アルカディア・上

Arcadia(A) 1



  Arcadia(A)


■プロローグ



 楔形の姿は巨大な剣にも似ている。四振りもが並ぶ威容は圧巻の一言であった。

 四隻のオウミ級宇宙戦艦が地球の衛星軌道上から離れ、月に向かっている。一番艦の「トランキリタティス(静寂)」から、二番艦「インブリウム(雨)」、三番艦「クリシウム(危機)」、四番艦「フリゴリス(氷)」が、円周に沿うように隊列を組んで航行している。遅れていた三番艦の竣工をもって、ようやく艦隊が完成することになった。

 全長一キロメートルにも及ぶこの艦は巨大な輸送スペースを持つ長期任務艦だ。戦闘能力のほか、長い航海を果たせるよう作られている。恒星系のどこにでも赴き戦力を輸送する。これからそれぞれに任務に就こうとしていた。

 これらは戦艦というより強襲揚星艦とでも呼ぶべきものだ。しかし戦艦の名を冠するにふさわしく、かつてない巨大武装システムを持つ。

 核融合炉で生み出される膨大な電力を用いることで、強力な電磁火器や重力防御装甲を余裕を持って運用できる。主砲である巨大電磁加速砲は、それだけで水上艦艇の巡洋艦ほどの大きさがある。マスドライバーにも匹敵するこの兵器は、大質量の砲弾にあらゆる装甲防御を貫く威力と長大な射程を与えることができる。

 輸送宇宙船の改装戦闘艦しか持たなかった政府が初めて作り出した戦闘用の宇宙艦、つまりは人類史上初めての宇宙戦闘艦だ。燦然と歴史にその名を刻んだオウミ級は、新生した政府軍の中核を担う比類なき実行力となる。

 宇宙空間では距離感が薄れるため、オウミ級の巨大さは遠くからでは実感できない。乗り込むために接近していく過程で、誰もがその巨大さに息を飲む。これが健在である限り政府軍は決して揺るがないと思える。 

 影響力と信頼を獲得しつつある政府軍に対抗するため、企業連合は協力して宇宙駆逐艦計画を進めている。その完成形である「カロン級」の試作艦が先日進水した。

 カロン級は二〇〇メートルほどの中型艦である。オウミ級より一隻多い五隻を同時に就航させ、民間輸送船の警護にあたるという。用途を限定した設計で、無駄なものが削ぎ落とされた純粋な戦闘艦だった。オウミ級のような輸送能力を自らが持つことはない。従来型の輸送船を護衛する任務を想定している。防御と火力を重視したオウミ級とは対照的に、先制攻撃のための速射型大出力レーザーブラスター砲と、回避性能を上げるための高い機動性を与えられている。政府軍と事を構えることを意識した設計と感じられる。この型の宇宙駆逐艦は次々に増産される予定だ。

 企業連合は月面という危険な現場の開発に臨むにあたって、月面居住区での自治権と自衛のための武装の権利を開発法で保障されてきた。今はとっくに月面開発は終わっている。開発法に期限は設定されていないが、カロン級のような兵器は自警団の範囲を逸脱しているので違法だとする意見もある。お互いが持つ武器は対立の火種だ。

 三番艦「クリシウム」には、いよいよ開発中の外惑星である黒耀星への輸送任務が与えられる。これから、長い航海へと旅立つ。地球圏を離れて、政府軍の軍事力が拡散を始めるのだ。

 緊張はゆるやかに増してきた。宇宙の静寂を震わせている。その中で、出航を記念しての式典がいよいよ行われる。



 その同時刻。

 巨大な円環トンネル状の地下月面都市を時計盤に例えて五時過ぎの場所の第五区画にある粗末なオフィスでのことだった。

 最も低級の零細企業がひしめく四~六時区画。治安が良くないとはいえ、政治的な事件とは縁がないような場所だった。ここは政治も主義も関係ない。きらびやかな月面都市の中にあって、目の前の利益や小さな目的のために泥をすするような活動をする有象無象が跋扈する区画である。

「下手な演説だな」

 オフィスの奥の椅子に座る人物の目の前に映し出されたAR(拡張現実)画面の映像の中で、ある大企業の会長が何かを話している。壮大な言葉遣いをしているが何の内容もないスピーチだ。よくある演説ソフトウェアを使って意味のないことを喋っている。ソフトの種類とバージョンまで簡単に解析できそうだ。

「企業連合も落ちたもんだ」

 見ている人物は、もっと面白いことを言ってみろとでも言わんばかりの顔をしている。そうしながら、手に持った紙きれをもてあそんでいる。一応配信が終わるまでは見届けてから、椅子の人物はようやく振り向いた。

 紙切れは、明日出航式典が行なわれる宇宙戦艦「クリシウム」への乗艦チケットだった。犯罪性はない。抽選に当たって手に入れたものだ。

 政府が威信をかけて送り出した初の宇宙戦艦への一般乗艦チケット。二日間もの日程が組まれた式典。新型戦闘艦内での宿泊まで含めたツアー、その招待状だ。取引に出せば、高値がつくに違いない品物である。

「あのな」

 従業員たったの三人の新聞社「グリント」の社長で編集長のクリスが、手に持ったチケットを振りながら、目の前に立つ若者を見た。四十代ほどの若い編集長に向かい合い背筋を伸ばしている記者は、ひらひらと踊るチケットに手を伸ばすが、睨む視線にすごすごと指を引っ込める。

「新聞社には、信頼度ってのがあるのは知ってるな?」

「はい。もちろんですとも!」

 駆け出しの記者の榧(かや)は、よく手入れされた横結びの濃灰色の髪を揺らしながら、鳥のさえずりのようなにぎやかな声で答えた。小柄で落ち着きのない彼女は、その愛らしい顔のせいもあって、どことなく愛玩用の鳥を思わせる。

「あの、クリス……それ」

「馴れ馴れしい」

「へ、編集長」

 小鳥は首をかしげながら編集長の手に視線を向け、じっと目線をチケットに送っている。

 地球から宇宙に出るためには神経増強措置を受ける必要がある。微細なナノマシン群で形成される計算装置を頚椎付近に埋め込むN(ニューロ)デバイスの施術は義務だ。肉体と切り離す事ができない情報端末は、その人物を確実に個人特定する。そのため、月面都市の住民はどんな低層であっても身分を保証されている。

 身分照会が簡単ということは、クリスがとったチケットを榧に譲ることも気軽にできる。榧は、そのチケットが欲しいのだ。

「これをお前にやらなくもない。あたしは政府にマークされてるし、監視されながら酒を飲んでもうまくないからな」

「本当ですか!」

「先月の記事でガタ落ちしたうちの信頼度を回復させるって、約束できるならな」

 新聞社には、数値化されたステータスがある。速報性、信頼性、専門性など、それぞれの社の取材能力が目安として提示されている。購読者はそれを基準に会社を選んで情報収集している。他の項目はともかく、信頼性は一番収益に直結するパラメーターだ。

「お前個人の評価もある」

「はい……」

「取材能力はA。方向性がおかしい。幼稚」

「褒めてもらってますね?」

「アホか!」

 グリントは標準的な速報タイプの新聞社だ。正確さは度外視し速度を重視する。一次情報系とも呼ばれる。他の記事の参照元にしてもらうことで、購読数を伸ばしていく。

 榧は優秀だ。頭の回転は速いし、他人が気付かないような情報も目ざとく拾う。人当たりもいいので難しい取材相手にも好印象だ。先日の集団自殺に関する考察と難民住居問題をからめた記事も数多くの二次情報の切欠となり、大きく購読数を伸ばしていた。

 速報記事に間違いがあるのはよくあることで、信頼性はそこそこでいいとクリスは考えている。しかし一応エース記者である榧が担当するのは少し掘り下げた一・五~二次情報を提供する記事だ。簡単な分析をすばやく提示するという仕事である。あまり珍妙な新聞だと思われると今後に響く。

 グリントの他の記者は速報性に特化しすぎていて、時間をかけて情報を読み解く想像力や専門家の意見を引き出す能力には欠けている。だからこそ榧の存在は手放せない。

 しかし榧の一番の欠点は――それが記者としては致命的な欠点なのだが――思い込みが激しく明後日の方向に行くことが稀にあるということだ。

「ヘンな記事を書くんじゃない」

「で、でもあれは本当のことですよ」

「政府が全住民の視覚を改竄してるっていうのがか?」

 宇宙に出るために、人は必ず神経増強をする。それには、非常時の避難情報などを表示するためのAR(拡張現実)を受け入れる視覚編集機能を実装することが必須となっている。

 榧が書いたのは、政府がそのARを使って全住民の視覚に偽の視覚を植え付け何か重大な秘密を隠しているという告発記事だった。

 彼女の記事を読んでいけば、なるほどそういうこともあるかもしれないと思わせる裏づけはいくつもある。Nデバイスを持たない犯罪者を移送する際に目隠しをしたという告発、地球でおかしなものを見たという記録にもどきりとさせられる。

 事実、宇宙を網羅するCUBEネットワークのカーネル部はブラックボックス化されているため、誰も知らないような処理が入っている。その一つが緊急ARであり、視覚情報だ。技術的に可能かという点の掘り下げもある。それを政府が悪用しているくらいのことはあるかもしれない。記者として目を養ってきたクリスでも、陰謀の可能性を感じさせる。この記事は売れたが、かわりに信頼性の評価が数ポイント低下した。

 その理由は、最後の部分が問題になったからだ。

「政府は地球滅亡を隠している、って何だ?」

 いきなり太古の時代のオカルト雑誌のような内容になって、この記事は終わっていた。いくら取材がよくても結論がこれでは、荒唐無稽と思われる。

「隠し切れないほど大きくて、宇宙に出れば誰でも見えるものといえばそれしかないです。ほら論理的!」

「どこがだよ。大体、地球滅亡が時間の問題なのは誰でも知ってる」

 地球の環境汚染は、今更隠すほどのことではない。大量殺戮兵器などが原因で化学汚染が進み、この十年で人口は激減した。酸素濃度も低下してきている。原因不明の水位低下と気圧の減少も解明できていない。このままではいずれ、どんな生物も住むことのできない死の星になるだろう。

 だから黒耀星の開発が急務なのだ。その主導権を争っているのが、企業連合と政府だ。ニュースの九割はこの対立を取り上げたものである。

「この、アイ・イスラフェルだっけ。こいつを諸悪の根源か悪魔みたいに書いてるけど、そこまで重要人物なのか?」

「彼女は怪しいんですよ」

 問題の記事では、惑星開発財団の総帥であるアイ女史にターゲットを定め分析している。かつては企業連合と政府の間に立って開発を支えたらしい。経営者なら知らない人はいないとまで言われる。

 一年前から続く政府の大改革の中で時折その名前が挙がることがあったが、隠蔽どころか腐敗撲滅のために活動していた。財団の最大の目的である資産の運用にもおかしな所はない。昔は何かの研究をしていたことがあるらしいが、今は政治家である。

「ふーん……関係あるとは思えないけどね」

 クリスのつれない言葉に榧はしょげている。そろそろいじめるのも可哀想になってきた。

 グリントの記者の中でクリシウムの式典に送る価値があるとすれば間違いなく彼女だ。直前にやらかしたポカがなければ説教つきということはなかった。

「ほれ」

 クリスは、しょげる榧の前にチケットを放った。

「いいんですか!?」

「まともな記事書けよ。それと、ほかの取材も忘れるな」

 式典にはそのアイ・イスラフェルも参加する。話を聞く機会もあるだろう。政府軍の関係者や黒耀星開発を行う政府系企業の重役など、取材対象は山ほど集まる。そこに記者を送り込めるなら、願ってもないことである。

 正式な取材チケットではなく一般参加だが、だからこそこぼれ話を聞ける機会もあるに違いない。

「やった! 愛してる!」

 小躍りする榧。どうせ言う事を聞かないだろうが、彼女なら何か拾ってきてくれるかもしれない。

「その、アイとかいう役人に近づく時は注意しろよ」

「え?」

 さっそく出かけようとする榧を引きとめ、クリスは言う。

 スキャンダルとは無縁で、大きな陰謀に絡んでいるとは思っていない。しかし、何か知られていない事実があるような気がする。アイという人物のにおいのなさが気になっていた。

 人々はアイ・イスラフェルは清廉な人物だと評価している。だから、政府の改革も評価している。だがクリスの目には、その白さが現実味なく映った。

「でも、まあ」

 先週の売り上げを見るクリス。あのインチキ記事の購読数は実はなかなかよかった。クリシウムでの取材によっては、彼女の稼ぎはさらに増えるだろう。

 人工知能による高度な真偽分析<ファクト・チェック>が普及して膨大な情報を一般人でも整理できるようになり真実に近づく事が誰にも容易になった今でさえ、こういう不確定の情報を人は求める。確実な情報は「面白くない」のだ。一個人は政府やら企業連合の大きな流れに対してどうせ何もできないのだから、事実だけを知ってもどうしようもない。

「やっぱナシだな」

 しかし、グリントをオカルト新聞にするつもりはない。事実がつまらないなら速度を金にする。速報性だ。商売はそうするとクリスは決めていた。

 クリスはオフィスから外を見、巨大な地下月面都市の天窓に映る地球を見上げた。灰色の星。かつては青かったという母なる星は、痛ましい病気にかかっている。

 そこにまだ、隠すほどの何かがあるのだろうか?

 駆け出しの頃に奔走した町並みを見もせずに、彼女は窓に映る自分の顔を見続けていた。その顔は、何も語らない。



■柊・一



 囚人ディアナにとって、脱獄は初めてではない。

 体に緊張は見られない。野生の獣のように音を立てず、人気のない通路を移動している。ディアナはSロットであり、強化兵士だ。生産と同時に失敗作の烙印を押され、最低限の教育しか受けず、政府の強化兵士計画送りとなった。戦う時以外は冷凍保存されるため、目覚めて活動している時間で考えればそれほど高齢ではない。肉体年齢はおおよそ三十後半、記録上の実年齢を裏切る見た目の若さを保っていた。

 よく鍛えられた健康な肢体と長く伸びた美しい金髪が、メンテナンス用の狭い通路をしなやかにすり抜けていく。目覚めている間のほとんどを戦闘に費やしてきた彼女にとって、このような状況は日常だ。

 この収容所はよく出来ている方だが、A1999小惑星のものほどではなかった。あそこは強制労働つきの最低の牢獄の一つで、脱走するまで何年も屈辱的な時間を過ごした。

 ここは月だ。正規の収容所ではなく、研究施設内の独房である。宇宙空間にある脱獄困難な施設とは違って、巨大な居住区画、都市といっていいほどの広大な与圧区画の下にある。街中に脱出できさえすればどうにでもなる自信があった。

 それに、研究所内は古巣だ。構造はよくわかっている。

 古い知識でも役に立った。戦場に送り出されその後脱走扱いを受けて政府と縁が切れた彼女は、長くこの研究所に戻る機会のないままだった。数年だけだが平和な日々をここで過ごした。教育課程のワークによって、施設の保全にも関わった。様変わりしている所はあるが、大勢の人が暮らす月面都市の真下にある秘密施設なので基礎構造に工事を入れる事はできない。

 白い廊下が続いている。この白さの中でディアナは生まれた。ここで数人の姉妹たちと生まれ育ったのだ。懐かしさを感じる。しかし、ここはもう自分の領域ではないことを痛感する。

 ここには何の匂いもない。地球兵役での激戦、その後に参加させられた反政府活動、そして収容所での生活、脱走、逃亡。血と死こそが、ディアナの日常の匂いだった。

 いくつものセンサーゲートをすり抜け、ついに外へ続く最後の扉の前へ。ここは物資を搬入するための無人の通路だ。

 警備システムの設計者が見ていたなら、ここまで一度もディアナがセンサーに感知されていないことに首をかしげたはずだ。なぜ、彼女は警備をすり抜けられるのだろうか?

 宇宙に出る人間は、神経増強端末素子であるNデバイスを神経内に植え付けることが義務付けられている。高分子素材を中心に作られた、不定形のリキッド端末だ。体に馴染み、生体電気で活動し続ける。それがある限り、居場所を隠す事はできないはずなのだ。

 NデバイスはAR(拡張現実)による視界補助機能を制御している。宇宙施設では視界補助が必須である。あらゆる建造物は共通のモジュールを組み立て構成しているので、どこも同じ外観となる。位置を特定するには、モジュールの通し番号をもとにマッピングを補助する必要がある。人体に融合し一体化したNデバイスは、常にこの機能を利用できるよう、決して停止することはない。ひと時でもNデバイスの補助が途切れると、緊急事態には命に関わるからだ。

 Nデバイスなしで宇宙で活動する事はできない。だから、決して停止してはいけない。Nデバイスを持たない人間はいてはならない。逆に言えば、Nデバイスの通信波を拾っていれば人の存在を必ず探知できる。それがセキュリティシステムにも応用され、人間の存在を決して逃がさない。

 しかし例外はある。古いタイプのSロットであるディアナは、初期型のソリッド型Nデバイスを体内に持っていて、この通信波を遮断することができるのだ。

 ソリッド型は昔ながらの電気回路を使った端末だ。現在主流の液状タイプと違って神経との間に物理的な境目が存在し、そこをスイッチすることで電源をカットできる。リキッド型では絶対にできないことである。Nデバイスを前提に作られたシステムにとって、彼女の存在は無に等しい。システム上で見れば彼女は透明人間だ。Sロットとして特別な能力を持たなかったディアナだが、強化手術で鍛えられた肉体と、この「NDステルス」機能によって、今日まで多くの敵を出し抜いてきた。

 搬出路にたどり着いた。警備システムは未だ彼女を認識できない。長年鍛えてきた記憶能力を併用すれば、自在に施設内を動き回ることができた。最後の通路に入る。重量物の運搬のために微重力制御された垂直通路は、軽い跳躍で登っていくことができる。

 向かう先の天井には窓があり、そこに地球が映し出されていた。真上は月面都市であり、この窓は光伝送路の集合による遠距離窓である。ここを抜ければ月面都市に脱出できる。

 地球に降り注ぐ太陽の光がこの月面まで届き、光回路を通じて像を投影し、数十万キロメートルを飛翔してディアナの目へと届いている。鈍い灰色に包まれた地球。母なる地球。環境破壊によって過酷な環境となっている地球。生まれは月でも、ディアナにとって地球こそが故郷だった。強化兵士となって政府軍に加わり、悲惨な戦争を戦った場所。家も、思い出も、全てあそこに置き去りにしたままだ。

(おかえり)

 声が聞こえた。

 いや、正確にはそれは声などではない。それは音声、言葉ではない。子守歌のような何かが心を締め付けている。ディアナの頭の中に、彼女を迎えようとする甘美な歌声が響く。

 目の前にいっぱいに広がる地球の光。それに違和感を抱く。あるはずのないものがそこにある。その違和感は急速に広がり、ディアナの背筋を寒くさせた。

 この地球は、美しすぎる。

 心では進む事を拒もうとする。しかし、その光に吸い寄せられるように、ディアナの体は前へと進んでいく。重力制御された通路のせいではない。

(おかえり)

 また、脳を溶かすように歌声が響く。胎内へ回帰していくかのように。鈍い地球の光がディアナを包み、誘う。ここは、なんだ。彼女が知っている研究所とは何かが違う。

 脳が痺れるように警鐘を鳴らしている。灰色の雲に包まれた地球はよく知られた姿だが、現実の地球はあんなものではないとディアナは知っている。

 Nデバイスをオフにできるディアナは地球の本当の姿を見た事がある。だから、あの姿が偽りだとわかる。現実の地球の北半球の大半は、既に存在しないはずだ。

「(いつから……?)」

 胸をはだけ、手を当ててみる。僅かに熱を持っている。停止したはずのNデバイスが作動し、発熱している。独房を出る時に確かに停止したはずなのに。

 起動感覚は間違いなく存在しない。停止していると思い込まされていた。認識を書き換えられている。

「(あのQロットか)」

 そんなことができる者が一つだけ考えられる。Qロットと呼ばれる管理用の被検体たちだ。彼女たちなら、全く気付かれることなくSロットを制御することができる。

 研究所との縁が薄かったディアナでも、その恐ろしさは十分すぎるほど体感している。秘密漏洩や悪用を避けるため、Sロットは強固な保護のかかったNデバイスを持っている。Qロットだけがそれを素通りできる。いわば天敵であった。

 ディアナは誘われる意識を振り切るように、周囲の気配を探る。直接でなければできないはずだ。相手は、どこにいる?

 ディアナの危機意識は、最大限にふりきれていた。しかし、同時に、この異常に身を委ねたい欲望が彼女の神経を支配しつつあった。

 おかえり。おかえりなさい。

 ついに、安楽に心を投げ出す。美しい金髪が乱れるのも気にせず身を躍動させ、窓に到達する。その横に、外へと続く古い気密扉がある。それにとりついて、ハンドルを力任せに回した。このひと時すらももどかしい。歌声が耳元でささやくたび、肢体が痺れる。

 地球に近づきたかった。

 気密室は減圧を行わなければ外扉が開かない。しかし、今回だけはディアナを邪魔するものはなかった。電子ロックが停止させられている。扉を開くと、ディアナは外へ放りだされた。

 圧力のない真空に投げ出されれば、体液は液体を保てずに蒸発してしまう。いくら強化兵士でも真空暴露には耐えられない。一瞬、Nデバイスの起動感覚が戻る。施設から飛び出たディアナは、Qロットによるコントロールの圏外に出たのだ。

 全身に激痛を感じながら、ディアナはさっきまで彼女を包んでいた心地よさを手放していた。

 目に映る地球が赤く染まる。そこには、北半球が喪失し欠けた、真実の姿が映し出されている。最後に見る光景としてはあまりにも優しくない現実だった。

(ごめんね)

 意識が途切れる寸前、また一瞬歌声が聞こえる。それは彼女を誘い続けていたあの心地よい嘘とは違う、憐憫に満ちた本当の声だと感じられた。



 綺(いろい)柊(ひいらぎ)は現在、投獄されているSロットを管理しているQロットだ。管理室の椅子から一度も立ち上がることなく、その仕事を終えた。

 通常、そんな離れた位置からSロットを操る事はできない。遠隔操作で一つでも通信端末を経由すれば、Sロットへの指令は届かなくなるよう、保護機能が搭載されている。

 しかし柊はそれをやってのけた。それには、この施設の仕掛けが関係している。

 施設の全体に張り巡らされたネットワークは、全て柊のNデバイスに物理接触している。椅子の手すりから繋がったそれらは、いわば柊の体の一部、一つのシステムと化しているのだ。

 ディアナはついに気付くことがなかったが、この施設自体が柊の体の中とみなされている。施設内にいるならば、全てのSロットが制御対象になる。それが、Sロットの投獄専用に作られたこの施設の正体であった。

 ディアナのような特殊なデバイスを持つ人物であっても、一度Nデバイスを起動してしまえば柊の管理下に入る。独房でデバイスをカットしようとした瞬間、処刑プログラムの条件が揃った。

 古く珍しい個体だという理由でディアナの処分に反対する者もいた。だからこんな方法で始末するしかなかった。脱走に失敗して真空暴露により死亡、そう記録されることになる。あっけない最後であった。

 生かしておくのは危険だった。何よりも危険なのは、地球の真の姿を知っていたということだ。柊はいつも直接手を下す末端にいた。椅子の背もたれに身を預け、死の直前のディアナの感覚を味わう。せめてそのくらいしか、死んでいく姉妹たちにはしてやれない。

 結局、彼女の行動に特別な所はなかった。彼女の系列、金髪に黄水晶の瞳が印象的なヘンシェル系には欠陥があるという話だったが、それもよくわからない。NDステルス能力を持っているだけのただの強化兵士に過ぎなかった。ディアナの感覚から抜け出し、柊は椅子から立ち上がる。

 柊は二十半ばの肉体年齢を迎えていた。様々な任務に対応するため、その体は人工的に強化されている。強化兵士であるディアナと同類だ。本来は事務方であるQロットとしてはずいぶん体を酷使してきた。寿命はあと数年か、長くても十年は超えないだろう。座ったままの仕事だけでも疲労を感じるようになった。背筋を伸ばし、管理室の天井に映し出される宇宙を見た。

 見上げる地球に影はない。視力が低下してきた今でも、その輪郭が正常であることを確認できた。月面都市の住民の視界は、全てこうして管理されている。柊もまた、その偽りを知る数少ない人物の一人であった。



 最近ほとんどの業務を管理室か自室で過ごす柊だが、今日は所属先である新政府の情報室に顔を出す日であった。

 上司のアイ・イスラフェルは式典で留守にしている。財団総帥という表向きの立場だけでなく、アイは情報室長も兼任している。何かと忙しい身だ。柊は室長代理の権限を与えられている。置いていった仕事のいくつかを手伝うつもりだった。

 一年前、オウミ級零番艦の暴走事件で重症を負った柊は、大規模な神経系の改装を受けることとなった。それまで管理されていた思考管理機能にも手が入れられ、記憶も整理された。損傷していた記憶が多く、元通りにはならなかった。

 この情報室に関する記憶もほとんどが失われたが、仕事は続けることになった。重症を負った経緯は職場には伏せられたが、かつての同僚には記憶や人格の一部が失われたことは説明されている。

「今日は、体の調子はどうですか?」

 ずっと前から知り合いだという技術主任の女性は、小さい背を伸ばすように顔色を伺う。復帰直後はずいぶんショックを受けていたようだが、最近は落ち着いた様子である。

 栗色の髪を揺らし微笑む彼女を柊はよく知らず、親しみを感じることもない。しかし、誰にせよ穏やかな表情を浮かべていてくれた方が安心する。

「元気だよ。最近夢見が悪いけど」

 柊は答える。衰えたといっても、日常生活に支障をきたすほど体の機能の低下はない。年老いたのと変わらないと思うことにしている。昔と比べてNデバイスの性能も規模も格段に増大しているので、それを使えば補う事ができる。

 柊の中には、複数の祈機に匹敵する計算処理能力がある。驚嘆すべき技術の進歩だ。数年前とは比較にならない。これは仕事に役立てなければならない。

 情報室の仕事は政府の戦略情報の収集と解析だ。主に企業連合が開発している新兵器の情報を集めて解析し、必要なら現場にフィードバックする。この一年だけでも柊が持つ情報解析能力は有効活用されてきた。

 今日職場にやってきたのは同僚の顔を見るためではない。仕事をするためだ。政府のデータベースと自分のNデバイスを直結する。現在進めている仕事の全てが、まるで自分の経験のように既知の記憶として感じられる。それが、神経増強装置たるNデバイスの便利な所であった。

 現在アイが率いる情報室が追っている大きな情報は、企業連合が建造した星間駆逐艦、カロン級のことだ。あれには、研究所の主流勢力と対立する「黒派」に関係すると思われている。昨夜柊が処理したディアナ・ヘンシェル被検体も、その黒派の拠点に出入りしているという記録があった。

 柊のNデバイスに着信があった。情報参照しているのに気付いたアイが、遠くから送信してきている。Nデバイスへの直接の音声送信であり、同僚には聞こえていない。

「式典はいいの?」

 彼女は今、宇宙戦艦クリシウムの黒耀星への出立記念式典に参加しているはずである。黒耀星開発のための資金を管理する財団の総帥である彼女は、欠席できない。

『それが、まだ始まってなくて。一日目は退屈しそう。それよりごめん……もう仕事をさせないって約束したのに』

 式典は二日にわたって行われる。日ごろに比べれば、アイのスケジュールには余裕があるらしい。

 黄昏時を迎えた柊に、最近アイは仕事を回さない。Qロットの主な仕事はSロットの管理や記憶の吸出しだが、ここ一年は全く経験していない。情報室の雑用ですら、アイは強制することはなかった。昨夜だけは、どうしても柊に頼らざるをえない緊急の件だったようだが。

『今日だって、休んでてよかったのに』

「家にいてもすることがないし、ここにくれば可愛い子も見られる」

『私なら、今日そこにいないはずだけど?』

 親しげに会話を交わせる相手は少ない。アイは柊にとって唯一の家族であった。

 残った時間は好きに使ってほしい。それがアイの願いらしかった。しかし、平穏な日々の割に不安になる夢ばかり見ているような気がする。それが、柊を仕事へと向かわせている。

 アイとの通信を終え、柊は情報の精査を試みる。

 企業連合の軍事的活動について情報収集をしていると、強化兵士というキーワードを避けて通れない。ある告発によって非人道的な強化兵士の存在が知られてから政府が避難を浴びて、企業連合の武装化が強まったためだ。

 強化兵士の実用は初期の頃の研究所の資金不足が発端となっている。当時、研究所は資金繰りに苦労し、自前で資金を調達するために傭兵ビジネスを思いついた。

 研究所は地上の治安維持を担っていた政府に強化兵士を提供した。失敗作だったSロットを研究所が持つ医療技術で改造し、まとまった数の強化兵士を作った。それがひそかに受け渡され運用された。

 長い戦いの末に月に一応の安定がもたらされ、月面都市に本格的に政府が治安部隊を配備しようという頃、この非人道的な強化兵士計画の一部が内部告発によって暴き出された。

 告発内容の映像には、あのディアナ・ヘンシェルがいた。政府の最大のスキャンダルを一般市民が追求した初めての事例で、歴史的な事件だった。当時政府と対立していた企業連合は活気付いた。研究所の存在だけは隠し通す事ができたが、政府は非難を避けられなかった。

 この内部告発を行なったのが誰なのかが問題だ。最近のカロン級建造にも関わっているかもしれないと情報室では見ている。ディアナの遺体は回収された。まだ処理されていない。真空暴露によって体は破壊されているが、彼女はソリッド型のNデバイスを使っていた。あれなら、まだ情報を引き出すことができるだろう。



 遺体袋の中のディアナの体は悲惨なものだった。改めて、柊は彼女に申し訳なく思う。つらい人生を送ってきて、最後の姿がこんなものだとは。

 記憶を受け継ぐことができれば慰め程度にはなるだろうか。彼女の胸だった場所に手を触れると、Nデバイスはまだ確かに存在している。死の間際に自己破壊しかけてはいるが、バックアップ専用領域が無事なら記憶の再生は可能である。ソリッド型は耐久性が高い。

 できればデバイスだけを持ち帰りたかったが、成長過程で骨と癒着したデバイスは分離することができなかった。外部電池を繋いで起動し、自分自身のNデバイスとは物理接触させ通信を確保する。今の柊の処理能力なら、数分の間に記憶の吸出しが完了するだろう。

 Qロットは、SロットのNデバイスを掌握するために調整された被検体だ。Sロットの胸部に埋め込まれる特殊Nデバイスを読み取り、現実干渉性と呼ばれる物理現象操作能力を吸い取ってデータベース化するのが作られた目的である。

 QロットのNデバイスの位置は頚椎で、他者のNデバイスと接続しやすくするために、首から腕へ、さらには指に達するよう、細く長い通信専用のデバイス素子が伸びている。これにより、爪先で触れるだけで、対象のNデバイスと物理接触が可能だ。柊の手にもそれがある。椅子を通じて施設とつながったのも、この指先の仕掛けを介している。

 柊は過去、数多くのSロットの記憶を追体験してきた。人生の全てを追体験することでしか、彼女たちが持つ力を吸い出すことができないからだ。

 この作業では、記憶や人格が混濁する。心理的負担が大きく、楽な仕事とはいえない。

 膨大な情報の読み取りがNデバイスを通じて体に負担をかけることもあるし、不幸な記憶を追体験することも精神の苦痛となる。たとえばこのディアナ・ヘンシェルは、幸福な人生を送ったとは言いがたい。Sロットの人生が苦難なのは珍しくない。そんな記憶を何百も持ち続けて、平静でいられることなどありえない。

 だからQロットには記憶の管理が必要になる。柊も、記憶操作を使って忘れさせられている。

 今回は現実干渉性の吸出しとは違う。痛覚や感情まで体験する必要はない。思考と視覚だけで十分だ。情報量は少なく済み、心身への負担はあまりないだろう。

 専用プログラムを簡易追憶モードとして起動する。記憶データが展開され、柊の眼前にはしばしディアナの記憶が投影され始める。



 降下任務は三度目だった。

 大気圏突入が完了し、VTOL揚星艇の四基のエンジンが作動した。兵員輸送室で聞く振動と、何よりも全身に感じ始める重力が神経を刺激し、ディアナを緊張状態にさせる。重く体を縛られる感触が、戦いが始まる合図だと刷り込まれているからだ。

 今度は帰れるのだろうか。輸送室から外は見えないが、その向こうにある月につい視線を向けてしまう。

 二回目までに、同期は全員戦死した。運がいいのか悪いのか、生き残ったのはディアナだけ。なので、早くも小隊長だ。ディアナは追加記憶で戦術を学んだ生まれながらの兵士だが、経験はまだ浅い。しかし、特別な部隊であるこの七七小隊を率いることができる兵士は他にいない。

「緊張することないよ」

 軽口を叩くのは、隣の架台にいるレン・イスラフェルだ。黒髪に黒い瞳が印象的な彼女は、研究所が新しく生み出したイスラフェル系のSロットのプロトタイプだそうだ。他の艇内の架台の兵士たちは、ディアナを含めて金髪に黄水晶の瞳のヘンシェル系。レンの色は異彩を放っている。

「緊張せずいられますか?」

 ディアナは他に聞こえない小声で返答し、自分でも滅入るような声色になっていると気付く。元気そうなレンが羨ましい。今回は危険な任務だ。

 自分と同じかそれ以上の経験を持つ兵士であるらしいレン。人柄の面からも、彼女の方が隊長に適任に思われた。しかし上は、リーダーにするなら同じヘンシェル系のディアナの方が問題が起きにくいと考えたらしい。製造されたばかりの四人の姉妹たちの視線が、会話する二人へと集まっている。

 ディアナは憂鬱だった。

「大丈夫、あたしがついてるよ」

 レンはやる気に満ちた表情で語る。今回の降下は要人救出任務だ。貴族の要人とSロット出身の情報技術研究者、その二名が前線に取り残されている。敵が彼女らに気付く前に奪還しなくてはならない。

 Sロット出身の情報技術研究者は、レンの妹にあたるイスラフェル系の改良型だそうだ。学術適正が高かったため、政府関係の学校機関に派遣されて働いているという。レンがやる気を出しているのはその妹のためだろうか。貴族の方はともかく、妹の方が敵の手に渡る事だけは研究所には許容できない。

 Sロットや強化兵士の存在は極秘で、いざとなれば自害することをプログラムされている。なので、投降という選択肢はない。この作戦が失敗すれば全員死ぬことになるだろう。

 相手はテロリストまがいの反政府勢力だ。投降したとしても、見せしめに処刑されることになるに違いない。速やかに自害したほうがまだしも幸せだ。取り残された二人もそれを選ぶだろう。急ぐ必要がある。

 低空に差し掛かった時、突然警報が鳴り響いた。

 警報と同時に、Nデバイスに機の警戒情報が並列化される。歩兵用の対空ミサイルが地上のどこかから発射されたらしい。機の自動操縦プログラムは急旋回によって回避しようとするが、至近距離であり、避けきれそうにない。

 ディアナもレンも、素早く行動を起こした。架台の固定を解除してワイヤーを繋ぎ、素早く降下準備に入る。四人の新米兵士もすぐに意図を察し、彼女たちに倣った。

 輸送室の下部扉を強制解除する。高度が落ちている今なら脱出が可能だ。兵士は次々に飛び降りた。ディアナは全員が降りるのを見届けてから、自分も降下する。

 高度は低いが、速度は落とせない。地面に投げ出されたディアナは、勢いのままに地表を転がった。アーマースーツの衝撃吸収エアバッグが作動し、ディアナの全身を守った。もしそれがなければ、彼女の体は地面に叩きつけられ挽肉になっていただろう。

 揚星艇にパイロットはいない。無人になった後もフレアを射出し誘導ミサイルを逃れようとしていたが、結局は被弾し、四基あるうち二基のエンジンが火を噴くのが見えた。出力が低下し、高度を維持できなくなっている。

 揚星艇は政府宇宙軍がひそかに開発している特殊部隊用の新型航空機だ。大気圏突入可能な最新鋭の機体である。不時着させれば敵の手に渡ってしまう。やむなく、ディアナは艇に自爆を命じた。仕込まれた爆薬が起爆。激しい閃光とともに、ヘリコプター百機分の高価な機体は黒煙となって消滅した。

 ディアナは報告を求めるため、部下たちに通信を送る。バラバラの位置に降下した全員から、即座に応答があった。口頭通信のほか、Nデバイス経由で全員の細かい状態がディアナに伝えられる。負傷者はおらず、武器も無事のようだ。

 ここは水上艦隊の長距離電磁加速砲の射程圏内で敵航空機は存在しない。だから揚星艇での脱出も可能と判断されていた。高価な対空兵器存在の可能性は極めて低かった。たまたま敵がそんなものを所持していたことは、運がなかったとしか言いようがない。

 敵は、後方支援もない前線にも兵士を送り込んできている。戦場漁りをするのが物不足の反政府勢力の常だ。化学兵器汚染で放棄された町でもおかまいなしだ。

 ここも戦闘によって半壊した市街であった。避難指示が出て、とうの昔に住民はない。廃墟には艇を撃墜した敵兵が潜んでいるだろう。すみやかに合流しなければ危険だった。

 なにごともなく合流したかったが、運悪く進路上に敵がいた。

 こちらから発見できたことは幸運だったが、位置が目的地に近すぎる。今ここにはディアナとレンともう一人、合計三人しかいない。救難信号を発すれば軌道上に待機する母船から数分で新たなVTOL機が迎えに来るが、戦闘音が聞こえれば敵が殺到する恐れがある。

「あたしに任せてよ」

 レンがディアナに進言した。音を立てずに敵を始末できると言う。自信がありそうな彼女に任せることにした。

 レンは小銃を置いて身軽になり、代わりに全員からコンバットナイフを回収した。三本の刃物で武装した彼女が、音も立てず敵兵の背後へと忍び寄っていく。残されたディアナと兵士は、その位置からいつでも支援できるよう、敵に狙いを定めた。

 攻撃の一瞬、ずっと見ていたディアナですらレンを見失う。物陰から黒い影のように忍び寄った彼女は、敵の一人の首を一突きし、即死させた。

 気付いて振り返った最初の敵の手から小銃を蹴り飛ばし、他の者には次々とナイフを投げつけていく。正確に眉間を狙われ、発砲する間もなく敵兵は倒れていった。ナイフが三本とも無くなると、レンは倒れた敵兵に刺さったナイフを器用に蹴り飛ばし、最後の敵兵の眉間に飛ばした。

 再び静寂が訪れた。Sロットとしては失敗作で強化兵士計画に売りわたされたというレンだったが、ここでは恐ろしく完成された兵士にしか見えなかった。あの正確無比なナイフ投げを実現しているのは直感だけではなく、強化された腕部と連携するNデバイスによる物理演算によるものだろう。

 Sロットの目的である現実干渉性の存在などディアナには信じられない。この世界の物理法則と直結した意識を持つというSロットによる現実への干渉作用。少々の重力操作や物質生成程度は目にしたことがある。研究者ではないが、あのレンを無価値とまで言うほど重要なのだろうか。研究所の目的は謎に包まれている。

 ディアナはしばらく彼女に見とれていたが、すぐに任務を思い出す。

「ずいぶん乱暴ですね」

 引き金をひく機会のなかったディアナがレンにそう呼びかけると、彼女は恥ずかしそうに微笑を浮かべた。そうしている時は、普通の兵士であった。

 目的地に到達した時、目標の半分は既に失われていた。

 貴族であり、政府の要人であるエミ・レシャルは既に息絶えていた。治療を施したようだが、腹部に受けた弾丸が致命傷となって息を引き取ったらしい。遺体はまだ温かかった。

 治療を行おうとエミを抱いていたのは、もう一人の救出対象のイスラフェル系Sロットだ。レンは妹と何か言葉を交わし、無事を喜び抱擁を交わしている。エミ・レシャル女史の友人でもあったという妹は、レンの胸に顔を埋めて肩を震わせていた。

 イスラフェル系の完成形であるらしい彼女は、黒髪のレンと違って、目が覚めるような美しい銀髪に薄灰色の瞳をしていた。現実干渉能力と情報処理への適合性が高いタイプだと聞いている。まだ幼さが残るものの、いかにも利発そうな顔つきに見える。

 まだ合流できていない残りの兵士から、対空装備を持つ敵を発見したと報告があった。回収機への脅威を排除し脱出しなければならない。無駄足にならずに済んでよかったとディアナは思った。

 名前はなんといっただろうか。何も言わない本人にかわり、レンが紹介した。

「妹のアイだよ。アイ・イスラフェル」

 涙を拭きながら、あどけない顔を向けてくる少女。まだ十代くらいに見える。あとはここを脱出すれば――



 記憶はそこで一旦途切れてしまった。

 この先も膨大な記憶データが続いているようだが、破損しているようだ。修復が必要だと判定されている。やむなく柊は追憶を中断する。半日分程度の追憶に擁した時間は、せいぜい数十秒だ。記憶から引き戻される特有の立ちくらみを感じつつも、思ったより質のいい記憶データに収穫の気配を感じていた。

 まだ幼い頃のアイがいた。ディアナと面識があるとは一言もなかったので、意外であった。

 今頃、アイは月面から離れた宇宙戦艦の中にいるだろう。明日になれば帰ってくる。その時にでも尋ねてみればいいことだ。



 自宅に戻るには早すぎる時間であった。寄り道も考えつつ、柊はリニアトレインに乗り込む。席にはかけず、入口の近くに立つ。時間も時間、人はまばらだ。窓の外には、灰色の町が広がっている。

 月の海、平坦な土地に作られた月面都市。巨大な円環状のトンネルであるこの巨大構造物は、直径九〇〇キロ、総延長は二八〇〇キロに及ぶ。地球上の望遠鏡からでも、この巨大な円環を認めることができる。最近、第二トンネルも完成を見た。この世界は広がり続けている。ここが柊の町であった。空気さえ作られた、世界で唯一の完全人工の世界だ。

 あの灰色はARを投影するためのものだ。ファウンデーショングレーと呼ばれる塗装である。微細なものから大きいものまで形の違うドットが等間隔で描かれ、二次元画像から三次元構造が描けるように工夫されている。視覚情報をもとに空間計算を行い、Nデバイスを使って視界に追加情報をかぶせるために役立てられるのだ。世界広しといえど、ARを前提に都市が設計されているのはここくらいしかない。

 町並みは重ねるAR次第で自在に変更できる。天井がふさがれ閉塞感のある町の雰囲気を簡単に変えられ、ストレスを軽減する。人々はARを、自然なものとして受け入れている。しかし、柊はどんなARパターンも用いず、ただそのグレーの町並みを見つめている。

 勤務先の情報室は政府庁舎のある第一区画にある。円環状の街を時計に例える慣例で言えば、〇時の位置だ。そこをあっという間にすぎ、町の番号は二、三と数を増やしていく。

 柊の自宅は第七区画で、職場と遠い位置にある。真空のチューブ内を走る高速リニアトレインならそれでも数十分で到着する。

 第七区画はかつては社宅専用だったスロット型住宅用のラックの集中区画で、静かな住宅街である。そこにまっすぐ帰ることはせず、柊は途中の第五区画の駅で下車する。

 主要な都市はファウンデーショングレーとドットに支配された美しく無機質な町だが、この第五~六区画は違う。雑多な景観で、熱気を含んだ空気が流れている場所だ。零細企業や雑多な小売店が並んでいる。

 七割ほどは本建築だ。古いものだが、零細・中小企業が入るテナントビルもある。それが高いトンネルの天井まで続いている。視界に収まる町並みがドット入りのグレーばかりなのはほかの区画と変わらない。

 違うのはそれ以外の場所だ。必要最低限の神経強化しか受けられず視界補助に割けるリソースが少ない居住者が多いここでは、景観整備の重要性は低い。間にひしめく残り三割のバラックは無秩序だ。塗装になど気を使っていない。

 頻繁に配置や撤去がなされる格安のカプセル住宅、それより少し高級な中古のスロット式住居を架にもかけずにそのまま置いたもの、貨物用コンテナを積んで店や住居にしているものまである。高い場所から見ると色とりどりの積み木をばら撒いたかのような町並みであった。

 ここは近く降雨システムによる洗浄が行われる予定だ。多くの商店が店先の整理を始め、いっそう混沌とした雰囲気を見せている。柊の目的地は数箇所しかない。中でも最もよく出入りする商店に自然に足が向く。

 中古の店舗用スロットを改造してバラックにしたその店の中に入ると、独特の匂いが立ち込めている。安価で古いスロットのため高くない天井までびっしりと並べられた商品は、今となっては現物を見ることがなくなって久しいものである。

 そこは、月面都市唯一の古書店であった。ある時気まぐれで手にとってみて、なんとなく収集を続けている。殺風景だった柊の自室には、そこそこの量の書籍が揃い始めている。

 テロ防止法によって、ネットワークに接続されていない計算機や記録媒体を所持することは禁止されている。過去、スタンドアロンの計算機と造型機を使って武器密造が行われたこともある。今は全ての電子情報が監視されている。

 この月面を支配しているのはCUBEシステムと呼ばれる巨大演算装置だ。ネットワークそのものが計算機の機能を持ち、全ての住民はNデバイスを通じていつでも計算資源の割り当てを受けられる。逆にそれ以外の計算資源の保有は制限され、個人的に情報媒体を持つことはできない。

 だが、紙媒体は例外とされている。紙に書かれた情報を悪用しようとする場合、必ず入力作業が必要になり、結局はネットワークに属することになる。それに、新しく出版されるものが今はもうない。だから危険はないという理屈である。

 CUBEネットワークは長く維持されてきた。データのバックアップも優先度に応じて自動的に行なわれ、損失を心配する必要はない。それでも、情報コレクション目的の書籍購入の需要が少ないながらある。電子書籍リーダーで最も優れたものは、手の中に実際の本があるように感じ取れる拡張現実プログラム、あるいは仮想現実空間だ。紙が持つ温かみさえ再現される。書籍で情報をコレクションすることには、実用的な意味はもはや存在しない。いわば気持ちの問題だ。

 柊が本を買う理由も気持ちの問題なのだろう。仕事上、記憶を操作され生活する柊にとっては何か意味のある行いかもしれないが、深く考えたことはない。

 ここには店員も店主も存在しない。Nデバイスによる商品管理が徹底している。本には全てナノマシンによる電子タグが仕込まれている。商品を店から持ち出すとクレジットが引かれ、商品タグとして機能していたナノマシンが自己崩壊しその人の所有に変わる仕組みだ。月面都市では一般的な購買方法である。売却も似たような仕組みで、その場で査定が行われ、本棚に納めるとクレジットが支払われる。

 金額はあってないような価格だ。収益が出ているのかも疑問である。ここは本置き場と言ったほうが近い。

 その日も柊は店内を物色した。客は他にいない。いつも混雑とは無縁だ。古雑誌を手に取る。オカルト誌のようで、個性的な取材記事が踊っている。新品のように綺麗だ。状態がいい時に保存コーティングされたのだろう。今日は、それを持って帰ることにした。

 まだ時間がある。柊はバラックの群れを抜け、灰色のビル群へと入る。ここはほかの区画にオフィスを構える経済力のない零細・中小クラスの企業が集まる場所だ。垢抜けない雰囲気に包まれているが、混沌とした積み木の中よりは整然としている。

 そういった企業の従業員を客としている飲食店、喫茶店がいくらかある。ここにも店員は存在しない。自動調理器と椅子とテーブルがあるだけだ。適当に腰かけ、柊は雑誌を開いて時間をつぶすことにした。

 昼以外の時間のこの場所は人気が少ない。しかし、テーブルの向かいに腰掛ける誰かがいた。

「暇なの?」

 その誰かに、柊は声をかけた。柊にとって職場以外での唯一の知人だった。ここ一年、割と頻繁に、柊を見つけてはこうして接近してくる。

「息抜きが必要でね」

 彼女は親しげな言葉でそう答える。柊が所属する政府集合体と敵対する企業連合の中で重要視されるR(ローズテック)社の副社長の、レイ・レシャルだった。

 申し合わせたことはないが、柊が足を向ける場所は少ない。大体の行き先はわかってしまうのだろう。政府の情報室の室長代理と企業連合の重鎮の副社長が会っているとなれば他人はそこに何らかの政治的な意味を見出すかもしれないが、二人の間には何もなかった。

 一年前といえば、柊が重症を負い大規模な神経改装を行った時期だ。大きく人格と記憶が整理され、人間関係も一度途切れている。記憶に深く刻まれた人物はアイくらいしかいない。

 この年下の少女のことも何も覚えていないが、相手は柊を覚えている。忘れられていることも構わずにこうして関わってくる例外的存在だ。

「何か不安?」

 レイが問いかける。知人だったというだけあってか、レイは柊の表情をよく読んでくる。確かに、柊は漠然とした不安を感じている。

 多分、アイが近くにいないからだ。危険な目にあっても手を出せない場所にいる。それが落ち着かない。柊が答える前に理由に行き当たったらしく、レイは不機嫌そうな顔になっている。

 レイとアイは不仲だ。企業連合と政府が関わる会合で顔を合わせると、いつも険悪な雰囲気を漂わせている。姉妹喧嘩のようなものだと柊は解釈している。血筋を考えるとレイにとってアイは姉みたいなものだと思う。それを言えば双方から怒られる気がするので、柊は言わない。

 表情豊かなレイを見ていると飽きない。なぜ柊と接触したいのかはわからないが、どうでもいいことであった。

 レイとは適当な所で別れた。帰途につき、情報室ネットワークに復帰する。依頼しておいたディアナ・ヘンシェルの記憶修復の進捗状況をチェック。古い形式の記憶ファイルであるため、復元率が悪いようだ。意味のある再生はほとんど不可能だろう。

 この形式に対応した医療槽ならもっと完全な復元ができそうだと、研究所の中枢システムであるテスタメントは報告している。しかし、対応している年式の医療槽は、全て製造中止になっている。政府の在庫リストを調べてみると、過去の事件で、HJ(ホット・ジュピター)社から押収した旧式の医療槽がいくつかあるらしかった。

 数多くある政府保有の施設の一つに保管されているという記録がある。医療槽は大きい品物だ。持ち出すとなれば準備がいる。

 今日はもう遅い時間なので、明日がいいだろう。最近は人並みの睡眠が必要である。柊はリニアトレインの窓の外を眺め、住み慣れた住宅街に近づいたことを知った。



 最近、奇妙な夢を見る。

 悪夢ではないが、妙な緊迫感のある夢。夢など疲れるだけだ。できることなら無の中で眠りたい。そう思っているのだが、今日もその夢が柊を苛んだ。

「――」

 視界がぼんやりしている。白い部屋。白い誰かがいる。眠っている柊を、じっと覗き込んでいる。白い部屋は急速に黒く染まり、誰かが柊に覆いかぶさり、首に手をかけているイメージに変わる。

 その顔は、最近見た顔に変わっていた。苦痛に歪んだ顔で柊を睨みつけながら、体重をかけてきている。

 痛みはない。しかし、息苦しさはある。私が味わった苦痛を、お前も味わえ。そうとでも言うかのように、柊の喉を圧迫してくる。

 その感触なら、もう味わった。

 苦しさに息を吸い込み、目を開く。見回してみると、そこは白い部屋でも漆黒の宇宙でもなく、住み慣れた灰色の部屋であった。いつ目が覚めていたのだろうか。見慣れた自室の寝台の上である。

 最近、夢をよく見る。気になりはじめている。睡眠はNデバイスでコントロールしているはずだが、夢については特に気にしていない。心理状態の管理は必要だ。今度、記録をとって検証してみようと柊は考える。

 寝台から起き上がり、窓に向き合う。物理的な窓ではなく、ARの補助によって外の風景を映し出す仮想窓だ。

 部屋の中もファウンデーショングレーとドットで占められている。ここでも柊は、滅多にARを利用しなかった。

 柊のスロット型住宅は多機能ではないが質はいい方だ。Qロットとしての仕事をしていた頃には一、二人のSロットを短期間滞在させた。そのくらい広さがある。防犯装置は特注してあり、監禁や護衛ができる。

 一年前に意識を取り戻した時には、私物は衣服と一冊の古書、備え付けの二つの寝台くらいだった。他は食材生成機など、生活に必要なものだけしかない。ホテルの部屋よりも質素な自室だった。

 ここはかつて職場だった。今は違うので、少し広すぎる。

 有り余るスペースを埋めるように、古書店で購入してきた書籍がいくらか積まれている。それでも、まだ空虚であった。棚があるといいかもしれない。設計図を成形機工場に持ち込めば家具は手に入れられる。

 いや、その前に医療槽だ。置く場所を考えておく必要がある。ディアナの遺体を情報室に持ち込むのはまずいので、自室での作業になる。記憶の再生は自室で。これは、何度も行ってきた習慣だ。

 場所は近かった。ちょうど昨日出向いてきた五区画にあるテナントの一つが政府の所有で、そこに医療槽が運び込まれた記録がある。

 車を借りて自分で運んでしまうのがいいだろう。CUBEネットを通じ、小型トラックタイプの車両を手配する。これだけで車両は目的の場所に配送される。一般車両は全て自動操縦だ。レンタル業者がいくつも所有する車庫から最適の一台が選び出され、自走して目的地に向かってくれる。目的地を五区画に指定して発注するだけでいい。

 身支度を整え、柊は家を出た。目的の倉庫を管理している者はいない。政府権限で開錠し、誰にも会うことなく入ることができた。

 かつては企業のオフィスだったようだが、全ての内装が撤去されていた。広さや床の耐久性が高いビルで、大型の機材がいくつも押し込められている。照明も最低限である。妙なことがある。記録ではここに最後に出入りがあったのは数ヶ月前だ。しかし、ドアノブには埃がかかっていなかった。

 誰かがここにいる。微妙な空気の流れや温度の変化が、ここに柊が一人ではないことを知らせている。微弱だが異常通信波を感じる。違和感が満ちている。

 今は医療槽を持ち出しに来ただけで、泥棒を捕まえにきたわけではない。目的のものはすぐに見つかった。暗い倉庫の中に、シートもかけられず放置されている。

 誰かが触れた形跡がある。医療槽は、Nデバイスの施術やメンテナンスを行うために人が一人丸ごと入ることができるものだ。十分に注意しつつ、柊は医療槽を開けた。

「……何してるの?」

 そこには、意外な人物がいた。

 どういうわけか槽の中に潜んでいた人物は、いたたまれない視線を柊に送っている。美しい銀髪が棺のような槽の中に広がり、まるで宝箱を開けたようだ。その光景に、柊は唖然としてしまった。

 気まずそうな表情は次第に照れの顔に変わり、ごまかすための笑みに変わっていく。槽の中にいたのは、昨日会ったばかりの、レイ・レシャルであった。



■レイ・一



 迫り来る細く強靭なフラーレン・ワイヤーをかわしながら、もう十五分ほどが経過している。

 宇宙戦闘機の中では中の下程度の機動性に留まるレイの愛機「リヴォルテラ」は、その性能に見合わないほど美しい舞いを披露し続けている。今宵は大勢の観客がいる。中には、この白く美しい機体に魅了される者もいるほどだった。

 予定にない模擬戦ではあったが、レイにとってこの程度の戦闘は負担ではない。しかし、体はよくても神経は疲弊してきている。企業連合が合同で開発した戦闘ポッド「イグニス」は、全周囲に向けて攻撃用のワイヤーを放ち、レイを攻め立てている。絡めとられてしまえば、一貫の終わりだ。強靭な分子構造で編み上げられたワイヤーは、十分な長さがあれば大型の宇宙船でさえも引きちぎり、解体してしまう恐ろしい武器だ。

 有人宇宙戦闘機であるリヴォルテラは四メートルほどの全長なのに対し、敵は全長四十メートルほどだ。格の違う大きさである。つぶれた球のような形をしたこの新型ポッドは、今まで企業連合で作られてきた無人兵器の中で最も巨大なものである。黒く輝く機体のほとんどが、強靭な分子構造を持つワイヤーを操る装置で構成されている。

 死角がなく、装甲も十分。機動性も申し分ない。姿勢制御のためのブースターを激しく点火させると、青紫色の光が燃え上がる。「かがり火<イグニス>」の名にふさわしい火球の姿となって、執拗にレイを追い詰める。

 一方、レイは一発も命中弾を出していない。重武装機のリヴォルテラが誇る大口径の機銃ならば、敵の装甲を貫通し損傷を与えるだろう。しかし、敵が巧みにワイヤーで操る宇宙船の残骸の盾が邪魔となり、本体に届いた弾はなかった。反撃は徐々に難しくなる。追い詰められ、回避に専念するしかない。正面から向き合うことが出来ないほどに、空間に張り巡らされたワイヤーは濃密になっていた。

 長引くほどに不利になる。イグニスのワイヤーは細すぎてカメラで認識しにくく、レーダーではとらえにくい。しかし、ロケットモーターを搭載したワイヤーの先端部分を見失わなければ対処はできる。弾性や重量などのデータを推測すれば、ワイヤーの動きは計算できる。レイは戦いながら計算プログラムを組み上げた。Nデバイスを通じて補助情報を視覚に投影すれば回避は可能。しかし、それにも限度がある。

 小さい敵をしばらく弄んでいた巨大なイグニスは、飽きたとでもいうように、今まで温存していた大きな二つのアンカーを射出した。一つがリヴォルテラの全長よりも大きいそのアンカーは、ほかのワイヤーヘッドよりはるかに高速で機敏である。近距離から撃たれた大口径の電磁加速砲の砲弾さえ弾いて逸らすことが可能な、強靭さと機動性を持った切り札であった。

 先端が尖った二つのアンカーはそれ自体が一般的な宇宙戦闘機並の機動性を持つ。レイを追尾し、追い詰めていく。模擬戦とはいえ敵の攻撃は接触兵器、つまり実体である。死を意識する。久しぶりの感覚であった。

 そもそも、なぜこんなことになったのか。その発端は、半時間ほど前に遡る。



 多くの企業が集まる、月面第二トンネルの完成祝賀パーティでのことだった。

「では、どうしてもご参加いただけない?」

 大手通信会社にして巨大複合企業であるPS(プルート・ソリューション)のCEO、エリス・スタレットが、あまり残念そうではない声色で言った。

 政府が衝撃的な事件とともにオウミ級を送り出して一年。最近軍事的圧力を強める政府に対し企業連合は緊張感を募らせ、開発法で許された自警団の強化を行なっていた。

 PS社は数ヶ月前、心血を注いできたプロジェクトを完遂した。企業連合が自治権を行使できる独立した月面拠点、第二の月面都市となる二号トンネルを完成させたのだ。その過程で取り込んだ企業を中心に、自警団を統合しはじめている。これまで別個に活動していた自警団の連携を強めていくことで、巨大化する政府の軍事力に対抗しようと呼びかけている。

 政府はアイ・イスラフェルが進める浄化政策により、かつての悪いイメージを払拭するのに成功しつつあった。軍備拡張もしやすくなる。これは最大の脅威だと企業連合の一部では考えている。

 レイが副社長を務めるR社に、今日その自警団への参加要請があった。R社には組織だった自警団はなく、レイ自身が個人で警備を担当している。

 戦闘用ポッドをはじめとする無人機の分野では企業の中でもトップクラスの技術力を持つR社。それをあてにして、今までも多くの企業から自警団への参加を呼びかけてきたことがあった。R社は規模こそ大きくないが、月企業の間では一目置かれる存在だ。テロ対策や政府の横暴に対しては企業連合の一員として支えた。しかし、立場はあくまでも中立を保っており、政府が自らの法律を守らない場合にのみ対抗し、自ら法を破ることはほとんどなかった。

 企業連合の合同自警団には明確な指揮系統が作られ、自由に自警団を動かすことはできなくなる。軍隊と同じような規律が存在する武装組織なのだ。明らかに自警団の範囲を超える、企業連合「軍」の創設には賛同できない。参加などもってのほかだ。そう、レイは考えている。

 大体、イエス・ノーで決断を迫るという行為自体がレイには気に入らない。イエスなら味方、ノーなら企業連合の敵で政府の手先と決め付けて色分けをしていく。敵とみなすなどと迫られたら、断る選択肢がないも同然だ。PS社はさまざまな零細・中小企業を買収し合併していくことで巨大な企業になっていった。

 威圧的で、気に入らない。主体となるのは組織だ。これでは政府と同じだ。組織はあくまでも人のための装置であるべきだ。正当なルールの中で各々の企業が自立して秩序と倫理を保てばいいというレイの考え方とは、相容れない。

 現時点で、レイのR社とPS社の間にはいかなる取引もなかった。

「しかし、いざ政府軍が攻め込んできた時、社員を守ることができるのでしょうか」

 明らかな挑発。受け流せば済むような発言だった。R社が築いてきた月面都市での信頼があれば、無視してもいいことだった。

「余計なお世話です。なんなら証明してみせましょうか」

 しかし、レイはそんな軽口をきいてしまった。

 そして、今に至るというわけだ。



 ワイヤーがエンジンの片方をかすめ、大気圏用のエルロンを弾き飛ばした。機体に振動が伝わる。回り込んできた一方の大型アンカーが、目の前に迫っていた。もう後がない。

「……サクラ!」

 レイがその名を呼ぶと、リヴォルテラの制御の一部が外部と接続する。

『受諾しました』

 短い応答が返される。

 レイにとって本意ではなかったが、AIであるサクラの助けを得る。承諾を得、即座にリヴォルテラのメインアームである機銃ポッドをパージ。武器を捨てるのは自暴自棄になったからではない。分離された機銃ポッドは内蔵された小型ブースターによって独立稼動を始める。

 軽量になったリヴォルテラは一段階機動性を向上させ、迫るアンカーを躱してドッグファイトを続行する。これで、まだしばらくは猶予がある。

 サクラの介入によって、リヴォルテラに搭載された破格の高性能計算機「祈機」が利用可能になる。全てのリソースと直結したレイは感覚を拡張され、敵のワイヤーの全ての動きを視覚ではなく脳で認知しつつ、三つに分裂した機体を完全にコントロールする。

 リヴォルテラは火力重視の設計だ。単独戦闘を目的とした重戦闘機である。しかし、ベースとなった機体は、本来無人戦闘ポッドを指揮するための戦略機である。その思想の名残として、この機能が残された。それが役立つ時だ。

 飛翔する無人機銃ポッドはワイヤーをくぐりぬけ、本体へと飛翔する。本体は大型アンカーの一つを呼び戻す。追っ手が減ったことで、本体も多少自由になる。

 リヴォルテラは実弾を装備していない。模擬戦システムに対して装備した擲弾砲の発射信号を送る。数が少なくなったアンカーを追い詰め、背後をとり、ブースター部分に架空の散弾を浴びせる。その攻撃は敵に推進機能とワイヤーリールを破壊されたとダメージ判定を下させ、アンカーを沈黙させた。

 同時に、二機の機銃ポッドは本体にたどり着く。敵のアンカーが戻り、こちらのポッドを一つ粉砕した。こちらはシミュレーションではなく、実機の破壊であった。

 残る一機のポッドは、牙が迫る前にありったけの火力をぶつけた。分離状態では携行できる弾数が多くない。反動を制御するため小刻みに燃料を噴射。推進用の燃料も使いきり、全弾が発射された。

 どうなったか。効果を見ようとしたレイの耳に、通信が入った。

『いや、お見事です』

 エリスの声だった。模擬戦システムは強制終了されていた。今のレイの攻撃が有効だったのか無効だったのか、誰にもわからない。

 今の攻撃はイグニスには無効で、中断したのはレイの顔を立てたつもりなのか。それとも、有効だったのでそれを隠すために停止させたのか。

 そんな事実は重要ではない。

「さすがはR社ですね。まだまだ学ぶことがあるようです。破損した分の費用はこちらで持たせてもらいますよ」

 会場に戻ってきたレイを慇懃に迎えるエリス。レイは返す言葉を持たなかった。

「これなら、確かにあなたたちには保護は必要ないでしょう。余計なお世話でした」

「そう。なら、今日はもう帰らせてもらうわ」

 片方の機銃ポッドをもがれた愛機が会場の窓から見えている。皆が注目している。イグニスは無傷だ。

 シミュレーション上の模擬弾ではなく、実弾を使えばよかった。レイは後悔し、母の形見を傷つけたことに胸を痛めていた。

 レイが自宅ではなくR社のラボに戻ったのは、傷ついた愛機をそのまま放置する気にはなれなかったからだ。社員には事情を話す必要もある。

 カフェテリアの食品生成機を操作して飲み物をもらい、ベンチに座る。戦闘の緊張がどっと押し寄せてきた。名ばかりの副社長とはいえ、規模の大きくないR社の外交の場に引き合いに出されることは多い。しかし彼女は、まだ一五歳の少女なのだ。

 天井を見上げる。ラボのメンバーにはどこから説明すればいいだろう。Nデバイスに記憶をアップロードし、既知のこととしてもらうのが簡単だ。しかし、この程度のことに容量を割いてもらうのは申し訳ないし、口頭で伝えるのが礼儀だろう。

「怒られるかなあ」

 簡単に挑発に乗るものではない。能天気な性格にしては珍しく、今日のレイは凹んでいた。

 最近のレイは忙しい。社長の代わりのようなことを続けている。他に誰もいないからだ。

 R社の経営者は謎に包まれていると世間では噂されている。当然だ。なぜなら、R社には実態のある社長が存在しないのだから。

『無人戦闘ポッドを引き連れていても、結果は変わらなかったでしょう。あの敵には以前のピストレーゼのほうが適しています。しかし、装備が十分なら対抗はできます。それに……』

「わかってるわよ」

 レイの育ての親であるこのAIサクラがR社の社長を演じている。

 レイはサクラを信用していない。親と関係ある人工知能とはいえ、研究所のシステムの一部になっている。研究所はレイにとっては敵だ。サクラは従順な召使などではなく、得体の知れない存在なのだ。どんな事を考えているのか、わかったものではない。

 今のままでは、力が足りない。今回のようにサクラの力を借りているようでは、レイの目的は果たせない。サクラ以外に頼れるものが必要だ。

 力がほしいのは友人の手助けをしたいからだ。出会いから一年が経つ。レイの中に混在する二つの視点からの記憶は、どちらもある救われない友人に手を差し伸べるように言っている。

 あの時は、何もできなかった。身に纏うことのできるあらゆる力がレイには必要なのだ。

 今後、宇宙戦闘では計算能力の増大が課題である。イグニスとの戦闘ではかつてない解析能力を求められた。リヴォルテラに搭載された祈機と呼ばれる計算装置は破格の容量を持つが、高度化する解析戦闘においては十分とは言えなくなってきている。

 いざという時、レイの意志に従わないAIは邪魔だ。ネットワーク経由でサクラの支援を得るのではなく、スタンドアロンで機能しなければならない。

 祈機は簡単には作れない。月面には様々な派閥が所有する数個が存在しているという。かつて使っていた愛機に搭載されていたものを回収できれば、今使っているものとあわせて、目的のスペックを実現できる。

 それは容易ではない。先日、地下の大空洞に入った。あの戦いから一年も経過して、ようやくひそかに侵入する経路を知った。メンテナンス用の細いトンネルを通じて、あの秘密大空洞に再び侵入することができるとわかったのだ。

 大空洞は何も変わっていなかった。撃墜地点に到達したレイは、乗り捨てた愛機と再会した。

 墜落による破壊と火災によって原型を留めていなかった、愛機「ピストレーゼ」の残骸。祈機を回収しようとして、それが無いことに気付いた。

 何者かに持ち去られたらしい。残骸はそのまま、祈機のあるコクピットブロックだけがきれいに無くなっていたのだ。

 あの中には長年蓄積してきた戦闘データがある。あれを使えば、優秀なAIを作ることができるだろう。悪用されている恐れもある。そんなのは耐えられない。そういう意味でも、ピストレーゼの祈機を取り戻すことは悲願である。

 研究所が手に入れていないということは、まだ祈機は月面都市のどこかにあるに違いない。レイは本社の別の人工知能アシスタントに調べさせているデータに目を通す。

 月面都市内の電波状況を探知することでわかる、計算資源の分与の流れを推定したデータだ。通信拠点や政府の本部など、もともと莫大な計算容量を持つ場所以外に大きなフローが発生していれば、盗まれた祈機が使われている可能性がある。

 ネットワークとサーバーの両方の機能を併せ持つCUBEネットワーク。端末同士が通信しながら、ネットワーク全体から必要な処理能力を都合する。通常、どこか一箇所に処理が集中することはない。もし普通より通信波が多く出ている場所があれば、そこにはCUBEネットとは別の高性能計算機があることを意味する。

 とはいえ、この方法で祈機を発見するのは難しい。大企業や政府は車内に多くのCUBE端末を設置し巨大な計算容量を保有している場合が多く、その一部に組み込まれていれば区別がつかないからだ。

 それでも、かつての愛機がどこかで使われていると思うと気が気ではない。ほとんど可能性はないとわかっていても、探さずにはいられなかった。

 今日だけはいつもと違っていた。数日前、不自然な通信増大箇所が一箇所存在していたのだ。

「第五区画……?こんな所に」

 第五区画といえば、この月面都市で最も雑多に零細企業がひしめくエリアだ。小さい犯罪は起きても、政府と企業連合の抗争や研究所絡みの重大な何かが動いたという話は聞いたことがない。

『そこは、過去にPS社の本社があった社屋のようです』

「なんですって?」

 サクラが口を挟んだ。彼女は、開発期の月面都市から現在までを知っている。

『正確にはその跡地です。移転した後は、元あった会社設備のほとんどが政府に没収されたのです。今は倉庫になっているようですね』

 政府は無数の利権を所有している。ここもその中の一つだ。規模は小さく、末端のものといっていいだろう。これまで、特に使われた形跡はなかった。数日前までならば。

 研究所の奥深くにでも収められていればレイは苦労することになる。しかし、この場所ならば踏み込める。

『まだこれが祈機と決まったわけではありませんが』

「それでも行くわ」

『本当に?』

「何が問題なのよ」

『あまり上品な区画ではありませんので』

 若い少女が一人で踏み込めば、目をつけられ狙われる危険のある場所だ。親代わりのサクラにとって、レイを送り込みたくはない場所だろう。

 しかし、レイは意に介さなかった。

 


 第三区画の町でほとんどの用事を済ませられるレイにとって、この第五区画は、同じ月面都市とは感じられない場所である。仮設の店舗や住宅がひしめく中央の通りは、近づきがたい雰囲気を発している。

 トラブルは避けたい。目立つ武器を持ち歩くなどもってのほかだ。今日は小型のレーザーブラスターをコートの下に隠し持つだけである。

 レーザー光線を短時間照射して損傷を与える武器であるブラスターは、もともとは宇宙空間で歩兵に持たせる武器として生み出された。今では、個人入手が可能な護身武器の代表である。大気中でも数メートルの距離であれば激痛を伴う火傷を負わせたることができる。ワイヤーを焼き切るナイフとして、あるいは扉を溶接するにも使える便利な道具だ。急所に当てるか至近距離で使うか、使い方次第では、相手を死に至らしめることも可能である。

 より強力な軍用のものも作られている。政府軍は最近、小銃に装着するタイプのブラスターを制式配備した。光線銃の利点である命中精度を生かして、人の眼球や戦闘ポッドのセンサーを効果的に潰す射撃訓練をしている。

 それも、政府の構造改革に伴う軍の再編の一環だった。

 今までの政府軍の歩兵装備は、企業の戦闘ポッドに対抗するために重火力が必要で、対物銃や機関銃が多く配備されていた。ここ数年で政府軍も戦闘ポッドの配備数を増やしているため、敵の戦闘ポッドは同じく戦闘ポッドで倒せばいい。その流れで、歩兵用武器は軽量かつポッド支援に効果的になるよう変化してきているらしい。

 企業連合のスタイルを政府軍が追従する格好になっているのが皮肉だった。月開発期、政府が何もしなかったために、企業は自らテロに対抗するしかなかった。流血の中、自警団の武器は進化を続けた。最終的に自警団が行き着いたのが、無人戦闘ポッドの大量投入による殉職ゼロ戦闘の実現であった。

 それが、月に駐留しはじめたばかりの政府軍の主力戦車にも通用してしまった。それこそが、企業連合と政府との対立の原因でもあったのだ。戦闘ポッド技術を進歩させてきた両勢力。必要な火力の八割を担当する無数の無人機械による高度な連携戦が、現代の戦闘だ。

 レイのブラスターもまた、そうした闘争の中で洗練されていった軽量な歩兵用武器の遺伝子を受け継いでいる。自社製品である。一般企業の治安維持部隊や個人の護身用だが、必要な破壊力は与えられている。

 懸念はある。ブラスターはレイにとって最適の武器ではない。

 不安を抱えたまま足を踏み入れるのは、七割を占める本建築のオフィス街だ。ここは、まだしも歩きやすい。

 知人が顔を出すことのある付近なので、このあたりは少しだけわかる。足早に、目的地に急ぐ。ここは夜間の方が人が多いのだ。白昼堂々の進入は大胆に見えるが、理に叶っている。

 このビル自体が政府の所有で、全て倉庫として利用されている。人の気配は全く無い。階段を利用し目的の階まで上っていく。床は綺麗に維持されている。無人になってからも清掃ロボットが働いているようだ。だが、ドアノブには埃が積もったままだ。

 本当にこんな場所に祈機があるのだろうか。今になって、罠にでもかけられたのではと不安になり始める。しかし、目的の階の扉にたどり着いたレイは息を飲んだ。そのドアノブだけは、埃が積もっていなかったのだ。

 古いタイプの電子錠で、開けるのに苦労はなかった。通報くらいは覚悟していたが、そんな気配は無い。これが罠でなければ、進入は無事成功である。

 それほど広い空間ではなかった。黴臭さが漂っている。

 ここがPS社の元オフィスだったのだ。二号トンネルという巨大建造物を作り、今やそのエリアを支配する帝王にまでなったPS社。とても小さいオフィスである。レイが所属するR社にしても、はじめはこれ以下の小さなオフィスからスタートしたと聞いている。開発計画の中でそういう成長を遂げた企業は、いくつもある。

 医療通信技術、つまり埋め込み式端末であるNデバイス関連だったPS社の名残なのか、ここにあるのは医療機器が中心のようだ。もしかすると、過去にPS社で使っていた機材がそのまま残されているかもしれない。

 古い機材ばかりだ。一瞬とはいえ、ここは莫大な計算の痕跡を残している。祈機がある可能性は高い。

 祈機は、通常のCUBE端末と同規格サイズのケースに封入されている。ピストレーゼの場合、それを航空機用の耐衝撃ケースにおさめたものだった。大空洞に墜落した機体からは、ケースの中身だけが抜き取られていた。

 祈機がもし使われたとしたら、これらの機材の中でもCUBE端末を搭載できるものに限られるはずだ。そうなれば数は多くない。Nデバイスの施術、拡張や管理を行うための寝台である医療槽か、このオフィス自体のHSS(ホームスロットサーバー)くらいである。

 まず、備え付けのHSSを調べてみる事にした。月面ではどんな部屋であっても必ずHSSが搭載され、その内部にCUBE端末を設置することが義務付けられている。HSS内のCUBE端末は照明や水道など施設の機能を管理し、生命維持装置を支配している。このCUBE端末は危険を監視するとともに、CUBEネットワーク自体にも余剰の計算リソースを提供する。

 オフィスの壁面に埋め込まれたHSSを見てみると、はずれであることがすぐにわかった。なぜなら、そこには何もなかったからだ。

 ここはCUBE端末の設置漏れである。警報装置が作動しないわけだ。昨日今日の話ではなく、かなり前に外されている。杜撰な管理は、政府の施設でよくあることであった。犯罪の温床になるので企業連合からすれば許せないことだ。ただ今は助かっているので、レイは通報はしないことにする。

 しかしそうなると、あとは医療槽くらいしかない。ざっと見たところでは、二つほどそれらしいものがあるのを確認している。近くで見ると、もう製造中止になった古いタイプの医療槽であることがわかった。

 システム起動は避けたかった。CUBE端末搭載機器は、起動中はネットワークへ常時接続されるからだ。裏側のパネルを注意深く外すと、そこからCUBE端末が確認できる。

 どちらも、ごく普通のCUBE端末であった。内部に計算用の高分子ジェルが封入されているだけだ。祈機ではない。

『ハズレですね。諦めて帰りましょう』

 サクラの言葉を無視し、レイは周囲を見回した。まだ他に機材はないだろうか。

「ここ、まだ下がある……?」

 オフィスの奥の暗がりには、下へと続く階段があった。下の階と繋がって、一つのオフィスになっているようだ。

 そこを降りると広い空間があった。この階は不便なので、倉庫としては使われていないようだ。だが一つだけ、何か大型の機材があるのを発見した。

「これ……何だろう?」

 医療槽より大きい。しかし、医療槽によく似ている。黒い流線型の物体で、人が一、二人は入りそうな大きさだ。

 頑丈な作りが個人用の大気圏突入カプセルのようだ。これは、R社が作っている有人戦闘ポッドのコクピットブロックによく似ている。レイの愛機であるリヴォルテラやピストレーゼにもこういうコアがある。硬く閉ざされたハッチのせいで中身は確認できないが、きっと乗り込むことができる。見れば、球形の車輪のついた全地形降着装置のようなもので自立している。

 期待感を募らせた。政府でも有人戦闘機は配備・開発している。祈機は同じ有人戦闘機であるピストレーゼから持ち去られたものだ。中身にはレイが蓄積した戦闘データもある。これに搭載するためなら納得できる。

 ピストレーゼと同じならば、祈機はコクピットの上部、コンソールモジュールの内部だ。機体によじ登ると、同じ位置にメンテナンス用と思われる小さなハッチがあった。車のハンドルほどのそれに指をかけると、あっけなく開いた。

 しかし、レイの機体は裏切られた。

 そこには確かにCUBE端末を納める空間があった。しかし、空洞だった。

『持ち去られたのかもしれませんね』

 サクラの一言は慰めだったのかもしれないが、レイは落胆した。

(動くな)

 どこかからか、レイに命令する声が響いた。胸部のNデバイスが反応を示している。近くから、Sロットへの従属指令が出されている。

 声や言語ではないメッセージとして感じられるそれを、Sロットの間では「歌声」と呼ぶ。歌声は、レイの感覚を支配し、体を動かすことに抵抗を生じさせる。

 一般人とSロットの間に生まれた亜Sロットであるレイは、歌声に抗うこともできる。しかし、影響を受けないわけにはいかない。体の動きが鈍くなる。

「サクラ」

『探知できません』

 そういえば、サクラは研究所のシステムの一部だ。管理者であるQロットを感知できないことを思い出す。Qロット相手には、全く頼りにできないのだ。

 「歌声」を放つものは、Qロットしかありえない。レイはこの感覚をよく知っていた。離脱しなくては危険だ。どんなQロットかはわからないが、もし秘密工作用のQロットなら戦闘能力を付与された強化兵士の場合もある。

 この機材を調べれば、失われた祈機の所在の手がかりになるかもしれなかった。名残惜しく思いながらも、レイは音を立てないように階段を登る。

 上階に出ると、さらに歌声は強くなった。発信源が一つではない。三つか、四つ。この部屋ではないようだが、徐々に近づいているのを感じる。

 通常、一人で数十人から百人のSロットを管理するはずのQロットが、なぜそれだけの数集まっているのか。考える間もなく、レイの意識は支配されようとする。

(動くな)

 体が重い。膝をつきそうになる中、サクラからの声が聞こえる。

『Sレインの形式を特定。隠蔽タイプです。どうやら、隠密に事を済ませたいようです。ですが、このタイプであれば、対策を施すことができます。医療槽に入ってください。調整を行います』

『……わかったわ』

 声を出す余裕もなく、レイは了承のメッセージをNデバイスからサクラに送る。

 Sロットを操る信号は、CUBEネットワークの無線電波に隠される。これにはいくつかの形式があり、隠蔽度が高いほど妨害がしやすい。この敵は慎重で、最も弱い信号を使っている。たとえ他のQロットがいても、レインが飛んでいる事に気付けない程度に微弱なものだ。だから、あれだけの人数で重ねて発信する必要があるのだろう。

 この程度なら、外部デバイスの助けで軽減させることが可能だ。医療槽を使えば指令を解析して信号を妨害することができる。レイは重い体を引きずるように、先ほど発見した医療槽の一つに身を潜めた。

 歌声は強まり、敵は近づいてきている。しかし、まだ遠い。そう思っていた矢先だった。

 足音が聞こえる。歌声を放つQロットとは別に、誰かが部屋に入ってきた。歌声を発している主ではないようだが、ここに来るということは政府の人間だろうか。そうだとすれば厄介である。レイは絶賛不法侵入中の部外者だ。

 足音はまっすぐこちらに向かってくる。医療槽に寝そべったレイのすぐ耳元で足元は止まり、閉ざされたハッチが開放された。レイは、コートの下のブラスターに手をかける。

「……何してるの?」

 その人物の声を聞いて、レイは驚嘆と安堵の入り混じった感覚を覚えた。

 見知った顔だった。政府の人間には違いないが、友人である。政府情報室長代理の綺柊。柊は、不思議そうにレイを覗き込んでいた。



■柊・二



「……何してるの?」

 思わず問いかけてしまう。

 彼女は企業連合の一員だ。政府との抗争に関わる事もあるらしいのは知っているが、柊自身の目的と交錯したのは、記憶の上ではこれが始めてであった。

 追憶作業に必要な医療槽を調達するために政府の倉庫にやってきた。こんな場所で、政府関係者でもない友人と出会うことは全く想定していない。

「あの、これは! 違う、違うの」

 レイは気まずそうにしている。気まずいというよりは、興奮しているようにも見える。頬が紅潮し落ち着きを失っている。

 企業連合が政府の倉庫に進入したとなれば問題ではあるが、彼女の行動に関してはアイも寛容な所がある。ここには重要な機材もない。別に見逃しても問題はないと柊は考えていた。

 事情を聞きたいが、悠長にしている場合でもなさそうだ。亜種とはいえSロットである彼女のNデバイスの活動の様子が柊に伝わってきた。どうも異常があるらしい。

 胸元の少し上に指をふれ、Nデバイスに接続する。そこに触れさせることはSロットにとっては命を預けるに等しいのだが、レイは特に抵抗しない。

 そこには、他のQロットが送った従属命令が流れていた。体の自由を制限する微弱な命令が実行されているのがわかる。

 古い形式だ。研究が中心の白派では大分前に使うのをやめている隠匿信号である。こんな無駄に手の込んだ信号を使うのは、Sロットを表の世界で人材として扱う黒派っぽいと柊は思う。

 柊は自身のアドバンテージである大容量のNデバイスを用いて、周辺の信号の解析を行う。すると、四人のQロットらしき存在が接近しつつあることがわかった。

 同じQロットである柊は、より強力な制御命令を与える事でレイに自由を与えた。体の不自由を解消した彼女はしなやかな身のこなしでするりと医療槽から抜け出し、腰に下げたハンドブラスターを手に取る。

 接近する四人はレイを狙っているのだろうか。柊の存在には気付いていないかもしれない。黒派であれば、柊にとっても敵だ。

「手を貸そうか?」

 ここは共闘するのがいいだろう。アイがいない今、自己判断で行動するしかない。

「いいの?」

 レイは柊の立場を心配しているようだったが、この状況をアイが問題視することはないだろう。R社の一員である彼女は企業連合側であり、政府とも頻繁に対立しているのは確かだ。しかし、明確に政府からの独立を目指した二号トンネル計画に参加しなかったR社は、黒派と潜在的に敵対しているとも言える。アイがこの若い副社長を見過ごすのも、そのあたりに理由があるのだろうと柊は考えている。

 敵はすぐ近くまで来ていた。この建物は所々CUBE端末が抜き取られていて全貌ははっきりしないが、いくつかの監視システムは利用できる。断片的にだが、敵の状態がわかる。

 すぐ近くの階にいる。相手はQロットで、ネットワークへの隠蔽と防御は鉄壁だ。Nデバイスへの侵入は容易ではない。あまり情報は得られない。

 敵の姿は、アーマースーツで全身を覆った強化兵士のようだった。身のこなしに無駄がない。粗末な監視カメラ程度では照明の消えた廊下の様子ははっきりとはわからないが、短機関銃か何かで武装しているようだ。

 Sロットの強化兵士部隊がある、あったらしいことは柊も知っている。しかし、Qロットで、しかも複数人で組織された部隊など聞いたことはない。Qロットは管理者で、言ってみれば事務方だ。

 黒派は熱心に強化兵士を作っているらしいのは知っている。あるとすれば、Sロット狩りの部隊か何かだろう。黒派は過去に脱走事件を起こしたことがある。その後、脱走を阻止するQロット部隊を組織した可能性はありそうだ。

 イレギュラーなQロットなら柊も同じことだ。戦闘には慣れている。柊は自らの武器である特殊拳銃を掌におさめ、迫る敵を警戒する。そして、レイのNデバイスに視覚情報をリンクする。

 戦闘に慣れているといっても、怪我で現場を離れて一年経った。Nデバイスの過剰発達が原因で体は衰えているし、あまり高負荷のかかる計算処理を体内で行うのは寿命を削る行為だ。無茶は出来ない以上、共闘するレイには必要な情報を全て共有したい。

 射程の短い柊の特殊拳銃、護身用程度のレイのブラスターだけが武器では不安がある。相手は四人で、しかも制圧力の高い武器を装備している。だがなんとかなるだろう。それを補うものを、柊もレイも持っている。

 照明を点灯し、身を隠せそうな大型機材の裏に移動する。現代の戦闘は視覚分析戦闘だ。眼球から得た視覚情報をデジタルイメージとして取り込んで解析することで、防御と攻撃に役立てる。Nデバイスだから実現できる能力の一つだ。視界の確保はこ防御側に必要なものだ。

 やがて、扉を破って敵が侵入してきた。全身を覆う漆黒のアーマースーツが異様であった。頭部を完全に隠蔽するヘルメットを着用している。カメラセンサーがあり、それを通じて外を見ているのだろう。データベースに登録されていない新型のアーマースーツであった。

 始めに発砲したのは、レイだった。

 敵の武器とセンサーを狙った初弾は見事に命中し、敵のセンサーを破損させた。次いで、敵が持つ短機関銃に狙いを定め、破壊する。レーザーブラスターの命中精度の高さを最大限に生かした、無駄のない攻撃だった。

 しかし、敵の反応も早かった。短機関銃が一連射され、室内に跳弾が飛び交う。レイは反撃を受ける寸前に身を隠す。

 人体の動きを精密に分析すれば、射撃動作を予測できる。長い間、実戦の中で洗練されてきた方法だ。敵が銃口を向けるのをレイが鋭敏に察知できたのもそのためである。

 敵は一人が視界を失った。肉眼での戦闘に移行することはなく、後方へ下がって計算処理のバックアップに回るようだ。

 使用しているのはどうやら旧政府軍が特殊作戦で使っていた短機関銃のようだった。小口径の高速かつ貫通力の高い弾丸を発射できるタイプだ。軽度の装甲を持つ戦闘ポッドには無意味だが、対人用としては優秀な武器である。

 弾丸は高速、近距離戦闘では画像解析での予知も難しいが、あの銃は電子トリガーではない。発射するには指を動かす必要があり、正確な弾道計測とあわせれば攻撃の予測はそう難しくない。だからこそ、レイは反撃を受ける前に隠れることができた。なぜあんな旧型の武器なのか。

 レイに注視している敵の動きを確認しながら、柊は背後へと回りこむ。敵はSロットであるレイの居場所は常に感知できる。囮役に最適だった。

 柊は、持参した特殊拳銃に弾薬を装填する。射撃予測を困難にするための異質な形状を持つ特殊拳銃が柊の武器だ。指を動かす必要のない電子トリガーと握りの必要ない形状で、視野解析による弾道予測を困難にする。扱いが難しく、軍や警察での採用されるようなものではない。

 麻酔弾での昏倒が理想的だが、あのアーマースーツを貫けたとして、毒薬耐性を持つこともある強化兵士に有効かもわからない。使うのは、貫通力が高く殺傷能力の低いAP弾だ。

 レイを包囲しようとする敵に背後から射撃を行う。回転式弾倉に装填された四発を連射。弾はアーマースーツの肩に命中。貫通し、軽症を与える。敵は柊の存在を認知していなかったはずだ。不意をつかれても連携を乱さず、新たな脅威と認め反撃してくる。優秀な兵士たちだった。

 素早く身をかわすのは身体に負担がかかるので、今の柊にはあまりできない。膨大な計算リソースと、自身がQロットであることを生かすしかない。

 Qロット用の特殊回線を使ってサクラメントに接続、物質生成の現実干渉性をダウンロードし展開、実行する。七、八メートル以内になら自在に物体を生み出す事が可能になる。

 視覚情報で推定された弾道の上に、金属の立方体を出現させた。精密な計算のもとに生み出された物質は盾となり、正確に弾丸を防いだ。弾丸と生み出された立方体とが地面へと飛散し、金属音を響かせる。

 Qロットは過去に収集された現実干渉を自在に扱える。普通それには膨大な情報量となる記憶プログラムを扱うための計算装置が必要となる。異常発達した特殊なNデバイスを持つ柊はにはそれがいらない。

 それが柊のアドバンテージであった。体こそ衰えたものの、戦闘の柔軟性はかつての彼女を上回っているかもしれない。柊に火力が集中した瞬間レイはすかさず攻撃を加え、もう一人のセンサーも完全に破壊した。

 二対二の状況。敵は数の優位を失った。判断は素早かった。現場に何も残すことなく、すみやかに撤退していった。

 柊もレイも被弾はなかった。敵兵の錬度は高いように感じたが、装備している武器が旧式であったために、経験豊富な二人には十分対応ができた。

 あれが電子トリガーを採用した最新型の小銃であったならもっと苦戦していたに違いない。この暗がり、弾道予測が困難な武器を使われていたならば、レイは奥の手に頼る事になっただろう。

 気付くと、レイが柊をじっと見ていた。怪我の心配ではない。さっきまで感覚の一部を共有していたので、柊に被弾がないことはわかっているはずだ。

「視力、こんなに落ちたんだ」

 レイは言う。その表情にはどこか悲痛さが感じられた。

 言われて気付く。確かに、一年前に比べると、視野も動体視力も低下してきている。日常生活に支障があるほどではないが、戦闘は厳しくなってきている。

 今は性能のいい義眼があるので交換したいと思うことはあるが、アイは反対するだろう。今のままでも十分だ。

「ごめん」

 レイは柊の手を握り、言った。

 なぜ彼女が謝るのか、柊にはわからない。記憶にないことを考えても仕方ない。仕方ないので、二回りほど年下の少女の頬を撫でる。泣きそうな顔をする彼女に、触れてあげることしかできない。

 その一瞬のことであった。

 柊の痛覚監視機能に反応があった。自動的に防御機能が発動される。思考と認識よりも早く、腰部への破壊的な外力への対応が行われる。

 柊が認識した時には、既に施設のコンクリートの外壁が吹き飛び、周囲に破片を撒き散らしている所だった。Nデバイスによる緊急思考補助、認識加速によって、スローモーションのように状況を感じ取る。

 外壁を突き破り、施設の外から狙撃が行われたのだ。柊の腰に命中したのは大口径の弾丸だった。

 先ほどまで読み込んでいた物質生成の現実干渉性を瞬時に発動。侵徹しかけた弾丸を防ぐため、体内に弾丸を逸らすための複合装甲板を出現させる。それによって致命傷は避ける。しかし、コンクリート数枚を突き破ってなお殺傷能力を持つほどの弾丸だ。衝撃波を完全に逸らすことはできない。

 すぐそばにいるレイを突き飛ばし、コンクリートの破片から守る。激痛とともに体が吹き飛ばされる。防御を展開したことに加え、骨格を強化している柊でなければ、全身がばらばらになっていただろう。人工筋肉が寸断されている。生身なら二度と起き上がれないほどの衝撃だ。すみやかに痛覚を遮断し、ショックを軽減する。

 物質生成の能力は破損した体をある程度まで修復できる。Nデバイスは無理だが、被弾箇所だけはすぐに塞いだ。全身くまなく修復するのは、この場ですぐというわけにはいかなそうだ。

 レイが吹き飛ばされた柊に駆け寄って声をかけるまでに、応急修復のプロセスは終了している。柊が自分の力で立ち上がったのを見て、レイは一応安堵の表情を浮かべた。

 突き破られた外壁から外の風が入ってきている。どこからの狙撃なのか。柊もレイもすぐさま弾道計測を行い、射手の位置を探す。

 一〇〇〇メートルを越える長距離からの狙撃だった。遥か遠くの建物に敵がいる。バラック区画を隔てた向こう側だ。対物狙撃砲を装備した機械の類だろうと想像していたのだが、戦闘ポッドではなく歩兵のようだった。

 政府権限でエリアの監視システムを掌握できる柊は、射撃位置から移動する何者かの影をレイよりも先に捕らえた。

 そのおかげで、二発目は弾道とタイミングの予測ができた。

 最高クラスの対物狙撃銃では、発射される弾丸の弾速が戦車の主砲並みとなる。加えてこちらは建物の中にいるので、直接視認して避ける事は不可能だ。しかし、発砲位置がわかっていれば防御は可能である。町中にある監視カメラの画像を解析、高速フィードバックすることで、体に命中するよりも前に一点防御を展開する。

 柊の物質生成の限界である八メートル先に複合装甲板を生成した。この一瞬では十数センチ四方のものが限界だ。正確に狙われた二発目の弾丸はその装甲板に命中し、空中で弾け飛んだ。防御成功。

 敵はどうやってこちらを見ているのだろうか。周囲のシステムへの侵入の形跡はない。そうだとすると、高性能のセンサーを持っているのだろう。なら今の攻撃が無効だったことにもすぐにわかったはずだ。断片的に伝わってくるカメラ映像から姿を探ってみた。できるだけ死角へと入り込みながら、次の射撃位置に向かっていることがわかる。

 監視カメラに映った敵兵の姿を解析してつなぎ合わせると、先ほど襲撃してきたQロットの兵士と同じアーマースーツを全身に纏う強化兵士だということがわかった。しかし、装備は異なっている。ヘルメットを着用していないので顔がわかる。短く切りそろえた淡い金色の髪。Nデバイスの反応から、Sロットであることがわかる。

 しかし、それ以上の干渉はできない。Sロットを遠隔操作することはできない。直接信号を届けなければ、彼女たちのNデバイスを掌握することはできない。

 さっき襲ってきたQロット部隊はSロット狩りの部隊だという気がする。ならばきっと、この狙撃兵は対Qロット用のものなのだ。狙撃地点が遥かに遠くならば制御信号も送れず、Qロットもただの人と同じである。

 敵が装備している銃も判明した。先ほど襲ってきた四人と同じように、旧政府軍が装備していたものの一つである。対戦闘ポッド用に速射性を高めた、セミオートマチック式の対物狙撃銃だ。

 一発目では急所ではない腰に命中した。この区画は無計画なバラックの乱立で気流が乱れているために、シミュレーションに誤差があったのだろう。二発目はそれを計算にいれ、正確に胸部に向かっていた。精度を上げてきている。

 三発目への反応が遅れれば危険だ。頭部や胸部に損傷を受ければ、現実干渉性の計算をするNデバイスが失われる。

「私にやらせて」

 柊が考えをめぐらせていると、必死さすら感じさせる声色でレイが言った。

 今の敵の狙いはどうも柊のようだが、レイへの害意がないとは断言できない。お互い黒派に殺意を持たれる心当たりは十分だ。確かに彼女なら、柊の力を借りずにあの射撃を無効化できる。

 またQロット部隊の襲撃を受ける危険はあるが、ここから先はにぎやかな街中だ。あんな隠蔽信号を使ってこそこそと動き回っている部隊が出てこられる場所ではない。

「いいよ。でも、危険だったらすぐ戻ってよ」

 議論している時間はない。柊はレイを行かせる。イスラフェル系の血筋らしい頑固者の彼女を説得する自信はない。

 それに正直、今は彼女がいてくれることが心強かった。



■レイ・二



 衰えていく柊の姿がレイの胸を締め付け、肉体の痛みに等しい苦しさを与えている。

 誰も柊を知らず、柊も誰も知らない。ただ二人を除いては。一人は、今ここにはいない。だから、レイしかいないのだ。

 今この状況で柊を助けることもまた、レイにしか出来ない。レイが手伝わなくても彼女はなんとかしてしまう。だからこそ一人にしたくない。

 敵を討ちに向かう。柊から手渡されたのは、どこからともなく彼女が取り出してきた薬爆式の拳銃だ。レイが普段使っているモデルと同じカリッファ社のモデル9だ。とっくに消滅した企業のものだが、三次元設計データが一般公開されていて、形成機があればどこでも生み出せる。最も入手性が高く、洗練された拳銃である。

 改造版が数多く存在する。柊がレイに手渡したものも、連射切替機能を追加した機関拳銃<マシンピストル>タイプだった。手にしっかりと馴染むグリップが心強い。ハンドブラスターでも十分に戦える自信はあるが、武器は強力にこしたことはない。

 これを彼女がどこから出したのか、尋ねるのは野暮だ。前にもこうして武器を託されたことがあった。

 とはいえ、これほど精度の高い道具を無から生み出せるのは驚異的である。物質生成の場合、その生成精度は計算機能の高さに由来するのをレイは知っている。

 柊の体を蝕み、蜘蛛の巣のように体中に広がったNデバイスのなせる業か。そう考えると素直には喜べない。Nデバイスが過剰に成長すると、神経を食って寿命を縮めていく。柊の視力は明らかに低下していた。もう少し進めば、日常生活に影響するかもしれない。

 これは、不治の病と言われている。物質精製能力を治療に応用したとしても、過剰発達Nデバイスによる症状は癒せないらしい。微細に入り込んだ超微細素子のNデバイスの除去を行うとなると、それ相応の高度な計算が必要で、その計算をNデバイスに通す反動によって逆に傷口を広げる。外部装置などで負担軽減したとしても、必ず一度は生身のNデバイス中を膨大なデータが通過するのは変わらず、回復は見込めない。

 Sロット用のNデバイスについては抑制技術が長く研究されている。軽度なものに限れば、投薬によって大幅に軽減することが可能だ。レイもこれを使っている。しかし、重度に進行している柊にはほとんど意味がない。

 レイには、壊すことしかできない。この力でどこまで柊を救えるのだろう。

 駆け足で街中を通り抜け、ビル群へと接近していく。柊から提供される情報によれば、敵が潜伏していると思われる場所は限られている。

 敵は監視カメラから逃れるように移動し、狙撃地点を探している。そういう場所は限られている。また、発砲音があった。柊からのフィードバックによれば、今の五発目もなんとか予測、防御が出来たらしい。レイには見向きもしていない。

 あいつは柊しか狙っていない。柊は町中の監視カメラから予測される狙撃ラインを監視している。そこに反応があれば、発砲を検知し物質生成の防御の展開ができる。どこか一つでも破綻すれば、高速の弾丸が容赦なく柊の体を破壊する。何度も発砲されれば、いくら柊とはいえ危険である。

 今の発砲から敵の進路を予測し、柊は敵の潜伏予想地点を伝えてくる。もうすぐ先の建物だった。読みが正しければ、この建物の屋上、監視カメラの視覚となる給水タンクの影が次の狙撃地点のはずだ。

 ビルの中のエレベーターを使って登っている時間はない。レイは、装備してきたブーツに仕込まれたブースターを跳躍モードで作動させる。内蔵電力の全てを消費し、三〇〇メートルほどの高さをほんの数秒で跳躍、軽やかに屋上へと到達する。

 そこに、敵がいた。

 第一印象は、想像していたよりも地味な普通の兵士といったものだった。ただし黒いアーマースーツは見たことのないタイプで、近代的なものだ。

 傷一つないアーマースーツに対して、装備している武器は二世代近く前の中古品なのがどことなくいびつであった。ヘルメットはなく、顔が見えている。淡く薄い色の金髪。Sロットの系列としては、ヘンシェル系とイスラフェル系の両方の面影が感じられる。何の感情も浮かべない目が、レイの姿を認めた。

 少女だった。こんな状況でなければ、素直に愛らしいと思っただろう。古い武器を扱う姿と相まって、レイは少しだけ気分を高揚させる。

 月面では、対物銃自体を歩兵が装備しなくなって久しい。戦闘ポッドの装甲を貫くにはいいが、おびただしい数で運用されるそれらに対しては装弾数が少なすぎる。戦死を覚悟で人海戦術が使える政府軍が、最終手段として大量配備していた。近年それが横流しされ市場に埋蔵されているという。入手製は高い。

 確かにこの武器は手に入るものの中では最もQロットに対して有効な武器だ。操作不能な長距離から高速で飛来しコンクリートの壁も貫通する運動エネルギーを瞬時に処理できるQロットは、柊くらいのものだろう。普通なら、とっくに仕留められている。

 敵とレイが屋上に到達したのはほぼ同時。お互い、瞬時に相手の存在を認める。目が合った。黄水晶色の瞳の奥が、一瞬青く光る。義眼だ。最新式のスキャンアイ。あれの複合センシングによって、一〇〇〇メートルも先の壁の向こうの人間を正確にとらえてみせたのだ。

 全身の筋力を強化された強化兵士である敵は車両を大破できる対物銃を軽々と扱い、優れた照準能力を持っている。恐ろしい相手だ。だがあのスキャンアイは長距離解像度を重視してチューニングされていて、視野角を限定しているのが欠点だ。望遠能力は驚異的だが、全体を見渡す能力には欠ける。柊の位置から離れたレイの存在までは追いきれず、途中で見失っている。

 だから、ここまで接近することができた。この近距離では、武器の優位性も絶対ではない。本来は、あのQロットの強化兵士とセットで運用するのかもしれない。

 先に発砲したのは敵の方だった。この近距離では、電子トリガーのない火器の発射タイミング予測は容易だ。視野にとらえた衣服の皺から筋力の流れまでも解析し、最適な回避行動がとれる。特に工夫のない敵の射撃は、虚空へと飛び去っていった。

 対物銃の装弾数は少ない。スタンディングでも発砲できるほど反動は抑えられた機種、しかもセミオートマチックで連射が効くとはいっても、むやみに乱発してくることはなかった。

 重量武器を持っているにしては敵は機敏だが、レイが持つ機関拳銃の射撃を余裕を持ってかわせるほどではない。レイの武器の存在を認めると、敵は構えをとき、少ない物陰であるエレベーター部分に隠れた。慎重な行動だった。

 スキャンアイがあれば、敵は壁の向こうからレイの存在を探知し、壁を貫通して一方的に攻撃ができる。電子トリガーがない欠点もカバーできる。それだけは危険だ。見渡しの効く屋上、唯一の建造物であるエレベーター。そこにいつまでも隠れされるわけにはいかない。ブースターはまだ跳躍モードになっている。レイは大胆にも、その上へと飛び乗り、姿を晒した。

 重量武器である対物銃を敵が上向きに構えるよりも、レイの機関拳銃が火を噴くほうが早かった。アーマースーツに何発かが命中。敵はバランスを崩し、苦し紛れに発砲した二発目もでたらめの方向に飛んでいく。レイはそのまま掃射を続け、物陰から敵を追い出す。

 既に致命傷を与えいててもおかしくない状態だが、レイは力を使っていない。できる限り姉妹を殺傷したくないからだ。敵はどう見ても自分と同類であり、できれば無傷で捕らえたい。

 ぴたりと敵の額に照準する。相手にも、弾道解析でそれが伝わっているだろう。

「お茶でも飲みながら、武器のことでもゆっくり話さない?」

 声をかけるが、返事はない。冗談を言ったのに無視されて少し切なくなる。彼女が重い武器を構えて発砲するよりも、レイが電子トリガーに発砲を命じる方が早い。敵もそれがわかるのだろう。動かない。

 敵は重い対物銃を地面に捨てた。それを見て、レイは一瞬油断した。瞬間、敵は目にもとまらぬ速さで腰に装備した拳銃を抜き、発砲してきた。

 敵の装備の拳銃は対物ライフルと違い最新型で、電子トリガーによる高速射撃が可能なものだ。見事な射撃だった。寸前で反応したレイは、ブーツの緊急加速機能を利用する。すぐ耳元に、弾丸が通過する音が聞こえた。勢いがつきエレベーターの屋根から地面へと落下するが、姿勢を崩さずに着地する。

 敵はその間に、片腕で地面に置いた対物銃を拾い上げている。構えて発砲してくるかと思えば、おもむろにそれを投げつけてきた。

 強化兵士の常識はずれの腕力で投げられたそれは、着地姿勢をとったレイには避けられない。このまま受ければ大怪我をする。

 仕方がない。レイは胸部のNデバイスを覚醒させ、指先から機関拳銃へと、その内部の弾薬へと、その先端の弾頭へと意識を集中させる。

 そして、迫り来る重量物へと発砲する。九ミリの弾丸程度が当たった所で、迫り来る質量を阻止することはできない。しかし弾丸が命中した瞬間、対物銃はわずかに白い閃光を放ち、跡形もなく消滅した。

 一瞬現れる真空状態に大気が殺到し、はじけるような音が響く。これが、レイが持つ現実干渉性だ。研究所のデータベースには無い、唯一無二の能力。柊がやっていた物質生成とは逆の、物質を分解消滅させる力であった。

 普通、現実干渉性のおよぶ範囲は自分の意識から十メートル程度が限界である。しかし、弾丸を使って消滅位置を飛翔させる訓練をしたレイの手に握られれば、どんな射撃武器でも絶大な破壊力を発揮する。

 二度目の呼びかけはせず、レイは再び敵兵の額へと照準する。それだけで意思は伝わるはずだ。後ずさりするものの、地面はそこで終わっている。

 敵は一言も発することなく、手に持った拳銃を自らのこめかみに当てた。

 自害するつもりだ。そう判断したレイは、即座に照準を相手の手に移し、発砲。金属音とともに、拳銃が弾き飛ばされる。

 しかし、それだけでは十分ではない。ここは屋上、すぐ背後には三〇〇メートルもの奈落が待ち構えているのだ。レイは駆け寄ろうとしたが、遅かった。敵はひらりと宙に身を投げ出し、消えていった。

 思わず覗き込むと、まだ落ちている最中であった。その表情には、何の感慨も浮かんでいない。機械として生み出され、その機能のひとつとして今の行動を選んでいるに過ぎない、そんな認識しか持っていないのだろう。

 その表情に、困惑が表れた。いつまでも、彼女は落下し続けているのだ。

 空中に捉えられたかのように、やがて彼女の落下は完全に止まってしまった。周囲の重力が消えうせたかのようにふわふわと浮遊している。

 レイの瞳は豆粒のように小さい柊の姿を認めた。はるか下から、さっきとは別の現実干渉性をロードして、重力操作を行なってこの狙撃手を浮かせているらしかった。

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