Lemuria 2

■五日目



「具合、よくないんですか?」

 リカの体験をまだ整理できず、柊は呆然としていた。

 今日、政府の情報室に立ち寄ったのは気まぐれだった。出向く必要はなかったのだが、自然と足が向いた。自室ではどうにも落ち着かない。

「なんだか、いつもと雰囲気が違います」

 いつもの技術職員が柊を心配する。見てわかるほどの変化があるのだろうか。

 彼女は柊を深くは知らない。それでも、危険な仕事をしているからと心配を向けてくることがある。

 柊の様子が変わって見えるとしたら、リカの記憶の影響だろう。追体験を繰り返すことで、彼女の記憶や経験が自分自身の人格にも重なってくる。所作や表情に影響を与えている可能性はあった。特に、リカの記憶は柊との相性がいい。

 リカは他のSロットと違う。研究所で一生を終えるSロットたちは、本来もっと機械的か、動物的である。Nデバイスによって作られた激情はあるが、それは現実干渉性の開発のためのものだ。Nデバイスに刺激を与えるための、無駄のない人工的な激情だ。リカの学校のように情緒を育てる試みは、最近は不必要とされていた。

 リカは違う。他のSロットよりも生きている年月がはるかに長く、しかも社会の中で様々な経験をしている。

 他人の記憶であるという自覚ははっきりと持っているつもりだ。亡くなった人物は自分と何の関係も無く、しかも過去の出来事で、特に思い入れがあるということもない。

 それでも、感情を開花させた彼女の記憶は柊には鮮やかすぎる。

「だめですよ、お休みしないと」

 仮眠室があるから、と休むことを勧められた。具合が悪いわけではなかったが、懸命に面倒を見てくれようとする彼女が可愛らしかった。

「ありがとう」

 言って、柊はごく自然に彼女の髪を撫でた。

「ひゃ……」

 飛びのくように、彼女は身を引いた。突然のことに、困惑して頬を染めている。

 ウェーブした栗色の前髪から覗く瞳はわずかに潤み、柊を見上げている。両手を引っ込め、肩を狭めながらも、じっと柊を見ていた。柊の行為を非難する様子はなく、驚きの他にも感情があるように見えた。

 柊は年下を妹などと呼ぶ趣味はない。考えたこともない。昨日まではそうだった。昨日までなら、この若い娘の好意すら解読できなかったのだ。

 こんなに可愛らしい子だったのか。柊はそんな感動を覚えていた。

 なんてことだ、と柊は思う。これほどまでリカの記憶が影響を与えているとは思わなかった。今までは無かった感受性が柊の中に生まれている。他人の表情を自然に読み取れるようになっている。

 柊は、そんな自分の精神の変化に不便を感じてしまう。目の前の人物に対して沸きあがる不思議な感情に困惑を感じる。

「(部屋に連れ込んで、ゆっくり可愛がりたい)」

 そんな思考をしてしまうほど重症だった。

 本当に、休養が必要かもしれなかった。仕事に戻るように促すと、彼女は小走りで去っていく。途中で転びそうになりながら。

 家に帰ってもよかったが、せっかく案内されたので、仮眠用のベッドで眠りにつくことにした。

 柊はリカを恨めしく思い、天井を見ながらぼんやりとしていた。



 目覚めると、情報室は喧騒に包まれていた。

 Nデバイスの記憶領域へのアクセスが原因で覚醒した柊は時間を確認し、1時間ほど眠っていたことを知る。

 そして同時に、そのアクセスの内容によって、情報室がざわついている理由を知った。

 月で最も大手の警備会社であるAS(アレス・セキュリティ)社の輸送トラックを臨検した所、そこから見たことのない武器が出てきたというのだ。AS社は、例の新型ポッドのあったHJ社とは目と鼻の先である。周辺を捜査していた所、偶然不審荷物を発見したという。

 その一つが、標本としてこの情報室にも持ち込まれた。ちょうどそれが運ばれてくる所だった。

「た、対戦車砲のようです」

 あの技術職員を見つけたので聞いたところ、緊張した態度でそう答えた。まだ先ほどのことを気にしているらしく、もじもじと手をすりあわせている。柊はやりにくさを感じたが、今はそれよりも目の前のものが気になる。

「大きさが新型ポッドに合うんです。今までは戦闘ポッドに大型砲は搭載できなかったんですが……」

 従来型のポッドはフレームの強度など多くの問題から、反動の大きな砲を積むことができないとされていた。そもそも過剰防衛になる武器は保有厳禁だが、政府の影響力は大きいとは言えずそこはあまり追求できない。

 問題は、もしあのポッドが重力制御を実現しているならその応用で反動を処理できる可能性があるということだ。

 ポッドの武器は、ミサイルのような高価なものだと低コストのコンセプトを逸脱する。搭載できるのは機関砲か擲弾砲がせいぜいだ。政府軍の戦車の複合装甲に対しては劇的な効果はない。

 砲はコストに対して扱える火力が大きい。問題の砲は六十ミリ程度の砲のようだった。戦車の正面装甲を貫通できるものではないが、戦車の側面や上面など、脆弱な部分なら貫通可能となりえる武器だ。搭載が実現すれば、脅威のレベルは格上げされる。

 輸送トラックの納入先は不明だった。柊には命令が出ていた。これから砲を調べるという情報室を後にしなければならない。

「楪世リカの生徒の一人の取調べの依頼が来ているわ」

 情報室の別の部門からの依頼だそうだ。アイからの音声通信による指令を受け取る。承諾すると、必要なデータがNデバイスにダウンロードされ始めた。



「白衣が必要なのですか?」

 クローゼットを漁る柊を、リカは落ち着かない様子で見ていた。

 リカは留守の間、柊のクローゼットの中を覗き見しているらしい。時々ものの配置が変わっていることに柊は気付いている。

 リカは暇だと言っていた。自室のARはもうあの小屋ではなくなっていた。今日は、海洋都市風の白い壁と海鳥が鳴く碧海がのぞく窓に変わり、潮の香りが広がっている。

「きみの学校に行くことになってさ。これはその準備」

 迷う所だったが、柊は彼女に話した。

「そうですか。大事に扱ってくださいね」

 リカの言葉に、特別な響きはない。

 大事に扱ってくださいという願いに沿えるかどうかは相手次第だと柊は思った。リカもある程度は理解しているだろう。柊はQロットだ。Sロットに対する上位権限を持つ。その柊に指示があったということは危険分子の可能性がある。

「変装していくのはなぜです?」

 柊が出してきた白衣の袖に勝手に手を通しながら、リカは尋ねた。長身でスレンダーな彼女がお気に入りらしいブルーの眼鏡とともに着用すると、なかなかよく似合っている。ヘアアレンジすればさらに自然になるだろう。

「ちょっと、返して」

「もうちょっといいでしょう」

 外出しないリカに衣服は必要ない。柊のスロット住宅の洗濯機は、シャワールームに入っている間に着ていた服の洗濯を完了してしまう。ちぎれたボタンまで自動的に復元される。旅行先で着替えを用意しなくてもいい時代になってから、もうずいぶんと経つ。

 来た時に着ていたブラウスとスカート、それに下着があればいい。眠る時は検査衣がある。

 リカは鏡の前で楽しそうだ。止めてしまうのはかわいそうだが、白衣は必要なものだった。

「ずっと同じ服なんですよ」

「クローゼットの着てもいいから。返して」

 白衣を脱がし、リカの手に触れないように自分の寝台にかける。リカはおもちゃをとりあげられて不満そうだったが、またクローゼットに向き、中の衣服を物色し始める。

「何で、自室から持ってこなかったの?」

「……あの時は、忘れていたんです」

 明日行く場所には、リカの私物がある。衣服もいくらかあるはずだ。

 せっかく行くのだから持ってこようかという柊の問いかけに、リカは首を横に振った。

「あれは、あの子達にあげてください」

 あの子達。リカの学校のSロットたちだ。クローゼットに向かうリカの背中からは、表情はわからない。

 Sロットへの尋問は楽しい仕事ではない。一般の研究員のふりをして尋問しようと思ったのは柊の考えだ。

 一回だけとはいえあの区画に行った事がある柊は顔が割れている。よく思われていないだろう。罵声を浴びせられるくらいは我慢するが、荒事になると面倒だ。多少の変装や演技でごまかしたほうがいい。会う人物は一人だけなので、気付かれなければ尋問だけで済ませられる。

 リカが形成したコミュニティは担当していたQロットの手に負えないものだったらしい。リカの影響力が大きすぎて手に余る有様だったと聞いている。

 そのQロットはリカによって殺害された。遺体は重力による凄まじい圧力でめちゃめちゃにつぶれ、頚椎のNデバイスもほとんど解読不能状態であったという。他のQロットではなく柊が選ばれたのは戦闘能力の高さからだ。実際、柊だからリカを制圧できた。例の区画は既にQロットが殺された前歴のある危険な場所と認識されている。あそこの生徒はリカと同系統の遺伝子情報から生まれたタイプばかりで、同じように重力に干渉できる者がいる。

 もしかすると、その区画自体を柊が受け継ぐという可能性もある。

「それなら、安心です」

 その話を聞いたリカは安堵の笑みを浮かべていた。柊には、その笑みの理由がわからない。



 記憶は、リカが研究所に戻った時から再開された。

 大学を卒業するまでも待ってもらえず、リカは研究所に呼び戻された。

 地球で過ごした時間は、決して長い間ではなかった。しかし、研究所に戻ると知ったリカの胸にはまるで世界の終わりのような虚しい気持ちでいっぱいだった。

 こうなるとわかってはいた。それでも一人の一般人、楪世リカとして過ごした時間はリカの全てだ。それを何もかも捨て去ることになる。

 叶うならまた地球に戻りたい。唯一の私物で大切な遺品である本、金属のケースに入ったそれを抱きしめながらリカは月行きのシャトルに乗り込み、月の大地に足を下ろした。

 リカは十分に情緒を育成していた。あとは研究所でNデバイスの調整を受けて、現実干渉性を開花させていくのみだ。その過程を計測することで、Sロットに与えるべき刺激や経験を調べる。

 何もかもが終わる頃はどうだろう。無事に調査が終わってリカの役目が終わったら、また地球に帰れる可能性があるだろうか。Sロットの寿命は短い。役目を終えると開拓惑星に送られ、そこで短い余生を終えることになるのが普通だと聞かされていた。

 月面都市を見物する間もなくリカは政府の機関に移送され、そこから地下深くの研究所まで送り届けられた。

 研究所は監獄だった。比喩ではなく、本当に脱出不可能な設計になっていた。重いドアで閉ざされ、いつでもSロットのNデバイスを停止させられるQロットが区画ごとに一、二人ずつ配属される。

 施設の壁はどこも真っ白で、常に発光していて明るかった。研究所は月面開発黎明期に造られた最下層の施設だ。ARを前提としていないので、その壁はグレーではなく白である。

 研究所は同じ設計の施設をいくつも連ねた構造になっており、それぞれを区画として分け、別々に実験を行なっている。リカが連れてこられたのもそんな区画の一つだ。いくつもの防護ドアで区切られた廊下を通じて区画に入っていく。通る必要がある時は、Qロットの同伴のもとNデバイスを停止させられて潜り抜けなくてはいけなかった。

 防護ドアを超えた世界では、リカは道具だった。一人の人間、人間の娘としての個性はここでは存在しない。

 覚悟していたはずのリカを最初に襲った衝撃は想像を絶するものだった。

「そんな……どうして放っておくんですか!」

 傍らのQロットに尋ねた。特別なSロットであるリカには、他のSロットのような集合部屋ではなく個室が与えられる。その前の廊下での出来事だった。

 一人のSロットが倒れていた。十歳くらいの少女である。呼吸が安定していない様子で、立っていることもできないらしい。酸欠になり、痙攣しながらうずくまっているのだ。

 おそらくNデバイスの不具合によって呼吸困難に陥っているのだ。胸部にNデバイスを埋め込む場合、少し調整を間違えると自律神経に影響を与え生理機能の異常を引き起こし、死の危険に陥ることがある。

「処理しておくので心配ない。部屋に戻りなさい」

 随伴のQロットは、うずくまるSロットにすがりつこうとするリカを押さえた。

 処理とはどういうことか。おそらくは、見捨てるということだ。

 リカは愕然とした。わかっていたはずだったが、かけがえのない存在であるはずの命がここでどんな扱いを受けているかを改めて思い出す。地球で暮らしたリカには耐え難い光景だった。

 抗うことができない大きな力だということは知っていた。研究所はあの冷酷な政府の一部であり、非人道的な行いをなんとも思っていない。どうしようもない状況は経験したつもりでいた。だから耐えられると思っていた。

 しかし、ここがどんなに異常な場所かリカは忘れてしまっていた。地球での生活の中で、自分がどれほど優しさに包まれていたのかを思い知ることになった。

 涙があふれてきた。こんな所に戻ってこなければよかったという気持ちより、あまりにも簡単に目の前で失われようとしている命に心を揺さぶられていた。

「離して、離してください!」

 リカは無意識に、現実干渉性を発露していた。超常発生された重力で、リカを抑えていたQロットは吹き飛ばされた。QロットはリカのNデバイスを停止させる間もないまま、壁に叩きつけられて気絶する。

 動揺していたリカには倒れるQロットは目に入らず、床で倒れているSロットを真っ先に抱き上げた。

 そのSロットの顔はリカの幼い頃に少し似ていた。もしかしたら妹かもしれない。近い遺伝子構造で生み出された可能性がある。

「大丈夫ですか」

 声をかけてみるが、そのSロットは目線でリカを見るだけで首を動かす力もなかった。もちろん、返事も出来ない。手足もほとんど動かせない。

 どうすればいいかリカにはわからなかった。互換性があれば、Nデバイスを直結することでコントロールが可能かもしれないと思いつく。

 正面から抱きしめると、胸のNデバイスは接触する。物理接触で領域が広がったことで、相手のNデバイスの情報にアクセスできるようになる。世代が違うようだが、同じSロット用の素子を使っている。互換性はあるようだった。

 自律神経に影響を及ぼすような大きなプロセスがないかを探す。それはすぐに見つかった。情緒を強化するためのプログラムモジュールであった。そのプロセスをキルする信号を送る。しかし、Qロットではないリカにはそのプロセスに干渉する権限がなく、拒否される。それが出来るならこのSロットが自分でやっているだろう。

 ならばプロセスが停止するまで、呼吸を助ける必要がある。リカは、影響を受けた自律神経のかわりに、Nデバイスから呼吸の制御を行うことを試みた。

 自分のNデバイスの余分な処理能力を使って、自らの自律神経の正常な動作をコピーした。それを相手のNデバイスに書き込み、そこから生の神経に指令を出すことで、正常な呼吸を再現するのだ。そんなことが可能かはわからなかったが、他の方法は思いつかない。

 結果的にその試みは成功だった。抱きしめたSロットの呼吸は徐々にリカのものと同期し、一体化し始めた。神経の情報をNデバイスで編集することを研究していたリカだから、瞬時に思いついてできたことである。成功したのは奇跡であった。

 しばらくすると、問題となっていたプロセスは時限によって停止した。自律神経が回復するのを待って、リカは腕の力を解いた。

「お名前は?」

 言葉がわかるかどうか不安だったが、Sロットからはすぐに返事が来た。

「マヤ」

 マヤは、リカの遺伝子標本をベースに作られた妹の一人だった。研究所ではいまや楪世系と呼ばれる大きな系列の、第一世代のSロットであった。



■六日目



 前任のQロットを柊は知らない。しかし、きっと仕事は楽だったろうと感じた。なぜなら、リカが治めていたその区画には、少しも乱れた所が無かったからだ。

 部外者である柊に対して不躾な目を向けることはないし、通り過ぎる時は丁寧に会釈をしてくれる。Sロットたちは外の人間と何も変わりないように見えた。これも、リカの教育の賜物ということだろうか。社会に出たとしても、何の問題もなさそうだ。

 柊は区画管理役のQロットではないが、他の区画を訪れることは多い。ここも、ほとんど同じ構造のはずである。壁も、照明も、施設も、見慣れたもののはずだ。それなのに、まるで違う施設に来たような錯覚を覚えてしまう。ここには人の気配がするのだ。

 六日が経過した今、Qロットが不在だというのに何の反乱も起こさず落ち着いたものである。先生であるリカを失っても、十歳から二十歳程度までの生徒たちはお互いを助け合い、通常通りの営みを続けていた。

 年上の生徒が教師を勤めての学習。読書や映画の時間。清掃や食事の当番など。芸術活動や運動に精を出す者もいた。本当の学校のように決められたスケジュールにそって規則正しく行動している。

 生徒たちは、柊がリカを連行したQロットであることに気付くことはなかった。髪をアレンジし、スーツと白衣、眼鏡という格好だ。メイクもあの日とは違う。外見以外にもある。声色や言葉遣い、表情から背筋、歩き方まで、別人のものに変えて行動しているのだ。戦闘用アルゴリズムをNデバイスに入れて動作を最適化していると、背筋を伸ばして立つ癖がつく。ある時それが気にかかった柊は、存在感をなくすために、いかにも運動が苦手そうな動作を独自に研究した。パターン化したデータをNデバイスに走らせ、運動皮質の働きに反映させている。

 白い廊下を通っていくと、そこに目的の人物が待っていた。

「どうぞ」

 単調な声色で、柊を中に招き入れる。その動作にも少しも失礼な所がなかった。

 部屋は応接室ということになっていたが、印象は取調室といった方が近い。個別の面談によく使用される、独房のような手狭な部屋である。Qロットがいない代わりに武装した小型戦闘ポッドが数台ついている。それがものものしい雰囲気を生み出している。

 そういう雰囲気の中でも、その人物は落ち着いていた。リカと同系統の遺伝子をもとに作られたSロット、つまりリカの妹だ。リカのように優しく笑っているわけではなく、どことなく冷たい印象である。だが、短く切りそろえた髪の漆黒や全体的な顔立ちは、リカによく似ている。

「はじめまして、レビ」

 名前を知っているのは、事前にデータを受け取っているから。ただそれだけというように接する。

 レビという名のこのSロットは、このコミュニティでは年長の方だ。リカとは親しい関係にあったと聞いている。

「はじめまして」

 ひかえめに話すレビ。声色は違うが、声自体はよくリカに似ていた。なるほど、妹のようである。

「枢(かなめ)先生のこと、残念でした」

 レビは先に口を開いた。彼女にだけは、Qロットの死とリカの脱走について詳しく知らせてある。ここの生徒たちはQロットのことも先生と呼ぶらしい。学校の習慣だった。

 柊がレポートの内容を見せると、レビは表情を変えずにそれを読み続けた。

 前任のQロットである枢という人物が以前提出したそのレポート。そこには、この独特なコミュニティのことが大雑把に記録されている。

「特に、間違いはありません」

 そっけない答えが返る。

 レポートにおかしい所があれば、それが手がかりになる可能性があった。リカがどうやって外部と連絡を取り、あのダミー会社と接触したのか。それを知ることが柊の任務だった。

 外部と繋がっているのは枢というQロットだけのはずである。裏切りの可能性があるとすれば彼女だろうと研究所は睨んでいる。

「あの……先生はどうされていますか?」

 か細い声で、レビは尋ねてきた。

「健康だと聞いています」

「そうですか……」

 柊は一介の研究員という設定だ。リカが自宅にいるなどと言うわけにはいかない。

「リカは、殺されるんですか」

 レビの口をついて出たその言葉に、柊は心底驚いた。

「いえ……それは」

 言葉を失っていると、マヤは続けた。

「あの方は知ってしまわれたのです。私たちの未来がどういうものかを」

 それは、初めて聞く話だった。

「私も偶然聞いてしまいました。まだ、誰にも話してはいません」

 Sロットには、自分たちが用済みになったあとどんな処分をされるのか正しい情報は与えられない。今はそういう方針になっている。

 Nデバイスによる現実干渉性の研究が終わりQロットによってサクラメントに収録された後のSロットは、胸部Nデバイスを凍結され、能力を使えない常人と化す。そこまでの情報は与えられているが、その後どんな扱いを受けるのかは教えられることはない。

 真実は違うが、研究が終われば政府の下について働くと教えられている。現在移民を進めている外惑星、黒耀星での過酷な開拓事業に送られるのだ、と。優秀であれば月や地球での仕事を得られ、自由になれると信じられている。

 ごく一部のSロットに限れば、外での任務を与えられることがないではない。捨てるのに惜しいほどの優秀な能力を持つ者が稀にいる。仕事を与えられ、自由を手にする可能性は少ないながらあることだ。

 しかし、その可能性は一パーセントにも満たないものだ。日々増え続けるSロット全てを養うのは負担が大きすぎるので、ほとんどは黒耀星送りと称して焼却処分される。

 ここのSロットにしても例外ではない。ほぼ全てが、二十歳かそこらで人生を終える定めだ。それでも、未来があると信じて生きてもらわなければ、実験は進まない。だからせめて、生きている間は極端な苦痛を与えない。それを管理するのがQロットの役目でもある。あまりにも大きな苦痛は、記憶を同調する自分にも返ってくることだからだ。

「枢先生は……出ていく生徒たちを売っているという話が出ていました。あくまでも、噂ですが」

 レポートには書いていない話だった。Qロットが不正をする前例はある。Qロットは人間に対して従順に作られているが、基本的には意志の自由がある。そういう事件があるたび、Qロットとして同じ過ちを犯さないよう厳重に言い含められた経験が柊にもある。

「それを調べようとしていた時、あの方はSロットの行き先を知ったのだそうです」

 レビは淡々と語る。それを知ったなら、不正などという問題ではない。売り払われるのがマシというわけではないが、現在していることや自分の存在意義を覆す問題となる。

 それでも、リカは生徒達に事実を語ることはしなかった。そのかわりが、Qロットの殺害と脱走だった。

「私は、立ち聞きしてしまったのです。怖くなって逃げ出してしまったのですが、その後そんなことをなさるとは……」

 柊は言葉を失っていた。

「広めるつもりもありません。そんなことをすれば、私たちはすぐ処理されてしまうのではないですか?」

 レビの言う通りだった。研究所は不都合があればいつでもSロットを始末するだろう。リカの脱走については、一応説明がつくようにはなった。柊には納得できなかったが、この情報は貴重だ。

 まずは、Sロットの横流しをしていたかもしれないというQロットの枢について調べるべきだろう。Nデバイスを通じて尋問内容は全て研究所に送信されている。指示を仰ぐと、柊の任務はそれで終了だと言われた。

 内心で、彼女に自白強要を行なわずに済んでほっとしていた。彼女はリカによく似ている。最初の印象は違ったが、やはり似ている。顔だけではなく、教え込まれた礼儀作法も含めリカと同じ雰囲気があるのだ。

「私たちをそっとしておいてください。その時が来るまでは……」

 レビは、去っていく柊にそんなことを言っていた。

 区画を出る時に閉ざされる分厚いドアを振り返る。そこは他の区画と何も変わらない、白い壁に囲まれた監獄そのものだった。



 事実を知った時のリカの気持ちは、どんなものだったのだろうか。

 命の尊さを知るリカはSロットの運命をどんな風に感じたのか。その気持ちは、柊にはとても想像できない。自宅にいる彼女を見ていても何も読み取れない。明日で一週間になる。彼女の命も数日だ。

 柊にあてがわれるSロットは脱走者ばかり。大抵は、こんな風に事情を知ってしまった者である。

 リカも、そのことには一切触れずに淡々と過ごしている。柊のことも妹のように扱い、自分を殺す、または大勢の姉妹を殺した人物として見ている様子はない。

 リカは柊が浴室から出るといつも座らせ、髪に櫛を通し始める。何か話そうと思っていても、それをされると何も言えなかった。

 保護者であり、親密な関係であるアイが相手でも感じたことのない心地よさだった。柊はこの関係を壊したくないと思うようになっていた。

「なんですか?」

 自分を見る柊に対し、なんの邪気も無い仕草を向けるリカ。言いたいことはいくつもある。

「体は? 元気?」

 しかし、意味のある質問は紡ぎ出せない。

「おかげさまで心身ともに充実しています」

 言って柊の頭を抱くリカの感触が心地よく、つい、身を委ねてしまう。

 今だけだから。

 仕事が終わればもう二度と会うことはないと知っていても、それは安らぎだった。

 その日も、追憶が始まる。

 向かい合って座り、リカの胸元へと指を当てる。リカは拒まない。吸出しが進めば、彼女の価値はなくなってしまうのに。柊はほんの少しの苛立ちを感じるが、言葉にはできない。

「その姿勢、疲れませんか?」

 そんな柊の苛立ちを知りもせず、リカは親しげに接してくる。

「横になりましょう」

 柊の手を引いて、リカは寝台に横たわる。

「こういうの、したことないな」

「私が初めてですか?」

「それはわかんないけど」

「最初ならいいのに。そういうことにしませんか?」

 リカの冗談にも、柊は慣れてきていた。

 もっと親しかったSロットがいたのだろうか? 想像もできない。柊には、長く付き合っている友人が少なかった。

 柊にも姉妹はいる。柊は綺(いろい)系と呼ばれるQロット用の系列の被験者だ。他のQロットは遺伝子的には姉妹といえた。リカの区画の枢にしても、遺伝的には姉妹にあたる。しかし、誰とも交わったことはない。Qロット同士が会うことは少なく、リカの学校のような横のつながりを持つことはない。

「もっと早く、出会いたかったですね」

 小さな声で、リカがつぶやいた。

 それと同時に、何度目かになる追憶の感覚が、柊の意識を奪っていく。



 追憶がまた始まる。

 リカが研究所に戻って、一ヶ月ほど経とうとしていた。例の一件で、独房入りか悪ければ処分されることをリカは覚悟したが、何の咎めもなかった。

 Qロットを負傷させたのだ。本来ならそのまま処分されてもおかしくなかった。だが、絶対的な上位のはずのQロットを退けたということで、かえってその価値を証明することになったそうだ。調整もなくそこまで現実干渉ができるリカは貴重な存在であった。

 しかも、リカには呼び戻された目的が他にもあった。それは、他の姉妹たちに刺激を与えることだ。Sロットでありながら普通の人としての精神も持っているリカを被験者たちの中に置き、その反応を見るという実験である。

 リカが社会に出ている間、研究所の中でもSロットに対して知識や目的を与えて情緒を育てる試みが行なわれていた。一定の成果を挙げてきたそうだ。だがまだ十分ではないという。

 そこにもう一味加える存在が社会を経験したリカというわけだ。研究所によれば、準備教育によって情緒を育成しつつ、実験終了後に社会に出ていくための前準備としたい、という話だった。

 Sロットの実験が終了するのは長くても二十年以内で、それ以降は無用の長物となってしまう。Sロットたちは黒耀星の移民開発や月面開発の現場など人目に触れない職にしか就けず、研究所を運営する政府とってはそれなりの負担になっているという話だ。

 そこで社会の中にも出ていける程度にSロットたちに常識を植え付け、より高級職を斡旋できるようにしたいというのだ。リカのケースなどで、一般人のような情緒を育成したほうが能力の開発が進むことも実証されていた。一石二鳥の計画だ。

 リカにとって悪い話ではない。姉妹たちの扱いには不満がある。リカは役目を受諾するかわりとして、Sロットに対して最低限の扱いをするように求めた。

 感傷的なこと以外にも理由はある。説明を加えて陳情した。法治社会では人権に対する認識は必須であり、福祉の欠如はそういった認識を危機にさらすということを簡潔にまとめて伝えた。研究所はその訴えに応じ、スタッフによく言い聞かせると約束してくれた。

 それは現実となり、Sロットに対して危険な実験をしないこと、万が一危険な状態になった際の緊急医療体制を整えることなどが提案され、実行された。



 リカは教育学の経験はなかったが、Sロットたちに教育を与えるために必要な資料を集め、教師になるための勉強をすることにした。研究所はそこまでは求めていなかったが問題にすることもなく、リカを放置する態度であった。

 最初の授業を何にするか、リカは全く思いつかなかった。現在行なわれている訓練には体を鍛えるプログラムがあったのでまずは体育にするべきかと思ったが、それはリカの得意分野ではない。

 目的は社会に出ることなのだから、社会科の授業が最も適切だろうと最初は考えた。そのための資料を中心に集めていたが、そういう学習は意味がないことに気付いた。

 Sロットたちは全員、Nデバイスを埋め込んでいる。知識を覚えこむだけなら「置く」だけでいいのだ。彼女たちはリカが知っているような社会の仕組みについてよく知っており、リカの話に耳を傾けることはなかった。

 もっと別のものを与えなければいけない。一般的な人々なら絶対に持っているものは、家族などの親しい人間だ。リカがもつ経験とはそれだった。リカはまず、自分の区画にいる七十人ほどのSロットのデータを見てみることにした。

 彼女たちに人間関係と呼べるものは存在しないようだ。リストは、まだ培養槽から出たばかりの者ばかりだ。その時点で十歳になっているSロットは、もうNデバイスを持ち、必要な記憶を与えられている。喋ったり思考したりという機能は調整されており、研究所での生活が可能である。

 まず彼女たちに家族を与えてみたい、とリカは考えた。一人一人向き合うには七十人は多すぎるので、まず何人かに絞って、話をしてみることにした。

 十人のSロットに対して、妹のように愛してみることにした。リカは寝食をともにしながら、様々な価値を教え込んでいった。

 研究所で作られていたタブレット食品ではなく再現食材を使った料理を出すと、それは徐々に好評となった。また、思わぬものが役立った。リカが持ち込んだ私物の本である。それを読んで聞かせると、姉妹たちは興味を示した。

 リカは食材や本を注文し、それが届くとまた料理を作り、本を読み聞かせた。それぞれのSロットには好みの違いも現れ始め、自分の好みを言葉で説明することもできるようになった。自分で料理を作り、または本を読むことも可能になった。

 その時点でリカは、十人の妹たちを卒業させた。残ったSロットたちも、自分たちが得た知識や教えを新入生たちに広めていった。

 リカの方針はあらゆることを自分たちで解決できるように考えて実行する訓練であり、それがうまく機能していた。すぐに、彼女たちは相互に影響を及ぼし、変化を見せ始める。半年ほどで、妹たちはかなりの成長を遂げた。リカが地球で成長した速度と比べるとかなり早いペースだ。新しいSロットたちの教育ソフトはアップグレードされており、学習性能も向上しているのが理由である。

 最初の十人などは、半年の時点で常識の認識が外の人間に迫ってきていた。その下の世代も、開発業務のような複雑な作業を分担しながら行うことができた。そのようなグループワークでまた情緒や人間性が育まれ、仲間意識や友情、思いやりの気持ちが生まれてきていた。争いやいじめの問題が起きることもあったが、それぞれの問題にその都度向き合い、社会生活に欠かせない愛や道徳の育成の足がかりとしていった。

 現実干渉性の発現も出始めた。重力を感知できる者は活発に現れた。まだ自ら干渉することはまだできなかったが、重力を第六感として感じられることは能力の芽生えだった。リカがそうであったように。

 成果が出始めたので、研究所はリカの要求を受け入れるようになった。凝った調理器具や食材生成装置、外の学校のような学生服は、惜しみなく与えられた。当番が作られ、食事や清掃などといった雑務も自分たちだけで高度に分担した。最終的にはクラブ活動や委員会まで発足され、本物の学校と変わらない多彩な情報と価値を持った組織に成長した。誰に指示されるでもなく、Sロットたちは自らこれを維持していった。

 生活と情緒が十分に育まれた所で、リカは本来の目的に取り組んだ。それは社会への旅立ちである。自分の人生の価値を自分で見つけ、必要な人間性を育成するというものである。

 地球にはどんな素晴らしいものがあるか、社会の中にはどんな尊い人間関係があるのかをリカは教えた。Sロットたちは皆、自らが仕事について自由になることを夢見るようになった。そのために必要となる技能を磨き、必要な知識や社会常識を身につけることを求め、訓練を受け入れた。

 七十人の中から最初の卒業者が出たのは、四年が経ってからだった。そこからは毎年、卒業する者が出た。

 現実干渉性があまり育たなかった者から先に研究所ですることがなくなり、どんどん旅立っていった。最初の七十人の半数が旅立つと、研究所は世代交代として、数十人単位の新規ロットを製造し、リカの区画へと送り込んできた。

 まっさらなSロットが来るたび、二十人程度からなるクラスと、四人程度からなる家族が組織された。家族はお互いを愛し、最初の十人のように妹となった者たちを育てていき、やがてはクラスとして団結していくのだ。未来に対して歩む土台を形成しながら、いずれは旅立ち、そして世代交代をしていくサイクルが出来上がっている。

 研究所は、当初ここまでの社会性が育つことを求めてはいなかっただろう。せいぜい刺激を与える程度の意味でリカを送り込んだ。しかしリカという一人のカリスマを中心に形成されたこの学校は、それだけで一つの社会として機能し、人が持つ情緒を存分に引き出していた。

 十年の時が過ぎた。肉体が十歳相当だった最初の七十人は、もう二十歳ほどの体と精神に成長していた。

 七十人で卒業しないのは、二人だけになっていた。

 最初の十人の妹の中にもいたレビというSロットと、レビと同一のロットの妹、マヤであった。マヤは、リカがここに来た日に介抱したあのSロットである。マヤは、二段階目でレビの妹になっていた。

 二人の年齢と遺伝子は同一であった。同一のNデバイスプランを持っている事もあって良く似た傾向の開発結果となっており、どちらも現実干渉性の成長が著しかった。それが原因で、なかなか卒業しなかった。学校の中では最年長の先輩ということで、それぞれに大勢の生徒から慕われていて、最もリカに近い存在といえた。

 しかし、ついにマヤの方が卒業することとなった。Nデバイスによる不具合を抱え込んでいて病弱だったマヤは、それ以上の実験続行は危険と判断され開発終了となったのだ。

 研究はレビが担当し続けることになった。マヤの卒業を祝うために、リカと三人で、ひそやかに祝いの席が設けられた。

「リカが羨ましいです」

 しかし、マヤは、外の世界に出られることを喜ばなかった。研究所に残りたかったのだ。

「何を言うの。私こそ、あなたが羨ましいわ」

 姉にあたるレビは、そんなマヤを叱責した。

 マヤの赴任地は地球であった。政府の軍の仕事であり、地球の各地を転々とすることができる。軍属ということであまり自由な身ではないが、休暇は与えられるといわれていた。

「湖や、森や、海を見ることができるのよ。動物を飼うこともできるかもしれないわ」

 レビは、地球への憧れが強かった。リカに教えられた多くの美しい自然や、広い世界に心を奪われていたのだ。社会貢献の技能も、他のどのSロットより優秀である。

「ずっと学校にいたい。ねえ、リカ」

 しかし、マヤは違っていた。マヤは、あの最初の日からずっと、リカを想い続けている。

 卒業は愛するリカとの別れを意味する。生徒たちは卒業すると、もう研究所に戻ってくることがない。

 それだけではない。一人でうまくやっていけるという自信もなかった。この学校でなら慕ってくれる子たちがいるし、助けてくれるリカやレビもいる。外の世界に出ればたった一人なのだ。

「我侭を言ってはだめ。私たちが社会でうまく生きることができれば、リカだって外に出られるのよ。私たちはとても優秀なんだから、大丈夫よ。それに、地球には卒業生たちがたくさんいるわ」

「それを言うなら私たちがここで自立した方が、リカもいくらか自由になれるはずでしょ? できるなら、私はここで妹たちを育てていきたいの」

 マヤの弱気は、レビにはもどかしかった。レビの前向きさは、マヤには少し眩しかった。マヤはこの研究所での暮らしに慣れており、外での生活のような新しい環境への不安を抱いていたのだ。とてもレビのようには考えられなかった。

 そんな時だった。普段滅多に学校に関わってこない、Qロットの枢が、二人の姉妹を尋ねてきたのだ。

 妹がどんな話をしたのか、リカが知ることはなかった。



■七日目



 時間が止まったように、広大な地下都市トンネルは静けさに満ちていた。二キロもの高さの天井付近にいつも流れている風の音がない。大気循環システムの動く音も、リニアカーの走行音すらもしなかった。

 場所はあの日の街中。柊はHJ社のオフィスの前にいた。大勢の人間が闊歩するはずのオフィス街に、今日は一人もいない。

 そこは現実の空間ではなく、再現されたVR(仮想)空間だった。

 HJ社オフィスの前に並ぶ二十機の新型ポッド。柊に与えられたのは、これの指揮権だ。シミュレーターとはいえ、現物を忠実に再現している。柊の視覚データから得られた情報も含まれており、外見も動作性能も真に迫っている。

 このVRを組んでいるのは、情報室に新設された「開発部」の面々だ。

 先の新型ポッドに対抗するため、ようやく政府軍が重い腰を上げた。本格的に地下都市専用のパッケージを開発するつもりだ。これはそのためのシミュレーション実験である。

 情報室には技術部が既にあったが、その一部を分離して開発部が結成された。予算をつけて人材の引き抜きを行なっただけに過ぎないが、現場に放り投げていた時に比べれば進歩と言える。今回の一件は効いていると見える。

 月での運用にあわせてセンサーやソフトウェアのアップデートをするだけでも、戦車の優位性は上がる。決定的な差は機動性や数だけではない。情報処理技術が一歩後れているのが大きい。それが現場の意見であり、これまでの戦闘レポートでも何度も言及されている。

 現場の本音を言えば、戦闘ポッドとあわせて戦車を運用したい。しかし、月企業は政府にだけはポッドを売らないだろう。独自に同等の性能を持つポッドを開発するには、予算も時間も足りていない。

 だから、少ない予算を戦車の強化に回すのが今できる最良の対処法だ。そのためのスタッフが、様々な所から集められた。

「政府の設備も悪くないですね」

 柊と共にVRの中にいる彼女も、急な引き抜きに応じた一般企業の社員の一人だ。

「まあ、ちょっと窮屈な雰囲気ですけど」

 彼女はAS社の元社員で、今回引き抜かれた人材の中では筆頭に挙げられている。従来型の戦闘ポッドの群体移動制御開発に関わったことがある逸材だ。今回の実験では柊と同じくポッドの指揮側についている。

 ちなみに、いつもの技術職員は従来型戦車の指揮側についている。彼女は開発部には呼ばれず、技術部としての参加だ。新型砲塔を設計したらしく、それをシミュレートするのが今回の仕事だ。柊が戦闘ポッド側につくと聞いた時、しょんぼりした顔をしていた。これは部同士の対決という構図でもある。

 AS社といえば、あの新型砲を製造していた会社である。政府をどう思っているか質問してみることにした。

「市民は反政府で盛り上がってるみたいですけどね。うちみたいに大手になるほどそういうの興味ある人は少ないですよ」

 意外な答えが返ってきた。AS社は、零細企業が集まって共同で立ち上げた合同自警団が会社となったものだ。建材を造るための成型機や加工機械、工場を持っていて、自前で武器を作り出す力がある企業の一つである。

 長い間テロと戦ってきた歴史がある会社だ。勝ち取った月に乗り込んできた政府に対していい印象を抱いていないのではないかと、柊は思っていた。しかし、月で十分な利益を上げている上に、恒久的な生存環境も確保した今では大した興味を引かない問題らしい。これ以上戦争するよりも、自分たちの利益を守れればいいという考え方が当然だという。

 大手企業は政府にも毅然とした態度だが、政府の転覆を望んでいるわけではない。ただ月は自分たちの領域なので、政府が横暴な場合にのみ反発するだけだ。法に従わないとしても、秩序を乱す理由はない。

 彼女も飄々としたタイプで、合理的な考え方の人物だ。柊にとっても接しやすい人物だった。

「そもそも、政府軍と真正面から衝突したいとは思わないですよ。いくらなんでも」

 合理性は利益の他にもある。

 小競り合い程度なら戦闘ポッドでも戦車に対抗できるが、戦闘ポッド程度では政府本部を制圧することはできない。不用意に手を出せば企業に対して本格的に軍事侵攻してくるかもしれない。戦闘ポッドが優位なのは、地下都市での防衛という状況に依存したものだ。

 政府軍が侵攻する口実を与えないためにも、企業は専守防衛というスタイルを貫く必要がある。政府軍を追い詰めるような真似はしない。

「だから、こいつは怖いですね」

 仮想空間上のポッドを撫でながら、彼女は言う。

 R社の新型。この新型は、使い方によっては真の意味で政府軍に対抗できる武器となりえる。これのリリースと同時に、自社があんな砲を作っていることを知ってしまったのだ。それで、引き抜かれることを決意したという。

「こいつが宇宙戦闘機なんてこと、あると思います?」

 このポッドの形状は従来型とは大きく違う。そのことも、彼女は気になるという。

 宇宙戦闘機はまだ開発中のカテゴリである。現在は地球の軍事衛星を防衛するものが試験的に作られているだけだ。月面では従来兵器の応用が利くが、惑星開発のように宇宙での活動が広まればそういうものが必要になると言われている。

 真空の宇宙空間は新たな戦場である。宇宙戦闘機は地上や都市内での兵器とは大きく異なる。真空や低重力の中では対応する運動法則も異なり、真空そのものの危険や放熱の難しさに対する措置も必要だ。単純に今までの兵器を転用してうまくいくものではない。

 そういう兵器は、月では現状必要のないものだ。月面都市のすぐ外は宇宙だが、そこに戦力を置いて守ったり奪ったりするものは存在しない。宇宙での本格的な武力衝突は、まだ起きたことがない。

 しかし、この新型ポッドは宇宙で使えるかもしれないらしい。ポッドは無人なので危険な真空に向くし、重力制御推進は宇宙空間でのメリットが大きい。ボディ形状にも真空に対する配慮が感じられる。

 現在の月面の政府軍の弱点は、燃料を輸送に頼っている点だ。小惑星から得た大量の水を電気分解して生産される水素と酸素を定期的に輸送している。企業が持つ月面上の精製プラントからは購入していない。

 かつて月の生産力がまだ低く地球からの輸送に頼っていた時代には、やはりテロリストはこの輸送ルートを狙った。ただし外から攻撃する武器を持つ事はできず、宇宙船の内部に侵入して破壊工作を行なった。

 これまでの宇宙空間での戦闘とは、主に宇宙船の中での破壊工作だった。宇宙空間で撃ちあうような武器は必要なく、狭い船内を探索してテロリストと戦えばよかった。政府や自警団には宇宙戦闘部隊があるが、内容は無重力空間や船内での戦闘に完熟した特殊部隊である。

 もし外部からの攻撃が可能になれば、政府には対抗する手段がない。その手段を持つことは、専守防衛などではなく積極的に戦っていく意思があることを意味する。月面都市内での優位性とあわせれば政府軍にとって致命的な脅威となる。

 まずはこの月面都市で、この戦闘ポッドの性能を見極める必要がある。

「そろそろ時間ですね」

 VR環境のチェックが終盤に差し掛かっている。戦闘開始まで、残り数分をきっていた。



 結果は、戦闘ポッドの勝利であった。

 柊と引き抜き社員のたった二名で組んだ戦術システム。それを組み込み、例の新型戦車砲を搭載したポッド二十機を仮想敵とした。

 対抗するのは戦車八両。ほとんど現用と同じだが、砲塔とモジュール装甲の材質を変更し軽量化するなど多少の変更を盛り込んでいる。

 結果は、戦車ではほとんど戦闘ポッドの動きにはついていけないというものだった。今回、戦闘ポッドは積極的に戦場を広げて、走り回ることで戦車を撹乱した。戦車は四方を囲まれ集中砲火を浴び、機能停止した。破壊されたわけではないが、数機のポッドに反撃しただけで移動装置や換気装置が限界を迎え、置物になってしまっていた。

 前回は有効だった発煙弾も今回は効果がなかった。今回のポッドは、目が見えなくても地形と位置がわかっているように動いて見せたのだ。

 数と機動力も優位だったが、決め手になったのは広く展開した戦場での正確な位置制御であった。

「ど、どうやったんですか」

 悔しそうにしていたのは、あの技術職員だった。柊ではなく、新入りのほうを睨んでいる。睨むとっても迫力は皆無で、子供をいじめている気分になるような可愛らしい泣きべそであった。政府でずっと働いてきた身の彼女のこと、こんなにムキになるのは企業に対抗意識があるからなんだろうなあ、と柊は解釈した。

 今回はRFIDは使っていない。あれは急場しのぎのシステムで、もう対抗策も知られている。今回はそれに代わる位置特定システムを独自に開発することにした。

 それは、町の各所に設置されるCUBEユニットである。

 CUBEユニットは、ポッドの内部にも1つずつ設置されている。それと街中のユニットとをリンクさせ、おおまかな位置を特定し、制御の中核とした。

 CUBEユニットはそのままでは位置特定には使えない。町全体の至る所に設置されてはいるが、それぞれのユニットが位置を把握しているわけではない。しかも、RFIDと違ってどこにでも均一にあるというわけではない。集中している部分もあれば、まばらな所もある。CUBEネットワークはあくまでも通信ネットワークであって、位置特定を行なうためのものではない。

 しかし、このインフラが持つ機能を利用すれば位置特定は実現できる。

 CUBEユニットは正六面体のケースである。三十メートル以内に別のCUBEユニットを置いて起動すると、お互いに通信波を発生して存在を認識し、無線通信リンクを形成する。

 そうしていくつものCUBEユニットを配置していくと、それだけで巨大ネットワークが完成する。その時、CUBEユニットはお互いに個別の識別番号を割り振っていく。この番号は常に整理されていて、パフォーマンスを向上するために最適な位置にいる相手を選定していく仕組みになっている。

 お互いの識別番号はその周辺で共有され、一つのエリアを形成する。そのエリアにも番号が振られる。そのエリア番号が割り振られた端末は、それぞれが少しずつ記憶領域を提供し、エリアメモリと呼ばれる外部検索用リストを作成する。そこに、近くにいるNデバイスの個別IDが常に記録され続ける。

 例えば、誰かが移動する別の人のNデバイスに通信を送ろうとする。そうするとまず、近傍のCUBEユニットとリンクを確立する。そのユニットは、まず全てのエリアメモリにアクセスして、対象のNデバイスの個別IDが今どのエリアメモリに登録されているかを見つける。

 それが発見されたら、次はそのエリアにあるCUBEユニットのうちいくつかが、対象のNデバイスがどこにあるのかを見つけるために信号を発信する。Nデバイスからの応答があった場合、適切にハンドオーバーできるように、電波の強弱によってどのCUBEユニットが通信を行なうのか最適化する。

 隣接したエリアにあるCUBE端末は最適のルートを構築し、発信者とのリンク確立する。そして、通信が可能になる。

 このシステムをCUBEマッピングという。どこにいてもCUBEネットワークを利用できるのは、このマッピングが常に最適化されているからだ。

 マッピングといっても、それはあくまでもネットワークを管理するための番号と電波の強弱に過ぎず、そのままでは物理的な位置の情報ではない。しかし、このマップを作るのに端末が保持している情報を組み立てると、現実の位置関係が見えてくるのだ。

「それを可視化したのが、これ」

 3DモデルをVRに表示する。蜘蛛の巣のようなワイヤーフレームだった。それが、概算したCUBEユニット同士の物理的な位置のモデルだった。

 一つのCUBEユニットは、一度に三十六のユニットとしかリンクできない。正六面体のそれぞれの六方向で電波の強い、つまり距離の近いユニットを探し、リンクする端末を選んでいる。

 つまりその電波の強弱を検知したデータから、距離と方向を知ることができる。その情報を集め、CUBEユニットがそれぞれリンクしている端末のおおまかな距離と方向をパズルのように組み合わせていく。そうすると、物理的な形を推定したモデルができあがるのだ。

 まばらな点ではあるが、驚くほど地下都市の形と一致したフレーム構造が表示されていた。

 さらに、その上に実際の町の3Dモデルを重ねてみると、ほとんど誤差がないことがわかる。複数の位置情報から誤差を調整するようにしているため、曖昧な情報同士でも明確なモデルを作り出せる。

 ポッドにもCUBEユニットが装備されている。それをNデバイスモードにしてネットワークに参加させ、お互いの位置と自分の位置を簡単に取得することができる。

 今回の戦闘ポッドは、これを使って位置を特定していた。今近くにあるいくつかの端末の番号を取得すると、このマップを参照して位置を推定する。精密ではないが、十分実用できることが実験で証明できた。

 これを防ぐためには、CUBEネットワークそのものを遮断するしか方法がない。しかし先日のように、戦闘が起きてもCUBEネットを切断する権限がないのが政府の現状である。政府が管理するサーバーとは違う。

 通行人の視界などの外部情報を必要とせず、ただネットワークそのものがあれば使えるというのは大きな利点だ。もともとCUBEユニット内にあった情報を使うため、処理も少なくて済む。

 二十機が個別にマッピングを行なえば、ほんのわずかの通信量でリアルタイムのマッピングができる。個別のいくつものCUBEユニットが通信で使っているデータを一つ一つ細工をすることはできないので、RFID位置リストの改竄といったお手軽な方法では防げない。

 数を生かすという戦闘ポッドの特性にマッチした位置特定方法である。数十センチの細かい正確さは必要ないのだ。カメラ画像から得た3Dマップを組み合わせれば、不自由はしないだろう。

「よその会社では結構前に研究されていたんですけどね。これをやったら本当にネットを止められるかもしれないから、自粛してきた技術です」

 先日はRFIDで代用しただけで、本命はこれではないか、というのが彼女の意見だった。

 AS社のポッドは飛行タイプが少ないため障害物に弱く、この方法は使えないそうだ。浮遊していれば大体の位置が制御できればよく、これは飛行ポッド向きの技術だ。新型ポッドは楔形の形状をしていた。大雑把な位置制御で壁や自動車に衝突してもダメージを少なくする工夫かもしれない。実際、シミュレーターでは軽い接触が見られた。

 このシステムは新型ポッドにマッチすることが、今日証明された。今の所、このポッドに対抗するのは困難だ。シミュレーターを使って問題点を洗い出し対抗できるようになるには数ヶ月はかかる見込みだ。この先、情報室は忙しくなるだろう。



 眩暈がしそうなほど砂浜は白く、礁湖の見える穏やかな水面は宝石のように透明にきらめく翠だ。

 柊が立っているのは茅葺屋根の小屋の影の中。輝く陽光の中に落ち着いた暗さを生み出し、憩いの場となっている。砂の床には籐編みの寝台が二つ並び、上品に座るリカが自慢げな表情をしている。柊のクローゼットから失敬したシャツを着崩し、サンダルをはいたラフな姿は、休日の女神のようだ。

 仕事を終えて自宅に帰った柊を待っていたのは、リカが用意したARビジョンだった。無機質な外と比べると 丁寧なこだわりとダイナミックさを感じるインテリア。できるなら仕事の日以外に訪れたい光景だ。

 料理まで用意されていた。見かけだけかと思ったが、それは実物だった。海鮮パスタとサラダ。柊の部屋の高級食材生成装置で生み出された食材を使っている。

「お返しのつもりだったんですが、ダメですか?」

 黙々と食事をする柊を見て、リカは不安そうにもじもじしていた。何も言わないことを不満の表れだと思ったのだ。

「……おいしくないんですね?」

「ううん、ちょっと圧倒されちゃって」

 自分の部屋だというのに、まるで招待されているような気分だ。悪い気持ちではない。

 潮風の中でリカと共に過ごす食事は、柊の胸にまで風を呼び込む。プライベートで人と会わない柊には他人が用意した食事自体が新鮮だった。

 それを伝えると、リカは心底安堵したようだった。

 そこまで不安に思うことなのだろうか。

 他にすることがなかったのだろうと柊は考えた。残り数日とはいえ、何か娯楽を与えてやればよかったかもしれない。その様子を察して、リカは柊を抱きしめる。満足している、そう伝えようとしているのかもしれない。

 柊の指に、自分の指を重ねるリカ。感情の読み取れないリカに、柊は惹かれる。今までのSロットを相手にした時もこういうことを思ったのだろうか。

 これは幻想だ。柊の本来の人格にはない感情である。ただリカの経験が上書きされ、こんな気持ちを抱いているだけだ。全てが終わって記憶を消去されてしまえば、きっと、どんな感慨も残らない。

 それを思うことだけで、柊はリカに対する気持ちを処理した。



 追憶が始まる。

 マヤがいなくなって数ヶ月が経とうとしていた。あれ以来、リカはぼんやりとしていることが多かった。

 最初に出会ったSロットがマヤだった。親しい関係にあった。活発ではない彼女は、それでも懸命にリカに近づこうとし、よく慕ってくれていた。

 マヤが旅立ってから、レビの様子もおかしかった。リカの話に目を輝かせ、いつも賢く、情緒豊かだったレビが、最近はすっかり大人しくなってしまった。親しい妹と離れてしまって元気を無くしているのかもしれない。

 しかし、学校にはまだ大勢の生徒がいる。指導者である二人がそんな様子ではよくないだろう。そう想い、リカはレビの部屋を訪れた。

 年長のレビには個室が与えられていた。正確にはマヤとの二人部屋だったが、今はもう一人である。他のSロットのように四人部屋に二段ベッドよりは優遇されていた。

 ノックをしても返事がなかったので、ドアをほんの少し開けて覗いてみる。

「!?」

 レビは、ベッドの上に横たわっていた。どこかで見たあの光景のように、胸を押さえて動けずにいるのだ。

 リカにはすぐ、それがNデバイスの干渉による呼吸困難だとわかった。すぐに医療スタッフを呼び、実験プロセスの停止を要請した。

 プロセスはすぐ停止したが、呼吸は始まらなかった。自律神経が麻痺したままなのだ。そこでリカはレビを抱き寄せ、胸のNデバイスを直結させる。

 呼吸同期は二度目だ。だから、前よりはうまくできるはずだとリカは考えた。そう思ってレビのNデバイスと同期したリカは、そこに不可解なものを発見する。

「あなた……レビじゃないの?」

 それは、あの日リカが実行した古い呼吸同期プログラムだった。それがまだ、彼女の記憶領域に残されていたのだ。

 リカが自らのNデバイス上で緊急に手書きしたコードだった。これが入っているNデバイスを持っている人物は一人しかいない。

「マヤなの?」

 呼吸が戻り、医療班が到着した。目の前の妹は答えることなく、医務室へと運ばれていった。



 学校の中で噂が立っていることを、リカも聞き及んでいた。

 それは、卒業生に関することだった。Qロットの枢が、卒業生に違法な職業斡旋をし、人体実験の道具として売却しているという噂だった。

 噂の出所は枢自身の態度にあった。

 リカに対する妬みがある、Sロットを見下すといった噂が生まれてきたのは、彼女があまりにもSロットに対してそっけない態度で接するからだ。彼女はリカが来るまでここを統括している立場だったが、現在はほとんど仕事がない状態である。変な気を起こす可能性は十分だと囁かれていた。

 Sロットは礼儀正しく接していたが、枢は挨拶も返さなかった。疑いをかけられるのは自然な流れだった。生徒たちは彼女のことを「枢先生」と呼んでいるが、「その呼び方をやめなさい」と激昂したのを見たという者もいた。

 管理者であるQロットとはいえ、研究所の資産であるSロットを自由にできるわけがない、とリカは思っていた。それとなく生徒たちに「失礼な言葉に気をつけるように」と指導してきた。

 先ごろ卒業したマヤが今ここにいるという事が、どうしても気がかりになっていた。医務室に連れて行かれたマヤは、まだ戻ってきていない。彼女のNデバイスのシリアルナンバーは間違いなくレビのものだが、中身はマヤだった。リカには確信があった。

 最近の態度にも説明がつく。活発で前向きだったレビがずいぶん変わってしまったと思っていたのだ。十年も一緒にいた相手がそんなことになっているのに気付かなかったことをリカは後悔した。

 レビとマヤは、シリアルナンバーを入れ替えられ、摩り替わった。おそらくそういう事だろう。しかし、本人たちがそんなことをしたとは考えにくい。シリアルナンバーの訂正ができるのはQロットだけだ。研究所の一般研究員ではSロットのNデバイスをコントロールできないので、プログラムモジュールのインストールや登録データの訂正はQロットの仕事である。

 売り渡すという噂の真偽はともかく二人の件は尋ねてみる必要があるとリカは判断し、枢の部屋に向かった。

 部屋を訪ねると、枢はあっさりとリカを通した。どこか、普段とは様子が違っている。

「お尋ねしたいことがあります」

 リカが尋ねようとすると、枢の手は震え始めた。

「あんなことになるなんて、思っていなかったんです」

 尋ねる前に、枢は話し始めた。あんなことというのはマヤが呼吸困難に陥ったことだろうか、とリカは思った。

 マヤが卒業する予定だったのは、これ以上の実験が危険だと判断されたからだ。それなのにレビと入れ替わって実験を続行すれば、不具合が出るのは当たり前のことだ。それをわかっていなかったはずがない。

「そうじゃないんです。あの子……外に出た子のことです」

「それは……」

 売ったんですか?

 直接的に尋ねたくなるのを抑えて、リカは相手が話すのを待った。

「二人を助けようとしたんです……もう私は耐えられないんです。あの子達を送り出すのは……だから逃がしてやったんです」

 リカは、枢の言っていることの意味がわからなかった。

「送り出すとは、どういうことです?」

 顔を近づけて尋ねると、枢は蒼白な顔をしてリカを見た。

「あなたが悪いんです。前はよかったんだ。前はみんな生気がなかったし、気にならなかった。あなたがあの子達に、夢なんて植え付けるから……」

 枢は肩を抱きながら、リカの手を払った。

「殺すんですよ。私が。あの子達をシャトルに乗せて……何も知らないあの子達を。スイッチを押すんです。あの子達は笑いながら乗るんですよ。最後の時まで、ずっと」

 一瞬、言葉の意味を理解できなかった。

 研究所や政府のやりかたをよく知るリカには、想像がついてしまった。

 用済みになったSロットをいちいち就職させて、いらない荷物を背負い込んだりはしない。未来があると嘘をついて、研究が終わったSロットは処分されるのだ。

「なら……学校は」

「そんなもの……研究所は開発しか興味無いに決まっているでしょう」

 ただそれだけのために感情を与えている、と、枢は言う。職業の斡旋などない。それが真実だった。実に研究所らしいやり方だ。

 いつもそうだった。居場所が出来ても、何かを生み出しても、それが何の意味もないことを知らされる。

 足元の感覚が薄れる。重力が喪失し、落ちるような感覚に襲われる。

「もう、私は耐えられない」

 卒業したSロットは百人以上いる。枢の手で葬られたというのか。スイッチを押す、と彼女は言った。それを、何回も押してきたのだろう。

「あなたのせいじゃありません」

 リカは、目の前の人物を責める気にはなれなかった。

 そんな筋合いもないのだ。Qロットにしても、研究所の道具に過ぎない。むしろ被害者の側だろう。第一、抵抗することを諦めた自分自身にこそ重い責任があるとリカは思った。開放を望むのが正しかったのだ。なのに、それをしようともしなかった。ましな選択肢を選ぶ事を、救いなどとは呼べない。

 大体、研究所の言葉を信じたのが自分の落ち度なのだとリカは思った。あんなもの、今までの研究所の態度と違いすぎるではないか。

 信じたかったのだ。騙されてしまいたいという気持ちがあったのだ。だから言葉を飲み込んで、いい気になって学校など作ってしまった。まさに自分こそが、この残酷な世界を生み出した張本人だった。

 この枢というQロットの行いは極めて人間らしいものだ。先生と呼ばれたくなかったという話があった。道具のように始末しなければならない相手から親しみを向けられることが辛かったに違いない。

「それが、ダメなんです。研究所はみんなわかってるんです。あの会社も研究所の――」

 そこまで話した所で、突然枢の声が途切れた。

 枢の首がなくなっていた。後ろに折れていたのだ。めきり、という音とともに、今度は腕が折れた。見えない力で折り紙のように手足を捻じ曲げられ、声も出せないまま、枢は肉塊に変わっていった。

 見えない力が消えると、枢だったものは床にごとり、と落ちた。おびただしい血液が床を真っ赤に染めていった。

 重力干渉力だ。リカは手を下していない。だとすれば。

「知ってしまったんですね。じっとしていれば枢先生もリカも生きられたのに」

「あなたは……?」

 目を見張った。それは、リカ自身の生き写しのごとき人物だった。しかしすぐに気付く。ほんのわずかだが、リカよりも身長が低い。

 よく見ればリカには見分けがつく。マヤやレビはリカとほぼ同じ遺伝子を持っている。成長してますますリカに近づいてきた二人の姉妹。短かった髪が伸びて、服装もリカにそっくりになっているとはいえ、その表情、その笑みは、レビのものだった。

「そう、私ですよ。あなたに会いたくて戻って来たんです」

 レビは妖艶に笑った。何かがおかしい。

 まず、どうやって入ってきたのだろうか。それに、さっきの重力干渉は、以前の彼女のレベルをはるかに超える強力なものだ。リカにも匹敵するほどの。

 そして、なぜ枢を殺したのか。優しく礼儀正しく育ててきたレビが表情も変えずにそんなことをするなど、リカには信じられなかった。

「知ってしまったのなら仕方がないですね」

 言いながら、レビは怯えるリカの手首をつかんだ。

 すさまじい力だった。重力干渉を利用して握力を強化しているのだとリカは気付く。そんな高度な処理、以前のレビには出来なかったはずだ。

 リカも自らのNデバイスで、重力制御能力を補強した。正確に能力を行使するには、機械の計算に頼らなければならない。リカは自らの感知能力で相手の重力干渉を検知し、それを相殺する干渉を行なうように、自動プラグラムを組み上げる。

 曖昧な能力である干渉性。生身では完全には扱えない。発生する位置、強さを正確にするには、いかにNデバイスの機械的計算を使いこなせるかにかかっている。リカがその全処理能力を費やすと、ようやくレビに対抗することができた。筋力が非力なことを補える程度に、リカの手際は一枚上手だった。

「あら、さすがリカ」

 レビの腕を解いたはいいものの、リカにはそれ以上のことは出来なかった。リカは能力開発の実験体であって、戦闘用の強化兵士などではない。格闘や戦闘は不慣れなことだ。

 レビに接触した時、彼女のNデバイス構造を一瞬だけ感じ取ることができた。彼女の人工神経組織は胸部に留まらず、あらゆる神経の奥深くまで侵入していた。Nデバイス容量が著しく増加したことで、干渉能力の強化に成功している。

 それどころか、脳細胞の多くがNデバイスに置き換わっていた。指一本動かすにもNデバイスの処理に頼っているのだ。危険などというレベルではない。機械化が進み、Qロットでなくてもプログラムで意思や行動をコントロールすることが可能なほどだ。残されたわずかな脳細胞だけで、果たしてレビ自身であると言っていいのかどうか、という状態だ。

 レビは半分殺され、半分は生かされているようなものだ。リカは改めて自分が加担してきたことの意味を噛み締めた。妹たちを愛していた。たった一人しかいない命ばかりだ。使い捨てられていいものではない。今も施設のどこかにいるだろうマヤを想った。彼女は無事なのだろうか。

 レビのNデバイスを停止させられるとすればQロットだが、たった今ここで殺されたばかりだ。他のQロットなどリカは知らない。

 方法を考える必要がある。レビを救う方法を。

 リカは、全ての処理能力を費やし、自らの体を重力加速させた。そんな使い方は始めてだったが、Nデバイスの扱いに熟達したリカには難しいことではない。

 移動を攻撃と捕らえたレビは、自らも重力浮遊し、回避する。レビの動きは慎重だ。リカの方が上手だということは理解しているためだろう。

 その隙に、リカは駆け出した。廊下へと出ると、すぐ近くに区画を分ける巨大な扉がある。そこから外に逃げようと思った。

 扉はレビが外部からこじ開けたのか、電子錠が破損し、半分開いた状態であった。リカはその扉を閉じ、重力増大により衝撃を与え、扉を歪ませる。スライド式のドアはひしゃげれば開閉しなくなる。簡単には開けられないはずだ。少しは時間が稼げる。

 リカは研究所を出、上層へと逃げ出した。そこには、大勢の一般市民が生活する月面の大都市が広がっている。



■八日目



 目が覚めると、柊の隣にはリカの姿があった。

 記憶の同調はお互いに負担が大きく、疲労してそのまま二人で眠ってしまう事が多い。最近は毎晩のように同衾するのが習慣になっている。

 記憶の続きがどうなったのか、柊は知らない。

 記憶の中で見たレビは、目の前の人物とそっくりだった。まさか、という考えが頭をよぎる。眠る彼女の胸元をはだけ、Nデバイスにアクセスする。構造を探知してみると彼女の脳は健在であり、神経も生に近い状態だ。

 彼女は間違いなくリカだ。レビを入れ替わったということはないようだ。あの後どうなったのかは知らないが、こうして無事でいるということは、切り抜けたのだろう。

 そのことに、柊は安堵した。

 レビがどうなったか、今どこにいるのかだけでも彼女に聞きたいと思ったが、リカはまだ目を覚まさない。指が触れた胸元をくすぐったがるだけで、穏やかな寝息を立てている。

 六日目に柊が会ったあの人物は、レビではなかった。あれはマヤだったのだ。マヤはあの時近くにいたのだろう。怖くなって逃げてしまったと言っていた。

 マヤはレビについては話さなかった。多分レビが来る前に立ち去ってしまったのだ。もしそのままマヤが立ち聞きを続けてレビがやってくるまで近くにいれば、枢を殺したのが姉妹のレビだという真実を知ることになっただろう。リカの愛情を同期している柊は、そうならなくてよかったと安堵する。

 リカは枢を殺してはいなかった。これは重要な情報である。

 レポートをまとめ、アイに報告する必要がある。気分転換のため、外に出ることにした。もし彼女が誰も殺していないなら、なんとか生きる道はないものだろうか。柊はそんなことを考え始めていた。



 柊は町の図書館に来ていた。歩きながらレポートの送信は終わってしまった。気分転換のはずだったが、どこにも行かず帰るのも惜しく、近くにあったそこに足が向いた。

 今日は情報室開発部の手伝いはない。休暇である。精神の疲労を感じ始めていたので、ちょうどいい機会だった。

 図書館は情報施設の通称であり、昔ながらの図書館のことではない。CUBEスポットとも呼ばれている。

 リカが持っているようなペーパーメディアの書籍はごく少数しか置かれていない。閲覧もできず、ただガラスケースに資料として展示されているだけだ。そんなものを見に来る者はほとんどいない。

 ここにあるのは、パーテーションで仕切られた無数の座席だ。そこに座って、Nデバイスを通じて施設を利用する。

 月面の主要な情報インフラであるCUBEネットワークは、CUBE端末と呼ばれる単一の種類のノードを何百万という単位で配置し、相互に連携して分散並列処理を行なうことで維持されている。建材や施設の中にいくつも埋め込まれ、膨大な数を利用して巨大なリソースを生み出す。ネットワーク自体が処理能力を持ち、端末一つ一つが通信能力を持つ。

 サーバーといっても従来のような電気回路の装置ではなく、Nデバイスと同一の高分子ナノマシンを充填したケースである。ジェル状のニューロ素子が集合体になることで、記憶、計算、そして近距離の無線通信機能を持つように自らの組織を組み替えていく。ただのナノマシンがお互いに連携することで、多彩な機能を生み出し、複合万能ノードとなるのだ。

 その端末がさらに数多く集まることで、高性能ネットワークが実現する。自宅やオフィスにも最低一つが設置されている。ネットワーク全体の処理に貢献すると同時に、Nデバイスと通信するための近距離無線アクセスポイントとして機能し、その場所でCUBEネットのリソースを利用できるのだ。

 図書館とは、そのようなサーバーを集合配置するための施設だ。街中に点在し、ネットワーク全体の処理能力を向上させる。また、ここでアクセスすると自宅より多いリソースをあてがわれる。長距離通信のための経路を繋ぐ必要がない分だけ、同じ処理でもネットワーク全体から消費するリソースが少なく済む。その分リソースを多めに配分するようなシステムになっているのだ。負荷の大きい処理を利用したい場合に足を運ぶ場所である。

 負荷の大きい処理とは、例えば遠隔地のVRを体験することなどが挙げられる。膨大なデータをリアルタイムに通信するためには、このようなCUBEスポットの利用が便利だった。仮想空間を利用する者は多い。制限なく空間を生み出せるこの場所を利用し、旅行やスポーツ、戦争ゲームなどのコンテンツが配信されている。

 柊はどのコンテンツにも関心はなかったが、格闘技や射撃のトレーニングを利用することがあった。自宅のCUBE端末は充実している方だったが、今はリカに使わせているし、より現実に近い感覚を得るためには図書館のほうが適している。

 今日はトレーニングを行なう気にはなれなかった。柊は最新の配信データのレーベルの取得を行なうことにした。

 配信データはNデバイスに置くだけで瞬時にその内容を体験できるが、精神に与える影響もあるため、レーベルを先に熟読する。レーベルの文字情報を読みながら、取り入れる情報の内容を吟味する。

 一覧の大半は柊には関心のないものだが、一つだけ琴線に触れるものがあった。

 黒耀星開発今年度報告、という味気のないタイトルだったが、そのレーベルに描かれた必要人員の拡大という項目に目を引かれた。

 黒耀星。過酷な環境の外惑星で、現在政府によって、移民のための開発が進められているという話だ。

 Sロットたちが研究を終えたら赴任する場所とも言われている。本当に黒耀星に赴任する者がどれほどいるのか柊は知らない。おそらくほとんどいないだろう。

 黒耀星は地球の一つ外側の軌道を公転している惑星である。表面の色が濃い灰色をしているため、そのような呼び名がついた。

 岩石惑星であり、地球と大差のない物質で出来ているとされている。地球の半分ほどの直径で、重力は四十%である。自転周期はほぼ地球と同じ二十四時間と四十分という数値で、地球と同じように地軸の傾きがあるので、季節も存在する。大気は薄く温度変化も激しいが、局地には氷となった水も存在する。

 この星は早くから地球人類が移民可能な星として注目されてきた。しかし、近年になるまでは現実味のない話だった。学術調査は行なわれていたが、大規模移民は途方も無い事業規模が必要であり、絵空事に過ぎなかったのだ。

 しかし現在、この星よりもさらに過酷な環境である月面に都市が作られている。それは成功し、地球上の小規模都市と同等の人口が生活を送っている。黒耀星移民も現実味を帯びてきたわけだ。

 しかし、政府による開発推進は問題があった。月面都市の開発の初期に関心を示さなかった政府は、開発のほとんどを下請け企業に丸投げしたからだ。黒耀星に移民するのに必要なノウハウを握っているのは企業の方という状況である。

 強引な国家吸収、大量破壊兵器による地球の環境破壊などもあいまって、政府に対する不信感は大きくなっている。政府の縄張りである地球においてさえも、黒耀星開発は企業に預けるべきで、今の政府とは違う政府団体を組織し自治を行なう新天地にするべきだという意見が大半であった。政府はそのような考えを軍事力によって押さえつけるか、自らに吸収することで潰してきた。

 もし黒耀星を本格的に開発することになれば月面都市は拠点になるだろう。ここで宇宙船を組み立てて黒耀星への輸送を行なうのは、重力の強い地球上からロケットを打ち上げるより効率がいいからだ。しかし、この月面都市の大部分を占拠している企業連合は強力な自警団を持っているため、軍事的圧力をかけて従わせられるかどうかわからない。

 黒耀星開発が一向に進まないのはそういった抗争が足を引っ張っているためである。それでも政府は、かたくなに黒耀星開発に一般企業が入り込むことを拒んできた。そんなことになれば、政府は唯一の国家ではなくなってしまう。

 しかし、柊が受信したレーベルに書かれていたのは、一般企業の参入を募集するという内容だった。黒耀星に既にある拠点を拡大して、より多くの開発要員を駐在できるようにするという計画らしい。

 ここに来てようやく譲歩をするつもりなのか。だが、柊にはそんなことはどうでもよかった。それよりも注目したのは、「常駐/非常駐の開発要員合計三~五千人を目標とする五ヵ年計画」という部分だ。

 この容量なら、リカの学校の生徒全員どころか、研究所のSロット数年分の卒業生も余裕で収容できる。

 企業は研究所と繋がっているという枢の話。もしそれが本当なら、一般企業と称してこの枠に応募すれば、黒耀星の開発を独占できる。

 この項目が気になった柊は、アイにメッセージを送ることにした。



 自宅に戻ったのは昼ごろになってからだった。

 リカはすでに目覚めていたが、食事を取っている様子はなかった。

「おかえり、柊」

 出迎えたリカは、昨日言った通り柊の名を呼んだ。

「私がいると、窮屈でしょうか?」

 今朝はリカに会わなかった。

 この言葉が、置き去りにしたことを責める意味である事くらい今の柊にはわかる。演技めいていて、本気で悲しんでいる様子ではない。

「はい、お土産」

「あら」

 街の商店で洋菓子を購入してきたのが、役に立った。本当は昨日の食事の礼のつもりだったが。

「ル・バリルのフロマージュですね」

 月に最初に出店した洋菓子店で、時々柊が利用している店だ。地上では有名なので、リカが知っていても当然である。

 数年前は天然素材を謳っていたが、この月では材料が手に入らず、ついに食材生成装置に変わった。それでも家庭に設置できるものよりはるかに高級な機材を導入し、他では味わえない風味で商品価値を守っている。

「天然もの、もしかして食べたことあるの?」

「ありますよ」

 記憶の中で、柊もリカの食事を経験した。食事のことを思い出そうとしてみたがはっきりしなかった。圧縮された記憶は、所々が薄れ、正確ではなくなっている場合がある。

「でも、あなたが買ってきてくれるお菓子が一番美味しいですね」

「また適当なこと言って。何も違わないでしょ」

「食べさせてくれたら、もっと違います」

 請われるままに、柊はリカからスプーンをとり、かぐわしいチーズの香りのするケーキを掬い、口元に運ぶ。

 まさか本当にしてくれるとは思っていなかったのだろう。柊の行動に目を丸くしていたリカだが、差し出されるスプーンをくわえて、満足げに微笑んだ。

 その表情を見て、急にこみ上げる気持ちがあった。

 思わず、柊はリカを抱きしめる。

「どうしました?」

 腕の中のリカの体は、柔らかく、暖かく、細かった。

 数日後には、この体は失われる。柊は、Sロットがどういう風に処理されるかを知っている。

 リカの温もりも、鈴を鳴らすような声も、濡羽色の髪も、全て灰になって消える。

「はじめ、あなたはもっと合理的な人に見えてました」

 でも、違ったんですね。言いながら、リカは、柊の頬を両手で包み込む。柊の顔は、いつもの表情とは違っていた。

 淡々と振舞うように意識しているのは、柊の癖にすぎない。深く関わることのない相手ばかりで、余計な気持ちを残さないようにするために。

「好きだもの、きみのこと」

 でも、本当は誰かを求める心を持っている。状況を気にするのは、柊の性分ではない。素直に好意を伝えると、リカはそれを受け入れた。

「それが、あなた」

 リカは囁く。

「なのに、それを知る人はどこにもいない」

 そんな関係になる相手などいなかった。保護者であるアイでさえも。

 もともと、こんな事はどんな人間にも無理なのだ。記憶の削除をしなかった枢は、精神を病んでしまった。意識を管理できていなければ、柊も同じだろう。

 柊がリカをよく知るように、リカも柊の内面を見ている。

 たとえ、今だけだとしても。



 リカはレビを救う方法を考えていた。

 研究所から逃げた後は街中を通り抜け、使われていない連絡船のポートへと向かった。

 連絡船ポートは、地球との間を行き来する宇宙船が発着する巨大な港である。月面での自給自足が進歩した今は輸送はそれほど頻繁ではなく、いくつか未使用のポートがあることをリカは知っていた。人払いの必要のない、都合のいい無人スペースである。

 必要なプログラムモジュールをNデバイス内に組み上げながら、追っ手が来るのを待った。街頭カメラで探索すれば、この場所を特定することができる。研究所が政府のカメラ映像の提供を受けるのには多少時間が必要かもしれないが、待っていればその時は来るだろう。

 賭けだった。やってくるのがQロットの誰かなのか、それともレビなのか、だ。

 やってきたのはレビだった。

「地球に逃げるおつもりですか。いいですよ。大気圏の塵にして差し上げれば、ご当主様もお喜びになるかも」

 レビは言いながら、歩み寄ってくる。干渉力ではわずかにリカに分がある。リカの弱点は、肉体的に非力で格闘も苦手なこと。組み伏せようとしてくるだろう。

 接近を許すリカをいぶかしみつつも、レビはすぐ目の前に迫った。リカの準備は既に整っていた。

 意を決して、レビへと抱きついた。胸のNデバイスが物理接触し、一つのNデバイスとして認識される。

 リカは、レビのNデバイスを探った。彼女を操っているプロセスがある。

 もしそれがQロットによって植えつけられたプロセスであるならば、たとえリカでも停止させることはできない。しかし、以前マヤが行なったように、同一のNデバイスを使っているリカには、レビのNデバイスでコードを実行する権限がある。こうして、接触している場合に限られるが。

 Nデバイスは一つ一つはコンピュータとは呼べない小さな装置である。それが集合することで電子機器として機能する。個のNデバイス素子はごくわずかな記憶容量しか持たず、どのユーザーの所有物なのか記憶しているわけではない。規格が一緒である場合は、物理的に接触すると、一つのネットワークとしてしか自分を認識することができない。

 だから、CUBEネットのNデバイス素子もケースに入れて分けているのだ。Nデバイス素子は群体で自己を認識する。パーテーションが取り去られると混濁してしまう。

 それを利用して、リカはレビのNデバイスと自らのNデバイスを接触させ、一つの大きなシステムだと誤認させる。リカやレビのNデバイスは研究用である。そういった異常に対する対策は特にされていない。

 レビを支配しているプロセスは外部からの干渉に対して対策されている。分散したいくつもの処理がお互いを補完する構造になっている。簡単に停止できるものではない。

 しかし、時間さえかければそれは可能だ。プロセスを再実行し続ければ、その処理にリソースを割くことになり、現実干渉能力は低下する。反撃の暇を与えないように、リカは全処理能力を使ってレビの処理系に負荷をかけ続けた。

 能力を封じられたレビは腕の力でリカを引き離そうとしていた。しかし、やがてぐったりと力が入らなくなる。

 なぜなら、彼女は指を動かすのにさえNデバイスを必要とするからだ。それが封じられてしまえば、残った脳で体を動かすことなどできない。それがレビの弱点だった。

 進入していた遠隔操作プロセスを全て終了しネットワークからも遮断すると、レビはまるで感情を失ったように動かなくなった。呼吸や脈拍は正常だが、宙を見たまま微動だにしない。

 狂気からは開放された。しかし、レビの多くは失われているようだった。今の彼女は、神経強化回路の権化のような存在だ。それを維持していたプロセスを停止すれば、こうして何も残らない。

「ごめんなさい……」

 リカはレビを抱きしめた。以前のレビのように、彼女はリカを抱き返してくれることはない。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 レビはただ黙って呼吸をし、脈を紡ぎながら、涙を流すリカを不思議そうに見ているだけであった。

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