Arcadia(B) 0

■レイ・〇




 重い催眠は消え失せていた。近くに榧の気配は感じられない。

「お別れの時のようです、レイ」

 まだピストレーゼの中にいた。月面都市のどこかにいるらしい。レイは徐々に回復していく体で現状を把握しようと努める。

「私の人格プログラムもいずれ消え、残るのはデータベースとしてのサクラメントだけでしょう」

 サクラの声が、徐々にレイを覚醒へと導いていった。

「ピストレーゼE2は、あなたへの贈り物です」

 思い出した。ピストレーゼは完璧に修理されていた。それだけではない。細かい改良が行われている。中でも大きいのは、R社で開発していたCYLXシステムだ。試験中だったそれが完成されて、左エンジンモジュールに搭載されている。

 母の存在を感じ取り、レイは飛び起きた。そこに、サクラの最後の言葉が飛び込んでくる。

「私の役目は終わりです。今日まであなたを守ってきたことが、私の存在意義でした」

 ここから先は、あなたの自由に。

 そう告げて、サクラの気配は消えた。同時に、ピストレーゼの全機能がレイの制御下に与えられる。

「勝手なんだから……」

 消えてしまったという実感がわかない。生まれてからずっと、サクラがいない日常はレイにはなかった。かけられた言葉の意味もわからない。本当に説明不足で、身勝手なAIだった。



 使い慣れた愛機に戻ってきたレイは、そのまま月面都市のトンネル内部へと戻った。そして、見た。

 地獄絵図というのに相応しい光景だった。カロンで見たあの戦闘機械が町中に放たれて、市民を次々に虐殺していた。

「何なの……これ」

 正確には、もうすでに虐殺された後だった。センサーに生命反応が見つけられない。

 全く同じような光景を前にも見たことがある。あれは艦の中だったが、月面都市はもっと広い。その全てにこの光景が広がっているのかと思い、レイは気が遠くなった。

 レイは第十三区画へと向かった。柊の自宅がある。祈るような思いで熱源探査すると、そこには一つだけ生命反応が残っていた。

 柊ではなかった。崩壊した柊の自宅跡、誰かがふらふらと歩いている。ノルンだ。戦闘に巻き込まれたようだが、生き延びたらしい。様子を見るために、レイはハッチを開き、彼女の元に降り立った。このまま放置しておくというわけにもいかないし、何か話を聞けるかもしれない。

 足取りもおぼつかない彼女に寄っていくと、視線がレイのほうを向いた。

「お前か……」

 言葉を喋れないはずのノルンが声を出し、レイは驚く。

「柊は?」

 しかし、まずはそれを聞くのが先決だった。

「連れて行かれた」

 ノルンは平坦な口調で話す。ノルンの人格と結びつかない雰囲気を纏っている。中身に違う誰かが入っているかのようだ。そういうこともあるかもしれない。Nデバイスや幽子デバイスを通じた人格の変化や統合は、レイが身をもって経験していることでもある。

 しかし、今はそれどころではない。

「柊の所に行くなら、私を連れて行ってほしい」

 ノルンはレイの袖を掴んで言った。抑揚のない声だが、そこには切実さが感じられた。

「いいわ。乗って」

 二人までが乗れるピストレーゼに、ノルンを招く。

「簡単に信じていいのか?」

「いいから、何が起きてるのか教えてよ」

 ノルンは何か知っている。死屍累々の月面都市を飛翔しながら、レイは前を向く。知らなければならない。今ここで何が起きているのか。

 そして今まで、何が起きていたのかを。



■柊・〇



 初めて会った時のアイ・イスラフェルは泣き顔だった。

 助けてと言いながらアイは柊を目覚めさせた。あの時、柊は世界を知った。柊は思い出していた。暗い過去と重い責任に縛られた顔ではなく、熱情と純粋な愛情に満ちていたアイ・イスラフェルを。

「目が覚めた……?」

 覚醒に近づくと、アイの声がした。

 柊は槽の中に横たわっている。覚醒しているが、手足は動かせない。

 アイはできる限り自然に話そうとしているが、その声色には怯えがあった。怒られるのではないか。拒絶されるのではないか。そんな、幼さの見える顔だ。

 そんなに怯えなくても怒ったりしない。そう柊は思うが、言葉にして伝えることはできない。

「体はもういいの?」

 柊は声を出した。アイは柊のせいで怪我をして医療槽に入っていたはずだ。もう完治したのだろうか。

 外ではもう戦闘が始まっている。カロン級の就役とメルカバによる虐殺という結果は避けられなかった。しかし、解決する方法は一つだけある。大勢の人間が死に、取り返しの付かない事態になったこの状況を覆すことは不可能ではない。

 柊はデータベースからロードできるものの他に、固有の現実干渉性を持っている。物質凍結能力。あらゆる物質の運動を停滞させ、ついには停止させてしまう。

 この能力には先がある。停止の更に先は逆行だ。アルカディア・ステーションで刻み付けた地点まで、時間を戻すことが可能になる。月面都市は巨大な円環状をしている。アルカディア・ステーションの構造と同じ円環で、同じシステムを使っている。処理能力をフルに使えば、この狭い宇宙<レムリア>の時間を戻すことができる。

 その最後のプログラムを行うのにQレインが必要だった。

 時間を戻せる限界は、中心となる柊が生まれた瞬間までだ。柊が生まれたのは、アイの姉であるレン・イスラフェルが死ぬ十五分前。そこまで時間を戻せば、この結果を変えられるかもしれない。

 それには、柊の犠牲が必要だ。

 他のあらゆる死者はこの時間逆行によって幽子デバイスを再生され、蘇るだろう。しかし、ここで処理を続ける柊だけは戻れない。柊は形を失い、意味を失う。アイは多すぎる犠牲を積み重ねてきた。ここでやめることなど許されはしない。

 最初の一人を殺した瞬間から、これはアイにとって義務であり宿命となった。それも終わろうとしている。

 アイは入念にプログラムをチェックしている。残された時間は少ない。CUBEはいよいよ本格的な覚醒を開始し、意識して無人兵器で月面都市での殺戮を始めた。PS社が建造していたカロン級を中心に、月、地球、黒曜星の全てがあの兵器に埋め尽くされることになるだろう。

 この場所も例外ではない。厳重に守られた地下の施設とはいえ、時間をかければ突破される。それまでの間に実行しなければならなかった。

「私のお願い、聞いてくれる……?」

 作業を止めて、アイは柊に呼びかけてくる。息を吸い、柊はその最後の問いに答えを返す。



(アルカディア・下に続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る