Arcadia(A) 3

■榧・四



 式典中の政府軍の宇宙戦艦クリシウムの内部にて乗員が危険区画に取り残される事故が発生。しかし、迅速な対応によって事なきを得た。政府からの公式発表は以上だった。様々な反応や検証が寄せられ、報道メディアは混沌としてきている。

 情報はファクト・チェックで整理されるが、それを駆使しても今回は真相を知るのは難しい。元となる情報が少なすぎるためだ。CUBEネットの埒外であるあの艦で起きたことを知るには限界がある。

 閉じ込められたのがアイと榧であるということは、どこにも発表がない。「グリント」に送った情報はCUBE外の情報のために速報レベルで少し流れただけで、ほとんど無視されている。公式発表では被害にあったのは一般兵だったということになっているので榧の証言はすぐ誤報扱いになった。クリシウムも立ち入りできなくなり、記者たちは追加の取材を諦めるだろう。

 普段の榧なら、これは陰謀だ、情報操作だと食いついていったと思う。今回、榧は別のことが気にかかっていてそれどころではなかった。

『大事な手だよ、あなたのは』

 アイの言葉を思い出していた。幼少の頃の記憶には母しかいない。手をつないでくれていた母の記憶だ。

 何か思い出しつつある。

「(やっぱり、確かめないと)」

 どうしても気にかかる。アイの容態も心配だ。

 警官が二名、表の車の中で待機している。警護と言っていたが、監視かもしれない。外出はしないようにと念を押されている。

 榧は裏手の窓から外に出て、暗い裏路地へと飛び降りた。

 CUBEネットワークは政府のシステムではない。あれを使って榧を追尾する事はできない。政府は勝手な法律をあれこれと決めているが、この月面の秩序はCUBEシステムだ。システムを悪用する行動、殺人など明らかな悪意などを見せるユーザーがいればシステムは自動的にその人物の情報を公開するが、逆に言えば、それに気をつけていれば警察とはいえど個人情報の取得はできず、警察は合法の範囲で独自に調査しなければならない。逃げてしまえば追いきれない。ここでは警察の権力は絶対のものではない。

 搬送先の病院は調べてある。アイを連れて行った救急車のナンバーを記録しておいた。照会してみた所、あの車両の所属は政府が管理している病院の一つだった。

 リニアカーに乗り、病院がある区画へと向かう。目的地は第八区画。政府軍の拠点が設置されている場所だ。確か、新政府軍として再編・強化が進んでいるとか。その予算も、アイが総帥を務める惑星開発財団の出資によるものだ。アイにとっては安全な区画と言える。だからここの病院へと入院することにしたのだろう。

 一般人の立ち入りが禁止されているわけではないし、軍人向けの商店や飲食店で働く者もいる。軍事マニアか記者のフリをすれば(実際に記者だが)、自然に歩き回ることもできるだろう。

 リニアカーを一歩降りた第八区画の町はどことなく緊張感に包まれていた。現在の情勢を考えれば当然のことだ。クリシウムの一件も拍車をかけているが、最近は様々な場所で小競り合いが頻発している。近年、PS社という巨大企業が力の集約を続けてきたことで、政府軍と企業連合の対立は際立っているからだ。

 勢いだけで来てしまったが、病院に入ることはできるのだろうか。話す事は決まっている。アイにとって、榧は何なのか。縁はあるのか。疑問を解決しないことには、何も手がつかない。覚悟を決め、病院に足を踏み入れた。

 警報が鳴ることはなかった。ここは政府系の病院だ。一般人の来院は禁止だのと注意を受けて止められることを覚悟していたのに、すんなりと中に入ることができてしまった。

 そう思っているならどうして来てしまったのだろうか? 疑問に思うが、それが当たり前という気もする。どこかおかしい。自分の行動を俯瞰し、夢の中から見ているかのような感覚がする。

 CUBEシステムから時々見落とされる榧のNデバイスが今も都合よく発現した。そう考えるしかない。意識が曖昧なのは疲れているからで、別の理由はない。自分には別の役割があるような気がするが、どんなに記憶を探してもそんな事実はない。

 院内ネットワークでアイの病室をサーチすると、それも簡単に見つかってしまった。拍子抜けするどころか、逆に心配になる。暗殺に対して警戒していないのだろうか? もし自分が暗殺者だったら、罠だと判断して近づかないだろうと榧は考える。しかし榧は暗殺者ではなかったはずだ。本当にそのはずだ。だから、迷うことなく歩いていく。

 ここまで来てしまったのだ。真相に近づくためにも、アイと面会することは必要だった。取材だって、まだ終わったわけではない。

 病室は個室であった。思い切ってドアを開ける。そこには、医療層に入れられたアイの姿があった。

「親類の方ですね」

 予想外だったのは、そこには医師がいたことだ。医療ロボットではない生身の医師であった。

「は、はい。よくわかりましたね?」

 つい返事をしてしまう。

 口実は用意していた。労働者の住居の件を考えてもらうために来たとか、取材のためだとか。しかし、それを話す必要はなくなった。

「親類の方しか、この病室をサーチできませんから。前に来ていた方とよく似てらっしゃいますので、すぐにわかりましたよ」

 医師の言葉が幻聴のように響いている。

 やはり、アイは榧にとっての――。

「一命は取り留めています。詳しい情報は病室の固有DBを見てください。それでは、私はこれで」

 気を使ったのか、医師は退室していった。

『あなたに生きていてもらわないと、困るから……』

 アイはそう言っていた。彼女は、クリシウムで出会った時からわかっていたのだろうか。もしかすると記事を読んでいた時から知っていたのかもしれない。

 おそらく、アイは榧の母親なのだ。確信が持てずにいたが、もう疑う余地はなかった。

 新世代の人々は制御誕生された施設育ちが多いが、地球出身の榧には親となる人間がいた可能性がいくらかある。年齢的には合致する。自然出産か培養出産か、方法まではわからない。期間は長くなかったに違いないが、家族として暮らしていた期間があるかもしれない。

「お母さん……?」

 呼びかけてみる。外部の音声は、医療槽の中には聞こえない。

 この医療槽は要人向けのものだ。小規模の爆発を防ぐほどの防弾性能を持ち、生命維持システムのセキュリティも万全だ。簡単に通信ができるわけもない。

 槽の窓の部分に手を当ててみる。その向こう側、厚い防弾窓の向こうにはアイの手がある。細くて、冷たかった手だ。クリシウムでのことを思い出す。手を重ねようと思ったが、隔たれていて遠い。幼い頃は、きっと榧の手の方が小さかったはずだ。

 もし家族が生きているとしても、今の自分には関係ない。そう思うようにして生きてきた。しかし、こうして目の前にしてみると、そんな単純には考えられない。

(――)

 どこかからか、呼びかける声が聞こえた気がした。Nデバイス経由でアイから通信があったのかと疑ったが、通信ログには何の記録もない。しかし、はっきり聞こえた。言葉ではなく意思が伝わってきた。

 甘い歌声のようなその声に、失っていた何かを取り戻していく。何か別の役目があったはずだ。

 そこに立っているのは、もう別の誰かであった。アイの医療槽に近づき、その制御装置に触れる。



■柊・五



 目に見えない、正体も定かではない敵意を追うのに限界を感じ始めている。今回はどうしてかアイの支援も得られない。

 S型強化兵士を使ってきたことを考えると柊を襲ってきたのは黒派のように思えるが、宇宙戦艦クリシウムでアイが狙われた一件は黒派が手を出したようには思えない。柊は大雑把に二つの敵を考えた。

 政府の浄化を行うアイを暗殺しようとする勢力であれば、柊の権限からでも捜査ができる。情報室の信頼の置ける者に調査させている。だが、黒派の方は接点がない。数年前までは人脈があったが、一年前のノアリアの一件から黒派とは完全に決別している。現在はおそらくPS社を拠点に活動しているとは思うが、情報が何もない。柊の立場では手を出しにくい。

 思いつくのは一人だけだ。初めて彼女を呼び出してみることにした。

「こ、こんにちは……?」

 突然の通話でも応じてもらえた。レイ・レシャルの声が聞こえる。

 レイは今時の人間なので、音声通信に慣れていない声の動揺を感じる。だが助けて欲しいと伝えると、すぐに柊の自宅までやってきてくれた。

「いいよ、引き受ける。私も探し物があるから」

 知っている情報を渡すと、レイは柊に協力してくれると約束してくれた。あっさりと引き受けられ拍子抜けするほどだった。

 手がかりは柊が持っている。R13改めノルンが身につけていたアーマースーツだ。これは立体形成装置で作られたものだ。詳しく成分を分析すれば、どこで作られたかある程度絞り込める。

 高分子材料はその組成から成型痕、着色料、熱の痕跡などが指紋のように残る。分析には高度な技術が必要だが、柊が所属する政府情報室であれば可能だった。しかし、分析結果を手にしても、材料や成型機の固有情報は企業連合の内部でしかわからないので、実際にどの会社がいつ作ったかを調べるには長期間の企業連合への内偵が必要になる。今は時間がない。

 R社は信頼のある会社だ。PS社のような大企業とも接触しやすい立場にいる。柊が何か調べようとすれば警戒されるが、レイならば企業連合の団体秘匿データベースを閲覧してPS社を追うことができる。

「それにしても、何か着せてあげたら?」

 ノルンを見て、レイは言った。

 レイに引き渡すため、既製品だった下着以外の装備を全て剥ぎ取られたノルンがぽつんと寝台に座っている。柊のクローゼットを勝手に開き、レイは衣服を漁り始める。

 ノルンは全く気にした様子もなく半裸のまま本を読んでいる。放っておくと常に本を読んでいる気がする。生まれたばかりの強化兵士でも好みが存在するというのは、興味深いことであった。レイが手を引いて服を着せている間は本を読むのをやめ、おとなしくされるがままになっていた。

 レイは好き勝手にノルンに服を着せて遊んだ後、結局はシンプルなシャツに落ち着けた。満足したのか、レイは去っていった。

 情報室がアイの暗殺を目論んだ者の見当をつけるには一日以上は必要だろう。データが揃うまでは柊が得意な情報分析の出番はない。ディアナの追憶作業の続きを行うつもりだ。スキューマにいる間は外との通信ができないので、受信はノルンに任せることにした。柊より小柄なため少し服の袖を余した彼女は、無骨なアーマースーツを失ってますます普通の人のようになっている。

 ノルンに指示を与えてから柊はスキューマに乗り込む。ディアナの遺体と接続し、中断した途中から、再び経験を追っていく。



 記憶の再生が再開される。前回の追憶を終える少し前からだ。

 突然、エリスがブレーキを踏んだ。

「どうしたんです?」

 エリスの様子が変だった。目の前を見つめ、震えている。

「おかしいんだ、この先……」

 Nデバイスを遮断して落ちたディアナの視力はまだ完全には戻っていない。しかし、異変があることは明らかにわかった。

「日没には……まだ早いはずですが……」

 その先の空は突然終わっていた。真っ暗な空。宇宙船から見る星空のように。いや、そんなものよりももっとおかしいものがある。

 深淵と呼ぶにふさわしく、ほんの少しの光も反射しない黒で染まった大地が目の前に広がっていた。その黒によって亀裂を作られ引き裂けた大地が重力を無視するように宙に浮かび、遠くに浮かんでいる。

 世界は、そこで終わっていた。

「……何も感じない」

 エリスが言う。ごうごうと風が鳴っている。そこには、物体どころか幽子さえも存在しないらしい。光も重力もない世界が存在している。真空とそうでない空間とがどうやってか隔たれ、強風が生まれて砂塵を巻き上げている。想像を絶する光景を前にディアナも圧倒されているが、エリスはそれ以上だ。

 視覚が復活してきた。広大な深淵は見渡す限り、何キロも先まで続いている。これほどの規模の異常があれば宇宙からでも見えるはずだが、ディアナはこんな現象を知らない。

 宇宙から、と思った時、今はCUBEシステム外だと気付く。地球上では、宇宙空間で常に配信されている視界補助がない。

 非常時の視界補助があればこれを隠しておくのは可能だとディアナはすぐに気付いた。宇宙では必ずNデバイスを施術しなければいけないと政府は定めている。Nデバイスが起動している限り、緊急用のAR情報展開を遮断することはできない。それがあれば、存在するものを無いように見せたり――いやこの場合は逆で、存在しない世界を元のままに見せることも、やってやれないことはないかもしれない。

 ディアナは、車から降りて、近くまで歩いていく。その手を、エリスが掴んで引きとめた。

「行かない方がいい」

 エリスの手は震え、冷たくなっていた。ここは彼女が持つ感知能力の危機感を信じ、従うことにする。

 日没までここにいればまた無人兵器が襲ってくるかもしれない。かといって、ここから先に進めるわけもない。

 二人は、車に戻って周囲の状況を探ってみることにした。

 エリスにはバイザーがある。広範囲にわたって幽子索敵ができるものだ。通常は人間の幽子活動を発見するものだが、内部処理を変更することで別なものをサーチすることもできる。

 手元にはあの無人兵器の設計図がある。幽子デバイスほどはっきりと探知できるわけではないが、設計情報をフィルタ処理に組み込めば発見の確率は上がる。

 地球は広い。敵の位置がわかれば回避も可能で、ここからの離脱もできる。しかし、エリスは予想外のものを発見することになった。

「何か……この先にある……」

 言って彼女が指差すのは、深遠の先だった。

「この先に?どこです」

「そんなに遠くないな……大きな……リングみたいな構造物がある」

 ディアナは車両にあった双眼鏡を持ち出し、言われた方向の暗闇の奥を覗いてみた。

 暗闇は地面を中心に広がっているが、所々に大地だったと思われる岩塊が浮遊している。あそこでは重力すらも感知できない。空間自体に異常が生じているとエリスは言う。

 そうして浮かぶ物体の中に、何か人口的な構造物がある。それを、ディアナの双眼鏡が捉えた

「宇宙ステーションのように見えますが……」

 外見上、作動している様子はない。しかしわずかに熱を持っている。構造から、生命維持機能も持っているようだ。

「誰かいるみたいだ」

 エリスが言う。微弱だが、人のものと思われる幽子デバイスの反応がいくつかあるという。

「……敵の方は」

「だめ……囲まれてる。突破できるとは思えないな」

 おびただしい数が地中に潜んでいるという。希望はもろくも崩れ去った。

「なんとか、あの宇宙ステーションまで行ければいいんですが」

「本気?」

 エリスは乗り気ではない。この暗い世界を恐れている。

「ここよりは、あそこの方がマシでしょう」

 だが、このままではどうせ同じだ。あの無人兵器は飛行できないので、そのステーションに逃げ込めれば追ってこれない。あれが残骸でもなんでもいい。少しでも長く生きられる方法があるならそれを選ぶ。戦場で生き延びる鉄則だ。

 飛行できる乗り物があればいいのだが、あいにくアーマースーツのブーストジャンプ機能くらいしかない。せいぜい短時間のジャンプができるだけで、あんな距離は飛翔できない。

「可能かもしれない」

 ディアナの話を聞き、エリスはじっと考えて言った。

「この暗闇の上には重力がない。だから宇宙ステーションもあの位置に止まっていられる」

 宇宙ステーションは動力もないのに空中に浮かんでいる。この空間では重力が働かない。意を決して飛び込めば、あとは慣性飛行であそこまで到達できるかもしれない。そうエリスは言う。

 地面側の暗い方に石を投げ込んでみると闇の中に消えていくが、まっすぐ投げるとそのまま飛んでいく。宇宙用の姿勢制御装置のあるアーマースーツでなら無重力空間での飛行が可能だ。エリスの言うとおりなら問題ない。

 理屈の上ではそうでも、この闇の上に身を投げ出すのは恐ろしい。ディアナはエリスの手を引いて、意を決して飛び込んだ。無重力空間での救助訓練は受けている。二人分の重量で姿勢制御すること自体は難しくない。

 いざ飛び出してみると、暗闇の広大さにスケール感がつかめなくなる。大地から始まった深淵は、海にまで達している部分もある。

 はるか遠くに海が途切れている部分が見える。宇宙観を昔に遡れば海に終わりがあると信じられていた頃があるというが、それを彷彿とさせる光景だ。

 壁状の建造物が見える。それによって塞き止められた海は、暗闇に落下していくことはない。そういえば過去、汚染された海を塞ぐ壁を建造するという政府の計画があった。それはこのためだったのだ。大気の消失はをどう解決しているかわからないが、何かの方法で防いでいると考えられる。

 目の前に視界を戻した。深淵の中央に浮遊する円環状の何かが見える。それが徐々に巨大になってくる。

 大気が薄くなり、そろそろ空気が消えるとエリスから警告を受ける。ディアナは収納式のヘルメットバイザーを装着し、スーツの気密を確保する。空気抵抗が無いと噴射剤を節約できるので、ここからの方が楽だ。

 宇宙ステーションの直径はおよそ一〇〇メートルほどだった。地面に対し水平に浮遊するリングの表面にたどりつく。確かに、宇宙ステーションのようだった。

 銀色の巨大なリングに近づいてわかったのは、ごく一般的な共通モジュールを使って作られたステーションであるということだった。操作の勝手はわかる。エアロックが見つかった。

「ARCADIA(アルカディア)……ステーションの名前でしょうか?」

 どこの所有のものだったかは外からは調べようがないが、この規模ならおそらく政府のものだろう。

「……」

 エリスはステーション全体を見回し、額に手を当てて何事か考えているようだ。

「知ってるんですか?」

「わからない……そういう気もする……」

 現在のエリスは本来とは違う任務、所属になっているという話だった。もしかすると記憶を消されたことがあるのかもしれない。研究所にはそういう技術がある。Nデバイスを通じれば記憶の消去は難しくない。

 エアロックに取り付いてみると、中は真っ暗だった。ステーションの電源が落ちている。手動バルブを使って空気を抜き、二人はエアロックへと入る。そこからステーションの起動を試みた。非常電力が起動し、生命維持装置が動き始める。

 エアロックから主電源を始動することは叶わなかったが、大気は残されている。二人は気圧を確認し、バイザーを外した。

 非常電源は無限ではない。大気清浄機能が働いているうちに主電源を入れる必要がある。何があるかわからないので、二人で行動することにした。そう広いステーションではない。配線から見て電源モジュールと思われる場所がすぐに見つかった。

 小型の核融合炉の上に、それを制御する黒いCUBE端末がいくつか並んでいる。

「CUBE端末じゃない」

 それを見て、エリスは言う。

「これは、祈機だ……」

 小箱のようなものがCUBE端末に収められ、そこに配置されていた。

 祈機という言葉は一応知っている。次世代の高性能な計算機、というくらいしかディアナにはわからない。ここにも刻印がある。番号と名前が記されている。

「ハンナ……それに、グレーテ」

「……」

 ディアナがその名を読み上げた時、エリスは押し黙っていた。刻印されたその名前を指先でなぞっている。

 触れた事で休止状態から復旧したのか、ステーション内に電力が発生し始める。至る所から音が響き始め、照明が点灯する。

「気配がする……誰かいるぞ」

 エリスが言う方向へと通路を移動していくと、その先は培養室になっていた。いくつもの培養槽が連なっている。全てに、培養中のQロットが封入されていた。他に人間がいる様子はない。培養槽にも刻印のついたプレートが取り付けられている。

「綺系……系列名ですね。聞いたことのないものですが」

 ここで独自に研究されていた新型の被験体だ。最近出てきたというQ型タイプだ。ここまでくれば、この施設はもう研究所のもので間違いないだろう。

 メッセージが残されていた。システムの中にあるメッセージではなく、紙のメモである。

――姉妹たちを救ってください――

 ただそれだけが、このステーションとともに残された願いであるらしかった。この培養室は制御室も兼ねているらしい。巨大なQロット操作用の座席がある。

「そうだ……私はここを知ってる」

 エリスがつぶやいた。メモの筆跡をなぞっている。ディアナは彼女をそっとしておくことにし、施設を調べることにした。

 このブロックにはステルスミサイルが搭載されている。そのうち一基が使用され無くなっている。あの時二人を助けてくれたのは、どこからともなく飛来したミサイルであった。

 この暗闇に隠れれば電波も消失する。ミサイルを発射した後も発見されることなく、この場所に留まる事ができていた。ここは意図的に配置された秘密施設であった。

 導かれて来たのだ。記録が残されていた。二人がここに立ったことには意味がある。この施設を調べていくうち、二人は知っていくことになる。どうやってこのこの世界が壊れ、研究所が何をしてきたのかを。



 数十年前、人類は百年ぶりの月面着陸計画を実行した。資源獲得が目的だったその渡航で、人類が足を踏み入れたことのない月面大空洞の内部を調査した。そこで未知の生命体を発見した。

 生命体は、この狭い恒星系を作り出した存在だった。太陽から始まり、地球、黒耀星、そして月と、たったそれだけの星しかない極小の恒星系だ。調査の途中で生命体は死亡し、遺体は新しく作られた月面の秘密研究所に保管された。

 一体どれが過ちだったのかはわからない。北の大地を発端に重力異常が発生し、地球が崩壊し始めた。生命体が死亡したことか、あるいは遺体を傷つけたのがよくなかったのだと研究所は結論付けた。神のような存在を人間の稚拙な手でいじくりまわしていいはずがなかったのだ。

 生命体の代わりにこの世界を維持する存在を用意しなければ、いずれ何もかもが消滅する。現実構築能力の研究を続けなければならなかった。

 現実干渉性はその生命体が持っていた力だ。今ある現実を生成し維持する能力と同じものである。生命体の遺伝子を埋め込んだクローン体が作り出され、超能力を持つ人間、Sロットの姉妹たちを生み出した。現実干渉性の収集は順調に進んだが、それだけでは不足だった。膨大な情報を扱う現実干渉性の分析に必要な優れた計算装置「祈機」と、それを制御するためのソフトウェア「テスタメント」の二つが求められた。

 このアルカディアステーションは、その両方を開発するために作られた最初の研究所らしい。

「この研究を引き継いだのが私の先生だった。テスタメントは完成したのか……」

 エリスはステーションの情報を読みながら記憶を蘇らせていった。消えたはずの記憶はそう簡単には戻らないはずだ。しかし、このステーションの構造は幽子感知能力を増大させるものだ。円環には意味がある。幽子デバイスを捕らえ、活性化させる。だから月面都市も円環なのだ。

 ここの研究の中にある。幽子デバイスは脳よりもずっと多くの記憶を溜め込んでいる。それを活性化させてやれば、Nデバイスを通じて消去した記憶など簡単に復元されてしまう。エリスに今起きているのはそういう現象だ。

「なんてことだ……」

 記憶を戻しながらステーションの情報を閲覧しているエリスを追って、ディアナも情報を読み取っていった。そこで、ディアナは息を詰まらせた。

 テスタメントが完成したのは少し前のことだ。それ以降、今まででは考えられなかった残虐非道な方法で、研究所はSロットを実験動物にして研究を推し進めていた。エリスの時代にも、今のディアナでも経験したことのないようなものだ。

 ディアナは兵士だ。戦場では人間の命は備品のようなものだ。しかし、今の研究所の活動内容はディアナですら胃を締め付けられるような不快感を覚えるものだ。

 Sロットには精神的、肉体的な苦痛を与えることが能力の活性化に繋がる。その研究結果を元に効率化を目指している。人間の所業とは考えられなかった。それもそのはず、人工知能テスタメントによって徹底的に管理された実験計画だからである。

「私は、この計画に関わっていた」

 姉妹を救ってくれというメモ書き。これを残したのはエリスの先生だ。祈機やテスタメントを開発していた人物だ。幽子感知能力者として、エリスはそれを手助けしていた。彼女の本来の仕事だ。エリスは何かの切欠で別の部署に移されて記憶を消され、今日までそれを思い出さなかった。

 エリスは研究の完成を見ることなく、記憶を消されたまま生活していた。だから、今研究所がこんな状態だとは知らずにいた。姉妹たちは苦しむために生み出されている。

 思い出していた。ついさっきまで、エリスとディアナも衛星からNデバイスを操られて抹殺されようとしていた。何の言葉もなくそれは行われた。これも、テスタメントの存在によって研究所が変わってしまったからではないか。

「アルカディア……これは先生からのメッセージだ」

 培養室の中央に据えつけられた座席に座り、エリスは何か情報を読み取っている。このステーションに関する情報は、楪世(しじょう)ルリという人物によって残されたメッセージの中にあった。


 テスタメントは脅威だ。そうなってしまったのには、私に責任がある。このまま姉妹たちが殺されていくのをただ見ていることは私にはできない。

 アルカディアはテスタメントに対抗する唯一の手段で、楔のようなものだ。これを使えばCUBEシステムの防壁を突破できる。必要な機能はすべてこのステーションに備わっている。手引きを別に添付した。

 もし失敗するか、私がここにいられなくなった場合に備えて、この記録を残すことにする。私たちの姉妹であるなら、以下の資料に基づきアルカディア計画を実行し、テスタメントを破壊せよ。


 楪世ルリ  


「このステーションの正体はCUBEシステムへの干渉装置だ。広がってしまったテスタメントを妨害する事ができる」

 テスタメントはCUBEシステム内に展開され自己増殖する分散型のプログラムである。一度広がってしまえば誰にも削除できない。今まで人間によって管理されるが故に無駄が多かった研究所の活動を正すことができる。

 逆に言えば、これがある限り姉妹たちは苦しみ続ける。話や暴力で動く人間が相手ならば方法はあるが、完璧なシステムと言われるCUBEに対抗するのは不可能だ。そのCUBE穴を開ける方法があるとすれば驚くべきことだ。CUBEの中に作られたテスタメントを解体したり、再構築できるかもしれない。

 エリスははじめは興奮していたが、だんだんと顔色が曇ってきた。アルカディア計画の概要を読み進むにつれ、何か気付いたようだ。

「こいつらも機械の一部というわけだ」

 エリスは、席の下にある培養槽を踵で示す。この座席はこれらQロットを操作するものらしい。前席から延びたケーブルが培養槽に繋がっている。

 この座席はそれ自体がQロットの制御装置で、「スキューマ」という名前がついている。強固にNデバイスが保護されたQロットを操るには、このような専用端末が必要らしい。

 Qロットを作り出すには、専用のキーである「Qレイン」が必要になる。Qレインはこの世界にたった一つしかない。それがスキューマの中に搭載されている。

「先生……こんな方法しかなかったんですか」

 複雑そうな表情でエリスは培養槽を見ている。座席に座ると、Nデバイスを通じて下の培養中のQロットに指示が出せる。そして、そのQロットがステーションに搭載された祈機を操作する。人間を道具にしているのだ。何も感じないという方が無理だった。

 ディアナは、エリスの先生だというこの楪世ルリという人物を知らない。生まれてもいないQロットたちを使役し装置の一部としている点に、この装置の禍々しさを感じた。そうまでしなければテスタメントに対抗できないということなのか、それとも設計者の考え方が理解の外にあるからなのか。

 ルリは、自分が生み出したシステムによって大切な仲間が危機にさらされていると知り、どんな気持ちでこれを作ったのだろう。

 榧(かや)、枢(かなめ)、柊(ひいらぎ)、楓(かえで)、欅(けやき)、桧(ひのき)……六人の名前が刻まれている。綺系と名付けられたこの系列の第一ロットとのことだ。彼女たちの性能であれば、テスタメントを出し抜くことができる。

「それで、どうするんです?」

「……実行したいと私は思う」

 テスタメントが存在する限り、Sロットは苦しむ。ディアナは知り合いの顔を思い浮かべた。多くは強化兵士だ。兵士である以上は死ぬ事は受け入れている。しかし……さっきディアナが命を狙われたように、理由も知らず死なせていいとは思えなかった。

「……なら信じましょう」

 綺系Qロットを道具として扱うことになるが、その決断をするしかない。数百人の姉妹を救うために六人の命を使う。

 生き物は数の多寡で比べてはならない。ディアナはこの事を生涯忘れないと誓う。自分が死ぬ、その瞬間まで。

「準備はできた。いいんだな?」

「ええ」

 スキューマとQロットを組み合わせたアルカディアの装置は、普通ではない方法でCUBEにアクセスできる。

 CUBEネットワークは完璧なシステムで、通常のアクセスでは決してユーザーの権限を越えたデータの書き換えはできない。しかし、扱う人間の肉体には隙がある。その人体の側をどうにかすることでCUBEに独自に情報を送れるようにしている。

 具体的には、やはり現実干渉性を使う。ここにいるQロットと祈機の計算を組み合わせれば、高度な現実干渉ができる。それを利用して、不特定多数の人間に架空の体験をさせる。

 Nデバイス上から架空の体験をする通常のVRではすぐCUBEに探知されてしまうが、肉体のほうに直接体験、つまり五感の情報を与えることができれば、それは通常の情報としてCUBEネットワークに受け入れられる。

 この方法でデジタルデータをCUBE上に作成する。まず、人間が感じる誤差の範囲で非常に細かく分割した情報を送り込む。全く別々の人物からアップロードされたデータを並べた時、意味のあるコードが作られる。そうしてCUBEの内部でプログラムを組み立てることで、正規の情報として任意の情報をネットワークに放流する。アルカディア・ステーションはその干渉波を生み出し照射することができるように改造されている。

 この方法でデータを送ってプログラムを組み立て、テスタメントの処理を行っているデータ部を探し出せば、破壊したりその行動原理を再構築できる。

 ルリは非凡な才能を持った技術者だった。CUBEをよく知るルリだけあって、この潜伏プログラムにはいくつもの反復攻撃機能が備わっている。もしテスタメントの掌握が失敗した場合でも、進入したCUBEネットワーク内で自らの存在を隠蔽しながら成長し、テスタメントへの進入や破壊を研究し続ける人工知能としての機能も持っている。

 エリスは用意されたプログラムを起動し、祈機を培養槽に直結させる。準備は整った。

 干渉波による情報送信は人間の生身に送るという方法のため、一方通行である。これは未知の試みだ。プログラムの進行状況を見て情報をフィードバックしていかなければならない。どうしてもCUBEと接続して情報を受信する誰かが必要となる。その役目は、綺系の長女、「榧」に与えられていた。

 これから高度を上げて黒い海の上に通信装置を露出させる。ステーションは普段、受信用のアンテナだけを外に出しているが、アルカディア送信時だけは電波を遮断するこの空間から出て姿を晒す危険を冒すことになる。送信が終わるまではそのままだ。Qロットは上位権限を持つのでテスタメント自体から拒絶や特定されることはないが、通信波の存在だけは探知される可能性がある。テスタメントも高度な人工知能だ。妙な情報があるということに勘付いくかもしれない。

 テスタメントに異常な情報の発生を知られれば、テスタメントはその発生源を探す。その時姿を晒しているこのステーションが補足されれば、地球の半分を射程に入れる政府軍の電磁加速砲艦から即座に攻撃を受け、ステーションは跡形もなく破壊される。危険であった。

「送るぞ」

「ええ」

 ディアナが言うと、エリスは頷いた。決断はもう済ませている。

 一~六番正常作動。綺系の培養槽にランプが点灯し、接続が開始されたことがわかる。世界中に存在する人間の中からランダムで対象を選び、本人も気付かないような細かい人工記憶を流し込んでいった。

「成功ですか?」

「一回目のアップロードは終わってる。榧のNデバイスにフィードバックが来ているな……結果は――」

 エリスが読み上げようとした瞬間だった。アルカディア・ステーションの電源が全て消えた。非常電源へと切り替わる。薄暗い闇の中、ぼんやりとエリスの姿を確認できた。

 ガラスが割れる音がする。うめき声が聞こえた。

「エリス!?」

 躓きそうになりながら、ディアナはスキューマへと近づいた。何かが走り去っていく。返事のないエリスにかわり、ディアナはスキューマから電源の復旧を試みた。

 電源はすぐに戻った。明るく照らされた部屋で、エリスの顔は蒼白になっていた。腹部にガラス片が深々と突き刺さっている。

 内蔵に達している。それをわかっているのか、エリスは虚空を見上げていた。

 何が起きたのか、すぐにはわからなかった。スキューマへとアクセスすると、綺系の反応は五つしかなかった。見れば培養槽の一つが内側から破壊され、中にいたはずのQロットが一人いなくなっている。

「何か現実干渉性をロードしたな……すごい力だった」

 か細い声で、エリスが言った。

「今ので、もうここを特定して逆探知してきた」

 情報をCUBEシステムにもぐりこませてすぐ、テスタメントはその異常に気付き、あらゆる可能性を探ったのだろう。そして、研究所の過去のデータベースから行方不明になった研究用宇宙ステーションの存在を疑った。

 消失した際の軌道から現在の位置を特定し、ステーションに何らかの攻撃をしかけてきた。こんな短い間にそんな攻防が行われたのだ。人知を越えた思考能力だ。テスタンメントという人工知能がどれほど脅威であるかをディアナは実感した。生身の人間が対抗できる存在とは思えない。

「どうやって榧を操ったんですか?」

 テスタメントにとって唯一の弱点はQロットの存在を探知できないことだが、スキューマは別だ。アルカディア・ステーションの中にスキューマという操作可能な端末を発見し、榧に指令を与えて反撃してきた。思いもよらない反撃方法だった。これは、もし次回があれば反省し改善する点だろう。

 しかし、今はそれを考えている場合ではなかった。エリスと、逃げたQロットが気になる。

「QロットのNデバイスには強力なエラー補正能力がある。もう正気に戻っていると思うが……あいつは何も知らないのが問題だ。どんな行動に出るか予想がつかない」

 エリスはすぐにステーションの高度を下げ、もう通信波が届かない探知不能の黒い海の中に身を置いている。同じ方法でQロットが操られることはこれ以上はない。

 テスタメントはここに衛星や宇宙船を差し向けるか、あるいは電磁加速砲での攻撃を行っているかもしれない。離脱しなければいけないとディアナの危機意識が告げている。

「しっかり……今、治療を」

「もう無理だ。それより、あいつを追え」

 エリスは逃げたQロットを優先するようディアナに言った。

「ここに連れ戻せ」

 QロットはSロットを制御できる管理者だが、Nデバイスをシャットダウンできるディアナなら近づいても危険はない。Qレインを持つスキューマなら、Qロットへの命令を再度書き換えることができる。

「私は手伝えない」

「そんなのいいから……」

 エリスの傷は致命傷だ。それは、数多くの同胞を送ってきたディアナには一目でわかることだった。手を施したとしても、内蔵からの出血でこの世を去るだろう。スキューマの医療機能を使っても、延命程度が限界だった。



 アルカディアは円環状のステーションだ。分岐がないので、探索は容易である。

 スキューマのある部屋の隔壁の片側を閉鎖し、追い詰めていけばいい。現実干渉性をロードしているとはいえ、相手はまだ子供だ。肉体年齢的には八才程度だろうか。

 ディアナは十分に警戒しつつ進んでいく。Nデバイスをシャットダウンしているので視覚監視などの戦闘能力は落ちているが、強化された四肢は健在だ。

 廊下に赤い斑点が点々と続いている。はじめはエリスの血液かと思っていたが、どうも違うようだ。綺系Qロットたちが槽の中で身につけているのは保護衣だけだ。培養槽を破った時に怪我をしたのかもしれない。

 血痕は脱出ポッドが備え付けられた小さなエアロックへと続くハッチに続いていた。しかし、エリスがスキューマからステーションをコントロールしているため、脱出ポッドの分離は不可能になっている。

 ハッチに鍵はない。バルブを回すと簡単に開いた。

 エリスに致命傷を与えた相手であるにも関わらず、ディアナは同情を禁じえなかった。蒼白になった顔でディアナの顔を見ている。血にまみれた手には唯一の武器であるガラス片を握り締め、がくがくと震えていた。

 恐怖だったかもしれない。自分がしたことの意味はわかっているのだろう。培養槽の中で多少の情操教育は行なわれる。おびえる姿を見れば、彼女はディアナと何も変わらない存在だと思えた。

 何の準備もなく誕生を強要され、ただ一つの目的のために使われ、そして捨てられたのだ。

「おいで」

 手を伸ばし、声をかける。不器用な動作でディアナに武器を向けてきた。その腕を捕まえる。ディアナよりもずっと細い腕だったが、抵抗する力は強かった。現実干渉性によって増幅された身体能力だろう。しかし、手首をひねると、簡単にガラス片を手放した。自らの手も傷ついて、痛々しく掌を赤く染めている。

 あの一瞬でどんな命令と技能を与えらたかわからないが、精神が技術に追いついていない。現実干渉性の扱いも不完全のようだ。Qロットによる能力の行使には、本来もっと大容量の計算機が必要である。こんな小さい体に未発達のNデバイスでは、そう長続きするものではない。

 力を失った彼女を抱き上げ、ディアナは妹が待つ場所へと戻っていった。



 もしディアナにも幽子感知能力があったなら、剥がれかける彼女の幽子デバイスを感じ取ることができたのだろうか。肉体を介してしか、彼女の命を感じ取ることができない。

 肌の神経は世界を知るに十分な情報をもたらすものだと思っていたが、今はそれがひどく鈍い器官に感じられた。時間の余裕はない。政府軍の武装輸送船は常に何艘か軌道上にいる。こうしている今も、この場所へと向かってきているに違いない。

 連れ帰ったQロットの様子を見て、エリスは何があったのか大体察したらしい。彼女を責めたりもしなかった。

 スキューマがあればこの少女の中から現実干渉性の情報を消し、命令や教育を書き換え正常なものに戻すことができる。培養槽が壊れてしまった以上、そこに戻すというわけにもいかない。

『最後の仕事だ』

 延命のため生命活動を抑えているエリスは、もう声を出して話すこともできなかった。Nデバイスを復帰させたディアナに対して通信で意思を伝えながら、自身はスキューマに横たわったまま少しも動かなかった。そのままで、榧の記憶を操作して常人に近づける教育を行っている。

 書き換えが終わる。Qロットの少女は目を開き、ディアナを見た。

「名前、なんていうんでしたっけ。言葉は?」

『榧だよ』

 あまり聞き慣れない響きの名前だ。

「榧」

 自分の名前を呼ばれているということはわかるのだろう。瞳にはわずかな反応がある。

『言葉はわかるみたいだけど、自分で話せるようになるまでは慣れがいる。それは姉さんが教えるんだ』

 エリスは遠まわしにディアナにも生きろと言っている。これからの身の振り方を考えなくてはならない。

 ステーションが振動し傾いた。ぎしぎしと音を立てる。ディアナはよろめく榧を抱きとめた。三半規管を利用した加速度センサーは、上方への浮遊を検知していた。ステーション全体が、天に向かって浮遊を開始している。

『お迎えか』

 エリスが言う。軌道上に到達した政府の船舶がワイヤーでステーションを捕らえ、引きずり出そうとしている。破壊するのではなく、捕らえようとしている。

「ステーションが目当てでしょうか?」

『だろうな……残った綺系には重要なデータはないが……どうする?』

 まだ生み出されていないQロットが五人いる。どう利用されるかわからない。研究所の手にわたるくらいなら殺すか? エリスは動かないままだったが、目がディアナを見つめていた。

「それはやめましょう」

 榧の目の前でそんなことをするのは、ディアナにはもう無理だった。

「さよなら、姉さん」

 妹はかすれる肉声でそう告げた。手を握る。物のように動かなかった。もう感覚はないのだろう。瞳は安らかに閉じていた。

 ディアナは榧の手を引いて脱出ポッドへと向かう。まだステーションと繋がっているエリスが、土産とばかりに残っているミサイルを射出した。

 これで逃げやすくなる。深淵に浮かぶアルカディアステーションの周辺には数多くの大地の破片が飛び散っている。それらに命中したミサイルは粉塵を撒き散らし、脱出ポッドの存在を目隠しする。岩石や土の破片が衝突する衝撃に揺れるキャビンの中、榧を守るように堅く抱きしめた。

 円環の中には、脱出した妹たちがいる。遠ざかっていくそれを見つめながら、二人の姉は徐々に弱まる振動を聞いていた。



 柊は気付いていなかった。ディアナの記憶に引き込まれるように、彼女の意識と一体となりつつある。

 スキューマはQロットの、それも綺系を調整し書き換えるための専用端末だ。Qレインは取り外されているが、それでも柊の記憶制御プログラムを最初に作り出した端末だ。記憶同調の親和性が高く、柊はディアナの記憶に影響を受け始めている。

 自身の意識を希薄にされ、考えることもできずに、大量の感情を遺体から流し込まれ続けている。

 柊は、眠り続ける。



■レイ・三



 陰鬱な町だ、というのが最初の感想だった。

 明るいグレーが中心の第一トンネルと違って、この第二トンネル都市はダークグレーに白のマーカーが施されている。白いマーカーをわずかに発光させ、照明は最低限に抑えられている。

 濃紺の町並みだ。どうせARで視界補助をするのだから町は真っ暗でも構わないという考え方らしい。マーカーと人だけを判別できればよい。ARを使わない後進的な人間は、ここにはいない。

 ここが敵地でなければレイもARを利用していただろう。しかし、そんな気分にはなれない。第二トンネルに入るのはレイにとって初めてのことである。商売上踏み込む必要がなかったので、今まで関わろうとは思わなかった。実際のそれは、想像とは少し違っていた。

 はるか上方の天上を這うリニアトレインが流れていくのが見える。まるで深海にいて、そこから発光する深海魚が泳ぐのを見上げているかのような感覚を覚える光景だ。水圧さえ感じそうな圧迫感のある闇に暗くそびえるビル群が遠くまで続いている。全人類の一大事業だった第一トンネルより円環の直径が小規模ではあるがトンネル自体の幅と高さは全く同じなので、ここに立っているとそういう実感はない。広大な空間である。

 街を歩く人は少ない。歩くという行為にはあまり意味がない。道路は人よりも多くの小型の輸送用ポッドが行き交っているだけだ。第一トンネルも無機質だと長年思ってきたが、ここに比べればよっぽど活気のある場所だ。

 PS社が作る町は機械的な冷たさがあった。確かにここは居心地がいい。余計なものがなく美しい。負担が限りなく少ない。そう、レイは感じていた。

 柊から預かったアーマースーツの材質を分析、企業連合のデータベースからその流通路を探った結果出てきたのは、この二号トンネルにある共用工場に納品された材料が怪しいと判明した。

 共用工場とは、多数の企業の出資で運営される工場だ。最新鋭の成型機をそれぞれの企業が交替で回すことによって、低コストかつ高品質の製品を大量に生産することができる。第二トンネルのものはほとんどPS社の系列会社が回している。

 戦闘ポッドをはじめとする軽戦闘兵器は、いまやこれらの三次元成型機にデータをアップロードするだけで生産が可能だ。原料さえ用意すればよく、専用の機械を揃える必要はない。安価で粗末な成型機をそれぞれがそろえるよりも、共同で高性能なものを持った方が、費用も生産効率も安く済む。

 これらの成型機にアップロードされたデータは厳重に守られているので、調べても意味はない。レイは警察ではないので、逮捕する証拠を必要としているわけではない。あのアーマースーツは市場には出回っていないので、同じものの在庫をこの目で発見できれば出所の特定となり、それで終了だ。

 問題の品物は、黒の強化高分子フィラメントを使って成型されていた。それが納品された工場の場所は数箇所のみだ。公開されている出荷製品と釣り合いが取れている工場を取り除くと、不信な工場は二つある。近い方から行ってみることにする。

 徒歩での移動は限界がある。車をレンタルすることにした。

 第一トンネルと違う点の一つに、ここではマニュアル運転が可能だという事がある。企業連合の幹部であることが条件だ。いわば特権である。懐古趣味と無縁なようでいて、その上層部ではこのような特権を許している。

 ますます、かつての政府のような組織だ。しかし今はそれを利用させてもらう。この場所が想像よりずっとレイにとって居心地がよく、気に入り始めていることへの反発があった。敵地でハンドルを預ける気にはならない自分でいたい、そんな気分だ。

 発注した車両がレイの前へと迎えに来た。一人なので、回されたのは小型の車両だ。それに乗り込み、マニュアルモードへと切り替えてハンドルを握る。

「ようやく免許をもらえたからね」

 柊にも手伝ってもらってなんとか取った運転免許がレイにはある。シミュレーターはまだマシだったが、実地ではかんしゃくを起こして練習用車両を三台もあの世行きにした挙句、厄介払いのように合格にされた。

 どうせ免許を使うとすれば月面都市の中ではないから、どうでもいいと思われたのかもしれない。しかし、ここは例外である。

『テストパイロットとしては優秀なのにどうして自動車の運転ができないのか、理解に苦しみます』

 ナビを担当する前に、サクラが余計な一言を言った。

「だって怖いでしょ。地面を走るの」

 レイは当然だというように言った。障害物を自由に回避できる三次元の空間の方が、逃げ場のない二次元の地面よりも気楽だというのがレイの考え方である。高い場所から落下して死ぬという考えはなぜか持ち合わせていない。

 マニュアルモードでも事故防止機能くらいはある。あとはレイの反射神経を頼りにするしかなかった。

『今回の仕事、最大の危険がここにあります』

「黙って」

 問題を起こすわけにはいかないと自覚しているためか、レイは普段とは違う慎重な運転で最初の工場に辿りつく。途中何度か小さくかわいい小荷物輸送ロボットを跳ね飛ばしそうになったが、相手のほうがすばらしい敏捷性で衝突回避してくれた。

 企業連合の会員であるレイならば、共用の施設には簡単に入ることができる。今日ここに来るための口実も作っておいた。PS社の自警団に協力したいので、工場を見せてほしいというものだ。

 先日の模擬戦で見たイグニスの性能を実感し、力不足を認識したので協力していきたい、というメッセージを送ってある。まずは共用工場を借りて、独自の無人戦闘機を作りたいと申し出た。柊のためでなければ絶対につかない嘘だ。

「お待ちしておりました」

 直前に通知していたとはいえ、出迎えがあるとは予想外だった。

「どうも」

 工場には人がいないものである。警備も生産も全てCUBEシステムに統治されているからだ。その日は工場の外注担当だという人物がレイを出迎えた。

「ごらんの通り、ここにはまだ生産能力の余裕がございます。いつでもお声をかけてください」

 それだけ言って、担当者は去っていった。

 レイは生産ラインを調べた。どんなものを作っているのかは事前にリストを入手してある。リストにない稼動生産ラインは電力の流れから探知することができる。

 R社で開発した幽子探知デバイスを使えばレイには少しの幽子探知が可能になり、隠された電力の流れを知ることができる。それを元に工場の奥に進んだ。

 通路はそこで途切れていたが、壁の向こうに空間があるのがわかった。レイはレーザーブラスターを取り出し、プラズマカッターモードに切り替えて壁を切り裂いていった。監視システムに見つからないように慎重に穴を開け、そこから内部に入り込む。

 そして、そこに隠されたラインを発見した。

 通常のものと変わらない高性能成型機がいくつも稼動していた。そこに、目的のアーマースーツがあった。目標達成だ。

 しかしレイには自分自身の目的もある。PS社の情報を集めておきたい。用意してきた小箱を取り出し、成型機の記憶領域に繋いだ。CUBEネットワークの目を盗んで、機械から直接データをコピーする違法記憶媒体だ。そこから抜き出したデータを暗号化し、サクラへと送って分析させる。

「いつからこれを?」

『一年前に計画をはじめています。生産開始は一ヶ月ほど前のようです』

 生産されているものはアーマースーツだけではなかった。もっと大型の殻のような部品が生産され、どこかへと送られている。第二トンネルの図面にはない地下構造物が存在し、その先に次々と輸送されているようだ。

 見たところ、それは無人兵器のようだった。どこかピストレーゼに似た形状をしている。そう思ってあたりを見回し、レイは発見してしまった。

 工場の奥に研究スペースのような空間がある。そこに、残骸となったピストレーゼの一部があった。レイは息を呑んだ。あの大空洞から消えていたものだ。

 図面を調べると、外装部分や一部の機械部品の設計を参考にしたことがわかる。だが、祈機に満載された内部プログラムを使った形跡は全くない。レイの探し物である祈機は残骸の中にはなかった。残念だが、同時に安心もした。確信はないが、祈機を奪ったのはPS社ではないのかもしれない。

 戦争でもするのかと思うほど大量に無人兵器を作っている。しかも登録されていない設計のものだ。これは明らかに企業が保有する武力としては違法だ。設計内容を見たが、この戦闘機械はカロン級の脅威さえ上回るものとなる。今はこれを柊に伝えなくてはいけない。工場の外に出て車に乗り込んだ。

 もともと暗かった街の明かりが全て消え、道路を走る自動車も全て停止してしまった。街のあちこちから困惑する声が響いてくる。それに対して、機械類の動く音は全く聞こえてこない。

 CUBEネットワークに何らかの不具合が生じている。こんなことは初めてだった。

 月面のあらゆる機器はCUBEシステムに管理されている。それが停止することは、車の通行やARシステムが停止するということだ。生命維持に必要な大気製造システムはスタンドアロンでも作動するように作られて入るが、長い時間続くようだと都市のシステムに問題が生じる可能性がある。

 しかし、その心配はなかった。それほど長い時間はかからず、電力とネットワークは復活したからだ。

「どうなったの?」

『不明。CUBEシステムに対する何かしらの干渉が外部から行われたようです。徐々に復旧していますが……一箇所だけ、復旧が難航している区画があるようです』

 柊に連絡を入れようとして、レイは気付く。

「柊の自宅が……」

 柊の自宅がある第七区画。そことの通信が途絶している。

『解析完了。干渉は、その第七区画から発されているようです』

 柊に一体何があったのかはわからないが、連絡などと言っている場合ではない。すぐに駆けつけなければとレイは考えた。

『何かが近づいています。すぐに避難してください』

「何かって何よ?」

『わかりません。ここのシステムとは一号トンネルとは違いますから、警備システムの監視にも限界があります。しかし、飛行する大型のものです』

「……わかった」

 レイは自分の愛機を呼び出す。第二トンネルの外、離れた場所のコンテナから無人で発進し、ここまでレイを回収しにやってくる。

 テロリストと勘違いされても文句は言えないが、レイは万全を期していた。愛機リヴォルテラは修理を終え、今回の任務のために準備されていた。

 柊に与えられた機関拳銃を車から取り出す。護身用で通じるレベルを超えているが、本当なら小銃まで欲しい所だった。ここは敵地だ。戦場なのだ。

 大きな飛行型も気にかかるが、第五区画で襲われたC型に遭遇すれば生半可な武器など無意味だろう。レイは雑種とはいえSロットだ。ある程度の対策はサクラがしてくれるが、あれに会ったらさっさと撤退するのが賢明だ。

 やがて追いついてきたリヴォルテラのコクピットに乗り込むと、ひとまずの安堵感を感じた。しかし、それはすぐに危機感に変わる。

 速力で上回る何かが、リヴォルテラのレーダーに影を落としていた。Nデバイスからそれらの情報がダイレクトにレイの認識に入り込んでくる。

 機影を照合するが、一致するものはない。ぐずぐずしていては危険だった。敵が追いついてくる前に迎撃準備を整えなくてはならない。

『CYLX(ケリクス)はまだ未完成です。過信はしないでください』

 幸いと呼べることが一つだけある。今回、リヴォルテラには武装強化を施してきたことだ。

 開発部の整備担当が、イグニスへの対応策としてリヴォルテラに簡単な改装を施してくれたのだ。試験中の無人機制御高速計算システムを、リヴォルテラの機銃ポッドと連携させた。これにより、ポッドの数も倍の四基にできる。改装を終えて手狭なコンテナに収められたリヴォルテラは、上部に並んだ四つのポッドモジュールのせいで、一層大きく見えた。

 これはイグニスへの対策だ。敵のワイヤーの動きを完全に計算することは、祈機の力でなんとか可能だ。問題は機動性のなさだが、ポッドの数が増えたことで、それをカバーする。

 ただし、ポッドの数は増えても装弾数は減らされている。積載重量を既にオーバーしているのでやむをえない。通常時は重量増によってさらに機動性が低下する。分離後の戦闘時間は十五分程度という計算が出ている。

 敵は、得体の知れない戦闘ポッドだった。レイはわずかに興奮を覚えながら、リヴォルテラのシステムと自分の感覚をNデバイスで繋いで、臨戦態勢に入る。



■柊・六



 追憶は続いている。地球に逃げ延び、榧と暮らすようになったディアナの記憶だった。

 アルカディア・ステーションから逃れ、ディアナはどことも知れない地球上のどこかに逃げ延びた。地球は崩壊しつつあり、近い将来には人が住めなくなると言われている。その片鱗をディアナも見た。唯一救いになるのは月面都市への移住や外惑星の黒曜星への大規模移民だ。

 月面都市はCUBEが支配する世界だ。部分的にしかCUBEネットワークが普及していない地球とは違い、完璧な統治社会である。そのCUBEシステム上で常に人々を監視しているテスタメントにNデバイスの固有IDを把握されている榧は、CUBEのある世界ではもう生きられない。立ち入った瞬間にテスタメントに発見され、研究所に捕まることになるかもしれない。榧が研究所でどんな扱いを受けるのか、いい想像はできない。だからここで生きていくしかない。

 地球では未だに政府軍と反政府勢力の闘争が続いている。月と違い、ここでは政府側が優勢だ。ディアナにとって好都合だった。困窮した反政府側での傭兵仕事が生まれ、稼ぎになるからだ。

 治安が崩壊しているので地球の人間社会に溶け込むのは容易だった。強化兵士とはいえ普通と見た目が変わらず、最低限の常識を弁えているディアナに疑問を抱く人間などいなかった。

「おかえりなさい!」

 現在の自宅に帰ると、榧がディアナの腰に抱きついてきた。あれから数年で榧は身長が伸び、言葉も流暢に話せるようになった。

 自宅といっても誰かが使っていた家だ。汚染地域の付近には、まだ綺麗な家がいくつも放棄されている。

 この家の持ち主は家族で住んでいたようだ。二階建てで子供部屋が二つある。大きなバルコニーには枯れ果てた観葉植物があり、キッチンには綺麗なままの食器が埃をかぶっていた。きれいに掃除され、今は二人の家として使われている。

「ただいま」

 ディアナは榧の頭を撫でて答えた。今回は早く帰ってくることができた。傭兵をやっていれば、捕虜になったり、味方がやられて移動手段がなく自力で帰還しなければならないこともある。長い時は一ヶ月も留守にしたことがある。こんな自分でも母親代わりなのでできるだけ家にいたいとは思っているが、稼ぎは必要だ。食料品の値段は高騰する一方である。

 苦労ばかりさせていたが、榧は健気に生きていた。少し離れた場所には街もある。ディアナと違い、榧はすぐに街に溶け込むことができた。子供連れの方が街に行きやすいし、必要なものを買う時も楽だ。

 榧の存在はディアナにとって十分にメリットがあったし、それ以上の存在でもあった。それでも、榧は自分も働きたいと言ってきた。

「もうちょっと大きくなったら、それは考えましょう」

 ディアナの返事はいつも同じだった。

 地球が滅びた後の榧の運命を考えると胸が苦しくはなったが、こうして地球で生きていくのも悪くないと思い始めていた。あの日、あのニュースを見るまでは。

 CUBEネットワークが存在しない区域に住んでいる二人の情報源は旧式ネットワークだ。Nデバイスを経由しない受信端末を使って、テキストや映像を見ることができる。原始的なものだが、Nデバイスの施術率の低い地球では未だに使用され続けている。インターネットという名称だった。

 夕刻、自室でその情報媒体をチェックする時間がある。その日はいつになく活発に意見交換されていた。政府が非人道的な強化兵士製造計画を行っているという証拠がCUBEネットワーク上に投げ込まれた、そういうニュースであった。

 それは、ディアナにとっては衝撃的なニュースだった。

『映像に写っているのは地上でのある作戦の視覚情報です。何人かの兵士が写っています。一人の眼球を見てください。確実に違法と見られる戦闘用の義眼を埋め込んでいます。他の兵士も明らかに普通の人間とは逸脱した運動能力で……』

 映像についている記者の解説よりも、そこに写った人物たちに眼を奪われた。姉妹の顔を見間違えることはありえない。義眼を埋め込んだ顔は、戦闘で失った同胞のノルンのものだった。

『この映像は同様の強化された改造人間がNデバイスから記録した映像で、政府の極秘揚星艇の内部の映像も――』

 レンという名にも聞き覚えがあった。一度だけ任務で一緒になったことがある。

『緊張することないよ』

 映像の中で、この視覚情報の主が喋る。この光景には記憶がある。

『緊張せずにいられますか?』

 映像の中に写ったディアナ自身が喋った。あの日の記憶が蘇り始めたところで、映像は別のものに切り替わった。戦闘によって追い詰められた兵士が、機密を守るために自害しているシーン、激しい戦闘の中に投下されるシーンなどが繋ぎ合わされている。

『この映像は、このレンと名乗る兵士による内部告発です。政府はこのような非人道的な人造兵士を生み出していたのです』

 あれほど厳重に情報管理していたはずの研究所の情報が、こんな仮想のネットワークにまで流出しているという事が現実のように思えなかった。しかし、どこを除いてもこの政府の一大スキャンダルで持ちきりだった。

 中には、政府がこれらの強化兵士を増産するための秘密研究所を持っているという点にまで言及されている。それを聞いてディアナはそうだ、その通りだと興奮した。

 これだけの告発は、あのアルカディア・ステーションにあったスキューマを用いたものしか考えられない。テスタメントは情報統制を行い研究所の存在を隠している。それを突破できるとしたら、あのステーションのシステムしか考えられない。まだ終わってはいなかったのだ。

 エリスの先生だったルリがどこかで生きていてこの告発を行ったのか、それともあの日のディアナとエリスのように、託された誰かなのだろうか。どちらにせよ、ディアナにとっては勇気付けられる事柄だった。姉妹を救おうと考える者が他にもいて、こうして大規模な告発を行ったのだ。事が明るみになれば研究所が姉妹たちに行ってきた残虐な行為が糾弾されることになるに違いない。そうなれば、今活動している姉妹たちは救われるかもしれない。

 しかし、そんなディアナの希望は裏切られる事になった。

 一週間の間、活発に議論が行われていた。政府や政府系企業の活動を多種多様なデータから分析し、強化兵士の実戦投入の事実を固めていった。そして、時間が経つにつれその議論が一つの結果を生み出した。軍事関連の政府系企業の株が暴落したということだ。

 それ以上のことは起きなかった。議論はそこで終わりで、それ以上広がることはなかった。戦場に送られる兵士が使い捨てられていくという事実について情報を拡散する動きはあったが、そこにいる兵士を救済しようという活動はなかった。それよりも、政府系の企業への攻撃へと議論は集中していった。

 残虐行為や戦死については、ほとんどは仕方がないという考え方で埋め尽くされていた。強化兵士でなくても戦争では人が死ぬからだ。それよりも、人体を改造するという行いに対する嫌悪を叫ぶ声が遥かに上回っていた。

 これには、現在の情報ネットワークの特性も関係があった。現在のネットワークは、利用人口ベースで見れば地球の人口の方が多いが、そこにある情報発信量のベースで見れば月のほうが多い。議論のほとんどは月面で行われていて、地球に下りてくる情報はその残骸か、すでに出た結論をまとめたものだけになっている。

 Nデバイスを施術した人間とそうでない人間とでは扱える情報の量が全く違うため、こうした逆転現象が起きている。そして月面では発達したCUBEによる強力な計算能力によって、ARやVRでほとんどのことが実現できる。そういった環境では現実の立場の違いがあまり生まれにくく、一つのイデオロギーに収束しやすい。月面に住むような人間は兵士となって地上に降りることは全くなく、地球で起きている戦争そのものには実感がない。だから議論はほとんど政府のスキャンダルのみに終始する。

 CUBEから下層に下りてくる情報が、CUBE内で十分に議論されて月人による結論がまとめられたものだけになると、それを受け取ってから議論する低性能の下層ネットワークの地球人の情報など容量の違いですぐ埋め尽くされてしまう。普段ならそれでも地球人は自分の立場を重視した考えを持つが、今回のように政府企業を断罪しようとする流れはそういう地球人にとっても同調できるものだった。地球での政府軍の横暴や不透明さは目に余るものがあるからだ。

 地球人は月に移り住み豊かな暮らしをしている企業連合に恨みを抱いてテロを行ってきたが、同時に反政府勢力を容赦なく攻撃してきた政府軍も憎んでいた。今回の案件で企業連合と同調する流れが生まれるという今までにない現象が起きる一方で、政府によって作られた強化兵士の倫理問題や人権など忘れ去られている。

 ディアナも含め、強化兵士、姉妹たちは、月はおろか地球の人間にも人間扱いされていないということだ。同情され攻撃材料に利用されたとしても、決して救ってくれることはない。

 ディアナは、テスタメントや研究所の秘密主義をなんとかすれば姉妹たちを救えると思っていた。それを望んで用意されたアルカディア・ステーションは対テスタメント用の切り札だった。正しい情報さえあれば自浄作用が働くに違いない。自分たちの存在価値を上げるために、残虐な行為は止めてくれる。人間の集団はそういう意思を持っていると思っていたのだ。

 だが現実は違っていた。他人の叫びを自分たちの集団が持つイデオロギーを補強するために使いはしても、関係ない者を救うことには何の興味もない。

 ディアナにはもう一つ気になったことがあった。公開された記録の中には、比較的最近に強化兵士を使っている映像があったことだ。つまり、テスタメントによるSロットの蹂躙は今も行われている。

 あの時、エリスとディアナが打ち込んだプログラムは失敗している。あるいはまだ発芽していない。だが、仮にテスタメントの支配を逃れたとして、何もかも黙殺する人間という怪物に立ち向かえるのか。

 地球が崩壊しつつあると人々が知って、それをSロットだけが救えると知ったら、多分この連中はためらいなく姉妹たちの命を差し出すとディアナは思う。研究所の中で飼われているほうがまだ安全だ。人間たちがいるから、研究所は秘密裏に研究を進めなければならなかったのではないのか。

 震える手で端末を閉じ、ディアナは部屋を出た。

 そのままふらふらと街に歩きついたディアナを見て、知り合いが声をかけてきた。

「あんたさ、もしかして強化兵士ってのじゃないのか?」

 ここにも、あの記憶の映像の話題が満ちていた。そういえばこの人物は反政府活動を支援していたような気がすると、おぼろげに思い出す。

 戦場にいればディアナは目立つ存在だ。人間離れした身体能力。金髪に黄水晶の瞳。すぐに察しがつくことである。

「だったらどうなんです?」

「政府には恨みがあるだろう。どうかな、あたしたちの旗頭にならないか」

 一緒にやらないか。そう声をかけてきた。

「それで、いくらなら出す?」

 人は再生を果たしていくだろう。少なくとも一部は、理想郷に近づきつつある。しかし、それが姉妹たちを救うことになるという根拠は何だったのか? 人の側に生まれなかった時点で、全てが決まっていたのだ。

「詳しい話は明日……この場所で」

 メモを手渡される。癖のある字で、会合の場所が書き込まれていた。

「あんたはもっと生真面目なやつかと思っていたよ」

 そう告げ、名前と顔の一致しない知り合いは夜の闇の中に去っていった。

「私も、あんたたちはもっと真面目だと思っていたよ」

 もう聞こえていないだろう相手に言葉をかけ、ディアナは帰途へとついた。

 家に帰ってからの記憶はあまりない。目が覚めたのは昼ごろだった。気絶するように眠っていた。机の上にちらばるガラス瓶を見て、おぼろげに記憶が蘇ってくる。

 生まれて初めてアルコールを口にした。今まで興味を持たなかったが、この家には年代ものの蒸留酒が備蓄されていたのは知っていた。

「どうしちゃったの……?」

 心配そうにディアナを覗き込んでいたのは榧の泣き顔だった。

「何か嫌なことあった?」

 そっとディアナの手を握ってくる。榧の手は冷たかった。手だけではなく体もだ。もしかすると朝から、ずっとディアナの傍にいたのかもしれない。

 秋の夜は寒い。ディアナは榧を抱きしめた。

「ううん、なんでもないよ」

 下手すぎる嘘だったが、榧は何も聞いてこなかった。

 それ以来、家に帰ることはほとんど無くなった。榧は十分に大きくなっていたし、必要な生活費はこまめに与えていた。

 姉妹が今も苦しんでいるのに家庭に居場所を持つ気にはなれないという気持ちもあった。ディアナは反政府活動に没頭していった。別に活動の思想に共感したわけではない。楽に金を稼ぐことができるからだった。下々の参加者はともかく、立ち上げたメンバーは大体そういう者たちであった。反政府勢力はどこもそんなものだった。

 人間などいくら死のうが知ったことじゃない。ディアナはそう考えるようになっていた。

 ディアナはその姿を政府軍の前に晒すだけだ。自身が強化兵士であるということを主張することもない。ただ、戦場ではその力を存分に見せ付けた。言葉などいらない。ただそこで人間離れした存在であるだけでいいのだ。味方には哀愁の戦士としての畏敬の念を抱かせ、敵には罪悪感と恐怖を与えるだけでよかった。ディアナは人間という種全体の罪の具現を演じた。贖いを求めるものはディアナにつき、そうでないものはディアナに恐怖した。

 引き金を引き続けた。傷つき横たわる味方にも敵にも、何の感情も抱かなくなった。

 活動は激化していったが、旗色は悪かった。戦場に出ればディアナは無敵ではあったが、物量に勝る政府軍に抵抗できるものではない。限界がきていた。

「政府から取引の申し出があった。受けようと思う」

 はじめにディアナに声をかけた人物の言葉を聞いた時も、ディアナは何も感じなかった。

「そうか」

「もっと驚くと思った。いいのか?」

「何が?」

「そういえば、そういうやつだったな、あんた」

 最近は近寄りがたいと思っていたけど、そういえばそうだった、と、彼女は言う。

 人間など何人死のうが知ったことじゃない。榧の住まいを地球に置くのもそろそろ限界だ。こんな腐った場所からはさっさと抜け出すに限る。方法ならある。ただし、それには大金が必要である。

 月への移住は逃げ道だ。犯罪者が市民権を得るには、難民として身分を登録する時にNデバイスの固有IDをごまかす必要がある。密航してどうにかなるというものではない。政府だけではなく、企業連合からのブロックもある。

 法律上は不可能とされているNデバイスのID書き換えは今まで考えてこなかったが、今のディアナにはその道がある。入れ替えが終われば全くの別人だ。この違法施術は簡単ではなく、行える医療機関は限られている。

 身分登録に関しては未だに政府の管理下にあるのが現実だ。そしてその下には政府に買収された地元組織があり、渡りをつけるかわりに大量の上納金を巻き上げている。

 近々、政府は難民受け入れを大規模に実施する。地域ごとにそれを管理している反政府勢力に、今ぞくぞくと声がかけられているそうだ。反政府活動は下火だ。テロリストは政府の手先になり、今度は地球人を自ら弾圧する立場になっている。

 エサに目がくらんだ連中は次々と銃を向ける相手を変えている。人間とはそういう生き物だとディアナはよく知っている。

 この戦争は終わる。

 政府の人間とはその日会うことになっていたらしい。ディアナはそれに同伴することにした。



 横たわる遺体を見ても何も感じなかった。目を閉じてやり、火葬し、近くに埋めてやった。こういう作業には慣れている。

「娘がいたのか……」

 遺体を調べている時に少女が映っている写真を見つけた。胸が苦しいような気もした。だが気のせいだ。もともと仲間を売るためにここに来た。そんなことで、涙が流れることもない。

 写真の裏に癖のある字で書かれたメモがある。口座番号であった。その口座にアクセスすると、ただ「娘」とだけ名前のついたネットワークバンクの口座に多額の振込みがあるのが発見された。個人特定を嫌って生体情報を登録していない口座のようで、誰でも振込みができる。

 ディアナも全く同じような口座を持っている。居場所を特定されないよう、名前などの情報は全くつけていない。榧のためのものだ。

 今回の稼ぎと貯金を合わせれば余裕をもってNデバイスのID書き替えの手術ができる。IDが変わればそれは全くの別人なので、榧をCUBEの世界に送り出すことができるようになる。

 十分すぎるお釣りが来るので、死んだ相棒の口座に分け前を入金しておいた。ディアナが大金を稼ぐことができたのは、彼女のおかげだったから。

 政府が取引と称して二人を呼んだ目的は交渉ではなかった。待ち合わせ場所に訪れた二人を始末しようとしたのだ。

 政府の暗部を象徴するディアナの存在は危険だ。交渉よりも暗殺を望むのは自然だろう。誤算があったのは、ディアナの暗殺には失敗したということだった。

 屋根の上からの狙撃、近距離からの小銃による射撃、設置されていた爆薬。相棒は流れ弾で命を落とした。ディアナはそれらの全てを退け、狙撃手は撃ち殺し、小銃を持った兵は一瞬で首をへし折った。ディアナは死ねなかった。

 それを見ていた別の勢力が、交渉を持ち込んできた。

 研究所には政府よりの白派の他に、企業連合寄りの黒派があるらしいと聞いたことがある。政府の内部では今回の移民政策をよく思わない勢力もある。月の治安を維持してきたのは企業連合だ。どこの馬の骨とも知れない連中を引き入れ、結果として経済を圧迫し治安維持の費用も増えることに反発している。

 金すぐ振り込まれていた。前金で払うというのがディアナが出した条件だ。莫大な資産を持つ企業連合からすればはした金なので、すぐその条件を飲んでくれた。

 仕事は移民船の爆破による移民政策への威圧だ。確実に仕事を遂行するためには、その移民船に自ら紛れ込むのがいい。企業連合のコネクションを利用して乗務員用の座席を一つ開けてもらっている。大勢が見ている前で爆発四散させることが望ましい。

 ハイジャックしたのち、声明を告げることになっている。反政府組織のリーダーだったディアナはこれ以上ない適役だ。

 榧にはこの仕事の前に手術を受けて月に上がるように厳命してある。ひさびさのメールに困惑していたようだが、どうやら従ってくれたようだ。

 榧には健康診断と説明しておいたID書き替え手術は問題なく済んでいる。その証拠として、審査ゲートを抜けて発着場に入っている。写真が送られてきていた。それを見た時点でディアナの目的は終わっている。

 榧の笑顔が写っている。笑顔を向けてくれているのに、どこか嘘があるように見える。もうずっと彼女の顔を見ていないからだろう。

 もう金は貰っているのだから律儀に実行しなくてもよい仕事だ。何もしなかった所で、せいぜい地上で殺される程度のことだろう。しかし、根が真面目なディアナには落ち着かなかった。ほんの少しでも榧のリスクになることはしたくない。

 だがやめておけばよかった。ディアナはすぐに後悔することになる。



 移民船の内装は不必要なほど奢侈な作りになっていた。

 ディアナがかつて乗っていた降下船や輸送船とは雲泥の差である。旅客機のような上質の座席が据えつけられている。乗っている人々の身なりもよかった。この移民船に乗るためには、地元の反政府組織に大金を積まなければならない。比較的裕福な人間か組織の関係者ばかりだ。

 これからこいつらを全員殺すことになるが、少しの同情すらも沸いてこない。

 今回、ディアナは運輸会社の社員ということで乗り込んでいた。これは連合の企業の一つが運行する便だ。

 自分の船を爆破するほうが疑いはかかりにくい。古典的な方法だ。それ以外にも様々な根回しをしているようだ。

 時間が来たら操縦席に入り、操縦士二名を殺して船を奪えばいい。ディアナなら素手でも十分だ。トラブルの元になるので、武器は持ち込んでいない。

 身なりも整えてあった。髪は丁寧に手入れし、スーツも下ろしたてのものだ。獣のような兵士のディアナとは全く違う装いだ。もともと備えている気品が引き出され、とても戦う人には見えなかった。ディアナを警戒する人間は全くいない。

 そろそろ時間だ。席を立って、操縦室へと向かう。その途中、ディアナは思いがけないものを見た。

 迷子の子供だった。傾く機内を、壁に手をつきながら歩いている。自分の席に戻れず、こんな所に迷い込んでしまったのだろう。

「ここにいては、危ないですよ」

 意味のないことを言っているという自覚はあった。どうせここにいる人間は全員が死ぬ。しかし、目の前にいる少女があまりに幼くて、つい言葉をかけてしまう。

 不安げにディアナを見上げている。薄い色の細い金髪が揺れている。

「お名前は?」

 それを聞いたことが、ディアナにとって間違いだった。

「エリス」

 少女の名前は、エリス・スタレットといった。思いがけず聞いた名前の響きに、ディアナは動揺する。

「座席の番号はわかりますか?」

 よせばいいのに、ディアナは彼女を送っていくことにした。

 エリス・スタレットは他人だ。自分とは何の関係もない人間である。座席まで送っていったら、あとは仕事に戻ればいい。

 しかし、それだけでは済まなかった。

 子供を一人で月に送り込もうと考える親は多いのだろう。その一角には、子供ばかりがいた。

 榧と同じような年頃の子もたくさんいる。思わず探してしまうが、いるはずはない。榧は別便なので、もうとっくに月に降り立っている。

「ありがとうございました」

 子供は丁寧に礼を言い、自分の座席に座った。

 ディアナは自分の席に戻った。とっくにハイジャックを済ませてもいい時間だが、座席に深く体を預け、天井を見上げて何もしなかった。

 あれらの子供を送り出した人の気持ちを考えていた。人は大勢になると厄介なのに、個人単位ではこういう面を見せる。だが、地球上に残された子供は大勢いる。違いは金があったかどうか。運が悪いという点では平等で、ディアナが特別に思ってやる必要はない。

 それでも、ディアナにはできなかった。

 既に金は受取っている。榧は月の市民になっている頃だろう。今さらこの船を落とす必要などない。それでいい。

 それで終わればよかった。しかし、それでは終わらなかった。

 キャビンから耳慣れた音が聞こえてくる。複数の発砲音だ。ディアナは反射的に席を立ち、キャビンの様子を観察しに向かった。

 ディアナ以外にも潜り込んでいたテロリストがいた。失敗した場合のことを想定していたのか、それとも全く別のテロなのか。情報は何ももらっていない。

 どこに隠していたのか、短機関銃を乱射しながら乗客を無差別に殺している。犯人は四人だ。キャビンへと躍り出たディアナは、背後から一人を襲って銃を奪う。

 夢中で乗客を殺している犯人はそれにすら気付いていない。まるで素人だ。ディアナにとっては、あまりにも簡単な獲物だった。奪った銃で最後の一人の頭を背後から撃ち抜いた。

 突然の事で、乗客たちは犯人とディアナの区別もついていないようだった。その時、ディアナが立っていたのは子供たちのいた座席の周辺であった。

 エリス・スタレットと名乗った少女はもう射殺されていた。子供は一人も生き残っていなかった。倒れた犯人を見る。持ち物を探ってみた。すると、起爆装置と思われるものが出てきた。多分予備のものだ。タイマーの表示がカウントダウンを刻んでいる。機内のどこかに予備ではない爆弾がありそうだ。他には何も出てこない。

 もう興味はなかった。ディアナの様子を観察し犯人ではないことに気付いた乗客たちは少しずつ冷静になり、そしてそのタイマーを見て状況を悟ったらしい。再び悲鳴をあげて騒ぎ始める。何もする気はなかったが、五月蝿いのでコクピットに向かうことにした。

 そのディアナの袖をつかむ誰かがいた。

「待って、ください」

 銀髪と薄灰色の瞳が、ディアナを見ていた。

「どこかで……会いましたか?」

 思わずディアナは言葉を発していた。想像以上に自分の言葉は掠れていて、思うように声でていない。

 見覚えがある。ずっと前、目の前の彼女と会ったことがある。

「アイ・イスラフェル」

 名前を覚えている。あれはレン・イスラフェルとの降下任務の時のことだ。それほど大昔ではないはずだが、政府軍の兵士だった事はもうずっと昔の出来事のように思えた。

「はい」

「なんで、貴方みたいな人がこんな場所にいるんです?」

 彼女は、かつてディアナが任務で助けたことのあるSロットだ。特別なSロットだと聞いた覚えがある。だが、移民船にいる理由は見当がつかなかった。

「そんなことよりも、それを何とかするのが先決です」

 アイは、ディアナから起爆装置を奪い取った。タイマーの表示を見て、何か考えている。そして、突然操縦席の方向へと歩き始める。

「何をしてるんですか。ついてきてください!」

 前に会った時の様子からは想像もできない怒気を含んだ声で、アイはディアナの手を引いて歩き出す。

「この輸送船を効率よく破壊するには、燃料に引火させるのが最も効果的です。仕掛けるとしたらそこでしょう。このハッチをこじ開けてください。早く」

 貴方の怪力ならできるでしょ、とアイは言う。

「もうそんな無駄なことはしたくありません」

 ディアナは答える。アイの話はよくわかる。だが、時間はもうない。タイマーは数分を切っている。爆弾を発見できたところで、解体には時間が足りない。ディアナにも爆発物の知識はある。

「なら、何故あんなことをしたんですか」

 アイはディアナが、テロリストを鎮圧した姿を見ていた。死んだ子供たちを見た時、自分はどんな表情を見せていたのだろうか。鏡はないのでわからない。

「私がどうしてここにいるのか聞きましたよね。それは、頼まれたからですよ。あなたを助けてって」

 震える声でアイは言った。見れば膝が震えている。その気になれば簡単に自分をひねり殺せるディアナに、精一杯に背伸びをして詰め寄っている。

「あなたの娘は……真っ先に政府庁舎に来ました。そして、私に助けを求めたんです」

 娘というのが榧のことだというのに気付くのに、少し時間がかかった。それくらい想像がつかなかったことだ。

「あなたは、保護者失格です」

 アイは言い切った。反論できないとディアナは思う。ディアナは自分の満足を優先して、榧の気持ちなど一つも考えていなかった。どんな思いでただ一人家でディアナの帰りを待ち続けていたのかもわからなかい。目を背けてきたのだから、わからなくて当然だ。

 残り時間は二分。

 とても間に合うとは思えない。ディアナは渾身の力を込め、ロックのかかった隔壁を破壊する。

 アイは迷いなくそこに飛び込む。運動になれていないらしく、安全な着地はできない。アイはその場に倒れこんだ。すぐに立ち上がって、燃料槽の上によじ登ろうとする。

 アイに続いて降りたディアナはしっかりと着地して駆けつけ、アイの腰を掴んで槽の上に持ち上げた。

「あった……!」

 アタッシュケースから道具を取り出し、アイは爆薬の解体にかかる。

 残り時間は一分。爆弾は設置された場所から簡単に引き剥がされないよう、いくつものセンサーによって守られている。回路図があるわけでもない。とても間に合いそうにないとディアナは思った。

 アイは諦めなかった。すばらしい手際で回路をバイパスし、センサーを外していく。残り三〇秒。

「とれた!」

 起爆装置はまだ停止していない。しかし、爆弾は燃料槽から剥がれた。もう自由にできる。

「貸して!」

 ディアナは叫ぶ。

 ダストシュートのような都合のいいものはない。全力で走り、後部ドアに取り付く。非常用レバーを引くと、強い風が機内に吹き荒んだ。残り三秒。

 渾身の力を込めて爆弾を放り投げる。二……一……振動が船体を揺らす。一瞬の後に振動は収まった。

 気圧が低下していく。隔壁を閉じ、備え付けの酸素マスクを取り出す。風に抵抗してうずくまるアイにそれを与える。静寂が訪れた。輸送船は、飛行を続けている。

 船は大気圏を離脱していく。そのまま月に向かう。爆発の影響で機体が損傷したかもしれない。気密漏れはないようだが、もし損傷があるなら大気圏に再突入して戻るのはかえって危険だ。予定通り、このまま月に向かう。



 ディアナには研究価値がある。アイはそう主張することで、収容所での保管という処置に落ち着けてくれた。

 A1999小惑星に新設された政府所管の最新の収容所だ。ディアナはそれを、昔懐かしい研究所の独房で聞いた。

「私には、それが精一杯でした」

 収容所送りの前日。アイはディアナに面会に来た。あの時の剣幕からは想像もできないほど、彼女の表情は曇っている。

「偉そうなことを言ったのに、私もあの子の願いを聞いてあげられませんでした」

 あなたを救えなくてごめんなさい。アイは搾り出すように言った。

「十分でしたよ」

 報いは当然だ。罰されて当然。そうディアナは思う。アイには感謝と、申し訳ない気持ちしかない。後悔と自己嫌悪の中に、生きていられてよかったという傲慢な幸福を感じていた。

 政府関係の仕事を手伝っているというアイは、それなりの権限を持っているらしい。彼女の口添えで、榧は予備的にQロットとしての役割を持つ一般人として月での人生を歩んでいくことになる。

 榧は生まれ変われる。今頃記憶は消去され、新しい記憶を与えられている。ディアナのことも、これまでの生活も全て忘れて、研究所の予備員になる。

 QロットはSロットよりは自由があるし、長生きもできる。有事以外は一般市民として幸福に暮らすことができる。危険を冒してまで避けるべき人生ではない。

 二度と会えないディアナを思い続けているよりはこのほうが幸せなのか、たった一人の家族を忘れる事が不幸なのか。それを考える資格はディアナにはなかった。

「会っていきますか?」

 アイは言って、ディアナの目を見た。本来はいけないことなのだとディアナは察する。

「はい」

 ディアナは答えた。もう榧はディアナの娘ではない。それでも、一目でも顔を見ておきたかった。彼女がいる場所へと案内され、通りがかったということで挨拶する機会をもらえた。

「Sロットの人?」

 聞きなれた榧の声だ。前に見た時より、榧はずっと成長して大人っぽくなっていた。

 身長は思ったほど伸びていない。人好きのする明るい表情。甘えた感じの声色。でも、ディアナを知らない瞳だった。

「初めて見ました。ちょっと触ってもいいですか?」

 懐こい声で、榧はディアナの手を取る。普通の人と変わりませんね、と言いながら無垢な瞳をディアナに向けている。

「見た目はね。でも違うんですよ」

 これでいい。そう、ディアナは思った。

「大事にしてあげてくださいね。私の姉妹たちを」

 願うのは一言だけ。その言葉に、榧は明瞭に答える。

「はい!」

 これから別の仕事があると言って、ディアナは榧と別れた。

「会えて嬉しかったです。お仕事、頑張ってくださいね!」

 最後に背後から声をかけられた。ディアナは振り返ることができない。

「これを持っていてください」

 面会が終わった後、アイはそう言って、ディアナに小さな記憶媒体を差し出した。

「ネットワークに繋がらない媒体を持つのは禁止なのでは?」

「これは特別です。消去したあの子の記憶のバックアップです。一部、だけですけど」

 会わせてくれたことといい、この記録媒体といい、アイはディアナのために出来る限りのことをしてくれている。逡巡するディアナに対し、アイは固く冷たい記録媒体をむりやりにディアナの胸に押し付けた。

「あなたのNデバイス、少し変わっていますよね。データを写してください。そのNデバイスに合った特殊な暗号化を施してありますから、所有者以外に知られることはありません」

 再生するか、ただ持っているかは貴方次第。アイの言葉に従い、ディアナはその記憶情報をNデバイスに写した。

 収容所に入れられ、ディアナは空虚に時間を過ごした。

 尊厳も喜びもない生活。ある時、気まぐれでかつての娘の記憶を再生してみた。記憶は、地球での生活を開始してからのものが中心だった。その仲で、榧はディアナに純粋な好意を向けていた。榧の視点から見直してみると数多くの発見がある。一生懸命に愛してもらえていたことがわかる。

 一緒にいられれば嬉しかった。

 離れれば悲しかった。

 会えなければ辛かった。

 ディアナのことが、大好きだった。

 榧の記憶はそんな気持ちで埋め尽くされていた。それしか彼女にはなかった。それ以外のものを、ディアナは何も与えてこなかったのだ。

 重く鋭く、軽く柔らかい気持ちがディアナの胸を引き裂いた。この記憶にはそれ以上の意味はない。

「私も、大好きだったよ」

 最後に会った榧は幸せそうだった。この記憶はもうディアナだけのものだ。愛おしさも辛さも、もうディアナだけのものなのだ。エリスを失い、ディアナは榧を利用してきた。甘えてきた。ただ傷つけてきた。榧に対していいことは何一つしていなかった。これからも何もできない。

 もう出来ることはない。ディアナは甘い自傷に身を委ね、榧の記憶で自分を突き刺しながら、牢獄の中に一人存在し続ける。



 A1999収容所は、小惑星を丸ごと施設化した収容所である。

 黒耀星と地球との間には小惑星帯がある。そのうちの一つ、適当な大きさの小惑星に重力推進装置を取り付け、地球の衛星軌道上へと運んできたものだ。この収容所は小惑星の有効利用の実験でもある。月面都市の収容所不足を解消しつつ、食料、大気などの生命維持機能を自給することができるのか検証している。

 真空の宇宙に隔たれた巨大な檻。自給自足できるため物資の行き来がない。脱獄不可能な監獄の星であった。

 以前のディアナであれば、この収容所からも脱出を試みたに違いない。癖というか暇つぶしというかで施設の構造上の欠点について考えてみたことはあったが、おそらく不可能と結論付けた。

 そうして何年もが経過した。食料節約のために三分の二の期間を冷凍睡眠させられ、残る三分の一を施設の運用に借り出される生活。閉鎖された牢獄での関係は退屈を極め、また陰惨だった。ここでも人間は醜く、暴力や支配が横行していた。屈辱的な環境の中にも関わらず以前のような覇気を持つこともできず、ディアナには虚無しかなくなっていった。

 そんなある時、自室で冷凍睡眠の準備を整えている時だった。

 胸になにかが刺さる感触を感じた。懐かしい感触だ。長く忘れていたが、それはディアナ個人に対する通信波であった。

 ただの通信波ではない。これは、強化兵士同士の戦術連携用の特殊信号だ。

「誰……?」

 強化兵士の受刑者がいるのだろうか。収容所では全ての受刑者と会うことはない。自分が活動している間、大半は眠りについているからだ。知らないだけで、ここには強化兵士がいるかもしれない。応答すればわかる。

『久しぶりだな』

 帰ってきたのは、音声メッセージだった。

 相手の固有IDが表示されている。ディアナのNデバイスに記録があるものだったが、目を疑った。それが事実だとはすぐには信じられなかった。

「エリス……?」

『そうだよ、姉さん』

 それは、死んだと思っていた妹の声であった。

『見つけるのに苦労した。今、私は困っている。力を貸してくれないか』

 手引きをするので脱走してほしい。エリスはそう伝えてきた。

「申し訳ありませんが……私では役にたてません」

 ディアナは自信を無くしていた。エリスが生きていたことは喜ばしいことだが、自分で関わっていこうという気持ちにはなれなかった。他人と関わることが怖かった。

『それでも、来てもらわないと困る』

 エリスは言う。

「そう言われても、どうすればいいんです。大体、どうやってここに通信をかけているんです?」

『窓を見ろ』

 エリスの言葉に従って、ディアナは窓の外を見る。各個室には冷凍睡眠装置の他に、この大きな窓がある。

 漆黒の宇宙。そんな場所に身を投げる気分にはなれない。気を使って作られたらしいこの大きな窓は、受刑者にとって皮肉でしかないものだ。

 ディアナの目に映ったのは、小さな影だった。よく目を凝らさないとわからない。だが、それを見てすぐにわかった。

「指向性通信衛星ですか」

『そう。覚えがあるだろう』

 ディアナがいる部屋をどうやってか突き止め、そこにピンポイントで通信波を送っているのだ。ここのシステムに感知されることなく、ディアナだけに言葉を送ることができる。

 そこまでしてもらっても、ディアナは脱獄への意欲は薄かった。丁度良い機会なので、今まで誰にも話せなかった気持ちをエリスに話してみることにした。

 榧に対して行った仕打ちと、それに気付いて後悔したこと、収容所に入り、アイにもらった榧の記憶を再生してみたこと。苦しい気持ちになったこと。記憶の再生もそのうちやめてしまったこと。

 そして、何も出来ないと気付いて絶望したこと。榧の安全を思うなら、ずっとおとなしくしているのが最良である。脱獄などすればどうなるか知れたことではない。何もしないことが榧にとっていいことだ。

『その榧が問題なんだよ。今の彼女がどうしているかを知れば、姉さんもそこを出る気になると思うよ』

 話を最後まで聞いていたエリスは、まるで機械のように淡々と言った。榧がどう問題なのか? 現実感を持てないまま、ディアナは妹の言葉に興味を引かれた。



 食糧と大気の自給システムは正常に作動している。しかし、欠点もある。

 食料は十分に備蓄があり、何か問題が起きた場合でも一年以上は活動できる。しかし、大気は違う。呼吸に必要な大気の備蓄量はせいぜい二十四時間分しかない。生産が滞ると施設は危機的な状況に陥る。

 A1999から船で数時間の距離に月面都市がある。あそこは膨大な大気製造能力があり、常に大気が備蓄されている。大気が足りないということになれば、月面都市から輸送船を差し向けて救援しにくるはずだ。

 その際、安全のために受刑者は全て冷凍睡眠させられるに違いない。冷凍睡眠中は生体電気が消滅し、全ての受刑者のNデバイスの反応が消失する。冷凍睡眠に入らずに動いているNデバイスがあれば異常に気付かれる。普通ならば。

 この施設は、内部に限ってはは監視カメラがない。全てCUBEシステムによるNデバイスの監視で賄っている。ディアナを視認出来る者はいなくなる。部屋にある冷凍睡眠装置にエリスの指示通りに電気的な細工を施した。それにより、人が入っていない状態で作動させることができる。それと同時にNデバイスをオフにすれば、ディアナは冷凍睡眠に入ったものだとシステムは認知するだろう。ディアナはたった一人目覚めたままで活動ができる。

 暇つぶし程度に考えていた方法だった。やってきた輸送船に潜むことなどディアナには容易いことだ。その先、逃げ延びた月面都市でどうすればいいかはわからないが、エリスは大丈夫だと言っている。

 大気製造システムは微妙なバランスで成り立っている。効率化のため、食糧生産用光合成ブロックを利用している。品種改良された微生物の管理も受刑者に与えられた仕事だ。

 機会がやってきた。交替の時である。作業中の受刑者が交代するには三時間ほどの時間を必要とする。

 ディアナは冷凍睡眠に入ったフリをするため、Nデバイスの通信をカットする。部屋を出て、次の受刑者が目覚めてくるまでの間に普段侵入できない微生物ユニットへ進入した。ここに受刑者が入る事は本来ありえないことだ。NDステルスを持つディアナ以外には。なので、進入に対する警戒は何もない。

 太陽光を受け明るく広い部屋に入った。給水装置は電気回路を使っている。細工をすれば、センサーと給水装置を停止させることができる。ここでも、エリスが与えてくれた作業手順の通りにする。システム上には正常作動の信号を送り続けつつ装置を停止させる。警報は鳴らなかった。

 ここのシステムは未完成だ。収容所としては脱獄不可能でも、自給自足システムはまだ完成されていない。今いる微生物ユニットが全滅すれば、二十四時間以内に酸素が欠乏する。そうなればさすがに警報が出る。そのあとは対応が始まり、覚醒している受刑者は全て冷凍睡眠させられる。ディアナはもう眠ったことになっているので、その時自由に活動できる。部屋を脱出し、輸送船が来るのを待てばいい。

 待っている間は孤独だ。目覚めているのはディアナだけだ。空調が停止しているので寒い。狭い部屋の中に座り込み、ただ待ち続ける。

 ディアナはその間、榧のことをずっと考えていた。彼女を助けることだけを思っている。そのせいで、妹の言葉にある異常や違和感に気付くことができなかった。

 輸送船が近づいてくる。ディアナは立ち上がり、ドックへと向かった。



■レイ・四



 接近してくる敵機は二機いた。制空戦闘機タイプの戦闘ポッドのようだ。

 速度が速い。望遠映像を解析すると、十メートルもの全長の大推力のエンジンを二発搭載しているのが確認できる。そのエンジンは外付けで、先端部分が本体のようだ。四本足の見たこともない戦闘用ポッドだった。もしやあれが、共用工場で作られているものなのだろうか。

 無人機指揮機としては大型の部類のリヴォルテラだが、せいぜい全長四メートル程度。都市戦兵器だ。推力で勝る戦闘機とやりあうようにはできていない。

 仄暗い第二トンネル内の街を飛翔する。戦闘機はすぐ近くに迫っていた。高度の取り方や接近の仕方を見ると、明らかにこちらを撃墜する動きだ。既に無線通信の範囲だが、何か警告してくることもない。離脱したいが、速度のあるこの敵を振り切るのは現実的ではない。レイはこれらの敵機を撃墜すると決める。

 敵機が機銃掃射をしてきた。建物を盾にしても、かまわずに撃ってくる。正気とは思えなかった。リヴォルテラは宇宙戦闘機としては重装甲だが、まともに被弾すれば無事で済まない。敵には追尾ミサイルのような誘導兵器の装備はないようだが、射撃の精度がやけに高い。まるで未来が見えているかのように先を読んでくる。

 大量生産される戦闘ポッドとは思えない動きであった。だが、重量差を利用して二機を同時にオーバーシュートさせれば勝機はある。

 狭い地下空間、小回りを利用して敵機に減速を強いながら、追ってこさせる。ここは入り組んだ地下都市だ。開けた場所に出なければこちらが有利である。レイの機動は巧みだった。十分に引き付けて、開けた場所にわざと出る。

 急減速。敵機は重量があるので、減速が追いつかずリヴォルテラを追い越す。限界近い減速状態にあった二機は否応なくこちらに張り付くように接近していたので、二機とも同時であった。

 追い越しざま、大推力のジェットエンジンの轟音がリヴォルテラを揺らす。レイはCLYXの展開を命じた。リヴォルテラを特徴付ける四つの機銃ポッドは全て分離し、それぞれに敵戦闘機の背後に張り付き、機銃掃射する。鈍重なリヴォルテラの動きに比べ、CLYXによって最適化された機敏な機銃ポッドは加速しかけた戦闘機に追いすがり、射程圏内に捕らえる。

 エンジンを狙った射撃が命中し、敵機は炎に包まれた。パイロットの脱出はなかった。熱反応から、無人機であることははじめからわかっている。

 戦闘時間は一二分だった。それにしては長く感じられた。もう少し長引いていれば限界がきていただろう。戦闘機は工場区へと落ちていった。無人の区画だ。それも、レイには計算通りであった。

 新手がトンネル内に出現しているが、こちらには向かっていない。どうも、レイが狙いではないようだ。工場での一件がバレたのではなく、接近していたので襲われただけらしい。敵機が集まってくる前に、レイは第七区画に向かう。



 CUBEシステムの停止という前例のない現象で月面都市は混乱していた。一号トンネルに戻ったレイの眼下に広がる町並みはどこも騒然としている。

 人々は通りに詰めかけている。建物の空調システムが停止したため、安全のために外に出たのだろう。復活したネットワーク上の速報系報道メディアをはじめ、一般のコミュニティでも盛んに情報交換が行われている。

 街の一部分からは黒煙が上がっているのも見える。システム障害により事故が起こっているのだろう。早速映像情報がネットワーク上で共有されている。各地で三万件にも及ぶ異常が報告されている。

 レイが到達する頃、第七区画にもようやく電源が戻っていた。

 リヴォルテラのレーダーには敵機の反応はない。隠れ潜んでいるQロット、C型強化兵士であればレイには探索不能だ。安全とは言い切れない。

 しかし、それでもレイはリヴォルテラから離脱する。生身で空中に体を投げ出し、ブーツの加速機能を使って減速、そのまま柊のスロット住宅が収められた架の屋上に着地する。

 弾薬が尽きかけているリヴォルテラはこのまま戦闘を続けられない。補給を受けさせるために第三区画へと帰らせることにした。

 柊からはずっと応答がない。しかし、ネットワークが回復したことにより、柊を守っている強化兵士から、「外見上の変化はなし、ただし応答無し」というメッセージが返ってくるようになっていた。

 自宅にたどりつくと、その強化兵士が出迎えた。柊に「ノルン」という名前をもらったらしい彼女は、感情を感じさせない表情のまま、つい先日戦った相手であるレイを出迎えた。

 柊はそこにいた。巨大な医療槽のような何かの中にいる。最近見たものだが、今はどうでもいいことだ。柊は追憶に没頭している。それはわかるが、呼びかけに答えない理由はわからない。

「柊をお願いね」

 名残惜しいが、レイにできることはなかった。ノルンに任せる。話せない彼女はこくり、とうなづく。

「サクラ、あの工場で作った部品の行き先は?」

 レイはサクラに訪ねた。レイは武装を調えるためにR社に戻ってきていた。これからもう一仕事するつもりだ。

 共用工場には隠された空間があった。あの行き先を調べなければならない。システム障害と、柊の異常と、発生した無人機。全て同じタイミングで、無関係とは思えない。そこを調べることが、きっと柊を助ける役に立つはずだ。

『それを言えば、あなたを危険に晒すことになります』

 しかしサクラは教えなかった。言い方から、もうその場所を特定しているとわかる。レイは苛立ちを感じた。

「どこにあるの」

『あなたを危険に晒すことになります』

 同じ言葉が返ってくるだけだ。レイの神経をさらに逆撫でする。

 怒鳴り声を上げてもサクラに届くことはない。それはレイにはよくわかっている。一年前もそうだった。このAIは肝心な所でレイの言うことを聞かない。こうして普段から言葉を交わしているが、決して味方ではないのだ。

「そういう態度なら、私にも考えがある」

 拳銃を取り出す。レイはそれを自らの掌に押し当て、迷いなくトリガーを引いた。

「止血しないと、出血多量で私は死ぬ。どうする?」

 医療ロボットが駆けつけてきた。それを、正確に射撃しながら破壊していく。発砲のたびに傷跡に響く。失血は続いている。痛みをこらえ、レイは駆けつけてくるロボットを破壊し続けた。

『やめてください』

 サクラの声がいちだんと大きく聞こえた。だが、レイはそれを無視する。

 柊を助けると約束した。そのためなら、なんでもする。彼女には誰かが必要なのだ。柊は今まさに危機に陥っている。それは、ここ最近の事件や先ほどのCUBEの異常と全て連動しているようにレイには感じられる。今すぐに行動しなければならない。

 サクラが隠すということは、確信に迫る何かがようやく手の届く所にきたということだ。これはレイにとってチャンスだ。命をかける価値がある。

「そろそろ限界かも……さあどうする?私の命を守るのが、あなたの目的なんでしょう?」

 意識が遠くなってくる。レイの足元、白い床には既に血のだまりが出来ていた。ロボットは次々にスクラップになっていく。視界がぼやけてくる。限界が近い。レイはこめかみに銃口を向ける。加熱した銃身が、皮膚を焦がす。

 ここで死んでもいい。柊を救えないなら、道連れに死ぬことも厭わなかった。

『わかりました』

 これ以上は危険だとサクラは判断したのだろう。サクラはパッケージ化されたデータをレイのNデバイスに送信し始めた。そこには、レイが求める情報があった。

 生き残りの医療ロボットが駆けつけてくる。レイは血溜りに身を投げ、処置を受け入れた。

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