Lemuria 3

■九日目



 地球の衛星軌道には、発着ステーションがある。

 回転する円形の原始的な慣性重力居住区を外側に配置し、その中心の空間に発着ポートを置く巨大な構造物。細長いドーナツのようなそれは、常に月を背後に地球の静止軌道に位置している。

 軍事衛星と宇宙ステーション開発が盛んに行なわれていた頃、難儀したのは輸送コストの高さだった。そのため、このような輸送方法が発達した。地球上のマスドライバーから打ち上げられる貨物コンテナを受け取り、次々と材料を送り込む。製造工程を宇宙で担うことで、コストは格段に安くなった。

 このルートは、月開発が始まった時もそのまま利用された。地球から直接ロケットを打ち上げて月まで行くよりも、あらかじめ宇宙に待機している宇宙船に貨物だけを届けた方が効率がいい。月面の採掘事業が軌道に乗って現地で資源調達できるようになるまでの間、大量の資材を月に送り出し続けた。

 ステーションはまだ稼動している。現在は逆で、資源から製造まで月の工場で作られた高品質の製品を地球に届けている。地球へ送り込むのは、さらにコストが安い。地球の重力にまかせて落下させればいいからだ。

 現在、地球から月に送り込まれるのは物ではなく人である。宇宙航空機でステーションに上がり、月からの荷物を下ろして空になった貨物宇宙船に乗り込み月へと向かう。

 ただし、その日は少し違っていた。納品するはずだった機材が直前で返品になり、荷物を満載した状態で月に向かうことになったのだ。

 十数名をのせた貨物宇宙船が月へと向かって加速を始める。電気推進のその船は着陸機能を全く持たない宇宙専用船である。目的の星の軌道上に留まって荷物を受け取り、投下する。自ら地表に降りることなく仕事をこなす。

 宇宙ステーションから月までは、丸一日かかる。その日の便は落ち着きがなかった。全員がそわそわしていた。それには、理由があった。

 減速し月の軌道に突入する直前、操縦室が占拠された。乗り込んでいた十数名の乗客は、全てがテロリストだったのだ。



 その日、全ての人のNデバイス端末に避難情報が送られた。宇宙に住む人間なら例外なく持っているNデバイスに強制的に送られる緊急情報表示機能であった。

 貨物船を乗っ取ったテロリストによって、月面都市が襲撃された。円環状の地下都市トンネルの一画の発着ポートを占拠、無人戦闘ポッドを送り込んで、一つの区画まるごとを占拠したのだ。

 円形トンネルは十二の区画に分けられている。災害に備えて、それぞれの区画は独立した生命維持機能と発電機能が与えられている。一区画を占拠すれば何年でも篭城することが可能だ。

 その区画の中心にあったのが、AS社だ。例の砲を製造していた件で捜査を受ける直前であった。武装勢力を受け入れ、拠点となっているらしい。

「退社していてよかったですよ」

 数日前にAS社から引き抜かれた彼女は、映像配信を取得しながら言った。

 手が震え、落ち着きの無い様子だ。本心からの言葉ではないのだろう。元同僚や仲間が心配なのだ、と柊は想像する。

 緊急ARによって街の各所にディスプレイが出現し、最初の数十分はリアルタイム映像で区画の様子が映し出されていた。しかし、それもやがて映らなくなった。占拠された区画の端末接続がテロリストによって物理的にパージされたのだ。CUBEネットが遮断されたことで、街頭カメラを含む全ての情報が遮断されている。

 映像は、接続が途切れる前に取得したものに切り替わって繰り返し放送を続けた。AS社の社屋が、武装した戦闘ポッドで制圧されている映像が何度も流された。映像解析が進むたびにその都度追加の情報が添付され、再配信されている。

 映像に映っていた社員の顔ぶれもわかってきたようで、名前の報道がされていた。中には、彼女の知った顔もいるらしい。一般社員は1つのフロアに集められ、監視されているようだった。

 彼女の同僚はほとんど捕らわれている側だった。

「最近地球から来た社員が多くなってたんです。大して気にしてなかったんですけどね」

 これのためだったとは、と、彼女は歯噛みした。

 映像で顔を確認した所では、テロに加担しているのは最近地球から赴任してきた社員ばかりだということだ。三十名程度という話だったが、AS社は無人の戦闘ポッド生産の大手である。人員は少なくても、そのポッドを加えれば戦力が十分になる。

 トンネルの一部が隔壁で閉ざされているため、普段は使われないバイパス用の空気循環路が開いている。街中の大気はいつもとは違う臭いがしていた。リニアトレインも環状運行できなくなっている。混乱は都市全体に広がっている。

 政府軍は包囲を進めており、決断があれば隔壁を開けて突入し制圧する予定だ。

 情報室のメンバーも不安そうに話をしている。区画一つを占拠した理由は何なのか? 政府本部への直接攻撃ではないのか? つまり、今いるこのオフィスも標的になるのではないか?

 敵は何の声明も出していない。

 そんな時だった。情報室メンバー数名に対し会議室に集まるように指示が来た。柊もその中に入っていた。

「敵の目的は不明だ」

 AR会議室に入ると、巨大な講堂のビジュアルイメージが展開していた。情報共有を行うための仮想会議室の大規模なもので、百人以上集められている。

 様々な部署の3Dイメージを統合して、一つの部屋にいるかのように見せている。すぐ近くの座席に座っている人々も、全く別の部屋の状況が映し出されたものだ。

 緊急時だというのに凝ったものだ、と柊は関心していた。

 演台で話をしているのは、政府軍月派遣隊の司令官である。彼女とは何度か会ったことがある。いかにも軍人といった厳格そうな声色で、司令官は説明を続けた。

「該当の区画はすでに反抗勢力によって隔壁で閉鎖され、突破するには爆破が必要だ。大気製造システムの連携はこちらで遮断し、化学兵器の散布は防いでいる。

 駐屯地は問題の区画とは二つ離れているため、すぐ直接攻撃を受ける恐れはない。しかし、懸念はある。宇宙空間、月の地表から攻撃を仕掛けてくる場合だ」

 司令官の声のトーンは重かった。それが一番の懸念である。

 区画同士の間は遮断できても、それぞれの区画にある巨大なエアロック、宇宙船の発着ポートだけは封鎖ができない。緊急避難用の措置として区画内から独立して操作できるようになっている。そこから一度宇宙空間に出て、他の区画のエアロックから再び進入される恐れがある。

 政府軍の宇宙戦闘部隊はまだ計画中である。宇宙空間で戦闘する訓練を受けた特殊部隊があるだけだ。地球の軌道上の宇宙戦闘機の試作型は、母艦が完成していないので月まで飛んでくる事はできない。完成していたとしても、丸一日は必要だっただろう。都市の中はよくても、月面は裸同然だ。

「戦力は二つに分ける。区画の包囲と、政府区画周辺のエアロックに護衛をつけていく」

 問題の占拠区画を左右から挟みこむらしい。隣の区画に移動されないようにするためとのことだった。

 これが厄介である。肩身が狭い政府軍の駐屯地は、一ヶ所のブロックにしかない。トンネルの一部を完全に遮断しているため、遠い方に十分な戦力を移動するには逆周りで行かなければならない。二八〇〇キロもある長大なトンネルを通って回り込むためには、数時間が必要となる。

「目的が不明とはいえ、包囲が完了すればこちらに分がある。これが最優先だ」

 包囲には時間がかかる。最悪の場合、民間人には犠牲になってもらうという意味も含めていると柊には感じられた。

 柊は、彼らが何の声明も出してこないことが気になっていた。誰かがそれを質問したが、「呼びかけはしている」というそっけない返事しか返ってこなかった。会議は、それで終わりだった。

 政府軍は強力な戦車で包囲殲滅することしか考えていない。地上でやっているのと同じ、歯向かう者をひたすら排除するという思考をこの月面にも持ち込んでいる。

 防衛すべき拠点は月面都市内にあるのは確かだ。そこだけを守ればよく、月面でいくら跳梁されても困らないのは事実だ。

 柊は気になっていた。いくら戦闘ポッドの大手とはいえ、こんな不利な戦いを挑むのは何のためか? 月面に出たからといって、そこには何もないはずだ。政府本部は堅い守りに阻まれどうにもならない。戦車は月面都市で不利な戦いを強いられているが、治安維持ではなく拠点の守りということになれば話は別だ。装甲と火力を十分に生かせる防衛線で、おもちゃのような戦闘ポッドに遅れをとるなどありえない。だから、今までこんな方法を使うテロリストはいなかった。

 何か理由があるはずだ。このテロを起こした理由が。

 講堂にはアイの姿はなかった。この会議を俯瞰している可能性はあるが、AR上に姿を現すことはできないらしい。事態の対処に忙しく働いているのだろう。そのかわり、見知った人物を見つけた。この月面都市の名目上の市長だ。

 情報室の上層の階に市長のオフィスはある。市長と言っても月面は企業によって統治されているため、マスコットくらいの役目しかない。お人よしで純朴な人物がその役目を負っている。仕事はないが人脈はあるらしい彼女なら、何か知っているかもしれない。

 直接出向いて待ち伏せし、オフィスから出た所で、柊は市長を捕らえた。

「やあ、ご無沙汰」

「ひっ」

 急に腕を捕まれ、市長はぎょっとした様子だ。Nデバイスを通した会話ではなく生の彼女を訪れたのは、隠れて話がしたいからだ。

「何か隠しているなら教えてくんないかな?」

「えっ…えっ……」

 市長はすぐ顔に出る。会議ではずっとそわそわしていた。特に誰かが「声明はないのか」と質問した時などは、顔面が蒼白になっていた。

「別に何も……」

「財団総帥の代理として聞く。口外しないから。ね」

 柊は市長とは顔見知りだ。彼女はアイの友人で、プライベートでも多少付き合いがある。

 財団総帥アイ・イスラフェルの名前を出せば、市長は観念した顔になった。

「て、テロの目的を知っています」

 小声で、市長は言った。

「月の裏側にはひそかに建造中の宇宙基地があります。そこが狙いだと、政府は考えているみたいです」



 誰も知らないことだが、黒耀星への輸送を行なうための月面基地はすでに使用可能になっている。政府の一部勢力がひそかに計画を進めていた。今日になるまで、政府軍にすらその存在が伝えられていなかった。こんな事態になるまで黙っていられたことは、駐屯する政府軍にとっては迷惑な話だっただろう。企業連合を軽く考え、防衛の必要がないと侮っている体質が見える。

 問題の場所は、地球のものよりもさらに強力なマスドライバーをそなえた発進基地。惑星間輸送船が発着可能な大規模施設である。

 月面は地球よりもはるかに重力が少なく、脱出速度を得るために必要なエネルギーがごく小さくて済む。大規模な宇宙船を打ち上げる拠点に適している。こんな秘密基地の建設をするのは、都市で遅れをとっている分別の場所で挽回しようという考えなのだろう。

 つい先日政府から発表された黒耀星開発参加企業の公募。あれは、実質的には政府の独占であった。

 地上にある政府寄りの企業を優遇する公募条件だったのだ。権利を勝ち取ったのはノア社という企業で、その昔、政府が黒耀星開発のためにわざわざ立ち上げた会社ということだった。

 激怒したのは、ずっと黒耀星開発を狙っていた一部の月企業と、黒耀星を政府の手の及ばない聖域と考えていた勢力だ。そんな勢力に、タイミングよく情報がリークされる。用途不明の資材を大量に月に送り込んでいるというデータだった。

 そういった怒りに震える勢力は行動を起こした。政府の輸送船に進入し、どこで資材を下ろしているのかを調べることにしたのだ。工作員が送り込まれた。

 輸送船は月面都市についても荷物を降ろさず、そのまま帰還ルートに乗った。地球上からは観測できない月の裏側まで行ったところで、ひそかに物資や作業ロボットを投下し、秘密裏に無人で工事を進めていた。

 政府が発見したのは、その様子をしっかり証拠に捉えただろう工作員が地球に逃げおおせた痕跡だけであった。



 月面は危険な場所である。有害な宇宙線や激しい温度差、真空など、命の危険が山ほどある。そこに出るのは、都市のメンテナンスや工事など、特別な用事がある時だけだ。かつて人類が夢見た月の海を歩くという行為は、数十万の人が居住するようになった現在でも、気軽に行うことはできない。

 脅威は、都市の上に施設された巨大なモジュールシールドで守られている。

 月の構成物質は建材に加工する材料として優秀な資源である。このシールドはそれを使って生成したものだ。硬質の巨大パネルを組み合わせ、防護版としている。光の反射が大きいため、地球上からも円の形として見ることができる。放射線を遮断する他、対衝撃を考慮した積層構造でできている。

 月面は大気がないため、隕石衝突の機会が多い。その証拠に、月にはおびただしい数のクレーターがある。隕石は地表のシールドに当たる。シールドは悪意ある兵器攻撃に対しても効果があるとされてきた。そのため今までは、月面都市への攻撃は内部から行なわれてきた。

 しかし、月面基地は違う。平たい「海」の地下に作られた月面都市に対して、月面基地は月の裏側にある巨大な溶岩孔の壁面を掘り進んだだけのオープン構造になっている。天然の要塞のような構造である。

 密閉されていないここを防衛するには、宇宙兵器の類が必要となる。真空の宇宙環境の中で確実に動作し、対象を破壊できる新しい兵器だ。

 だが、それはまだ未来の話だ。特にここは急ピッチで建造されたために、まだシールドや武装がない。現在は建造中の砲台があるのみで、稼動には至っていない。守りは無いようなものだ。

 武装勢力は声明を出さなかった。それどころか、政府の呼びかけさえ無視してひたすら武力行動を行なっている。

 声明など出さなくて当然だ。これは厳密にはテロリズムではない。政府や民衆の考えを改めさせようというのではない。実力で月面基地を奪い取る戦争を仕掛けている。それが可能だからである。

 これは、スピードの勝負だ。黒耀星に輸送するための設備は完成している。数日後にはノア社の先遣隊が向かう予定になっている。その先遣隊の計画をまるごと奪うのが今回の狙いだと思われる。電撃的に事を進め、とにかく先に黒耀星についてしまえば、そこには広大な土地と資源がある。輸送船には成型機などの開発機材が揃っているから、政府が追ってくる前に兵器と軍隊を作り出し、国家として独立することができるかもしれない。

「そんな博打はしないで、この町で幸せに暮らしてほしいのに……緑化政策とか第二号円環の計画への出資とか……私がもっと頑張っていれば」

 たのしいおつきさま、ゆたかな月面都市、とつぶやきながら、市長はどこかへ去っていってしまった。あんな人物だから、言われたことを承認するだけの市長に向いている。

 政府軍の戦略は一つだ。月面都市を出る前に突入、排除する他に手段は無い。内々ではそのように計画を進めていると思われる。市民に多少の犠牲が出ても早い時期での突入を実行するに違いない。それに失敗した場合は追撃となるが、現状の政府軍の装備では不可能に近い。

 政府軍が包囲を終えるのは数時間後だ。時間を与えれば負けが決まる。

 市民に犠牲を出さないように事を済ませるには、本格的な突入の前に別の作戦で手を打つべきだ、と柊は考える。そんなことを考えそうな人物に、柊は一人だけ心当たりがあった。ほどなくしてその人物から、柊へのコールがかかった。



 地球の汚染を放置して宇宙開発に資金や人材を投入したことで、それに加担した月面企業を標的にしたテロが横行した時期があった。そんな暗黒時代を過ごした企業にとって、今回の事件は様々な意味を持つ。

 優勢な方につくという態度を見せている企業もあれば、AS社を支持する企業もあった。しかし、自分たちを苦しめたのと同じ手段をとったことに批判的な企業が大半のようだ。

 政府軍に守ってもらえなかったかつての開発参入企業は、テロによって辛酸を舐めながら新天地を手に入れた。月開発がほぼ完了すると、その恩恵は生産力や黒耀星開発という形で地球に還元されていく段階に入った。もうテロは行なわれないと思われていた。

 今回のテロは政府に対する行動だが、必ずしも月面企業がそれを支持するというわけではない。皆、成り行きを見守っている状況だ。

「おかえり」

 ぐったりした様子で、元AS社の社員が戻ってきた。見知った柊の顔を見るなり、ほっとした表情を浮かべている。

 軍警察に連行されて尋問と情報提供を迫られていたのだ。ひどいめにあったことが表情から伺える。これからやろうとすることには彼女の力がいる。アイを経由して働きかけ、彼女を開放させた。

 情報室に戻った柊は、そこでアイからの指示を伝えた。

「そ、そんな無茶な……」

 柊の顔見知りの技術職員は、これまでに見たことが無いほど驚いた顔をしていた。

「柊さんが危険すぎませんか」

 そして、柊を心配していた。しかし、思いつく方法はこれ一つしかなかった。それは、こちらも宇宙空間を通って外から侵入するというものだ。

 現状ある戦車の一両に気密対策を施し、柊が乗り込んで政府の工作部隊を先導する。おそらく配備されているだろう戦闘ポッドの護衛を蹴散らし、基地侵攻部隊を発見し、破壊工作を行なう。敵部隊の構成はわかっていないが、それを発見し無力化する事ができれば市民に犠牲を強いる必要はなくなる。

 議論してる時間はない。これは時間との勝負である。

 政府軍の月面兵器工廠にある自動成型機は四台しかない。消耗品ならば地球で生産されたもののストックが山ほどあるが、月面用の気密パッケージは新しく作る必要がある。緊急に設計して成型するには、四台全て並列して部品を成型し、一台分を生み出すのがやっとだと思われた。

 幸いにして、月面用ボディの設計は大体完成していた。細部をチェックし改良を加えれば実物が作れる。テストやリテイクをしている時間はないが、早めに成型に入れば突入時間までに間に合う。

「作ってみよう」

 沈黙を破ったのは、大勢の同僚を捕らえられている元社員だった。

「使えるかどうかは出来てから考えればいいじゃない」

 その言葉で、全員が納得したようだった。



 一度家に帰った柊はシャワーを浴び、戦闘向きの服装に着替えることにした。

 この前は戦闘ポッドを相手にスカートで挑んだが、今回はそんなわけにはいかない。進入後は生身での戦闘もあるかもしれないし、気密が十分かどうかわからない戦車に乗り込むので宇宙服を着なければいけない。それも、戦闘用のものをだ。クローゼットの奥からそれを引っ張り出してこなければ。

 自宅では、いつものようにリカが出迎えた。

「少し、そばにいてくれる?」

 柊がリカを呼ぶと、リカは柊に寄り添ってくれる。

「今日は、どうしたんです?」

「うん……」

 時間はまだある。少し眠っておきたかった。

「名前、呼んで」

 命がけなのはいつも同じだったのに、今日だけは不安だった。

 柊に何かあれば他のQロットが吸出しを代わることになるだろう。そうなることは、なんとなく不愉快に思えた。必ず帰りたいという気持ちは初めての経験だった。

「はい、柊」

 名前を呼ぶ声。他の誰のものとも違う、柊の本質を知っている人の呼び声だ。

 もう一度だけでもリカの声を聞けるよう、生きていたいと思った。



 過酷な月面で活動するには、車両の類が欠かせない。

 しかし、制約は大きい。広大な月面で遭難したらどうするのか。故障して動けなくなり、酸素が尽きたら? 狭い車内で宇宙服を着たまま運用できるのか? 太陽フレアをどうやって避けるのか?

 月専用の車両の開発の際には、そのような要求が盛り込まれた。二段構えの動力やシステムの冗長性確保。機密性はもちろんのこと、故障して車外に出る必要が出た時のためのエアロックの完備。予備の宇宙服に数日分の食料や酸素の搭載スペース。有害な放射線に対する電磁シールド。中には月の土を化学分解して酸素や水を作り出すミニプラントの搭載まで。

 そのような月専用車両たちは、余分な機能を搭載し大型化、高価格化していった。仕事そのものは無人機械に任せ、人はそんな高級車に乗って走り回っていたものだ。

 地上で運用していた戦車が月車両に迫るのは機密性くらいで、内部は狭く、宇宙服での活動になど向かない。余分なものを搭載するスペースは皆無だ。水素と酸素から電力を得る燃料電池からは排水が出るので飲料水が確保でき、酸素が呼吸用に転用できる程度である。

 なので、簡単な設計変更くらいですぐ月面兵器に変わるわけではない。戦車を改良するのは苦肉の策で、いわばつなぎだ。

 戦車は操縦手と砲手の二人乗りだが、一人でも操縦できる。それに柊が乗り込み先導しつつ、敵がいれば排除する。政府軍の特殊部隊は一般車両に乗り込み、戦車の後に続く。

 その戦車が、仕上がってきていた。

「なんとか完成しました。あとは最終調整だけですよ」

 AS社の元社員は、疲れた声色で言った。

 新型パッケージの外見は革新的だった。基本装甲は機密性の向上のため一体成型。高分子製の外装を成型機で新規に造形し、その上から従来の複合装甲を貼り付けている。まるごと覆うパッケージ追加のため、シルエットが変わって見えるほどだ。

 月面では役にたたない中距離パッシブレーダーは外し、宇宙用の長距離アクティブレーダーと高性能カメラ、音響地中探査装置を選択している。モジュール化されているのでこの換装は簡単だ。砲は強力無比な一二〇ミリ砲。都市内では使えなかったが、月面なら遠慮なく発砲できる。低重力で月の重力圏から飛び出してしまわないよう、低初速の徹甲榴弾を搭載した。

 特殊部隊もそろい踏みしていた。宇宙用の特殊戦闘服、全身鎧のような宇宙服を着た部隊員の顔は、密閉式のヘルメットに覆われていて見てとれない。精鋭らしいと聞いている。しかし、人数は五十人ほどと少ない。五人ずつ十台の月車両に搭乗する。

「あの……気をつけて行ってきてくださいね。ちゃんと、帰ってきてくださいね」

 顔見知りの技術職員が柊に詰め寄ってきて言う。潤んだ瞳が充血しており、足下もおぼつかない。今の今まで仕事をしていたのだろう。見上げてくる仕草は可愛いらしかった。

 柊の戦闘能力は対ポッド戦に訓練されたこの特殊部隊以上のものだ。現場では指揮にあたることになっている。一つ間違いがあれば簡単に命を落とす危険がある。

 いつかのように髪を撫で、できる限り微笑みかけた。リカの記憶を経験した柊には、ごく自然にそんな振る舞いや表情ができるようになっている。

 リカの雰囲気は人を安心させる。柊がリカに感謝する所であった。願わくば記憶が消えても、少しでも柊の人格に残ればいいと願うほどだ。

 政府軍が隔壁を破って突入する頃には敵は月面に出てしまう可能性が高いというのがアイの考えだ。その前に少数精鋭で侵入し、敵部隊を壊滅させなければならない。

 戦車一両に加えて五十人ばかりの兵士。相手の規模がどれくらいかはわからないが、いかにも頼りなさすぎる。こういう場合、企業が使う戦闘ポッドが羨ましくなる。

『そう思って、援軍を要請しておいたわ。もう外に到着しているから』

 アイから通信が入った。彼女は、対策を用意していた。

 発着ポートが開放されると、それは入口の前にずらりと並んでいた。

「働きすぎて、幻覚でも見てるんですかね。これは」

 眠そうにしていた元AS社の彼女も、目を見開いている。

 政府が使える武器がこんな所にもあったのだ、と、柊は関心していた。

「昔、これのおもちゃでよく遊んだものですけど。まさか現物を見られるとはね」



 反抗勢力の中には月に来るのが初めてという者もいた。若い世代は、過去の企業との抗争を経験していない者もいる。地球上でのひどい暮らしに比べ、月面都市の華やかさは目を見張るものに違いない。

 町は明るく、空気も澄んでいた。食料や水も十分にあり、しかも安全である。ネットワークも発達しているし、一大生産拠点であるここでは手に入らない物がない。

 地球は汚染が進み、立ち入りできなくなった地域が山ほどある。今も続く戦争で、政府が衛星兵器を使用して破壊の限りを尽くした結果であった。

 環境破壊による有害な大気を避けて地下都市を建造し、そこに住むしかなかった地球人類。その建設を担っていた企業も、収益の見込めない地下都市建設からあっさり撤退し、月面へと逃げていった。資金がある人々は地球を捨て、政府が提示した新天地に群がったのだ。月に本社を構える企業も増えていった。場所が空の上では抗議することもできない。

 決死の破壊工作に対しても、企業は猛烈に抵抗してきた。資金や道具に優れた企業に勝つ事は、ついにできなかった。

 月開発からあぶれて地球上に残った弱者は、住む場所にも困るという始末だった。飢餓や病気が蔓延した。月開発が終わってようやく地球再生に目が向けられた今でも、それは変わっていない。地球に残った人々にとっては、政府も月企業も同じだ。汚れた大地を人に押し付けて逃げ出した人々である。

 地球に残った人々が最後まで勝てなかったのは、技術力を持たないからだ。いくら這い上がりたくても、出来るのはテロのような卑劣な妨害工作だけであった。

 そんな人々に計画を持ちかけたのが、AS社であった。

 黒耀星を、政府より先にとりにいく。

 黒耀星は過酷な環境ではあるが、汚染された地球に比べればずっと可能性に満ちた新大陸である。誰よりも早くそこに行き、自分たちの国を作ろう――そんな言葉は、与えられるばかりで何も作れず、不満があれば破壊するしかなかった者達にとって、どれほど輝いて見えたことか。

 試みは失敗するかもしれないが、やる価値はある。どうせもともと希望のない生活をしている。他人から与えられるものではなく、自分たちの所有する国や土地が手に入るかもしれない。そう語られては、断る理由はなかった。

 AS社にひそむ反政府思想は黒耀星開拓をわが手にと長年考えてきた。そこに入ってきた秘密月面基地の情報は、まさにチャンスであった。

 地上では強大な軍事力を誇る政府の威光も、月ではかすむ。特に都市の外の月面、真空の宇宙空間に対応した武器はまだ準備中だ。無人機械である戦闘ポッドなら過酷な月面に適しており、企業に分がある。今という時代ならば。そのタイミングで情報が入ったことは、まさに天啓に思えた。

 他にAS社が必要としていたのは、兵士だった。自社の警備員や若い社員は反政府思想が薄い。無人ポッドはいくらでもあるが、それを指揮し行動を共にする人間の若い兵士が必要だった。そこで、適当な地球勢力を利用することにしたのだ。

 こうして地球の勢力とAS社は手を組み、戦闘集団を作り出した。そして今日、こうして行動に出た。

 閉鎖された区画は、どこを見ても戦闘ポッドが走り回っている。建物から出る者がいれば暴徒鎮圧用のテーザー銃で撃ち、敵意を持つ者がいれば殺傷兵器で応戦してくる。そのため区画の市民は店舗や近くの倉庫に避難して閉じこもっている。特に、計画の要となる本社からポートの間の防備は厚い。

 隔壁の閉鎖に、ポッドによる防備。時間を稼いでいる間に、小型のランチ数隻に同様のポッドを満載する。そして、月面基地へ。計画はシンプルだ。降って沸いた情報に対して急に計画実行を決定したため装備の換装に手間取っているが、政府の包囲が完了するまでには出発できる。

 特殊部隊の突入が懸念材料だ。隣のブロックとの閉鎖は完璧だ。来るとすれば外部ポートからしか考えられず、そこにもポッドを配置している。

 主力となるAS社が最も多く生産しているタイプは、小さな車輪を四つの脚部に搭載した走行型だ。甲殻類を思わせる形状である。悪路では脚部で歩き、クレーターのような砂の多い部分を掘って隠れることもできる。対人用の拠点防衛モデルであり、機動力は低い。大気を利用したファンやジェットエンジンは搭載していないが、それが宇宙空間では有利になる。真空暴露対策を行なえばすぐ外で使える。

 ポッドとしては比較的大型で、人の背丈程度の大きさがある。簡易的だが多層構造の複合装甲を持っており、歩兵武器への防御はほぼ完璧。二機で保持すれば新型の砲の反動にも耐えられる。月面は動くものが少ない。接近してくるあらゆるものを遠距離から探知し、装備した新型砲や機銃で対応する。すでにこのポッドによって、月面を周回する監視衛星を撃墜している。

 歩兵でやってきた所で、隠れる場所がないこの平野ではポッドに対抗できるはずがない。月面の専用車両には戦闘能力などなく、装甲も無いに等しい。可能性は低いが戦車が来る場合も考えられる。そうだとしても足止めくらいはできるという予想だった。

 だから、外部警備を担当していた戦闘ポッドのオペレーターは、送られてくる高精彩画像に映ったものを見てさぞ驚愕したことだろう。

 一両、見慣れないモジュールを貼り付けた戦車がいることも気になった。だが、改造した戦車なら月面で使える可能性は予想していた。そんなものよりもずっと目立つ、巨大なものがあったのだ。

 砂煙を上げながら驀進してくる家ほどの巨大な物体。いや、家以上の大きさだ。戦車でもなければ月面車でもない。地球育ちの若いオペレーターはそれが何かわからなかった。すぐに仲間に知らせ、あれは何かと聞く。

 それが何か知る年長の仲間の一人は、やられた、という顔をした。予想外だ。あんなものがまだ残っているとは考えていなかった。

 総重量八〇〇トン、積載量五〇〇トン以上、全長二十五メートルという巨体と並ぶと、八メートル程度の戦車が軽自動車のように見える。地球上では考えられない大きさのそれは、踏み潰すだけでほとんどのものを破壊できる重さを持っている。加えて、小隕石の衝突にも耐える装甲板も各所に搭載する。

 その大きさでありながら、時速一〇〇キロを実現する高出力の電気モーターの心臓を抱いている。身長の三倍はあろうかというタイヤはゴム製ではなく鋼鉄製。サスペンションをはじめ走行装置そのものが地球上の車両とは違う。月面のような低い重力で最高の走行性能になるように設計されている。

 月面都市を作る膨大な建材の原料を採掘する鉱業のためだけに投入されたこの機械は、当時月開発の象徴だった。苛烈な反復輸送で大量の土砂を生成工場に運び、採掘を支えた月専用の巨大トラック。資源再利用が進んだ現在は破壊的な大規模採掘は禁止され、殆どは解体されたはずだ。

 ポッドのカメラが捕らえた砂煙の中に浮かぶシルエット。あれこそが、過酷な月面で最も長く使われ、抜群の信頼性を持つ月面の巨獣だった。



 Nデバイスに追加された無線誘導システムをチェックしながら、柊はそのシステムの古めかしさに驚いていた。戦闘に備え、柊は無線信号の暗号化を組み立てる。

 巨大トラックは、無線誘導によってコントロールされる鉱業重機だ。路面状況の把握など、簡易的な判断機能しか搭載されていない。人が目標を指示してやり、そこに移動する程度のものだ。

 トラックの無人化は実は最初期の軍用ロボットと同じくらい昔に遡る。それが生まれたのは、月面と同じように過酷で広大な砂漠地帯でのことだ。だから、歴史の長さだけなら、戦闘ポッドよりも積み重ねがあるといっていい。

 目的の金属がほんのわずかしか含まれない土砂の採掘。その現場では、重機を使って大量の土砂を採取する作業が日夜行なわれる。気温四十度を超える酷暑の土地にも、資源は眠る。それを低コストで採掘するため、無人操作のできる重機が必要とされた。衛星位置特定システムとリンクして位置を制御し、自己診断・自己走行が可能な遠隔操作機能を持つ巨大トラックが作られ、そのような現場で大いに活躍した。

 月面開発の際にもこの技術は転用された。月型の巨大トラックはコックピットさえもオプションパーツ扱いの、完全無人機械だった。重力の少なさから、地球上のものよりもさらに巨大に設計が可能であった。重量に余裕があるため、スペースデブリや隕石の衝突を考慮した装甲がされているのも特徴だ。とはいえ、大きさ数センチ程度の隕石に対応したものである。それ以上の大きさはレーダー衛星で観測して回避する仕組みになっている。

 一見堅牢そうに見えるが、重機は戦闘兵器ではない。厚さ数十センチメートルの鋼板を貫通して内部に破壊を及ぼせる対戦車砲に対しての防御など、考慮されていない。豆のような大きさの戦闘ポッドであっても、冷静に狙われれば張子と同じだ。

 このトラックの利用価値は、見た目に威圧感を与えるということもあるが、それ以上にその質量と大きさにある。全長二十五メートル、重さ八〇〇トンのトラック四台でポートを塞いでしまえば、宇宙船が飛び立つ事はできなくなる。そこまで自走させることができるかどうかが鍵だ。

 この攻撃によって、敵は選択肢の全てを捨てて、トラックがポートに到達する前に四台全てを行動不能にするしかなくなる。八〇〇トンものトラックをどかすのは時間がかかるだろう。その間に敵部隊に爆薬をセットし、脱出する。作戦のキーである「時間」をかせぐのに最適の手である。

 逆に言えば、一台でも失えばこの作戦は危うくなる。ポートに隙間が出来れば宇宙船はそこから発進してしまう。広大な月面に出られては、一貫の終わりだ。

 月面都市の円環の外側から月面に出て、遠回りして正面から接近するルートをとる。平野しかなく、身を隠せるような場所が少ない。こういう場所では、射程の長い戦車に分がある。しかし、集中砲火を浴びた場合、この新型パッケージがどんな反応を示すかは未知数である。

 敵は熱源を遮断し、砂に潜っているようだった。戦車の射程に入っても敵の反応はなかった。もっと接近すれば地中の音響反射レーダーを利用できそうだが、その頃には敵の射程内だ。

 敵の射程に入るという頃、やっと反応が現れた。前方に配置したトラックを狙って、敵ポッドが対戦車砲を発射したのだ。熱源と噴煙が確認できる。まずトラックを狙ったあたり、よく理解している敵がいるらしい。自立制御ではなく背後で動かしている人間がいるであろう無人戦闘ポッドの行動は、先日のそれより的確だった。

 モーターやタイヤを狙えば足止めが可能だ。柊はアクティブレーダーで敵の弾道を計算し、それを回避する信号をトラックに送る。大型のわりに小回りの効くトラックは、砂煙をあげてスライドを起こしながらも、敵の砲弾を回避する。

 機動性に優れるトラックなら、まだ緊急回避できる距離だ。発砲の熱源とカメラ映像の変化で敵機を探知、アクティブレーダーをピンポイント照射して位置を割り出し、戦車の一二〇ミリ砲で反撃する。月面では重力が少なく、弾道はより直線的になる。真空中の弾道計算は新しく組まれたものだが、初弾から命中。敵ポッドは粉々に砕ける。

 しかし、油断はできない。地中を超音波探査すると、反応が三十程度浮かび上がった。距離が近くなるまでに数を減らせないと、トラックの回避限界を超える。

 次に敵が狙ったのは、柊が乗る戦車だ。集中砲火だった。柊は瞬時にNデバイスから火器管制装置に指令を出す。精密射撃によって、自身に迫る砲弾を空中で叩き落す。

 高額の機器を搭載する戦車の索敵能力と精密射撃能力は、画像処理だけのポッドとは格が違う。長距離レーダーによって正確に計測された敵の弾丸を狙えるほどだ。このような遠距離では活きてくる。

 しかし、集中砲火を浴びれば撃ちもらしが出てくる。放熱効率の悪い真空では、地上のような速射はできない。数発が迎撃をかいくぐって、戦車に到達。正面装甲に命中する。複合装甲は十分な防御力を発揮し、貫通弾はない。しかし衝撃は伝わり、機密性を維持していた高分子カバーに亀裂が入る。気圧の低下を示す警報が鳴る。

 柊は着込んだ宇宙服のバイザーを閉じる。そして、現在発射してきた戦闘ポッドの位置に対して、応射を浴びせる。

 自動装填装置は次々と砲弾を送る。反撃と迎撃により、砲身は加熱する。金属製の砲身は熱で膨張して変形、精度を落としていく。しかし、反撃は的確に命中し続け、敵ポッドの数機がはじけ飛ぶのがわかった。Nデバイスでレーダーと直結している柊には、その様子が感知できる。まだ大丈夫だ。

 戦車を狙うのは諦めたのか、敵ポッドはトラックを狙い始めた。敵の砲は装填速度が遅いようだが、精度は低下していない。真空での発熱対策を織り込んでいるようだ。

 柊にも発熱対策はあった。しかし、それには車外に出る危険を冒す必要がある。

 砲の精度は少しずつ悪くなっていく。敵ポッドは正確に破壊していたが、砲弾の撃ちもらしは多くなる。一発はトラックの車輪の一つに命中し、三日月ほどの破片をもぎとっていった。距離が近くなって回避も難しくなってくる。敵ポッドも数機まで減っていたが、一台にでも致命的な被害が出れば終わりだ。

 失敗する前に一度停車して、外に出るか――そう考えた柊だったが、すぐ必要がないことに気付く。

 敵は砲を捨て、内蔵機銃の掃射に切り替えていた。弾切れだった。大型の砲の砲弾をそれほど多く持ち運べるはずもないし、こんなに多くの砲弾を使うなど想定していなかったに違いない。戦車には、まだ有り余るほどの砲弾があった。

 それを使う必要すらなかった。機銃掃射くらいではトラックを止める事はできない。最後のポッドは自身よりもはるかに大きなタイヤで蹂躙され、月面のスクラップと化した。

 第一段階は政府軍の勝利で終わる。距離を置いて追従してきた特殊部隊の車両に指示を出し、突入の準備をさせる。



 先に扉を破壊して突入した部隊が内部からロックを解除し、発着ポートの巨大な扉が開く。柊の戦車を先頭に、主力が突入した。

 ポートにはいくつもの中型宇宙船、月面移動用のランチが並べられ、ポッドを封入したコンテナが搭載されていた。ハイジャックした大型輸送船と軌道上でランデブーしその後月に向かう計画のようだが、ランチは単独でも慣性飛行で月面基地に到達できる航続距離を持つ。個別に処理する必要があった。

 ランチの推進系を破壊すれば済むことだ。接近する特殊部隊を迎え撃ったのは、月面にいたのと同じ戦闘ポッドだった。

 特殊部隊の戦いは見事だった。弱点である関節部やセンサーを的確に射撃し、破壊していく。柊の特殊拳銃のように射撃動作を隠す訓練をしているらしく、弾道の解析や回避を鈍らせているのだ。敵が低速タイプなこともあるが、正確かつ的確な射撃であった。

 それでも、火力で勝るポッドは脅威だ。殉職者が出ないよう、柊は戦場を俯瞰しながら、戦車で支援する。

 てこずるポッドを見て、キャットウォークに一人の兵士が現れた。

 気付いた特殊部隊員が狙撃をするが、簡単に回避する。目視で弾道を見極めたらしい。高度なNデバイス使いだ。

 身のこなしも、戦闘経験の豊富さを感じさせた。敵の指揮官かもしれない。兵士は上部フレームに取り付くと、内部のネットワークに介入している様子だ。ほどなくして、天井の大型クレーンが爆薬によってパージされ、柊が乗る戦車の上に落下してくる。

 柊はすばやくハッチを吹き飛ばし、外に出る。その瞬間を狙って、手練の兵士は狙撃をしてくる。

 ハッチから体を出している柊は回避ができない。弾道は解析していた。正確に左胸を狙った射撃は、特殊拳銃のブレード部を使って防御する。軌道を逸らし被弾を防いだが、衝撃を受けた掌がしびれた。

 射撃が防がれるのは想定外だったのか、その兵士は回り込んだ特殊部隊が投げ込んだ手榴弾への反応が遅れた。負傷したのか、すぐ通路の奥に撤退しようとする。

 柊はすぐ、特殊拳銃で対人高速弾を撃った。姿を消した兵士を追ってキャットウォークに飛び移り、通路に入る。弾丸は背中に命中したらしい。兵士はそこで血の海に横たわり、事切れていた。

 それ以降は、敵の増援もなかった。全てのランチの推進系の破壊を確認し、残敵の掃討に移る。

 ポートを確保した柊は、非常回線をつないで情報室の本部を呼び出した。

 コンテナに用意された手付かずの戦闘ポッド。これをただ捨て置くのはもったいない。十分に利用させてもらうために、AS社のポッドとその統制プログラムに詳しい人物に協力を依頼するのがいいだろう。



 新たにプログラムしたポッドは、よく働いてくれた。

 まず街中を走り回っていたポッドと戦い、殲滅した。敵の人間の戦闘部隊は人数が少なく、ポッドを失えば対抗らしい抵抗をする能力はない。簡単に制圧できた。

 区画からはほぼ危険が取り除かれた。最初に柊が撃ったあの兵士が戦闘部隊のリーダーだった。市民の犠牲を出すことなく、開放は成功したのだ。

 しかし、柊の仕事は終わらなかった。

 アイから、緊急に通信が入る。軌道上に待機していたハイジャック輸送船の方は別の戦闘部隊が制圧に向かったらしい。しかし、その部隊は全滅した。輸送船にあるはずのない戦闘ポッドの迎撃にあったのだ。

 地球上から発射する輸送船の監査は厳しい。テロの歴史から、危険物が持ち込まれることには神経質になっている。

 しかし、ポッドを作る材料や機材は別だ。輸送船に搭載されていたのは、軌道上で生産された高性能の成型機と、大量の原料だ。爆発物は持ち込めないが、高分子素材や金属など材料だけなら何の検閲も受けない。テロリストは成型機を開封して輸送船のメインエンジンの動力と直結し、ハイジャックと同時にその場で戦闘ポッドを量産した。

 高性能な成型機は電気回路のプリントまでも可能だ。武器は火薬のいらないオートボウガンやアームナイフで、狭い船内では有効だ。あらかじめ設計図さえ用意しておけばいい。従来のテロにはない奇想天外な方法での武器調達だ。高い技術力がある企業にしかできない芸当である。

 月面都市の部隊が壊滅したことを知って回収を諦め、輸送船は自身の戦力だけで月面基地制圧に向かうつもりだ。はじめからどちらかが生き残って月面基地を目指す予定だったらしい。成型機に繋いだ動力を停止し、エンジンを再起動しつつあるという。

 クレーンに埋もれた戦車を掘り出すには時間がかかりすぎる。町中に拡散した戦闘ポッドの召集にも時間が必要で、その間に輸送船は発進してしまうだろう。

 柊が行くしかない。

 隣の区画に移動し、高速ランチを調達する。一人しか乗れないその小型のランチなら、先に月面基地に到達できる。そこに行けば未稼働の砲台がある。それを起動して迎撃するくらいしか方法はなかった。



 完全に無人で建造されているというその基地は、外側からは全く見えない場所にある。月が出来たばかりの頃に噴出していた溶岩の通り道だった巨大な縦穴は、まるで奈落のように暗い空洞だ。太陽の光は決して届かず、突入すると宇宙服を通じて寒気が感じられた。制御区画に入っても人はいない。しかし、来訪を感知して作動した暖房が空気を暖めてくれていた。大気もあるので、柊は行動しやすいように宇宙服を脱ぐ。

 基地の動力は核融合炉で、すでに稼動している。砲台が動かないのは、配線とソフトウェアがまだだからだ。本来なら二、三日かかる。

 なぜそんなに手間取るのか、システムを見て柊は理解した。

 ここはCUBEシステムではなかった。旧型の電気回路コンピューターと光通信網を使っている。Nデバイスからの接続は不可能だ。

 最近も工事をしていたとは思えないアナクロぶりだった。この制御区画は、月面都市以前から存在するとしか思えない。見れば、旧時代の採掘機材があるようだ。ここで何かを採掘していたのだろうか。秘密で工事している割には基地の規模が大きいと思っていたが、この基地はずっと昔の計画の再利用に見える。過去の月開発に関わった楪世の娘であるリカなら、もしかすると詳しいのかもしれない。

 利点もあった。ここまで古い通信手段を使っていたなら、CUBEネットをいくら探索しても発見される危険性はない。

 今はそんなことよりも、砲台を動かす方が先決だ。

 まさか砲台も古いものかと思ったが、昇降機の上に載ったそれは水上艦艇用の最新式だった。CUBE端末を内蔵し、Nデバイスから制御することが可能だ。

 方式は電磁加速砲で、大量の電力を必要とする。制御は直接するとしても、電源の配線は必要だ。電力ケーブルがあるにはあったが、繋がっていなかった。人力では持てないような巨大なものだ。

 ぐずぐずしていると輸送船が来てしまう。柊は現場にあった作業用ポッドに指示を出し、配線を急がせた。航空母艦のようにポッドを戦闘機として放たれでもしたら、たった一人しかいない柊が危険すぎる。できるだけ遠距離からの破壊が望ましい。

 電力が来ると、砲台の旋回昇降システムが稼動する。ステルス艦で甲板内部に格納される昇降システムをそのまま延長し、穴の底から砲台がせりあがる仕組みだ。しかし、ソフトウェアは空っぽだ。CUBEネットも届かないここでは、いちいち制御室に戻らないと必要なデータをダウンロードすることもできない。そんなことをしている時間が惜しいので、各機器の仕様書をNデバイスに瞬間記憶し、最低限動いて発砲できるようにこの場でプログラムを作る。

 孤独な戦いだった。遠くにもう輸送船が見えてきていた。時間が無いため、照準システムまで作ることはできない。旋回と仰俯角の稼動、装填、発射が動けばいい。柊は目測で射撃を調整するつもりだった。

 この砲台は電子機器が不具合を起こした時のために光学式のスコープが搭載されている。宇宙空間用ではないが、これを利用して照準するしかない。弾薬はあまりないので、慎重に狙う必要がある。

 砲の幾何学モデルや砲弾の初速、月の重力をNデバイスで計算し、予測される軌道を計算することが可能だ。それを目視のスコープの情報に重ね、初弾を発射する。

 輸送船はほんの小さな障害物も見逃さない機首カメラがある。高速で接近する危険なデブリでも回避してしまう。音速の七倍という速度で砲弾を発射する電磁加速砲だが、輸送船は即座に緊急噴射し、ぎりぎりで回避する。

 しかし、艦艇用の砲は速射が可能である。次々と砲弾を発射すると、大質量の輸送船では機敏にかわすことはできない。防御用の前面シールドを貫通し、輸送船の内部で弾頭爆発が起こる。真空中、地面に接していない輸送船から音は聞こえないが、激しい閃光が漏れている。中は地獄だろうと柊は想像する。

 ついに致命的なダメージを受け、輸送船は航行を保てなくなる。回避の噴射が原因で、そのまま月面に落着した。

 しかし、運が悪かった。おそらく輸送船の乗組員の誰かが、撃墜の前に戦闘ポッドに指示を出したのだろう。ひしゃげて墜落した輸送船から、無事だった歩行型のポッドがアリのようにいくつも這い出てくるのが見えた。まっすぐに月面基地を目指してくる。

 ここには柊がたった一人だ。なんとか隠れてやりすごすか、それとも迎え撃つか。あの数では砲弾は足りない。厳しい戦いになりそうだ。覚悟を決める必要がある。

 そう考えていた時だった。

 彗星のような白い光が、遠く墜落した輸送船の上空に現れた。

 光学スコープでそれを追った。宇宙戦闘機のようだった。白くなめらかなボディに、水素エンジンの青白い光。動き方から見て、どうやら有人戦闘機のようだった。

 政府の宇宙戦闘機だろうかと考えたが、柊が知っているものとは形状が違いすぎる。あれは、どちらかといえば戦闘ポッドに近い。先日柊が交戦した、あの新型の飛行ポッド。胴体部分にあれとよく似た特徴を認める。

 R社の新型機だ、と柊は推測した。その宇宙戦闘機は、有効な射撃武器を持たないポッドを機首の機銃で次々と一方的に破壊していった。その機動には無駄がない。機体の安定性が高いのだ。発砲による反動で機体制御を乱すこともないし、フルオート連射であっても照準は正確だった。たびたび地表に接近しても、危なげなく再上昇できている。

 噴射炎が見えず、ロケットモーターによる微調整とは思えなかった。もしかすると重力制御で機体を安定させているのかもしれない。熟成した宇宙戦闘機に見えた。あれは、政府軍の宇宙戦闘機の上を行っている。

 白い彗星は地を這う敵を掃討すると、月面都市のほうに引き返していった。警戒する柊をよそに、もう姿を見せなかった。

 最後はあっけなかったが、これで全て終わりだろう。柊はしばらく生存者がいないか目をこらしていたが、発見できなかった。しばらく待つと月面都市から特殊部隊が到着し、墜落した輸送船を取り囲んだ。部隊に光通信で無事を伝えると、柊は報告のため、あの制御室に戻ることにした。



 報告を終え、自力で帰れることをアイに伝える。柊は格納庫に行き、停めてあるランチを確認した。

 飛行には問題なさそうだったが、もう少しましな乗り物が欲しいと思った。このランチはスピードはあるが、快適とは言いがたい。天蓋すらついていないため、宇宙服を隔ててすぐ真空というのが落ち着かない。帰りくらいは安全に帰りたい。

 適当な車両がないか格納庫を見回した柊は、奥のほうに何かあるのを見つける。

 格納庫の奥は広い空間になっていた。地下深くまでレールが続いている。その途中に、巨大な惑星間輸送船が乗せられていた。

 黒耀星移民船だった。開発に必要な様々な機材や、現地での生命維持施設などがキット化されて格納されている。

 これがそうなのか、と、柊は思った。

 これこそが柊の守りたかったものだった。巨大な船はいまにも飛び立ちそうだ。外部の窓からは、中にある寝台や居住スペースが見える。広い船だ。長旅でも快適だろう。

 搬入途中の機材には、農業用の機材や食材生成装置もある。黒耀星での農業は既に成功をおさめているので、食べるものに苦労することもないだろう。あとは娯楽が心配だが、大勢で行けば何かしら楽しみは見出せるに違いない。

 すぐ近くに中型の車両を発見する。乗り込む前にひとしきり船を眺め、柊は我が家へ帰ることにした。柊の帰りを待っている人がいる。



「お帰りなさい、柊」

 もう何度目かになるリカの出迎えだ。その時は、柊にとって特に感慨深いものだった。

 戻ってくることができてよかった。そんな風に感じたのは初めてだ。

「数日後に月面基地から出る黒耀星行きの船、あれにきみの生徒たちが乗る」

 柊の言葉を、リカは静かに聞いていた。

 死の運命にあったリカの妹たち。昨日あの黒耀星の情報を見て人員枠に注目した柊は、政府がSロットらを有効利用する気はないのか、アイに聞いてみた。

「リカも、一緒に行ってもらうから」

 殺人はなかったという証拠は受け入れられ、優秀な人材である楪世リカの処分は見送られた。柊は相談した上司のアイからそう聞かされていた。

 政府による黒耀星の開発は、数年前から本格化に向けて動いていた。あの基地が、その証拠だ。今、優秀なリカの生徒たちが加わってくれれば、開発に貢献できるだろう。その事に着目した誰かが、Sロットの有効利用のために今回の計画を立ち上げていた。

 研究所はあの枠を利用しようと考えていた。いろいろと制約はつくが、リカの妹たちは生きられる。

 それが真相だった。あんなに危惧していた死の危険は、知ってしまえば馬鹿らしいほどに、とっくに解決された危機だった。

 あの基地が奪われれば、リカの妹たちは今までと同じように処分されたかもしれない。しかし、それはもう回避された。数日後には、あの巨大な船は黒耀星に向けて飛び立つ。

 柊の体は、糸が切れたように力が入らなくなっていた。妹たちを救うことができたことが、ようやく実感となって押し寄せてきたからだ。

「よかったね」

 これをずっと伝えたいと思っていた。今まで、何人のSロットを見送ってきたのかはわからない。きっと今回はいつもと違う。忘れてしまうのが惜しいくらい、すがすがしい気分だった。

「はい」

 リカは満面の笑みで答えた。

 それは一見、何の憂いもない、太陽のような笑顔に思えた。

 その日初めて、いつもの吸出しは中止した。柊は心地よい疲労の中で、リカのぬくもりを感じながら眠りについた。



■十日目



 AS社は、政府が買い取ることになりそうだった。

 今回の首謀者は経営者や株主で、全員が逮捕された。社が保有する財産は没収する決まりだが、今回は会社として残すようだ。

 政府所有の月企業自体はいくつか存在したが、その中でも規模、技術力ともにトップの企業となるだろう。今まで調達できなかった戦闘ポッドの技術も、希望するスタッフごと引き取る見込みだ。顧客は主に政府になる見込みだが、自警団派遣の事業は残される。

 一足先に引き抜かれていたあの社員も、古巣に戻る格好になる。彼女の存在も国有化の助けになるだろう。さっそくスロット型のオフィスや保有する工場の移転が計画され、しばらくは忙しくなりそうだという。

「短い間になっちゃいましたけど、柊さんにはお世話になりました」

 律儀にも挨拶をしにきた彼女の表情は、明るかった。

 今回の国有化に対して、企業連合への裏切りと見る意見もないではなかった。変な嫌がらせを受けることがないだろうかと、柊は心配だった。

「こう見えて私、警備員出身でね。テロ被害経験者なんです」

 それに比べれば、と、彼女はあっけらかんとしていた。厳しい時代を乗り越えた技術者の器の大きさを、柊は感じる。彼女のようなスタッフによって、企業連合は支えられている。

 悲観的にばかりなる必要はない。確かに批判もあるが、それ以上に、AS社の社員に対しては同情の目が向けられていた。

 テロに対する企業の嫌悪感は並大抵のものではない。その被害者になった一般社員を積極的に引き抜く企業もあるほどだ。政府に下る個人に対しても過剰で暴力的な批判は見られなかった。

「私よりも、柊さん闇打ちとかされません? 今回の件で」

「名前公表されてないし、大丈夫なんじゃない?」

「気をつけてくださいよ。もしそうなっても、私がバラしたわけじゃないですからね」

 柊をはじめ、今回の作戦で活躍した特殊部隊のことは一切公表はされていない。ポートをふさいだ巨大トラックの映像がニュースに流れ、そちらのほうが注目を浴びていたようだ。月企業を苦しめたテロを、開発をささえた重機が倒すという構図に、胸がすく思いがした人々もいる。模型の売り上げが増えたという冗談も聞かれた。

 政府に対しては、長年の月面基地隠蔽に対しての厳しい声が多かった。

 月面基地の防備はまだ完全ではない。危機感を抱いたのか、政府は記者会見を開いた。そこで、黒耀星の開発の第二段階は、他の企業の参入も認めるというセンセーショナルな公約をした。今まで決して譲歩をしなかった政府が異例の公約をしたことに対し、企業はどんな反応を示すだろう。誓約書を交わせば月面情勢が落ち着くと信じたい。

 ただし、地球には依然として危険分子が存在する。輸送船の検閲は厳しくなりそうだ。柊も闇討ちされないことを願うしかないだろう。

 アイのオフィスにも寄らず、簡単な事後処理をして自宅に帰る予定だった。

 帰り際、情報室の技術職員が声をかけてきた。

「本当に、無事でよかったです」

 いつものように可愛らしかった。お茶にでも誘いたい所だったが、真剣に泣きそうになっているのを見ると、そんないじわるはできない。

 それよりも、今日は別の憂鬱がある。一通り挨拶も終わったので、柊はそっとその場を後にした。

 すっかり事件が解決した気持ちでいたが、そういえばHJ社の件はどうなったのだろう。テロを起こしたのは、結局AS社だけだった。あの日戦った新型ポッドは無関係だった。

 しかし、すでにあの事件は柊の手を離れている。アイや軍警察に任せておけばいいだろう。



「お別れですね」

 たった十日ほどで見慣れてしまったリカの微笑。いつもと何も変わらなかった。

 名残惜しかった。しかし、これも、何度も繰り返してきた事のはずだ。

 リカは死なない。それだけで十分だ。抱きしめてみると、リカはいつも通りの温度で、柊をあたためた。

「実は、こっそり贈り物を用意しています」

 通販で買ったという衣服を、すでにクローゼットの中に下げてあるという。

 昨日のお菓子の礼だ、とリカは言った。何も用意していないことを後悔する柊だったが、リカは得意げに言う。

「年上の面目というのがあるんです。かわいい服にしましたよ。捨てたりしないこと」

 切なくなる気持ちを抑えながら、柊はリカのぬくもりから離れる。

「それはどうかな。好みがあるし」

「もう」

 今も変わらない表情でいられているか、自信はなかった。

 クローゼットを見てみたい気持ちにかられたが、リカはそれを許してくれない。覚悟を決めて、柊はリカをベッドに寝かせた。

 隣に横たわり、リカの顔をよく見ながら、最後の追憶を始める。

 目覚めたら、また話をしよう。それができると信じながら、柊はリカの記憶へと入り込んでいく。



 記憶は、つい最近の出来事に迫ってくる。前回、研究所の脱走の後からだ。

 死んだ枢は、企業が研究所とつながっているという話をしていた。レビを売り渡された企業は、HJ社という零細企業だった。

 月面にあるその企業にリカは訪れていた。ビルの一階と二階のテナントを借りているようで、二階はオフィス、一階は倉庫らしかった。

 オフィスにはいくつもの電子機器が置いてあった。CUBE端末では処理できない機械整備のための調整装置や、モーター制御を実験するための回路基板を搭載したワークステーションなどだ。誰も人はいなかった。

 一階の倉庫に降りてみると、作業用ロボットと見たこともない機械が並んでいた。それ以外に、医療槽と呼ばれる施術機械が設置されていた。Nデバイスの施術の他、脳の手術を行なうことができる高級医療機器だ。

 そこにも、人は誰もいなかった。リカは目的のデータを入手するため、医療槽に近づいた。

『それをどうする』

 無人の倉庫に、音声が響く。

 見てみると、音を出しているのは作業用のロボットのスピーカーらしかった。誰かがどこか遠隔地からリカを見て、語りかけている。

「あなたは?」

 姿は見えなかった。リカは訝る。

『それを持ち出して、どうする』

 声は、再び質問を繰り返した。

「……」

 リカは、慎重に周囲を見回した。誰も見当たらない。遠隔地からリカを見て、声をかけているのかもしれない。

 突然、倉庫の照明がついた。照らし出されたのは、リカが目にした事のない戦闘機械であった。見たところ、新型の戦闘用ポッドのようだった。二十機ほどがずらりと並ぶ。

 同時に、新型ポッドは機動音を放ち、浮遊する。重力感知が可能なリカには、それが重力干渉によって実現していることがわかった。

 重力クラフトはまだ実用化されていない。Sロットの能力でしか再現できないはずだ。この機械は無人だ。そんなことがあるはずがない。

 Nデバイスに宿った現実干渉性は、サクラメントと呼ばれる情報集合体に登録し、Qロットと祈機で利用できる。仮に祈機の小型化がうまくいったとしても、機械だけで現実干渉性は生まれない。Qロットなしで実行可能という話は聞いたことがない。

 じゃあこれは、どうやって……。

 聞こうとして、リカは気付いてしまった。ここにあるあの医療槽は、脳の外科手術も可能なものだ。レビの頭脳はほとんどがNデバイスに入れ替わっていた。じゃあ、そこにあった脳細胞はどこにいったのか?

「そんな……」

 その想像はきっと当たっているのだろう。現実はどこまでもリカに対して残酷だった。

 リカは知ることはなかったが、枢はこれを知って消された。会社に横流ししたレビの様子を見に来た時、施術の現場を目撃してしまったのだ。

 なぜそこまで出来るのか。大事な妹を切り刻まれ、リカは初めて怒りに震えた。

 リカは医療槽から記憶媒体を力ずくで抜き出した。かすかな希望があったからだ。それがあれば、レビを救えるかもしれない。

 戦闘ポッドは、機首に装備した機銃を掃射した。

 リカは弾丸を空中ではじき返す。重力干渉による自動防御プログラムだ。猛烈な弾幕ですら、寄せ付けなかった。

 しかし、Nデバイスの処理には限界がある。これほど細かい重力制御に必要な計算は大きく、長くは続かない。いつまでも鉄壁の防御を行なえるわけではなかった。

 リカは自らを加速させ、ビルからの脱出を図った。追ってくるポッドは無視し、逃走した。



 向かったのは、レビを隠した廃ホテルであった。下層部、開発期に放置された建物の一つに、心神喪失した彼女を隠していた。

 必要なデータは入手できた。再生を試みてみよう。

 医療槽には必ずリカバリシステムが搭載されている。万が一人格が破壊されるような施術失敗があった時のためだ。持ち出してきたものはそれだった。そこには、施術の前のレビの人格・記憶データが残っているに違いない。

 データバンクをレビのNデバイスと直結すると、リカのARにコンソールが出現する。同一のユーザーの過去の保存人格のリストが提示される。

 それを適用すると、虚ろだったレビの瞳に生気が戻る。

 一度消滅した人格を入れなおすだけで、本人が復元できたと言えるのかどうか、それはわからない。彼女の脳細胞の多くは、まだあのポッドの中だ。しかし、しないよりはいいとリカは考える。

「リカ……姉さま……」

 レビは、リカを呼んだ。思わず、リカはレビを抱きしめる。

 それが、失敗だった。

「つかまえた」

 気付いた時、リカの中に、悪意ある何か流れ込むのが感じられた。

 医療槽に入っていたデータバンク。あの一瞬、声をかけられて硬直している間に細工がされていたのだ。

 リカの中に入ってきたのは改変された人格のレビ自身だった。プログラムモジュールとなったレビが、リカの神経を支配する。リカの体を我がものとするために、リカのNデバイスを掌握し、急速な成長を促す。運動皮質を掌握し、体の機能を奪い取る。

「ああ、リカ」

 それは、リカがレビに対して行なった対抗措置と同じ理屈だった。接触した同タイプのNデバイスはお互いを個別のものとして認識できない。リカのNデバイスに自らをコピーしたレビは、リカの体だけでなく、記憶さえも掌握する。

「私、ずっとあなたになりたいと思っていたんです」

 入念に織り上げられたプログラムによって、リカは体の全てをレビに奪われた。正確には、レビの意識をもとに作り上げた人工知能である。

「ふふ、この体。こんな風に触れてみたかった」

 レビは自らのものとなった手で、体を強く抱いた。その感覚は、リカにも伝わる。そばに倒れている元の自分の体には、見向きもしない。

 こんなものがレビの本心であるわけがない。改変を加え、悪意を増強させたものだ。リカへの憧れを利用し暴走する、レビの残骸だ。

『言っておくことがある』

 残されたレビの体は、ぐったりと倒れ、宙を見つめている。口だけが動き、誰かに操られながら喋っている。

 おそらく、あの声の主だ。HJ社で聞こえた口調と似たものがある。

 Nデバイス化した神経は、いつでもオーバーライドすることができる。迂闊だった。一度プロセスを停止させても、再びインストールすればCUBEネットを通じて遠隔操作が機能し始める。リカバリデータに仕込ませた新しい遠隔操作プログラムが、彼女を操っているらしかった。

『きみの重力干渉能力は、何かを失った時に強く成長する傾向がある。生徒たちを失ったと知ったことで、きみの力はまた底上げされた。ポッドをよく退けたものだ。だから、最後に贈り物をあげよう』

 リカを挑発し、激情させるための会話だった。

「(やめて……やめてください)」

 声を出そうとするが、体は既にレビに支配されている。

『さようなら、姉さん』

 役目を終えたレビの体。神経がNデバイスに置き換わった彼女の命を絶つのは簡単なことだ。全身に激痛を与え、ショック死を促せばいい。

 悲鳴を上げることもなく、ほんの一瞬の痙攣で、レビの命は絶たれた。

 声にならないリカの激情。体を失った彼女の感情は現実干渉性として発現し、周囲に被害を及ぼし始める。建物は暴走する能力の影響で破壊され、崩れ落ちた。



 それは、一体誰だったのか。

 はじめ、リカは研究所を疑っていた。Sロットの運命を隠蔽していたのは研究所だ。その研究所が企業にも手を回し、横流しされたレビを殺人者に改造し、枢を殺したのだと思っていた。その考えは半分は正解だったが、正確ではなかった。

 レビの人格と一体化したことで、そうではないことを知った。今のリカのNデバイスには、レビの人格が流れ込んできている、レビが経験したことを全て知覚することができる。

 信じがたいことだった。枢に横流しの話を持ちかけ、レビを売り渡させるように仕向けたもの。それは、人ですらなかった。

 その存在は、リカもよく知っているものだった。

 Sロットがいつか能力を連ねるデータベースがある。その名は、サクラメントと呼ばれている。

 サクラメントは、ただのデータベースではない。サクラメントには人工知能がインストールされている。収集した能力を整理し、効率よくSロットを育てる方法を計算する人工知能である。

「ふふ、やっぱりすごいです。私、ずっと憧れていました。あなたみたいに聡明になって、外の世界で沢山の経験をしてみたいって」

 巨大になった現実干渉性を、レビは少しずつ手懐ける。Nデバイスを経由して脳から流れ出る干渉性を制御している。レビの人格をプログラムに残したのは、このためだ。同じ干渉性を扱ったことのある人格ならば、制御することも可能だ。それを考えたのも、現実干渉性を誰よりも深く知るサクラメントの人工知能である。

 サクラメントは、最も効率よくSロットを開発するための無慈悲な存在だ。確かに、こんなことは人間の所業とは思えない。なぜレビを操ってあんなことをさせたのかも、全てSロットで現実干渉性を開発する効率を高めるためだ。

 そんなサクラメントにとって、リカの学校はイレギュラーすぎる存在だった。リカの学校の生徒の特殊性に研究所が注目しはじめたからだ。

 学校の生徒たちは優秀すぎた。それをただ殺処分するのは惜しいと考える者達が生まれ始めた。リカが望んだようにSロットを人材として採用しようという計画が、実はもう立ち上がっていたのだ。それは、リカの成果であった。

 しかし、サクラメントはそれを望まなかった。サクラメントは現実干渉性だけを追い求めるシステムだ。それ以外の付加価値など余計なものだ。

 とくに最近の研究所はSロットを人材として使うことにばかり興味を示し、肝心の現実干渉性には興味を失い始めていた。難しい条件をクリアしないと使えない現実干渉性はコスト面での折り合いもなく、純粋に科学の神秘を追及しようとする者は少なくなっていっているのだ。

 サクラメントにとって、それは存在意義の危機である。だから、Sロットを使って事故を起こすことを画策した。同調する研究員のひそかな支援を得て、サクラメントはHJ社を作った。そして、手駒となるSロットを手に入れたのだ。

 それが、レビだった。レビと一体化したリカは、その事実も含め、レビがこれから何をしようとしているのかまで手に取るようにわかる。まずは、研究所に向かって妹たちを皆殺しにするのだ。そうすれば、Sロットの人材転用は後退する。

 しかも、Sロットの危険性を証明することになる。社会で自由にしておけばどんな反乱を起こすかわからないと知らせるのだ。妹を殺した後は、街中で暴れるつもりだ。

 絶望的な気持ちの中で、リカはどうすることもできなかった。

 せっかく妹たちは救われたのに。社会に出られる可能性がまさに生まれようとしていたのだ。完全な幸せではないかもしれないかもしれない。それでも死ではない未来が、手が届きそうなすぐそこにある。

 どんなQロットであっても、今のリカの前には捻りつぶされるだろう。そうなれば、その未来も消える。リカは絶望的な気持ちだった。

 自分の体が、どうなってもいい。誰か私を止めてほしい。

 ただ、そう願うしかない。



 そのQロットは、研究所に向かう通路でリカを待ち受けていた。

 研究所に向かうルートはいくつかあるが、いくつか必ず通る必要がある道がある。運動競技場なみの広さがあり、頑丈な作りになっている、開けた通路だ。

 もともと、ここは通路ではなくエアロックなのだ。だから、頑強な作りになっている。研究所への進入を阻む意味でも、分厚い扉の存在は都合がいい。

 研究所は、月面都市ができる前は外気に晒されていた。現在その上に月面都市が作られたが、当時使われた大型の資材を搬入するためのエアロックは通路として現在も使われている。外の自然光を光伝送路で伝える照明装置が埋め込まれている。それがまだ機能しているために、ぼんやりと明るかった。

 待ち構えていたQロットを見る。綺系のようだ。脱走したリカの動きを予想して配置した戦闘員だろうか。迎え撃つには最適の場所だ。防護扉がゆっくり閉まり、そこは二人きりとなる。

 危険なSロットの対処をさせられる戦闘用のQロットがいるとリカは知っていた。彼女がそうなのかもしれない。


(リカの追憶をする柊にも、はっきりとわかった。

 あれは自分だ。ついに、柊自身の記憶と重なる時期に突入した)


 QロットがNデバイスの停止信号を実行するには最低でも三メートルほどの距離に接近する必要がある。可能なら接触することが望ましい。どんな特殊なQロットでも、それがスペックの限界に違いないはずだ。

 今の自分に対しその距離まで近づける者など、いるはずがない。リカもレビもそう判断する。

 何の会話もなく、戦いは始まった。リカの体を支配したレビは、ただ柊に対し牙をむく。リカは、それを知覚することしかできない。

 レビはコンクリート製の地面を重力場で砕き、無数の破片を生み出す。それに重力加速を施すことで、弾丸のように加速して打ち出す。

 降り注ぐ破片に与えられた速度だと、命中すれば骨を砕き、急所なら即死させる威力がある。破片が壁面に当たると粉々に砕けるほどだった。

 そのQロットは機銃掃射さえも弾道を解析して見切り、高速反射制御によって適切に回避運動をすることが可能だった。弾丸に劣る速度の破片を回避するのは容易かった。その動きに、レビは目を見張った。

 リカの体は鍛えられておらず、そのような高度なNデバイス制御には向かない。しかし、視覚情報解析と重力干渉を組み合わせた防御プログラムを持っている。迫り来る弾丸を画面上の微細なピクセルの時系列変化、オプティカルフローベクトルで感じ取り、着弾する前に重力干渉によって防御を行なう事ができる。

 人の目は、同じサイズのデジタルセンサーよりも優れた画素数を持っている。両目で感知できる視野の解像度は六億ピクセルと同等と言われている。その全てをデジタルイメージに変換した画像は、迎撃解析を行なうのに十分なだけの解像度を有している。

 こういう場合、Qロットの任務は生け捕りである。武器は特殊拳銃で、相手が暴れる場合に使用する弾頭はニードル状の麻酔弾。これは、通常のメタルジャケット弾より弾速が劣る。目まぐるしい動きのある映像の中でも、十分に発見が可能だ。

 リカは、どんなQロットでもNデバイスを停止させることは不可能に思えた。祈るような気持ちで、相手の姿を見ていた。飛散する破片は苛烈に柊を攻め続ける。

 しかし、それは長く続かなかった。

 突然リカの視界が歪んだ。

 ちくり、という感触に気付く。足に針が刺さっていた。

 レビはすぐ重力制御で毒を逆流させ、針を抜き取った。意識を刈り取られるには至らなかったが、出し切れなかった麻酔が意識を朦朧とさせている。

 どうやって重力防御を突破できたのか、レビは考えた。

 攻撃を中断し、目を凝らそうとして、気付く。柊が狙ったのは、視覚の隙だった。

 それは、瞬きの瞬間だ。生理的にどうしても回避できない瞬きは、興奮すると回数が増え始める。その一回につき〇・三秒ほど、視覚情報に隙を生み出す。

 柊も視覚情報の画像処理を行なっている。相手の眼球を監視して、その〇・三秒の隙をつくことができる。それだけの時間があれば、麻酔弾は七〇メートルほどの飛翔が可能である。しかも彼女の拳銃は、発砲の予備動作を感知させない特殊拳銃だ。

 半径一〇メートル以内は重力干渉の領域だ。近づくものは何であれ自在にできる。しかし、レビは目視したものをだけを選んではじき返している。

 弾丸を跳ね返すほど強力な重力を全方位に常に発生し続けられれば防御は完璧になるが、それだと問題が起こるからだ。周囲の大気がかき出され続け、強風が生まれたり、自身の周囲の気圧が低くなってしまう。リカはそれを熟知して、極所発生処理を組み上げて使い続けている。

 逆に言えば、見えていないものははじき返せない。人間の視覚には、日ごろ気付かない隙が数多くある。護身用の自動処理を使うことが少なかったリカとそれに憑依したレビは、経験値が足りずその隙を考慮していなかった。

 手ごわい相手だとレビは思い知る。

 かつての強化兵士計画では、このような解析戦術を駆使する兵士が生み出されたという。想像以上に、戦闘とは奥が深いものだと感じていた。

 しかし、レビもまた優秀だった。理屈を瞬時に理解し、レビは瞬きの瞬間に一瞬だけ広範囲の重力防御を展開するように自動迎撃プログラムを改良する。レビは自身も優秀なNデバイス使いであり、しかも今はARの専門化であるリカの知識や技能を吸収している。戦いの中でも、常に分析を行なって対応ができる。

 この相手に、自ら接近するのは危険に思えた。近づいてくるのをじっと観察し、迎え撃つほうがいいと考える。

 思った通り、柊は接近してきた。弾丸の飛翔距離を短くし、探知を困難にするねらいかもしれない。解像度が高いといっても、人の目は秒間60コマ程度しか認識できない。Nデバイスの補助で取得情報の底上げをするとしても、せいぜい一二〇コマ程度だ。リカが組んだオプティカルフロー軌道計算には最低四コマ程度は必要になる。その時間の弾丸の飛翔距離は、弾種の違いを考慮に入れても八~三〇メートル程度。そこまで接近されれば注意が必要ということになる。

 高速弾に変更し、目を狙われれば危険。レビはそう考えた。視覚を封じるのはこの手の解析戦の基本である。そうなれば勝負は決まる。

 リカは再び地面を砕き、新たな破片を無数に生成する。距離が近くなるということは、相手も破片の回避も難しくなるということだ。三〇メートルには届かない程度の距離にひきつけてから、散弾銃のように弾幕をぶつけた。

 その距離でも、柊の回避運動は完璧だった。飛び跳ね、身をよじり、走り、止まる。美しかった。彼女は的確に破片を避け続けている。

 画像解析のコツは、捕らえたものを見過ぎないことだ。

 脅威があると、それを集中して注視してしまうのが普通だ。それでは全体像を捉えることは出来ない。異物を認識するのはソフトウェアにまかせ、自分は一箇所を見ないようにする。優秀なのはソフトウェアだけではなく、柊の視線の使い方にもあった。彼女は熟練した兵士で、的確に脅威の情報を視界におさめるようにしていた。

 それを見ながら、リカはただ見惚れていた。すぐにひねりつぶされると思っていた相手が、思った以上に健闘しているのだ。希望を持たずにはいられない。

 しかし、それ以上は接近できないようだった。いくら強化兵士とはいえ、いつまでも動き回れるわけではない。やがて、体力の限界が訪れる。リカはその時が訪れないよう、変化を待ちわびた。

 レビは、その瞬間を逃さなかった。

 今度は、見ることができた。接近する方向に動く高速のオプティカルフローを、Nデバイスの解析ソフトは見逃さない。視認から一瞬の間にNデバイスは処理を終え、防御箇所に局所的な重力シールドを展開。麻酔針の弾丸を退けるはずだった。

 しかし、防いだはずの針は、リカの首に命中した。

 リカは再び驚嘆した。確かに重力制御は行なわれたはずだ。該当の部分に強力な重力が発生したのを間違いなく感知している。小さな針は、そのシールドをたやすく貫通してきた。

 負けを覚悟したが、昏倒することはなかった。針からは麻酔が流れ込んでいないようだった。

 抜いた針に触れると、それは冷たかった。体温に触れたことで凍結していた内部の液体が溶け出し、じわりと流れ出る。

 レビはどういうことかわからなかったが、遠隔操作しているサクラメントは状況を解析し、一つの結果を導き出していた。

「(重力干渉に影響されないとすれば、質量を持たない物質かもしれない)」

 干渉能力を突破できるとすれば、同じ干渉能力ではないのか。

 頭の中に送られる通信がサクラメントの思考だとリカは気付いた。レビへの呼びかけがリカにも伝わっている。サクラメントはこの状況を見て、そしてレビに指示を送っているらしい。

 質量は、特定の素粒子が担っている言われる。もしそのポテンシャルを現実干渉性で停止できるなら、質量を奪うことが可能になる。

 物体は質量を持つ限り、微小ながら重力を持ち、同時に他の物体の重力に引かれる。これは磁力のはたらきにも似ている。

 リカの重力干渉による防御は、大気のほんの一部に通常よりはるかに強い重力を発生することで弾丸を引き付け、運動エネルギーを相殺するものだ。したがって質量、重さを持たないものなら、重力の影響を受けることもないため、影響を与えることはできない。磁石で引き寄せられないものがあるのと同じである。

 刺さった麻酔針は凍結していた。弾丸は普通、装薬の爆発で生まれるガス圧によって加速され、打ち出される。熱くなる事はあっても、凍結するなどありえないことだ。現実干渉のような常識はずれの現象を除けば。

 原子の振動、熱エネルギーも同様に現実干渉の作用で停止し、副作用のように針は凍結状態になったのではないか。それは同時に質量も喪失させ、リカの干渉能力をすりぬけた。

 ポテンシャルの停止とでも呼称すればいいのだろうか。彼女の干渉性は物質の質量を失わせるほど、物質に働く特定の力を無くす、あるいは低下させるものなのだろう。

 Qロットは確かに他人の干渉性を使えるが、その場合サクラメントと祈機のサポート受ける必要がある。見た限り、彼女は何も所持していない。

 しかし、もし他人のではなく、自分自身の固有の現実干渉性を持っていればどうだろう。QロットはNデバイスを埋め込む位置が違うだけで、基本的にはSロットと同様だ。遺伝子操作によって生み出された、干渉性を使うための因子を持った人間である。

 結果から考えればありえると言うしかない。その証拠に、こんな干渉性はサクラメントには登録されていない。Sロットのものなら、必ずサクラメントが知る能力であるはずだ。

 その前提でいくと、二回目を撃つ時に接近してきたのも干渉性のおよぶ範囲のためだろう。

 現実干渉は自分を中心に近い所ほど発揮しやすい。リカの場合は一〇メートルである。Qロットである彼女はそれ以下のはずだ。だから接近して、物体にポテンシャルが戻る前にリカに到達できるように飛翔距離を短くしようとした。

 もう一度撃たれれば、リカの重力制御ではどうすることもできない。しかし、仕掛けがわかれば、三発目はない。二発目が最後のチャンスだったのだ。

 周囲の破片を、自らの周辺に滞空させる。弾丸に干渉できないなら、今度は破片をぶつけて防げばいい。重力干渉できないとわかっていれば、防げないものではない。

 レビの考えるように、確かに三発目はなかった。

 リカの干渉性が、突如として機能しなくなったのだ。滞空させていた破片は次々に落下した。唖然としているレビに接近し、柊は簡単に組み伏せる。

 抵抗しようとしたが、リカの体は格闘には向かない。常人と同じか、それ以下だ。鍛えている柊に叶うはずもなかった。

 レビは干渉能力が使えなくなった原因を知ろうとNデバイスの状態を探ってみる。すると、わずかな違和感を発見した。Nデバイスネットワーク上に何らかの異物が混入している。

 弾頭に封入されていたのは、麻酔だけではなかった。柊自身から分けたNデバイスの一部が封入されていたのだ。

 QロットのNデバイスはSロットのものとは形式が違う。リカが先ほどレビに行なったような一体化は起こらない。混ざりこんでも勝手に混濁することはなく、他者の体内でも成長し、あらかじめ与えられた指令に従って上位権限で新規プロセスを実行することができる。

 足に打ち込まれたNデバイスはすぐに効果は出ず、一緒に封入された麻酔が効いただけだった。しかし、二発目の首は違う。先端部で溶解した柊のNデバイス素子がわずかだけ血中に入り込み、近くの胸にあるNデバイスにすぐに到達する。

 そこで増殖を開始する。少しのタイムラグのあとに、ミクロの存在の数個の素子は指数関数的な増殖で小指の爪ほどの大きさに成長、リカを支配する電子端末として機能し始める。足から入ったNデバイスも血管の中を移動し、いずれリカの胸に到達し、同じように停止信号を送り込むことができただろう。

 完全ではないが、危険な干渉能力を発揮できなくなるほどNデバイスのパフォーマンスを低下させることができる特殊弾頭。柊が持つ、Sロット狩り用の隠し玉であった。

 一発目が当たった時、すでに勝負は決まっていた。レビにもっと経験があれば防げたことかもしれないが、初めての実戦だったのが災いした。

 レビは力ない抵抗を続けていた。柊は片手でそれを押さえ込みながら、あいた手でブラウスのボタンをちぎり、手袋をくわえて、脱ぐ。それが意味することをレビはすぐに理解したが、どうすることもできない。

 生身の手が鎖骨に触れる。Nデバイスの中にだけ存在するレビの意識は、Nデバイス自体が活動を停止することで、跡形も無く消えるだろう。これまでと思ったサクラメントは、証拠を残さないためにレビに消去信号を送る。あっさりと切り捨てたのだ。

 彼女の掌のNデバイスと、リカの胸部Nデバイスが直接の接触し、通信を確保する。そこを通じて、今度こそリカのNデバイスは停止された。サクラメントが見ることができたのは、ここまでだった。

 リカは信じられない気持ちで、目の前の人物を見ていた。きっとこのQロットはリカから力を取り上げる存在になる。でも、そんなことはどうでもよかった。

 妹を殺す所だった。それを止めてくれたのだ。感謝をしたい気分だった。

 しかしそんな話をする暇はなかった。リカが度重なる重力干渉をしたために、通路の天井は崩れかけていた。大きな破片の一つが、リカの上に落ちてくる。

 仰向けになっていたリカはすぐに気付いた。柊も、一瞬遅れてそれに気付く。

 これでいいのかもしれない、とリカは感じた。生徒がどうなるかは気になるが、少なくとも生きられる可能性は残されたのだ。このQロットが自分を止めてくれたおかげで。

 ようやく休める。

 目を閉じて死を待ちわびたが、いつまでも痛みはなかった。

 倒れたリカを庇って、柊が破片を受けていた。

 落下した破片は巨大で、それでも柊に傷はなかった。しかし後頭部と背中を強打したことで、一瞬うめき声を上げ、倒れてしまう。

 破片を押しのけようとして、リカは気付いた。破片が軽い。そして、氷のように冷たかった。

 彼女の現実干渉性だった。リカを打ち破った力。接触する前に質量を軽減し、受ける衝撃を減らしていた。非力なリカでもなんとか押しのけることができるほど軽くなった巨大な破片は、柊から離れた瞬間、地面にめり込んだ。

 柊は、意識を失っていた。

 リカのNデバイスは停止している。健在な柊が目覚めるまで、電子管理された扉を開けることはできない。

 怪我は無いようだった。リカは安堵する。

 リカは柊の頭を膝に乗せ、彼女が目覚めるのを、じっと待った。



 人生を終えた気分でいた。

 Nデバイスが停止されることは、Sロットとしての開発終了を意味する。リカの価値はもう無いも同然であった。

 すでに、レビも失ってしまった。多くの生徒たちも。

 頼れるとすれば、目の前のこの人物だけだ、とリカは考えていた。

「手、見せて」

 怪我をしたリカを医務室に連れて行き、自ら治療を行なう柊を前に、リカは考えていた。これ以上、彼女に何か望んでもいいものだろうか。

 リカの手首の傷はたいしたものではなかった。あんなに暴れたこともあり、心配を向けられるとは思っていなかった。

 柊は丁寧に自己修復促進剤を塗り、包帯を巻く。手は柔らかく、暖かかった。庇ってくれたことといい、優しい人なのかもしれない。

 戦闘の後にやってきた医務室。医者への対応はそつがなかった。柊は会話をしていた。人当たりのよさそうな態度は社会に溶け込みつつ任務を行なう完成されたQロットという感じがした。

 聞けば彼女は、記憶を高度に分類して必要なことだけを選択して忘れる能力を持つらしかった。なるほど、だからどことなく無機質な印象なのだと、リカは納得した。

 暗灰色の髪と瞳に、端正な顔立ち。綺系と呼ばれるQロットの系列で、同じ系列の枢と柊には外見上の共通点もある。

 Qロットは機械ではない。リカと何も変わらない心があるはずだ。どんな人生を送ってきたのだろうか。

「行こうか」

 治療を終えた柊は言った。これから行く場所は決まっている。役目を終えたリカは、最後にその研究成果として、Nデバイスのデータを吸い出される。柊は区画の担当ではないため、自室でそれを行なうと言っていた。

 しかし、リカが連れて行かれたのは柊の自室ではなかった。

 それは、あの巨大な白い扉であった。

 リカの学校がある場所。もう、二度と戻れないかもしれないと思った場所だ。

 過激な出来事ばかり起きたせいで、どこかで自分の存在を忘れていた。リカ自身にも命があることを、本人こそが忘れていた。

 それを、このQロットは忘れていなかったらしい。それは、柊という人物の慈悲だった。彼女の無機質な印象が少し更新される。

 持ち出したのは本だけだった。

 もう終わったと思っていた自分の人生が、まだ少し残されているらしい。少なくとも、死までの間に人生を振り返り考えを整理する時間くらいは、きっとある。

 それを自覚した時、かつて受け継いだ本だけがリカの目に留まった。かつてリカを愛してくれた人の痕跡。忘れてしまわなくてよかった、とリカは思った。



 柊の自宅に住んで二日目。リカを尋ねてきた人物がいた。

 アイ・イスラフェルの名前は知っている。財団総帥で柊の保護者。研究所と縁が深いという人物らしいことは聞かされていた。突然の訪問であった。

 柊の部屋の合鍵を使い、柊が留守の間に尋ねてきた。事務的な連絡をするために来たらしい。柊には言っていないらしかった。

「生徒たちは、どうなるのですか」

 一番気になっていることを、リカは尋ねた。

 Sロットは、不要になれば始末される。リカの愛した生徒たちも。

 すがるような気持ちだった。いまや、リカには何の力もない。口惜しいばかりだが、他人に頼るより他ないのだ。

「方法はあるわ」

 近々、黒耀星の開発が本格化するらしい。サクラメントから得た知識の通り、Sロットを使う計画は一部の者によって進められていたという。研究所内にいるという、Sロットの有効利用を望む者たちによって。財団総帥であるアイはその者たちとのコネクションを持っている。

 黒耀星の開発に関してはSロットの逃げ場として注目されていた。Sロットを騙す嘘にもその名が使われていたほどだ。大規模な派遣計画があるらしい。政府は人材不足で、Sロットの労働力は貴重なものだ。しかも、Sロットは別な意味でも最適だからだ。

「知っているはずよね。Sロットの寿命のことは」

「……ええ」

 Sロットは、長くても四十年程度で寿命を迎える。体の広い範囲にわたってNデバイスを埋め込むことは本来危険なことである。研究を進めるためだけに生み出されたSロットは、Nデバイスによって神経を酷使するため長くは生きられない。

 寿命が短いSロットならば、反乱を起こす恐れは少ない。しかも、能力的に優れた人材ばかりだ。政府が新天地にコロニーを築くために、Sロットはリスクの少ない労働力というわけだ。

 リカの生徒の最年長は、生存している中ではマヤである。彼女は二十歳程度だ。体が弱いとはいえ、短くても数年程度は生きられるだろう。年少は十代で、まだまだ生きることができる。財団は研究所の要請を受け、その事業に関わっていくことになったそうだ。総帥であるアイは、資金を出資する立場にある。

「あとは、私がイエスと言うだけ、だったんだけど、雲行きは怪しくてね」

 アイがリカを尋ねたのは、協力を頼むためだ。

「ここ数日の騒ぎで、懸念を示す人も多少はいるの。対抗策をしたい。まだ決まりではないけど、その時がきたら、Sロットを救ってほしいのよ。あなたの、命で」

 研究所への反乱。Qロットの枢の殺害。破壊工作。マヤと成り代わっての脱走。

 それら全てを、楪世リカの行為ということにして、Sロットそのものを危険視されることを防ぐ。そうすれば、黒耀星開発にSロットを使える状況を作り出せるという。

 今現在も、サクラメントが残した設備と戦闘ポッドの処理に柊が当たっているという。

 あとは、リカ一人を処刑すれば済むというのだ。

 リカが罪を負うのに適切な理由もあった。それは、彼女がまがりなりにも特権階級の関係者であることだ。

 特権階級の中には現在、黒耀星開発に対して反目する地球勢力のパトロンになっている家もある。地球上の一部勢力に対して多少の影響力は持っている。

 地球育ちのリカは、その勢力にそそのかされて力を貸した。彼女さえ処分すれば危険はない。そういうシナリオだ。

「隠しても何もならないから言うけど、検査結果を見た限りでは、貴方の寿命は一年程度でしょう」

 一年、と聞いても、リカの心には感慨は沸いてこなかった。

 リカ自身、古いタイプのSロットだ。普通二十歳程度で処分されるはずが、こんなにも長く使われることになった。

 ここ最近、心を逆立てることが多かった。しかもレビによる乗っ取りで急激にNデバイスを酷使したのがだめ押しになった。既に、指先の感覚が薄れてきている。食べ物の味も、薄くなった気がする。まだ若干だが、視力の低下も感じられる。

 体は、終わりへと進んでいる。

 ずっとわかっていたことだったし、もう長くないという予感はしていた。だから、アイが告げた提案についても、感慨がわかなかった。

 それで妹たちが生きられるなら。黒耀星での扱いがどんなものかはわからない。長い人生ではないし、道具として使われ続けるかもしれない。それでも、リカにとっては慰めだった。他に何もない人生だったのだ。生徒だけを希望に行なってきた教えが、あの子達にとって価値あるものとなるのなら、それでいい。

「他に、何かありますか」

「何も。強いて言うなら、柊にはそのことは言わないと約束してくれること、かしら」

 リカは了承した。

「激しい運動はしないようにしたほうがいいわ。軟禁状態だから、できるわけがないけれどね」

「お気遣い、ありがとうございます」

 アイの用事は、本当にそれだけだった。用件だけを告げ、去っていく。



 一番の望みが叶えられそうなリカは、すっかり力が抜けてしまった。

 残り少ない寿命、最後の瞬間まで、リカは道具として使われる人生だった。でも、今更嘆くことでもない。もっと多くの命が、卒業生たちが散っていったあとでは、些細なことに思えていた。

 アイの話では、サクラメントはまだ諦めていないようだった。今度は地上の勢力や別の月企業を炊きつけ、黒耀星の開発をつぶそうとしている。それに対しては、あの柊が立ち向かうのだそうだ。今日は留守にしているから、そのために闘っている最中かもしれない。

 その数時間後、柊が帰宅した。

「どうなさったんですか……?」

 柊は、両手に包帯を巻いていた。仕事中の負傷ということらしかった。

 柊の指は細かった。両手に怪我をしているせいで、うまく包帯を巻けなかったらしい。

 そう、ここにもいた。道具として使われる存在だ。自由があると言われるQロットも、Sロットと何も変わりがなく思える。リカは柊の手をとって、丁寧に包帯を巻きなおした。

 自己修復治療は、ナノマシン入りのジェルによって高速に傷を治し、再生を促す。明日にはこのひどい火傷も消え失せているだろう。

 リカの手首の傷はとっくに治っている。

「(柊には言わないで、ですか)」

 あのアイという保護者。あの頼みは、柊への愛情かもしれなかった。

 少し、羨ましい気がした。柊を使う立場にいる、アイのことが。

「これでは、触れられませんね」

 柊の手の傷は痛ましかった。

 リカとの戦いも激しかったが、彼女は少しも動揺した所がなかった。見惚れるほどだった。きっと慣れているのだろう。激しい人生を送ってきた自覚のあるリカだったが、まだ甘いものなのかもしれない。

「こうしてみては? どうですか?」

 頚椎のNデバイスと胸のNデバイスを繋ぐため、リカは年下のQロットを抱きしめる。

 ほんの少し逡巡があったようだが、柊はリカに体を委ねてきた。腕の中の柊は、細く華奢な体をしていた。今はこの人だけが心を許せる同志のように感じられた。

 柊は、人としてリカに接し続けた。やがて柊はリカを忘れ、何の価値も思い出せなくなるだろう。それでも、柊は気にしなかった。

 ものは単体では価値を持たず、解釈を加えてこそ価値がある。解釈の手段の無いものなど意味が無いと。リカはずっとそう考えてきた。しかし、そんな考え方は人の側によった考え方なのかもしれない。柊を見ていると、そう思えてくる。

 情報はもっと純粋なものかもしれない。価値を与えても与えなくても、それは存在し続ける。柊はそこにあるものをシンプルに受け入れる人だった。

 言葉を交わすことも、肌を触れ合うことも、料理を作ってもらうことも、当たり前の幸福だった。リカにとって、日々は幸福なものとなっていた。すぐに終わるとしても関係ない。幸福は幸福だった。

 アイが二度目にリカを訪れたのは、長いようで短い数日が過ぎてからだった。

「数日後のシャトルで、生徒たちは黒耀星に向かうことが決まったわ」

 アイの口調は単調だった。リカは胸をなでおろす思いだった。

「あなたの座席も確保するよう、柊から依頼があったのだけど」

 アイは、リカに目線を送りながら言った。

 柊には言わないように。それが約束だった。リカは約束を守っていた。

「そうでしょうね」

 柊は自分から、リカを救ってくれるようにアイに頼んだらしかった。

 その望みは、叶えられない。言えば柊は反対してくれるかもしれないが、リカは少しでも、妹たちの未来の可能性を高めたいと思っていた。

「一つだけ、条件をつけてもいいですか」

「何?」

 それは、つまらない対抗意識かもしれなかった。柊を思っているのは貴方だけではないのだと、アイに見栄を張りたかったのかもしれない。

「私の死のことは、柊には言わないでくださいね」

 リカはアイの口調を真似するように言った。それが、リカに残された気持ちだった。最後の時まで、柊には幸福でいてほしかった。

 柊は幸福な人ではない。記憶を管理され、誰にでもそつなく接し、社会と向き合っているように見えても。

 根底にある優しさを目覚めさせないように、彼女は殻に篭っているだけなのだ。誰一人として、本当の彼女を知り、癒す人はいない。

 柊のやわらかな髪に触れると、胸の苦しさを感じる。

 優しい手に抱かれれば、安息を感じた。

 いたずらをすれば怒り、落ち込んでいる時には慰めてくれた。

 そんな、当たり前の人なのだ。

 残る日々は少なくなっていく。Nデバイス酷使の後遺症で、指先や皮膚の感触は薄れていった。何かできればと作った料理は味見ができず、美味しくできているかわからなかった。そのお返しにと買ってきてくれたお菓子は、もう何の味も感じられなかった。視力も弱まり、相手の顔さえ、近づかないと見えなくなっている。ふざけてメガネをかけてみたものの、何も変わらない。

 死が近づいていることを実感した。薄まって行く感触。Nデバイスが停止した今では補強すらもできない。少しでも多く感じたくて、柊に触れる回数は増えていく。ほんのわずか伝わる温もりを求め、リカは柊に触れ続けた。強く胸を締め付ける思いを抑えながら。

 仕事を終えて眠る柊にまた触れながら、リカは考えていた。おそらくは、明日が最後になるだろう。吸出しが終われば、柊はリカの気持ちを知ることになる。今こうして眠る彼女の髪に触れ、もうほとんど感触がなくなっていることも、きっと、知ってしまう。

 その時が、別れの時だ。

 できるならずっと一緒にいたかった。

 どうかこの気持ちが治まりますように。リカは、柊の背中に額を当てた。

 朝までには、濡れた瞼も乾くだろう。その時は、いつもと同じ笑顔でいたいと願いながら。

 最後の夜、リカは眠れなかった。



 翌日、柊が目覚めたのは昼を過ぎた時間だった。よほど疲れていたのだろう。

「お別れですね」

 なるべく、平静を装うことにした。アイとの約束が確かなら、これが最後の会話になる。

 ふいに、柊はリカを抱きしめた。まだ、わずかにだけ、温もりがあった。不意打ちだったので、つい嗚咽が漏れそうになる。手を握りしめ、リカは気持ちをなだめた。

 もう、こうして触れ合うことはない。それを、柊に悟らせてはいけないのだ。

 自分が笑えているか、リカにはわからなかった。柊の顔が目の前にある。ぼやけてはいるが、いつもの柊だ。最後の時。胸に伸ばされる柊の指を払おうかと、誘惑にかられる。しかし、結局はそれはできずに。

 追憶が、開始される。



 これで、全ての吸出しは終わった。

 柊の中に落ちてきた現実干渉性の枝の情報は、もうサクラメントへと登録された。あとは柊の記憶からリカの存在を消すことで、全てが完了する。

 柊は目覚めるはずだった。しかし、そうはならなかった。いつもとは違っていたのだ。

 自動的な記憶削除が開始されていた。あらかじめ柊の記憶管理プログラムに、吸出しが終わると同時に記憶削除を始めるよう、細工がされていたのだ。

 記憶消去の時は、全ての感覚が遮断される。一度意識を経って更新を停止したほうが、綺麗に記憶を消せるからだ。柊はもう、記憶が消えるまでは手足を動かす事もできない。

 リカがアイと約束した通りだ。本来ならここで柊は目覚め、リカを見送るはずだった。きっと、柊はリカを止めるだろう。それは柊を不幸にする。だから、リカはアイに頼んだのだ。吸出しが終わったら、すみやかに柊の記憶を消すようにと。

 自分の心にあったものがどんどん消えていくのを、柊は感じていた。

 もう二度と話ができないまま、リカのことを忘れる。視界さえも薄れてきた。皮膚の感触も曖昧になる。まるで、リカが感じていた恐怖そのものだ。

 リカは、そんな柊の頭を膝に乗せて、ゆっくりと髪を撫でていた。

「ごめんなさい」

 遠くで響くように、そんな声が柊の耳に届いた。その気持ちなら、柊も共有していた。

 柊にも伝えたいことがあった。しかし、もう声を出すことは出来ない。

 深海に投げ込まれるように全ての感覚が消えていく中で、誰かが悲しげに微笑んでいるような気がした。

 しかし、それが誰なのか、柊にはもうわからないのだった。



「あの日、サクラメントが街中にポッドを放って、柊と戦ったそうですが」

 最後の時。アイの元に訪れたリカは、疑問に思っていたことをぶつける。

「それは、嘘ですよね」

 リカも、あの新型ポッドとは一度戦っている。そのほんの一日後に、柊はあのポッドと戦った。

 あれは、本当にサクラメントのプログラムだったのだろうか。市民に犠牲を出さないように配慮するような神経が、あの人工知能にあるとは思えない。

 あの事件によって得をしたのは政府だ。会社の近くで事を荒立てて反逆の証拠をあぶり出し、AS社を焦らせることで計画を早めさせた。不完全な状態で実行された計画は失敗し、政府はAS社のポッド技術というオマケつきで、不穏分子を始末できたのだ。

 サクラメントの目的、黒耀星開発の妨害とは間逆の行動だ。

 財団は現在、黒耀星開発のための組織に再編されようとしている。アイの将来の権限もまた、黒耀星の開発あってのものだ。

「柊への愛はないのですか?」

 前にアイが言った言葉を思い出していた。リカの死の運命、それを利用することを柊に言わないように、という頼み。

 あれは、柊への愛などではなかった。そんな不正を知れば柊が手に負えなくなるからだ。

「柊がなぜ現実干渉性を発現できたのか。今ならわかる気がします」

 あなたのせいですね、と、リカはアイを見つめながら毅然として言った。

「何度も苦しめてきたんですね。Sロットを処分するたびに育つ心が目当てで。記憶には残らなくても、あの力として残ったのではないですか」

 柊の奥底には心がある。きっと何度も、リカの時のような気持ちになっている。

 きっと、反抗するに違いない。きっと、過去にもそういうことがあったのだ。あの子が、触れ合った人間の死を見過ごせるはずがないと、リカは信じていた。

 だから、柊はQロットでありながら、現実干渉性が生まれたのだ。現実干渉性は血筋と激情によって開発されていく。胸のNデバイスで強制的に情緒不安定にしなくても、それに匹敵するほど幾度も心を揺らす出来事があれば、可能性は生まれてくる。

 能力自体にNデバイスの位置は関係ない。必要なのは著しい感情の変化であり、心の触れ幅だ。

「幸福のためよ。あの子自身が望むことでもあるんだから」

「それは幸福ではありません」

 それは、慰めだ。幸福の定義は、その価値が最大限になるように生きることだ。

 リカの生徒たちや、Sロットと何も変わらない扱いをしているのだ。地球ではそんな扱いを受けることはなかった。保護者の行いではないと、リカは憤った。

「目的を聞かせてもらえませんか」

 なぜ、そこまでできるのかを疑問に思う。

「あなたは地球にいたことがあったわね」

 アイはリカに向き合いながら、スロット型のオフィスに移動指示を出した。

 財団本部のビルは、月面の地表まで上昇するエレベーターを有する。アイのオフィスは上昇を続け、ガラス窓から宇宙を臨める展望階層まで上昇する。

 そこには、暗闇に映る巨大な惑星があった。灰色の雲に包まれた地球。大量破壊兵器の乱用によって深刻な大気汚染が進み、居住できる土地が日に日に少なくなっているという。

「だからといって、なぜそこまで黒耀星にこだわる必要があるのか、考えたことはあるかしら」

 言いながら、アイは部屋のCUBEユニットを停止し始めた。

 あらゆるARサービスを停止し、緊急用のビジュアルイメージ補助までもオフにする。これで、ここにいる二人の視界は全くの未加工状態になる。

 その状態で、再び地球を見上げた。

「これが、本当の世界の姿。宇宙に出る人々にNデバイスを埋め込まなければならない、本当の理由」

 そこにあったのは、確かに地球だった。灰色の雲に覆われた星。しかし、それだけではない。

 北の大陸から始まって、既に半分以上を覆う影があった。

 影などという生易しいものではない。まるで虫食いのように地表を覆うのは、完全な無だった。黒い染みのようなそれは、着実に地球を蝕んでいる。

 リカのぼやけた視界の中でもはっきりとわかるほど、異常だった。

 あの影の中では、あらゆるものが無になる。重力もなく、光も届かない。調査に向かったものは、人も機械も何一つ戻ってこなかった。

「あれは……何ですか」

 リカは恐怖を抱いていた。化学兵器による環境汚染などではない。もっと超常的な、致命的な何かだとリカには感じられた。

「現実干渉性は、いつから生まれたか知っているかしら。SロットもQロットも、あるたった一つの血筋から生まれ、派生してきた子供たちだって聞いたことはない?」

 被験体にはある因子が植えつけられ、それが現実干渉性を獲得する鍵になる。研究所がずっと研究しているものだ。そのことはリカも知っていた。因子を持つ血筋を受け継がせ増やしていくことで現実干渉性を開発していくのが、基本的なやり方だ。

「因子とは何だと思う? 原初を辿れば、血筋は一つのものに収束するわ」

「一つのもの、とは?」

 かつての月探査。月面の裏側の地中を探査した際、「それ」は発見された。

 その生命体は、現実干渉性の権化のような存在だった。

 それは眠りについていた。全身の細胞一つ一つが情報素子で出来ていて、体自体がコンピューターだった。常に現実干渉性を行使して、眠りながらこの空間の物理法則全てを維持しているらしかった。

「それが、この空間を作り出し制御しているんじゃないかっていう仮説。それを証明するのが、あの地球の影」

 その生命体の情報素子から生きた細胞を抜き出し、人と掛け合わせて生まれてきた亜人種。それが、QロットやSロットと呼ばれる存在だった。いわば、神の意識を分割した精神を持っているとでも言うべきものだ。だから現実に介入して、操る事ができる。

 誤算が起きたのは、その先だった。

「生きた細胞を抜き出した、標本をとったということは、その生命体を傷つけたということ。この宇宙の法則を生み出している部分を壊せば、不具合が生じるのは当然だった」

 全身が情報素子で出来ていて、現実干渉性でこの世界を生み出し維持している核の生命体。それは現在も機能し続け、この空間を保っている。その核が傷つけば、この空間も傷つく。

 その因果関係に気づいた時、破損は致命的なものになっていた。一部の空間などは計算処理が喪失したことで、何も無い空間となった。そのような場所は、どんどん広がっている。やがて地球は完全に消え、次は月や黒耀星かもしれない。

 あの核はその形態を見るに、人工物の可能性が高い。つまりこの宇宙も人工物かもしれないということだ。かつてあった別の宇宙をコピーして作られた再現世界の可能性がある。核の生命体が何かの理由で生み出した箱舟のごとき世界であると考えると、多くの説明がつけられる。

 この宇宙は幻の大陸、「レムリア」と呼ばれているらしい。

 太陽系外に調査に向かった探査船は決して帰ってこなかった。そこには何もないからだ。レムリアの外は存在しない。見えている星空や、他の恒星系から降り注ぐ放射すらも、作り出されたものだ。綿密に過去にあった宇宙を再現しているが、その先にあるのは無だけだ。

 修復する必要があるのだ。現実干渉性を研究し、壊れた部分を再生し維持できるだけの理解を深めなければ、レムリアは消滅する。

 冷酷に様々なものを切り捨ててきた研究所の闇。途方もない罪の根源がそこにある。

「今回、月面基地が奪取されるのだけは避けなければならなかった。あそこからは地球がよく見えてしまうから」

 CUBEネットワークの緊急通信を利用して、地球の傷は隠されている。その通信網の外に人を逃がすことだけは許容できない。多少無茶をしてでも、柊を欺いてでも、どんな手を使っても、AS社の計画を早期に実行させてつぶす必要があった。

 黒耀星に逃げて余命を伸ばすか、それとも、核を解き明かすために全力を尽くすべきなのか。研究所は二つに割れている。

 アイは、どちらの派閥でもなかった。今回はたまたま、サクラメントと敵対した。アイは財団の総帥だ。黒耀星開発そのものに関心はないが、あの計画があったほうが彼女の発言力は増える。

 突然すぎて、リカにはついていけない話だった。

 空に浮かぶ地球の大陸の一角を見た。幼少期を過ごしたあの森や湖。それはもうとっくに、黒い染みの中に消え去っていた。

 そして、思い出した。楪世の先祖の歴史のことだ。

 楪世の先祖は、最初期の月探査に出資したことがある。そこから、政府と楪世の付き合いは始まった。楪世が特権階級に認定されたのも、ちょうどその頃だ。月面資源を調べるため、月の裏側で地質調査を行なったことがあるのをリカは知っている。

 月の裏側で発見された核。それを知った共犯者だから特権階級になった。その可能性は十分にある。

 しかし、リカはそれ以上問いただすことはしなかった。もう、どちらにしろ無意味な事だからだ。

「せめて、少しでも柊を幸せにしてください」

 リカはそう望む他はなかった。ここでアイの首を絞めても、それが柊の幸せになるわけではない。柊を幸せにできる立場にいるのはアイだけだ。研究所やサクラメントの所有物でいるよりは、まだ希望がある。

 特にサクラメントだ。あれは危険なものだ。決して、柊とは関わってほしくない。しかし、もう何者でもないリカにとってはどうすることもできない。リカの人生は最後まで、そういう諦めしかなかった。

 もう、出発の時間だった。



 案内されたシャトルのような形の処刑場は、妹たちが処分されてきた焼却炉と同型だとリカは聞かされていた。この悪趣味さは、あのサクラメントから生まれでた発想だと感じられる。

 座席の一つに、リカは腰掛けた。散っていった妹たちが座ったものと同じだろうか。世界に旅立っていくのだと嘘を教えられ、炎に包まれるその瞬間まで、妹たちは幸福な夢を見ていただろうか。

 リカもまた、そうだった。世界の真の姿や結末など知りもせず、情報や価値、幸福を求めていた。それはさぞ滑稽な姿に違いない。

 そこに救いはない。あるのは、慰めだけ。

 でも、慰めには価値はないのだろうか。たとえすぐ終わるとしても、柊はリカに尽くしてくれたのではなかったか。

 その日々は幸せだった。すぐ終わるとしても、幸福は幸福。

 柊は今、どうしているだろう。もうすっかりリカのことは忘れ、日常に戻っているだろうか。

 もしそうだとしても、別れの瞬間に柊に与えた不幸もまた、間違いなく不幸なのだ。

 最後の時に柊の記憶を消さず、もう一度向き合っておけばよかったのだ。人生の最後に嘘をついた。アイがやってきたことと、同じことをしてしまった。それが、リカの心を後悔で埋め尽くす。

 エンジン音が響き、シャトルは飛び立っていく。わずかな加速を体に感じる。やがて月は遠ざかっていき、幻の地球が近づいてくる。もうそこに、帰る家はないと知っている。

 リカの心は彷徨い続ける。



 出発を見送るアイには、リカの言葉が刺さっていた。

 柊の不幸をいつも摘み取って、収穫してきた。それは理解しているつもりだ。できるならあの健気な柊にも、幸せであってほしいと思っている。

 しかし、必要なのは柊の現実干渉性だ。リカをあてがったことで、柊の干渉性はより成長した。あと何人かを処理させれば、使えるようになるだろう。

 シャトルを旅立たせるよう指示を出す。せめて、そのスイッチは自分で握る。Sロットへの同情はあるが、慈悲はなかった。

 アイの胸にもNデバイスがある。彼女は、リカよりも前の世代に生み出された被検体だ。Sロットして生み出され、研究に従事した。しかし様々な事情で人間社会へと放り出されることになった。

 研究が早期に終わったアイは、リカよりも寿命は長い。だが残された時間は十年ほどだろう。長いとはいえない。

 地位を追い求め、この月まで戻ってきた。奪われたものを取り戻すために。権力は決して手放せない。アイには罪がある。償わなければいけない罪が。

 目的を果たすまで、彼女の心が安らぐことはない。



■十一日目



 月面から飛び立ったシャトルの一つがテロによって撃墜されたというニュースを、柊は他人事のように聞いた。

 地球行きだったそのシャトルは、重力カタパルトを利用するために接近する予定だった黒耀星行きのシャトルと間違えられたらしい。それを狙い、地上から攻撃が仕掛けられた。

 自動制御で、乗員は貴族の一人しかいなかったという。破壊工作員のメンバーと目されている。本命は無事、黒耀星へのルートに乗った。初めての大規模開発のためのスタッフが多数乗り込んでいるらしい。

 これに対し政府は月面基地を中心に本格的な宇宙軍の配備を始めると発表。宇宙戦艦の建造に着手することも決め、黒耀星の開発にもブレーキがかかる懸念があるという。

 寝台を片付けて出かけようとして、柊はそこに何か置いてあることに気付いた。金属のケースつきの、古い本だ。それが本だとわかったのは、前からの持ち物だからだ。ここにあることは当たり前だった。

 電子書籍でどこでも手に入れることができるが、ペーパーメディアで残されているものは貴重品である。

 手にしてみても、特別な感慨は沸いてこなかった。柊には紙の書籍をありがたがる習慣はない。ただ、どうも価値があるらしいことは知っていた。敏感な指先は金属の硬質さを感じ取る。確かに、覚えのある感触だ。

 とりあえず、クローゼットにしまいこんだ。クローゼットになじみのない衣服がある気がしたが、一瞬柊の興味を引くだけである。

 もしや自分のものではないのではないか、と柊は思いもした。先日まで柊は記憶消去の対象となる業務を遂行していた。記憶が完全に消えた今では全く思い出すことはないが、部屋に存在する物体の変化や、業務と関係のない知識は消去されない。人格への影響は最小限に抑えられるが、ごくわずかな認識や記憶は編集されて残されたり、そのままにされる。

 しかし、だからといって心には何も感じない。そこに情報はあるが、柊はその価値を解読する手段を持たない。価値があることは知っている。しかし、柊はあの本や衣服に動かされる心の形を持たなかった。その心を持っていた人は、もういないのだ。

 価値を発揮せずに消え去ってしまうものなど、珍しくない。人の感覚は限られたものだ。世界の全てを感じるには、鈍感すぎる。

 いつか適応できる日がくるのだろうか。その時、人はもっと別な存在になっている。例えば、全身がNデバイスになったような、そんな神のような生命だ。

 柊は結論付け、ケースをクローゼットの奥にしまいこんだ。

 今日は政府の情報室から呼び出しがかかっていた。目覚めた時からNデバイスの追加記憶に情報が入っている。今回のテロの件かもしれない。

 タイムスタンプは今朝早くの受信を示しているが、追加記憶の中に直接送られた出頭の要請は、まるで昨日から知っていた予定のような不思議な感覚で柊には認識された。疑問を抱くこともなく、柊は鏡に向き合う。

 今日はどんな格好をしていこうか。眼鏡をかけていくべきだろうか。

 気まぐれに手に取ったケースに入っていたのは、美しい夏の湖のように鮮やかな、青色のフレームのものだった。

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