Arcadia(A) 2
■榧・一
「ようこそ、クリシウムへ」
招待状を差し出す時には緊張したが、受付の女性は何の無礼もない応対で榧を招いた。直前になって編集長に担がれているのではと不安に思ったりしたが、そうではなかったようだ。装飾された門から巨大な宇宙戦艦の中に足を踏み入れる。通路は軍事施設らしい無骨な印象だが、新しく美しかった。
接待用に整えられた待合室はホテルなどと変わりがなく、艦の中だというのが信じられない。品がいいとは言えない零細新聞の雇われ記者である榧は自分が場違いではないかと心配になる。一応身なりは整えてきた。記者は様々な場で取材を行うのだから、格好だけはついてなければいけない。そう主張するクリス編集長によって、礼服だけは上等のものを買ってもらっている。
一般ゲストの待合室に集まった人の格好を見ていると上から下までいる感じだった。転売され高いプレミア価格がついたチケットに手を出す財力がありそうな人が大半。運よく抽選に当たったと思われる普通以下の見た目の客もちらほらいる。榧は若干服に着られている感じがするが、この中ではまあそれなりに見えるはずだ。少し安心する。
今回の取材がうまく行けばきっと購読数を稼げる。編集長に高い洋酒の一つでもプレゼントできるだろう。
式典中、アイ・イスラフェルに直接会うことができるかもしれない。ただし、機会が多いとは言えなかった。二日ある式典の日程中、政府関係者とゲストは全く別のスケジュールで動く。全長一キロメートルという巨大構造物のオウミ級は想像以上に広い。政府関係者と特別招待客の一団とは一度だけすれ違ったが、そこにアイ・イスラフェルの姿は見つけられなかった。その一団は少人数で、身なりや態度など明らかに一般ゲストとは違っていた。
「こちらがオウミ級の目玉、超巨大電磁加速砲です」
ふわふわした喋り方の人物が一般ゲスト組の艦内ツアーの案内をずっとしてくれていた。何かの間違いで軍人になってしまったかわいそうな人かと最初は思ったが、他のゲストの会話で聞いたところでは月面都市の市長であるという。
そういえば政府が月面に群を駐屯させるようになった時、名目上の政令市にするために市庁舎が作られたと聞いたことがあった。月面都市に市長がいるなんてこと自体を榧はすっかり忘れていた。影が薄いと思っていたら、こんな仕事をやらされているのか。かわいそうな人という印象は間違っていなかった。
政府軍から何を吹き込まれたのか、市長はきらきらしたまなざしで紹介を続ける。防護ガラスの向こうの巨大な空間に浮かび上がる威容な姿の構造物を無邪気に指差している。
オウミ級はブロックシステムを採用し内部構造を交換できる。四つのブロックを自在に組み替えて搭載できる。ブロックは巨大で、数万人を収容する居住ブロックや作物の栽培ができる農業ブロックなどが存在する。今いる場所は一つのブロックをまるごと使った武装ブロックである。ここに搭載される人類史上最大級の電磁加速砲はオウミをオウミたらしめる象徴であった。水上艦艇の巡洋艦ほどの全長の巨砲は現在格納されていて、分厚い耐熱ガラス窓から直接見ることができる。使用時は外部へと迫り出す。戦闘になればこのブロックは人がいることすらできない高温にさらされるらしい。通路には埃が燃えたような匂いが僅かに残っていた。
一日目はそうして艦内設備を案内された後、そのまま居住ブロックに用意された自室へと戻らされた。本格的な式典行事は明日からだ。
現在この艦の乗組員は定員以下であり、部屋には余裕がある。一般ゲストに与えられたのは艦内で最も簡素な部屋だ。巨大な宇宙船、しかも長い航海任務を行うだけに、広く快適に作られている。新造艦なので榧の普段の住まいよりも綺麗である。
ひとたび静けさに包まれると、やはりここが艦の中だとは信じがたかった。宇宙船に乗った経験は何度かあるが、輸送船に客室をつけた程度のものばかり。ああいった船は無重力が落ち着かない上、振動や音への配慮もないのでくつろげるものではない。オウミ級は、さながら豪華客船であった。
ベッドに横たわる。耳をすませると、ほんのわずかだけ艦内の動力らしい音が聞こえてくる。さすがに歩き回った疲れがきた。普通の記者であれば、オウミ級の艦内をつぶさに記事にするだろう。今まで一般人が入った事がないのだから。しかし、榧の関心は別にある。
夜からは全員での立食会があるというので、そこでインタビューの機会を得られるかもしれない。少し休んでおこう。目を閉じると、榧はあっという間に眠ってしまった。
目を覚ましたのは、ベッドに横たわって五時間以上過ぎてからだった。飛び起きるものの、とっくに立食会は終わっている時間だ。
「あちゃあ……」
居住ブロック内での外出は特に禁じられていない。そっと扉を開けて外を見てみる。照明は点灯しているが明度が落とされている。廊下には人の気配がまるでない。皆眠っているのだろう。空調が作動するほんのわずかな音が聞こえるだけだ。
喉が渇いている。艦の寿命を延ばすために湿度の調整をシビアにしているという話だった。乾燥には注意するように言われていたことを思い出す。
確か、エントランスに自由に使える飲料メーカーがあった。榧は部屋を出、そこへと向かうことにした。
「ま、迷った……」
広い艦内はNデバイスによってナビを補強されている。指示に従って歩いていけばいいはずなのだが、榧のNデバイスはどういうわけかこの手のナビの誤読が多く、迷いやすい。
CUBEシステムにうまく認識されていない時があるらしい。モジュールの詰め込みすぎかもしれない。一度デバイスの整備をした方がいいのだろう。しかし、医療機関に行くのには抵抗がある。榧は一応は月面都市の市民ではあるが、元は難民である。
医療機関のデータベースは地球と地続きだ。バイオメトリクスの読み取りを行えば、難民以前の出生地や家族の所在が詳細に判明するかもしれない。
榧は、過去の記憶が曖昧である。Nデバイスを施術した年齢が幼かったことによるのか、あるいは何かつらい経験をしたせいなのかはわからない。不便はないので、気にしないことにしている。
うっすら覚えているのは育ての母がいたらしいということだけだ。榧は今の自分が好きだった。母がもう死んでいると言われても悲しいだけだし、この月面都市にいると言われてもどうしていいかわからない。好きだった母の記憶を穢すくらいなら、道に迷うくらいは我慢する。
とはいえ、このままでは自分の部屋に戻ることさえできない。こういう時は、他の誰かのNデバイスとリンクすれば大抵は位置情報が元に戻る。
誰かいないだろうか。誰でもいい。あてもなく歩く。すると曲がり角に消えていく人影を認めた。
「あの、そこの人!」
追いかける。人がいてくれてよかった。駆け寄って声をかける。
振り返った顔を見て、驚いた。
その人物こそ、榧がここに来た目的そのもの。惑星開発財団総帥のアイ・イスラフェルであった。
取材道具を持ってくるのを忘れてしまった。道具といっても大したものではない。ボイスレコード端末がなくても、肉体の聴覚を使って音声を記録できるので、記者は手ぶらで活動できる。
しかし、あれがないとどうも格好がつかない。取材してますよ感が薄れてしまう。
どうやって会おうかずっと思案していた人物とあっさり出会い、飲み物のあるエントランスに案内されてしまった。しかもまだ向かい側に座ってくつろいでくれている。話しかけるなら今しかない。しかし、いざとなると言葉が出てこない。物怖じした経験がない榧でも緊張してしまう。
「は、はじめまして、そのぅ…」
挨拶くらいしかできることがない。近くで見るアイ・イスラフェルの雰囲気に圧されてしまうのだ。
彼女の年齢は五十に近いはずだが、とてもそんな風には見えない。長い銀髪のなめらかさ、肌の美しさは三十代半ばか、せいぜい四十近辺にしか見えない。
とても綺麗な女性だった。映像で見るといつも純白のスーツを着ているが、今日の格好はもっとカジュアルなものだ。それが余計に現実感の希薄な美に拍車をかけている。ここは異世界かと思えてしまう。
「知っていますよ。“グリント”の記者さん」
しかもアイは榧のことを知っていた。
「あはは、その、読んでくださったので……?」
「ええ、とても興味深い記事を書かれるからね」
アイは悠然と微笑みながら榧を見ている。気まずかった。榧はあの記事の中で、目の前の女性をさんざんに悪者にしたのだ。
悪人には見えない。やっぱりこの人は関係ないんじゃ? そんな考えさえ浮かんでくる。
「ご、ごめんなさい」
「特に迷惑はしていませんよ」
しかし態度に騙されてはいけない。自分は記者だ。事実を基準に行動すべきだ。そう考え、榧は自分の気持ちを否定した。
「地球の地域封鎖に不審な点があることについては、どうお考えなんですか」
政府の地球の管理には不審な点がある。立ち入る事のできない区域がこれまでになく増えている。それだけならまだしも、すぐ封鎖されるはずの区域で大規模な工事を行なったりしている。何かあるのは間違いない。そう確信したからこそ榧はここにやってきたのだ。
「確かに不審に思えることもある。でもね」
ペーパーカップの中の紅茶を傾けつつ、アイは続ける。
「財団総帥の仕事は、集まってくる資産をいかに運用するか決める事です。その過程で事業の内容や先行きを分析して決定するから、政府の様々な情報が集まってくるのは確かです。でも、私が把握しているのはほんの一部だけ。ほとんどは財団の顧問になっている利益外の学者の先生に依頼して、資産を配分しているの」
そのことは榧も知っている。確かに財団の資金の配分は政府と関係ない一般人がしていて、内容も明瞭化されている。怪しい所がない。
「でも、あなたは総帥になる前は学者でしたよね。今でも一部の事業については判断ができるんじゃないんですか」
アイはかつて宇宙居住環境の研究者で、その後は医療情報技術に関わっていたはずだ。もし視覚への不正な介入があるとすれば、それを実現するのに役立つような分野に詳しい。
「よく調べていますね。でも、昔の話ですよ。学生の域を出ないような研究でした」
アイは答えた。学生の域というのは謙遜だ、と榧は思う。
「噂がありますよね。政府の秘密研究所のこと。強化兵士を作っていたとか」
政府は月面都市のどこかに独自の研究機関を持っているという噂話がある。都市伝説の類と考えられているようだが、榧はその噂を調べあげていた。
アイの表の仕事を見るとそれほど強化兵士や視覚改ざんと関係がないように見えるが、能力と権力を考えると縁がありそうに思えてならない。よく調べれば調べるほどそんな人物は他にいなかった。
「確かに強化兵士や視覚情報について研究する機関はあったと聞いたことはあります。政府が今もそういうものを作っているとは思わないけれど。もしあるなら、明らかにして止めさせます」
目を伏せ、アイは何事か考えをめぐらせているようだった。
「許されざる過去なのは確かだと私も思う。政府に関わる人間として、忘れてはいけないことだと」
そして、小さい声でつぶやいた。偽りの気持ちを述べているとは思えない表情をしていた。
過去とは、地球での戦争のことだろう。主要な国家が集まって結成された政府集合体と、それに参加せず対立した国家との戦争だ。政府軍はひそかに作り出した人造強化兵士を投入。極秘裏の計画だったはずが内部告発で露見し、人権問題となった。
戦争における政府の様々な非人道的行為は前から囁かれていた。あの事件は不信感を爆発させる決め手となった。そして、それが企業連合の自治の正当性に拍車をかけた。あの事件があったから、政府と企業の対立という構図がこんなにも長引いたとする分析もある。
榧は無意識に肩を抱いた。戦争の中、榧は政府の側に拾われた。当時の月では難民の受け入れによる労働需要の圧迫があった。そんな状況下では、難民と知られると迫害を受けた。
思い出すと嫌な気持ちになる。
「そろそろ部屋に戻りましょうか。もう遅いですよ」
時刻は深夜。榧は十分寝たからいいが、アイはこれから休むのだ。榧を部屋に送り届けない事には彼女も戻れない。これ以上引き止めては悪かった。しかし、まだ話し足りない。この人ともっと話したいと思う。
単なる取材というだけでなく、榧はアイとまた会えることを望んでしまっていた。
格納庫に作られた式典会場、その壇上で式典二日目を告げる挨拶をしたのはアイ・イスラフェルだった。
榧は昨晩から眠れずにいた。アイが大勢の参加者の前で挨拶をしているのを見ると、まるで昨晩のことは夢の出来事のようだ。
ゆうべの会話を、ファクト・チェックを通して分析してみた。
声色、目線、言葉の使い方のどれにも不審な点はなく言葉どおりの意味しかない、という分析が出ていた。アイに悪意があるようには思えなかった。
このインタビューは記事にする価値はないだろう。彼女はどこまでも白い。榧は、壇上のアイに見蕩れていた。
今日はいわば式典の本番で、自由行動が多い。艦内を歩き回って見学することができる。後部の格納庫では搭載機の試乗や紹介も行っている。実物の詳細なスペックが隠されている最新機ともなれば、実物の観察は新鮮な情報である。
この日、再びアイに会える最後のチャンスがあった。
昼食時はゲストと関係者は一緒のホールに集まる。この時が最後のチャンスだ。これが終わると、一度イベントが中断される。それから式典の最後を飾るデモンストレーションが行われるのだが、ゲスト参加者はこの時点で艦を下りる。迎えの輸送船に乗り込み、外から見物するのだ。
結局、昼食ではアイに近づくことさえできなかった。昨日あんな深夜まで起きていたのに、一息つく暇さえないように見える。次から次へと挨拶する人が訪れている。財団の出資がなければ立ち行かない組織もいる。だが、あれではかえって迷惑ではないか。アイは丁寧に応対していたが、表情には疲れが見える。
私だって彼女と話したいのに。榧はもやもやした気持ちを抱く。普段ならこういう状況でも割り込んでいただろう。ここで我慢するのは記者としては失格かもしれないが、これ以上彼女に負担をかけるようなことはしたくない。
昼食の時間いっぱい、アイは一人になることがなかった。ゲストは下艦する時間が近づいている。もう既に、これからのイベントに向けて兵士が配備され始めていて、個室に戻る事は出来ない。
最後のチャンスだ。このわずかな自由時間に、アイを探す事にした。もし休んでいるようだったらおとなしく引き下がろう。オウミ試乗レポートだけでもそれなりの記事にはできるだろうし、それで編集長をやりすごすしかない。
向かった先を追って、アイの背中を見つけた。彼女は、きょろきょろと当りを見回している。迷っているようだ。
しかし、それはおかしい。確かにこの艦の内部は共通モジュールを使っているので、どこも同じような見た目で区別がつかない。モジュールに書いてあるのはシリアルナンバーだけである。しかし、Nデバイスはそれらの番号からすぐにモジュールの位置を特定できるし、乗員のNデバイスの位置も常に管理している。昨日案内してくれたように、普通は迷うなどありえないのだ。
「あの」
近づいて、話しかける。アイは少し不安がっている。何があったのだろう。
「榧さん」
榧もクリシウムのネットワークに接続してみる。ここは居住ブロックのはずだ。しかし、あるはずのその先の通路が存在しない。マッピング情報と現実が一致していない。
そこには、分厚い耐熱ガラスの窓があるだけだ。覗き込むと、そこには初日に見学した巨大な電磁加速砲が見えている。
ここは、居住ブロックなどではない。武装ブロックだ。
「どういうこと……?」
榧は思わず疑問を口にした。アイのNデバイスでも、この場所は居住ブロックだと示されているらしい。データベースの異常か? そう思っているとすぐに認識は更新された。正しく、電磁加速砲のある武装ブロックだと表示された。
警報が鳴り響き、照明が非常灯に切り替わる。通信網が遮断され、クリシウムの内部ネットワークへの無線通信が不可能になった。
式典の最後を飾るイベント。それは、あらゆる通信を遮断した隠密行動モードで障害物の間を航行し、ターゲットを電磁加速砲で仕留めるという戦闘デモンストレーションだ。
ゲストの退艦がもう終わっていることに榧は気付かなかった。人数の確認もしなかったのか。もう、戦闘デモは開始している。異常事態に頭がついていかない。
窓の向こうから響く轟音に振り返ると、そこでは電磁加速砲が起動を開始していた。巨大なハッチが開き、暗い宇宙空間が奈落のように現れる。
さっきのマッピングの異常のせいなのか、この区画に二人が残っている事もシステムには認知されていないらしい。人が残っているとわかっているなら安全装置が働いて、電磁加速砲の起動はできない。
ここにいては、あの巨大な砲が発する熱と振動をもろに受けることになる。生身の人間はとても生きていられない高熱と衝撃波が襲う。
「外へ連絡できないんですか?」
「ネットワークが停止している状態だし、二人くらいのNデバイスの出力では、外まで電波は届かないね」
医療通信技術の専門家であるアイが言う。なら、そうなのだろう。
ステルスモードといっても、艦が外部から見えなくなるわけではない。このモード名は通信の遮断を意味している。
何もない宇宙空間でこれだけの構造物を隠すことはできないので、実戦では小惑星や衛星、または他の船の影などに隠れることが想定される。CUBEネットワークを全体に張り巡らせた巨大艦では、艦から発せられる電波を探知される。隠れても意味がない。そのため通信遮断状態を作るのがこのステルスモードだ。
この時は艦内ネットワークが停止し、乗員の位置は特定できなくなる。ここに二人がいることがシステムから知られることはない。しかも、乗員の移動を防ぐために隔壁が封鎖され、移動が制限される。特に武装ブロックは通常、完全に出入りを遮断される。
普段ならばこのブロックから完全に人が退去してからでなければステルスモードには入れないはずだが、先ほどまで二人は、システム上では居住ブロックにいると認識されていた。そして、この状況がある。
「こっちへ!」
アイが、榧の手をとった。この中に詳しいのは榧よりアイだ。アイはあまり早くは走れないようだったが、榧はついていくしかなかった。
電磁加速砲への通電は既に始まっている。もう温度の上昇が感じられる。超重量の砲弾を加速するため、核融合炉の最高出力の電流がこの砲に流れ込む。膨大な量の電流によって加熱する砲身を冷却するためにブロック内にも熱が充満し、中心区画は灼熱地獄へと変わる。構造物が融解しだす程ではないが、人間にとっては危険な温度に達する。二人が閉じ込められたのは、まさにその中心区画だった。
アイに手を引かれてたどり着いた場所は制御室であった。
「ここから、通信を送るんですね」
「いいえ。確かにここの電子機器は使えるけど、CUBEネットワークが停止している今、繋がっているのはこの部屋の中だけ」
スタンドアロンでも隔壁の電源は作動しているので、ここに来るまでの間も電子扉が作動していた。しかしモジュールが連携していないので、それも外部には伝わっていないだろう。
この船は、細かいモジュールをフレームに取り付けていくことで作られている。普段はモジュールの壁の間に計算素子のジェルを流し込み、モジュール同士が通信を行うことで艦内ネットワークを形成している。月面のCUBE端末と同じ役割を果たしているのだ。CUBEならば必要に応じてモジュールを組み替えるのが容易で、破損の修復や機能の更新ができる。
そのネットワークが断絶された今、細かいモジュールはすべて独立した動作しかできなくなる。どこにいても通信を送ることはできない。
「この部屋は電子機器を守るために冷媒ガスのパイプの下にある。他の部屋よりは、まだ温度の上昇は少ないわ」
ここが最も近い退避場所だという。とりあえず、すぐさま焼け死ぬ心配はなくなる。しかし他の問題もある。空調が止まっているために酸欠の危険があるのだ。この部屋には緊急用の酸素マスクがある。残念ながら一つしかない。他の場所は、ボンベが高熱に耐えられないので、設置されていない。
制御室の分厚い扉を閉めた時には、もう部屋の外は耐え難いほどの暑さになっていた。移動するのは危険が伴う。
「……っ」
ここにしても快適とは言えない。アイは、ほとんど倒れるように、壁にもたれかかって座り込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
手をとってみると熱を持っている。この暑さは堪えるのかもしれない。若い榧に比べて消耗が早い。
さっき手を取ってくれた時には、まだアイの手は冷たかった。細くか弱い手だ。こんな細い体で激務をこなしていると思うと、胸が苦しくなる。
発砲の度に激しい振動が襲い、温度はさらに上昇していく。榧も立っていられなくなる。扉は触れられないほどの高温になってきている。榧はアイを部屋の奥に運んだ。そこは比較的気温が低い。
喉が渇く。戦闘デモはいつ終わるのだろうか。CUBEネットから隔離された今、時刻の取得もできない。もう何時間も経過したように感じるし、もしかすると数十分かも。息苦しさが増す。次第に意識が遠のいていった。
目が覚めた時、榧はアイの膝の上に頭を乗せていた。気絶してしまったらしい。酸素マスクを口に当てられている。息苦しさはなくなっていた。気温もやや低下したように思える。
非常灯だけではアイの顔色ははっきりわからないが、元気になったようには見えない。
「もう、終わったんですか?」
砲撃音はやんでいた。しかし、まだステルスモードは続いている。
「いいえ、今のはウォーミングアップみたいなもの。これから、最大性能を発揮した連続射撃を行う予定」
そうなれば、この部屋も外と同じくらいに加熱するという。
「そこの天井のハッチの上は電子機器が入っていて、一人くらいなら入れるわ。冷媒のすぐそばで、シールドもされているから、あなただけは助けられる」
アイは言った。榧にそこに入るように言っているのだ。
「私はいいです! あなたが……」
「それはだめ。あなたに生きていてもらわないと、困るから……」
アイは途切れ途切れにそう語るが、立ち上がることも困難な状態だ。自分が彼女を守らなければ。榧はそう決意した。
「艦のデータを持っていたら、ください」
「え……?」
「私が、なんとかします」
アイを安全な場所に押し込んでから、榧は移動を開始した。
一旦射撃が止まったことで部屋の外の温度が少しだけ低下し、なんとか出ることができるようになっていた。暑いだけではなく、猛烈に乾燥している。肌を刺され、服が乾いてひび割れそうだ。この中を移動し、次に砲撃が開始されるまでに何らかの方法で助けを呼ばなければいけない。
榧が思いついたのは、今いる制御室の反対側にある電源室にいくことだ。区画に唯一繋がっている核融合炉との通信ケーブルがある場所で、そこからエンジンに干渉して重力パルスを発信することで、艦内外への救難信号を送るのだ。
無差別にメッセージを送りたい。これは要人暗殺には適した環境だと榧は気付いていた。CUBEネットワークで満たされた月面ではいつどこで行方不明になったのかわかるが、ここはその外。スタンドアロンの状態で起きたことならば、行方不明になった原因は追究しにくい。
アイを狙う人間がいる。これが事故でないとすればそういうことだ。榧は犯人に憤りを感じざるをえない。
電源室に行くためには、一度真空の砲身エリアに入らなくてはならない。そのために、まずは榧は宇宙服を調達する。軍用のもので、熱に対する抵抗力がある。これなら、少しは活動しやすいだろう。
砲身エリアに入った時、奇妙なものを見た気がした。上部ハッチが開いているので宇宙空間が見えている。そこに浮かんでいる遠くの地球が、奇妙に欠けているように見えたのだ。
宇宙空間では影は暗く見える。榧は視力がいい方ではないし、今はそんなことを気にする余裕はない。
アイを死なせてはならない。死なせたくない。それしか考えていなかった。再び別の入口から艦内へと戻った。艦内に戻ると、暑さが肌に染み渡る。
アイから受け取ったクリシウムの構造図の番号を丁寧に読み取っていけば、Nデバイスの補助がなくても目的地に辿りつけるはずだ。しかし、そこで問題が起きる。
「あ、あれ?」
番号が一致しない部分がある。何らかの原因で組み替えられた場所があったらしい。榧は、またしても迷ってしまった。
「どうしよう……」
このままではアイが危険なのに。あの場所にいれば温度は安全なはずだが、酸素の方が持つかわからない。逆に榧は酸素を宇宙服から調達したが、高温が続けば体は丸焼きにされる。
その時、榧の肩を叩くものがいた。
「そんな、どうして」
「やっぱり、迷子になったわね」
そこにいたのは、アイだった。
「体は……」
「少し休んだから。それより、急ぎましょう」
とても回復しているようには見えない。多分榧と同じところで調達したのだろう、宇宙服を着ている。バイザーの向こうのアイの表情には、消耗が色濃く感じられる。
追い返している時間はない。急ぐしかなかった。アイの指示に従って、榧は歩んでいく。そして辿りつく。電源室だ。ドアは頑丈なバルブでロックされている。握ろうとしてみるが、グローブ越しでも高温で触れられない。
「(こんなもの……!)」
火傷しても構わない。命より大事なことはない。そう考え、覚悟を決めようとした瞬間だった。
アイは榧の手をとって、押しのけた。
「大事な手だよ、あなたのは」
私の命よりも。アイは、はっきりとそう言った。
そして、全身の力を込めてバルブを握り、扉を開いた。宇宙服のグローブが焼き切れ、彼女の顔が苦痛に歪むのを、榧はただ見ているだけしかできなかった。
■柊・三
S型R13‐13、起動。
何もない世界にいた自分が、現実に拾い上げられる。
仮想空間での教育はまだ終わっていないはずだったのに、もう現実に呼び出される時が来た。気付いた時にはNデバイスに命令が記憶されている。
Nデバイスは脳の拡張領域だ。追記された記憶は自分の記憶となり、まるでずっと前から知っていることのように自分の中に存在している。命令の理由も目的もなく、それに従わなければならないとしか知らない。
肺に満たされた培養液を吐き出し、大気を吸い込む。まだ培養槽からは出られない。シャワーのように流れ出る洗浄水で体は洗い流され、続いて温風による乾燥。そこでようやく、培養槽のハッチが開かれた。
裸足のまま外に歩み出る。体に違和感はなかった。足元には柔らかいマットが用意され、目の前にはぴったり合うアーマースーツが用意されている。それを淡々と着用した。十分ほどで、彼女の「開封」は終わった。
現実世界を初めて経験するR13だったが、この体の隅々までも仮想空間で体感済みだ。こうしていても、寸分の狂いも感じない。
少し違うのは与えられた武器だ。身につけたアーマースーツは教育で経験したのと同じものだったが、与えられた火器だけは異なっていた。後方支援が任務のS型であるR13には狙撃銃や重い機関銃などが用意されている。そうした制式装備の扱いは覚えこまされている。しかし、旧式の対物狙撃銃は訓練にはなかった。
不足している情報が多く、自分で処理する必要がある。それを不満に思う機能をR13は持たない。
武器を握ると、それを扱うのに必要な能力がNデバイスにダウンロードされる。強化兵士は必要に応じてさまざまな記憶を与えられる。情況次第では、VTOL機の操縦や核融合炉の起動までその場で学習することができる。深く考えなくてもいい。
Nデバイスに落とされた記憶によって好み知らぬ武器の扱い方はわかったが、体と一体になるように振り回すには多少の慣れが必要だ。記憶は完璧でも、調整された筋肉量と新しい武器の不一致がある。実射を行って調整を行うのが理想だと考える。しかし、任務はもう数分後に迫っていた。
ここは、月面都市の天井から懸垂されるモノレールの貨物車両の中だ。どこからか培養ブロックを貨物に詰め込まれ、現場でそのまま開封された所である。よほど緊急の事態でなければこんな方法はとらない。
『あんな化け物、どうやって始末すればいいんだ』
声が聞こえてきた。先に展開している部隊があるようだ。任務中に相性の悪い敵と遭遇したらしい。現場判断で戦闘を仕掛けたが、敗走を強いられたようだ。
『撤退命令が出た。あとはアレにやらせればいい』
その通信が聞こえる。というより、頭の中に無理矢理押し込まれている感覚がする。偶然遭遇した敵らしいが、優先的に排除しておきたい相手ということだ。この機会を逃さないために緊急にR13が送り込まれた。
彼女らが話す「アレ」というのはR13のことだ。S型はC型の下の階層に位置している。ある程度の人間性が与えられるC型と違い、S型はNデバイスを通じて精神を好き勝手に弄ぶことができるように作られた道具である。なので、言葉を発する言語機能すらインストールされていない。
命令を理解した自動受諾信号だけが勝手に送られ、R13は出撃準備を完了する。耳を塞ぐ事はできない。拒否権などない。すでに、目的の区画に到達している。偽装貨物コンテナが開き、R13は無造作に投下される。巨大な町並みが視界いっぱいに広がった。脚部の緩衝装置によって安全にビルの屋上に着地。慣れない武器のためにほんの少しバランスを崩しかけるが、おおむね問題ない降下だった。すぐさま狙撃位置に移動する。
スキャンアイを起動、複合解析モードで、一二〇〇メートル先の目標を視認する。壁の向こうまで見通すこの目こそが、彼女たちS型のアドバンテージだ。
初めての狙撃にほんのわずかだけ不安を感じる。人造人間とはいえ、彼女にも感情らしきものはある。扱ったことのない武器で成功させられるか。弾道解析はこれで正解なのか。確信を得ないまま、しかし訓練されたとおりに逡巡なく、R13は慣れた指先でトリガーを引いた。
柊とレイは勝利を収めた。敵の狙撃主、Sロットの強化兵士を捕らえることに成功した。レイが追い詰め、柊が捕獲した。
厳密には、彼女はSロットとは違うらしい。同じNデバイスとCUBE規格を使っているため、Qロットである柊の管理能力は有効だ。記憶を調べてみた所、S型強化兵士と呼ばれる新型の人造兵士だとわかった。
R13というのが彼女の固有の呼び名であるらしい。レイを襲ってきた最初の四人は、これとは別種のC型というもののようだ。そちらはQロットの亜種である。しかしそれ以上のことはわかりそうもない。どこで作られたのか、誰が作ったのか、どのくらい数がいるのか。そういった情報は記憶の中にない。このS型とやらの記憶には、タイプ別の性能を含む最低限の戦術データや目的のインプット以外には何もないのだ。
過去の記憶はおろか言語能力さえない。消去されているからではない。彼女は、たった二十分ほど前に培養槽から生まれ出たばかりらしいのだ。
S型とC型というのは研究所では聞いたことのないタイプだ。そもそも、研究所では強化兵士の生産自体最近は行なっていない。Sはシャーマン型、Cはセンチュリオン型の略であるらしい。役目を意味して名付けられているのか、単なる語呂合わせのためなのかは、彼女の記憶からはわかりようがない。
生まれて数分で戦闘能力を発揮できるというのは強化兵士としては普通のことだ。不意打ちとはいえ熟練の柊とレイを相手に立ち回った能力の高さは目を見張るものがある。どちらのタイプも武器がよければもっと危険な相手だっただろう。
これらの兵士は黒派か、黒派から別れた月面企業がこちらに対抗するために生産したものだと柊には思える。もっと詳しく分析してみなければならない。
「うち、来る?」
政府の役人である柊の自宅が企業連合のレイにとって安全だとは断言できないが、お互い狙われているかもしれず、近くにいたほうが都合がよさそうだと柊は考えていた。しかしレイは考えた後、柊の申し出を断った。
「調べたいこともあるし、やることもあるから。本社に戻らないとね」
そういえば、レイは政府所有の倉庫に侵入していたのだ。それは見逃すとして、柊は心配に思う。レイの敵は柊がいる研究所だけではなさそうだからだ。
「あんまり危険なことしないでよね」
レイは唯一の友人だ。できれば傷ついてほしくはない。昔から月面都市には危険があったが、今の月面都市は得体の知れない何かに侵食されている。そんな直感がある。
「そっちこそ。助けてくれてありがとう」
微笑みながら、レイは言った。助けてもらったのはこちらだと柊は言いたかった。
レイはリニアカーで帰るようだ。レイが住む第三区画は社宅区画で、厳重な警備体制にある。考えているほどの危険はないかもしれない。月面企業はテロに対する意識が高い。
柊にも当初の目的がある。落ち着いた所で、追憶に必要な医療槽の確保をしなければならない。壁に穴が開いてしまった建物についても、政府の物件管理部への報告が必要である。
大穴を開けた当のS型強化兵士、R13はここにいる。彼女の命令はすでに柊によって書き換えられている。もう危険はない。連れ帰り、自宅で詳しく調べるつもりでいる。
執拗に柊を殺そうとしてきたというのに、今はきょとんとした表情で柊を見つめているだけだった。憎悪も殺意もまだ知らないのだ。ついさっき生まれたのだから、あれだけ高度な戦闘を繰り広げた事が異常で、この姿の方が自然なのかもしれない。柊は毒気を抜かれる。
倉庫はすぐに警備ロボットに守らせていたので誰も侵入していない。ただし、何事かと思った人が集まっていた。この区画ではこういう騒ぎはよくある。記者が何人か寄ってきているかもしれないが、大した報道はされないだろう。
倉庫に戻ったが、徒労に終わるという予感がした。埃っぽい倉庫に舞い戻った待っていたのは、無残に破壊された医療槽だったからだ。始めの戦闘と二回目の狙撃の影響で、原型を留めないほど破壊されている。もう使えるはずもない。
最新型の槽では、ディアナのソリッド型のNデバイスのタイプとハードウェア的に適合しない。これは、思ったより時間がかかるかもしれない。別の場所から機材を調達する体力はもう残っていない。見た目にはわからないが、柊の全身には戦闘で受けた傷が残ったままだ。医療槽で自分の体を治療したいくらいである。
見たところこの倉庫には、リストに記載のない機材も数多くある。CUBE端末の設置もされていないし、管理はずさんだ。運がよければ他に使える医療槽が転がっているかもしれないと思い、ざっと見回してみることにした。
来た時には気付かなかったが、このテナントには下層がある。そこを覗き込んで、柊はそれを発見した。
大型の機材が一つある。ここは機材搬入用のエレベーターホールらしく、その大型機材の向こう側はエレベーターの扉になっている。上層階に上げないと搬入の邪魔になるが、どんな理由かここに放置されている。
埃をかぶっていないので最近置かれたもののようだ。起動を試みると簡単に開封することができた。中は何も入っておらず、可変リクライニング式の座席になっている。一~二名の乗員に対応しているようだ。
既存のものとの比較では、宇宙戦闘機のコアに近い。R社のものに似ているが、もっとシンプルだ。設計の古さを感じる。
コクピットのコンソールに書かれた開発番号をもとに、研究所のデータベースで検索を試みる。すると、一件がヒットした。
この機体はやはり、宇宙戦闘機として作られたものらしい。試作宇宙機「スキューマ」という開発名が、データベースの片隅に残されている。コアパーツであるコクピットと試験用のエンジンモジュール製造してテストしただけで、開発が無期限中止になっている。ここにあるのは、その中核の部分だけであった。
何らかの高度な情報処理を行うための機体であったらしいが、開発経緯は不明瞭だ。V・ヘンシェルという設計者の名前だけがある。かなり昔のものらしい。そんな頃から現代の群体無人機戦闘を想定していた研究者がいたのだろうか。
こういった装置に関心があった勢力は黒派として分離していった。研究所はもうこの手のものの開発をしていない。普段なら珍しいものを見た、というだけで済ませる所だが、柊はこの機体の仕様に興味深いものを見つけていた。
過剰ともいえるほどの生命維持機能が搭載されているのだ。食料生産機能、酸素と水の精製、冷凍睡眠装置など。どうやら、宇宙遭難を想定した試験機能であるらしい。もし地球が滅びたとしても、このポッドに乗っていれば命を繋ぐことができそうなほどだ。
注目すべきなのは、医療ポッドとしての機能であった。形式は古いので今の目で見れば大した性能ではないが、当時としては最高の医療ナノマシン制御システムとNデバイス調整機能が搭載されている。年代からして、ソフトウェアがフィットすればディアナの記憶の復元にも使えるハードウェアかもしれない。
柊はこれを持ち出すことにした。レンタカーに当初の目的よりも巨大な機材と余分な一人を詰め込み、自宅に戻った。ドアを通る大きさではなかったので、機材搬入用のハッチを久々に使った。大型の食材生成機を設置した時以来であった。
運がよかったと言うべきなのだろう。あとはソフトウェアだ。研究所のデータベースから必要なプログラムモジュールを盛ってくれば、半日から一日ほどで稼動状態に持っていけるだろう。
ディアナの体も自宅に届いていた。適合するかテストしなければならない。準備の途中にディアナの遺体を見られた時も、連れ帰ったS型は何の反応も見せなかった。特に怯えるでもなく、不思議そうな顔で柊の作業を観察している。
アーマースーツを脱ぐように指示を出しておく。会話に慣れていないせいで言葉に対する反応が鈍いので、専用の人工言語で命令した。そうすると、きびきびと行動し始める。
着替えが済んだので寝台を与えると、柔らかいマットレスが面白いのか、ずっと手で撫でていた。初めての自分の場所を確認している。そうしている姿は、とても高い戦闘能力を持つ兵士には見えない。
もっと経験を詰ませるか、初期情報を濃密にしていけば洗練された兵士らしくなるのかもしれない。今はまだ、何の邪気もない瞳で柊を見ているだけである。
この瞳がS型の武器の一つだ。高性能のスキャンアイ。壁の向こう側にいる柊を正確に追尾してみせたのは、この機械の眼球による複合センシングのなせる業である。望遠機能さえも内蔵し、スコープのない対物狙撃銃であれほどの精度の狙撃を成功させていた。
この眼球は高価である。それが理由かはわからないが、S型はC型の十分の一程度の生産数であるらしいことが彼女の中の戦術データからわかっていた。Sロットの方がQロットより何倍も数が多い現実干渉性収集被検体とは逆だ。この強化兵士プランでは大勢のQロットが中核となる。
何の目的で作られたかは推測の域を出ない。まだ情報がいる。その前に自分の体の状態を整えておかなければならない。ソフトウェアの自動調整には時間がかかるので、すぐに追憶は始められない。
今日はアイが戻ってくる日でもある。ある程度体調を戻しておかなければいけない。スキューマの医療機能を使ってみることにした。
まずは全身のスキャンを行ってみることにした。仮眠の間に微細なナノマシンによって損傷状態を確認させるというものだ。
柊は巨大なコクピットに横たわり、ハッチを閉める。Nデバイスから催眠状態を作り出せば、すぐさま眠りに入ることができる。
――聞こえるか。
その夢は、今までになくはっきりとしていた。
白い部屋だ。最近よく夢に見る。そういえば、睡眠時の脳の活動を記録させようとしてすっかり忘れていた。
――聞こえていたら、起きろ。
どのくらい眠っていたのか。視界ははっきりしない。誰かが柊を覗き込んでいる。親しげな口調だが、声に覚えはない。
――取り返しがつかなくなる前に、目を覚ませ。
記憶は無い。ほとんど失われた。だから、知っている者はいない。覚醒が近づく。目を開くと柊を覗き込む者がいた。R13だ。不思議そうに、柊の様子を観察している。
「何か話しかけた?」
そんなはずがない。彼女は言葉を話せない。問いかけに対しても、理解した様子がない。彼女との対話は、専用のデータ通信で行わなくてはいけない。
漠然とした不安が柊を襲う。夢は潜在意識の顕在化である。今はアイと隔たれていることが柊の中の不安だ。
不安を解消する目的で、現在アイが乗艦しているクリシウムの航行データにアクセスしようとした。だが、クリシウムはネットワーク上に存在しなかった。今、あの艦は通信封鎖中だ。予定にあったことである。あらゆるネットワークから断絶し、独立した計算システムで戦闘訓練を行なうデモンストレーションの最中だ。
クリシウムの姿は月面に設置されたカメラで詳細に見ることができる。外部には異常はない。これから電磁加速砲を展開し、無人標的に向けて実弾発射を行うことになっている。その姿は中継され、オウミ級の性能を宣伝するのに使われる。
クリシウムに異常がないかを調べ、柊は気付く。船体にごくわずかな振動が見られる。肉眼はおろか最高解像度のカメラですら、わずかしか認められない。しかし詳細に解析していくと、確かに船体が異常な振動をしている。動力の不具合か。振動の紋様を読めば異常の原因を特定できる場合もあるので、解析にかけた。
そこには、明らかに人為的な信号が紛れ込んでいた。
通信封鎖状態では通常の通信は行えない。だから、重力エンジンが発する重力場の中に信号を埋め込む他はなかったのだろう。重力の強弱をパルス信号として送ることでデジタル情報が送信されている。
それは、アイからの救難信号であった。
情報室にも連絡するが、あそこは実働部隊を持っているわけではないので状況に対処する能力は期待できない。柊は政府軍の本部に情報を伝え、自らも向かった。
政府軍の中には独立組織である情報軍がある。事実上研究所の勢力だ。頼りにできるとすればそこしかない。
「光信号で通信を行っていますが、反応がありませんね」
Nデバイスで状況は全て共有されているので、口頭の説明は必要ない。それでも、情報軍の司令官は丁寧に柊を出迎えた。しかし、礼儀など今は不要である。
「この場ではあなたが最高権限を持ちます。総帥は研究所の実質的なトップで、あなたはその側近ですから」
感情を感じさせない顔で、司令官は言う。側近という言葉が適切かはわからないが、情報室長代理の柊が情報軍の指揮権を持つのは事実だ。
「突入しかない」
アイの居場所は武装ブロックだ。クリシウムの中で最も危険な場所である。時間の猶予はない。
「危険すぎるでしょう」
悠長な言葉で司令官は言った。危険なのはわかっている。アイはもっと危険なのだと思い、柊は苛立った。
「新型戦車を使えばできるだろ。ブースターを搭載して、突っ込ませればいい」
政府軍の新型戦車の基礎設計には柊も関わった。あれは車両でありながら簡易的な宇宙船でもある。宇宙空間を疾走して敵艦を強襲し、内部に侵入し兵士を送り込める。
「誰がそんな危険な任務をするというのです。あんな衆人監視の中にSロットを放り込むわけにはいかないでしょう」
「誰かに頼もうとは思わない」
情報軍所属の戦車を、既にカタパルトに運ばせている。ここに来たのは、自らが突入を実行するためだ。
「もう少し、冷静になられてはどうです」
「他のプランがあるなら試してみればいい。任せるよ」
指揮官を残し、柊は戦車へと乗り込む。
まだ体は癒えていないが、神経接続で操る戦車であれば肉体の負担は少ない。戦闘機動を行なっているとはいえ、クリシウムは入り組んだ障害物の間を飛んでいて速力は抑えている。場所もすぐ近くだ。これなら追いつける。
月面の物資輸送カタパルトを使って射出されたそれは、外見上は地を這う戦車には見えなかった。
前面部分は突入用の装甲板で覆っている。後部には、本体の三倍の長さを持つ惑星間輸送用の大型ロケット推進機が据えつけられた。不恰好だが一応は宇宙船の姿である。装甲板は宇宙船や施設への強行突入のために設計されている。まさに今のような時のための装備だ。超高速で母艦から射出され、敵艦の装甲板を貫通して内部に侵入、同時に投入される戦闘ポッドや兵士の指揮拠点を作り出す。
戦車本体には最初から宇宙空間での姿勢制御ソフトが搭載されている。試験した前例の無いエンジンであっても、諸元を入力さえすれば、航行計算ができる。運用はそれほど難しくはない。問題があるとすれば、相手側の反応だ。ステルスモードの今、クリシウムはレーダー使用ができない。といっても、パッシブ系だけでも高度な複合センシング能力を持つオウミ級に見つからずに接近するのは簡単ではない。光通信は応答がないといっていた。わざと無視しているとすれば、そういうことである。すんなり乗艦できるとは思えない。
アイは一年前を境に、研究所の実質的な指導者となった。命を狙われる理由はいくらでもある。クリシウムは敵とみなすべきだ。全長一キロに及ぶ戦闘艦に、たった一両の戦車で対抗しなければならない。
この新型戦車は電子戦に特化している。激化するポッド戦闘に対応するために、指揮能力や戦況分析能力を与えられている。それだけではない。オウミ級と同様のステルスモードを搭載している。
十分に加速した後、推進機を切り離す。クリシウムは現在、政府軍が訓練のために設置した擬似小惑星帯、障害物バルーン群の中を航行している。バルーンに隠れて敵のカメラセンサーの死角から接近すれば肉薄することができる。
通常、推力に頼らない物体は慣性飛行しかできない。戦車本体の姿勢制御装置によって機体の向きを変えたり、微調整程度はできても、根本的な軌道を変えることはできない。しかし、柊には現実干渉性がある。
力の方向を変える能力、幾何ベクトル偏向能力をNデバイス内にロードしてある。物体が持つ運動エネルギーの向きを自在に変えることで、バルーンで作られた小惑星の間隙を縫うように航行することができる。
あまり運用したことのない能力なので、注意深くプログラムを組んで制御した。クリシウムへと接近していく。十分な距離に近づいた時、敵のカメラセンサーが柊の戦車を捕らえた。しかし、反撃は遅い。柊はスロットルを最大にし、初期加速と残りの推進剤による加速を合わせて砲弾のように突撃した。装甲を貫通し、武装ブロックへ進入する。完全に内部に入り込んだ。同時に粘着榴弾によって突入で開いた孔を塞ぐ。警報が鳴り響いた。しかし、この期に及んでクリシウムはステルスモードの解除をしないらしい。
すぐに警報はやんだ。すぐに射撃デモを再開するようだ。そうなれば、この武装ブロック区画内にいるものは生きてはいられない。この異常事態にさえ対処しないということは明らかに事故ではない。この艦は明確にアイを焼き殺そうとしている。急がなければ。
アイが潜んでいる場所はどこか。近づけば、Sロットであるアイのことはわかるはずだ。可能性がある場所は電源室だ。あそこなら重力エンジンに信号を送り込むこともできる。
振動が響き、低い電源音が聞こえてくる。砲への通電が再開されたようだ。柊は戦車に仕事をさせた。あらかじめ救助用の経路を作るため、外壁の一部を焼き切って穴を開けるようにプログラムしておく。戦車には高出力のレーザーブラスター二門が搭載されているので、それを照射して壁に穴を開けていけば斜め下にある電源室の付近まで直通通路を作る事ができる。
電源室の付近はかなりの高温になっていた。宇宙服の一部が部屋の前に放置されているのを見て、ここで正解だったと確信を持つ。しかし、一人分にしてはグローブの数が多い。
「あ……」
扉を開いた時、部屋の中から聞こえてきたのはアイの声ではなかった。
わずかにウェーブのかかる濃灰色の髪をサイドでまとめた誰かが、アイの腕に抱かれるように、床に座り込んでいた。
「あ、あの……あの!」
混乱しているようだ。アイの様子を見る。手に火傷、それに熱中症にかかっているようだ。呼吸が弱く、かすれている。高温によって塵などが燃焼したことで発生した有毒ガスを吸い込んでいる可能性もある。
酸素マスクを押し当てられていたもう一人は、衰弱はしているもののアイよりは軽症に見える。
柊は持ってきた応急処置キットでアイの呼吸を補助し、体内修復を行う医療用ナノマシンを注射する。その作業の間に、戦車に命じて作らせていた脱出経路が開かれた。戦車からはすぐにワイヤーが射出され、担架が降ろされる。もう一人の少女にも担架を下ろそうとしたが、自分で上がれるというのでやめた。
戦車の中は与圧されている。そのまま緊急脱出装置として使える。担架のままアイを収容した。乗員は二名だが、負傷者を乗せた担架を搭載できる設計になっている。自分も乗り込み、もう一人は情報処理席に座らせた。
そのまま脱出すると狙い撃ちされるかもしれない。射撃中の電磁加速砲を利用することにした。突入用装甲は本来なら母艦から射出するためのものである。その際、加速に使う装置は、実はこの巨大電磁加速砲に他ならない。戦車を操縦して砲に向かい、砲弾を押しのけ装填口へと入る。
重力制御によるG軽減を作動。加速に備える。異常を検知して電磁加速砲は停止しかけるが、Nデバイス経由でソフトウェアの緊急オーバーライドを行う。そして、強制射出を行う。
月面に向けて最大加速で射出された戦車を撃墜できる武装は、クリシウムには存在しない。なにしろ、自身が持つ最大の砲を利用した物体だ。追撃した所で当たる道理がなく、最も安全な離脱方法だ。行きよりも遥かに短時間で、柊はアイを連れ帰ることに成功した。
アイを信頼できる病院に搬送し、柊は情報軍に作戦成功の連絡をした。
暗殺の首謀者は不明なままだ。最近の様々な事件と同じで、得体が知れない相手の存在を感じる。オウミ級の本格活動が始まり、二号トンネルが完成。次々と起こるトラブルは、ただ単に不安定な情勢から偶然重なったものなのだろうか。
「……」
救助したもう一人は元気そうに歩いてはいたが、検査のため診察を受けさせなくてはいけない。アイとは別の病院だ。既に救急車も来ているので、最低限の身分照会をして送るだけだ。
彼女の見た目が少し気になったものの、まさか、と思い直す。こんな所に、そんな者がいるとは思えない。ただ似ているだけに過ぎないだろう。
照会してみたところ、フリーの記者というだけで、他には何もないようだった。大方、アイへの取材のためにつきまとっていて、巻き込まれたといった所だろう。仮にもしそうだとしても、彼女には彼女の任務があるはずだ。アイを守ってくれたようだし、柊が干渉することではない。
「今回の件については、記事にしないように」
一応、釘はさしておかなければならない。従うかどうかはわからないが、CUBEネットの外で起きた体験では非改竄記憶は得られないので、信頼性のある記事は書けないだろう。
病院に向かう。アイが心配だった。
容態は微妙なものだった。
最新型の再生医療槽なら治る傷だ。しかし、アイはSロットしてはかなり高齢である。命が助かると断言はできない。治ったとしても、元通りというわけにはいかないだろう。
研究所では、使い捨て前提の被検体の延命措置など研究してこなかった。一般の病院の方がまだ治療には向いている。警護のために張り付いていたかったが、アイ本人から家に帰るように言われた。
医療槽に入った状態で、体はまだ動かせない。Nデバイスを経由して、柊へ呼びかけてくる。
『私のことは大丈夫。身を守ることは考えてるから。それよりも……私に何があっても、自分の身を守ることだけを考えて』
突然意味深な事を言い、アイは接続を中断してしまった。本格的な治療に入るために意識が遮断されたらしい。
「わかったよ」
名残惜しくアイと別れ、柊は自室へと戻っていった。
■榧・二
今回の仕事が終わったら、スイートルームで記事を編集するつもりだった。しかし、予定していた高級ホテルへのチェックインはできなかった。
CUBEシステムから自宅待機を命じられたからだ。仕方がないので、ファクト・チェックの信頼保障機能を使って、キャンセルをかけた。ファクト・チェックにはこんな使い方もある。
費用は浮いても心は浮かない。あんなことがあった直後だ。自宅待機、といわれても、登録された正規の住所もまたホテルだった。榧は数ヶ月単位で古ホテルを転々として生活している。そうしているのが一番落ち着くのだ。アパートを借りるのと、費用も大して変わらない。
ホテルに帰ってしまえばもう外に出られない。その前に街に寄っていこうと榧は考える。デリバリーは高いので食べ物を買っておきたいし、着替えたい。大事なスーツをこれ以上汚したくないので、早く脱いでしまいたい。
服飾店に入り、ARによる試着を行う。この店舗には店員はいないが、榧の思考を読み取って適当なものを勧めてくれる。
扱っているのは全て特殊紙製の衣服で、低コストで資源再生する使い捨て品だ。選んだものは未開封の新品としてプリントアウトされてくる。
紙とはいえ、感触は普通の布と全く遜色がない。数回なら洗濯にも耐える。榧はいちいち洗濯などせず、すぐに破棄してしまう。一度着た服を二度着る事はないというスタイルだ。
榧は財産を持たない。難民時代にはARやVRだけがプライベートな空間だった。現代社会では、家財道具を持たなくても生活できる。Nデバイスによる視覚補助があるので、気に入った家具はデータで持てばいい。家などは、データを表示するためのディスプレイに過ぎない。
榧には懐古趣味はない。身軽なライフスタイルを好んでいた。自分の体以外のものは全て捨てて、新しくすればいい。
しかし、取材道具とスーツは例外だ。榧にとって唯一の財産である。スーツをクリーニングに出して預かってもらうと、榧は体一つに近づく。
しかしその日だけは、大事なスーツと別れるのに名残惜しさを感じた。気まぐれのつもりで、紙製の伝票を要求して受取っておくことにした。
確かな形が手元になければいけない気がした。そうでなければ嫌だと思った。本当に、なぜかはわからない。不思議で仕方がなかったが、榧はその欲求に従う。
それ以降は、いつもの榧だった。店が勧めるままに新調した衣服に身を包み、新しい自分になる。
全てのものは再び入手できる。衣服にしても、バックナンバーは完璧にラインナップされている。捨てられない物質は持たない。それが、この完璧な都市での最も賢い生き方だ。
落ち着いてくると、仕事が気がかりになってくる。
「クリス、やっぱり怒るかなあ」
せっかくチケットを貰ったのに収穫なしと報告することを考えると、急に怖くなってくる。クリシウムの乗艦レポートも結局取材不足でいまいちの内容になりそうだ。
式典のニュースはまだそれほど広がっていない。速報レベルの有益な情報をまとめ、編集長のクリスに送っておく。政府発表にない情報はできるだけ避けておいた。すると、クリスから音声通話の着信があった。叱られるのかと身構えたが、そうではなかった。
『体は大丈夫なのか? 政府には目をつけられていないか? そうか、よかった』
身の安全を心配してくれたらしい。てっきり「その程度のトラブルで取材を棒に降るな」などと言われると覚悟していた。いつもの彼女ならそのくらい言いそうだ。
「すいません、取材の方はあんまり」
『そんなのいいから、休んでおけよ』
拍子抜けしてしまった。通話を終えると、外での用事はなくなった。ぶらぶらしているとシステムから注意されそうだ。現在の自宅であるホテルへと戻ることにする。
政府警察の警官がいた。警護ということらしい。ホテルの前に張り込んでいる。軽く会釈し、榧はエレベーターにそそくさと逃げ込む。
部屋には誰かが入った形跡はなかった。進入されたところで、ここには衣服の一着さえも置いていない。ホテルの備品しかない。備え付けの寝台と簡素なシャワールーム。これで、榧の生活は成り立ってしまう。
榧には取材中の別件もある。そちらを進めることにする。集中していないと、いろいろな事を考えてしまうのだ。
半年ほど前、榧は月面都市に流入した難民の大量自殺の一件を取材した。その取材の中で、圧迫された住宅事情が明らかになってきた。まだ解決を見ていない。それどころか、ますます事情が浮き彫りになっていく。
月面都市の生命維持資源には容量の限界がある。大気や水、食料の供給はかつて十分な余裕があった。しかし、人口の流入によって問題が起きる区画も現れ始めている。
大気清浄の行き届いていない工場区画に強引に作られた社員寮を榧は取材した。それが一ヶ月前のことだ。その記事にはかなりの反響が寄せられた。
バースコントロールによって人口は抑えられているので、これ以上問題が発展することは考えられない。しかし、現在の月の住民はこれから何年も今のバランスのまま生活していかなければならない。
なぜ難民たちは大量自殺など行ったのだろうか? 住環境を理由に結論付けた記事を書きはしたが、どうもそれだけとは思えない。過酷な環境とはいえ、地球ではもっと悲惨な生活をしていた者もいる。自殺の理由として納得のいく答えには辿り着いていない気がする。
榧自信も難民出身だ。居場所を喪失したような感覚に陥った経験もある。人口が増えた事で食料品の価格は高騰し、大気製造システムの不具合も増えて不安を煽っている。生活環境がよくなったとはいえ、地球にいた頃にはなかった心理的な圧迫を感じてしまう気持ちはわかる。なるべく波風立てずにいたい。よくわかる話だ。しかし、だからといって死ぬことはない。医療は受けられるし、以前よりも安全なのだ。
底辺労働者の居住環境の改善をすれば何か見えてくるのだろうか、と榧は考えた。技術的にはそう難しいことではないはずなのだ。ほんの少しの資金さえあれば。榧のすることは、住民の生活を記録したデータを添付した記事を配信するだけだ。それを元に、知恵や資金を募るというものである。かなりの大金が集まってきていた。
例えば今榧が住んでいるホテルは古く、無人経営である。空き部屋ばかりだが、この安ホテルの宿泊料ですら底辺労働者には重い。この手の施設は維持費が結構かかる。しかも古いホテルほど修繕維持費が高くつくので、土地もろとも手放したいオーナーは多い。
そうした物件を格安で買い取って現代風のメンテフリー建築に改築すれば、ほとんど維持費のかからない住居を新たに作ることができる。最初の資金さえ調達できるのならば。まだ資金が足りなかった。記事の更新を頻繁にすれば、さらに寄付が集まるだろう。取材の計画を立てようと考えていた。
メールが一件来ていた。政府の都市再生案についてご存知ですか。そういう題のついたメールであった。来月、開発財団が月面都市の老朽化した設備の改善のために予算配分することを決めたそうだ。
そこに応募すれば、この手の古ホテルを一斉に改築できるほどの資金を手に出来る。ちまちま寄付を募るよりも近道だ。願ってもない話ではないか。計画の発案者の名前がある。アイ・イスラフェルと記載されていた。忘れようと思っていた名前が榧の目の前に現れた。
■柊・四
スキューマの開発はかなり昔のことで、経緯や目的はあまりよくわからない。謎に包まれているからなのか、室内に置くと偉容が増すように感じられる。医療槽としての機能は当時の標準品を流用し組み込んでいるので、機能ははっきりしている。これからそれを使って記憶の修復と再生を試みる。
柊とアイはほぼ同じタイミングで双方とも襲撃を受けた。アイは何もしなくていいと言っていたが、何かから狙われているらしい現状で何もしないわけにはいかない。
今は情報が必要だ。ディアナの記憶の調査はやりかけだ。これを手早く済ませてアイに張り付きたい。
スキューマには、既にディアナの遺体の一部が入れてある。修復と同時に追憶を行っていく。
R13にはダイヴ中の柊の警護を命じてある。彼女の目は壁の向こう側を監視できる。不審なものがあれば伝えるように指示した。
R13は退屈していない。どう接するべきかと考えていたが、柊の蔵書に興味を示して、放っておくと黙々と本を読んでいる。弾痕が残る厳しいアーマースーツを脱ぎもしないまま本の虫になっている。データ通信でのコミュニケーションに特化したS型強化兵士は音声認識が苦手のようだが、文字情報は受け入れやすいらしい。
読書をしながら周囲にも気を配っている、と思いたいが、柊がじっと見ていても全然気にしてないで本を読んでいるような気もする。外敵を察知したらすぐさま応戦してくれるはずだ。多分。武器も与えておいた。対物銃は持ち主が無造作に放り投げた衝撃で使い物にならなくなっていたので、情報軍で調達してきた小銃だ。
R13の体を調べていてわかったこともいくらかある。残酷な真実もあった。それも気になるが、まずはディアナの記憶を調べる必要がある。
修復は順調に行われていた。追憶可能領域は、前回の時点よりも随分先からであった。遺体の横に寝るということに抵抗を感じるでもなく、柊はスキューマに入り、ディアナのNデバイスに手を触れた。
政府軍の基地らしき施設を歩いている。軌道上の宇宙ステーションのようだ。新しい任務の直前らしい。流れ込むディアナの思考からそれがわかる。
「デバイスを新型のリキッド型に換装するようにと指示がありました」
話しているのは顔見知りの医師だ。途中で呼び止められ、ディアナは医務室に招かれた。
「今から? 数時間後には任務開始ですが」
「無理ですよね。施術したと報告しておきます。今回の任務はそれで対応してください」
「いいんですか、そんないい加減で」
「いいんですよ。どうせいつか必ず施術することになりますから」
旧型のソリッド型は、違法改造によってNデバイスをオフにできるという欠点が犯罪に利用されるため、絶滅していく運命だ。例外なく入れ替えを行うことになる。無事に帰ってくることができればいくらでも機会はある。
「今回あなたの下につく子は、もうリキッド型のデバイスを使っています。互換性は問題ないと思いますが、一応覚えておいてください」
知らない部下がつくらしい。今回の任務は少し特別だ。地上にある研究所保有の施設の調査が任務で、戦闘ではない。詳細はよくわからないそうだ。
施設の場所は立ち入り禁止された汚染区域に極めて近い。汚染区域は拡大しているので、そのうちこの施設も飲み込まれていずれ誰も近づけなくなる。だが、機密情報が残されていれば処分が必要になる。施設破棄を行なう任務が発生する。地球ではこういう任務がたまにある。地上は月面と違ってCUBEネットワークがないため監視や記録が十分ではなく、非合法活動をするため意図的に情報を不明瞭にしている場合がある。派閥の違いも絡むと、もう何をしていた施設なのか全く検討がつかないということもある。
構成員は小規模だ。部下の一人はノルン・ヘンシェル。対物狙撃銃を使う狙撃兵で、何度も背中を預けてきた。その他に、一名、知らない部下がつく。
その人物は無表情でディアナを睨みつけていた。エリス・ヘンシェルという名には聞き覚えがある。Sロットではあるが、ディアナのような強化兵士ではない。特別な才能があるという。
訓練は受けているので銃器の扱いはできるらしい。アーマースーツを着込んだ外見上の姿はディアナと何も変わりがない。しかしその表情の険しさは、兵士であるディアナ以上であった。
「“妹”だなんて思われても困る」
開口一番のセリフは、そんな突き放すようなものだった。
エリスはディアナと同じロット、しかも完全同一の遺伝子パターンで生み出された個体だ。双子のようなものだ。Sロットは遺伝子パターンを微妙に変えて生み出される。ただし、ロット内には同じ遺伝子のものが必ず二人以上いる。Sロットの能力は偶発的に生まれる。同一遺伝子個体から必要な体の部位を移植することで、簡単に再生することができる。
エリスはディアナとは違う。生まれつき脳波のパターンに異常が見られた。それこそが、彼女の持てる才能だった。そのおかげで研究所で働き続けた。
決して会うことのない妹だと思っていた。ディアナも生まれてすぐは研究所で訓練を受けたが、強化兵士となるべきディアナと才能あるエリスはその時点から隔たれていた。顔を合わせるのは初めてだ。
苛立ちながら、エリスは一足先に突入用のVTOL機へと乗り込んでいった。
「感じ悪いねあの子。おっと失礼、あんたの妹だった」
「構いませんよ……強化兵士に恨みでもあるんでしょうか」
研究所内では強化兵士は嫌われていると聞いたことがある。ノルンのいつもの軽口を受け流しながら、ディアナはエリスの過去を想像した。
研究所というのは意外と殺伐とした場所なのだろうか。強化兵士になるより恵まれていると考えていたが、そうでもないのかもしれない。派閥争いで武力が行使されることも珍しくなく、人死にが起きたことがあるくらいは知っている。前に会ったレン・イスラフェルから聞いた話だ。
「幽子感知能力だっけ。それって、最近発見されたんだろう」
「そうらしいですね。お喋りの研究員が漏らしていましたけど、本当は重要機密だとか」
この世界には通常の方法では観測できない素粒子が存在し、それが物理法則を司っているという仮説がある。それが現実干渉性にも関係あると考えられている。教育課程などで幽子的に異常な反応を見せる個体は、現実干渉性とつながりやすいという事実もある。
幽子という概念を提唱したのは研究所の職員ではなくSロットの誰かだそうだ。その人物も幽子を感知できる才能があった。幽子によって形作られる「幽子デバイス」とでも言うべき存在が人の肉体には宿っていて、それこそが意識の本質だと仮定している。
Sロットはある因子を埋め込むことで通常と異なる構造を持った幽子デバイスを獲得し、Nデバイスによって強化された思考を通じてそこにアクセスすることで未知の現象を引き起こせる。エリスはどんな計測方法でも観測できない幽子を感知できる能力を開花させた。生命が持つ幽子の集まり、存在を感じ取ることができるそうだ。半経数キロに存在する命ある他者がいれば見逃さない。今回はその能力を試すことになる。
揚星艇に乗り込むとすぐに降下だ。ベテランのディアナとノルンに対しエリスは初体験のはずだが、表情には何の不安も見えなかった。それよりは、こんな任務をさせられている事に対する不満が見て取れた。命令を与えている上司も現在の所属も、本来とはどうも違うらしい。それが関係しているのだろうか。
「地球は嫌だ……」
出る前、エリスがそうつぶやいているのを聞いてしまった。
エリスが何を嫌がっているかは知らないが、今回の任務は大した危険はなさそうだ。狙撃兵であるノルンの装備を見ても、今回は得意の対物銃は持たず小銃のみ。ディアナも同じ装備だ。それすらも使う機会があるかは怪しい。今回の降下地点に敵はいない。危険といえば汚染地域が近くに迫っていることくらいだ。だが回収手段が限られるために、慎重に行動する必要がある。
着陸地点に落とされた三人は、ただちに移動を開始した。
政府軍で使用されている装輪装甲車両を使う。平地や舗装路での機動力に優れている。戦車ほどの防御力はないが一応の装甲を持ち、化学防護も完備する。近隣の政府軍基地から無人のまま遠隔操作されて運ばれ、着陸地点に待ち構えていた。頼もしい相棒である。
目的地は近い。運転を担当するのはノルンだ。狙撃兵である彼女の目は外科手術によってスキャンアイに換装されており、夜間でも照明なしで視界を確保できている。
「アーマースーツの上からでも、ディアナの下着が透けて見える。あんたの方では何か見えてるのか?」
ノルンが語りかけているのはエリスだ。後部座席、降下中顔色一つ変えなかったエリスは、目を閉じて黙りこくっている。
降下後から彼女は顔面まですっぽり覆う専用のヘルメットを着用していた。無数にある幽子活動の中で、人のものだけを分別してエリスに伝えるものらしい。ノルンの呼びかけに対してたっぷり十秒は黙ったあと、その異様なヘルメットの奥から返事が返ってきた。
「何も。半径十キロ以内に、人間はない」
どこか安心したようにエリスは言った。本当なのかね、とでも言いたそうな表情で、ノルンは助手席のディアナを見た。車内は暗いので、ディアナには顔を判別するのがせいいっぱいだ。
施設に到着するのに十分もかからなかった。簡単な任務と思い、少しだけ気が緩んでいた。
「伏せ――」
伏せろ、と言おうとしたのだろう。しかし、ノルンがその言葉を最後まで言う前に、彼女はうつぶせに倒れた。暗闇の中、彼女の血が黒く広がっていくのが見えた。
何かが闇の中にいる。警戒しつつ、ディアナはエリスを物陰に押し込んだ。そして、閃光手榴弾を放る。まばゆい閃光の中、蜘蛛のように動く数本の足が見えた。機械音が聞こえてくる。
無人戦闘兵器だ。なるほど、生物でないならエリスには感知できない。この暗闇の中でノルンだけがあれに気付いた。彼女のおかげで、二人とも助かった。
被弾したノルンはぴくりとも動かなかった。手当てをしたかったが、二人は動くことができなかった。敵が何体いるのかもわからない。
施設はすぐそこだ。
「あなたは中へ」
「……本気なのか」
ディアナの命令に、エリスは逡巡した。だが、このままでは二人ともやられるだけだ。ノルンの意識はまだある。健気にも目を開き、自分の視覚情報をディアナに送り続けている。高性能のスキャンアイを搭載した彼女だけが、追加装備なしでこの暗闇の中を見通すことができる。敵は複数いて、包囲するように迫っている。
しかし、映像は徐々に弱くなっていく。完全に消えてしまう前に、ディアナは敵に向けて小銃を掃射し注意を引く。
「行って!」
声を出してエリスを動かした。まずはエリスを施設の中に入れ、自分もそれに続いた。それと同時に、ノルンからの情報は途絶えた。生命活動を停止したという情報が表示されている。
敵は、施設の中には入ってこれないようだった。
「待って。見ない方がいいです」
腐敗が進んだ遺体がいくつか転がっている。餓死や病死では明らかにない。体に損傷が見られる。
「もう、遅い……」
凄惨な光景が広がっていた。暗闇の中で表情は知れないが、エリスは言葉を失っている。
施設内は安全のようだった。調べてみると紙媒体のファイルがある。エリスは、その中からあの無人兵器に関するものを見つけた。
「アイズ・オンリーの書類だな。これを処分するのが私たちの仕事か?」
「ええ……見てからでも遅くはないでしょう」
複製厳禁の書類には、「無人兵器開発計画」とある。先ほど襲ってきた機械のことだろうか。
「そうだな」
まずは生存が第一だ。現場判断で、政府の機密資料であるそれを開く。
あれは、政府が所有する無人警戒機だそうだ。民間企業の協力を得、つまり企業連合から技術者を引き抜いて、作らせていたものらしい。
研究所が独自に開発している無人戦闘ポッドの試作機ということだ。月面企業のいくつかではああいった無人戦闘ポッドを警備活動に使っている。詳しい仕様を読み取り、外にいる敵を観察してみる。どうやら「夜間戦闘モード」と呼ばれる状態で起動されたようだ。あの無人機は隠蔽能力を重視しており、日中は見えない場所に潜んでいるらしい。夜中になると闇に紛れて行動を開始する。衛星でも熱探知できないほど発熱も抑えられていて、歩行タイプなのでタイヤ跡など追跡できる証拠も残らない。
どんな経緯で起動されたのかわからないが、施設内の様子を見ればただ事ではなかったと想像できる。何らかの理由で動き出したあの無人機群は真っ先に通信装置を破壊し、職員を次々に殺していった。
「いつかは電源が尽きて停止するようですが、待ってはいられませんね」
ここで生産していたのは二十機ほどだ。その全てが無くなっていた。
「知っていて私たちを送ったと思うか」
「どうでしょう。あなたを送るくらいですから、知らないのでは?」
この施設の概要について、研究所は不明だと言っていた。派閥がある研究所内のこと、知らない施設があるのも珍しくはない。
「これは、すぐ伝えるべきですね」
情報を集めて脱出し、ここの状況を伝えなければいけない。
「朝を待ちましょう」
あの恐ろしい兵器は夜間は休みなく働いている。施設に入ってこない理由はわからない。少なくとも朝になれば、今よりは安全になるはずだった。
腕の中で眠っていたはずのエリスがいないことに気付き、ディアナは動揺した。しかし、すぐ彼女の姿を見つけることができた。
エリスはノルンの遺体に祈りを捧げていた。朝焼けがくる。乾いた空気が風となって、光の中にいるエリスを包み込んでいた。ディアナの心に涼風のような感情が渦巻く。
宇宙から見ると、もう地球は青い惑星ではない。常に灰色の雲に覆われ、大気は汚れ、酸素濃度は低下し続けている。それでも地球は、時々こうして美しい。ディアナは何度もその美しさを目にしてきた。多くの姉妹がここで散っていった記憶が蘇る。
たまたま雲に開いた穴からそそぐ光で山並みがくっきりと照らし出され、その下の渓谷がぼんやりと浮かび上がってくる。僅かに残った木々の緑が、枯れて尽きそうな森林の一部をまだ彩っている。エリスは、ディアナが知らない祈りの言葉をつぶやいている。その姿はこの大地にふさわしく、神聖なものに思えた。
「おかしいか?」
「いえ……」
振り返ったエリスの双眸は潤んでいた。強がる声色も、前ほどは冷たく感じない。
「命は尊ぶように先生には教わった。あんたには、先生はいないのか」
「いませんね」
ディアナにとっての教師は現実であった。知識は与えられていたが、この世界そのものからこの世界を学んだ。
エリスはディアナより広く命の形が感じている。この大地からも多くを感じ取っている。もうそこにノルンの心がないとわかったのだろう。そっと、彼女の亡骸から離れた。
ディアナは戦友の体に燃料をふりかけ、火を灯した。涙は流れなかった。このくらいで感情を動かされないほどには、ディアナは既に血の臭いに慣れていた。
運よく、車両は攻撃を受けずに残されていた。施設には他の車両もある。ここの職員は、車両で逃げる暇すらも与えられずに全滅したのだろうか。
二人とも怪我はないが戦闘できる状態とは言えない。通信装置はやられているので回収は依頼できない。どうにか連絡しなければならない。
「汚染地域の中ですが、一つ先の町には旧軍の基地があります。そこで通信施設を利用するしかないでしょうね」
「わかった……任せるよ」
夕方、二人は旧軍基地へとたどり着いた。発電所が完全に停止した汚染地域、夕焼けが照らすゴーストタウンにさしかかる前に防護服に着替えた。フィルターは七十二時間分ある。それまでに通信を行い今後の指示を仰ぐ。
ディアナはエリスの手を握った。拒否はされない。防護服ごしなので体温や感触は伝わってこないが、強く握り返してくる。
施設から持ち出した資料をディアナは読んでいた。一体何があって、無人機は動き始めたのか。
あの施設で働いていた職員の記録によると、始まりは一人の研究員の様子がおかしくなりはじめたことだったという。研究データを全て持ち出して逃げようとした。その後、その研究員は放心状態になり、どんな尋問にも応じなくなったそうだ。
CUBE感染症という症状にかかった、という手書きのメモがあった。そんな病名は初めて聞く。
「どういうことですかね……」
「……」
エリスはその資料を見て何か感じているようだったが、語ろうとはしなかった。
その後の経緯はよくわからないが、その病気が原因で施設の破棄が決定された。施設を統括していた人物が無人機を起動させ、誰一人残さず、外に通信もさせずに皆殺しにするようにプログラムした痕跡があった。あれは暴走ではなかったのだ。
CUBE感染症というのはどんな病気なのだろうか。CUBEと言えばネットワークシステムの名前だが、関係あるとは思えない。手書きということもあるし、何かの書き損じかもしれないとディアナは思う。
感染という言葉が入っている以上、伝染病の一種ではないか。それならば研究員を皆殺しにしたことも、支持しがたい所業とはいえ一応の理由にはなる。そうだとすると、エリスとディアナも逃がしてはもらえないかもしれない。施設の電子機器は使えなくしておいたが、無人機は単独で活動を続けられる。
基地はすぐそこなので、ディアナは考えるのをやめた。ここは無人の土地なのであまり気にしなくていいだろう。ここで死ぬにしても、病名や施設の状態について報告しなければならない。発電機が動けば通信に必要な機材に電力を供給できる。二人は手分けして基地を調べる事にした。
かなりの距離を移動したので大丈夫とは思うが、近辺にあの無人兵器がいる危険も考えなくてはいけない。日没までに通信を終えて車に戻りたい所だ。装甲車なら応戦も逃亡もしやすい。
発電機はすぐに見つかった。非常用の電力が少しだけある。大気圏外の衛星まで電波を飛ばすには足りないので、エリスが燃料を見つけて帰るまでは調整をしながら待つことにした。
「遅かっ……」
物音に気付いて振り返り、声をかけようとした。そこにいたのは、エリスではなかった。
ディアナは咄嗟に身を隠す。こんな場所まで追ってきていた。関節が動く金属的な音が聞こえてくる。物陰に隠れたディアナに向けて、影が迫ってくる。
ナイフを鏡に使い、隠れたまま敵の様子を見た。甲殻類を思わせる長い四脚がついた胴体は、野生動物でいえば熊ほどの大きさがある。照明のついた施設内では、あの暗闇よりもはっきりと姿を見ることができる。エリスにも危険を伝えたかったが、電波を出してこちらの位置を特定されたくない。
敵は電波を発しておらず、スタンドアロン行動していると思われる。どんなアルゴリズムで動いているにしろ、敵が一体で屋内なら勝機はある。重装甲や関節への防御はない。機動力と生産性の高さを重視した兵器だ。ディアナの手持ちの武器でも十分に損傷を見込める。アーマースーツには小型の手榴弾が二発、他に閃光手榴弾がある。これを関節や装甲の間に押し込めば破壊できるだろう。
敵の武器が問題だ。全方位に向けられる機関砲の他、四脚の先端が鋭くツメのようになっている。上部は流線型の装甲板のみになっている。本体上部への攻撃手段がないと見える。上に乗ってしまえば反撃を受けずに済むだろう。
敵の進行方向を読み、ディアナは物陰に隠れながら背後へと回り込む。背後といっても、あの敵に背後があるのかはわからない。センサーと機銃が向いていない方向という意味だ。
閃光手榴弾は一つだけだ。それで目くらましをして、ディアナは物陰から躍り出た。思った通りセンサーの性能はそれほどではないようで、敵は照準を失っている。ディアナは背中、甲羅のような部分に飛び乗る。掴みどころがなく、敵が動くと振り落とされそうになる。
背中の装甲板の間に隙間を見つけ、そこにピンを抜いた手榴弾を放り込む。閃光でくらんだセンサーを復帰させようやくディアナの姿を捉えた敵は、四つある足のうち二つのツメでディアナを捕らえ、地面へと放り投げた。
天地が反転し、肩から地面へと叩きつけられる。敵は機銃を発砲しなかった。どうやら最初から弾切れだったようだ。
撃たれたほうがマシだった、そうディアナは思うことになる。素早く移動してきた敵はディアナに覆いかぶさり、数百キログラムもある胴体でディアナを押しつぶす。肋骨がみしみしと圧迫され、激痛が走る。呼吸ができない。
冷酷無比な無人兵器は鋭い爪を振りかぶった。掌を釘付けにしようとした最初の爪を、寸前の反応で避ける。しかし、防護服の一部を捕らえられ腕を押さえつけられる。
弾切れになってからは、こうして人を殺していたのだろう。施設内にはずたずたに引き裂かれた遺体もあったと思い出して背筋が冷える。
爪の裏側には、まだ湿った土が奥深くまでこびりついている。まるで穴でも掘ったようだ。隠蔽性の高さは自身だけではない。殺した人間は土に生めて衛星の目に映らないようにしている。人間に群がって串刺しにし、その後穴を掘って埋める姿を想像し、ぞっとする。拳銃に手が届かない。次の一撃で殺される、そう思った瞬間、装甲の内部からくぐもった破裂音が聞こえた。
手榴弾は四秒で爆発する。四秒にしては長く感じた。敵はぴくりとも動かなくなった。爪を振りかぶった形のまま停止している。重い胴体を苦労して押しのけて脱出した。頭部のように見えるセンサー部は胴体とは制御が独立しているのかまだ生きていて、一つ目がディアナの動きを追い、凝視し続けている。気持ちが悪いので、更に拳銃を撃ち頭部も破壊した。
圧し掛かられた腹部には鈍い痛みが残っている。強化兵士でなければ肋骨が折れていたかもしれない。しかし、休んでいる暇はない。エリスを探さなくては。もう暗くなりはじめている。
外の様子を観察すると、広い基地の中をエリスが歩いてきているのを見つけてほっとした。まだ敵がいる可能性を考えると、ここから通信波を送るのは危険だ。直接話すため、ディアナは施設を出る。
「エリス、ここは危険です。中に……」
エリスは何も答えず拳銃をディアナに向け、発砲した。ディアナは強化兵士だ。Nデバイスで常に視覚を解析し発砲動作を監視している。危険に対し、瞬時にディアナの四肢は反応を返す。弾はディアナのバイザーを破壊するに留まった。
思考がディアナの中を駆け巡る。後ろに倒れこむ瞬間、天を見上げた。半分が夜の帳に包まれた空。青紫の暗い広がりの中に輝く星が見える。
あれは星じゃない。人工衛星だ。ディアナは自分の拳銃を抜き放ち、エリスの武器を撃ち落す。相手はただのSロットだ。強化兵士のディアナの方が優位である。
その瞬間だった。突如としてディアナのNデバイスに強制制御信号が送られてきた。
機密保持用の自己消滅信号がディアナめがけて送られている。ディアナは自分の意思に反し、手に持った拳銃をこみかみに当てた。
Sロットは一つでも通信装置を経由すれば制御信号を送って操れないはずだ。この辺りには誰もいない。一体どこから、と考え、一瞬前の光景を思い出した。空にある衛星だ。指向性電波照射によって、軌道上からピンポイントにSロットを狙って制御することなら可能なのではないか。衛星軌道上からでも、間にいかなるノードも介していなければ、それは「直接」となる。
初めから監視されていたのかもしれない。気象条件がそろって通信が可能になったので始末されようとしているのではないか。気付いた所でディアナにはどうしようもなかった。すでにトリガーに指がかかっている。しかし、発砲の前に突き飛ばされ、拳銃は地面に転がった。
救ってくれたのはエリスだった。ディアナの上に圧し掛かり、自害しようとする腕を押さえている。
「ディアナッ!」
エリスは意識を取り戻し、叫んでいた。ついさっきディアナにむけて発砲したエリスが、今はディアナを助けようとしている。彼女も衛星によって制御されていたのだ。
普段のディアナなら、強化兵士でもないSロットが組み伏せてきても簡単に振り払ってしまう。戦闘で体は疲弊し、腹部の鈍痛もおさまらないままだ。それが幸運だった。エリスは全体重をかけ、ディアナを抑えることができた。
力が一瞬抜けると同時に、ディアナに送られていた消滅信号がキャンセルされる。今度は、エリスをコントロールするよう切り替えたようだ。
二人同時に操ることはできないらしい。エリスはそのままディアナの首に手をかけ、締め上げ始める。腹部を膝で押さえつけられてさらに体重がかかり、ディアナは悶絶した。
もうおしまいか、ついに自分も果てる時が来たのかと思い、ディアナは空を見上げた。光が走り、星が砕けるのが見えた。
しばらくは気を失っていた。体は動かず、軋む音が聞こえそうだ。腹部の痛みがひどい。起き上がろうとして諦めた。近くに誰かがいる。
「姉さん」
はじめ、その声が誰かはわからなかった。自分をそんな風に呼ぶ相手に心当たりがなかったからだ。室内らしいが、照明はついていない。非常用のライトだけがぼんやりと相手の顔を浮かびあがらせる。エリスであった。
どういうわけか知らないが、二人は助かったようだ。気を失う一瞬前、空で何かがはじけたのが見えた。通信衛星だった。あれは本来、敵に電波傍受されないようにごく限られた狭い範囲に指向性の電波を送ることのできるものだと思う。北から何かが飛来し、あの衛星を撃墜した。
「あんな衛星を持っているのは、政府軍しかない。つまり……」
政府軍と研究所はSロットや強化兵士の命を道具として扱ってきた。しかしそれは、自らの利益のためではなく、この世界をよりよく統治するためだ。ディアナはそう教えられ、信じてきた。だから、同胞の死にも向き合ってこれたのだ。
「……なぜ、私たちを殺そうとしたと思いますか?」
「わからない……そこに転がってるヤツ、それは姉さんを襲ったのか?」
エリスが指差したのは、あの無人兵器だった。
「私を使ったのは、“誰一人生き残っていないこと”を確認するためだろう」
エリスはこの状況にしては冷静に話した。病原体の拡散か情報の漏洩か、あるいはその両方のために二人は殺されかけたとディアナは考えた。生き残りがいないかを確認するためにエリスが送り込まれ、使い捨てにされた。
だが、エリスはそれだけでは納得せず、何かを考えている。
「忘れていることがあると思わないか」
エリスは自分の顔を指差す。言われて、はっとなる。エリスもディアナも、汚染地域用の防護服を着ていなかった。病原体だって存在するかもしれない。予備のバイザーはあったはずだ。すぐに装着しなくては。そう考えていると、エリスは落ちついたままで告げた。
「値を見てみろ」
アーマースーツのセンサーで有害物質の数値を見てみる。限りなくゼロに近い数字だった。ここは、もうとっくに汚染地域の中のはずだ。
「どういうことです?」
ここは、汚染地域ではない。政府がこれを知らないはずがない。汚染の調査は定期的に行われているからだ。
汚染というのは嘘だということになる。そもそも、なぜあんな無人兵器が政府に必要だったのだろうか。調査した設備から発進したのはせいぜい二十機、こんな場所に現れる可能性は低い。だとすれば、「汚染区域とされる場所」に無数に配置されている可能性がある。
「この基地の監視映像を調べてみた。二十機どころではない数が確認できる」
いくら立ち入り禁止地域だからといって、人間の気配があまりにもなさすぎるのも気になる。反政府組織にとっては汚染区域はいい隠れ場所なのに、そんな気配は少しもない。
「じゃあ、一体何があるんですか……?」
そこまでして政府が隠蔽するような何かがここにはある。見ておく価値はある。次にどうするか決めるために、状況を少しでも知る必要がある。
ディアナのNデバイスはソリッド型なので、少し手を加えることで、完全に停止させることができる。射撃補助や通信機能は使えなくなるが、操られる危険性はなくなる。
もちろん、そんな改造は違法だ。もう後戻りはできない。
ディアナは手術の経験がある。他のSロットの破損したNデバイスの交換も行ったことがある。基地の設備を使って、Nデバイスを任意でオン/オフできるように、自らの胸を切り開いて、改造を行った。
そう難しいものではない。電源を確保しているバッテリーとの間に簡単なスイッチをつけるだけだ。血を見るのが苦手なエリスだったが、手を貸してくれた。無事に手術は終わる。本当なら安静にすべき所だが、先を急がなくてはいけない。
「あの無人兵器には、欠点がある」
装甲車を運転するエリス。長い間Nデバイスに頼っていたために視界が不安定なディアナを守ってくれているのだ。ハンドルを握りながら、彼女は言う。
「あいつは衛星で探知できない。だから、衛星でやったような狙い撃ちの電波通信さえも行えない」
昨日、基地に留まった二人を襲ってくる者はなかった。場所は知られているはずなのに、増援が差し向けられた様子もない。この場所は危険区域の奥深くだ。そんな所に軌道上から部隊を送り込んだり、政府軍の航空機を送り込むことはできない。そんなことをすれば、ここに何かがあると勘付かせるからだ。
まだ一日しか経過していない。二人の居場所が知られる可能性は低い。昨日、通信衛星で狙い撃ちされた時も雲は晴れていた。濃い雲で覆われている地域が多い今の地球では、あのタイミングで外にいたエリスしか狙って制御することはできなかった。この車両は熱遮断されていて、衛星での発見が困難なタイプだ。分厚い雲の下から出ないようにすれば衛星監視カメラからも逃れられる。その間に、その「何か」を見極める。
突然、エリスがブレーキを踏んだ。
「どうしたんです?」
エリスの様子が変だった。目の前を見つめ、震えている。
「おかしいんだ、この先……」
Nデバイスを遮断して落ちたディアナの視力はまだ完全には戻っていない。しかし、異変があることは明らかにわかった。
「日没には……まだ早いはずですが……」
その先の空は突然終わっていた。真っ暗な空。宇宙船から見る星空のように。いや、そんなものよりももっとおかしいものがある。
深淵と呼ぶにふさわしく、ほんの少しの光も反射しない黒で染まった大地が目の前に広がっていた。その黒によって亀裂を作られ引き裂けた大地が重力を無視するように宙に浮かび、遠くに浮かんでいる。
世界は、そこで終わっていた。
「……何も感じない」
エリスが言う。ごうごうと風が鳴っている。そこには、物体どころか幽子さえも存在しないらしい。光も重力もない世界が存在している。真空とそうでない空間とがどうやってか隔たれ、強風が生まれて砂塵を巻き上げている。想像を絶する光景を前にディアナも圧倒されているが、エリスはそれ以上だ。
視覚が復活してきた。広大な深淵は見渡す限り、何キロも先まで続いている。これほどの規模の異常があれば宇宙からでも見えるはずだが、ディアナはこんな現象を知らない。
宇宙から、と思った時、今はCUBEシステム外だと気付く。地球上では、宇宙空間で常に配信されている視界補助がない。
非常時の視界補助があればこれを隠しておくのは可能だとディアナはすぐに気付いた。宇宙では必ずNデバイスを施術しなければいけないと政府は定めている。Nデバイスが起動している限り、緊急用のAR情報展開を遮断することはできない。それがあれば、存在するものを無いように見せたり――いやこの場合は逆で、存在しない世界を元のままに見せることも、やってやれないことはないかもしれない。
記憶を見ている柊は知っている。ディアナが考えている事は本当だ。研究所は緊急ARを利用して地球の真実を隠し続けている。だから、起動状態が制御できないソリッド型のNデバイスは根絶された。やはり、彼女はこれを知っていたのだ。
ディアナは、車から降りて、近くまで歩いていく。その手を、エリスが掴んで引きとめ――
そこで、追憶に夢中になっていた柊に突然呼び出しがかかった。病院からだ。アイの容態に変化があったらしい。
治療中のアイの医療槽が突然CUBEシステムからはじき出されたと医師は報告した。
「原因は全くわかりません。この医療槽のCUBE端末だけが、どうやってもシステムに認識されないのです。固有IDがブロックされています」
異常事態だった。無数に設置されるCUBE端末は自動的にネットワークを構築する。個別のCUBE端末は全て通信機能を持っていて、お互いを繋いでいる。月面ではネットワーク外に記憶装置を持つことは法律で禁止されている。だから、CUBEシステム内のあらゆる端末は、ネットワークから遮断できないようにされている。こんな事はありえない。
アイの医療槽には異常な所はない。こんなことが出来るとすれば、CUBEを支配するテスタメントの上位に位置するQロットくらいしか考えられない。だが、柊以外にこの槽にアクセスしたQロットは存在しない。
「別の医療槽に移すことは?」
「今の容態では……危険ですね」
医療槽は万が一端末が孤立しても内蔵電源で生命維持を行う。すぐさま危険ということはない。二十四時間ほどは作動し続ける。いざとなれば多少強引にでもアイを医療槽から出すしかないが、今がその時ではない。
これも誰かからの攻撃なのだろうか。槽は柊の操作を受け付けなかった。単なる不具合などとは思えない。得体の知れない何かがいるという曖昧な感触がまた現実に近づく。
『私に何があっても、自分の身を守ることだけを考えて』
アイはそう言っていた。これを放置できるはずがない。追憶を続けて情報を集めている場合ではない。
それでも、柊はアイの指示によって自宅に帰された。アイに遠ざけられている。アイは何か知っている気がする。今まで、アイからこれほど情報をもらえなかった事はない。どういう理由か、柊を関わらせたくないような行動をとっている。疎外感があった。
柊を見つめている目線に気付く。R13だ。そういえば、R13には一切構うことなく突然飛び起きて出かけ、そして慌しく帰宅してきた。その様子を、R13は感情の篭らない瞳でじっと見つめている。
彼女の目だ。R13の目は、非常に特殊なものだ。あれほどの性能を持ったスキャンアイはそうそう作れるものではない。あれを摘出して分解すれば、アルカディア計画に関する何かを発見できるかもしれない。
頬に手を当て、彼女の目を覗き込む。見た目には通常の眼球と変わらない。何の疑いも持たない視線で、柊をじっと見つめている。
この強化兵士は長くは生きられない。眼球を摘出すれば、さらに寿命が短くなるだろう。アイの命を守るためなら、自分はこの人造人間の体を犠牲にできるだろうか、と柊は自分に問う。人を殺したことは何度もある。
考える柊の手を、R13はそっと握った。白く冷たくなった手を両手で包んでいる。暖かかった。
彼女は、せいぜい数ヶ月しか生きられない体だ。しかし、それを嘆く価値観すらも持っていない。ただ、目の前にある柊の手を労わっている。
直前までディアナの記憶と一体化していた柊は、この小さな存在を無下にできない。彼女はヘンシェル系の血筋を持っていて、外見も似た顔立ちをしている。ディアナの記憶の中で戦友だった強化兵士たちの顔がよぎる。
声をかけようとして、なんと呼べばいいかわからないことに気付く。彼女には固有の名称が設定されていなかった。Sレインから彼女のNデバイスにアクセスし、名称を登録する。
「ノルン」
他に思いつく名前がなかった。優れた視力を持つ優秀な狙撃手。昔、そんな兵士がいた。髪の色や長さといい、彼女の姿はあのSロットを彷彿とさせる。
「……?」
まだ、自分の名前もうまく発声できないようだ。
発声による言語でのコミュニケーション教育は、彼女にはインストールされていない。データ通信によって指令を受け取ることしかできず、自らの意思で声を上げる機能はないのだ。Nデバイスに新しいモジュールを入れて補助することもできるが、それはただでさえ短い寿命を、さらに短くすることになるだろう。
短い間だとしても、それが彼女の名前となる。そのくらいは、自分で発声を練習して声に出せるようになればいい。
アイを救うことは、他のあらゆる手を尽くして実現する。ノルンの手を借りるにしても、別の方法でだ。そう柊は決めた。
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