内蔵機銃を使用したことがレイのARにすぐさま表示される。

 敵は地上タイプの戦闘ポッドだ。政府系企業のAF(アレス・ファイヤアームズ)社のモデルに似ているが、何のロゴマークもなく、所属は不明。

 つまり、いつもの敵だった。

 着弾した振動が地面を通じてわずかだけ施設の中にも響く。どうやってレイの進入を探知しているのか不明だが、以前よりも駆けつけるのが早くなっている。

 ピストレーゼは飛行タイプで、開けた大空洞では地上タイプよりも有利だ。敵の攻撃をかわし、数と位置を常に補足し、優位に立つ。しかし、重装甲タイプの敵機に対し火力が足りずてこずっているようだ。レイはアーマースーツの腰部につけた短機関銃をとり、装填をチェック、安全装置を解除する。

 射撃と空中戦だけは自信がある。レイは、その二つだけを磨いてきた。

 広域発煙弾の発射を指示すると、ピストレーゼは許諾のサインを出す。その指示だけで、主の意図までも理解するだけの自己判断機能を持つように教育されている。多目的擲弾砲に指示の弾薬を装填し、適切な場所に向けて発射する。

 真空で広範囲に拡散する発煙弾が敵戦闘ポッドの視界を封じると、カメラセンサーが主体の敵の動きは鈍る。拡散するのも早いので、それほど時間のゆとりはない。レイ自身は、センサーの優位性のあるピストレーゼからのフィードバックを得て、スモークの中でも視界を確保している。

 施設から出て、地面を走る。ピストレーゼは自己判断し、敵機に機銃掃射して注意をそらすことで援護する。レイは短機関銃を注意深く構えながら、足音を聞かれて存在を知られないように移動、適当な高台に登る。

 絶妙のタイミングで飛来してきたピストレーゼに飛び移り、コクピットに体をすべり込ませる。一瞬遅れ、その場所に敵機の機銃掃射が降り注ぐ。

 その時には既に、レイは高く舞い上がっている。

 自分を狙ってきた生意気な敵ポッドをバラバラにしてやりたかったが、残弾がもう少なかった。戦闘は諦め、レイは帰途につく。

 大空洞に一瞬のみ訪れた戦闘の余韻は、レイの鼓動に残るのみ。そこで砲火が交えられた事を、深い眠りの中にある月面都市の住民が知る由はない。



 五年前、武装勢力が月面基地を奪取しようとした事件があった。

 月面にある巨大施設は二つだけだ。企業が開発し一般市民が住む地下月面都市円環と、政府が建造した月面基地だ。月面都市が永住環境を持つ安定した居住施設であるのに対し、月面基地は異惑星への扉とも言えるマスドライバーシステムを備えた空港であった。

 異惑星、とくに移民可能なものは、地球の一つ外の軌道を回る黒耀星がある。大量輸送には重力が少なく資源の豊富な月を拠点にすることが必要不可欠だ。滅び行く地球の代替となる星の開発に向け、月面では利権を巡って争いが頻発している。

 月開発自体が、本来はそのためだった。外惑星へ通じる扉を独占するために基地を隠してきた政府は、五年前のその事件で大量輸送計画の存在を暴かれた。やむなく異星開発計画に深く企業を参加させ、企業連合の非難をやりすごさなければならなかった。

 その合同計画の第一段階が、月面都市から月の裏側まで続くトンネルの建造だった。R社もこの計画には参加し、トンネルへの無制限の進入権を持つ。レイはコンテナの一つに自分ごとピストレーゼを収納し、月面都市に向かう高速リニアトレインへと積み込ませた。真空の大空洞内に人はなく、無人作業ロボットが積み下ろしを担当する。R社の社員であるレイなら、自由に、かつ誰にも見られずに出入りができる。

 全長四メートルという小型機であるピストレーゼのコクピットは狭いが、柔軟な体のレイはその空間の中で起用にアーマースーツを脱ぎ、用意しておいた普段着を着る。これで街中に戻ることができる。

 リニアトレインが月面都市内に到着する頃には、身だしなみは一通り終わっている。コンテナから出たピストレーゼは垂直離陸ファンを使って上昇、大気中でも利用できるエンジンを利用して問題なく平常重力の中を飛行し、自宅上空までレイを連れ帰る。

 社長令嬢という身分にも関わらず、レイの自宅は一般的なスロット型の住宅だ。歓楽街の栄える第三区画の住宅地に差し込まれている。自宅のすぐ上で減速し、コクピットから降りる。ピストレーゼは再加速し、飛び去っていく。試験飛行の名目で持ち出された相棒は任務終了を自己判断し、R社の本社がある第二区画へと向かうのだ。

 月面都市全体に広がるCUBEネットワークの無線通信圏内に戻ってきた時から、N(ニューロ)デバイスにはしきりに呼び出しがかかっている。それは無視し、レイは自宅に帰って真っ先にシャワールームへと向かった。

 Nデバイスは、体内に埋め込まれる微細な計算素子によって形成される神経増強ネットワーク端末だ。視覚や通信、記憶、計算を補助する。宇宙に出る人間なら必ず体に埋め込む必要がある。

 一糸纏わぬ姿でいるシャワールームでも、意識には呼び出しがかかり続ける。神経質な呼び出しがあまりにも不快なので、髪を乾かす間も惜しんでシャワーを切り上げる。湿った体のまま、自室のベッドに腰掛けた。

『また火遊びですか、レイ』

 音声による通信の声は、レイを責めるものだった。予想した通りだ。

 彼女の名はサクラ。レイが物心ついた頃から面倒を見ている、メイドのような存在だ。

「そんなの、私の勝手でしょ」

『そうは参りません。ご両親から、あなたを守るように言われていますから』

 人工知能のクセに、とレイは思う。しかし、この声のことをレイは憎めない。両親はレイを育ててくれなかった。サクラこそが、レイにとっての親だ。会社の全システムを管理するAIであるサクラがレイの教育を管理し、学校を選び、教養を養った。

 地球ではまだ申請型の培養出産が一般的だが、この月面においては育ての親が違うのは珍しくない。ほとんどの一般市民は施設で育つ。むしろ、いまどき自由結婚で子供を設ける肉親のほうがイレギュラーだ。当時は自然出産の方が安全だったという話だし、親はレイを愛していたと何度も聞かされたが、産みの親は既に死亡、遺伝子提供親もレイを無視して行方をくらませているのが現状である。それで愛されているなどと言われても実感はない。しかも親は、このR社の創設者だ。社長令嬢といういらぬ肩書きが鬱陶しい。

 愛なんて、レイにはよくわからない。でも、漠然とした責任感がレイを焦燥させる。生きる事を強制されているかのようだ。

 理由なく生み出される者はいない。必ず、何かの意図がある。レイはそれを伝えられることなく、育ってしまった。

 そんなレイが自分で選んだ仕事はテストパイロットだった。母がそうだったらしいと聞いて興味を持った。母が楽しかったものなら自分も楽しいかもしれないと思って取り組んでみたところ、それが見事に一致していた。

 Nデバイスによる教育促進がある今、飛び級はそう珍しいものではない。レイは急ぎ数年で学士過程を終え、一般公募に応募し仕事を勝ち取った。

「そんなことより、あの子から受け取ったものを渡しなさい」

『Nデバイスに転送します』

 説教こそすれ、サクラは主人であるレイに逆らったことはない。人には逆らえないように出来ている。そのあたりは、人工知能らしいドライさがあった。レイの指示に従って、すぐさまピストレーゼが取得したあの施設での収穫を転送してくれる。

 今回が初の収穫なのだ。宝物を見つけて開ける時のような気分だ。

『また大空洞ですか。次は命がないかもしれませんよ』

 ピストレーゼの航行記録か何かを見たのだろう。サクラはまた説教を始める。

「だったら、もっと強い武器を開発してよ」

『火力の不足は、無人ポッドを連れていかないからです。重火力は当社が与えられた自警法の認可を逸脱し――』

「ぞろぞろ連れて行くのはかっこ悪いもの。目立って仕方ないし」

 もういいから黙っていて、とレイが言うと、サクラはそれ以上喋らなかった。

 未知のデータをNデバイス内で展開するのは危険なので、念のため隔離された計算領域に展開、それをAR上に表示する。

 それは、低解像度の三次元マップだった。どこかの自然地形と、その地下の構造物を示している。

「サクラ、検索を」

『該当の地形がヒット。ですが、ここには行けません』

「いいから、教えなさい」

 初めての収穫だ。ここがどんな場所でもなんとかして行ってやる。そう、レイは考えていた。人工知能の合成音声は、淡々と検索結果を告げる。

『地球上、政府系企業のノア社本社の近くの地下のマップデータです。このデータが間違いでなければ、申請されていない地下設備が存在することになります』





 自己とは曖昧なものだ。

 記憶は昨日とは連続しているが、それが本当に連続しているかはわからない。認識は事実とは限らないし、考え始めると何も信じられなくなる。

 記憶は自分のものではない。Sロットを管理するための特殊被検体、Qロットとして生み出された綺(いろい)柊(ひいらぎ)の記憶は、上司によって管理されている。

 研究所によって生み出され、感情を育てることで世界を探索する被検体であるSロット。それらの記憶を追体験することでデータベースへと移し変えるのが、Qロットの主な役目だ。

 しかし、Sロットの経験の全てを追体験のたびに蓄積していったのでは精神に異常をきたす。Qロットは任務のたびに記憶をリセットされる。

 柊はまだましなほうだ。高度に記憶を分別し、個別に忘れることができる実験体だ。いちいちすべての記憶を消去しなくても、特定の人物や事柄についてだけ選んで忘れる事ができた。

 昨日も柊は別のSロットの記憶の吸出しを行なっていたが、今は綺麗に忘れている。自宅に別の誰かの香りがする。その香りの持ち主をもう思い出せない。これをもう何年も続けている。寝台を片付け、香りを追い払って、柊は出かける。

 通勤途中に立ち寄るオープンテラスの喫茶店はちゃんと覚えている。日常の記憶には支障を及ぼさない。今日もそこに立ち寄り、習慣でぼんやりと往来を眺めていた。

 多くの人が闊歩している。通勤前に憩いの時を過ごしている。中規模都市と同程度の人口がある月面都市の住民のほとんどが柊とは関わりのない人物だ。職場の情報室や政府系企業には顔を見知った人物はいるが、柊個人を詳しくを知る者はいない。話しかけてくる者はいない。

 今日は研究所の仕事だ。表向きの職場の政府情報室ではなく、地下深くの研究所へと向かう。



 実験室には、柊が一人だけが残された。

 この場所はあらゆる無線ネットワークから遮断されている。今回の実験はスタンドアロンで作業を行うことで意味が生まれる。

 柊はNデバイスから目的のデータを再生する。新型素子に入れ替えた柊のNデバイスの処理性能は飛躍的に向上しており、現実干渉性再現用計算機「祈機」に迫る処理容量を持っていた。

 読み込んだデータは二つ。物質生成の現実干渉性と、生成する品物の設計図だ。

 現実干渉性とは、研究所の人造被検体だけが持つ特殊な能力である。世界の法則に介入し、干渉し、現実に影響を及ぼす事ができる。今柊が自身の拡張記憶領域にロードしているのは、量産型被検体のSロットの誰かが開発した「無から物質を生み出す」という現実干渉性だ。

 ただ物質を生み出すだけでは、この能力はそれほど有用ではない。生産力も大きくない。しかし、強化型のNデバイスの計算能力と組み合わせれば、マイクロメートル単位の精度で設計図通りの物体を生み出す事が可能になる。大規模に行うことができれば精密部品の量産が可能になる。

 Nデバイスの起動からほんの一瞬後、柊の掌の上に目的の物が生み出されていた。

「実験室の質量が一〇〇グラム増加。設計図どおりの増加量だけど、中身は成功?」

 かけられる声と同時に、研究所の密閉が解除される。質量保存の法則を捻じ曲げて柊が生み出したのは、電子回路を持つ携帯端末だ。電源をつないで作動させると、全てが正常であった。

「良好ね」

 確認したのは、柊の保護者であるアイ・イスラフェルだ。惑星開発財団の総帥という忙しい立場ながら、柊の人体強化のために立ちあってくれた。しかし、元技術者としての血がさわぐのか、柊の性能の方に興味津々だ。

「体への負担は?」

「少し負担だけど、後遺症が残ることはない感じ」

「そう。一応、あとで体を診せてね」

 物質生成の現実干渉性はまだ完全ではなく、生成できる分子の種類や解像度、量は限られている。バッテリーなどに必要となる一部の分子はまだ作れないし、Nデバイス素子のような超小型のものを効率よく作ることも不可能だ。電気回路や、簡単な集積回路くらいが関の山だ。

 今日のテストは、むしろ柊に搭載した新型Nデバイスの方だ。従来型の約二〇〇倍の性能を持つ新型素子は、今まで部屋一つ分ほどの計算室を要した「祈機」の代わりとなることができた。実機ほどの性能はないが、十分に実用に足る。大きな計算にも耐えられるので生身への負担が減るだろう。

 これで、Qロットは一つか二つ程度の現実干渉性の持ち歩きが可能となる。しかしこれほど微細な素子になると、偶発進化して暴走する可能性が出てくる。増殖機能を与えるのは危険だ。だから自己分裂製造することができない。一つ一つ作るしか方法がない。製造費用が高すぎて実用性がない。Nデバイスはこの程度の性能までが限界だろう。これ以上は生物の領域で、制御不能の危険がある。

 現状これは、柊にしかインストールされていない。しばらくは他の誰にも搭載されないだろう。

「それ、何なの?」

 柊が疑問を口にする。自分で作っておきながら、モデルになった設計図の内容を柊は知らない。生み出された端末は原始的なモノクロ液晶端末がついた懐古趣味的なものだ。アイは先ほどから夢中でそれに向き合っている。

「大昔の携帯ゲーム機よ。知らない?」

「知るわけないでしょ。いくつ年齢違うと思ってるのさ」

 アイは嫌味も気にせず、ゲーム機に熱中している。柊もVR(仮想現実)ゲームの経験はあった。戦闘シミュレーター系は訓練としても役立つ。

 拡張現実や仮想現実が一般化したというのに、骨董品のような携帯ゲーム機に夢中になっている保護者を目の当たりにし、柊はため息をついた。

「帰っていい?」

「そうね。ご苦労様」

 現在財団が進めている黒耀星の開発は政府と企業のプロジェクトになった。積極的に間に立っていた過去とは違い、財団の出番は減っている。しかも、肝心の財源も最近は減らされている。政府の資金投入は宇宙艦隊の編成がメインになっている。

 アイの仕事は前ほど多くはない。携帯ゲーム機に熱中できるほどには。

 柊は研究所を出る。新しくなったNデバイスの容量は巨大だったが、使い道はなかなか思いつかない。

 急に思考が拡張されて、なんとなく落ち着かない。どうしたものだろうか。

 その柊の前に、見知った人物が現れた。

「こんな場所にいるとは珍しい。お払い箱?」

 出会うなりそんなことを言う人物、エル・イスラフェルは少し特殊な同僚だ。実験動物のように研究所に閉じ込められ隠されている量産被検体Sロットでありながら、職業を持ち、制限つきで自由に歩き回れる人物である。柊と同じ強化兵士で、任務で一緒になることが何度かあった。

 部署が違うので、本当は親しくするべきではない。しかし、お互いにそういうことを気にする性分ではなかった。今日まで、適度な距離感の同僚として付き合いがある。

「第三区画の喫茶店に転職したいんだけど、誰か紹介してくれないかな?」

「私ができるわけない」

 彼女と冗談を言うほどには、最近の柊は落ち着いている。アイの仕事とともに、柊の仕事も減っている。本来の仕事はなりをひそめ、こうした技術開発の手伝いが多くなってきている。

 主に、アイの趣味だそうだ。

「姉が迷惑かけるね。ああなったのは私のせいだから」

 アイの勝手に関して、妹にあたるエルが詫びた。表情の変化のない彼女に言われると、本気なのか形式上の発言なのか、いまいちわかりにくい。

 ああなった、の意味も、柊にはよくわからなかった。

 彼女とアイの姓は同じだ。二人とも、イスラフェル系という血筋にあたる被検体である。銀色の髪に薄灰色の瞳、白い肌が特徴だ。エルはアイのような長髪ではなく、職業柄動きやすさを重視した短髪、気を使った結果か天然なのか微妙な線のルーズボブにしていた。

 アイも今は当たり前のように社会生活をし、月面都市では並の人間以上の人権がある。それでも、実験動物も同然の存在として生み出された過去は、他のSロットと何も変わらない。

 Qロットはその役割上最初からある程度の自由があるが、アイやエルのようなSロットが自由を手にできる可能性は一%にも満たないという。彼女たちは研究所の開発の骨子であり、最も外部に触れてはならない成果そのものを内包しているからだ。しかし、この二人は特別な事情で社会の中に一応の居場所を持っている。

 そんな共通点がありながら、アイは妹のエルが嫌いらしかった。嫌いというよりは、恐れているようにも見える。どういう理由かは知らない。

「こっちの仕事の方が楽しいし、迷惑とは思ってないよ。頼りにできるのはアイくらいだし」

「私は? きみよりも年上なのに」

「一つだけじゃん」

 彼女の外見は歳相応のはずだが、やや身長が高めの柊からすると見上げる仕草が可愛らしい。だが、年上扱いしないと静かに怒るのを柊は知っている。

 自由があるとは言っても、柊とエルでは立場は大して変わらない。研究所にとっては道具の一つで、お互いを頼りになどできない。生まれた時からそうなので、二人とも特に疑問を感じることもなく、受け入れ続けてきた。

 そういう意味では、柊とエルはよく似た存在と言える。

 エルの主な仕事は脱走者の処分だ。柊も時々やっているが、エルほど数多くの獲物はあてがわれていない。アイが保護者にならなければ、エルの仕事は柊のものだったかもしれない。

 ふと、同時に二人のNデバイスに通信が入る。何らかのファイルが外部記憶に置かれる。

 作戦指示書だ。顔を見合わせる。どうやら内容は同じようだ。

 港に出現した「何か」を排除せよ、という内容だ。政府軍が手を焼くようなものがそこにあるという。

 二人の兵士は、すぐに行動を開始した。



 港はすでに封鎖されていた。近づいた柊は、その場所に漂う匂いに気付く。

 換気システムの中にわずかに流れる、硝煙と血の匂い。政府軍か一般人か、ここで誰かが犠牲になったらしい。

 既に報告には目を通した。しかし、にわかには信じがたいことだ。

「巨大な、獣のようなものだったって。そういうのとやったことある?」

 話しかける相手は、すっかり戦闘体勢になった同僚だ。

「狩猟の経験はある」

 獲物を携えたエルは、柊にとって見慣れた姿だ。武器は治安維持用の槍に刃をつけた特注品である。格闘武器しか持たないなど冗談のようだが、彼女にとってはそれが最適の武装選択だという。高度な視野解析技術を持つ敵や厄介な特殊能力を持つSロットばかり相手にしてきたエルにとっては、決定力のない射撃武器は魅力的に映らない。研究所の技術で最高級まで強化された身体を持つ彼女には、最も有用な武器であるらしい。

 柊も格闘は得意だが、戦闘ポッドなどの人外にまで殴りかかる気にはならなかった。もともとQロットは事務方で、こんな仕事をしているのは柊だけだ。扱うのは軽量武器のみ。ブレード部のある特殊拳銃を掌に忍ばせるのが、戦闘に特化したQロットである柊のスタイルだ。

 敵は、輸送船が発着し積み下ろしを行なうためにある程度の広さを持つ軍用ポートのどこかにひそんでいるという。

 二人がかりの仕事など滅多にないものだが、お互いの事は熟知している。意思の確認は必要ない。巨大な搬入用ゲートの隣にある人員用の出入り口を開け、中に入る。

 ポート内は体育館程度の広さで、あちこちにコンテナが積まれている。死角が多い空間だ。

 しかも、カメラと照明が破壊されている。施設と一体になった非常灯は健在だが、それだけではいかにも暗い。

「(これが、動物のする事だって?)」

 顔を見合わせるまでもなく、二人の意見は一致していた。

 今時は警備兵でも肉眼をセンサーとして有効活用する訓練をし、画像解析を戦術に役立てる。それを過信すると弱点になることもある。エルや柊は熟練で、非常灯程度の照明でも優位に戦闘を進められるため、敵が人間ならこうしてわざと照明を落とすことがある。

 もし敵も同じような強化兵士であるなら、この状況は有利というわけだ。画像解析を補助する監視カメラと、画像解析の礎となる照明。それだけを的確に破壊する知能のあるものが、ただの獣とは考えられない。

 生物兵器。そんな言葉が二人の脳裏に浮かぶ。

 血の匂いはそこらじゅうに広がっている。警備用の戦闘ポッドは、何か鋭く力強いもので外装を引き剥がされ、破壊されていた。

 戦闘ポッドは安価な兵器とはいえ、その大きさは背丈ほどもある。装甲も手持ちロケット弾程度なら防ぐほどの強固なものだ。

「ところで、狩猟ってどんなやつ?」

「地球の戦争に送られた時、食べるものがなくなってウサギを捕まえたことがある。汚染が心配だから、結局は逃がした」

「ふーん……」

 心強い話であった。

 薄暗いポートの中を歩きながら、二人は敵を探した。血の匂いは奥のコンテナの陰から漂ってきている。

 慎重に確認する。緊張の時だ。

 しかし、その陰には何もなかった。血だまりがあるだけだった。

 その瞬間だった。

 突如上から襲い掛かってくるものを直前に感知し、二人は左右に分かれて避けた。

 コンテナの上にいたのだ。足音もさせずにそこに登って潜み、黒い巨躯を翻らせて襲い掛かってきた。

 振り下ろされた腕の下、コンクリートの地面にひびが入っている。狼を巨大にしたような何かの姿が、薄暗い中に現れた。

 乗用車よりも大きい。緊張を抜かなかったおかげで気づく事ができたが、一瞬でも気を抜けば押しつぶされただろう。暗闇の中に浮かぶ巨大な影を、二人は慎重に見極めようとする。

 果敢にも、先に攻撃を仕掛けたのはエルだった。長柄の槍の柄尻を持ち渾身の力で薙ぎ払うが、刃は通らない。

 攻撃を受け、激昂するかのように敵の体が盛り上がるのが闇の中に見えた。顎門はなく咆哮もないが、全身をふるわせる不気味な音が声のように響く。今にもエルに襲い掛かろうとするそれに、柊は特殊拳銃を向け、発砲する。

 一発目は発光塗料弾だ。白色の光を発する塗料を付着させるもので、殺傷能力は低い。敵は巨大なので、頭部の一部分を浮かび上がらせる程度だ。

 着弾と同時に敵の意識は柊にも向く。視覚情報が増加したので、敵の構造をできるだけ解析する。眼球と思われる部分に、二発目の塗料弾を発射する。

 しかし、その巨躯からは想像できない素早さで、敵はひらりと舞い上がり弾を躱す。弾丸は敵の爪先に当たり、硬い音とともに跳ね返る。柊に注意を向けた敵は、猛烈な加速で跳躍しようと身構える。

 その背後に、エルの槍が迫った。表皮を薙ぐことが叶わないならと、今度は全力をもって突き刺した。

 狙うのは足だ。がちり、という手ごたえがある。表面を破り、内部を破壊する感触がする。敵な身を悶え、尾を振りかざした。躱しきれず、エルは突き刺していた槍を抜き防御する。強靭な尾の力で十メートルほども吹き飛ばされながら、エルは受身をとって着地した。骨格や筋組織にまで強化された彼女でなければ、四肢が千切れているほどの一撃だ。その彼女でさえ、全身に痛みを感じるほどだった。

 エルが与えた一撃は深く、敵は足を引きずっている。しかし、それも一瞬だけだった。

 確かに破壊したはずなのに、敵はすぐ元通りに駆けはじめた。突進してくる敵に、無言でエルは身構える。

 その隙に柊はコンテナに登って高所に位置取り、敵の全容を見ていた。その情報をエルにも共有し、退路になりそうな位置を指示する。

 巨大な敵をいなしながら、エルは正面から立ち向かっていた。彼女ほどは体を強化していない柊には、とてもできそうもない芸当である。吐息すら漏らすことなく、黙々と戦っている。装甲を引き裂くほどの上腕部のツメをはじき返し、僅かに軌道を逸らしながら、致命傷を避ける。そうしながらも、敵の隙を伺って一刺しを狙っている。敵も先ほどの一撃に警戒し、攻めあぐねている。しかし、それでもエルは徐々に後退しなければならなかった。

 そこに、突如砲火の横撃が襲った。

 破壊されていたポッドの一つの火器が生きていたので、あらかじめ柊のNデバイスで操作できるようにしていたものだ。

 一二ミリ機関砲のフルオート射撃を浴び、敵はみるみるうちに原型をなくしていった。表皮のような黒い膜がはがれ、血液や肉のようなものが飛散し、ぼろ雑巾のような有様へと変貌していく。

「(私を囮にした?)」

 エルが、非難する目で柊を見ていた。

 しかし、それで終わりではなかった。弾薬が尽きると、達磨のようになった獣は体を震わせ、再びあの不気味な摩擦音を発し始める。

 まるで芽が生えてくるように手足は再生し、再び立ち上がった。

 未知数の敵に対し、エルは少しも怯えることがなかった。口数が少ないので冷静に見えるが、彼女が短気なのを柊は知っている。イスラフェル系は割と短気なことが多い。このままでは飛び掛りかねないと思った柊は、エルを呼び寄せる。

「悪かったって」

「別に怒ってない」

 あの砲門の前に敵をおびき寄せるためそれとなく手出しをしなかった柊に対し、明らかにエルは腹を立てていた。

「拳銃じゃ火力が足りないし、今度はこっちが囮になるよ」

 射撃の際、柊は怠けずに敵の構造を解析していた。敵は幾重もの繊維のようなもので覆われている。その一片が突き刺したエルの槍にも残っていた。カーボンファイバーのような強靭な繊維らしい。どんな仕組みで動くのか、この繊維は一つ一つが柔軟に組み合わさっており、破壊されても個別に活動できる。そして再び集まって、体を形成し修復してしまう。いくら傷つけても意味がない。

 しかし、本体の中心部分は別の材質で出来ているらしいことが解析画像でわかる。エルが刺して破壊した足、内部フレームは再生していないのが確認できた。繊維が集まって補強し、応急処置をしているだけだ。その他にも、人の上半身ほどの別の構造があることが、画像解析から見て取れる。

 これだけ統率された動き、筋繊維を制御している計算部があるはずだ。ここが弱点、もしくは中枢という可能性はある。

 そこに最大の火力を持つエルをぶつけて、だめなら出直すことにしよう。二人はそう決めた。

 再生を終えた敵が活動を開始する。隠れていた柊は通路へと出て、敵の前に姿を晒した。機関砲の掃射によって発光塗料が剥げていたので、まずは追加で塗料弾を発射する。エルが見やすくなるはずだ。それに気付いた敵は、柊に向けて隕石のような突進を開始する。

 巨体の割に小回りが利き、しかも前腕部には硬く大きなツメがある。戦闘ポッドの装甲を切り裂いたのもあれだろう。一瞬でも見極めに失敗すればたちまちバラバラにされてしまう。

 敵は入り組んだコンテナの中でも俊敏だった。体の形がある程度自由に変形するらしい。エルのように正面からやり合うのは危険だ。

 敵が距離をつめてくるまでほんの数秒。その間に出来る限り引きつけるしかない。

 まずは閃光弾を使い、敵の視界を奪うことを試みる。正面で爆発し、激しい閃光が一瞬空間内を照らし出す。人間ならしばらくは視力は回復しないが、この敵に対しては一瞬ひるませることができる程度であった。

 次は、最大の威力を持つ榴弾を装填する。正面から命中し、炸薬によって表皮が弾き飛ばされる。しかし、特にそれ以上の効果はない。

 最後に、精密高速弾を装填。四発の回転式弾倉を、全て同じ弾頭にする。

 吹き飛ばされた表皮はまだ回復していない。そこには、眼球らしいものがむき出しにされている。瞼によって守られていたそれは、今は無防備だ。

 敵は視界を持っている。柊の弾丸を回避してみせたことから、画像解析を使っているかもしれない。目前まで迫ると、敵が持つ四つの瞳と目が合った。

 発射動作を感知させない特殊形状をした拳銃から、精密高速弾が発射される。狙うのは瞳。最も高速のこの弾丸なら、至近距離では回避困難のはずだ。弾丸は敵の眼球の一つに吸い込まれ、破壊した。

 突進は止まらない。続けて三発、全ての眼球を狙う。二発は命中し、一発は逸れた。

 敵は柊の目前に迫り、上腕を振りかざした。しかし、その動きは精度を欠いている。四つあった眼球が一つになり、しかもこの暗闇である。狙いが定まっていない。

 敵の突進をかわした柊は再び距離をとる。眼球ほど複雑なものは再生できないようだが、瞼は既に再生している。また表皮を引き剥がさなくてはいけない。ローディングゲートから次の弾薬を装填しようとした。

 しかし、その必要はもうなかった。

 高所から、エルが敵めがけて飛来する。生物ならば脊髄に当たる部分に、全体重をかけて槍を突き刺した。刃は深くまで進入する。しかし、中枢部分は硬質の装甲に覆われており、内部までは届かない。

 次の瞬間、巨獣は上腕を伸ばし、動きを止めたエルをいとも容易く切り裂く。もしエルの現実干渉性が発動する一瞬前であったなら、そうなっていただろう。

 青白い閃光が迸り、膨大なエネルギーが槍を通じて注ぎ込まれた。空気を裂く音と激しく明滅する閃光の渦の中で、獣の影が悶える。

 一層強く、まるで神罰のような雷が瞬いて、獣はぐったりと動かなくなった。

 自由電子の運動に介入できるという単純極まりない現実干渉性。それを全身に異常発達させたNデバイスで強化し、火力に特化させたのがエルだ。強化された肉体とは別に隠された切り札。能力を戦闘の一点に特化させたハンターである。

 Sロットの中で最強の火力を持つと言われるその一撃を前に、敵の中枢部らしき部分は破壊された。筋組織は力なくぐったりと地面に投げ出され、もう動くことはない。引き裂けた装甲から青白い液体が流れ出る。Nデバイス用の素子と生体部品の焼ける匂いが充満している。生体コンピュータとNデバイスはともに電流によって死滅し、あらゆる能力を失ったようだ。

 戦闘は終わった。

 討ち取った獲物は、一見したところでは生体とも機械ともとれない姿をしていた。眼球など一部の部品は見たところ生物的で、エルが破壊した中枢には電子部品のようなものの残骸もあった。

 残骸を調べるのは情報室が行なうだろう。柊とエルの仕事は終わりだ。

「待って」

 帰ろうとした柊に、エルが詰め寄った。

「そこ、血出てる」

 左手の甲に、知らぬうちに切り傷ができていた。エルは黙って柊の手を引く。

 近くの医務室に連れ込み、包帯と再生剤を持ち出し、傷を手当してくれた。エルは不器用で細かい作業が嫌いなのを柊は知っていたが、傷の手当は丁寧だった。

 彼女の手は大きくない。槍を握るため、少し堅い。

「ありがと」

 礼を告げても、エルに表情の変化はない。

「きみは少し変わったね」

 そして唐突に、そんな風に柊を評した。

「関わってきた人のせい?」

 エルは知っている。脱走したSロットを捕らえた後、持っている能力や情報を抜き出すのが管理者Qロットである柊の仕事だ。

 記憶の共有を行なえば人格にも影響が出る。柊の記憶は慎重に管理され多くは消去されるが、人格には多少の影響は残る。少しずつ経験を重ね、変化している。

 Qロットはよく機械的と評される。そのような生き方を強制される。被検体としては長生きの部類に入る柊は、そんな生き方から脱しつつあるのかもしれない。



 翌日、柊は情報室に呼び出された。そこにいたのは、情報室長とアイの二人だ。

「昨日の、出所がわかったわ」

 軍専用のポートに紛れ込んだ怪物。テロの類かと柊は思っていたが、どうもそうではないらしい。もっと面倒な事になっているそうだ。

「あれの出所、ノア社の本社からの荷物の中だったって。昨日の一件とほとんど同時に、地球上にある本社が音信不通になっていたとか」

 ノア社は地球企業である。黒耀星開拓のための技術開発が主な事業内容だ。広がる宇宙での活動範囲にあわせ、政府軍で制式採用する宇宙用戦闘艦の開発に注力していると聞いた。

 地球は政府の勢力下で、政府の軍事開発には適している。次世代艦について、初飛行や墜落のニュースを目にしたことがある。

 社名が大きく扱われることはなかった。政府とノア社との連絡は極秘になっている。事故か、それとも別の何かか。それはわからないが、本社と全く連絡がとれなくなってしまった。政府は人を送ったものの、誰一人帰っていない。本社で何かあったのは間違いない。

 昨日の謎の敵は、ノア社がそうなる前に最後に送ってきた中にあった。乗り合わせた従業員は全滅だった。あの怪物のような何かにやられたのだろう。

 研究員に扮してノア社に潜入し情報を探る。それが柊の任務だった。



 一度自宅に戻り、一般研究員に見えるように服装を選ぶ。クローゼットから適当に服を選び、白衣も用意する。ニセの社員証は既に受け取っているので、それも忘れない。地球までは時間がかかる。必要なものは現地調達することにし、柊は早めに家を出ることにした。

 地球行きの一番早い輸送船は軍のもので、そこに便乗させてもらうことにした。三十分程度の待ち時間がある。喫茶店のオープンテラスに腰かけ、呼ばれるまで往来を眺める。

 ここで働くのもいい、などと冗談を言ったものの、そんな生活は決して出来ないことはわかっている。多くの人が闊歩している。こうしていても、柊に話しかけてくる者はいない。近いようでいて遠い世界だ。

「そうしていると、おしとやかな会社員だ」

 頭の上から、声がかかった。見上げたそこにいたのはエルだった。

 見送りに来てくれたのだろうか。彼女は今回、地球には行かない。

「この服、買った覚えがなくて不思議なんだよね」

「趣味じゃないのはわかる。中身が柊とは思えないから」

 以前、エルと二人で学校に潜入したことがある。あの時柊は、慣れない「お姉様」役を演じ、ぼろを出すこともなく任務を終えた。

 潜入任務は最近は少なかったが、外見だけではなく内面まで一般人になれるよう、Nデバイスで振る舞いを補助する。かなりよく出来ている。知り合いでも別人かと思うほどだ。エルが柊を見抜けたのは、過去にそんな柊を見ていたからだった。

「ちょっと笑顔で“いらっしゃいませ”って言って」

「いらっしゃいませ!」

「……」

 通りを歩く人がこちらを見ている。自分でお願いしておいて、エルは柊の笑顔に不満そうだった。

「ウサギは」

 エルが、口を開く。

「上り坂が得意だ。追い込む時は高い場所からな」

 地球で食べ物に困った時の話だろうか。

 わかりにくいが、どうやら心配してくれているらしい。地球は初めてだ。彼女がこうして喫茶店にまで会いに来たことは、今までなかった気がする。

 思いがけない見送りに少し心を綻ばせながら、柊は地球へと旅立つ。大気汚染が深刻になり、住める場所が減り続ける病の星。

 不吉な場所だ。それに、情報が少なすぎる。嫌な予感がしていた。



■白・一



 心は目に見えない。

 見えないものは、存在するかわからない。他人など本当にいるのだろうか。レイの中にある疑問に答え続ける者がいる。


(いるの?)


 声でもなく、姿でもない。レイの中なのか外なのか、とにかく近くにいる何か。

 まるで優しい歌のようだ。「歌声」が、誰かの意思が、レイの思考に流れ込む。


(会いに行くよ)


 いつからだろうか。物心ついた時から、レイの近くにそれはいた。形もなく声すらもないのに、意思だけがやり取りできる存在。

 レイを包み込み、癒してくれる存在。早くに母を亡くしたレイにはわからないことだが、もし母がいれば、それはきっとこんな存在なのではないだろうか。

 彼女は、どこかにいる誰かなのかもしれない。時々、曖昧に記憶が感じ取れる。記憶の中で何度も登場している言葉があった。

 それが、「研究所」だ。レイは次第に、この研究所こそが、長年レイの頭の中に呼びかけてきた存在がいる場所なのだと思うようになっていった。母の遺品の中にも研究所に関する資料がある。何か関係があるに違いない。

 覚醒に近づくと、その存在は遠ざかる。次に会うとしたら現実で。そうなればいいと思いながら、レイは目覚める。



 地球に向かうのは初めてのことだ。汚染が進み危険な場所だ。渡航には衛生と安全のための面倒な手続きが義務付けられている。恵まれた月面都市に住んでいて、好んで行こうとする人は少ない。

「大気圏用モジュール、あれの試験を前倒しできる?」

『問題ないはずです。お望みなら他の試験項目も消化しましょうか』

「できそうなの挙げといて」

 レイはピストレーゼを私物のように使っているが、本当は会社の大事な実験機である。まだクリアすべき評価項目がいくつもある。開発陣はレイの仕事を買っている。だから少しくらいの私用は大目にみてくれるだろうが、使う以上は試験も兼ねるほうがよい。

 それに渡航申請する際に目的を告げる必要があった。今回は運用試験ということで押し通した。本物の試験計画書もある。保険として役立つだろう。

 ピストレーゼはどんな環境でも性能を発揮できる万能機である。地球型惑星の大気圏内への突入、飛行、そして大気圏の離脱は要求仕様のうちだ。ただし、追加装備がいる。追加装備の内容は、大型のシールドに重力エンジンを内蔵した外付けモジュールである。突入の空気圧を受け止めると同時に、離脱時は大出力の重力エンジンで地球の重力を振り切る。

 月面の小型マスドライバーを使って地球へ向かう。企業連合がいくつも並列して建造し、地球への貨物を発射しているものだ。予約はいらず、一時間以内には出発できる。R社でピストレーゼに搭乗したレイは、あらかじめ送られていた大気圏用モジュールと接続。すぐ発射状態になる。

 猛烈な加速とともに、全長四メートルのピストレーゼは打ち出される。R社が誇る高性能重力エンジンを使えば地球までは十二時間ほどだ。活動に備え、レイはVRトレーニングを利用することにした。

 仮想空間上で、ピストレーゼの大気圏モジュールの操縦を訓練するのだ。今回は地球の自然環境内での活動になる。何度も繰り返してきた演習だが、最後に振り返っておくことにした。

 VR空間は大規模な計算リソースを必要とするため、小型機単独では利用できない。しかし、無人機指揮機であるピストレーゼは「祈機」と呼ばれる破格の高性能計算機を実装している。R社の独自技術で、同じサイズでは政府ですら実現できていないスペックを持つ。

 これを使えば、大規模ネットワークに近い環境でVR利用が可能となる。制御の難しい重力エンジンをこれだけ小型の機体に装備できたのも、全てこの祈機の計算能力のおかげだ。

 Nデバイスに神経を接続する。レイの意識はシステムに掌握され、仮想空間上のコクピットに感覚を置かれる。加速度や振動までも再現される、限りなく現実に近い演習だ。

「総合戦闘プログラム、ES341で」

『了解』

 難易度の高いシミュレーションを選択する。敵は地球艦隊の艦載機による航空勢力と電磁加速砲を搭載した艦隊だ。たった一機で立ち向かう場合、生還率六割、勝率一割以下というミッションだ。

 この大気圏用モジュールは大気圏離脱も可能な強力な推力を持っている。大気圏内でドッグファイトの真似事くらいは可能だ。だが、ピストレーゼは汎用宇宙戦闘機であり、無人機指揮機だ。大気圏用の戦闘機への抵抗力は最低限度である。

 地上での空中戦は本来の使い方ではない。月企業は宇宙空間という危険な場に出るために、開発法で自警団の保有を認められている。しかし、戦闘機とやりあえるほどの兵器を保有するのは明らかに自警の範囲を逸脱しているため、このピストレーゼの武装にも制限がある。開発チームが用意したこのミッションは、単にレーダーシステムへの反応のデータ収集を想定している。敵と戦う必要はない。ただトレーニングには適していて、レイは技量を磨くために交戦を実施している。仮想空間なら何度戦死しても問題はない。

 今回、場合によっては地球艦隊との交戦や接触は考えられる。レイは入念に敵の動きを学びながら、しばらくはシミュレーションに没頭していた。

 何度か戦闘を繰り返した所でレイはシミュレーションを終了しようした。しかし、システムの不具合のせいか終了処理がうまくいかない。

 このままでは覚醒できない。

『安全な覚醒プロセスを実行しますので、お任せください』

「もう、そんな時間ないでしょう。強制覚醒するわ」

 もう大気圏突入の時間が迫っていた。

 VRには緊急脱出プログラムが用意されていることが多い。特に、誰かのバックアップを受けずに一人で利用する場合には必要なものだ。不具合が起きて操作不能に陥る危険に備える必要がある。

 軍事シミュレーターだけでなく、コンピューターゲームですら強制終了手段が用意されているのが普通である。正規の操作を行なえない場合、VR空間内で特定の行動を行なえば覚醒できるように何らかの暗号入力を用意している。

 このシミュレーターでの強制覚醒は簡単だ。コクピット内にあるプラスチックのカード。それを折れば、強制覚醒される。

 サクラを無視し、レイはカードを折った。それと同時に、レイは現実に引き戻される。脳が揺さぶられるような感覚と同時に、レイは戻ってきた。強制覚醒は最低限の安全プロセスの上で実行され、急激に引き戻されるために乗り物酔いのような感覚を伴う。

『具合はどうですか?』

「きもちわるい」

『だから申し上げたでしょう』

 幸先の悪いことになったが、その分目は覚めた。いよいよ突入だ。演習で何度も行なってきた突入に、レイは特別緊張も持たない。

「サクラ、いるわね」

『はい、レイ』

「突入開始。ちゃんとデータ取っといてよ」

『了解しました』

 位置と突入経路を確認し、降下を開始する。

 突入は自動計算された航法データをもとに、半手動で行なう。ARに添付される軌道を追従するよう機体の突入角度を調整する原始的な方法だ。

 シミュレーターではモジュールの評価は満点だった。R社のシミュレーターは現実といってもいいほどの精度である。何度も繰り返した仮想突入によって十分に改良されており、最適なマニューバも完成されている。

 それでも、まだ誰も挑戦したことのない現実の突入は恐ろしいのが普通だ。なにしろ命がけである。そんな時でも果敢に挑んでいくレイの度胸は、開発スタッフの全員が認める所だった。

 空力加熱を追加モジュールで受け止め、本体を安全に突入させなければならない。メインエンジンを折りたたんで面積を小さくし、モジュールを機体の下部へと移動させ、耐熱シールドにする。それと同時に、耐久性の安全内で重力エンジンによる減速をかける。

 マッハ五まで減速し突入を開始。重力を感じ始める。徐々に減速し、マッハ四へ。空気圧縮による機体温度の上昇が始まる。十分に許容値だ。モジュールの設計に問題はなかった。

 その時、レーダーに感があった。軌道上にいる政府軍の船だ。わざわざ見張りにきたのだろうか。これは申請された突入だが、言いがかりをつけられては困る。レイは構わず突入を継続する。

 速度はマッハ三以下へ。空力加熱のピークは過ぎ、徐々に機体温度は低下し始める。二発のメインエンジンを展開し、大気圏モジュールには揚力を担当させるべくモードを切り替える。

 そこは、もう地球であった。時刻は昼。濃紺の空には、もう遠い月が浮かんでいる。眼下には広大な雲海が広がる。雲の下に下りると、そこは灰色の世界だった。月面都市と何も変わらない、ただ広いだけの灰色の海が広がっていた。



 残骸の降り積もる空間だった。

 排水システムはとっくに作動をやめている。巨大な地下構造の七割以上は水没している。なるべく低く、水面すれすれを重力クラフトで浮遊しながら滑走する。

 この場所に繁栄の残滓はない。一度も人が住むことなく放棄され、自然の風化に飲み込まれつつある地中の城なのだ。

 気配はない。鳥の一羽も寄り付かない。一歩でも外に出れば、猛毒の空気だ。市街地化学兵器戦も想定して装備されたピストレーゼのフィルターがなければ、コクピット内もあっという間に死の世界へと変わる。

 はるか上方から覗く鈍色の空からの淡い光でぼんやりと姿が映し出される死の地底。地獄があればこんな場所かもしれない。

 地球上には、このように建設途中で放棄された地下都市や地下道がいくつもある。ここは危険だ。地球上にいくつも点在し、政府でも管理しきれない広大な地下空間。監視の目はないが、反政府勢力が根城にするのを防ぐため有毒ガスが散布されている。

 こんな場所を隠れて通り抜けるのは、防空システムを避けるためだ。これは申請のない飛行計画だ。たとえ高性能なピストレーゼでも、二十四時間の対空監視のある上空を飛行していればあっという間に叩き落される。地球への滞在は、試験運用とその後の観光ということで申請している。ここは政府軍の勢力下だ。月面とは違う。飛行計画なしの無断飛行に気付かれれば、反政府勢力として警告なしで撃墜される。

 手に入れた座標のすぐ近くまで行くにはこの方法しかない。ピストレーゼで施設上空に急接近、レイを投下してすぐ離脱するという計画である。このような地下空間で機敏に動くのは、地下都市を想定して作られた戦闘ポッド指揮機にとって容易いことだ。

 目的の上昇地点にさしかかる。緊張の時だ。付近のレーダー施設の位置や死角は入念に検証したが、未知の索敵網があれば攻撃を受けるかもしれない。

 例の地下施設の入口と思われる地上の施設は、空気の薄い高い山岳地帯にある。万が一失敗の場合は地形を利用して離脱できるよう、退路を確認する。レイ自身はアーマースーツに短機関銃、拳銃といういつもの装備だ。

 目的の場所に到達。ピストレーゼは垂直に地下都市を離脱し、山の谷間へと入る。熱探知を作動させつつ、地を這うように目的の場所を目指す。

 レーダーにはどんな危険も浮かび上がらず、目的の施設に到達する。心配は杞憂に終わった。どこからも攻撃は来ない。ピストレーゼを地上に止め、着陸する余裕さえあった。

 外部の大気を調べ、レイは外に出る。標高が高いため気温が低く空気も薄いようだが、宇宙用のアーマースーツには特に問題のない環境だ。

 枯れ木に包まれた山は閑散としていた。灰が降り積もり、一面は灰色になっている。有害物質が大気中に検知されていた。地上の生命は破滅へと向かっているというが、こんな高山にさえ汚染の手は及んでいる。地獄を出てもまだ地獄。ピストレーゼを隠せそうな場所もない。

「サクラ、もういいわ。機体を戻らせて」

『ここで待ちます』

「だめ」

『ですが』

「待つ方が危険は大きいわ。せめて目に付かない場所に行かせて」

 ここでのサクラとの通信は、R社が持つ衛星の超指向性無線通信だ。ピストレーゼから衛星に向けて精密に無線波を飛ばす仕組みだ。短い通信なら探知される危険が低い方法だが、長ければその限りではない。

 施設付近には誰もいないが、今だけかもしれない。月面の大空洞でいやというほど戦闘ポッドにつきまとわれたレイは、こんな目立つ場所にピストレーゼを置く気になれない。脱出には助けがいるのだから、ピストレーゼには生存してもらわなければいけない。

 サクラは了承し、ピストレーゼは浮かんで飛び去った。大気のある地球上、霞がかかった山頂の中を飛び去っていく。その姿はすぐ見えなくなる。

 施設に向き直る。一戸建て二つ分程度のコンクリート作りの施設だ。見たところ観測所のような外観で特別な所はない。事前の熱探査によって、内部に大型の生物がいないことはわかっている。

 ドアも開け放たれている。しかし、灰が大量に入り込んでいる様子はない。誰かが最近まで使っていたということだ。内部は普通のオフィスのようだ。デスクには何も置かれていないが、使用感がある。

 施設には地下へと続く階段があった。その先にあったのは、丈夫な電子錠に守られた巨大な防護扉だった。施設の外観には不似合いな、分厚い金属製の扉であった。

 手持ちの爆薬でも破れそうにない。しかし、その必要はなかった。

 扉は、十センチほど開いていた。警戒しつつ体重をかけてゆっくりと押すと、狭い通路の先に廊下が続いている。

『サクラ、聞こえる?』

 声は出さず、Nデバイスから通信を試みる。しかし、応答はなかった。ここは地下だ。すでに衛星通信は不可能になっている。

 廊下の先は広い縦穴で、内壁についた螺旋階段で地下へと向かっていた。吹き抜けた中央から、下へと続く長い長い穴が見える。コンクリート製のひんやりとした壁に、レイの足音が反響する。

 本当に地下があったのだ。空間の直径は十メートル程度。大型の荷物も通り抜けられそうだ。探せば入口が地上のどこかにあるのかもしれない。

 レイはNデバイスで視覚解析を行い、穴の底を探った。デジタル処理の明度調整を重ねることで、ぼんやりと場所の姿が浮かび上がる。穴の深さは三百メートル程度という計算結果が出ている。

 階段の途中に昇降機用のケーブルを発見したレイは、それを伝って一気に下まで降下する。降下訓練を受けたレイにとっては造作もない。一番底に到達すると水気の多い匂いがした。地下に水脈か何かがあるのか、下に向かうほど湿度が高くなる。

 更に下に続く隔壁があった。ここまで、月面で手に入れた三次元マップとも一致している。まだ下がある。広大な空間が広がっているはずだ。

 制御端末らしきものが設置されている。手動で操作を行なうらしい。レイはそれにとりつき、隔壁を開くボタンを探す。

 宇宙は極限環境のため、少しの操作でも非常時には難しい場合がある。その一瞬の遅れが生死を分けることも珍しくない。そのため月では手を使わず済むNデバイスの無線操作が発達しているが、地上は違っている。

 地上では、無線機能を最初から組み込んだインフラがあるのは都市部だけだ。末端の設備はほとんど旧来の電子システムを使っている。

 地球らしさを感じながら、レイは端末に向き合った。操作は簡単だった。

 いくつかのスイッチ操作で、地響きをたて隔壁が作動し始めた。穴の底がまた開く。階段の先を警戒し、一瞬注意を逸らした時のことだった。

 天井から飛来するものにレイは気付けなかった。レイは上を見上げることをしなかったが、天井の側にも隔壁はあった。レイの操作は、天蓋も同時に開くものだったのだ。

 落下してきたものが、レイに襲いかかった。

 寸前、目の端で危険を捕らえたレイは咄嗟に脅威を避けた。階段の金属製の手すりをやすやすと切り裂いた爪は、そのまま硬質なコンクリートをも砕き、耳障りな擦過音を響かせる。

 階段に背中を打ち、レイはうめき声を上げた。激痛の中、落ちてきたものを見る。

 生命体の反応はなかったはずだ。それは、まるで獣のようだった。狼とも熊ともとれない、四本足の黒い巨獣であった。

 第一印象を覗けば、すぐそれは自然のものではないと気付く。生物的なようで、地球上のどの生命にもない奇妙な姿をしている。吐息や咆哮はない。その代わりに、全身の筋組織を震わせる音が、不気味な唸り声のように響いていた。

 レイは慎重さを欠いていた。体勢を立て直しながら、アーマースーツ腰部に取り付けられた「三本目の腕」に、腰の短機関銃を構えさせる。

 自身の眼球の画像解析、三本目の腕、機関銃のトリガーをNデバイスで連携させる。利き腕の左手を軽くグリップに添え、ターゲットを睨む。視界はそのまま光学センサーとなり、動くものを自動的に、正確に射撃する。

 もし、相手が野生の獣であったなら、この対応は適切だったかもしれない。至近距離の九ミリ口径の短機関銃のフルオート連射を浴びて無事でいられる生物など考えられない。

 通路内に銃声が響く。弾倉が空になるまで発砲してから、レイは過ちに気付いた。

 まるで闇に吸い込まれるように、銃弾は巨獣に吸い込まれた。損傷は与えているが、効果があるようには見えない。傷口はすぐにふさがり、巨獣は悠然とレイに振り返る。

 四つの瞳が不気味にレイをとらえた。その動きは紛れもなく生物的で奇妙だった。レイは短機関銃を捨て、雷光のような速さでホルスターから拳銃を抜き放ち、発砲する。

 早撃ちはレイの得意技だ。戦闘ポッドは人間の兵士の動きを分析するのに長けている。その反応速度と競い、肉薄するまで鍛え上げた古典的な射撃テクニックがレイの自慢であり、武器だった。

 ダブルタップで頭部を狙い撃つ。弾丸の片方は眼球に命中し、その一つをつぶした。

 しかし、巨獣は怯むことはない。次の瞬間には突進し、巨大な上腕を振り上げ、金属も両断する鋭い爪を叩きつける。レイの細い腰など、簡単に切断できそうな大きさだ。

 爪を避けるべく体を捻った。もう少しで首を切り落とされそうな際どさで、爪は空中を掠める。

 しかし、巨大な上腕を避けることはできなかった。草のように払われた体は弾け飛ぶ。螺旋階段の手すりに背中を叩きつけられ、そして階段から落下する。

 全身を打ちつける激痛と呼吸困難の中で、意識が遠くなる。落下による無重力感覚が襲い、視界がぼやける。

 死を意識した。開いた隔壁の中に落下している。高さはどのくらいだろうか。頭から落ちれば痛いのだろうか。あの獣に襲われてズタズタにされるよりは、まだマシだったかも。

 そんなことを考えながら、レイは意識を手放した。



 目が覚めてまず、背中と頭の鈍痛に悶えた。

 堅い地面に横たわっていた。襲われて落下したことを思い出す。立ち上がろうとしたが、脳震盪か何かのせいで腰に力が入らない。

 スーツの首の部分に仕込まれた注射器で鎮痛剤を投与しようとしたが、アーマースーツの機能が停止していて動作しなかった。複合生命保護機能が破損し、体の状態を診断できない。

 頭部のバイザーは砕け、破損していた。強い衝撃だったようだ。エア圧で膨らみ電流で硬化する素材で作られた全身プロテクターが作動していなかったら死んでいたかもしれない。スーツの空気圧を抜き、バイザーは破片が危険なので取り外す。銀髪が外気に晒される。

 やけに暑かった。アーマースーツの前のファスナーを開き、シャツを露出させる。

 座り込んだまま体の様子を探る。背筋が痛いが、手足は動かせるようだった。

 レイが倒れていた場所は穴の底だった。見上げると、開いたはずの隔壁が閉じている。少し休んで回復した所で、階段を登ってみる。

 隔壁は開かない。内側の操作端末は、壊れているのか他の理由なのか何の反応もない。閉じ込められた。

 隔壁の上にあの怪物がいるのなら、開けるのは自殺行為だ。思い出すと血の気が引いていく。短機関銃を失い、武器は拳銃のみになってしまった。弾薬も残り少ない。この状況ではここを開く危険は冒せない。

 Nデバイス内の三次元マップを呼び出す。非常に大雑把な図解だが、見たところ大きな出入り口はもう一箇所あるらしい。もっと地の底だ。

 レイは階段の下に戻った。

 そこには扉がある。開けばまた何かいるのではと恐怖もしたが、留まっていても仕方がない。思い切って扉を開くが、その先からは何も飛び出てこなかった。

 扉の向こうでは、さらに暑さが増すように感じた。そこはもう螺旋階段などではなく廊下だった。左右には部屋らしい扉が続き、その奥からは光が差し込んでいる。

 扉には鍵がかかっているので、レイは慎重にその光に向かって歩き始めた。

 そして、信じられないものを見た。

 突然視界が開けた。眩しさに、思わず目を覆う。

 鳥のさえずりが聞こえ、湿っぽい熱気が頬を撫でる。学生時代に月面の温室環境を視察したことがあったが、その時感じたような濃厚な植物の匂いが鼻腔を埋めつくす。視界の端から端までを青い光が埋め尽くす。遠くが霞んで見えない。

 目の前に広がっているのは、広大な海と森だった。ここは地下ではなかったのか。古典SF小説の中の出来事のようなその状況に、レイは圧倒されていた。



 端から端まで全長は二十キロのほぼ円形の空間、高さは五キロほど、面積なら一二〇〇平方メートル、体積なら五〇〇〇立方メートルほどの空間であると、視覚情報をもとにNデバイスは計算した。海に見えた広大な水は地底湖ということになる。月面の大空洞ほどではないにしろ、地球上のちょっとした島くらいの広さのある地下空間だ。

 地球の地下都市にはこれ以上の規模のものもあるが、これほど生命に満ち溢れ、しかもそれ以外には何もない場所など聞いたことがない。天井を見上げると自然光を再現する照明が見え、振り返ればレイが今出てきた外壁付近の施設がある。他には人工的に見えるものが何一つ存在しない。

 空気は澄んでいる。有害物質などの危険は感じない。酸素も豊富で、胸いっぱいに吸い込むと気持ちがよかった。汚染と隔絶しているということは、外部と完全に遮断されているに違いない。

 なにしろ、鳥が生息できるのだ。月育ちのレイが見たことのない現実の鳥が目の前を横切っている。豊かで澄んだ水が遠くで光を反射している。あそこにも生命がいるのだろうか。

 現実離れした光景を前に、レイはしばらく立ち尽くしていた。ふらふらと水辺に近づき、白い砂浜にぺたりと座り込んでしまう。砂は柔らかく、熱い。内側からじわりと汗がにじみ出る。熱帯のような空気に包まれ、レイは身もだえするようにアーマースーツの上半身をはだけ、腰に巻きつける。

 なんという幻想的な光景か。レイは状況も忘れ、目の前でたゆたう波の音を聞いていた。

 落ち着くにつれ恐怖も沸いてくる。トンネルで襲ってきた巨獣のような敵がすぐ近くの密林にいるかもしれないと思ったからだ。ここに来るまで、人の気配を少しも感じていない。人間はどこなのか。ここが危険だから、誰もいないのではないか?

 様子が変わっている事に気付く。照明はオレンジ色に変化していた。どうやら、外の時刻と同期して夕方を再現しているらしい。このまま夜になっていくのかもしれない。

 肉食獣には夜行性のものが数多くいることを、レイは知識の上で知っていた。あれが生命体だとは思わないが、夜に狩りをする姿を連想することは避けられなかった。安全な場所を見つけなければ。何をするにもそれからだ。

 さっきの施設の中にはいくつか部屋があった。どこも鍵がかかっているが、手持ちの爆薬なら破壊できる。戸が閉まらなくなったとしても外よりはいいだろう。木の上で眠るなどごめんだ。レイは施設内に戻った。

 唯一の建物の中、六つほどある扉には何の表示もない。うち一つだけは、特別なものに見えた。木製の扉だ。体当たりで壊せそうだった

 その扉だけ古めかしい鍵穴があった。しかし、もし壊したとしても外敵の侵入には耐えられそうにない。それではあまり意味がない。

 用具入れか何かかもしれない。がっかりしたくないので、この扉は後回しにする。

 残る五つの扉は鋼鉄製で頑丈そうだ。ここに入れば獣からは安全だろう。レイは特に悩みもせず、そのうちの一つに爆薬をしかけた。軍隊が使う爆薬だ。持ってきた少量だけでも、何回かは鋼鉄製の扉をこじ開けられる量だ。

 廊下の影に退避して遠隔操作で雷管を作動、爆破する。軽い破裂音とともに、戸は開かれた。

 レイは運がよかった。開いた扉の向こうは二段ベッドが二つある宿舎だった。電源もあり明かりがつく。

 内開きの扉の前に部屋の中のデスクを移動させてバリケードにし、レイはようやく安堵した。あの巨獣なら突破してきそうではあるが、他の獣に対しては効果があるだろう。外にいるよりはずっと安心である。

 部屋の中に武器があれば最高だったが、残念ながら斧一つなかった。その代わりではないが、保存食のショートブレッドが少しと水のパックがふんだんにあった。

 食事を済ませると、疲れから眠気が襲ってきた。なぜか全ての機能が停止して役に立たなくなったアーマースーツを脱ぐ。下着にシャツという姿になったレイは、寝台に横たわり、やがて安らかな寝息を立て始めた。



 細かい事を気にしないのがレイの長所だが、いくらなんでもこの状況は処理しがたいことだ。

 背中の痛みはほぼ回復していた。鎮痛剤の必要はなさそうだ。目覚めて外に出てみて、この状況が夢ではなかったことを改めて認識する。

 アーマースーツの下だけを着用し、上半身は腰に巻きつける。昨日と同じ格好で、熱気を含んだ風に当たった。この場所の気温ではこの格好が一番動きやすい。替えの衣服があればよかったが、そんな気の利いたものは見つけられなかった。

 じっくりと空を観察しなければとても地下などとは思えない。驚嘆すべき空間だ。

 三次元マップを入手した時は、ここは地下工廠のようなものだとばかり思っていた。こんな酔狂な箱庭と想像できるはずもない。地球環境を再現した巨大実験場。そういうものと考えるのが妥当だろう。この近くには、政府の惑星移民計画を実行する企業、ノア社がある。あの会社なら、異惑星での生命定着実験か何かのため、こんな場所を必要とするのも理解できる。

 疑問はまだある。秘密にしなければならなかったのはなぜか。他の研究ではなく、なぜこの研究にこれほどの規模を実現する予算をつけたのか。特に気になるのは、誰も人を見かけないということだった。

 一日経って落ち着いたレイは、改めてこの地下実験場を調べてみる気になっていた。まず生存と脱出経路の確保だが、そのついでに情報も集める。

 施設には何かが入ってきた形跡はなかった。動物の足跡も、痕跡もない。歩き回る前に他の扉も開けてみたかったが、爆薬はあと一回程度の量しかない。

 レイは悩んだが、扉を開けることにした。

 運がよかった。そこは、武器を収めてある部屋だった。対生物用と思われる散弾銃とその弾薬、それにレイが使う拳銃の弾薬までもが蓄えられていた。

 これがあるということは危険な動物がいることを意味するのかもしれないが、ならば有効な武器でもあるはずだ。

 散弾銃を一挺担ぐ。拳銃の弾薬もいっぱいにし、さらに予備の弾薬も確保する。十分かはわからないが、出来る限りの装備である。

 密林は避け、見通しのいい海岸を歩いて手かがりを探すことにする。上に続く隔壁がだめなら、地図上にある下の出入り口を探すのがいいだろう。

 施設を後にする前に、最後にもう一度だけ扉を見る。一つだけある木製の扉。今は弾薬も十分だし、見たところ体当たりでも壊せそうだが、鍵穴がどうしても気になってしまう。

 鍵が見つかったらまた来てみればいい。それよりも、出口のほうが重要だ。

 歩いていて気付くことがあった。この地下空間の下部にあるとされる出入り口は、いかにも巨大すぎるのだ。しかも、この空間の中心には巨大な地底湖があり、今もレイの足下に波を漂わせている。

 つまり、この出入り口とは地底湖の中にあるのではないか。

 対比からすれば、この水中にあると思われる通路は潜水艦でも通り抜けられそうなサイズである。外海に通じる路なのかもしれない。

 この三次元マップは軽量化されたデータで、大雑把なものだ。これだけの規模の施設の出入り口が二箇所では少なすぎる。他にも出入り口があるのに記載されていないのかもしれない。詳細な見取り図がほしかった。

 海岸を歩くしかない。人工物がないか目を凝らす。襲ってくる獣がいればいつでも返り討ちにできるよう、散弾銃からは手を離さない。

 ふと、視界に異質なものが入った。

 レイと同じ砂浜に、それはいた。動物かと思って警戒したが、違う。人だった。長い濃灰色の髪を風にたなびかせ、純白のワンピースのスカートを揺らし、波打ち際を歩いている。

 ここが危険な世界かもしれないことも忘れ、レイは突然現れたその姿にしばし魅了されていた。

 かつての地球、自然が溢れていた頃なら無防備な格好で砂浜を歩く光景は日常だった。それはレイも知っている。しかし、知識の上でのことだ。幻想の世界にいると感じてしまうほど、自然の中にいる少女は美しかった。

 しかし、ただ見とれているわけにはいかない。

「ねえ、そこの人!」

 駆け寄る事は我慢し、手を振ることにした。

 相手は逃げるそぶりは見せなかった。黒い瞳で、歩み寄るレイをじっと見ている。多分、年齢はレイと近く、一二、三くらいに見える。もっともレイは生育がいいほうで、彼女を見下ろすくらいには身長差がある。

「来たのね」

 人形のような無表情、氷のような声だった。散弾銃で武装したレイに何の感慨も抱いていない様子だ。

「あのね、私は――」

「隠れてなさい。危険よ、ここは」

 話そうとするレイを遮り、少女は言う。しかし、そんなことでめげるレイではない。

「私、レイ・レシャル。あなたは?」

「は?」

 じっくり話をしよう。レイはそう決断していた。訝しげを通り越し、もはや睨むにも近い視線でレイを見る少女。しかし、かわいらしい顔なのであまり迫力がない。

 レイはからりとした笑顔を向ける。名前を言うまで決して話をしないという意思をこめた。それが通じたからかはわからないが、少女は短めの沈黙のあと、「楓(かえで)」と、一言名前を告げた。

「カエデか。綺麗な名前ね。危険なら一緒に出よう。出口を知りたいの」

 楓は答えない。代わりに、レイのNデバイスに施設の全容を示す詳細な三次元マップを送信した。

 彼女は端末を持っていない。ということは、Nデバイスがあるのだ。月面では十割の普及率の埋め込み型神経拡張だが、地球上では二割程度と聞いている。

 提供されるデータはありがたい。湖の底以外にも出口があるに違いない、そうレイは思っていた。しかしそれは誤りだった。この地下空間に繋がっている道はあの縦穴か、湖の底を通るルートしかないらしい。

「私さ」

「何?」

「泳げないの……」

 身体能力に恵まれたレイだが、できないこともある。泳ぎだけは何回練習してもうまくできなかった。

「泳げても、この深さで息が続くと思っているの?」

「あはは……そうよね」

「出口はないわ。でも、じっとしていればそのうち出られるから」

「助けが来るとか?」

「ええ」

 この少女は、なぜここにいるのだろう。

 ここは研究所を探っていて発見した場所だ。幼くしてNデバイスを埋め込まれた少女。人体実験という単語がレイの脳裏にちらつく。

「カエデは、この場所には詳しい?」

「まあ、ここで生まれたからね」

「一緒にここを出よう。私の家で暮らさない?」

「……どういう意味?」

 口説き文句?

 そんな氷点下の瞳がレイを見ていた。高身長で凛々しい顔つきのために学校では年下の子からずいぶん人気のあったレイだが、鈍感なので発言は無神経。なぜ睨まれるのかもわからなかった。

 ここで生まれたと彼女は言った。出口はない、とも。外に出たことがないのだろうか? 言う通りじっとしていればいいのかもしれないが、それはレイの性分ではない。

「行こう」

 楓の手を握り、レイは歩き始める。詳細になった三次元マップによると、今は南側の浜にいるようだ。南端はレイが入ってきたあの施設と縦穴がある。北端まで行けば、どうやら別の施設がある。浜辺を歩いてそこまで行けば、何か見つけられるかもしれない。

 楓に聞きたい事はたくさんあるが、無理強いをすることではない。一緒に行動していれば話す機会もあるだろう。

「離して」

「うん?」

「あなたが無駄に成長しているだけで、私のほうが一つ年上よ」

 手を引かれるのは嫌そうだ。細くひんやりした手を離してしまうのはレイには惜しく感じられたが、仕方がない。手を離しても楓はきちんとついてきてくれた。それだけで十分だ。

 長い長い、砂浜を歩く。ふと、遠くの空に黒い影が見えた。鳥の群れのようだ。黒い鳥の群れが、だんだんとこちらに向かっている。

「私から離れて」

 ぽつり、と、楓がつぶやいた。

 雲のような群れが上空に接近したと思った瞬間、それは急降下で襲い掛かってきた。レイを襲ったのではない。すぐ近くにいた楓に突撃していった。

 レイは散弾銃と拳銃を構え、発砲した。突撃する一群にいくらかは命中し、石のように砂浜へと叩き落とした。Nデバイスと連携した射撃を与えていく。

 しかし数が多すぎる。楓はたちまち黒に覆われた。

 落下したものを一瞥すると、それは普通の鳥ではなかった。何か人工的な繊維のようなもので出来ている。あのトンネルで見た巨獣にそっくりだ。

 楓に手を伸ばそうとして、痛みに顔をしかめる。鳥の表皮はのこぎりのようだった。微細な振動をする繊維によって、レイの指の皮膚が引き裂かれる。

 中にいる楓はどうなっているのか。何かを引き裂く音、砕く音が聞こえる。血の臭いもした。

 怪我を気にしている場合ではない。楓を助けようと、割り込もうとした。その瞬間、鳥はすぐに散り散りに飛び去っていった。暴風のような羽ばたきでレイは弾き飛ばされ、柔らかい砂浜に叩きつけられる。

「カエデ!」

 あの中で声一つあげなかった楓。絶望的な気持ちで、レイは駆け寄った。

 しかし、倒れる楓の姿は想像と違っていた。ワンピースドレスは、傷一つない真っ白のまま、なめらかな肌にも傷一つついていない。気を失っているようだが息はある。あんなに激しい音がしていたのに。

 いいや、きっとそれはそういう音ではなかったのだろう。血の臭いも、怪我をした自分の手からだ。レイは思い直し、楓の無事に安堵した。ゆっくりと目を開き、楓はレイを見つめる。

「大丈夫?」

「ええ、心配はないわ」

 楓は笑みを浮かべた。先ほどまでの冷たい表情とは違っている。

「助けようとしてくれたのね。ありがとう」

 甘い声で、楓はレイの頬に触れた。

「助けられてない。無事でよかったけど」

 手を見せて、と楓は言う。自らのドレスを引き裂き、傷ついたレイの指先を丁寧に手当てしてくれる。

 急に態度が変わったことに戸惑いつつも、安堵の方が大きかった。だから、それを異常だとは気付かなかった。手当てが済むと、楓はその細い指でレイの胸元に触れる。意図がわからず一瞬惑うが、すぐに何かが聞こえてきた。

 歌声のような何か。夢で聞いたあの声とよく似ている。

 指を通じて、レイの胸の中に何かが流れ込む。甘さを含む歌声が、レイの血管を締め付けていく。知っている。言葉でも声でもない、意思だけが歌声となって聞こえる。

(目覚めて)

 声と同時に、レイの胸元に異物感が生まれる。

(あなたは力を持っている)

 聞いたことがある。Sロットは超能力のような力を宿すという話。母の資料にも記述があった。

 母は研究所のSロットとして生まれ、外の人間と恋に落ちて自由結婚をした。そして生まれてきたのがレイだと聞いている。力を受け継いでいる可能性はある。

「私なら、導いてあげられる」

 楓の声は甘かった。愛嬌のある顔と、麻薬のような声。レイは誘惑にかられる。この人物には、自分を支配し従える力があることを、胸の中に生まれた異物が訴えかけてくる。

 心臓をわしづかみにされるような苦しさ。まだ知らない、心地よい苦しさだった。

「行きましょうか」

 先ほどは振り払った手を、楓はまた差し出した。

「うん……」

 それをとり、今度はレイが導かれながら、二人は砂浜を歩き始める。

 あとには、あの黒い鳥の残骸が残されるのみだ。既に形を亡くし、ただの黒い繊維に成り果てている。歌声が胸に木霊している。夢ですら与えてくれなかった甘い甘い歌が、レイを支配しつつあった。



 北側まではまだ距離がある。直線距離では十五キロほどだが、湖を迂回していくと二十五キロほどある。健脚のレイだけならいいが、体の強くない楓と一緒だと、半日くらいかかる。

 できれば夜になる前には到着したい。またあの鳥が襲ってくることも警戒しなければならない。結果的には怪我一つなかったが、あれがいいものだとは思えなかった。

 楓は休憩とばかりに、近くの岩場に座った。

「射撃が得意なんでしょう。あそこにある石に命中させられる?」

 十メートルほどの距離の砂浜の上に、いくつか岩石が転がっていた。レイはホルスターから拳銃を抜き放ち、即座に発砲した。弾丸は岩に吸い込まれる。

 しかし、この技術もあの大勢の鳥には役に立たない。火力が不足しすぎている。

「そうね。じゃあ、これならどうかしら」

 レイを背後から抱きしめ、胸に手を触れながら、楓はもう一度撃つ様に言う。

 意識の一部が支配されるかのような感覚。まるで弾薬が体の一部のように感じられた。発砲と同時に、自分の一部が飛翔していく。

 そして着弾の瞬間、レイの中に感じたことのない感覚が流れ込む。

「!」

 まるで爆発か何かが起きたように空気がはじける音がする。同時に、着弾地点がごっそりなくなっている。

 四角く削れて消滅していた。岩は磨き上げられたような断面を見せ綺麗にこそげ落ちている。

「今の感じを覚えておいて」

「これが……」

 空気が弾ける音は、消滅した物体の場所に真空状態を生み出したことによるものだ。そのことが直感的に理解できた。まるで感覚器官を一つ増やされたような、そんな感覚がした。これが、母の言っていた力なのか。

 レイの胸には、新しいNデバイスネットワークが誕生していた。正確には、もとともとあった第二のNデバイスが目覚めていた。Sロットの母体から出産されたレイには、生まれつき胸部Nデバイスが存在する。今まで使われることはなく、知ることもなかったものだった。

 楓は力を引き出すための補助ソフトウェアをインストールした。感覚を増幅させ、力の所在をわかりやすくするものだ。射撃と同期することで、安全に力を使えるように調整が加えられている。

 通常、現実干渉は自分の意識の宿る体を原点として、意識の中で認識できる物を対象に発生させられる。レイのような危険な能力の場合、うまく制御できなければ自分の体や周囲の空気すらも消滅させ、自らにも危険が及ぶ。慣れてくれば干渉範囲は広くなり離れた位置のものも消滅させられるようになるが、まだ能力に目覚めたばかりのレイには不可能だ。

 現実干渉能力の鍛錬には、楓のようなQロットによる調整や管理が必須だ。それをレイは今まで知らなかった。まずはソフトウェアによる補正で、能力原点の位置を自分自身ではなく、自分の触れているごく近くの物体、つまり弾丸の位置にずらす。その上で、その物体を飛ばして、遠くに離れた所で能力を発動させる。楓の調整はそういうものだった。これなら、レイにも安全に能力が扱える。

 能力について理解や納得ができたわけではないが、今はありがたいことだとレイは単純に考える。

 そんなレイの前に、また何かが現れた。

 空を飛翔している。今度は黒ではなく、白だった。鳥のように見えるが、もっと大きく、一匹きりだ。

「ねえカエデ、あれは」

 話しかけようとして、彼女の様子がおかしいことに気付く。

 顔は蒼白で、唇は震えている。

 楓はレイの腰にしがみついた。あれは敵なのか。近づいてくると、十メートルはあろうかという巨大な生き物だとわかった。

 白く輝いている。巨大な鳥、あるいは竜のような生物だ。現実にあんな生き物はいないのだから、作られた生物に違いない。生物兵器の類なのだろう。しかし、巨獣や鳥と違って、人工物らしい所がない。黒い繊維ではなく、もっと自然な表皮に覆われている。

 美しかった。宝石のような瞳に、磨かれた白銀の羽のような鱗。優雅にはばたきながら、楓に迫ってくる。

 見とれている場合ではない。レイは拳銃を発砲した。能力を帯びた弾丸が、正確に白竜の眉間に迫る。

 しかし、白竜はその弾丸をやすやすと避けた。続けて何発も発砲するが、当たらない。まるで弾道計算をしているかのように正確だ。弾丸を見てから回避動作に入り、機敏に弾丸を避けるだけの能力がある。

 目の前に接近した白竜の羽ばたきで、砂が舞い上がった。翼の薙ぎ払いでレイは吹き飛ばされ、楓から引き剥がされる。

 利き腕の左に、激痛が走る。視界が真っ赤に染まっている。腕の感覚がなかった。熱い感触だけが伝わってくる。何か致命的な怪我を負っていることが直感でわかったが、意識が混濁してよく考えられない。

 銃を握っていたはずだ。しかし、その感触を探ることもできなかった。自分の腕はどうなっているのか?

 風圧を感じ、空を見上げる。白竜はもう一度空に舞いあがり、無防備になった楓に上空から襲い掛かった。巨大な顎門で楓を飲み込み、牙で噛み砕く。視界がぼやけ、よく見えない。しかし、今度こそ彼女は致命的なことになっているとわかった。

 白竜はレイを無視して飛び去る。

 暑い砂を感じる。横に傾いた視界が、やけに鮮明だ。生暖かい何かにひたる感触がする。自分の血の海だった。

 このままここで死ぬのかもしれない。激痛と目の前の光景に気が遠くなりながらも、レイは楓に手を伸ばそうとする。しかし起き上がることはできず、気を失ってしまった。



 目が覚めた。

 楓がいた。そして、レイを睨みつけていた。

「危険だと言ったのに」 

 歌はもう聞こえない。

 楓の様子は、また変わっていた。倒れるレイにつめより、胸倉をつかんで唇を噛んでいる。その口調に、麻薬のような甘さはない。

 変わったというより、戻ったというべきか。彼女の態度は、出会った最初の時と同じになっていた。

 レイの腕は失われず、ついたままだった。しかし、血が染みて引き裂けたシャツはそのままだ。

 楓が治療をしてくれたのだろうか。腕は何の違和感もなく動かす事ができた。現実干渉性という超常能力を持つのはレイだけではないということか。

「だから、言ったのに」

 楓はまた、同じ言葉を繰り返すのだった。



■灰・一



 衛星軌道上に輸送船が停止する。ここから耐熱カプセルで降下すれば地球だ。地球への降下はこれが始めてだ。

 現在の柊の人格はNデバイスで作られた表面人格である。荒事に慣れない普通の会社員という設定のため、外見上の振る舞いには緊張が滲んでいた。周囲には今回の調査とは無関係の軍関係者がたくさん乗り合わせている。柊は減速の振動に小さい悲鳴をあげ、体を強張らせる。

 兵士の一人が、そんな動作を見て笑みを浮かべている。柊は、照れくさそうに顔を背けた。

 新しくなったNデバイスは容量に余裕があり、この手の表面人格を走らせるのに最適であった。今まではNデバイスの処理容量の関係で所作を上書きする程度だったのが、この新型なら思考も含め外部への反応を全て自動処理させられる。表面人格というより、もはや代理人格だ。まるで助手がついてきているかのように楽だった。助手に対応を任せ、柊はまったく別の思考をすることができた。

 やろうと思えば、多重人格のように自分の思考をコピーして別の作業を担当させるような、並列思考プログラムさえも作れそうだ。

 客席は快適とは言いがたい。これは軍用の宇宙輸送船である。かつての国家統合戦争で使われたもので、数多くの兵士を戦場に投下してきたという。客船などと違って、居住性への配慮はあまりない。

 乗客への唯一の配慮として座席の横に小さい窓がある。真っ暗だった宇宙空間を越え、地球が見えてくる。かつては青かったという母なる星は、今やくすんだ灰色だ。窓の半分を埋める巨大な灰色に、柊は息を呑む。

 その灰色の上に何かが光った。小型の宇宙戦闘機だろうか。大気圏に突入しようとしているらしい。空力加熱による発光が見える。

 地球圏での飛行情報を検索すると、R社の自社製品の大気圏テストの予定が申請されていた。今回の件とは関係ないだろう。豆粒より小さい影はすぐに柊の視界から消え、雲海に飲み込まれていった。

 降下の時間になり、カプセルに移動する指示が出る。躓きそうになる柊を、近くにいた兵士が支えた。お姫様扱いされることを他人事のように考えながら柊は座席につき、安全ベルトを着用する。

 衝撃が伝わり、輸送船の腹側からカプセルが離脱した。あとは自由落下していくだけだ。揚陸カプセルと違い、この水上用は細かい姿勢制御機能はない。自由落下し、洋上のおおよその目的範囲のどこかに着水した後、政府軍の艦隊によって回収される。

 窓はなく、外は見えない。激しい振動ののち、風を切る音が聞こえ始める。大気圏内に入ったのだ。装備された落下傘が開き、減速を体感する。しばらくの対空の後に海上に着水、激しく揺れ始める。

 二十分ほど待つと、艦隊が回収にやってきた。クレーンによって引き上げられ、甲板の上に上げられて、初めて外を見ることができた。

 柊が降りたのは、特務艦隊旗艦「サツマ」の後部甲板だった。航空母艦の時代を終わらせたという長距離砲艦。強力な電子機器と大口径の電磁加速砲を搭載し、地球全土を射程におさめる巨大戦艦である。



 ノア社へと向かった調査隊は全滅だった。

 政府軍からの指示で、この艦隊に編成されていた強襲揚陸艦の特殊部隊がノア社に向かい、消息を絶ったという。

 最後の報告では、そこらじゅうに血の跡や人の体の切れ端が散乱するひどい有様を伝えてきていた。その後、通信が途絶えてしまった。

 衛星軌道上から熱源を探査した所、ノア社の本社付近にはいかなる生命反応もなかった。特殊部隊の隊員は何者かに殺害された。生命反応を発さない機械か、それに近いものに、だ。

「綺特佐、といいましたか。報告は聞いています。月で、妙なものと戦ったとか」

 柊に与えられた「特佐」の階級は、研究所外の仕事に関わる時に限ったものだ。一種の特権階級であり、それだけで嫌悪感を感じる軍人もいる。

 サツマの艦長も、柊に従うように指示を受けているはずだ。口には出さないがやや不満そうだ。情報開示のない任務を命じられ、自分の艦隊から殉職者を出したのだから当然だ。

 艦長はこの艦隊の指揮官でもある。話し方にはやや険があるが、多くの軍人を見てきた柊の目には、根は穏やかで責任感が強そうな人物に見える。

「特佐のレポートを見ましたが、今回も同じかもしれません。どうしたものでしょうか」

 艦長、副長以下には極秘という条件で情報開示を受けている彼女へは、面倒な説明を省略できる。柊のレポートを与えられ、月面での戦いについても知っているというわけだ。研究所の存在までは知らないが、それで十分だ。

「ここの反応は?」

 柊が注目したのは、衛星探査の結果だ。ノア社の本社から東に数キロの地点に、わずかな熱源を示す光点が映っている。誤差の範疇だが、柊は気になった。

「ノア社には巨大な地下実験場があるとか。そのあたりの場所です。確か、次世代の宇宙戦艦を開発しているという話でしたか」

 たしかに、光点の位置は地下のようだった。詳細に分析をすると、うっすらとだが巨大な船のような影が浮かび上がる。衛星探知を逃れる工夫があるのか、その存在は幽かにしかわからない。

 艦長は、一瞬にしてそんな解析作業ができる柊の手腕に驚いていた。Nデバイスの利便性は知っているはずだが、地球ではまだそれほどなじみのない技術だ。しかも、柊のものは特別性である。自動処理でこの地下を分析していたら一年は必要だっただろう。早速、この能力が役に立った。

 近い地上部分に設備が見られる。ここが入り口だろうか?

「実はそこは数時間前に発見し、別働隊が調べました。地下へ続くトンネルは崩れていて入れないと報告してきました。瓦礫の除去には何ヶ月もかかると思われます」

 柊を信頼しはじめたのか、艦長は言葉が多くなってきた。出し渋っていた情報も口にするようになる。

「他の出入り口は?」

「どこかにはあるでしょう。なにしろ軍艦を作っていた場所ですからね。大型の搬出口がなければ、おかしい」

 船を土に埋めるわけはない。だが、地形的には搬出口は見当たらない。

 ノア社の活動は不明瞭な点が多い。研究所の派閥が情報を共有しないままに開発を進めているので、アイや柊も全容を把握していない。施設の事は何もわからないのだ。

 考えられるのは水中へ通じる経路だ。それなら、目的の宇宙艦の仕様とも一致する。他には、柊には思いつかなかった。

「方針は決まったようですね」

 壮年の艦長は、柊が見ているデータだけでその意図を察したようだ。海中探査によって、この地下施設への進入経路を探るのだ。



 そこは、自然の海中洞窟だった。音響探査によって見つかったその場所は、自然の地下空洞の地底湖へと繋がっているらしい。地球上で最も巨大な地下洞窟であるという。ノア社はそれを知ってこのあたりの土地を買収し、役立ててきた。

 ノア社の大本になった白派は最古参が集まって構成されている。政府にもいくつものパイプを持ち、巨額の資金を運用できる立場にある。それがこれほどの規模の地下実験プロジェクトを可能にした。その再利用で、最近は宇宙戦艦の秘密建造や実験に用いられている。

 柊は潜水艇に一人乗り込みそこへ向かう。艦長は目を丸くしていた。

 政府の役人は自ら手を下さないことが多い。艦長は、てっきり艦隊から部隊を提供させて自分は安全な所から指示を出すだけだろうと思っていたらしい。多少は心象が良くなっただろうか。今ならディナーくらいは誘えそうだ、と柊は思う。だが仕事だ。潜水艇を発進させる。

 海兵の命を尊重したつもりはない。この件は研究所絡みだ。都合の悪い事実がある可能性を考えると、柊が一人で行くしかないだけだ。

 潜水艇にはカメラがついている。そのカメラの映像と自分の視覚を直結している柊には、漆黒の海中が自分の視覚として見えている。その暗闇に忽然と現れる巨大な構造物があった。

 政府軍が建造を命じた宇宙戦艦の試作零番艦、ネームシップの「オウミ」だ。発射実験のあと地上に戻ったと聞いていたが、こんな場所に隠されてたとは知らなかった。

 地上の建物でも、これほど巨大な建造物は多くない。水中の静けさと暗さの中にあると要塞はさらに大きく感じられる。不気味な迫力だった。

 全長二〇〇メートルの電磁加速砲艦サツマも柊には巨大に思えたが、このオウミは別格だ。全長一〇〇〇メートルにも及ぶ、超巨大宇宙艦である。柊が住む月にはこれ以上の大きさの輸送船も寄航するが、骨組みにエンジンをつけただけの宇宙航行専用の建造物である。地球上で作られたものの中では最大の船舶であり、航空機だ。

 このオウミは、空を、宇宙を飛んだのだ。初飛行と何度かの試験飛行がニュースになっているのを柊も見た。その後は音沙汰がなかった。現在は地上に戻って潜水パッケージと呼ばれる外殻を装備し、洞窟の奥の地底湖の底に停泊している。

 オウミ級の特徴は最小の危険で地上発射を可能とした点だ。安全な海中から発進しステルス航行をしながら、赤道上にいくつもある発射台のどれかに移動する。潜水パッケージを分離したのち、わずか数分で発射準備を終えられる。企業連合が宇宙で版図を広げる現在、政府軍が制宙権を奪取され宇宙で対抗兵器建造が困難になった場合のためにこのような仕様が要求された。

 水中発射の技術検証が終わった現在、オウミ級宇宙戦艦の一番艦以降が軌道上で建造されている。試験艦だったオウミは運用試験の後、ノア社によって何かに利用されている。

 警戒しながら、地底湖の中に悠然と停泊するオウミに接近していく。潜水パッケージには海中戦闘用の高性能ソナーと追尾魚雷が搭載されている。しかし、海中の要塞からの迎撃はなかった。現在、炉心の非稼動を確認している。電子機器の作動もほとんど感知されず、まるで死んでいるかのようだ。

 技術的なトラブルか、他の問題なのか。調べれば、ノア社全体で起きていることの手がかりになるかもしれない。

 下部にとりつき、潜水艇の上部ハッチを圧着させる。圧着パイプ内を排水すれば、オウミへの道が開ける。

 狭いハッチを抜け、パイプ内に出る。そこには、海水に濡れたオウミのハッチがある。

 ハッチを空けて様子を見る。中は真っ暗だった。空気に異常はない。艦内に入り、できるだけ音を出さず、重いハッチを元に戻す。

 出迎えはない。炉が稼動していないので最低限の電力と照明しかない。セキュリティを作動させる電力もないため、柊の侵入も気付かれていないはずだ。

 ここは船体後部の格納庫ブロックだ。体育館の倍ほどの広さがあるが、暗さのため見渡すことはできない。眼球の感度をNデバイスでわずかに補強し、設計データを読み込むことによって、AR補助による像を投影して視界を確保するしかない。

 オウミ級が実戦配備されれば、揚星作戦用の航空機が何十機も搭載される。この実験艦の広大な格納庫にあるのは、中型の兵員輸送VTOL機が二機だけだった。

 何の音もなく、何の気配もない。不気味だった。

 進入してすぐに気付くことがあった。それは血の匂いだ。ほんのわずかだが、この艦内の空気には鉄っぽい血の匂いが混じっている。

 もぬけの殻だったというノア社の本社のこと、そして月面で戦ったあの巨獣のことを思い出す。艦内の狭い廊下で出くわせば、いくら柊でも危険すぎる相手だった。

 衛星探査で感じた熱源は何だったのか。誤差の範囲だと思ったが、艦内に人がいる可能性もある。もしそうなら、発見して探るのが任務だ。本社では社員が殺されていた。もしこの状況が反乱などでなく事故ならば、生存者は敵ではなく味方だ。救助ということになる。もし悪意のある反乱なら、ノア社は政府の敵になる。黒派への寝返りや、情報の奪取なども想定される。その判断も含め、柊は探りを入れなければならない。

 もし後者の場合だった時に備え、柊はノア社の一般研究員、非戦闘員に扮して行動していくことになる。そのために、いつもと違う服装で来た。あらかじめ発行された正式の社員証を身につけ、代理人格を表層に貼り付ける。

 まずはどこへ向かうべきか。柊は考える。

 オウミ級は巨大な楔のような形状をしている。現在いる後部格納庫から船首部分までのほとんどの部分を占めるのはブロックコンテナ区だ。幅一〇〇メートル、高さ五〇メートルの巨大コンテナを四つ搭載し、それを組み替えることで様々な任務に対応する。宇宙用の武装を施したコンテナ、食料製造コンテナ、工業コンテナ、航空発着コンテナなどが存在する。

 確か、実験艦オウミに搭載された四つのコンテナは、船首から順に武装/居住/食料/工業の順だ。格納庫のすぐ隣は工業ブロック。この格納庫と隣接するブロックのため、航空機の部品や弾薬を製造できる工場になっている。

 それぞれのコンテナは発電能力を持つが、通常は最後尾の重力エンジン用の核融合炉から電力を得る。それが停止している現在、艦内は静寂に包まれている。各ブロックには非常電源があるが、それが残っているかどうかはわからない。

 核融合炉の制御室はすぐそばだ。悩んだが、柊は炉を作動させることにした。この状況が事故で、生存者がコンテナに逃げ込んでいれば、今頃電力がなくて困っている可能性もある。もし反乱でも、炉が動けば様子を見にくるだろうから、そこを捕縛し尋問すればいい。

 巨大な炉が稼動を始めるまでの工程は高度に自動化されており、一人いれば稼動させられる。来る前にオウミ級のマニュアルをNデバイスに読み込ませているので、経験がなくても問題ない。

 炉の作動は二段階になっている。まずガスタービン発電機によって、巨大な核融合炉を始動するのに必要な電力やコンピュータ用の電力を確保する。

 柊はガスタービン発電機を作動させる。航空機のエンジンのような高回転音が響き、足下から振動が伝わってくる。燃料は十分にあるようだった。電子機器が復活したので作動ログを見てみると、故障の類ではなく、非常停止した後に放置されているだけのようだ。

 発電はすぐに開始される。核融合炉の始動用の電力を蓄えるコンデンサーが満たされるまでは半日以上は必要だ。その後、システムチェックにさらに数時間かかる。丸一日かけて、炉は稼動し始める。

 しかし、そこまで待つことはできない。ガスタービン発電機のエネルギーをコンテナブロックにバイパスするように、柊は操作した。核融合炉の起動は遅れるが、今は発進が目的ではないので、これでいい。

 これで、すぐに電気は復活する。いつまでも制御室にいる必要はないので、柊は部屋を出る。

 コンテナブロックへの扉も開くようになっているはずだ。政府から提供されたノア社のマスターカードキーを持つ柊は、艦の基本設備であれば全ての場所に出入りできる。まずは一番目のブロック、工業ブロックに向かうことにした。

 広い格納庫内には、電気が戻った事でいろいろな音が響いていた。各部の様々な機器が作動し、自動的に復旧を始めているのだ。格納庫にも電気が戻り、一部では明かりがつき始めていた。しかし、人の気配は相変わらず無い。

 そこを抜けて、柊は隣のブロックコンテナ区へと通じる通路へと入った。

 通路の先の扉にとりつき、慎重に調べる。ドアロックには電気がきており、ロック状態を示すランプが点灯している。カードキーを通すと、開錠する小さな機械音が聞こえ、ランプが消えた。

 ドアを開き、柊は驚嘆する。

 そこは工業ブロックなどではなかった。蒸し暑い空気が押し寄せる。わずかに風が吹き、ざわざわと音が響いた。

 柊が稼動させた電力が到達し、照明が点灯していく。そのコンテナの内部にはパーテーションはなく一つの巨大な空間になっていることが、照らされ、明らかにされていく。

 何かの冗談かと思ってしまうような空間だ。体育館一〇個分ほどの面積と二〇階のビルほどの高さを持つコンテナが、丸ごと森林になっていた。

『自然実験ブロックへようこそ。

 ここでは、惑星移民における地球生命の定着を紹介します。このブロックは――』

 一歩踏み入れると、NデバイスにAR音声が流れ出す。艦内CUBEネットワークが施設されており、AR環境があるらしい。

 Nデバイスへのアクセスがあったということは、システムには存在を知られたことになる。研究所のゲスト枠でノア社の来訪権限を得ている柊は異物とは認識されないが、システムを管理している人間が見ることがあれば、今新しく出現するような人物は不審者だ。

 囮だと思えばプラスにも考えられるが、あまり長くアクセスされたくはない。柊は自らのNデバイスの無線通信を遮断、スタンドアロンとなる。

『自然実験ブロックへようこそ。

 ここでは、惑星移民における地球生命の定着を紹介します。このブロックは、その惑星の環境に合わせた生態を有した植物を遺伝子操作で実現し、定着させていくことを目的としています。このブロックを投下するだけで、テラフォーミングが完了するのです。その仕組みを紹介していきます』

 しかし、Nデバイスの反応がなくなると同時に、その解説はスピーカーからの実際の音声に切り替わった。どうあっても説明を聞かせたいらしい。

 この音声は、別の惑星で地球環境を再現し住めるようにする技術を紹介しているようだ。

 オウミ級の計画が始まる前、ノア社は惑星移民を真剣に研究する地球企業だった。この巨大艦を手に入れたのも、もともとの事業を再開するためだったのか。本来は工業ブロックだったここを、こんな場所に改造してしまったくらいだ。異惑星でのテラフォーミング技術の検証。宇宙船であるオウミなら、確かにうってつけだ。

 ご丁寧にバックグラウンドミュージックまでついている。合成音声のようだが、違和感のない綺麗なアクセントだった。

 柊は観念し、聞くことにした。

『外部の高性能なセンサーは惑星環境を自動的に測定し続け、環境の変化にも対応します。必要になれば、植物の遺伝子を随時書き換える繊維型のマイクロマシン”Cデバイス”を散布します。そうすることで、人の手を借りず、不毛の地に森林を築くことができるのです』

 モデル空間なのだろうか。柊が歩く森林道には、案内板の類もある。地上ではNデバイスを持たない人間の方が多いと聞く。地上の企業であるノア社はそういった人を相手にも売り込みをする状況があり、こんな案内板が必要なのかもしれない。

 樹木の名前や、その特性、どんなDNA編集を行なったのかなど、いくつも標本が紹介されている。

 触れてみると熱を発している木もある。説明を見ると、環境調整樹と書かれていた。衛星で感知できたのはこの熱源だったのだろうか。

 ならば、ここに生存者などいないのかもしれない。

『大気濃度だけではなく、大気の温度の調整を行なう樹木もあります。黒色に変化する葉を持ち、太陽熱を効率よく吸収、地表を加熱する他、夜間は化学反応を利用して熱を発することで、地表を暖め、生存に必要な湿度を維持できるだけの気温を生み出します。その他、生活に必要な電気までも、植物が作ってくれます』

 柊の歩みにしたがって、案内の音声が次々と再生される。

『環境測定の最終段階でハ、小型の飛行ロボットを利用シマス。kの鳥のような小型のロボットは生体コアを持t、人や動物 環境  反応を検証  レまス』

 サーバーの不具合か、一部音声の再生が正常ではない。鳥のようなものが柊の上空を通っていった。まだ稼動しているロボットがあるようだ。

『目的ノ惑星に別 生態系   場合、そレ、ヲ絶滅  る   もあリます。ナノマシンとバイオ技術の応用   生み出され ハンター 、  生命 絶滅さセ、森林を反映させm … …』

 音声はついに途切れ、雑音だけになってしまう。

 気配がした。何かが近づいてきている。

 森林の奥から接近してくるそれは、耳に覚えのある唸り声を上げている。筋組織が摩擦する、不愉快で不気味な音。

 森の奥から現れた黒い姿。あの巨獣だった。柊はNデバイスに祈機エミュレーターをロードする。借り受けてきた現実干渉性を起動し、自らの武器を手に取る。



 巨獣はおそらく複数いた。

 何匹かは手ごたえを感じた。まだまだいるだろう。格納庫へは戻れず、さらに奥のブロックへと逃げ込み扉を封鎖してしまうのが精一杯だった。

 あれは、説明を信じるならばあらゆる生物を絶滅させるために設計された半生体ロボットの類だ。戦闘用の生き物、生物兵器の類である。まともにやりあうべきではない。

 月面では、あれを一匹倒すのにもエルと協力してやっとだった。しかし、柊は事前に準備をしてきた。倒せなくても対抗手段はある。あの再生組織に対して有効な破壊方法を研究したデータを受け取り、それをもとに弾丸を用意している。

 Qロットは膨大な計算リソースを消費することで、Sロットが集めた現実干渉性を再生できる。研究所の膨大なデータベースから、物質生成能力をロードしてきた。弾丸を無尽蔵に補給できる。閉鎖環境で補給が断たれる心配がないのはありがたい。

 破壊しても再集合するあの組織には、強酸弾による溶解が効果的だ。それが証明された。内部コアを破壊するまでは至らないが、手足を破壊して移動を止めるくらいはなんとかできる。

 しかし、ここまでの逃走は容易ではなかった。もう一歩遅れていたら、柊は二度とこの潜水艦から脱出することなく息絶えていただろう。乗員がもしあれに襲われたとしたら、抵抗できず殺されている。

 あの筋組織、音声で「Cデバイス」と呼ばれていたものがそうなのだろう。それが暴走を起こし事故になった可能性はある。単に意図して差し向けられたものかもしれない。警戒は依然として必要だ。

 逃げ込んだ先の二番目のブロックは食料ブロックのはずだった。だが、ここも様子が違う。未知のブロックだ。照明がつき、明るい廊下が広がっている。あの巨大な森林空間とは違って、艦内らしい設備だ。

 白い廊下、白い壁。区切られたいくつもの部屋。研究設備のようだ。こういう施設を、柊は月面で見たことがある。

 ここにはCUBEネットワークが張り巡らされているらしい。Nデバイスに通信波を感じる。

 ネットワーク名は「ノアリア」と名づけられている。

 カードキーを使おうとして気付いたが、ここだけは端末の形式が合わない。そもそもカードキーではないらしい。Nデバイスによる制御を採用している。このブロック内部でだけは、ノア社の社員証カードは通用しない。

 少し悩んだが、柊はNデバイスの無線機能を復活させ、艦内ネットワークである「ノアリア」に慎重に接続する。

 接続には問題なかった。なぜならここは、柊が使い慣れたネットワークと同じシステムだからだ。外見だけではなく、中身まであそこにそっくりだ。

 人間がいるかどうかの確認もシステム上から行なえる。ブロック内の監視システムにアクセスすればいい。カメラは死んでいるようだが、Nセンサーは生きている。

 このブロックには十人ほど人間がいるようだ。みんなバラバラの位置にいて、動き回っている。人名らしき追加情報が表示されている。

 生存者だ。そのうちの一つに接触を試みることにした。

 今の柊は、研究員に扮している。ここにいる人間が最初にどんな反応をするかが、その後の方針を決めることになるだろう。まずはこっそりと様子を見たいと考えた。廊下を回り込み、反応の一つの背後に回りこむ。

 角を曲がり、廊下を覗いた。

 そこには、目標がいた。しかし、人ではなかった。あの不愉快な摩擦音とともに、柊に気付いて振り返る黒い影。あれにも、Nデバイスがあるのか。ノアリアの監視システム上の表示は人の名前だったはずだ。不意をつかれた柊だが、反応は瞬時に行なう。特殊拳銃に弾丸を装填する。指で装填する必要はない。弾倉内に直接弾薬を生成する。

 しかし、それを発砲することはなかった。

 黒い巨獣の中心に空洞が広がったかと思うと、空気がはじけるような音を立てて消滅したのだ。

 その奥に、今度こそ人がいた。

 長い銀髪に、純白の検査着。あまりにも見慣れた格好だ。

 あれはSロットだ。悠然と立つその姿は柊には見慣れたものだし、胸のNデバイスの反応がSロットであることを物語っている。外見からするとイスラフェル系。知り合いの顔を思い出す。

 この場所は、月面の研究所のSロット育成区画と似すぎている。柊はその事に気付いていた。もしかするとこの場所でも、Sロットから得られる現実干渉性の研究をしているのではないか、と。

 今、あの巨獣を消したのは彼女の現実干渉性だ。ここが研究所の一角だとすれば、そうなのだ。

 代理人格を停止していた柊は、適切な反応ができていなかった。しかし、自然な驚きの表情になっていた。

 相手がSロットならば、警戒の必要はあまりないだろう。柊はQロットだ。Sロットに対して上位権限を持つ存在であり、いざとなればNデバイスの停止を命じられる。不意打ちを受けなければ有利な立場にいる。

 生存者に出会えたのだ。これは進展である。Nデバイスからシステムにアクセスし、そこを経由して目の前の少女のプロフィール情報を取得する。SロットはNデバイスの機能を制限されており、Qロットが勝手にアクセスしたことを知ることもできない。

 年齢は製造から十四年と出た。培養機で十年分の加速教育と身体生成行ない、現実世界で四年間活動し、一四歳相当という意味である。発育はいいようで、柊に近い身長がある。名前は「L・I」となっている。薄灰色の瞳で、柊をじっと見ている。

「なんでこんな場所にいる?」

 冷淡さすら感じさせる声で、彼女は言った。

「迷い込んでしまって……」

 返答が正しいものかはわからないが、柊はそう答える。

「死ぬぞ」

「危険なの?」

「今の奴を見ただろ」

 はじめ冷たい態度だったが、少し言葉を交わしただけで彼女の声は柔らかくなっていた。少なくとも、敵意は感じない。こちらがノア社の社員だと思っているからかもしれないが。

 それどころか、表情には安堵さえ浮かんでいるように見える。こんな場所にいる生存者だ。一人だったのかもしれない。

「えっと、」

「名前? 柊だよ」

「ヒイラギか。あたしはレイだ」

 少女は、照れくさそうに顔を背けた。長い前髪が目元を隠している。自己紹介がたどたどしいのは、Sロットの反応によくあるものだ。あまり外の人に慣れていない。

 イスラフェル系のSロットということは、フルネームならレイ・イスラフェルだ。L・Iとはそういうことだろう。特徴的な銀髪だけでなく、姉妹に当たるアイやエルの面影もある。

 レイの現実干渉性は柊も知らないものだった。物質を消滅させているようにしか見えなかった。分子分解するとか、物質を相転移させるものだろうか。

「先のブロックまで行けば、ここよりは安全だ。案内してやるから、そこから助けを呼ぶなりしろ」

 入り組んだ研究ブロック内を通ってもう一つ先のブロックに行けば、あの巨獣はいないという。ただ、セキュリティのため通過できない場所が多いらしい。

 この少女に対しては代理人格を使わなくてもよさそうだと柊は判断する。研究所の外を知らなそうな彼女には、言動に気をつけるだけで十分だろう。

「さっきの……アレで、壁とか壊せないの?」

 柊の質問に、レイは答えなかった。できないということだろう。

 Nデバイス内のソフトウェアでリミッターをかけているのだろうか、と柊は推測する。危険な能力者の場合にはそういうリミッターを施すことがある。Qロットである柊なら、いざとなればリミッターを解除できる。

 Sロットの研究成果の全てを記録するデータベース「サクラメント」にも存在しない干渉性である。どんな原理かはわからないが。

 彼女の能力は、研究所ではまだ収集されていない。ノア社が独自に開発していたことに柊は驚く。これは研究所も知っていることなのだろうか。少なくとも、柊はこんな場所があることすら知らされなかった。

「本社から来たのか?」

「配属されたばかりで、挨拶に来たら誰もいないし、人を探してここに」

「……不運だな、あんた」

 本社にはもう生存者はいない。

 それは、言わない事にする。それ以外はなるべく嘘はつかないようにする。適当な事を言うと破綻しかねない。本当はもっと内情を知っていればよかったのだが、どうしようもなかった。

「ここで何があったの?」

「知らない方がいい。この会社は辞めろ」

 命の方が大事だろ、と、レイは言った。

 彼女にも倫理観があるらしい。培養の時の教育か、後天的な学習か。残酷な話だ。多分この少女は絶対に外には出られない。それなのに、社会のことを学んでも何の意味もない。柊はひそかに同情した。

 レイに案内されながら、移動を始める。

 柊はNデバイスから管理システムにアクセスしている。施設の中がどうなっているかは大体もう知っている。あの巨獣にもNデバイスがあり、管理システムからサーチできる。

 この研究ブロックを歩くうち、少し情報の収集ができそうだ。

 せっかくだから、強化されたNデバイスの処理能力を使う事にする。膨大なオウミのシステムを探査するための新たな代理人格を組み、自動探査させるのだ。

 データがまとまったら報告を聞けばいい。多重人格処理のいいテストだと思いながら、柊はレイについていく。

 柊はQロットなので施設の扉を開けられるし、敵の位置もわかる。案内は本当は必要ない。しかし、もう少し様子を見なければならない。Qロットと知られれば彼女の反応は変わるかもしれない。

 できればこの現実干渉性は手に入れておきたい。それが柊の本音だ。

 艦内システム「ノアリア」の中にはSロットの記憶もいくらか置かれているが、レイのものはない。新型Nデバイスになった今の柊のスペックでも、Sロットから記憶を吸出し能力を獲得するには丸一日くらいは必要になる。その間、あの巨獣から無防備になりたくはない。

 どうせ情報が得られないなら、さっさとレイを隷属させてしまうのも手だ。支配下に置き、あの能力を使わせるだけでも価値がある。ただ、Nデバイスの停止には直接接触が望ましい。不審に思われれば、あの能力で一瞬で消されるかもしれない。慎重さが必要である。

 レイの能力は利用価値が高すぎる。野放しにすることは許されない。どうせ利用されるならいっそうちで引き取ってしまえば、と柊は考える。信頼のおける人物、例えばアイに任せるのがいい。

 そう、アイだ。レイが言うように外部ネットワークに接続できれば、上司である彼女に指示を仰ぐ事ができる。そこに行くまでは、騙しておくべきだろう。

 だから、柊はレイに黙ってついていく。

 研究所内は入り組んでおり、一部の隔壁は壊れていて動作しなかった。大回りをしながら出口へ向かう。

 途中また巨獣に遭うが、レイが一瞬で始末した。能力を使い慣れている様子に加え、あの巨獣を相手にひるむこともない。実戦経験があるのかもしれない。

 レイがどの程度施設を把握しているか柊にはわからないが、だんだんと隣のブロックに近づくことはできている。引き返すことも多かったが、この分でいけばいつかは到達する。

 そうしているうち、比較的広めの部屋にさしかかった。

 そこは培養室だった。柊には見慣れた光景だ。遺伝子操作されたクローンとして生み出される被験体。それを製造するための部屋。Sロットは、一週間ほど培養機で高速培養・データ教育し、十歳相当の体と精神、言語機能を持って生み出される。そこから情緒を植え付け現実干渉性を発現させ、そして収穫するのだ。

 環境汚染と人口増大、国家崩壊によってバースコントロールが必須となった現代では、遺伝子提供を募って人を培養するのは当然になっている。これ自体は、珍しい機材ではない。柊が特別な反応を示さなくても、レイが不審がることはない。

 培養槽の数は多かった。この部屋だけでも、一回に二十人程度のSロットを生産し、調整できる。全て使用された形跡がある。

「……」

 姉妹たちは、どうしたのか。

 レイにそれを聞こうとしたが、彼女はこの部屋に入って来てからというもの、押し黙ったままだ。前髪に隠れた表情は見えないが、拳を強く握り締めている。

 聞ける雰囲気ではない。仕方ないので、ざっと培養室を見回す。

「なあ。もう行かない?」

 レイが落ち着かない様子で柊を見る。

 ここにはいたくない。そんな様子だ。怖がっているようにも、何かを我慢しているようにも見える。

 その時だった。

 培養槽の一つが開いた。中身が存在したのか、と柊が覗き込もうとした時。突然、柊は突き飛ばされた。レイが、柊に覆いかぶさっていた。飛び出てきた黒い物体が廊下で蠢いている。

 それは、あの巨獣に似ていた。ずっと小さいもので、中型犬程度のサイズだ。しかし、こちらに向き直ったそれは、膜を広げるようにあの筋組織を肥大化させ、こちらをめがけて飛び掛ってくる。

 レイは柊の前に立ち、それを消滅させる。柊に振り返り、無事を確認すると安堵のため息をついた。そして、搾り出すような声で言う。

「あいつには絶対触れるな」

 そして、搾り出すような声で言った。

「なぜ?」

「お前もあんな風になりたいか?」

 あんな風に。もう説明されなくても、どういうことか想像がついていた。月で破壊した個体からも、死滅したN素子が流れ出ていた。あれはコンピューターではなく、取り込まれた人間の体内デバイスだったのだ。

 そうだとして、なぜ人間を必要とするのだろう。

 培養室を出る事にした。使われた形跡のある培養槽。消えたレイの姉妹たち。行方の見当がついたかもしれない。だが、それをどう処理していいかわからないまま、柊は艦のさらに奥へと足を踏み入れていく。

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