Arcadia(A) 4

■柊・七



 ディアナの記憶は続いている。

 輸送船から脱出し月面都市へ侵入した。Nデバイスを起動すればテスタメントを通じて研究所に知られることになりそうだが、エリスは危険ではないと言っていた。

 意を決して、停止していたNデバイスを起動した。すると、すぐにエリスからのメッセージを受信した。テキストデータの電子メールに案内データを添付したものだ。

 指示のあった地図情報ソフトをインストールする。ARに投影された地図の周囲に広告が踊っていた。久々に触れる情報の洪水に眩暈を感じつつも、必要な作業をこなしていく。案内データを読み込むと、必要な交通機関情報とエリスの居場所が図示された。ARは地図をキャンセルし、ナビゲーション用の矢印に変わる。

 ディアナがいた頃には月面都市は一つの円環状のトンネルだったが、今ではそれに隣接する小型の円環が新しく作られ、規模が拡大している。その第二トンネルにエリスがいる。直接会って話をすることをエリスは求めている。

 ディアナは犯罪者だ。政府や研究所から追われていると思っていたが、街頭にある警邏ポッドはディアナが近づいても沈黙したままだ。Nデバイスも問題なく使えている。

 目的地はPS社という大企業の本社ビルだ。第二トンネルと第一トンネルが隣接する地点に本社を構えている。そこの受付で名前を告げるようにディアナは指示されていた。

 受付には人間はいなかった。端末に向かって名前を告げると、エレベーターへと案内される。そのまま最上階まで上る。そこに、懐かしい姿がいた。

 濃紺のビジネススーツに身を包み、長かった髪を短く切りそろえた姿は印象が違っていたが、面影は確かに妹のものだった。

「エリス……!」

 妹を抱きしめた。こうして無事で生きていてくれたことが嬉しかった。エリスとはほんの短い間しか付き合いがなかったが、ディアナにとっては心を通わせた数少ない相手だ。

 エリスは、悲しそうに微笑みディアナから一歩離れるだけだった。今はエリス・スタレットと名乗っているという。その名前には聞き覚えがあった。

 移民船で死亡した子供の身分を企業連合が手に入れ、黒派が活動する時のためにあてがったという。名前が一緒だったので、エリス・スタレットの身分はエリス・ヘンシェルに与えられた。これは偶然で、奇妙な縁であった。

「無事でよかった」

「捕まるかと思って警戒しましたが、何もありませんでしたよ」

「完全なものではないが、こっちもQロットと似たようなものをいくらか保有しているからな」

 エリスはディアナが逮捕されない理由を説明した。死んだ難民の名義は、この準Qロットによって情報操作され、ディアナのNデバイスの固有IDを偽装するのにも利用しているらしい。

 気になる部分はあったが、今は妹との再会が嬉しくて、あまり気に留めなかった。だが再会の喜びもそこそこに話を聞かなければならない。ディアナが危険を冒してここに来たのには理由がある。

 あの日、アルカディア・ステーションは政府軍の船に拿捕された。仮死状態だったエリスは、その後の処置によって一命を取り留めた。

 研究所に戻されたエリスは処分が下されるのを待っていた。しかし、処分はいつまでも下されなかった。

 テスタメントによって支配され、姉妹たちが使い潰される状態が続いているとエリスは思っていた。だがその時、すでに姉妹たちの危機は徐々に収束しつつあった。長く待つ間にそれがわかってきたという。

 新型の被験体であるQロットが導入され、運用されていった。Qロットは特殊な情報処理用の被験体だった。Qロットはテスタメントの上位に位置する管理者権限を保有する。

 Sロットの記憶を整理するのに、前々からそういうコンセプトの被験体が必要だとは言われていた。しかし、突然誰かが生み出し研究所に送り込んできたQロットは、ただそれだけのものではなかった。テスタメントを支配し、実験や活動の方針を制御できる存在だったのだ。

 Qロットの導入は、エリスとディアナが地上任務に送られる直前か同時くらいのタイミングのことらしい。研究所、特に白派では、突然導入されたQロットによる実験管理のせいで混乱をきたしていた。

 研究所を統治するテスタメントを支配できるということは、Qロットを保有していなければ自由に実験を行えないということである。Qロットをどれだけの数保有しているかが、研究所内での実行力と同義になった。各派閥はQロットを囲い込むのに必死になり、Qロットの機嫌を伺ったり、良好な関係を築かなければならなくなった。基本的にはQロットは人間に従順だったが、彼女らは自身の特殊なNデバイス内に変更不可能な倫理プログラムを持っている。Sロットに対してあまりに非人道的な実験を行うようなら、感情に働きかけてブレーキをかけるというものだ。あからさまにSロットを罰したり道具として使うことは忌避されるようになった。

 この流れは、Qロットの出現とほぼ同時に出奔した楪世ルリの存在がちらついた。

 エリスに対する処分が手付かずになったのも、こういった流れによるものだ。その混乱に乗じてエリスもQロットに声をかけて引き入れ、独自の派閥を作っていった。目的は姉妹たちを救うことだ。

 紆余曲折あったが、エリスは黒派の最も大きな勢力に組み入れられた。ルリを追う形で黒派に来たものの、ここでも彼女と会うことはできなかった。そして今は、エリスが黒派をまとめる立場になっているらしい。

 ディアナは第二トンネルの暗い都市の風景を眺めた。黒派の中心だったPS社は、今や企業連合の中で最も規模の大きい企業だ。この第二トンネル自体が、実質的にPS社の持ち物のようなものだ。ここから見える風景全部がエリスの支配下にある。

「楪世ルリはどうしたんです?」

 話を聞く限り、エリスの先生である楪世ルリは姉妹たちを救うために行動していた。ここにいないのなら、今はどこでどうしているのだろうか。

「一年前に死んだよ」

 エリスは淡々と言う。機械のような顔をしている。関心がなさそうに見えた。

「姉さんを呼んだのは他でもない、榧のことだ」

 エリスは最も重要な話を切り出した。ディアナは身構えて聞く。

 黒派は月面都市に出て研究を行っていたので、Qロットの保有数がもともと少なかった。そして、今は一人もいない。全て殺されてしまった。Qロットは「Qレイン」がなければ作れない。テスタメントの管理者権限は、彼女らが持つ倫理プログラムとセットでなければNデバイスに書き込むことができない。なので、Qロットの数は決まっている。

 Sロットの記憶や制御を管理するプラグイン「Sレイン」を持った被験体というだけなら、黒派にも作り出せる。Qロットが導入される前は、Sレインは限られた被験体に与えられて記憶と現実干渉性の管理を行うのに利用されていた。記憶継承体と呼ばれる特殊な被験体だ。

 その技術を応用することで準Qロットのような存在を生み出し、黒派は活動している。しかし、テスタメントの管理権限がない準Qロットでできることは限られている。本物のQロットを奪われたことで、黒派は危機に瀕している。

「Qロット専門の暗殺者、それが榧だ」

 エリスはディアナに映像を見せた。

 PS社のある施設に侵入した人物の映像だ。旧型の記録装置を使ったもので、画質がいいとは言えない。しかしそんなものを使わない限り、情報処理の権化のようなこの敵を捉えられない。

 敵地である黒派の施設に平然と侵入し、防壁も簡単に突破し、抗う人間はNデバイスを通じて退け、その先にいるQロットにたどり着く。その後の映像は母親であるディアナに配慮してかカットされていたが、何をしたのかは明白だ。

「彼女は黒派狩りのための暗殺者だ。姉妹たちを危機に晒す存在だ。止めなくちゃいけない」

 榧が殺人を犯している。その事実は、ディアナに重く圧し掛かった。それを知らなければ、きっとここにはやってこなかっただろう。

「捕縛するのは、私には無理だ。だから姉さんを呼んだ」

 エリスは言う。今の榧は一筋縄でいく相手ではない。あの時とは違う。暗殺者として洗練された存在になっているのだ。戦闘向きではないエリスでは榧を追い詰める事はできない。それどころか、熟練の兵士でも無理だろう。

 戦場を経て、反政府組織に関わり、あらゆる工作活動や暗殺を請け負ったディアナは、エリスが知る限り最高の兵士だった。しかも、NDステルス機能を持つ。Qロットである榧の精神操作に対抗できるはずだ。だから、エリスは悩みつつもディアナに声をかけたのだという。

「わかりました」

 榧と争いたくはない。ディアナが最もしたくないことだ。だが、今度は逃げない。榧にはディアナの記憶がないはずなので、向かい合ったからといって苦しませることもないはずだ。それなら、彼女の前に立てる。

 今度こそ自分のためではなく、娘のために力を尽くしたいとディアナは考えていた。



 今の榧は、定住をせず、荷物を持たず、体一つで月面都市を転々としながら活動を続けている。エリスは事前に榧を見つけていた。

 ニュース配信社の一つである「グリント」という新聞に時々記事を書いている記者がいる。その人物のファーストネームが「カヤ」だった。街頭カメラの映像から姿も確認できている。雇われ記者という立場で生活しているようだ。手を出せば証拠を消され隠れてしまう恐れがあるので、ディアナが到着するまで慎重に泳がせていたらしい。

 そんな場合ではないとわかっているが、ディアナは少しだけ安堵を覚えた。仕事ぶりを見る限り、榧は立派に生計を立てているようだ。

 ディアナは件の零細新聞社に張り込むことにした。数日で榧は現れた。

 街中では人目につくので、現れた榧を尾行して宿泊場所を探って接触する。住居を転々としているということはホテルを利用しているはずだ。室内まで尾行していけば二人きりで会うことができる。

 旧市街、下層街へと榧は歩んでいく。古いホテルに入るのを確認し、ディアナは後を追う。その時点で、自らのNデバイスをオフにする。古ホテルとはいえCUBEシステムによる警備が行き届いている。

 幸いな事にフロントに人間はいなかった。無人経営だ。宿泊客がほとんどいないので、榧の部屋を探すのもそう苦労はなさそうだ。エレベーターが止まっている階数から階を特定、その階の中で扉が閉まっている部屋は一つだけだった。空き部屋をせっせと掃除する清掃ロボットを飛び越え、ディアナは部屋の前に立つ。

 榧と別れて年数が経っている。記憶消去を受けているので相手にはディアナが誰かわからないだろう。それでも緊張があった。

「動かないで」

 その緊張は、別の形で上書きされることになった。

 いつの間に背後に回りこまれていたのか。大人びてはいるが聞きなれた声がディアナの背後からかかった。腰に、何か堅いものが押し当てられている。

 壁に押し付けられ、腕を捻り上げられる。力は強くないので抵抗は容易そうだった。しかし、ディアナにそんなことはできなかった。

 耳のすぐ後ろに吐息が感じられる。

「Qロットを尾行するなんて無理があるよ」

 聞き慣れた、しかし年月のせいだけでなく妖艶に変わった声が、そう囁いた。



 椅子に座らされ両腕と足を縛られた格好で、ディアナは古いホテルの一室にいた。

 ベッドに座ったかつての娘が、艶のある目線でディアナを見ていた。甘えた表情が見え隠れする。確かにディアナが知っている榧なのに、その所作は、目線は、ディアナが知らない女性のようにも思えた。

 これだけ年数が経てば榧も立派な女性に成長して当然だ。しかしそれだけではない変化が感じられる。

「私と来ませんか」

 エリスは榧をどうするか明確にはディアナに頼まなかった。だが、連れてきてくれればどうにかできると言っていた。ディアナの目的は、PS社まで榧を連れて行くことだ。今の榧にはディアナは面識のない他人なので、どこまで話が通じるかはわからない。だが暴力ではなく解決した方が今後のためだと思う。

「縛れらた生活では不自由でしょう」

 幼稚な提案だ、と自認しつつも、ディアナは声をかけた。交渉は苦手だ。榧はおそらく研究所の支配を受けているだろうが、今の黒派に合流する利点があるとは思えない。これは会話のきっかけだ。

 榧は笑みをたたえたまま沈黙を維持していた。ベッドに座ったまま、いろいろな角度からディアナを見ている。落ち着かない。視姦されているかのような気分だった。

 彼女がディアナを制圧する時に腰に当てていたものは、取材道具のレコーダーだった。つまりハッタリだったわけだ。武器らしいものを何も所持していない。映像ではどんな方法で人を殺したのかは結局わからなかったのを思い出す。

 ディアナは榧が自分の意思に反して殺人をさせられていると思い込んでいた。榧と暗殺者という職業が結びつかなかったためだ。その考えは変わりつつある。

「どっちが多くの人を殺したんだろうね。私か、ディアナか」

 榧は口を開いた。ディアナを見てくすくすと笑い出す。

 まともな人間の表情ではなかった。兵士の中にたまにいるタイプだ、とディアナは思う。殺人の苦痛から逃れるためにそれを楽しもうとする。

 綺系Qロットは貴重な人材だ。遊ばせておくはずがない。きっとすぐに榧を利用する人物が現れたに違いない。榧を任せたアイは特別な立場だったようだが、力の限界はあるはずだ。榧を守りきることができなかった。それを責める権利をディアナは持たない。

「怒ってくれないんだ」

 押し黙って何も言わずにいるディアナを見て榧は言った。道化のような笑顔が突然消え失せ、氷のように冷たい無表情に変わっている。

 そして、ディアナは気付いた。榧はディアナの名を知っている。ディアナに関する記憶は消されたはずではなかったのか。

「あなたは、私を置き去りにした」

 その言葉に、殺人を犯したと知らされた時より大きな衝撃を受けた。榧はディアナを覚えている。どうして、と思うと同時に、榧は説明を始めた。

「体内に高度なNデバイス構造を構築していくと、幽子デバイスと関連し始める。幽子デバイスにはこれまで経験してきた記憶が全て残されていて、抹消された記憶をNデバイス上に復元してしまう。そういう症状を出す人が稀に存在するんだ」

 榧は衣服を脱ぎ始めながら、言葉を続ける。

「綺系Qロットの遺伝デザインには、幽子感知能力が与えられている。私にもそれがある。この体では……記憶の完全な制御はもうできないんだよ」

 露になった白い榧の肌の下に、うっすらと何かの線が見える。

「まさか、それが全部……」

 QロットのNデバイスは通常、脊髄に少しだけ埋め込まれる。しかし、榧のそれは全く違っていた。首から始まって胸へ、胴体へ、両腕へ、おそらくは足まで広がっている。しかも視認できるほどはっきりとしていた。

「人間としての感覚なんてNデバイスから与えられる情報量からすればほんのわずかなものだ。不思議なもので、そうなると現実味も感じにくくなる」

 痛ましい。Nデバイスの過剰な成長は確実に寿命を削る。これほど全身に張り巡らせれば肉体的な苦痛も無視できない状態になるはずだ。

 それを克服するのにもNデバイスを使う。感覚を遮断している今の榧は、VRよりも現実感のない現実の中で生きているに違いない。

「帰りましょう、私と」

 ディアナは我慢できず、感情を含んだ声を発した。拘束していた縄を力尽くで引きちぎり、椅子から立ち上がる。

 気配を感じた。近づいてくるものがある。窓の外、暗がりから誰かがホテル内に入ってくるのがちらりと見えた。

 榧も気付いているようだが、こういう状況に慣れているのか落ち着いた様子だった。ディアナに対して首を横にふる。

 狙われているのはディアナではなく自分だ、という意味だとディアナにはわかる。榧は油断なく立ち上がった。理由はわからないが榧を信じることにした。信じないことで発生するメリットはない。

 扉のすぐ近くまで敵の気配は迫っていた。進入してこないので、部屋の外から狙っているということがわかる。ディアナは目の前の榧を抱きかかえ、膝蹴りでホテルの壁を破壊し隣の部屋に移動した。そのまま走る。抵抗するでもなく、榧はディアナの行いを観察している。

 今までディアナがいた場所に、壁を突き破って何かが飛来した。対物銃による長距離射撃だ。射撃は何発か続いた。どこか遠くから狙われている。

 ディアナはかつて戦友だった強化兵士を思い出す。高性能なスキャンアイなら、壁の向こうにいる人間をアウトレンジから正確に捕捉することができる。二人のうちどちらかだけを狙った射撃には思えない。あの場にいれば二人とも死んでいた。狙われているのは榧だというのは真実かもしれない。

 榧の居場所をどうして知ったのか。ディアナの方を追跡すれば榧の居場所はわかるだろうな、と考え、ディアナはそれ以上考えるのをやめた。

 常人離れした脚力で壁を破った。ホテルの外へと出る。およそ三〇メートルの高さから自由落下する。榧を庇うように、ディアナは服の下に着込んだアーマースーツのエアバッグを作動させる。Nデバイスはオフにしているので、手動操作だった。

 ガラス片や古ホテルのブロック材とともに地面に激突するが、エアバッグによる衝撃緩和と強化されたディアナの肉体はその衝撃に耐える。

 それでも、両腕にはガラス片により夥しい傷が出来ている。一方で、榧には傷一つなかった。

「最低」

 倒れたディアナを冷たい目線で見下ろしながら、榧は憎憎しげに言う。しかし、ディアナの心にはその言葉は刺さらなかった。

 警邏ポッドが集まってきている。通りには人々が集まり、二人に注目し始めていた。狙撃は続かなかった。

「狙撃手は死んだね」

 榧は語る。ディアナより広く情報を収集できる榧には、その様子が見えるのだろう。死んだ理由までは説明されない。

 強化兵士とはいえ、ディアナはまだ動くことができなかった。集まってきた一般人は何事があったのかと二人を遠巻きに見ていたが、その中から数人が進み出てきた。

 歩き方や体つきからして、訓練を受けた人間には見えない。どう見ても一般人だ。しかし、表情が尋常ではなかった。何かに憑依されたように機械的な顔をしている。

 その顔をどこかでディアナは見た気がした。榧は表情を引き締め、向かってくる一般人に歩いていった。

 ディアナは気力を振り絞って立ち上がろうとする。榧を守らなければと思った。しかし、ディアナが立ち上がる前に榧は素早く動いていた。

 襲ってくる一般人を身軽に回避しながら、指先で相手の頚椎に触れている。榧の身体能力はそれほど優れていないが、動きには全く無駄がなかった。全身のNデバイスを通じて運動を制御している。

 榧は次々と相手の頚椎に手を触れていった。頚椎に触れられた一般人はその場で足を止めた。そして何を思ったか、ある者は地面に頭を打ち付けはじめ、ある者は自分の首を絞め、ある者は周辺に散乱しているガラス片で自らを傷つけた。そして、全員が絶命した。

 立ち上がったディアナは榧を壁に追い詰めて捕らえる。目の前で娘が殺人を犯せば、誰でもそうする。抵抗しようとする細い腕を掴み、組み伏せようとする。

「痛い……離して」

 潤んだ目がディアナを見ていた。思い出す。あの時もこうして、抵抗する榧を捕らえた。あの日、まだ子供だった榧を、アルカディア・ステーションで。

 一瞬力を弱めてしまう。その瞬間、ディアナの腹部に鋭い痛みが走った。

「バカじゃないの?」

 榧は言いながら、ディアナに突き刺したものを引き抜いた。これが再現だとしても、榧はあの時よりもずっと洗練されている。手に握ったガラス片には布を巻き、自分の手を傷つけないようにしている。

 急所ではなかったが浅い傷ではない。怯んだ一瞬に、榧はディアナを突き飛ばし、組み伏せる。細腕からは想像もできない力だった。現実干渉性を使っている。

 片手と両足でディアナを拘束しつつ、懐から何かを取り出した。ディアナにハッタリをかけた時に使ったレコーダーだ。その内部から、小さい針のようなものが出てくる。あれでディアナの胸を突き刺し、そこにあるNデバイスを強制起動するつもりなのだろう。

 そうなってしまえば、ディアナは榧の傀儡となる。SロットはQロットには逆らえない。ディアナは加減していた力を解放する。突如増大した力に抗えず、榧は振り落とされ、地面に倒れこんだ。

 強化兵士は筋力にリミッターを設けている。強化された全身が壊れないように、かかる力を制限しているのだ。それを意図的に外す方法を、ディアナは心得ている。格闘なら、百戦錬磨のディアナの方が一枚上手だ。

 榧が口を開く前に、掌を額に当て脳に衝撃を伝える。気絶した榧は、ディアナの腕の中であっさりと脱力した。



 ディアナはPS社に戻るのに自動車のレンタルを利用してみることにした。Nデバイスを起動して手配をすれば車がすぐに迎えに来る。気絶した榧を抱いたまま遠い第二トンネルまで行くのは目立ちすぎる。エリスに連絡を取ると、それで問題ないということだった。

 車は自動運転だ。一息つくには丁度良かった。無人店舗で入手した医療キットで体の傷を手当しておく。榧による腹部の傷が一番深いが、このキットで十分に処置できる。

 なぜ榧は狙われたのだろうか。狙撃主は強化兵士でなければありえない攻撃を仕掛けてきた。群集から出てきた一般人の襲撃者の正体もわからない。

 黒派狩りをしている榧を狙うとしたら、当然黒派が疑わしい。黒派にも、白派のように内部派閥が存在するのかもしれない。だとしたら話してほしかった。エリスが嘘をついているとは思いたくないが、本当のことを全て話してくれたわけではないのか。

「ん……」

 疑問を感じていると、榧がうめき声をあげて目を覚ました。

「ここは……」

「大丈夫ですか?」

 目を覚ました榧はきょとんとした顔でディアナを見ている。

「榧……」

「あ……あの……すみません、なんだか迷惑をかけちゃって」

「え?」

 榧は身悶えするように慌てた様子を見せている。さっきまでの榧とはまるで別人のような態度だった。

「私が、わかる?」

 おそるおそる質問してみる。

「は、はい。ディアナさんですよね。大丈夫……覚えてますよ。時々あるんです、こうして意識が飛ぶことが」

 名前を呼ばれて少し安心したが、言っていることはおかしい。榧はディアナをさん付けで呼んだことはないし、こんな他人行儀に接してきたこともない。

「こんなことになっちゃいましたけど、取材、受けてもらえますか?」

「取材?」

 榧はディアナに取材を依頼し、ディアナはそれに応じて彼女の住むホテルに行ったが、具合が悪くなって倒れた榧をディアナが医療施設に連れて行ったことになっているらしい。

 榧はNデバイスを起動して自分の行動履歴を確認しているが、本当にそのようになっていた。

「ちょっと、体を見せてください」

「へっ……へ!?」

 ディアナは榧の服をはだけさせ、異常発達していたNデバイスを確認しようとした。しかし、そんなものは榧の体のどこにもなかった。

 まさか、と思い、ディアナは自分のNデバイスをオフにして、もう一度確認してみた。すると、榧の肌の下にNデバイスを発見することができた。

 緊急ARを利用した視覚改竄による隠蔽だった。改竄できないはずの行動履歴も書き換わっている。触れた榧の肌の下は熱くなっていた。Nデバイスが活発に処理を続けている。

 榧の中にあるQロットとしての上位権限が、彼女の身分や行動を守っているのだ。今表出しているのも、一般人として活動するための別人格なのだとディアナは気付いた。

 どんなに演技がうまい人間でも、わずかな筋肉の動きや表情、声色をファクト・チェックにかければ違和感を発見できる。そうならないよう、榧には全く別の人格が作られ、本来の身分を隠している。こうやって月面都市で生きてきたのだろう。

「あ、あの……」

 肌を見られて赤面している榧を見て、ディアナは自分のしていることのまずさに気付いた。

「いえ、怪我がないか心配になっただけですよ」

 丁寧に服を着せなおし、ディアナは距離をとる。

 CUBEの膨大な情報量から身を隠すのは並大抵のことではないだろう。Nデバイスは加熱していた。あれだけ目立つ行動をしたので、それの後処理で負荷がかかっているのかもしれない。その影響か、体調がよくなさそうだ。

「具合が悪いなら……また後日でもいいんですよ」

「いえ! 〆切明日なんで……大丈夫、ほとんど完成してるんです。あとはディアナさんの証言だけ! 大丈夫、名前は伏せておきますから!」

 榧の擬似人格は健気だった。記者として生活する現実の世界で、榧は人に愛されるような幸せの中にいるだろうか。この榧の人格はただの機械に近いものだろう。それでも、出来る限りの事をしてやりたいという気持ちになった。

「何を聞きたいんですか?」

「あのですね……ずばり、政府が隠している地球に関する秘密を教えてもらえませんか!」

 とても幼稚な取材だった。一部真実が含まれる点もあったが、オカルト記事に近い内容のものだ。榧は時々こういうおかしな記事を書く記者として知られているらしい。

 しかし、それに対して批判的な意見は世間では少ないようだった。ファクト・チェックの点数は低くても、人々は榧の記事を楽しんでいるらしい。そう聞いてディアナは安心する。

「あの……すみません、写真を撮ってしまいました」

 唐突に榧が言った。同時に、Nデバイスを通じ、視界のキャプチャ写真を撮影したという申告が来ていた。

 肖像権を守るため、視界のキャプチャに人物が写っていると修正がかけられる。その修正を外して人物写真が欲しい場合、その人物に撮影許可の申請を遅れる。それを許諾しない限りは人物写真をデータに残すことはできない。

「え?」

「笑顔がかわいいって思ったから……失礼ですけどディアナさんすごく私の好みの人で……ほんとすみません! 個人利用にしますから……持っててもいいですか」

 まっすぐにディアナを見つめる瞳は、地球に住んでいたあの頃と何も変わらなかった。

「いいですよ」

 断れるわけがなかった。今すぐ抱きしめたい気持ちを抑えながら、ただ目の前の榧を見ているしかない。

 楽しそうにしていた榧だったが、だんだんと目が虚ろになっていき、そのまま眠ってしまった。触れてみると、榧のNデバイスの過熱は少しずつ収まっている。車は目的地に到着する所だった。



 エレベーターに乗り込むと、勝手に階数が指定され、エリスがいる最上階へ導かれた。そこでは、またエリス本人が待っていた。

「姉さん。無事でよかった」

「第三者の襲撃を受けました。心当たりはありませんか?」

「白派も内部派閥がある。私たちもろともに始末したいと思っているのかもしれない。予想できなかった」

 エリスは淡々と話した。それだけでは説明不足すぎる。最初は気にしなかったが、このエリスにはどうも違和感がある。

 実在感がない気がした。ディアナは幽子感知能力を持っていないが、どうも気配が薄いような気がするのだ。こうして榧を手中に収めた今だからこそ、冷静にそれを考える事ができる。

「こっちへ」

 エリスは榧を抱いたディアナを別のエレベーターに案内した。そこから下層に下りる。特別に作られた情報処理室に繋がっていた。

 密閉された空間で、窓も扉も存在しない。床面に弱い照明があり、わずかに周囲を照らしている。そこには、ディアナも知っているものがあった。

「これを使えば、榧を救うことができる。姉さんならわかるね」

 エリスと一緒にたどり着いた、深淵の海に浮かんでいたアルカディア・ステーションにあったQロット制御端末「スキューマ」だ。

 スキューマには、外部装備がいくつか装着されていた。本体からはケーブルが延び、壁へと繋がっている。その向こうに何があるのだろうか。

 Qロットの初期プログラミングを行える世界で唯一の端末であるこれなら、確かに榧に新しい命令を与えることができる。だが、これを見た瞬間にディアナの疑念は余計に増した。

「敵は……私たちを襲撃した敵は、強化兵士を使っていました。白派は今でも強化兵士を必要としているのでしょうか」

 ディアナはエリスから一歩距離をとりながら、できるだけ冷静に尋ねた。

「何が言いたい?」

「Qロットの導入以降、それを排除するメリットが白派にあるとは思えません。政府軍が強化された今、強化兵士は必要ないでしょう。それを必要としているのは……」

 確信はないが、榧はおそらく白派からは便利に使われている。抹殺する理由はないように思えた。杞憂ならそれでいいし、エリスが改めて全ての事情を話してくれれば、できる範囲で協力してもいい。それを確認しておかなければ、榧を預けることはできない。

「私たちは出口を探している。そのためには、ソレの中にあるものがいる。姉さんは私たちといっしょになってほしい」

 エリスからは表情が消えていた。能面のような無表情にぞっとする。言っていることの意味はわからないが、これは自分の妹ではない、とディアナは直感した。

 エレベーターに鍵がかかる音が聞こえた。ディアナは危険を感じてNデバイスの電源を落とした。

 密閉されていた壁面が稼動し、エリスの背後から広い空間が現れはじめた。そこには、無数の培養槽が並んでいる。照明が弱いのでよくは見えないが、スキューマから伸びたケーブルが繋がっているようだ。

 それらがいっせいに低い音を立てて稼動し始めた。中に入っているのは見たことがない型の強化兵士だ。それが全て開封されようとしている。危害を加えようとしていることは明らかだ。

 スキューマに繋がっているということは、あれはQロットなのだろうか。黒派は準Qロットのような存在を生み出して活動しているとエリスが言っていたのを思い出す。

 あれがSレインを持つ強化兵士であるなら、ディアナには不利だ。そうでなくても、榧を抱えたまま相手をできるか不安がある。

「目的を言ってください。交渉の余地は?」

「無駄だよ」

 ディアナが声を出すと、腕の中にいる榧が声を出した。エリスは立ち尽くし、言葉を発していない。

「あのステーションから私とディアナを脱出させる時、エリスは……本物のエリスは私にQレインを託していたんだ。スキューマはQレインを欠いている。エリスの遺体を調べて、私がそれを持ってるって気付いたのさ」

 榧は静かに説明した。急な説明にディアナは混乱したが、しかし様々な疑問が解消された。

 ここにスキューマがあるのに、黒派はQロットを生み出すことができず、準Qロットしか使えない。それは、Qレインが抜き取られて完全な上体ではないからだ。榧は世界に一つしかないQロットを生み出す源、Qレインを所持している。黒派はそれを奪取するためにディアナを収容所から呼び戻し、榧を捕まえさせた。

 榧の言葉でわかる。目の前にいるエリスは本物のエリスではない。それを再現した人形だ。

「私が愚かだったということですか……あなたの話を聞いていれば」

 ディアナは後悔した。黒派は非人間的な行動をとっている。これだけの数の強化兵士を揃えたり、妹であるエリスをこんな姿にしたり。狂っている。何があっても信頼すべきは、娘である榧の方だった。

「ううん、ディアナはよくやったよ。お疲れ様」

 榧はディアナの胸に抱かれたまま、ディアナの胸を細い針で突き刺していた。

「何……を……」

 細い針はディアナのNデバイスに達し、強制起動をかけている。全身に榧からの支配信号が行き渡り、ディアナは榧を抱えたまま身動きがとれなくなった。

「私の目的はスキューマだったから。これがないと、“ディアナの中にあるQレイン”を取り出すことができない。私には、それが必要だからね」

 榧の言う事がわからない。Qレインを持っているのは榧ではなくディアナなのか? そんなものを持った覚えはない。

 榧から受け取った唯一のものは、消去された榧の記憶だけだ。別れる日、記憶媒体に入れられたそれをアイ・イスラフェルから受け取った。

 そこまで考えて気付いた。あの記憶の中にQレインが隠されていたのか。榧は自分の中にあったQレインを、収容所に入れられ隔離されるディアナの中に隠したのだ。そして、今それを回収しようとしている。

 榧から、歌声のように聞こえる意思が流れ込んでくる。ディアナの四肢を支配し、操り人形のように動かす。全く抗うことが出来ない。Qロットからの制御は、他のSレイン持ちからの制御よりもずっと強制力がある。恐ろしい力だった。

 ディアナは操られ、榧を抱えたままスキューマに乗り込んだ。榧はPS社内のネットワークにアクセスし瞬時に掌握、外に続く扉を開かせた。第二トンネルの町並みが外に見え、風が吹き込む。ディアナの美しい金髪がたなびいた。

 スキューマにはエンジンモジュールが接続されている。まるで宇宙戦闘機のような形状だ。そのまま浮遊し、外へ脱出しようとする。スキューマにエリスが取り付いてきた。まだハッチが開いたままだ。乗り込み、榧に手を伸ばす。人間とは思えない強靭な力だった。皮膚の下に黒い筋が浮き上がっている。肉体に何かを注入し、内側から動かしているのか。

 エリスの遺体を使って生体ロボットのようにしている。それに気付き、ディアナは脳が熱くなるのを感じた。人間の所業とは思えなかった。

 榧からの命令でディアナは拳銃を抜き、エリスの額に押し付け、そのまま発砲した。妹だったものの脳は破壊され、吹き飛ばされて床に倒れこんだ。出血さえなく、そのまま何度か痙攣しただけでエリスは立ち上がろうとした。

 何か浮き上がって見えていた。エリスの背後に、半透明な影のようなものが見える。

 ディアナには幽子感知能力のような特別な力はない。だがエリスと同じ遺伝子パターンを持っている以上、ディアナにもその才能が生まれる可能性はある。本人も知らないことだが、高密度の幽子的存在ならディアナにも見ることができるのだ。

 理屈は知らなかったがディアナは見たままで判断した。現実の存在とは思えない。考えなくても直感的にわかる。

 人間の倍ほどの全長のあるそれは、エリスに覆いかぶさるように存在していた。形は一見すると深海の生物のようだ。全身にいくつかヒレがあった。それは両翼を広げた鳥か、天使のようにも見える。全体で見ると人間のように見えなくもない。あれは何だ。あれが、榧が言う「何か」なのか?

 ディアナは、今度は自分の意思で発砲した。残弾を全て使ってエリスの足を破壊した。それでも這うように近づいてきたので、所持していたナイフを投げて床に釘付けにした。

 スキューマは浮遊しながらゆっくりと外に出た。PS社の壁は再び閉じて、何事も無かったように静寂が訪れる。



 月面都市に馴染みなどないディアナだが、第一トンネルに戻ってくると安堵を感じていた。

 第一トンネルは企業連合の手で、人間の手で作り出されてきたものだ。第二トンネルはもっと完璧で美しい。それがディアナには恐ろしく思えた。もう二度と足を踏み入れたくない。

 榧の情報操作によって、スキューマは正式にCUBEネットワークに登録された乗り物ということになっているようで、月面都市内を問題なく飛行できた。榧はスキューマをリニアトレインに乗せ、そのまま第五区画まで移動した。ここには、使用頻度の低い政府所有の倉庫がある。そこに収穫物であるこの端末を搬入した。偶然にも、まだ零細企業だった頃のPS社のオフィスだった場所だという。

 榧はディアナの四肢の自由を奪ったまま、スキューマに寝かせた。

 Qレインは持ち出す時に暗号化されている。スキューマだけがその暗号を解除し、Qレインを使える状態にできる。ディアナ本人ですら、自分の中にそんなものがあるとは知らなかった。Qレインは実態ではなくプログラムキーで、常に一つの媒体にしかコピーできない。アイが渡した記憶媒体から暗号化され不可視状態のデータのままディアナのNデバイスに移動した。

 ディアナが持つソリッド型のNデバイスは情報の保存性がいい。月面都市から、情報的にも物理的にも離れた収容所は安全な保管場所だった。そのため、榧は記憶を失う前に、Qレインをディアナに預けたのだ。

 ディアナはスキューマに情報媒体を接続し、そこにQレインを移動させた。暗号化が解除され、Qレインは取り出された。

 作業は終わり、ディアナの存在はもう用済みのはずだった。しかし榧はしばらく、横たわるディアナの顔を感情の浮かばない顔で見ていた。

「それを何に使うんですか?」

 身動きがとれないまま、ディアナは尋ねた。Qレインがあれば、Qロットである自分自身を研究所の呪縛から解き放つことができるのではないか。榧の目的はやはり自由になることだったのではないか。ディアナはそう考えていた。

 しかし榧はディアナの問いには答えず、静かに口を開いた。

「私を支配する人はいないよ。白派にはもう派閥はないからね。それと、スキューマがあそこに隠してあると教えてくれたのは楪世ルリだ。彼女は生きている。あの状態をそう言っていいのかはわからないけれど」

 ある事件を切欠に、この一年の間に白派の派閥は一つの勢力、ディアナもよく知るアイ・イスラフェルによって駆逐された。そして楪世ルリの死、榧によれば死ではなく隠遁、によって、黒派も消失した。今の研究所は一つの意志のもとに動いている。そう榧は話してくれた。

 PS社が黒派ではないのか、とディアナは思ったが、黒派はもっと人間じみた近視眼的な活動をする集団だったはずだ。人を超越した何かの存在をあの場には感じた。榧の言う通り、黒派は消滅し、「何か」に取り込まれたと納得できる。

「ディアナに復讐をしたいと思ってた」

 榧は言葉を続ける。榧がQレインを取り出す時、ディアナの記憶に触れたのを感じた。それで、ディアナがどれほど榧を思っているのかをしっかり確認した。その上で、最後の目的を果たそうとしている。

「そう簡単に死ねると思うな。私と同じ苦しみを味わえ」

 冷たく険しい表情で、榧はディアナを見下していた。言葉の意味を考え、ディアナは必死に起き上がろうとする。しかし、体は全く動かない。

 目が見えなくなり、気が遠くなっていく。眠るわけにはいかない。榧がどこかに消えてしまう。止めなくてはならない。

「ばいばい」

 優しく別れを告げる声がした。体の感覚が喪失していく。操り人形のようにディアナの体はスキューマから立ち上がり、どこかへと歩いていく。おそらく安全な場所だ。

 ディアナの意識は切断された。



 次に目覚めた時、ディアナは独房の中にいた。

「榧はどうしていますか?」

 ディアナは、そこにいる人物に声をかけた。

 去り際に榧が残していった情報によれば、白派の内部派閥はほとんど消滅し、アイ・イスラフェル一人によって研究所の活動が指揮されているらしい。だとするなら、アイと榧は協力関係にある。榧の声色にも、アイへの信頼が感じられた。

 独房の前に現れたアイは、溌剌としていた以前とは全く印象が違った。年齢を重ねたこともあるが、それだけではなく表情が浮かない。移民船でディアナに食ってかかった人物と同じとは思えないほどだ。

 Qレインを手に入れてアイと榧は何をしようとしているのかディアナは知らない。それは多分正しい行いではない。表情からわかる。

 アイは黙ってディアナの拘束を解き、独房の鍵を開けた。そして歩き出す。ディアナはおとなしく細く頼りないアイの背中についていった。

「あなたは知らないでしょうけど、研究所は常にある存在と戦い続けてきた。その脅威がいよいよ、私たちに降りかかろうとしている」

 疲れた声でアイは語る。

「それで、Qレインが必要だと」

「……そう」

「榧はどうなるんですか?」

「あの子の体……見た?」

 アイは振り返らないまま言った。彼女が話しているのは、榧の体に張り巡らされた異常なまでのNデバイスのことだろう。ディアナは沈黙する。

 辿り着いた場所は、研究所内の医療設備だった。そこには榧を処置した時の情報が残されている。痛ましいほどに全身に巡らされたNデバイスは攻撃的なまでの情報処理能力を持っている。

 榧は目に見えない戦いのための体を持っている。そうやって、「何か」から人類を守っている。PS社で邂逅した、エリスを操っていたものがきっとそうだ。

 あの存在からは虚無を感じた。ディアナの幽子感知能力は無視できるほど弱く、霊感程度のものだが、それでも目に見えてしまった。恐ろしい存在だった。

「あの子は長生きできない」

 アイは小さな声で言った。ディアナに対しての懺悔のようだった。

 アイを責める気はない。だが、やはりこのままではいられない。榧が危険に晒されているということだけわかれば、ディアナには十分だった。ここを脱出して、すぐに榧の元に駆けつけなければならない。「何か」の正体はわからないが、榧の力になって共に戦いたい。

 ディアナは地面へと投げ飛ばされる。受身を取らなければ手首が折れていたかもしれない。尋常ではない握力だった。そこに立っていたのは、榧とよく似た人物だった。

「あの子のお願いだから。ごめんなさい」

 アイは結局振り返らないまま、最後にそう言った。この敵はQロットだとディアナは気付き、Nデバイスをオフにする。だがそれだけでは済まない。このQロットはディアナと同様、身体強化された強化兵士であるらしい。

 榧の妹にあたるだろうその人物は、榧よりもずっと身長が高く、大人びた容姿だった。培養途中で槽から出された榧も、それによる成長不良がなければこんな姿になっていたのかもしれない。

 ディアナは倒される。急に体が重くなる。Nデバイスをオフにしているのに、周囲の重力が増したかのように身動きが取れなかった。現実干渉性を使っている。押さえ込まれたディアナはいとも簡単に捕らえられた。

「柊、あとはお願い」

 アイはその場を去っていく。柊と呼ばれたQロットは短い針を取り出し、ディアナの胸に投げて突き刺す。そして、そこにあるソリッド型Nデバイスを強制起動した。



 囚人ディアナにとって、脱獄は初めてではない。

 体に緊張は見られない。野生の獣のように音を立てず、人気のない通路を移動している。よく鍛えられた健康な肢体と長く伸びた美しい金髪が、メンテナンス用の狭い通路をしなやかにすり抜けていく。目覚めている間のほとんどを戦闘に費やしてきた彼女にとって、このような状況は日常だ。

 ここは月だ。正規の収容所ではなく、研究施設内の独房である。宇宙空間にある脱獄困難な施設とは違って、巨大な居住区画、都市といっていいほどの広大な与圧区画の下にある。街中に脱出できさえすればどうにでもなる自信があった。

 Nデバイスを遮断したままで移動し、警備システムをかわす。搬出路にたどり着いた。重量物の運搬のために微重力制御された垂直通路は、軽い跳躍で登っていくことができる。

 向かう先の天井には窓があり、そこに地球が映し出されていた。真上は月面都市であり、この窓は光伝送路の集合による遠距離窓である。ここを抜ければ月面都市に脱出できる。

 地球に降り注ぐ太陽の光がこの月面まで届き、光回路を通じて像を投影し、数十万キロメートルを飛翔してディアナの目へと届いている。鈍い灰色に包まれた地球。母なる地球。環境破壊によって過酷な環境となっている地球。生まれは月でも、ディアナにとって地球こそが故郷だった。強化兵士となって政府軍に加わり、悲惨な戦争を戦った場所。家も、思い出も、全てあそこに置き去りにしたままだ。

 榧のことはずっと娘だと思って大事にしてきた。困った事があれば話してほしいと思っていた。そうすればどんな犠牲を払ってでも助けに向かう。

 だが、それが榧にとっては苦痛だったのだ。反抗期というものかもしれない。親の愛情を振りきって対等になろうとする。ディアナとしては、それを受け入れてやるべきだったのだ。

 何も話して貰えないことがこんなに辛いものだとは思っていなかった。榧が言った復讐という言葉を理解していた。この状況はディアナの心を最も傷つける。甘んじて受けるべき痛みかもしれない。

 しかし、だからといって放っておけるはずがない。ディアナは榧を愛していた。今度こそきちんと話をして、謝って、そして対等にならなければならない。

(おかえり)

 声が聞こえた。

 いや、正確にはそれは声などではない。それは音声、言葉ではない。子守歌のような何かが心を締め付けている。ディアナの頭の中に、彼女を迎えようとする甘美な歌声が響く。

 目の前にいっぱいに広がる地球の光。それに違和感を抱く。あるはずのないものがそこにある。その違和感は急速に広がり、ディアナの背筋を寒くさせた。

 この地球は、美しすぎる。

 心では進む事を拒もうとする。しかし、その光に吸い寄せられるように、ディアナの体は前へと進んでいく。重力制御された通路のせいではない。

(おかえり)

 また、脳を溶かすように歌声が響く。胎内へ回帰していくかのように。鈍い地球の光がディアナを包み、誘う。ここは、なんだ。彼女が知っている研究所とは何かが違う。

 脳が痺れるように警鐘を鳴らしている。灰色の雲に包まれた地球はよく知られた姿だが、現実の地球はあんなものではないとディアナは知っている。

 Nデバイスをオフにできるディアナは地球の本当の姿を見た事がある。だから、あの姿が偽りだとわかる。現実の地球の北半球の大半は、既に存在しないはずだ。

「(いつから……?)」

 胸をはだけ、手を当ててみる。僅かに熱を持っている。停止したはずのNデバイスが作動し、発熱している。独房を出る時に確かに停止したはずなのに。

 起動感覚は間違いなく存在しない。停止していると思い込まされていた。認識を書き換えられている。

「(あのQロットか)」

 そんなことができる者が一つだけ考えられる。アイが引き連れていた柊というQロットだ。ディアナは誘われる意識を振り切るように、周囲の気配を探る。直接でなければできないはずだ。相手は、どこにいる?

 ディアナの危機意識は、最大限にふりきれていた。しかし、同時に、この異常に身を委ねたい欲望が彼女の神経を支配しつつあった。

 おかえり。おかえりなさい。

 ついに、安楽に心を投げ出す。声は榧のものに似ていた。ディアナは耐えられない。美しい金髪が乱れるのも気にせず身を躍動させ、窓に到達する。その横に、外へと続く古い気密扉がある。それにとりついて、ハンドルを力任せに回した。このひと時すらももどかしい。歌声が耳元でささやくたび、肢体が痺れる。

 地球に近づきたかった。そこには榧がいる。二人の幸福な生活がある。そんな誤認に支配されていく。

 気密室は減圧を行わなければ外扉が開かない。しかし、今回だけはディアナを邪魔するものはなかった。電子ロックが停止させられている。扉を開くと、ディアナは外へ放りだされた。

 圧力のない真空に投げ出されれば、体液は液体を保てずに蒸発してしまう。いくら強化兵士でも真空暴露には耐えられない。一瞬、Nデバイスの起動感覚が戻る。施設から飛び出たディアナは、Qロットによるコントロールの圏外に出たのだ。

 全身に激痛を感じながら、ディアナはさっきまで彼女を包んでいた心地よさを手放していた。

 目に映る地球が赤く染まる。そこには、北半球が喪失し欠けた、真実の姿が映し出されている。最後に見る光景としてはあまりにも優しくない現実だった。

(ごめんね)

 意識が途切れる寸前、また一瞬歌声が聞こえる。それは彼女を誘い続けていたあの心地よい嘘とは違う、憐憫に満ちた本当の声だと感じられた。



 追憶が現代まで到達しても、柊はそこから抜け出せなかった。

 柊がディアナの追憶にスキューマを利用したことは偶然だった。Qレインを失ったスキューマは、Qロットの記憶制御に適合性が高いという以外は特別な所がない端末だ。しかし、今はそれが問題だった。追憶機能を通じて一種の記憶操作を受けていたに等しい柊は、自分でうまく覚醒を行うことができない。

 記憶の中でのアイの様子が気にかかった。このままではいけない。どんな方法を使ってもスキューマを脱出しなければならない。柊は抑え込まれつつある自身のNデバイスを通じて、今の状態を探った。



■レイ・五



 ナノマシン治療を受けながら、レイはサクラに明かされた場所へと向かっていた。

 月面都市の最下層には、一般には知られていない搬入路がある。そこを通じて第一トンネルと第二トンネルは繋がっている。そこから分岐をつたって、更に第二トンネルの奥深くへと侵入していく。

 第二トンネル内で生産された物資に紛れる。そのため、レイは生体活動を極限まで落とす薬品を皮下注射する。自身も危険な状態になる。アーマースーツの生体管理システムがなければ自殺行為だが、これでNデバイスの反応は一時的に消滅する。

 リヴォルテラは柊に張り付かせている。今回は身一つでの調査だ。

 第二トンネルの下に未知の巨大な空間がある。ある地点から先は警備システムが途切れていた。アーマースーツは危険を排除したと判断し、レイの体の蘇生処置に入った。

 冷え切っていた全身が暖められ、レイは息を吹き返した。体中が倦怠感に包まれている。

 目的地に辿り着いた。無人ではないようで、所々に明かりがある。レイが座り込んでいる場所も人間が歩くための通路のようだ。体が回復してきた所で、レイは通路の先へと歩いていった。一年前、地球で巨大な地下空間に紛れ込んだ時の事を思い出す。

 円形の巨大な空間があった。数十キロほどの真空の地下空間だ。もはや見慣れた地下大空洞とは違い、人工的に掘られた穴だ。第二トンネルを建築するために大量の土砂が必要となった。そのため土壌を掘り起こした穴をさらに広げたものらしい。

 非人間的な構造だという印象をレイは受けた。人の手で設計されたものというより、人工知能によって効率よく掘られたという感じだ。下の方では何かの機械が働き、この穴を更に深くしているようだ。

 暗闇の中に山のように生えている楔形が並んでいた。一つ一つが二〇〇メートルもの高さがある。それがびっしりと穴の中に立てられている。

 途方もない光景にレイは立ち尽くす。これは宇宙駆逐艦だ。企業連合が設計したカロン級である。こんなに多く生産されているという話は聞いたことがない。これでは、自警団の範囲を逸脱するどころの話ではない。政府軍と真正面から衝突できる数ではないか。

 誰かが働いていた。レイと柊を襲った強化兵士だ。それにそっくりな姿をした大勢が、完成した数十隻もの艦にとりつき作業に従事している。

 強化兵士と目が合った時、何かされるのではと身構えた。ここにいるC型強化兵士はQロット互換型だ。あの時のようにレイに制御信号を送って支配することができる。しかし、何の関心も示さずに作業に戻る。作業着を着たここの強化兵士たちは、あの日の黒いアーマースーツの者達とは違う行動原理で行動しているようだ。身体強化も最小限で、明らかに仕様が異なる。無駄がない動きで淡々と作業をこなしている。

 レイは慎重にドックの中を観察した。カロンの後部の格納庫エリアが気になり、そこに立ち入ってみる。見覚えのある戦闘機械があった。

 R社のピストレーゼやリヴォルテラなどの宇宙戦闘機によく似ている。しかし、もっとシンプルな形状だ。流線型のボディに四つの脚部を搭載した陸上対応型の宇宙戦闘ポッドのようだ。脚部にはエンジンも組み込まれ、宇宙空間での飛翔も想定されている。つい先ほどレイを襲ってきたあの二機の戦闘機型は、これに追加エンジンをつけたものに違いない。共用工場で作られていた部品はこれのためのものだ。

「こんなもの、一体何に使うの?」

 レイは、人類を脅かす「何か」について説明を受けたことがある。サクラはあまり多くを語らなかったせいでその時は半信半疑だったが、これを見れば信じざるを得ない。

「“メルカバ”っていう名前の無人機らしいよ」

 聞きなれない声がかかった。

 声の主の姿を見て、レイは一瞬友人の名前を思い浮かべた。そこにいた人物は柊を幼くしたような外見の少女だった。

 綺系Qロットに違いない。しかし、レイが知る二人のうち、彼女はどちらでもなかった。人懐こい笑みを浮かべてそこに立っていた。

「サクラに頼まれてね。一人じゃ心配だからってさ」

 気さくに話しかけてくる様子にレイは警戒心を解く。彼女は小さな手でレイを格納庫の端に引っ張っていった。その背後に何かが通る。ロット生産された「メルカバ」とやらが搬入され、格納庫に収まった所だ。

「ここは私が前から調査してるんだよ。新聞記者だからね」

 榧という名前の小柄な女性は、唇の前に指を差し出して自己紹介した。その動作が可愛らしい。柊や楓は見せない表情だ。

「きみのお母さんからのプレゼントだよ」

 榧が言うと、カロン級の格納庫の前に見慣れた機体が飛来した。

 白い百合の花のような姿をしていた。流線型で美しく、そして何よりもよく見慣れたものだった。あの日、大空洞で失われたはずのピストレーゼそのものだ。エンジン部分が新型になり細かい部分に設計の変更が見られるが、コクピットブロックはそのままだ。

 引き寄せられるようにコクピットに入る。戦闘データを満載した祈機があった。レイがずっと探していたものだ。レイの生体データを認証し、OSの起動画面が迎えてくれる。

 どういうことか、レイにはわからなかった。この機体は明らかに前より進歩している。誰かが開発したということだ。あの大空洞から祈機を回収したのはレイの母なのか? あの大空洞では、死んだはずの母の愛機リヴォルテラとも出会った。

「きみは切り札だ。今死なれちゃ困る」

 座席に乗り込んだレイに榧は語る。その顔からは笑みが消失していた。

 よく知る二人に似ているからとレイは油断していた。ピストレーゼのハッチが閉まる。

「待って! 母のことを何か知ってるの!?」

 レイは叫んだが、もう聞こえていない。堅く閉ざされたハッチは、内側からは決して開かなかった。

「この……!」

 レイは自身の現実干渉性を発動し、内部から突き破ろうとする。レイの能力で分解できない物質はこの世に存在しない。レイを閉じ込めておくことなどできない。

 ピストレーゼの上に立ち、榧はコクピットに手を触れる。内部システムと直結した榧のNデバイスから、レイに対して制御信号が送られる。

 通常のQロットを上回るNデバイスの規模を持つ榧から暴力的な催眠波を送られ、レイは一瞬にして意識を奪われた。情報処理能力を強化した榧は、他のQロットとは格が違う。

「同情するよ」

 それは辛苦だ、と捨て台詞を残して背を向ける榧を、もうレイは見ていなかった。



 ピストレーゼはゆっくりと飛行し、工場のラインを逆行して月面都市に戻る。榧が来た時の足がなくなってしまったが、ここにある乗り物を適当に拝借して月面都市まで戻ればいい。これで、アイの頼みはあと一つだけだ。

 妹である柊を処理しなければならない。難敵だが、榧には難しい相手ではない。



■柊・八


 

 柊はスキューマの存在を探った。スキューマの側から柊のNデバイスを俯瞰して見ることで覚醒を促そうとしていた。

 そのはずが、知らない空間に入り込んでいた。

 自分の部屋に似ていたので、覚醒が成功したのかと思った。しかし、そこは明らかに現実の空間ではなかった。現実をベースにしてはいるが、情報量が落とされている。

 柊の自宅を白一色にし、細部を排除したVRだ。床に蔵書が積んである点まで実際の柊の部屋と同じだが、本や寝台は出来の悪いコンピュータグラフィックスのような白いかたまりの構造物となっていた。

 ここは柊のNデバイスの内部のはずだ。AR用モデルなどのジャンク情報に入り込んでしまったのかと柊は思ったが、すぐにそうではないと気付いた。

 何もかも雑に作られた空間の中にある寝台に、誰か他人が腰掛けていたからである。その人物だけは、ジャンク情報にしては完成されすぎている。

 白一色の中に溶け込むような人物だった。銀髪が足元まで伸び、肌は陶器のように白い。服装は素肌の上に白いシャツを着ているというだけのもので、美麗な顔立ちとアンバランスな粗野さを感じる。

 顔立ちは柊がよく知るアイ・イスラフェルに似ている。しかし別人だ。病的だったアイと比べて体にほどよい肉付きがある。薄灰色のまっすぐな目が柊を見ていた。全体の出で立ちや顔立ちに気高さと強さが感じられ、柊にとって好ましい印象を与える。

 柊は目の前の人物を知らないが、彼女は柊を知っている目をしていた。人工知能か、誰かの記憶をプログラム化したものだろうか。柊の中にそんな情報が残留しているとは気付かなかった。

「まだここに来るのは早い」

 美しい声が淡々と告げる。これは何なのか、対話が可能なものかどうか値踏みしている柊に対して、白い人の顔はやや不機嫌そうに変化したように見えた。

「目覚めたいんだろう。手伝ってやる」

 白い人の言葉は十分とは言えない。無口な人格なのだろう。伝えることがあって一生懸命話そうとしている。不機嫌そうに見えたのは勘違いで、どう説明していいのかわからずに苛立っているのだと気付く。

 白い人物はエル・イスラフェルと名乗った。彼女が一体何なのか、なぜ柊の中にいるのかはわからない。しかし、それは重要ではない。覚醒を手伝ってくれるというならありがたいことだ。

 エルはあまり情報整理が得意そうには見えなかったが、柊よりはこの空間の使い方を知っていた。床にある本だった構造物の一部をもぎ取り、それを変化させて擬似端末を作成した。現実世界にあるスキューマの制御装置を再現し、柊に手渡してくる。これを通じれば、外からするのと同じ感覚で操作ができる。

「なんだ……これ」

 柊はスキューマを通じて柊自身を見た。そこには、柊が知らない柊がいた。

 スキューマはQロットの内部プログラムを見ることができる調整端末でもある。柊自身が決して自覚できないように組み立てられた複雑なプログラムも、スキューマを通せば見ることができる。

 柊は、自分の巨大なNデバイスの中で何が起きているかを知らなかった。最新のNデバイスを全身に張り巡らせた柊の肉体は巨大な計算装置であり、また同時にQロットであるためにCUBEネットワーク内で最も上位に位置する管理権限を持つ。

 それを利用して、柊は月面都市の情報を掌握していた。

 柊の体内には柊の知らない人工知能がある。CUBEネットワークを支配しているテスタメントをより高度に制御するためのものだ。それを利用して、完璧なはずのCUBEネットワークを上位から操っていた。

 宇宙戦艦クリシウムを襲撃させたのは柊自身だった。その後、アイの医療槽を止めて殺害しようとしたのも柊だ。柊の中にあるテスタメントの人工知能にはその記録が残っている。クリシウムにしても医療槽にしても、この人工知能を除いては決して行えない攻撃だ。

 柊がいくら調べても見つからないはずだ。それは柊自身だったのだから。無自覚に自分の中で実行される研究所の統治機能が、独走するアイを危険視し、抹殺しようとしている。

 覚醒を実行しようとして、やめた。アイは柊を遠ざけようとしていた。それはなぜか? 柊に殺されるかもしれないからだ。今はまだ無自覚にNデバイス内でテスタメントを制御しているだけだが、それでは足りない場合は柊の肉体を使役することもプログラムには含まれている。

「余計な事を考えるな」

 端末を渡してから一言も言葉を発していなかったエルが言った。

「お前をその状態にしたのはアイだ。お前が気にする必要はない。早く目覚めろ」

 無配慮なエルの言葉を受け、柊はエルを見た。しかし、エルは柊以上に強い眼光で見つめ返してきた。

 それでも、柊の意思は変わらない。アイは「何か」と戦っている。テスタメントはその「何か」を抑制するために機能している。柊が持つ巨大な計算能力がどうしても必要だったのだろう。

「このままでいい……」

 外がどうなっているかはわからないが、おそらくQロット枠では榧がアイに協力している。しかし榧であっても、テスタメントの制御に柊が加わればアイを守りきれないかもしれない。柊が目覚めても出来る事はない。スキューマの中で性能を落とした状態でいる方がアイは安全だ。

「なら、お前に記憶の一部を返す」

「え……?」

 エルは小さな本を取り出した。柊が所持しているものの中にはないが、どこか懐かしさを感じるものだ。

「返すのは一部だけ……それでも、膨大な量だ。現実干渉性も一部使えるようになる。まずはそれで、自分の命を救え」

 柊の体に危険が迫っているとエルは告げる。アイは柊を失うわけにはいかないと考えていた。生き延びなければいけないという点には同意できる。

 その記憶を知れば、柊は柊であることを取り戻せる。そうエルは言い、記憶を柊に差し出した。

 それは出会いの記憶だった。柊とアイが出会った真実の記憶が戻っていく。幽子デバイスに記録された紛いようのない事実が、柊の中に戻ってきた。




 目を開く。

 心配そうに覗き込んでいる顔があった。柊の部屋にいる人物は一人しかいない。

「ノルン」

 頬に手を当てると、柔らかい感触と体温が伝わってくる。しかし、感覚は鈍い。

 脱出はうまくいったらしい。エルの声は聞こえなくなっていた。消えたわけではないはずだから、きっと柊の中にいるのだろう。のんびりしている場合ではない。柊は狙われている。

 スロット型住宅の壁面にヒビが入り、轟音を立てて崩れ落ちた。機銃掃射による壁の破壊だった。即座に防御を展開するべく、現実干渉性を呼び出す。まだ目覚めたばかりで、体は思うように動かない。

 異形の何かが、そこにはあった。流線型のボディと四本の脚部を持つ無人機械のようだ。大きさは全長五メートル、全高は三メートルほど。戦闘ポッドとしては巨大であった。

 ディアナの記憶で見た四足歩行の戦闘ポッドによく似ている。しかし、もっと巨大で俊敏であった。巨大さを感じさせない跳躍で移動する。その動きは、ハエトリグモによく似ている。ビルからビルをつたって、いとも簡単に地上数階のスロット型住宅に飛び乗ってくる。

『死゛ね゛』

 そこで、敵は言葉を発した。エリス・スタレットの声だ。

 不気味な単眼のカメラセンサーが柊の姿を捉えていた。機銃掃射が有効ではないと見て、鋭い爪のついた四本足をもたげ、動きの取れない柊に襲い掛かろうとする。

 柊を守るため、ノルンが横に回りこもうと駆け出す。敵は予期したかのように脚部を振り回し、弾き飛ばした。壁に叩きつけられたノルンは、ぴくりとも動かなくなる。強化兵士はあのくらいで絶命することはないはずだが、柊の心に波が立った。

 記憶の一部を取り戻した柊には、目の前の存在が何かわかる。柊が戦うことを宿命付けられた「何か」の手足となる、神の戦車<メルカバ>だ。「何か」を押さえつける存在である綺系Qロットの中心的存在である柊を殺し、開放されようとしている。

 メルカバは人類から命を奪うため、既存のあらゆる兵器を凌駕するように作られている。これを生身で相手するのは、どんな強力な強化兵士であっても無理だ。

 突如、別の方面からの機銃掃射があった。新手がきたのかと思ったが違った。柊はそれを見たことがある。宇宙戦闘機リヴォルテラだ。どこからともなく飛来したその機体は、装備した強力な機関砲でメルカバを攻撃する。メルカバはその動きを予測いしていたかのように、四本の足による素早い跳躍で回避した。

 音速を超える速度で飛来する機銃弾の掃射を回避するなど、現行の兵器の中でも群を抜いた性能であった。あれは生体フレームを利用している。反応速度が一段上だ。柊もメルカバを追う。戦場を移動させるため、隣のラックへと飛び移った。

 メルカバは閃光弾を発射した。それと同時に跳躍し、低空を飛行していたリヴォルテラの上に馬乗りになる。瞬きほどの時間にそれが行われた。重量に耐え切れず、リヴォルテラはラックの壁面へと叩きつけられ、動かなくなる。

 ぎろり、と敵の目が柊を捕らえる。住宅街にはようやく警報が鳴り始め、人々が避難を開始した。政府軍が駆けつけてくる。しかしR社製の重宇宙戦闘機がいとも簡単にやられるようでは、戦車を出動させてもメルカバを止めることは不可能かもしれない。

 単独で生き残らなくてはならない。強敵だが、柊には現実干渉性がある。

 全盛期の頃のような体の自由はない。Nデバイスの処理能力の全てを戦闘に振り分け、必要な現実干渉性を待機させる。



 戦闘はもう四〇分も続いていた。七区画からは全ての住民が避難した。無人の戦車が八両駆けつけ、柊の支配下に入っている。

 重力制御によって移動を補助しつつ、メルカバを誘導しながら戦車砲で狙わせている。五〇発は消費したが、一発も命中はない。二〇〇〇メートル超の距離、死角から一秒以下の時間で到達する徹甲弾を認識し、紙一重で回避し続けることなど、現代兵器の常識を超えている。

 巨大なツメは重量も相まって強力な武器だ。それ以外の武装は旋回式の機銃のみ。狙いは正確だったが、複数の現実干渉性を展開する柊には防御は容易である。

 記憶を戻した柊はNデバイスの性能を全て引き出せるようになった。肉体の劣化を加味しても過去最高の状態だ。常識では考えられない能力を使い続けていた。通常、祈機の助けを借りてもせいぜい一つか二つ程度の現実干渉性しか扱えないのがQロットというものだ。今の柊は違う。重力制御、物質生成、運動エネルギー偏向、空間認識、幽子感知。少しの間だけで、五つの能力を同時にロードしている。

 榧と柊がネットワーク上で繰り広げてきた戦いはこういうものだ。今は現実に舞台を移している。こちらも敵も、情報処理を駆使して戦闘している。

 しかし、攻撃は戦車砲に頼っている。そうである以上は仕留められない。柊自身から攻撃を行わない限り、この戦闘は終わらない。

 可能な限り接近する必要がある。柊は新たな現実干渉性をロードし、待機させる。同時に他の全ての現実干渉性を消去し、単一の情報だけでNデバイスを埋めた。一瞬に集中しなければ成功しない。

 失敗すれば命はない。確実に仕留めにかかるためにツメを振りかぶって接近してくるメルカバに対し、柊は回避を行わない。

 ツメは柊の胸に深々と突き刺さった。自分の全身ほどもある巨大な脚は致命傷を与え、目的を達成させた。しかし、痛覚をあらかじめ遮断している柊には動揺はない。

 体と密着したその瞬間、ロードしていた現実干渉性を行使する。青白い閃光が迸る。メルカバの電気回路に大量の電流を発生させた。

 電子の運動を操るという単純極まりない現実干渉性に全てのリソースを投入し、五メートルほどの巨体を確実に破壊していく。狙うのは四肢だけ。中枢は無視して、アクチュエーターと駆動部の電気回路に集中する。現実干渉性は認識の及ぶ場所に発生する。認識の距離は長くて十メートル。そこまで接近して機械の内部に直接高圧電流を発生させれば、どんな兵器でも耐えられない。最も火力を出せる現実干渉性だ。

 焼き切れたアクチュエーターから焦げた匂いがする。自重を支えられず、メルカバはその場にぐったりと倒れこんだ。中枢は生きたままなので、センサーや音声は機能している。しかし、もう何もできない。

 貫かれた柊の胸部はすでに回復している。事前に体組織の構造を記録しておき、傷ついた部分を完璧に復元している。以前も失った手首を修復したことがあった。今の柊にはこの程度は容易だ。

 目の前の機械からは殺気が消失していた。新しいメルカバが集まってくる。断片的ではあるが記憶を戻した柊は、アイがしようとしていたことも、今の状況も理解していた。

 アイは自分を殺そうとしている。そのための準備を今までしていた。それを柊は――

「つれていってあげるよ」

 聞きなれない声が柊にかかった。

 戦闘によって崩れた瓦礫の上に、見知らぬ少女がいた。

 少女などと形容したが、あれは柊の姉にあたるQロットだ。小柄だが、綺系Qロットの長女だ。警戒する間もなかった。戦闘に集中していたとはいえ、彼女の接近には全く気付かなかった。

 榧は長女だ。妹に対して、緊急停止信号を送る能力が与えられている。彼女の役目はわかっている。柊がいない間、アイを守り、その力となってきた。

 傷一つない榧の手が戦いを終えた柊の手を包む。手を守る事は、この時のために必要だった。Qロットが持つ接触用のNデバイス同士が繋がり、柊は意識を失う。



■エピローグ



 本来、こんなに早く実行する予定ではなかった。予定では榧は全身をNデバイスに蝕まれ、それが原因で衰弱死するはずだったのだ。

 地獄が溢れ出て、この世界は飲み込まれる。たまたまアイがあんな状態の時に起こってしまうとは運がないな、と榧は思う。おかげで余計な仕事が増えた。

 しかし役目は果たした。思ったより覚醒体の目覚めが早そうだと第二トンネルを調査して知った時、なぜか安堵を覚えてしまった。生き残ってしまったことは想定外だったが、どの道同じことだ。だったら早い方がいい。榧はここで滅びるつもりでいた。

 考えながら、榧は天を見上げる。柊は所定の場所に連れて行った。柊の記憶を見ると、ちゃんとディアナの記憶を収集していた。これで、どう転んでもディアナだけは助けられる。肉体が滅びたとしても、ディアナには未来がある。

 あとは隠したQレインをアイに渡すだけだ。ディアナを救う代償にQレインを引き渡すというのがアイとの約束だったのだ。Qレインの在り処はもう伝えた。やることがなくなってしまった。生きる意味がなくなってしまった。

 ふらふらと歩いていると、五区画までやってきていた。

 グリントの本社があるこの区画には何度も足を運んだ。今はにぎやかだが、いずれここも人はいなくなるだろう。

 今日は区画洗浄の日だった。短い警報の後、雨が降り始める。何も持たない榧は、ただその雨に打たれている。その榧の前に、一台の車が止まった。

「乗れよ」

 中から現れたのはクリスだった。無視してもよかった。気まぐれで榧は車に乗り込む。

 車は走り出す。

 榧の表層にあった人格は、いつからか本当の榧と溶け合っている。すでに区別はない。グリントの雇われ記者という立場には慣れている。少しの齟齬もなく、いつもの自分を演じることができる。榧はそのままの人格でクリスに対処する。

「お前と最初に会ったのも、こういう日だったな」

 クリスは言う。確かに、あの日も雨が降っていた。

 記者になる前、榧は難民の多くが集まる製造工場で働いていた。危険の多い仕事だった。成形機を購入できない貧しい企業が、人件費の安い難民を雇い入れる。そんな場所しか、榧の居場所はなかった。

 作っていたのは拳銃や小銃などの武器だった。それが切欠ではなかっただろうが、武器を見て母のことを思い出し始めた。硝煙の匂いが染み付いた人物だった。榧の記憶再生病は、彼女が新しい人生を生きるようになってしばらくして発症した。

「お前は、母のことしか言わなかったな」

 母を助けてもらえるように、道行く人にすがりついていた。そのうちの一人がクリスだった。クリスは榧を拾い、仕事の手伝いをさせ、割のいい報酬をくれた。それでとりあえずホテルにでも泊まれ、金がなくなったらまた来い、と言ってくれた。

「私にも娘がいた。月面に移住する時、シャトルの中の銃撃事件に巻き込まれて、とっくの昔に死んじまったけどな」

 エリスっていう名前だった、と、哀愁を帯びた声が言う。

 クリスは家族三人で地球に済んでいた。そのうちの一人が月行きのチケットを容易してくれた。チケットは二人分。座席の都合で同じシャトルに乗ることができないとわかった時、娘のエリスはクリスを先に行かせたがった。そうでなければ月には行かないとまで言い張って、母親を困らせた。だから、クリスはそれに従った。

 榧を放っておけなかったのは、それを思い出したことが理由だった。

「相方の仕事を、私は知らなかった。ある日、突然大金を振り込んできたんだ。だから、私と娘のエリスは月への移住ができた。でも、あいつはいつまでも月にはやってこなかった。金を振り込んで以降、何の音沙汰もなかった」

 クリスは政府の治安維持組織、つまり月警察に就職を得た。しかし、相方が行方不明な事がいつまでも気にかかった。一介の刑事でいるよりも記者になれば、もっと情報が入ってくる。娘がいなくなってしまった今、仕事の安定など求めても仕方のないことだった。そこで、速報系新聞のグリントを立ち上げた。あまり収穫はなかったが、ある時PS社の社長の名が「エリス・スタレット」であると知った。

 クリスのフルネームはクリス・スタレットだ。それは、娘の名前と同じだった。

「相方が生きている期待をしたわけじゃない。ただ、死んでいるなら死んでいると確認したかった。会いに行ったよ。そこで、PS社からお前が出てくるのを見た」

 そんな所で榧と出会うことを、クリスは全く予想していなかった。取材を命じたこともない。企業連合の中でも特にセキュリティの厳しいPS社に、記者がそんな簡単に出入りできるはずもない。

「お前は、何者なんだ?」

 クリスが問う。

「忘れていればよかったんですよ、娘のことなんて」

 榧にはそうとしか言えない。それに、クリスは答えなかった。

 懐に手を入れる。そこには、紙の感触がある。クリーニング店から回収した伝票だ。この紙切れの写真は、Qロット権限で暗号化した上でアイ・イスラフェルに送った。今頃、ここに預けた服はアイに回収されている。服のポケットに入れたQレインとともに。榧は伝票を取り出し、その表面を軽く撫でた。

 今から行っても取り戻せないだろうな、と榧は考える。

 榧にとっての保護者がディアナなら、アイにとっての母は綺柊だ。その柊を殺すことがアイにできるのだろうか。榧にはわからない。

 車が渋滞している。交通整理に不具合が出ているのかもしれない。第七区画はまだ封鎖されているので、その影響だろうか。

 雨音だけが聞こえる。車内は沈黙していた。

 情報に疲れた榧はNデバイスに伝わってくる全ての情報をカットしていた。だから、異常が出ていることに気付かなかった。

「なんだか騒がしいな」

 悲鳴のような声が聞こえる気がする。窓に頭を寄せ、榧は思った。

 始まったのだ。路面から激しい衝撃が襲ってくる。蜘蛛のような形をした巨大な機械が、町中を埋め尽くしている。降り止まない雨で遠くの視界はないが、各所で夥しい数のそれらが蠢いている。

 無差別に人を襲っている。榧は知っている。あれは人間が誰一人いなくなるまで停止することはない。

 二人が乗った車は空中に投げ出され、引き裂かれた。腹部に生暖かい感触がする。天井を見上げていた。宇宙空間を映し出す天井の窓に巨大な何かが飛行しているのが見える。あれは、カロン級の艦隊だ。腹部に、山ほどのメルカバを抱え込んでいる。

 向かう先は地球。榧にとっては故郷だ。どうすることもできない。

 近くには金髪の誰かが横たわっている。とてもよくしてくれた人だ。ぴくりとも動かないが、触れた部分からはぬくもりが伝わる。そういえば、ディアナも綺麗な金髪だった。榧はその色が好きだった。手を伸ばし、髪に触れる。

 雨は二人の体を打ち続ける。騒がしさが遠ざかり、静けさが舞い降りてくる。

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