レムリア

枯木紗世

レムリア Lemuria

Lemuria 1


  Lemuria



 大事そうに彼女が抱えるものが何か、柊にはわからなかった。背を向け、何かをひしと抱きしめている。まっすぐな長い黒髪のわずかな揺れだけでは、何の感情も読み取れない。

「それだけ?」

「ええ」

 振り返ると、抱いているのは手の幅二つ分程度の金属製の箱だった。何が入っているか、柊にわかるはずもない。雑多にある私室の物品の中から迷い無くそれを選び取り、他には何も持ち出さないらしい。

 彼女が教育に使ってきた様々なものが、部屋の中に並んでいた。ペーパーメディアの古い本、木製の玩具、手製のぬいぐるみ。今では見かけないものばかりだ。

 この研究所に入ってきてから、背後に視線が突き刺さっている。

 柊はここの生徒たちから、大事な先生を連れ去る役回りだ。敵視されるのは当然で、早くここを離れたかった。

「ごきげんよう、みなさん」

 先生が上品に挨拶をしても、生徒たちは誰も返事を返さなかった。箱を抱く両手には包帯が巻かれている。その事に気付いた者もいるだろう。

 彼女を取り押さえたのは柊だ。数十分前の事である。今の様子からは想像ができないが、彼女の抵抗は激しかった。柊も、まだ若干背中に痛みを残している。

 廊下が見えるアトリウムに押しかけたのは八十人程度だろうか。柊の姿を見て畏れる者もいれば、怒りを込めて睨む者もいた。

 柊にとってはとるに足らない相手だ。それでも、いい気持ちはしなかった。

 研究所を出て、そのまま自宅へと向かう。



 柊の部屋は、地下都市用住宅架に適合するスロット形式住宅であった。研究所で見た先ほどの部屋とは、何もかも違う。

 余分なものは何もない。AR(拡張現実)の視界強化を前提とした質素なファウンデーショングレーの空間に家具はなく、パーテーションさえ作られていない。購入された時とほとんど変わらず、ホテルの部屋よりも生活感がないほどであった。

 家具がない部屋自体は珍しくない。調理、入浴、洗濯と、生活に必要な機能は部屋自体に過不足なく含まれているし、清掃と品質保持を行なうマイクロマシンが搭載されている。ARを展開すれば室内の外見は自在に変更可能なので、インテリアを楽しみたければビジュアルデータで事足りる。窓さえない部屋だが、窓も、窓の外の風景も作れる。柊の部屋が普通と違うのは、どのような拡張現実イメージも展開せず、素の灰色一色のままにされていることだ。柊は、何の視界強化も設定しなかった。

 その灰色の部屋に、今日の客が入ってくる。そして、大事そうに持っている例の箱をどこに置いていいものか、あたりを見回している。

 客の名は楪世(しじょう)リカという。系統名を姓にすることが多い被検体の中にあって、本当な意味での姓名がセットで存在する名前は珍しい。外で生活していた時の名残だ。先生というのはあだ名のようなものだと聞いている。あの区画のリーダー的存在だという。

 彼女は質素すぎる部屋を見回して、興味ありげな表情を浮かべている。壁に埋め込まれた大きな姿見を見つけると、彼女はその唯一の家具と向き合っていた。

 柊は体内に埋め込まれた人工神経回路、N(ニューロ)デバイスから無線通信波を送信、部屋の管理システムにアクセスし、指令を与える。すると、指令を受諾したことを示す小さな電子音がし、折りたたまれていた寝台が壁面から出現した。この部屋にある二つの寝台のうちの一つ、柊が使っていない方の、まっさらな寝台である。

 楪世リカはすぐ意図を理解し、たった一つの私物である箱を寝台に置き、自らも腰掛ける。今日からは、そこが彼女のスペースになる。

 九日か、十日か。その程度の時間になるだろうが、柊はここでリカと暮らすことになるのだ。

 リカを見ると、彼女はまた柊に向け微笑んだ。

 柊は彼女の気持ちを量りかねた。先ほどまであんなに激しく抵抗していた人物とは思えなかった。



■一日目



「怪我はない?」

 楪世リカを取り押さえた直後のことだ。

 任務を終えて休んでいた柊に送られてきたのは、Nデバイスを通さない電話でのメッセージだった。落ち着いて理知的な声色は、よく知る上司のものである。

 設置された電話機を通じてという、一般的ではない方法での通信だ。こんなものがある場所は限られる。月面都市には、開発黎明期に多数設置された医務室がある。今も緊急時のために動き続けている無数のそれの一つに柊はいた。医療診断機が設置された無人設備だが、今日はたまたま当番医のいる部屋だった。柊は気まずいなどという感覚は持たない。人がいるなら診てもらう方が楽とばかりに、検査を依頼した。

 検査を担当した若い医者は、迷惑そうに受話器を持つ柊を見ている。柊が政府の役人なので胡乱に感じているだけではない。拍車をかけているのが、「電話をかける」などという行為なのは明白だ。

 体に通信手段を内蔵した人間同士がこんなことをしているのを、奇妙に感じているのだ。宇宙に出る免許を取得するには、Nデバイスによって神経の一部をシステムと繋ぐことが義務となっている。非常時の連絡や情報共有のためだ。ここの医者もNデバイス追加を行なっており、その便利さを知る人間だ。

 ここの電話は十分に機能しているが、大昔に使われた骨董品である。いかにも柊の上司が使いたがりそうな品物だ。

「大丈夫だよ」

 柊は最低限のことを答えた。電話の相手は、それ以上を聞かない。

 まだ痛みはあるが、こんなのは軽症のうちにも入らない。負傷したら検査を受けるようにというのは上司の言いつけだ。大事にされるのは悪い気持ちではない。

 検査内容は瞬時に上司の追加記憶の中に送られているはずで、もう閲覧しているだろう。音声を解して声を聞きたがったのは上司なりの責任感なのだ、と柊は好意的な理解に努める。まあ趣味もあるのだろうが、それにつきあうことにする。

 今回取り押さえた相手、楪世リカの検査も一緒に終わっている。これ以後の柊の任務は、彼女を自室に拘留し情報を引き出すことだった。

 上司のもとには行かず、研究所に寄ってリカの私物を回収し、自分の部屋に帰る。部屋といっても、衣服や化粧品以外の私物は皆無の仕事場であった。

「減点ですね」

 リカは十ほど年下の柊の前に指を差し出し、言った。

 ベッドに腰掛けた姿には優雅さが感じられた。リカと柊とでは、生み出された世代も、育成された環境も異なる。それで身についたものか、風格めいた雰囲気が感じられる。

 リカは、研究所の区画の一つに秩序を作ってしまった人物だという。被験体という実験動物のような立場でありながら外の世界の経験や知識を伝え、他のSロットを教育してきた先生である。

 柊のようなQロットの多くには区画が一つずつあてがわれるが、仕事は先生などというものではない。どちらかというとNデバイスの管理人である。柊は区画の担当ではなく、リカが作ったコミュニティのことも聞き及ばない。

「こういう時、ゲストの荷物は持ってあげるんですよ」

 柔らかく笑みを浮かべながら、リカは教誨を気取った。

 手首に巻かれた包帯の下にあるのは柊が与えた傷だ。痛むのだろうか。しかし、その重そうな金属の箱を他人に預けたいようには見えなかった。

 今それは、マットレスの上に置かれている。

「そういうことに疎くてさ。ごめん」

 冗談だとはわかっていたが、与えた傷にわずかの罪悪感を感じた柊はそう答えた。満足したのか、リカはころころと笑った。

 リカと柊は、決して友好的な立場にはない。これからしようとしていることを考えれば。気にした様子のないリカの態度は、柊の気持ちをいくらか楽にさせた。

 彼女のNデバイスには今、柊が送った停止コードが走っている。そのせいでリカは非常事態通信と強制AR以外のいかなるデバイス利用も出来ない。ほぼ無加工の人間と変わらない状態だ。つい先ほどのように柊を相手に暴れ、監視者であるQロットを殺して脱走することは不可能である。

 この態度は、理解して覚悟を決めているからなのかもしれない。殺人まで犯した被験体の末路は明白である。

「始めますか?」

 リカは落ち着いていた。

 先延ばしにする理由はないので、始めることにする。他のQロットがどんな風にしているのか知らないが、仰々しくしないのが柊の流儀だった。

「前、脱いでくれる?」

 年下の柊の指示に、リカは素直に従った。取り押さえる時にそこを露出させたために、ブラウスのボタンはいくつかちぎれたままだった。白く傷の無い肌が、彼女自身の手によって露わにされる。

 鎖骨付近からはじまり胸部へ広がっていく。それが、彼女たちS型ロットのNデバイスネットワークが形成される部位だ。常人とは異なっている。しかも、常人をはるかに上回るほど成長している。

 この白い肌の下には、高分子素材で出来た流体マイクロマシンが無数に連結して形成される、神経増強デバイスが広がっている。

 Q型である柊のNデバイスは常人と同じ頚椎である。彼女たちのNデバイスと繋がるために、指のいくつかに細長く神経が伸びている点だけが一般的なNデバイスと違っていた。

 指が鎖骨に触れると、硬い骨とやわらかな皮膚の感触とともに、Nデバイスが接続された。皮膚まで伸びた微細な組織による、物理接続である。これによって、Qロットの管理権限を持つ柊のNデバイスに、リカのNデバイスが隷属する。

 これからリカの体験を追体験するのが、柊の仕事だ。

 自らの追加記憶から専用のプログラムを起動すると、対象の記憶は自動的に整理され、柊は濃縮された記憶を体験することになる。

 記憶は、リカがまだ幼かった頃から始まった。



 かつて研究所では、姉妹たちを外の社会の中で育ててNデバイスの成長を促進するという試みを行なっていた。

 SロットのNデバイスは成長型だ。研究所の中で何の経験もさせない場合、Nデバイスの成長は活発にはならなかった。なので世間に出ることで感情を開花させ、Nデバイスに刺激を与えるという試みが提案された。目的の機能を生み出せるという根拠があったわけではない。研究がまだ進んでいなかったのだ。

 多くの姉妹たちとともに養子に出された一人だったリカは、ある政府の役人の家に預けられることになった。

 その役人は政府の特権階級で、子供を自由に持つことを許されていた。それなのに、当主は血を分けた子供を作らず、実験目的の養子を知って引き取るのを望んだ。そこにあてがわれたのがリカだった。

 リカは、楪世リカになった。

「お加減はいかがですか?」

 リカが礼儀作法を覚え、当主の体を案じることができるようになったのは十代前半の頃だ。最初の記憶はその頃のものだった。

 突然その記憶から体験する柊には、漠然と自宅での記憶であるらしいという認識だけ理解できた。Nデバイスがまだ未成長な幼い頃の記憶は、あまり鮮明に記録されていない。そのため、はっきりした記録の部分から再生が始まる。

 装飾のある柱や家具などが置かれている。拡張現実ではないらしい。自然光の注ぎ込む窓がある。地下ではなく、地球上にある邸宅の光景であり、家具は全て本物であった。

 ガラス窓に反射する彼女自身の姿は、今の楪世リカの面影を残していた。表情にはまだ幼さが残る。

「すまないね」

 枯れた声で言葉を返された。リカの頭に乗せられるのは、すっかり細くなってしまった当主の手。その腕の細さに胸を締め付けられる感触が、追体験をする柊の中にも広がった。

 当主の体を持ち上げ、ベッドに寝かせた。その瞬間、腕にかかる重みがずいぶんと軽くなったことをリカは意識していた。

 以前はもっと重かったということを柊は知らない。しかし、その軽さに心が動く感触を実感する。

 それが、最初の記憶だった。初めて重力の感知を行なったのはこの時であった。腕にかかる「重さ」を強く意識した瞬間だった。その感情はNデバイスにも流れ、そこで、新しく枝がつけられる。重さの変化に特別な感情を持ったことで、彼女は切欠を得たのだ。

 柊はその未来の結果を知っている。これを切欠に、リカはNデバイスを成長させ、現実干渉性を開花させていくのだ。

 何年か続いていく穏やかな日々を、柊は圧縮された経験として感じ取る。加速度的に衰弱し、弱っていく当主の姿が、リカの胸を締め付けるのも。

 その日の追憶はそんな当主との日々の中で、一端途切れた。



■二日目



 月面の地下に作られたこの都市は、地球上の小規模都市と同等の規模と人口がある。

 政府庁舎のある第一区画には初期に月開発に関わった企業が集中しており、いずれも大きな社屋を持つまでに成長していた。朝には地上の夜明けと同じような通勤の混雑を見ることができる。律儀に地上と時間を合わせ、自宅ではなくオフィスに赴いて仕事をするという企業が多かった。

 都市全体はどの建物の壁面もファウンデーショングレーで統一され、無機質な印象に映る。乾燥した空気が流れていく。しかし通勤する人々はそれぞれに別の拡張現実を投影し、見ているはずだった。

 Nデバイスから視覚情報を追加することで、現実と区別できないほど高精度のビジュアルイメージ強化を得られるのがAR、拡張現実システムだ。風景は自在に変更でき、祖国の町に似た風景を選択する者もいれば、古き時代の風景を楽しむ者もいる。視覚だけではなく、他の神経に介入すれば風や空気の臭いまで再現することができた。

 大気汚染が深刻な地球上でも地下都市は広がっているという。かつて緑に包まれていた地球も、今やくすんだ雲に包まれた灰色の惑星である。拡張現実が普及したのは遊興のためではない。閉鎖空間での生活が一般化したことで、閉所性のストレスを解決する技術が必要とされたからだ。広い空、青く美しかった地球のイメージは好んで利用された。

 柊はここでも拡張現実を使用しなかった。天井照明があるので暗さはなく、そのままでも広大な都市を見渡すことができるからだ。長く住んでいる人ほど過去の地球のイメージなど興味を示さず、むしろ情報過多に飽き飽きして拡張現実をオフにしている。

 街中に出てオフィスに出頭する時、柊は周囲に溶け込むために演出した格好になる。他人がARをオフにしていると、素のままの姿を晒す。そういう場合のため、自分の姿は物理的に演出しなければならない。

 華美さのないスーツに、ひかえめなビジネスメイク。暗灰色の長い髪をまとめ黒系のスーツを身につけると、目立たないモノトーンの容姿になる。そこに一点、鮮やかなライトグリーンの眼鏡がアクセントとなって引き締まった印象を与えていた。

 眼鏡は古い時代の拡張現実装置で、いまだに需要がある。Nデバイスの情報量に疲労し、HMDのレトロ感に惹かれる者もいる。

 または、そのような気質を気取って身に着けるファッションであった。柊のものは、ARイメージの投影機能こそ内蔵されてはいるものの、目的は装飾品だった。

 オフィスに入室すると、そこは拡張現実のある世界だった。自室の拡張現実はブラインドの役目もあり、部屋のオーナーが演出したイメージを勝手にオフにできない。

「ご苦労様」

 簡単なねぎらいの言葉を受ける。少々てこずったとはいえ、通常業務の一つをこなしただけである。お互い特別にする必要はなかった。

 アイ・イスラフェルは政府が月開発に関わり始めた頃から財団に所属し、民間企業の地下都市設計事業を支援してきた人物である。現在は財団の総帥を務めている。

 全体にほの暗い色調の柊とは対照的に、ナチュラルウェーブの長い銀髪と白いブラウス、パールのスカートと、明るく白い出で立ちだ。清廉なイメージを放っている。上司であり、この月面都市での活動においては研究所出身の柊の便宜上の保護者という立場でもあった。

「今回の子はどう?」

 そこからは雑談だった。ここには、柊とアイの二人だけだ。

「なかなかかわいいよ」

 柊は過去に多くのSロットを担当し、情報収集を行なっていたが、その都度相手のことは忘れていた。楪世リカと他の対象者の比較などできない。

 Nデバイスは脳の機能を拡張する神経組織だ。個人の扱う情報の増大にともなって、情報管理の強化を行なうのが主な役目である。

 膨大な情報を読み取り記憶する分だけ、必要な時に記憶を呼び出したり、または忘れたりする機能を持たなければいけない。そうしなければ精神に支障をきたすと言われている。

 高度に記憶の区別化を行なう実験体の柊は、人物ごとの記憶を常に分類しながら記憶し、個別に忘れる能力を持っていた。少しの違和感も残さず、特定の人物のことだけを忘れることができるのである。普通はこうした操作は脳への負担が大きいが、柊の場合はほとんど負担なく膨大で細かい記憶を自在にできる。

「今回は、あなたの好みそうな子かもね」

 微笑みながら、アイは保護者の顔で言う。アイには柊に処理を依頼してきたSロットたちの記憶がある。扱ったSロットのデータを管理し報告するのは保護者の義務で、副業のようなものだった。アイは財団の人間だったが、研究所からは便利に使われていた。

 入れ込んでいる、という表現に、柊をとがめる口調はない。どうせ仕事が終われば楪世リカに関する記憶は消去されるからだ。柊は記憶の消去を拒んだことはないし、入れ込みすぎたと自覚する場合には、わずらわしい記憶を消すのを自分で望むことさえあった。

「第一印象では好きだよ」

「ふうん」

 柊は、答えをはぐらかした。

 リカの記憶は、柊の人生よりも長い。その厚みのようなものに何かを感じているのは事実だった。年下の相手は慣れているが、リカに接するのはやや緊張する。

 しかし必要なことだ。重力に関する現実干渉性を持つリカ。彼女と接続して一つの神経系になった柊にも、干渉性という枝のような情報が移植されていく。そうして移植された枝が柊の中で完全なものになった時、サクラメントと呼ばれる巨大な情報体にコピーされ、収集は完了する。

 ただ記憶や人格の情報をコピーするだけでは、現実干渉性は機能することがない。まず柊のようなQロットがSロットと接続し、その上でQロットがサクラメントと接続し、移動させる必要がある。この性質の原理は未解明である。そうしてコピーした現実干渉は特定の条件をそろえることで、ようやく自在に行使することができる研究成果となる。

 現実干渉性の移動は繊細な作業で、日を置いて九、十回前後行なう。楪世リカともあと数日の付き合いになるだろう。それを惜しむ気持ちがあるだろうかと考えてみたものの、柊にはわからなかった。

 Sロットの運命は決まっている。柊はあまり考えないようにしていた。尋ねたアイにしても、それほど関心がないようだった。

「その顔は、何か頼みにくいことがある顔かな?」

 雑談をしながらもじもじしているのを見て、目の前の上司の機微の方が気になった。目を逸らそうとするので、回り込んで見つめ続ける。

「あります……」

 柊が思った通り厄介な頼みごとを抱えていることを、アイは白状した。



 アイの厄介ごとは、彼女の立場に関係するものであった。

 月面都市には三つの勢力が存在する。

 一つは地球国家の政府集合体。月面開発が進んできた近年になって急に月面地下都市に軍隊を常駐させ、治安維持を担うようになった。柊や楪世リカが所属する研究所は、政府の一組織である。

 もう一つは、月面開発の下請けを担った企業の連合体である。月面進出した企業は一時期テロリズムの標的になったため、月開発特別法で自警団を持つことが許された。今もそれが続いている。団結すれば政府軍とも渡り合える規模がある。

 その間に、アイが所属する月開発財団がある。月開発用の公的資金を管理する非武装の組織である。中立ではあるが、創設の経緯で政府と深い関係にある。

 アイは財団の総帥という立場で、何かと抗争が絶えない企業と政府の間を取り持つ役目がある。

「ちょっと、手に余ることがあったの」

 そんな財団だが、最近は交渉で解決できないことも多い。近年、企業は月開発以外の事業を成功させはじめ、独自に収益を確保できるようになった。月は市場として成立し、もはや財団の出資に頼る必要はない。

 最近は違法な生産活動を堂々と行なう企業も増加してきている。今回の事件も、違法営業の疑いのある零細企業を強制捜査した際のことだという。

 軍警察を派遣した所、企業が応戦してきた。人的被害は受けていないが、政府側の治安維持用の警邏ロボットがいくつか破壊された。

 どうやら長引きそうだ、とアイは言った。声色には疲労の色がある。

 政府を倒して自治権を獲得せよという類の過激な思想がある。月が開発されれば、それを足がかりに次は惑星移民である。汚染された地球から逃れ、新天地へ。その計画をどちらが主導するのか。月面での抗争はそういった意味を持つ。

 素早く穏便に片をつけてほしい。政府の側からアイに対して交渉を行なうように依頼があった。

「話はしたの?」

 交渉というからには話し合いで、それはアイの得意技のはずである。柊が呼ばれるようなことではない。

「相手が人間だったらそうしたかったんだけど、どうも人間はいないみたい」

 またそのパターンだ、と柊は思った。

 最近増えているのが、大企業の手足となっているダミー零細企業を介した活動だ。政府の認可を得ていない勝手な営業や都市開発を行わせている。捜査の手が及ぶ頃には従業員や経営者は一人残らず退去している、というパターンである。

 捜査から逃げる時間を作るために使われるのが、企業が自警団で使っている戦闘用ポッドの横流し品だ。これが厄介な代物である。

 月開発の黎明期、戦闘ポッドは企業の自警を担い続けてきた。安価なセンサーで高度な情報を得る画像解析技術や、数を生かした連携索敵など、ネットワーク型無人機として開発され続けてきた。性能の不足を低コスト量産とソフトウェアの工夫で補って、政府軍の高価な装備と渡り合うまでに進歩している。

 地球上で活動してきた政府軍にしても軍事ロボットくらいは実用化している。月面でも警邏ロボットが使われているが、戦闘ポッドはそんなものよりもずっと強力である。進歩したネットワーク構築機能と武器システムを持ち、歩兵の優位に立つ存在である。

 今回使われたのは新型の飛行型で、まだ性能は未知数だそうだ。八両の戦車に対して二十機程度投入され、戦車を足止めした挙句、街中に潜伏したという。

 戦闘で十二機は撃破したとのことだが、街中に逃げた残り八機は追えていない。ダミー会社の従業員はとっくに逃げおおせている頃だろうが、ポッドは攻撃設定を維持したままで、自己判断で潜伏を続けている。市民に襲い掛かる様子はないが、治安維持を担う政府軍としては放置するわけにはいかない。

「それの相手を私にしろと。いいけど」

「……行かなくてもいいわよ」

 背後からふわり、とぬくもりが被った。

 柊が知る人肌の感触はアイしかいない。心配してくれる人間も。

 ポッドは、もともとテロリストへの対抗手段だ。歩兵と戦うために進化した機械である。そんなものに白兵戦を挑むのは自殺行為だ。たとえ柊のような非常人であっても。

「入れ込みすぎじゃない?」

 体を離すと、真実心配そうな表情のアイがいる。しかし、その顔を隠すように背を向けてしまう。

 Nデバイス運用の実験体である柊はついでとばかりに他の部分にも改造の手が入れられ、運動能力の増大と精密制御を実装した強化兵士でもある。一時期、地球国家統合戦争でその手の違法な強化兵士が流行った。

 強化措置は視界情報の処理や運動の制御にNデバイスを応用し、また必要に応じて骨格など人工部品に置き換えて強化することによって、常人離れした身体能力や状況計算能力を持った兵士を生み出すものだ。非人道的であるとの批判がある。軍事機密だが、まだ少数が地球上で兵役についている。そして、ここにも一人いる。

「事前に言っといてくれればいいのに。こんな服装ですることじゃないでしょ?」

 眼鏡を外し懐にしまいながら柊が言うと、アイは振り返る。その表情から暗さは消えていた。

「言えなかったの!」

 保護者をいじめるのもほどほどに、柊はそのままの格好で目的の場所へと向かうことにする。急を要しそうな案件だ。

 事を収めて帰ってくること。それが、柊ができる保護者への孝行の形だった。



 該当の地区はビジネス街だ。交通規制を行なっているとはいえ、一般市民の姿が多かった。民衆に混じって移動していると、さっそく政府軍の戦車が一両停車しているのが目に留まった。

 巨大な車両は微動だにしていない。この停止状態からでも、電気駆動で即座に機動開始できる。全長七メートルのこの軽量戦車は騒音や路面への影響が少なく、大出力で滑るように加速する。また、四つのロケットモーターによるジャンプ機能も搭載している。厚い装甲と高い機動力を持ち、強力無比な砲を回転式の砲塔に搭載する陸の王者。センサー類も強力で、十分な距離があれば敵戦車の砲弾を狙撃し空中で叩き落すことさえ可能である。地上でいくつもの戦功をあげてきた傑作であり、政府軍の虎の子だ。

 装甲や砲塔など部品のほとんどがモジュール化され、状況に応じて組み換えができる拡張性も持っている。ここに停車された一両は、数多くの市街地戦の経験から開発された単砲身と治安維持用の低被害砲弾を選択し装備している。

 小型で、地下とはいえ航空機も行き来できるこの月面都市が狭いということはない。ロケットモーターでの短時間の飛行は地下都市では役立ち、階層の吹き抜けを飛び超えて移動し、下の階層に降りながら深くまで侵攻していくこともできる。

 だがいくら小型軽量とはいっても戦車だ。脆弱な路面が点在する地下都市では移動が著しく制限される。搭載機器のほとんどを路面状態のセンシングに割り振らなければならない。そのため索敵に割り振れる機能は制限されるし、動きも鈍くなる。

 低被害砲弾とはいえ、開発現場は地球であり、月面都市での使用を想定したわけではない。呼吸に必要な大気さえ人工物であるここでは、少しの間違いも市民の生命の危険に直結する。そんなことになればただでさえ高くない政府の信頼は失墜する。都市への被害は文字通り致命的であり、大きな制約となっている。

 戦車の敵は戦闘ポッドだ。戦闘ポッドという名は、企業が自警団で使うために自前で開発してきた無人機の総称である。歩兵の前を進んで代わりに撃ったり、爆弾の破片を受けたりするための使い捨ての無人ロボット兵器である。

 自警団は、いわば民兵だ。ポッドの普及は生身の兵士の危険を減らす目的が大きかった。ボールのように転がって移動するものやローターを装備した飛行タイプなど、さまざまなものが作られ兵士の代わりに使われた。テロ抗争の中で実戦経験を積み、この地下都市に最適な形へと進化していった。

 共通しているのは、それぞれが無線通信でつながってネットワークを形成し、数の力を最大限に生かすような形態で運用されることだ。一機一機の動きは至極単純で、単体ではほとんど脅威とならないが、数が揃うと動きが変わってくる。機体がそれぞれに持つセンサー情報を複合処理することで群として動く。熟成された連携アルゴリズムを組み込むことで、高度な集団戦が可能になる。

 また、個々が簡単に破壊や無力化されてしまうことを前提にしている点も画期的であった。ハッキングなどの電子戦闘に対しても、防ごうとするのではなく、それを上回る数で克服する。制御を奪われたら自爆、もしくは僚機を破壊する選択肢さえ存在する。無力化された割合が八割を超えない限りは、残りの機体で戦闘機能を維持し続ける。

 企業の敵がテロリストから政府軍に変わってからも、ポッドは使われ続けた。当初ポッドは戦車に対抗できないと思われていたが、現実は違っていた。数と機動性を生かして肉薄し、側面や背面から攻撃を行うことで損害を与え、行動不能にすることができたのだ。

 政府が軍を送り込んできたのは開発後期になってからで、この安物兵器に苦戦している。黎明期から装備を自己調達しテロと戦い、この月面都市を知り尽くす企業には一日の長がある。反抗勢力は簡単に横流し品の戦闘ポッドを調達できる。政府軍はいかにも強力すぎる戦車の他は、テーザー銃を発射するだけの警邏ロボットしか用意できないのである。

 そんな政府にとって緊急手段になるのが研究所の存在だ。柊のような人材は何人かいて、対戦闘ポッドに限っては戦車以上の戦力となる。そういう兵士に頼って事態を収束させる場面が増えてきていた。

 今回の目的は二つある。

 戦闘ポッドの停止。そして性能の分析である。とくに後者は、今後同じタイプの戦闘ポッドが投入された時、再び柊が呼び出されるかどうかの問題に関わってくる。弱点のようなものがあればいいのだが。

 戦車の横をすり抜け、柊は地下へと入る。

 砲撃戦があった上層、一、二層目の道路はもう封鎖されていて人影はないが、下層の三~五層目はもう平常どおり人の行き来が許可されたらしい。この街での政府の影響力は低く、市民に対して不自由を強いることはできない。市民もこれがテロではなく企業連合が起こした工作だということを理解しているのだろう。不安を感じるものは少ないようだ。むしろ、出張ってくる政府軍に対して非難の目を向けている。

 この分では、CUBEネットワークの部分停止もできていないだろう。案の定、戦闘区画でもネットワーク接続が可能で、柊もそれを利用して情報収集を行なった。

 今回の事件のために作られた軍のフォーラムには、先ほどダミー会社に踏み込んだもののすでにもぬけの空だったという情報が入ってきていた。会社の名前はHJ(ホット・ジュピター)社という会社だ。

 捜査員が踏み込めたということは、ポッドはもう拠点を守ってはいないということだ。機械的に行動し街中にまぎれたポッドを排除する事後処理が残されるのみだ。

 柊は三層目を通って戦闘地域の中心に向かった。すぐ上の層で戦闘があるかもしれないということで、さすがに三層目の市民の姿はまばらだ。

 上層への出口は警邏ロボットで封鎖されている。前に立つと、ロボットは柊の生体構造を読み取る。任務を与えられた人物だとわかると、退いて通路を開けた。

 上層は静けさに満ちていた。人がいないせいだろう。店舗もシャッターを下ろしている。上空から空気の流れる音が聞こえてくる以外は、なんの気配もなかった。

 この地下都市の大きさが最も感じられるのが上層部だ。月の海、平坦な土地に作られた直径九〇〇キロ、総延長二八〇〇キロもの巨大な円環状のトンネル。この巨大な構造物の輪郭は、地球上の望遠鏡でも見ることができる。

 円環の中でゆるやかに空気を廻すことで、入り組んだ構造の奥まで空気が循環していく仕組みだ。最下層には生活用水の流れる水路もあり、過酷な宇宙環境での温度調整に役立っている。

 トンネルの幅は狭いところでも四キロは確保されている。天井までは二キロメートル程度で、STOL機やチルトローター機などの飛行機械の運用も行なわれている。

 上層の道路は区間輸送が主な目的で、比較的頑丈で道幅も広い。戦車が自由に移動できるのはせいぜい二層目の一部までだ。二層目に送った警邏ロボットは全滅したらしく、三層目以下は警邏ロボットがくまなく調べて成果なしだった。戦闘ポッドは二層目のどこか、戦車が入れない場所に待機している可能性が高い。

 それは、すぐに見つかった。

 ファウンデーショングレーの背景の中に、白い塗装の機体が鎮座していた。一目で新型とわかる。様々なポッドとの戦闘経験のある柊も今日まで見ない形状だ。近くには攻撃を受けたらしい警邏ロボットが、穴だらけになって転がっている。

 従来の戦闘ポッドに比べるとやや大きめだった。流線型の楔のような細長い形状で、全長は四、五メートルだろうか。翼の無い戦闘機のような形をしている。全高は柊の身長に満たないので、一・七メートル以下である。従来の飛行型で一般的だった円筒形や球形よりも攻撃的な印象だった。

 柊が目の前に近づいても、ポッドは何の反応も示さなかった。与えられた条件が揃わない限りは待機を続けるようだ。柊が何の武器も持っていないように見えるので、市民と思っているのだろう。

 戦闘ポッドは歩兵の動きを分析することを得意中の得意としている。映像解析アルゴリズムが進んでいて、カメラ画像から分析した関節や筋肉、重量バランス、衣服の動きだけで、隠し持った武器までも見分けることが可能である。拳銃のような小型火器を使うそぶりを見せるだけでも瞬時に感知でき、トリガーを引く動作や射撃軸を分析することで、反撃による優先無力化や回避を行なう。

 おとなしく停止しているようだが、おそらくセンサーカメラは作動し続けている。少しでも敵意を含む行動を見せれば、どんな反撃を受けるかわからなかった。慎重に調べないと、蜂の巣になった警邏ロボットと同じ末路をたどる。

 Nデバイスの無線受信機能で感じる所では、ポッドが通信波を発している様子はない。今は通信封鎖しているのか、完全に通信遮断モードで自己判断で動くのか、それはわからない。犯罪に使われた今回は、個人特定される危険のある遠隔操作の可能性は低い。観察を続ける柊に対して何の反応もしないことも、カメラ画像を監視して操作している人間がいないことを示している。

 武装は機首に取り付ける設計で、現在は機銃のみのようだ。粘着粒子や高温ガスを散布する弾頭だろう。走行装置を損壊するか、砲塔旋回装置の不具合を狙うものだ。

 武装以外はいくつかセンサーがある程度で、表面上はさっぱりしていた。機体は大量生産がしやすい積層形成の高分子素材で作ったボディに硬化塗料を上塗りした安価なもので、戦闘ポッドの定番であった。歩兵の武器には多少の効果があるが、戦車砲に対する防御力は皆無に等しい。

 センサーはカメラと単純なレーザー距離計、電波感知装置程度で、見るからに安価な構成である。一つだけ独特だったのは、機体の下部にRFIDリーダと思しき部分があることだった。

 RFIDは数センチ程度の小さなタグで、かつては小売店の商品管理などに使われ普及したものだ。月面都市では、このタグを路面や壁面の建材に無数に埋め込んである。センサーで得たID情報をネット上のリストと照らし合わせると位置情報を取得できるようになっている。主要な道路なら三〇センチ間隔でこのタグを埋め込んでいるので、精密な位置特定が可能になる。都市で働く業務ロボット、たとえば先ほどのような警邏ロボットや車椅子のような福祉ロボットはこの位置特定システムを移動制御に利用しているが、戦闘ポッドでこれを利用している機種というのは聞いたことがなかった。

 外見でわかるのはその程度だったので、二層目を歩き回って別のポッド探した。駐車スペースの影など目立たない場所を見ていくと、同一のタイプ八機全てを確認することができた。政府が設置する街頭カメラには映らない場所を選んで身を潜めている。いずれも停止したまま少しも動かない。

 位置がわかったのだから排除は簡単そうに思えたが、何か仕掛けがありそうだと柊は考える。

 柊は、軍のフォーラムにポッドの情報を緊急項目としてアップロードした。その情報を受け、政府軍の戦車は一機に対して攻撃を試みる。柊は対象のポッドが見える位置に移動して待った。

 しばらくすると、行動を起こした戦車の姿が視界の端に見えた。

 戦車は振動で感知されないようアンチノイズモードで徐行しており、音は聞こえない。逆位相の音波で巧妙に動作音を消す高価な音響隠蔽機能である。粗末なセンサーしかない戦闘ポッドには感知不能だろう。

 戦車には、戦闘ポッドとは比較にならない高価なセンサー類が装備されている。中でも、三次元パッシブレーダーは市街地戦で政府軍を助けてきた武器の一つだ。レーダー波を発することなく、赤外線や環境電波などを複合的に解析することで、建物を透視して三次元イメージを見ることが可能なものである。

 位置さえ特定してしまえば、あとは精密照準が可能となる。ポッドの視界を避けて至近距離に榴弾を着弾させれば、軽装甲のポッドなど簡単に仕留めることができる。

 ほどなく主砲の発射音が響いた。センサーの死角なのでポッドは回避できないと思われた。しかし、結果は予想外のものとなった。

 主砲を発射する直前、ポッドはその場で浮遊すると、猛烈な加速で飛び去ってしまった。ポッドのセンサーカメラの視界に入る前、しかも主砲を発射するよりも前に、である。

 離れた場所にいる敵の接近を察知してみせた。何らかのセンシング手段を持っているようだ。

 ポッドは時速百キロを超える速度で飛翔しており、生身の柊には追いつけそうになかった。他のどのポッドもすでに移動を開始しているようだった。やはり、連携して行動パターンをスマート化するタイプだ。

 柊は駐車場から適当な二輪車を探して借りることにした。政府権限で制御系に介入し、強制的にモーターを始動させる。

 敵は入り組んだ通路を移動して回り込み反撃に転じている、と柊は推測した。攻撃を行なった戦車は包囲される可能性がある。戦車も同じ考えのようで、撤退を開始しているようだ。

 その最中、視界の端にポッドの一つが見えた。戦車が撤退した方向に正確に向かっている。機銃くらいでは戦車が撃破されることはないだろうが、突出しているので危険だ。足止めされ、高温ガス発生弾を集中砲火されれば、乗員に危険が及ぶ可能性もある。柊は救援へと向かった。

 追跡しながら、あのポッドがどうやって戦車の位置を特定しているかを考えた。

 見たところ、あのポッドには簡単なRFIDリーダと簡素なカメラ、センサーしか装備されていなかった。見えない部分には、振動センサーやジャイロスコープの類くらいは装備されているかもしれない。ボディ自体が音声センサーの可能性もある。

 しかし、政府軍の戦車も音響に関しては繊細な機能を持っている。静音モードでは、この地下都市の音声ノイズと区別がつかない程度の微弱な音しか発しない。どんな解析をしても、音で位置特定できるとは思えない。

 音でないなら、何らかの方法で「見ている」と考えるのが自然だろう。

 利用している可能性があるのは、インフラ設備だ。街頭にはARのための3Dモデル取得用のカメラが設置されている。

 しかし、そうしたカメラ映像は有事の場合一般回線から遮断することができる。現在もそうだ。あるとしても、街頭カメラではない。ならばどこにあるのか。

 柊は一つの可能性を予想した。それは、人間の目だ。

 通行人の視覚情報は一度ARサーバーに送られ、そこで処理されて視覚に上書きされる。街中のような巨大な空間の拡張現実イメージは膨大な計算リソースを使うので、個別に保有するNデバイス程度の計算領域で処理することはできないからだ。

 一部の企業はいくつかの共通ARサーバーの運営も行なっているので、一般市民が目撃した戦車の位置情報をひそかに送信している可能性がある。戦車のサイズや形状は決まっている。現在取得している3Dオブジェクト群に簡単なフィルターをかけるだけで戦車を発見できるだろう。

 いわば、戦闘区域の外から大規模監視を行なっているのだ。戦車が通れるような道路はどこも市民が見通せる所ばかりだ。わざわざ戦場に入らなくても把握できる。

 スロットルを回しながら、柊は対抗策を考える。

 広範囲の索敵情報。それにあの機動性と、正確な移動制御。厄介な相手だ。IDタグやAR設備のあるこの月面の地下都市でしか不可能なことだが、それだけに有効だった。戦車で除去できないのであれば、歩兵を使うしかなくなる。そうなれば大勢の殉職者を出すことになるだろう。

 それは好ましくない。柊はアイのNデバイスの追加記憶に接続し、自分の考えをアップロードした。同時に、対処法の案も送信する。

 実行するには多少時間が必要になる。それまではポッドの相手をしなければならない。最終的には戦車で倒せることが理想だが、必要なら自分の手で仕留めるつもりでいた。

 まずは、現在追跡している一機だ。二輪車のモーターに最大電力を流し続け、少しずつ接近する。路地をショートカットして、ついに撤退を続ける戦車との間に割り込むと、迫ってくるポッドの先端についたカメラと目があった。カメラに移る柊の行動を敵対行動とみなし、ポッドは唯一の武装である機関砲を発射する。

 狙いは正確だった。安価なカメラを使っているにも関わらず、分析アルゴリズムが優れているのか射撃精度が高い。

 Nデバイスで動体視力を強化している柊でも、不規則に移動し続けて回避するしかない。大口径の機関砲は、かすっただけで致命傷になる。

 柊は自分の武器を、すでに掌の中に忍ばせていた。四発の弾薬を装填した回転式弾倉を内蔵する、葉のような形をした特殊拳銃である。熱を防ぐ薄手の黒い耐熱手袋で包みこむようにして持つ。

 この武器の特殊な形状。発射するために握って構える必要がなく、画像解析での射撃予測を困難にさせる。トリガーも電子式であり、指の動きを察知されない。柊の愛用品だった。

 炸薬を封入した対物弾を装填する。小口径とはいえポッドのセンサーくらいは一撃で破壊する威力があるが、確実に狙うには接近する必要がある。

 あの正確な射撃の前に接近することはあまりにも危険だ。しかし、柊は果敢にも方向を変え、ポッドの正面から向き合うように疾走し始める。Nデバイスによる補助を受けて常人とは桁違いになった動体視力と、運動機能の高速制御が、それを可能にした。

 三メートル。高速ですれ違えば一瞬の距離。センサー部めがけて隠し持った武器の銃口を向ける。Nデバイスから高速に送られた信号で電子信管が作動。予備動作なく至近距離から発射された弾丸に対し、ポッドは回避運動の必要性を感知できず、センサー部に被弾。

 弾頭はセンサー部の表面を突き破って内部に侵徹し、炸薬が破裂する。

 ボディ内でくぐもった炸裂音がすると同時に、ポッドは沈黙した。電子部品のいくらかは破壊できたらしい。急に速度が低下し、その場に停止してしまった。

 息つく間もなく、柊の背後から二機目が迫っていた。柊を敵対者とみなし、増援を送ってきたらしい。柊はすぐさま遠距離から二発目を発砲。着弾するが、外装をはがしただけで撃破には至らない。

 柊はその時、開けた場所にいた。機銃掃射の格好の標的となった。停止したポッドを盾にし、殺人的な弾丸の雨を避ける。しかし、横たわる残骸は危険だった。僚機からの射撃で致命的な打撃を受けたのか、自爆のために内部が高温燃焼を開始し始めた。弾薬に引火し、高分子のボディが破片となって降り注ぐ。

 破片を手で受ける柊。耐熱手袋のおかげで致命的なダメージは避けられたが、両手には火傷の痛みが走った。

 この戦闘のどさくさで、突出していた戦車は合流を果たしたらしいことがNデバイス情報で伝わってきた。そのかわり、柊のいる地点にポッドが殺到してくる気配がする。

 潮時かと考えて離脱しようとしたその時だった。合流し包囲網を狭めて接近してきた戦車から、発煙弾が発射された。

 一瞬で煙の幕が形成され、市街地の視界は真っ白になった。煙幕弾は惜しみなく発射され続け、戦闘区画そのものが煙で覆われる。

 これで、外の一般市民から戦車の姿をとらえることはできなくなった。市民の目を頼りにしているという柊の推測は正解だった。視覚情報を失った戦闘ポッドの動きが変化し、一斉に退却を始めた。

 映像解析は高度でも、安価なセンサーしか持たないことは変えようがない。原始的な対抗手段でも効果はある。その場合は隠蔽行動か無差別攻撃を行なう事が多い。

 この新型の場合、視界がなくても正確な位置がわかるIDタグの読み取り機能がある。それをもとに、正確に撤退するようにプログラムされているのではないか、と柊は考えていた。戦車が入れないような場所に移動し、煙幕が晴れるのを待とうとするだろう。地下都市は優れた換気装置が回っている。これを停止させることはできないから、すぐ煙幕は晴れてしまうのだ。

 柊への攻撃はなかった。危機は脱したが、この方法では防御しかできない。このままではまた振り出しに戻るだけだ。

 しかし、そうはならなかった。ポッドは高速で離脱していたが、その目的地はなぜか開けたある一点の場所だった。残された七機全てが、一ヶ所に終結していく。安全地帯とは真逆の、狙われやすい道路の真ん中だ。

 これが、柊のプランだった。

 ポッドの不可解な移動は、あらかじめ路面のIDタグに対策を施したからである。対策といっても、IDタグそのものを取り出して入れ替えたりはしていない。膨大な数があるので、そんな事は政府軍の兵士全てを動員しても無理だ。だから、サーバーにあるID番号リストの側を改竄した。リストに記載された位置情報を書き換えたのだ。

 IDタグのデータ番号は、増改築を繰り返す月面で建材を再利用するために、常に更新される情報である。そのため、書き換えが容易なネットワーク上でリスト公開されている。町の自動機械はそれにアクセスしながら情報を取得し、古い情報で位置を誤認することがないようにしている。

 そのリストの管理を行なっているのは政府のサーバーだ。プランを受諾したアイが関係者にかけあって、データの書き換えを行なわせたのだ。

 常にサーバーにアクセスしながらリスト情報を取得していたポッドは、書き換えられた情報をもとに自分の位置を誤認し、その場所に集められてしまったのだ。

 密集して動きを止めたポッドなど、戦車にとっては取るにたらない相手である。発煙弾の煙の中でも正確に照準可能な高価なセンサーを持つ戦車があらかじめ待機していた位置からたった数発の榴弾を浴びせただけで、事は済んでしまった。自爆装置が作動し、機体は炎上を始める。高分子が燃焼する独特の匂いが広がっていった。

 事態が収集したのを確認し、消防隊が駆けつけてくる音が聞こえた。柊は人目を避けるように下の階層へ降り、傷ついた掌を労わりながら、付近の医療施設の位置を検索した。



 能力開発者であるSロットの実験体は、胸部にNデバイスを育てる。胸にNデバイスを埋め込むのは現実干渉性を開発しやすくするためだ。呼吸や心拍を操作し、精神を活性化させ、情緒の強化状態を生み出す。危険で、違法である。成果にランダム性のある彼女たちは大量に生産され、研究所の外に出ることはなく、その一生を終える。

 Sロットを管理する役目のQロットには、頚椎に。頚椎へのNデバイス施術は一般人が行なう神経拡張と変わらない。自由とまではいかないが、外を歩く権利もある。サクラメントへのアクセスやSロットたちのNデバイスの上位権限を行使するために通信機能に特化し、調整してある。

 Sロットが飼育動物的とすれば、Qロットは機械的だ。そんな生き方を強いられる。

 地球上での国家統合戦争では体のほとんどの神経をNデバイスに置き換えた人造兵士など、非人道的な研究が横行した。研究所で行なわれている能力開発も、そういった人造兵士計画の技術を応用して行なわれている。

 柊の仕事は本来は戦闘などではない。世界の神秘を解き明かすという学術目的のためであった。その体には、Sロットを管理して健康を維持してやるための機能が与えられている。

 Sロットへの深いアクセスを行なうためには、できるだけ接近しなくてはならない。追憶など深い繋がりを得るためには、接触することが望ましい。

「造られた人だとは思えませんね」

 柊の髪を撫でながら、リカは言う。

 柊を覗き込むリカの穏やか表情は、聖人の像のようだ。黒髪に黒い瞳という特徴を持つ楪世系のSロット。見慣れない柊にとって新鮮であった。

 こうして触れてくることも、柊を困惑させる。年下であれば甘やかしたり茶化したりできるのに、リカが相手だとどうすればいいのかよくわからない。

 抱擁を提案してきたのはリカで、柊は受け入れた。他に方法がないのは確かだし、別に不愉快なわけでもなかったが、どことなく落ち着かない。

 本来、接触するには両手に伸びたNデバイスを使えばいい。しかし、柊の両手は今、包帯で包まれている。異物が間に入れば、接続に支障をきたす可能性がある。他の作業はともかく、繊細な追憶作業には問題が生じるかもしれない。

 柊の頭を、背後から抱くリカ。頚椎と胸を接触させるには、そんな姿勢をとるしかなかった。

 この優しげな手が監視者役のQロットの一人を殺し、脱走を図った人物のものなのか、と、柊は考えた。

「私よりも手ごわい相手でしたか?」

 傷ついた柊の手に自分の手を重ね、リカは尋ねた。リカとの戦闘で、柊は大きな負傷はしなかった。

 リカは他のQロットでは手に負えなかっただろう。QロットがNデバイスに干渉するよりも早く、一瞬で生命を刈り取るほどの現実干渉を持つSロットが時折生まれる。そんな人物の前には、Qロットの権限は意味をなさない。そのため、Sロットへ対抗する、別の能力が求められる。

 柊はそれを持っている数少ないQロットの一人だった。高い身体能力、豊富な実戦経験に、大幅なNデバイス強化による拡張性。その他に、隠し玉も持っている。

 柊が担当するのは脱走したSロットばかりだ。むやみな戦闘適正のために、脱走者を専門に相手させられる。脱走者は、自分の運命を知ってしまったから脱走者になった者ばかり。そんなSロットはいつも、追っ手であるQロットを敵視する。

「きみのほうが厄介だったよ。凶暴で怖かった」

「ふふ、そうですか」

 その例に漏れないはずのリカがどうしてこんなに平然としていられるのか。彼女の意思は、どうも読み取れない。

 無人の戦闘ポッドより、一人のSロットの方が厄介なのは本当のことだ。特にリカ相手はきわどかったと言える。

「うまく接続できませんか?」

「うん……多分もう少し左」

 首の位置をずらすと、リカは柔らかく柊の背中を受け止める。

 リカは他のSロットとは違っている。上位権限もなしに、たった一人で一つの区画を纏め上げる指導者。Qロットをさしおいてそんな影響力を持つに至ったのは、その人格によるものに違いない。

 柊はリカの温度の中に、そんな想像をめぐらせた。

 そして、二度目のリカの記憶へと没入していく。



 季節は秋。リカは十八歳になろうとしていた。

 当主の体は、思わしくなかった。本人は自宅でのゆるやかな死を望んだが、血統を維持しようとする勢力の介入によって、自宅から病院に移されていた。

「お母さま」

 リカは、当主のことをそう呼ぶようになっていた。ついに自分の方が大きくなってしまった手を重ねると、まだ確かに血潮が感じられるようだった。

「……」

 けれど、ただそれだけだった。返事が返ってくることはなかった。意識が戻ることは稀である。リカの足は徐々に病院から遠ざかりつつあった。痛ましい姿が胸を痛めるのだ。

 楪世家の中では、リカはあってないような存在だった。養子とはいえ、いずれは研究所に戻ることを前提にした身だ。

 社会に出たSロットの中には、研究の分野で名を馳せたり、戦場で活躍したりと、そこでの価値が重要になって戻ってこない場合もある。しかし、そのようなSロットにしても、いつ研究所に呼び戻されるかはわからない。

 だから、リカが楪世家の当主になることはない。子供のいない楪世の財産は、政府に没収される。

 楪世家を長く支えてきた本宅。すでに現在の建築基準法では違法となるこの建物は、所有が移る場合は再申請が必要になる。政府はわざわざ残しはしないだろう。楪世家が持つ他の財産はともかく、この自宅には価値はなかった。

 リカは短い面会を終わらせ、病院を出て本宅へと帰った。

 本宅にはまだリカの私室はあったが、プライバシーは皆無だった。

 以前は当主とリカ、それにメイド長の三人だけで、幸せに暮らしていた。しかし当主が倒れると、長年付き添ったメイド長は解雇され、屋敷は遠縁の親族が雇った使用人でいっぱいになった。もし政府に没収される場合いくつかのものは事前に運び出すつもりらしく、そのために財産の調査を開始しているらしい。

 リカは、そんな使用人も興味を示さない、屋敷の離れの小屋で過ごすことが多かった。養子とはいえ楪世家の娘であるリカの行動について、使用人が口を挟むことはなかった。

 そこはリカを養子にしてから当主が作った子供用のログハウスで、秘密基地だった。幼い頃はそこで本を読んだり、時には当主と共に星を見ながら夜を過ごした思い出がある。

 丸太で作られた温かみのある部屋。大人になったリカには手狭だが、本宅よりもよほど落ち着ける場所である。

 リカは木製の窓枠をなぞった。そこには、成長するリカの背丈を測る刻みが残されている。その窓から見える湖を眺め、夜空を眺めたことを思い出す。

 離れたくない。

 リカの心には、それしかなかった。

 当主の命が尽きれば、ここも失われる。リカも一度研究所に呼び戻されるだろう。もう二度とここを訪れることはないかもしれない。

 寝台にはマットレスは置かれていない。ここの寝台はもうリカには小さすぎた。堅いが温もりのある板張りの上で、昔はよく眠った。半身を横たえて天井を眺めると、そこは間違いなく幼いリカが過ごした小屋のままだった。

 ここも、リカの家ではなくなってしまうのだ。

 肩の震えを抱きながら、眠りに落ちていった。その夜、彼女の中に張り巡らされた人工神経ネットワークは、根をめぐらす樹木のように、彼女の胸に急速に広がっていた。



■三日目



「昨日みたいに、タブレットがそのまま出てくると思っていました」

 リカは、目の前に出された朝食に驚嘆していた。簡単なサンドイッチだが、パンはトーストし、間にはきちんと調理した卵とベーコンがはさまっている。

 昨日は立て込んでいた上に負傷していたのでタブレットで済ませてしまったが、食事は柊の唯一の趣味である。アイの勧めで始めた。

 卵もベーコンもプラントで生産される豆類の粉末から生成された再現食品である。最近のそれは、味や栄養素で真に迫っている。特に月で作られる原料粉末は汚染がなく、高級である。そうした食材を生成する小型の装置が各家庭にあるのが地下都市では一般的だ。

 タブレットとはその豆類の粉末をそのまま固めて焼いただけの自動食の呼び名だ。わずらわしい料理文化を敬遠し離れていく人を揶揄する言葉でもある。ショートブレッドに近い味で、不味くはなく、栄養素は考えられている。初期の宇宙環境での食事は全てこういうものだったという。

 卵や肉、野菜などといった多彩な動植物を食料にしていた時代を知るものにとっては、再現食材の進歩はありがたいのだそうだ。過去の来客にもこうして料理を振舞うことがあったのだろうか。完全な記憶管理を行なっている柊にはわからないことだった。

 目の前でサンドイッチを食べるリカの顔を見ると、彼女は微笑を返した。

「何か、ついていますか?」

 リカの表情に、影は感じられない。

「みとれてた」

「そうですか」

 リカは柊が自分のどの記憶を体験したのかは知らない。柊と一つになっている間、彼女の意識は夢も見ないほどの昏睡状態にある。その後も、柊がどんな体験をしたのかを察知する方法はない。

 それを聞こうともせず、リカは今日という日常を過ごしている。やはり、彼女は不思議だ。

 出かける直前、リカは柊の袖を引いた。

「あの、お願いがあるんです。よろしいですか?」

 リカのお願いとは、部屋の拡張現実を変えさせてほしい、ということだった。

 今日、柊はアイのオフィスに出頭するつもりだった。報告書を添付した視覚データはすでに提出済みで、その後政府が分析した検証結果も全てネットワークから閲覧が可能になっている。見たところ、話す余地がありそうだった。

 柊が留守にすれば、リカはまた部屋に一人きりになる。

 一日中何もすることがなく部屋にいると、気が滅入るらしい。情報端末は遮断されているし、柊の部屋には娯楽になるようなものは一つもなかった。

「思い当たらなかったんですか? 私が退屈するって」

「……そういうことに疎くて」

「もう」

 クローゼットを開けたり閉めたり、そのくらいしかすることがなかったんですよ、と、リカは頬を膨らませた。柊は申し訳ない気持ちになる。

 柊は、鏡の前にリカを立たせた。

「ユーザー登録、ゲスト。楪世リカ」

 Nデバイスから登録情報を送ると、鏡の裏側に配置された生体認証装置が作動し、網膜、静脈を走査し記憶する。対象にNデバイスがある場合は通信を行い相互リンクを形成する。そして、登録したユーザーは、柊の部屋の機能にアクセスできるようになる。

 リカのNデバイスは停止しているので、認証装置はリカを「神経停止者」として認識する。柊の部屋のシステムは捜査施設と同じ特殊なシステムになっているので、軟禁対象としてリカを登録することができる。部屋を出ることは不可能で、ほとんどの機能は使用できない。特に外部に対しては、ほとんどのメッセージが送信できない。極端に言えば、火災が起こってもリカはここを脱出できず、犠牲になる。

 そのかわりではないが、この登録によって、彼女は電子書籍や映画、ビデオゲームなどのダウンロード権限を得る。部屋の照明や拡張現実イメージを操作する権限も追加すると、彼女は自在にインテリアを操れるようになる。

 Nデバイスの無線通信によって操作を行なう柊は何の入力機器も置いていないが、この鏡だけはタッチパネルとして最初から搭載されている。楽しそうに鏡に向かうリカを置いて、柊は家を出た。



 柊は仕事で直接会話を行なう習慣があまりない。言葉で説明するよりも、自分の意見をパッケージ化して相手の記憶領域に置いたほうが簡単だ。そうすれば、その人物ははじめからそのことを知っていたかのように理解することが可能だ。

 外見や雰囲気といった情報の更新がどうしても必要な者は、人として向き合う相手だけだろう。深い仲の友人や家族のような。柊にとっては、アイしかいなかった。

「昨日はご苦労様。本当に」

 保護者であり上司のアイは、柊が無事で帰ってこられたことに安心している様子だ。

 荒事に慣れているとはいえ、柊一人で戦車のかわりをさせたのだ。実際、今回は痛々しい怪我も負っている。しかし、仕事は成功だった。

 路面のIDタグは三十センチという短い間隔で埋め込まれている。地下都市の階層構造からざっと想定される道路面積と照らし合わせると、一区画だけでも数兆個を超える膨大な数だ。ポッドにはCUBE端末が搭載されているが、二十機という数で分担したとしても、それだけのデータ量を抱えれば処理を圧迫する。あらかじめリストを持つのは無理であり、ネットワークのリストを改竄すれば瓦解することは予想できた。

 外部記憶に頼りすぎるのは、オート戦闘モードでの位置特定には適していない。あの戦術は、敵も今回限りのつもりだったのだろう。外付だったRFIDリーダがその裏づけだ。

 残骸の解析も進んでいる。電子機器はほとんど失われていたが、おおまかなボディの仕様は検証されていた。

「設計には拡張性があったわ。制御方法については模索中なのでしょう」

 飛躍的な進歩を遂げるポッドの性能。今後、政府軍と衝突すれば流血の自体になるかもしれない。アイの心労はまだまだ続きそうだった。



「おもちゃを見つけました」

 自室に帰ると、楪世リカは楽しそうにしていた。

 クローゼットの奥から見つけてきた眼鏡を出してかけていたのだ。柊にとって衣服以外の数少ない私物である。度は入っていない。簡単な入力デバイスでもあるので、読書にでも役立てていたのだろう。

 いくつもある色から、リカが選んだのは鮮やかな青だった。彼女の黒髪によく似合っていた。青が好きらしい。青は湖の色だからだそうだ。

 勝手にクローゼット漁らないで、と言いたい所だったが、そんなことよりも柊を驚かせて言葉を失わせるものがあった。

「見覚えありましたか?」

 出かける前、彼女にはこの部屋の拡張現実イメージを自由に設定できる権限を与えてきた。彼女が選んだイメージが、柊の目の前にも広がっていた。

 開け放たれた窓から、心地よい風が入ってくる。神経系に介入することで実際の風が皮膚に当たる感触だけを再現したものだ。窓から見えるのは鮮やかな夏の草原と、遠くに見えている冠雪した山々。生きた木々の放つ濃い緑の香りを運んでくる森と、光を反射する眩しい湖。

 窓枠、柊よりもずっと小さかった頃の楪世リカの背比べの傷跡を指先で撫でると、木材の柔らかく暖かい感触が感じられる。削り跡の凹凸が生々しく柊の指先を刺激する。

 小さかったベッドは、この部屋にある寝台にあわせて大きくなっている。ARイメージは部屋の形状にあわせて最適に調整されるからだ。あくまでも現実に対して張り付けるイメージなので、広さや間取りを完全に再現するわけではない。

 それでも、紛れも無く、あの思い出で作られた部屋だった。

「このイメージをどうやって?」

 楪世リカのNデバイスは停止している。そこから情報を抜き出すことは不可能のはずだ。

 停止したNデバイスでも部屋ARのような強制視界は割り込まれるが、その編集は手動でなくてはいけない。Nデバイスを経由して記憶をロードするのは今のリカには不可能だ。それなのに、この部屋は手書きのレベルを超えている。

「これは昔、私が最初のAR技術開発に関わった時に作成したモデルです」

 Nデバイスから引き出したものではない。大昔に、プライベートAR技術の実験のためにリカが作成したモデルだった。ネットワーク上で無償提供されており、誰でもダウンロードして体験することができる。

 楪世リカがあの後通った大学は、AR技術の研究も行なっていた。彼女は専門家なのだ。

「昔ほどの人気はありません。ですが、時々利用してくれる人はいるみたいです」

 はにかみながらリカは言った。

 柊は部屋のイメージ変更を試したことはあったが、特に心を引かれるイメージに出会ったことはない。柊にはARを選ぶための基準となる、現実の経験がなかったからだ。

 今は、違う。柊はその風景に、安堵や興奮を覚えていた。

 察したリカが、柊の前に立った。窓を背にした柊の影の中にいるリカは、柊と大差ない身長に成長している。窓枠の傷跡よりもずっと、高くなった。

「不思議」

「ふふ、そうでしょうね」

 このARの価値がわかるようになったのは、リカの記憶のせいだ。多くの人には、これの本当の価値はわからないだろう。どれほど高度で綿密に再現されていたとしても。

 リカの価値観や記憶といった解読手段を経験することで同化しはじめたからこそ、柊には価値がわかる。柊は、気に入るものを見つけられたのだ。

 リカ自身や彼女の経験は、柊の好みのタイプだと言えた。彼女が不思議な魅力を持っていることを除いても、彼女の人生には感情移入しやすい。アイの言う事も案外本当なのかもしれない。

「はじめましょうか」

 彼女は自分自身のベッドに座り、ブラウスのボタンを外した。

 柊の両手は完治している。もう、前のように彼女に抱かれながらする必要はない。ほんの少しだけ、あの感触が恋しく感じられた。

 触れるつま先。リカは柊の腕を引き、ベッドに引き込む。柊は抗わず、向かい合うようにベッドに座った。

 瞳を閉じ、指先の先にいる彼女自身の中へと意識を滑り込ませた。



 冬を迎え、湖畔の屋敷の周囲を彩っていた木々は雪化粧で飾られていた。

 大学に通うようになり、リカが屋敷に帰ることは少なくなっていた。あれから二度の誕生日を迎え、リカは二十歳になっていた。

 冬休みの短い期間のみ、リカは屋敷に帰る。その間も、当主は目を覚ますことはなかった。

 政府から特別に認められた者には、文化の価値を保存するという役目がある。政府集合体が他の国家の併呑を始めた時に、このような制度が生まれた。二十年程前のことらしい。その頃に政府に恩を売った当主は、その権利を得た。

 それを受け継ぐのならば、人間らしい文化の記憶者として人生を費やして民族感覚や文化の知識を学ぶことになる。Nデバイスを使った文化保存実験に利用される例もあった。リカも文化や知識について話を聞くことがあった。家の中だけではない。庭の木の下、花壇の脇など、様々な場所で語り聞かせられた。それはおとぎばなしのようで、義務のように窮屈なものではなかった。

 寒空の下で湖に足を運んだのは、そんな思い出の一つのためだ。

 冬でも湖に氷はなく、夏と同じように波がゆらいでいた。それを眺めながら、この場所で当主がリカに話して聞かせてくれたことを思い出していた。

「湖は好きかしら?」

 車椅子の彼女は、揺れる水面を眺めながらリカに尋ねた。まだ今ほどは体調が悪くなかった当主と一緒に、屋敷の周囲を彩る自然の中を歩いていた時のことだ。

「はい、お母さま」

 リカは、この場所が好きだった。環境破壊を逃れて残されたこの広大な自然や、当主と過ごした屋敷を愛していた。

「じゃあ、もし無くなってしまうとしたら? どうしても避けられないの」

 まだ中等部の二年生である幼いリカは、考えた。

 写真を残したり、絵を描いたりすればいい。思い出は日記にして残しておけばいい。

 それでもだめなら、この風景を完璧に記録すればいい。そう、リカは思った。彼女はすでに学校の授業で、視覚情報をNデバイスを経由して受信し、編集を加え、再び視界に戻すという実験をやってのけていた。その成果が認められ、彼女は大学へも誘われていた。

「これを、あなたにあげるわ」

 リカに差し出されたのは、古い童話の本だった。

 Nデバイスを経由するのではなく、直接文字を視認して情報を得る媒体。リカも見たことがあった。金属のケースに入れられている。

 手にとってみても、これといった感慨はなかった。

「まだ十歳くらいの頃、この湖畔で、母から貰ったものなの」

 忘れられない思い出、と当主は語った。これは、当主にとってそういう価値のある本だった。

 その母は少しして亡くなったという。喪失感にかられた当主は、この湖畔での出来事を思い出した。今でもこの湖畔に来ては、本の表紙を撫でてみる。そうすれば、その日のことが確かに思い出せるという。

 情報は、単体では価値を生み出さない。何らかの解釈が必要だ。

 この湖畔で触れる本の感触。そこにある価値は、当主の人生そのものがなくては解読できない類のものだ。リカにも全くわからない。満足そうに手を当てるしぐさで、そこに何か価値があるのを知るのみだ。

 でも、それすらも保存できるようになれば。

 Nデバイスはあらゆる知覚をコントロールできる可能性を秘めている。つまり、情報の上では万能だということだ。リカはそう考えた。あらゆる知覚を含んだパッケージにしてしまえばいい。そうすれば、永久に価値を保存できるはずだ。そうリカは考えた。

 しかし、そこにはもっと別の問題が生まれる。

 解読に必要なあらゆる手段を含めて価値をパッケージにすることは、いずれ可能になるだろう。しかし、失われるのに惜しい価値がそこにあることをどうやって知ればいいのか?

 一人の人間が受け入れられる情報量には限りがある。受け取る側の人間が情報の量に適応できていない。今、情報だけがますます複雑化している。再生の機会がない情報などいくらでもある。誰も解読できなくなり、いずれ放棄してしまうかもしれない。

 真の意味で情報を保存するためには、凍結した堅く冷たいものではいけない。炎として燃やし続けることが必要だ。当主はリカにそう教えた。

 その日、リカは本を受け継いだ。そこには新たな価値が生まれるが、それを真の意味で理解できるのはリカだけだろう。そうやって価値を上書きしていくことで情報の損失を乗り越えるのも、一つの方法かもしれない。

 それは救いだろうか。それとも、ただの慰めだろうか。

 湖畔はあの日のように、おだやかに波をたたえている。リカは、掌にある本の表紙を撫で、ページをめくり始める。



■四日目



 財団総帥のオフィスから政府集合体の情報室へは、直通の地下通路がある。

 地下都市の更に地下。いくつものフロアが積層されてできた上層は壮大で派手な世界だが、歓楽街のようなものだ。その下こそが、この都市の血脈とでも呼ぶべき場所である。工場や倉庫のある最下部の階層。技術競争が行なわれる、真に活動的な部分であった。

 宇宙軍からの攻撃も想定して作られた政府本部もそこにある。いくら都市部で企業の自警団が好き勝手をしても、固い防備で守られたここを陥落して独立することは不可能だ。

 戦闘ポッドの残骸といった重要資料は最も安全なこの本部に運びこまれる。その一角は、情報室と呼ばれている。

 柊が情報室に足を踏み入れると、見知った技術担当職員が軽く会釈をし近づいてくる。

「お疲れ様です」

 彼女はここの責任者というわけではなく、むしろ末端の職員だ。純朴そうな性格だから、研究所出身で得体の知れない柊の相手役をさせられているのかもしれない。

「今回もお手柄でしたね」

 少し嬉しそうに、彼女は言った。なぜそんなに嬉しそうなのか、柊にはわからなかった。なので、適当に相槌をうつ。子犬のような彼女はいかにも年下属性で、リカに比べると扱いやすかった。

 しかし、あのくらいの数をどうにかしても安心はできないだろう。軽自動車程度の値段で生産可能な戦闘ポッドのコストは、戦車と比べれば千分の一か、それ以下だ。市販の製品を部品として組み込み、ボディはいくらでも生産できる高分子素材と塗料を組み合わせた簡素なもの。成型機と設計データがあればどこでも作れるし、その手の成型機は月開発の建材製作用に作られたものがいくらでもある。

 今後のためにも、対策は必要だ。

 情報室の一角の検分スペース。そこではバラバラになったポッドの部品を集めて並べ、分析を行なっている。今日、ここを訪れたのはその様子を見るためだ。

「どうも、理解不能な点があるんです」

 現場につくと、彼女は説明を始める。

 動力にどうも不可解な部分があるらしいことは柊も事前に聞いていた。わずかに浮上しながら、時速百キロを超える速度で移動可能なこのポッド。推進用には航空機のような水素燃料のジェットエンジンを装備している。自爆によって電子機器や記憶媒体などは消滅しているが、高温にも耐えるジェットエンジンの部品は燃え尽きずに残っていた。

 しかし浮遊装置の残骸や痕跡が全く見当たらないのだ。推進用の他に浮遊用のエンジンが必要だったはずだ。翼があるわけでもない機体が、エンジンもなしでどうやって浮かんでいたのか?

 何か全く新しい技術で作られたに違いない、と技術職員は語った。

「高い技術で作られています。R社しか考えられないと思います……」

 技術職員が口にした社名。R社、ローズテック社は、零細企業からスタートして月開発で成長した会社である。作業用の宇宙ポッド、それに付随する工具類の先端技術を持つ会社として知られる。規模でいえば中堅程度だが、月面企業の中では最古参であり、技術力で月開発の根を支え続けてきた。

 そんな会社がバックにつき新型の戦闘ポッドを配置していたということは、行なっていた業務がよほど重要だったのだろうか。

 あのダミー会社、HJ社が行なっていた業務内容や購入したものについて、軍警察からの調査が上がってきていた。

 業務内容は医療施設の機材設置ということになっていたが、実際は違法なNデバイスの施術を請け負う会社だったようだ。羽振りはよかったようで、最近は高額な医療槽を購入している。それに限れば違法なものではなく、医療機関で採用している最新型である。

 医療槽は密閉された浴槽のなかに横たわって、Nデバイスのメンテナンスを行なう機材である。Nデバイス構造を大規模に変更し、ソフトウェアを一度に全て入れ替えることもできる医療機関専用機材である。

 Nデバイスは高分子化合物で出来たナノマシンの一種だ。増殖機能があり、材料となる高分子をカプセル剤で経口摂取すれば自動的に体内でネットワークを成長させていく。神経に寄り添うように成長し、記憶能力を補強し、ARのような知覚強化も行なう。微細な素子一つ一つがデータの処理や記憶を行なうことができ、集合することで光回路や電気回路を形成する。大きな処理を行なう他、無線電波を発する構造となって通信も行なえる。

 しかし、その調整は繊細であり、迂闊に成長を促すと脳の組織を破壊することになる。この医療槽があれば安全に施術が可能だ。安全装置があるので、違法なプログラムモジュールをインストールすることもできない。

 しかし、違法業者はそのようなリスクに配慮しない。もっと粗悪な品でも商売は成り立っただろう。似つかわしくない機材だ。一体何のためにこんなものが必要だったのだろうか。

 アイは、それについて一つの可能性を語った。

「Sロットの干渉性を研究するため、というのはどう?」

 新型のポッドの不可解な動力。あれを可能にしそうなのは、現実干渉性である。例えば、楪世リカのような重力干渉があればいい。

 柊の部屋でのリカはおとなしいものだった。

 HJ社の医療槽の納入の少し後に、リカは研究所を脱走した。自分の担当区画でQロットを殺害し、街中に逃走。その後、柊と交戦し捕らえられている。その交戦場所は、あの会社があった場所から遠くはない。

 しかし、一般企業が現実干渉性の吸出しなどできるはずがない。もしそれができるなら、柊のようなQロットはお払い箱である。干渉性の吸出しや利用には多くのプロセスを必要とする。

 Qロットを通じてのみ、干渉性はサクラメントに連ねることができる。それだけではなく、再使用には「祈機(れいき)」と呼ばれる外部計算機を使って処理を補強した上でQロットが主体になることで、初めて使用できる。祈機は部屋一つ分ほどの巨大計算機で、それを小さなポッドに搭載することは現時点では不可能である。

 そもそも研究所の存在が秘密なので、このシステムを知る一般企業は存在しない。一般企業はNデバイスが現実干渉性の開発に使われていることはおろか、現実干渉性などという未知の現象があることを知りもしないのだ。その研究所ですら、なぜ現実干渉性などというものが発生するのか解明できていない。

 しかし例外というのは常にある。R社はかつて研究所と縁があった。祈機のプロトタイプを設計したのは、R社の技術者である。他にも、ごく一部ではあるが研究所から派生した企業がいくつかある。

 R社は特に反政府思想はないので、抗争にかかわってくることは少ない。しかし、あの会社なら祈機の小型化も可能かもしれないし、現実干渉性についても知っている。

「もし記憶で何かわかったら、すぐ報告して」

 アイは柊に言い含めた。

 自宅に戻った柊を出迎えたのは、当然ながらリカだった。

「なんですか?」

 不思議そうに柊を見るリカ。聞いてみようかとも思ったが、やめた。

 自分には関係のないことだ。記憶を吸い出していけばわかることだろうし、柊自身がリカに何かされたというわけではない。もし目の前の人物が血なまぐさい抗争に関わっていたとしても、柊には関係ない。

 リカは、いつものように微笑を浮かべていた。

 繊細で優しい心を持っているはずのリカ。その記憶の一端を柊も味わった。アイの疑いももっともなものだが、リカがこの件に関わっているという実感がない。

 近づくと髪からは甘やかな香りがする。QロットはSロットの管理者権限を持つ。柊が少しでもその気を起こせば、彼女を好きにできるだろう。

 記憶も自在にできる。吸出し以外でも、自白プロセスを植えつけ、人格に加工を加えることさえ可能だ。

「どうしました? お疲れですか?」

 言って、リカは柊の髪を撫でてきた。リカはこうして悠然としている。年下ということでひとくくりにしているのか、柊も妹のように扱ってくる。

 真剣に考えても仕方が無いことかもしれない。リカは柊の好みだ。少しの間でも共にいられるのは歓迎すべきことである。柊にはただそれだけで十分だった。



 記憶は、あの日からそう遠くない日から始まった。

 リカは許可を得て、あの部屋の精密な3Dスキャンを行なっていた。彼女は現在、視覚のイメージ編集の研究を大学で行なっている。これは、それに使う標本だ。

 限りなく現物に近いデータと、それを再生する装置。それを作ることで、そこにあったものを忘れないようにしたいと思ったのだ。それを読む者がいなくなっても、価値ある情報として残せることは救いだと思えた。古くは写真に残すという方法があった。その延長である。

 標本モデルをここにしたのは私情だ。もう自分のものではなくなる場所を、何らかの形で残したいのだ。

 その日も、窓から見える風景のデータを取るために湖畔にやってきていた。当主のことはいつも気がかりだったが、虫の知らせだとかいやな予感だとか、そういうものがあったわけではなかった。

 その日だったことは、本当に偶然だった。

「最後かもしれませんので……」

 使用人の一人が、湖畔にいるリカを呼びにきた。

 当主の意識が戻った。呼んでいるのはあなたの名前なのです、と、使用人は言った。

 彼女はほとんど話せなかった。弱弱しい力でリカの手を握る彼女を前にして、何の話ができるはずもなかった。

 当主はそのまま亡くなった。最後に言葉を交わしたのはリカだった。

 だからといって、財産の所有権はリカにはない。すぐ親族が押しかけて、リカはここを追われるだろう。そして最後には、政府に全てが没収される。

 それでも、当主の愛はリカのものだった。リカはそれだけでも救われていた。葬儀が済み、財産の移譲が完了すると、リカは大学の寮に戻った。

 その前に一度だけ、離れの小屋を訪れることにした。そこも、もう当主の持ち物ではなくないし、いずれリカとも無縁になる。

 多くの遺産から、1冊の本だけを持ち出すことにした。金属の小箱に入った、希少な本。

 それを胸に抱き、リカは涙を流した。当主とのいくつもの思い出が胸を締め付ける。誰も聞こえないその小屋の中で、リカは慟哭を響かせ続けた。



 昏睡するようにリカの記憶に埋没していた柊が、現実へと戻ってくる。

 柊の双眸からは涙が溢れていた。これは自分の記憶ではないが、鮮烈な印象をもって、彼女の記憶が体にしみこんでいた。

「ごめんなさい」

 何に対する謝罪なのか、リカは柊の肩をそっと抱く。

 自室の光景は、昨日リカが展開したARイメージのまま。柊の姿は、在りし日のリカの再現のようにも見えた。


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